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day by day

癒さぬ傷口が 栄光への入口

四輪の薔薇 【6】

2010-02-12 | オリジナル。
 6.MAIL


 亀崎辰彦が死んだ、というニュースは月曜の午後早くにはほぼ全社に行き渡っていた。警察から連絡を受けた総務部長がひとまず所属課である人事課の課員に伝えたことだったが、あるいは内線電話、あるいは社内メールを介してパンデミックのように一気に広がったのである。
 亀崎と同期だった田代慎一郎は午前中客先を訪問していて不在だったが、営業部の後輩・長岡からのメールでそれを知った。

『衝撃ニュース!亀崎さんが昨日亡くなったそうです!!詳細不明』

 亀崎が死んだ?
 そんな馬鹿な。
 亀崎の異動で部署が離れたこともあり、以前のように一緒に飲むことは激減していたがつい先週の金曜日にも春の人事異動や新入社員の割り振りの件で会議をしたばかりだ。その後、一杯飲んだ。全くいつもと変わらず、健康にも問題は無さそうだった。

───私、亀ちゃん狙ってるの

 フラッシュバックのように女の声が頭の中に閃く。それを苦笑いしてかき消そうと頭を少し振ってみたがそれはなかなか頭から去らなかった。
 長岡のメールだけではいつ死んだのか、何故死んだのかもわからない。
 田代は思案するように自分の携帯電話のアドレス帳を表示したり消したりした挙句、発信ボタンを押した。
『田代くん?どしたの?』
 3度ほどのコールで女は電話に出た。なんの澱みもない明るい声。
「あの……あのさ、多恵ちゃん」
 酷く口ごもる。意を決して息を吸い込んだ。
「亀崎が──死んだって」
『え?』
「亀崎死んだらしいんだ」
『───』
 沈黙。
 次の瞬間、電話の向こうから笑い声が聞こえた。
『またまたあ。いきなり何言うかと思ったら』
「本当らしい。まだ詳しくはわからないんだけど」
『嘘…でしょ?』
 多恵子は絶句している。
 その間が、田代を安堵させる筈だった。それなのに──
──なんでまだ不安なんだろう。
 詳しい事が判ったらまた知らせる、とだけ告げてその電話は切った。
 何故不安が去らないのだろう。ざわざわと胸騒ぎがする。

 社に戻ったら長岡を捕まえてと思って帰社すると、こちらが捕まえるまでもなく長岡の方から飛びつかんばかりに駆け寄ってきた。
「なんか、昨日の晩家で転んだか何かで頭打って打ち所悪くて、病院に運ばれたけど手遅れだったそうです」
「昨日の晩──」
 小声で復唱すると田代は漸くそっと息をついた。
 昨晩なら、田代の不安は思い過ごしだ。そのはずだ。何故なら。

 昨晩、笹中多恵子は田代と一緒にいたのだから。

 土曜の夜、休日出勤を終えて帰ろうとしていた時に多恵子からメールが入った。多恵子が『どんどん』を辞めて以来、メールをしても電話をかけても音沙汰無かったのに。それ以来だからもう1年以上振りだろう。それで、日曜に久しぶりに会おうという話になったのだ。
 多恵子は音信不通になっていたことを済まなそうに詫びた。
───弟が死んだの。
 ぽつり、と多恵子は言った。
 そういえば、結局真偽を確かめることが出来なかったが多恵子は弟と住んでいるのだと誰かが言っていた。
 車の事故でね。
 多恵子はそれ以上は語らなかった。その上、田代は営業職だがそういうプライベートな話を聞きだすのは得意ではない。
 それでちょっと、どこか誰も知らないところへ行こうかなと思って。お店辞めて引っ越して、電話やメールには誰にも返事しないで。
「…それでも結局携帯を解約しなかったのは、完全にこれまでの友達と切れちゃうのを心のどこかで怖がってたんだろうなって。田代くんが怒らずに会ってくれて本当に嬉しかった」
 最初に思いを告白してからもう6年近く経っている。あの時断られてからも、田代は多恵子を気にかけてはいた。別の彼女が出来たこともあったし結婚を少し考えたことも無くはなかったが、最終的に多恵子のことが胸の片隅からどうしても拭うことが出来ず、結局三十代半ばになった今でも田代は独身のままだ。
 多恵ちゃんが居なくなったわりとすぐ後に、亀崎は離婚したんだよ。
 あの時なら、亀崎だってなびいてくれたかもしれないのにね。
 そんな軽口を叩こうとしたけれど、何故かそれは出来なかった。
 夕方5時に待ち合わせて、イタリアンレストランでコースを食べ、9時前から11時過ぎまではバーで飲んだ。
 相変わらず、多恵子は酒に強い。自分の方が先に酔っ払いそうだ──
 酒の勢いを借りて、バーから出たエレベーターの中で多恵子を抱きしめる。多恵子はそれを振りほどこうとはしなかった。一人暮らしの自分の部屋へ誘うと、素直についてきた。そして──
 多恵子は朝まで田代の部屋にいたのだ。

