
5.calando
ふと見上げると、桜が随分開いている。
まだ夜は冷え込むがもうそろそろ春なのだということに高山恩実は漸く気づいた。
夕食がてら定食屋で生ビールを飲んでそのまま自分のマンションに帰宅しようかと思っていたが、桜を見ながら歩いているうちにふとこのまま帰るのが惜しくなってきて次の店へ向かうことにする。そうだ、久しぶりにスコッチでも飲みに行くか。
バスで10分ほど先にある繁華街へそのまま歩いて向かう。
川沿いの桜並木の下を暫く歩き、橋を渡るとその先に明るいネオンの街が見える。数年前に改装された鉄道の駅ビルやショッピングモールなどの新しい建物の周辺に昔からの歓楽街がちまちまと犇いていて、特に大きなわけではないがこの界隈では一番の繁華街だ。その明るいネオン街に入る手前で少々うらぶれた狭い路地に入ると、それこそもう何十年もそこで営業しているような赤ちょうちんや深夜までやっている喫茶店、それに混じって新しいラーメン屋などが軒を連ねる。目的の店はその並びにあった。
しかし──
高山はその店のドアを開くことは出来なかった。
目的の店から人が出てきたのが見えて、反射的に高山は入りかけた路地から出て身を隠す。何を悪いことをしているわけでもない、隠れる必要などないのだが、出てきたのは見覚えのある顔の老人だったのだ。
そして、その老人は、幼い女の子を連れていた。老人は微笑んでいる。少女もはしゃいでいる。
──そんなはずは。
胸がざわざわする。嫌な感じだ。
路地の角の看板に隠れた高山に気づくこともなく、老人と少女は手を繋いで楽しげに角を曲がって行った。高山が来たのとは反対方向。この方向にはあの老人の家があることを高山は知っている。
──そんなはずはねえ。
高山は『面倒くせえ』を出すことも忘れて老人の後を追った。
繁華街から離れて大通りを渡ると、小さな町工場が身を寄せ合っている地帯だ。そろそろ今日の操業も終えている所が多いのだろう、すでに街は眠りについているかのように見えた。大通り沿いのコンビニエンスストアと100円ショップだけがいやに煌々と明るい。
既視感。
いや、そんなものではない。確かに高山は以前、殆ど同じルートでこの道を急いだことがある。あれもちょうど桜の季節だった。
申し訳程度の街灯がうすぼんやりと夜道を照らす。片側一車線狭い道路から更に車一台通るのがやっとの路地へ入る。迷路のように入り組んだ袋小路がそこここに出現する。
次の角を右に曲がれば、あの老人の住んでいた長屋がある。
声をかけるべきか。
いや、彼らが帰宅した時点で訪ねた方がいい。
その前に、一度署に問い合わせをしておいた方がいいか。
考えを張り巡らせる。
その高山の目の前で──
少女と楽しげに手を繋いで歩いていた老人が突然、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。

酷い現場だ。
いや、殺人現場はどんなものでも酷くないものなんかない。
しかし、出血が夥しい現場というのはやはりうんざりする。
狭い路地から救急車が走り去るのを目で見送ると高山は漸くその現場に到着した。
制服の警察官に鑑識係に刑事が数名犇いているのが見える。
「こんだけ人手が出てりゃ俺の手なんか要らねえだろ」
ぼそりと呟くと、背後から襟をぐいと引っ張られた。振り返って見れば同僚の刑事・平田清秀である。
「そうですねえ、誰かさんがのんびりえっちらおっちら徒歩で来てくれたんで人手が足りちゃいましたね」
ちっ、と舌打ちして平田の手を振りほどく。
「被害者は」
「今救急車で運ばれてった老人と、女子児童と、あと中年男です。女子児童と中年男はすでに死亡が確認されてます」
高山はふん、と鼻を鳴らした。殺人現場となった家の玄関先に血の海が出来ている。この夥しい血が特有の生臭く錆臭い臭いを発していた。
血の臭いが鼻をつくと後で離れなくなる。解剖のような酷い遺体を見るのは慣れたが血や遺体が腐乱した臭いだけは慣れることが出来ずにいる。臭いが鼻に残っている気がして二、三日は飯も酒も不味い。
「やったのは」
と言った途端、現場の屋内から手錠をかけられた若い──とはいっても三十代くらいか、の悪そうな顔をした男が刑事に連れられて出てきた。その表情が妙に目につく。
──ほっとしたような顔してやがる。
男がパトカーに乗せられ連行されるのを見送ると、平田は走り去ったパトカーを顎をしゃくって示した。
「今の男が、ガイシャの一人の中年男の殺害を認めてます」
「一人か」
「そもそも、その中年男がじいさんと女の子を包丁で刺したり斬ったりしたようでね。それを目撃したお向かいさんが110番通報したんですよ」
振り返ると向かいの住人が別の刑事に簡単に事情聴取を受けているようだった。
「この件について110番通報が合計4件ありましてね。相当大きな騒ぎだったのかご近所がみんなそれぞれ通報したようだ。まだまだ人情も捨てたもんじゃないですね、世の中」