 記憶を辿る。
 少なくとも、5時から今朝まで多恵子は間違いなく自分と一緒にいたのだ。亀崎が死んだのが昨夜だとしたら、多恵子が何かをしたわけでは無い筈だ。それなのに、何故こんなに不安なのだろう。何故自分はこんなに多恵子が亀崎をまるで──

──殺したかのように。

「高山さん、警務の辻さんが亀崎さんのご遺体どうするか確認しといて下さいって。今日中に」
 通りすがりに女性警察官が高山に声を掛けていく。昼前の梓条警察署刑事課。
「そんなのそっちでやってくれって辻ちゃんに言っといてくれよ。電話で聞きゃいいだろ」
「それ辻さんに伝言するの、あたし嫌ですからね。自分でそう返事して下さい」
 どうも最近、若い連中からも舐められている気がする。紺野が居れば押し付けたいところだが、生憎紺野は日端優美の自宅に突撃しているところだ。
 ああ、面倒くせえ。
 そう呟きながら、亀崎辰彦の関係者のリストを引っ張り出す。
「亀長屋の息子だったのか、こいつ」
 亀長屋というのは、この街ではけっこう名の通った和菓子屋である。甘いものに馴染みのない高山でも知っているのだから、有名なのだろう。そういえば何年か前に店が火事で全焼しその際に店主夫妻とも焼死した。
──なるほど、あれが亀崎の両親か。
 母方は消息のわかっている親類は既に無く、父方は亀崎から見て祖父の妹の子、孫くらいしかいない。亀長屋とも全く関わりが無かったので付き合いは殆ど無かったのだろう。とはいえ、唯一の親戚なのだからここを無視して通るわけにはいくまい。ああ面倒くせえ、と三度ばかり唱えて高山はデスクの電話機の発信ボタンを押した。

「大槻は切られるぞ、ありゃ」
 うんざりと受話器を置いた背後に声がかかる。振り返ると組織暴力対策課の坂田だった。柔道家と見紛う体格に坊主頭と鋭い目つき。警察手帳を持っていなければ刑事だとは信じてもらえまい。もっともそれは高山にしても近いものはあるのだが。
 大槻のバックには暴力団がついていると見て坂田にも応援を頼んでいる。
「第一発見者だっけ?大槻がそのくらいの時間に誰かと居るとこを見たとか言ってたろ」
 そう、杉野佳音は自転車で現場のマンションへ帰る道すがら、大槻が重役風の年配の男と立ち話して車で去るところを目撃したと言っていた。
 念の為その証言の裏も取ろうとしていたが、残念ながらコンビニの店員はそこまで詳しくは覚えていなかった。しかし、その時買い物に来ていた近所の客が車を覚えていたのだ。車好きで、あんまり見かけない車種の車だったのでついじろじろと見ていたら『ちんぴらがちょっと偉くなった風の男』に睨まれた。『やくざっぽくない男』が一緒だったことも覚えていたのだという。
 今の段階では、大槻が配下を使って亀崎を殺したという線は消えてこそいないものの現実味は薄いと考えられる。だが──
「杉野佳音の借金ってのが、どうも途中から大槻個人がやってる闇金に鞍替えされてるんだな。それまでは同じ系列とはいえ、一応認可取って利率も法定の範囲内の、営業上は問題無い業者だったんだがな。大槻が頭に立ってるもんだから杉野も気づかないうちに利率の高い方へ借り換えされてたようだ」
 坂田は高山に喫煙コーナーへ行こうと促しながら続ける。
「その時大槻が一緒に居た重役風の男ってのは多分、親玉の幹部だな。借り換えも上の指示だろうが」
 『何か』あったら全部大槻に被せて逃げる気だ──と坂田は続けた。
「だいたい、杉野は毎月どの程度返済してたか知らないが、利息分だけでもちゃんと返済してくる上客だ。多少残債残してくれてる方が有難いだろ。全額回収するのに保険金殺人なんて間尺に合わねえ事はやらねえよ。ヤツラだって馬鹿じゃねえ」
 高山の担当している殺人もしくは傷害事件とは無関係という結果になるだろうが、坂田からすれば何かしら検挙するきっかけが出来るなら有難い、ということだった。
「とりあえず大槻をしょっぴきたいとこだな」
「昨日の晩、杉野佳音が店で怪我したらしくて病院に行こうとしてる時に大槻が接触してきてたらしいがな」
「んじゃあ、そのへんから難癖でもつけてみっか。今から行くか?」
「いや──」
 喫煙ルームのすっかり白く煙った空気を少し手で払いながら高山は煙草の火を消した。
「俺、これから杉野んとこ行ってくるわ。大槻はその後だ」

 とりあえず一日でも入院しなさい、という医者の薦めを断って、佳音は部屋に戻った。

 現場検証の痕跡はほぼ残ってはいなかったが、他人が大勢入り込んでくまなく調べられたと思うとまるで素っ裸で真昼間の公道を歩いたように恥ずかしい。それ以上に、そこに辰彦が倒れていたと思うと身動きが取れなくなる。
 事件当日は事情聴取で遅くなったのと現場検証の関係で警察の手配したホテルに宿泊したが、月曜に部屋に戻ると辰彦が取り替えようとしていたのだろうトイレの電球は外れたままになっていた。新しい電球を持って蓋を閉じた便座の上に乗り、取り替える。佳音よりずっと背の高かった辰彦ならこれは楽な作業だっただろう。ここから足を踏み外して落ちたのか──と思いながら慎重に便座から足を下ろす。振り返ると、バスルームの扉が見えた。ふと思い立って、その場に身を屈め、ちょうど扉の段差の木枠を枕にするように横たわってみる。
 辰彦はここで頭を打って──
 普段は気づかなかったが意外と高い段差だ。
 痛かったよね。こんなとこで頭打って。
 そばにいてあげられなくてごめんね。スーパーのパートを時間通りに終えていたらこんなことにはならなかったのに。そしたら、あの小料理屋さんで美味しいもの食べて、今日も普通に仕事に行ってたはず──

 店で怪我をして、タクシーで深夜の救急病院に辿りついたものの佳音は待合室でぐったりと半ば意識を失ったようになってしまった。傷口を縫った後点滴までされてしまい、過労だからとりあえず一晩泊まりなさいと言われたがそれを断って帰ってきたのだ。
 健康保険に加入していないので、病院で一晩とはいえ入院などしたらいくら請求されるのか見当がつかない。
 深夜に帰ると部屋はまたどこかよそよそしい空気で佳音を迎えた。
 いつも、店が終わって深夜に帰宅すると辰彦は先に寝ていても玄関の電気はつけていてくれた。週末なら起きて夜食を作っていてくれたことも多い。
 なのに、ドアを開けると真っ暗でひんやりとしている。
 血で汚れたドレスを脱いで、片手で化粧を落とす。掌を縫ったので今日は入浴しないように言われたのだが、ヘアスプレーで固め、煙草の臭いがしみついた髪をそのままにするのが気持ち悪くてシャワーだけを浴びる。傷は今になってじんじんと強い痛みを訴えていた。
 ベッドに入ると、布団が冷たい。

 ずっと一人だったのに。
 水商売を始めた十代の頃から、ずっと一人暮らしだったのに。
 たった何ヶ月か辰彦と暮らしただけで一人の感覚を忘れていた。
 辰彦の魂は今、どこにいるんだろう。まだそのあたりに居るなら、今すぐここに来て欲しい。
 そして、よしねーってあのちょっと間の抜けた呼び方で私の名を呼んで欲しい。
 布団を頭からかぶっても、少しも身体は温まらなかった。

 まるで眠れないと思っていたがいつの間にか眠りに落ちていたのだろう。
 チャイムの音に目を開けると、すっかり夜が明けていた。時計を見ると夜が明けたどころかもう昼過ぎである。
「はい……どなた……」
 鈍い動作で玄関先まで行って返事をすると、ドアの向こうから梓条署の高山です、と声が聞こえた。
 ドアの覗きレンズから見ると、確かにあの二人組の中年刑事の方だった。
 寝起きだったので少し待ってもらい、簡単に着替えて髪を縛るだけにして慌ててドアを開ける。
「怪我をされたそうで。大丈夫ですか」
 ええ、まあ……コーヒーを出しながら佳音は無理矢理笑顔を作った。
「入院を勧められたんじゃ?疲れも溜まってるだろうし病院のベッドでゆっくり休んで来れば良かったのに」
 そんなところまで私の行動を追ってるんですね、と苦笑する。
「自己負担で入院する費用なんて誰が出してくれます?」
「ああ、まあ……そうですね」
 身だしなみには頓着しない中年男。独身なのか奥さんもだらしない人なのかどちらかなのだろう。顔も眠そうだし喋り方もだるそうだけど、時々目つきが怖いくらい鋭い。獲物を狙う猛獣みたい。たまに店に出入りするやくざといい勝負だ。
 佳音はあらためて高山を一通り観察すると、それで今日は──と切り出した。
 張りこんでいるのではなくわざわざ訪ねてきたのだから、何か新たな展開があったのだろうかと思うと高山はいやあ、と少し間を置いた。
「司法解剖が済んだ亀崎さんのご遺体なんですがね、どうさせてもらおうかと」
 『遺体』という言葉を使われると、胸がしくりと痛む。
「どう、とは」
「引き取って葬儀を出されるなら葬儀屋を紹介させてもらうし、火葬に回してお骨だけお渡しすることも出来ますが」
 高山は言葉はぶっきらぼうだが、少し言いにくそうにしている。本当は不器用な人なんじゃないだろうかと佳音は思った。
「亀崎さんの遠い親戚ってとこに連絡したんですがね、どうもご両親が亡くなった時に遺産の関係で多少揉めたらしくて、付き合いもない辰彦さんの葬儀を自分ちで負担してやる気は無いと。同居してた恋人がいるんなら内縁の妻みたいなもんだ、そっちに任せるとね、言われまして」
 内縁の妻ね……と苦笑が漏れた。
「私、彼の宗教も知らないんですよ。それにお葬式を出すお金もない。火葬に回して頂けるならそうしてもらえますか」
 落ち着いた口調で噛み締めるように答える。
 言い終わった途端、ほんの一粒、涙がこぼれた。
「なさけないでしょ…?」
 高山は黙っている。
 過労だと言われてもたった一泊の入院も出来ない。愛する男が死んだのにお葬式を出してあげることも出来ない。それどころかゆっくり悲しみだけに浸っていることすら出来ない。 
「お金が無いってなんて惨めなんだろ……」
 辰彦が借りていたこの部屋も、私は家賃を払っていくことが出来ないだろう。もっと安いアパートにでも引っ越さなければ借金返済どころか暮らしていくこともままならない。
「高山さん、私、なんだか何のためにこんな苦しい思いをして生き続けなきゃいけないのかわかんなくなっちゃいました」
 諦めたような微笑が浮かぶ。
 高山は言葉が見つからないのか息を吐きながら首筋をがりがりと掻いた。
 お手軽な慰めの言葉は言わないのね。ほんと、不器用な人。
 沈黙が流れ、高山は間が持たないかのようにしきりに何度もコーヒーを口に運ぶ。やがて思い出したように、あ、と顔を上げた。
「そうそう、杉野さんが借りてた街金なんですがね。うまくいけば貸金業違反であげ…検挙できるかもしれねえんですよ。今、暴力団担当の課と連携して詰めてるとこなんでね。挙げられりゃ、あなたの借金の大半はチャラになるかもしれません。もうちょっと辛抱して、いい目が出るまで待ってもいいんじゃねえかと思いますよ」
 困った挙句、普段の言葉遣いが出てきたのね──佳音は少し可笑しくなって小さく笑いを落とす。
 高山は高山なりに、佳音を勇気付けるために懸命に考えてくれたのだろう。もっとあからさまに犯人扱いされたっておかしくないのに。
 小さく落とした笑いが止まらなくなる。笑いと一緒に涙も出る。こんな風に笑えたのは何日ぶりなんだろう、と佳音は思った。

「ああ、面倒くせえ」
 杉野佳音の部屋を後にすると、高山は溜息をつきながらひとこと呟いた。
 やっぱりこんな仕事、紺野にやらせりゃよかった。ヤツは今、日端の勤め先の会社に行っている筈だ。
 泣かれると何を言えばいいのかわからなくなる。これだから女は面倒くさい。
 なんとなく鬱憤が溜まったので、とっとと署にもどって紺野でも苛めてやろう──高山は首をぐるりと回してもう一度溜息をついた。

「優美ちゃん、警察の人が来たわよ」
 母の声が聞こえる。優美は布団を頭からかぶって聞こえないふりをした。
 嫌だ。誰にも会いたくない。
 辰ちゃんは死んじゃったんだ───
 それが頭を駆け巡るたび、新しい涙が溢れる。
 携帯電話を手に取り、折り畳みのそれを開ける。
 電源は入っていない。

 土曜から日曜にかけて充電するのを忘れていて、携帯電話は充電切れを起こしていた。母に連れられて実家に戻った際にようやくそれに気づき充電したところ膨大な数の着信とメールが入っていて、しかもメールの発信者と文面はほぼ全て同じ。優美は怖くなってずっと電源を切ったままにしていたのだ。
 おそるおそる電源を入れてみる。
 すると、新たに何十件という不在着信とメールと留守番メッセージが記録された。
 手が震える。
 震える指でその履歴を繰ってゆく。
 月曜朝からの履歴は、優美の予想と反してその大半が三杉からのものだった。その他も多くは派遣先の職場の男たちからだ。
「何これ……意味わかんない」

 何てことするんだ──
 ちょっとやりすぎだろ──
 訴えてやる──

 留守番メッセージの内容もこれでは推して知るべし。聞く気にはなれなかった。
───まさかね。
 思い当たる節が全く無いではない。けれど、本人以外からまで攻撃されるような筋合いはないと思う。
 うんざりと着信したメールのタイトルと発信者だけをスクロールしていくと、ぎくり、と指が止まった。

Sub:とうとう

 発信元は優美が登録していないアドレスである。
 再び指が小刻みに震え始めた。怯えながら開封してみる。
 そこには一行だけの本文。

『やっちゃったね』

 優美は思わず携帯電話をその場に放り投げる。息が止まって声も出なかった。

「優美ちゃん、話があるの。出てらっしゃい」
 母の声に飛び上がるほど驚く。食事の時以外はずっと部屋にこもっていたけれど、自分の携帯電話が何か恐ろしい生き物のような錯覚に囚われて優美はようやく部屋を出た。
 母は心配そうな、疲れたような、それでいてうんざりしたような顔をしていた。
 母の淹れてくれた熱い紅茶を一口すする。
「ねえ優美ちゃん、もう警察の方にお会いしたら?」
 返事をせずに俯く。
「亀崎さんのことがショックだったのはわかるわ。でもあの人はもう優美ちゃんが離婚した人でしょう。ママはもうあんな人のこと、忘れて欲しいの。その方が優美ちゃんにとってもいいし、そのためにもあなたが知ってることは全部警察の方にお話してさっさと縁を切った方がいいわ」
「………」
「あの人が浮気してたからあなたは苦しんで、我慢できなくて離婚したんでしょう。今朝、刑事さんが言ってたけど、もう別の女の人と一緒に住んでたらしいじゃないの。まだ離婚して1年ほどしか経ってないのに。やっぱりもともと女癖の悪い人だったのよ。目を覚ましなさい」
「辰ちゃんのこと悪く言わないでよ」
 呟くような小声で優美は言った。
「辰ちゃんは優しい素敵な人だったの。だから女の人が放っておかないし、辰ちゃんは優しいから言い寄ってくる女の人に冷たく出来ないだけなの。辰ちゃんはあたしが許してあげるって言えばあたしのとこに帰ってきてくれる筈だったんだから。だって辰ちゃんはあたしの事が一番好きだったんだから!」
 徐々に興奮してきたかのように優美の声は大きくなっていった。

「辰ちゃんはあたしのものなの!他の女になんか渡さないんだから!」

「優美ちゃん、落ち着いて!」
 母の声に我に帰る。テーブルを叩いたせいで紅茶がこぼれていた。優美の双眸からも涙が溢れていた。
「辰ちゃんが死んじゃったなんて嘘よ……あたし信じないもん……」
 母が立ち上がって優美の側に立ち、肩を抱いて安心させるように優しく撫でる。
「わかったけど、いつまでもこうしていても仕方ないわ。やっぱり警察の方とお話しましょう。ママもついててあげるから」
 優美は俯いて涙をぽたぽたと落していたが、漸く小さく頷いた。

 リビングの扉の影から怯えたようにそれを見守る小さな瞳に気づくことなく。





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禁無断複製・転載(C)Senka.yamashina

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