「それで駆けつけてみりゃ全部終わってましたじゃしょうがないがな」
しかし、騒ぎを聞きつけて見てみれば向かいの家で包丁を振り回している男がいたなら110番通報するくらいしか出来ることは無いだろう。うかつに止めに入ったりしたら自分だって殺されるかもしれないのだ。見て見ぬふりをするよりは通報してくれただけでもよしとしなければなるまい。
通報を受けてパトカーが現場に到着すると、玄関先には老人と女児が、屋内で中年男が倒れていて、連行された男が現場に正座して警官隊を待っていたのだという。
「つまり、その中年男が玄関先で包丁振り回して二人を傷つけたあと、今度は今の男がそいつを殺したとそういうわけか」
「大雑把なとこ、そんなもんでしょうね。事情聴取はこれからですが、他にホシがいるとかそういうややこしい事件じゃないでしょう」
なんだ、やっぱり呼び出しなんか無視して飲みに行きゃよかった──高山は小さくぼやくと平田はそれをじろりと横目で睨んだ。
「俺なんか、明日は公休で久しぶりに息子の少年野球の試合見に行く約束してたんですよ。なのにこれのおかげでまたパーだ」
会話の途中で人の動きを感じて再び現場に目をやると、今度は女性警察官に付き添われた女がよろよろと出てきた。着衣がいくぶん乱れ、髪もぐしゃぐしゃになっている。顔は繰り返し殴られたように酷く腫れあがっていた。腫れあがった頬に隠れそうになっている目は視点も定まっていないように見える。
「あれはさっきの連行された男の妹らしいです。ただ、ああいう状態で意識はあるが今はまだまったく受け答えが出来ないみたいですね。聴取は少し回復してからになりそうです。多分彼女が一部始終を見てたんだろうし」
「ほっとしてるんじゃねえか」
平田がえっ、と高山の顔を見る。
「さっきの男もだが、今の女もなんかほっとした顔してやがった」
「あの腫れた顔でそんな表情わかったんですか?当てずっぽうはやめましょうよ」
ちっ、と何度目かの舌打ちを落とすと高山はまあどっちでもいいや、と言った。

伏し目がちに周囲を見回すと、明らかに不快と怒りを顔に浮かべた者たちが自分を取り囲んでいる。
双葉は唇を噛んで一層うつむいた。
「弁護士の藤木彰吾と申します」
双葉の隣に正座した男が丁寧に正面の男性に名刺を渡している。
「確かにうちの修介がとんでもないことをしでかしたということは判っているし、世間に顔向け出来ることじゃないとは思っていますよ」
正面の男性はどこか上から目線で静かに切り出した。森平修介の父親である。
「でもね、修介はもともと優しい親思いの子で、双葉さんと知り合うまでは私たちをとても大事にしてくれるいい子だったんですよ。その女と知り合ってからあの子は私たちの言うことなど全くきかなくなってしまったんです。修介がおかしくなったのはその女のせいです」
その隣に座っていた、老いてはいるがしゃんと背筋を伸ばした厳しそうな女性がそう言った。修介の母親だ。
「修介が人殺しをするなんて、今でも信じられませんわ。よほどストレスが溜まっていたんじゃないかしら。可哀想に」
「われわれ親族一同はね、あの事件のおかげでたいへんな精神的苦痛を味わったんです。ちょうど弁護士さんもいらしたことだ、われわれがその女に損害賠償を要求することは出来ませんか」
双葉は事件の後、今もなおフラッシュバックに苦しめられている。血の海に倒れた愛娘。苦しみうめく父。そして怪物のように恐ろしい形相で迫ってくる夫。
あたしが悪かったの?
あたしが修介さんを怒らせるようなことをしなければ、あんな事件は起こらなかったの?
あたしがヒロくん──兄ちゃんに相談なんかしたからいけなかったの?
あたしひとりが我慢すればみんな平和なままだったの?
父ちゃんも。
ヒロくんも。
みさきも。
ごめんなさい。
あたしのせいでごめんなさい。
ぜんぶあたしが悪いんだ。
あたし、死んだ方がいいのかも。
頭の中をぐるぐるとそんな考えが巡って、一同に会した修介の両親や親戚たちと藤木の会話は殆ど双葉の耳には入ってこなかった。
藤木は広樹についてくれた国選弁護人だったが、その後の双葉の様子をなにかと気に掛けてくれている。修介の両親に呼び出されたので迷った挙句藤木に相談すると、ついてきてくれたのだ。報酬など払う当てはないと言ったが、広樹さんの弁護のアフターケアですよと言ってくれた。弁護士など儲かる商売だろうからそんなサービスをしてもさほど損はしないのかと思った。国選弁護人などろくな収入になりはしない仕事だというのを知ったのはずっと後のことだ。
「──夫婦の仲を円満に保つのは双方の努力であるべきです。いくらストレスが溜まっているからといって力の劣る女性や子供を日常的な暴力で屈服させるのは努力とはいいません。双葉さんや亡くなったみさきちゃんが日常的に暴力を受けていたということは医師の診断からも明白です。なんなら診断書をお見せしますよ。それから双葉さんのカウンセリングの結果からも、日常的な暴力によって多大な心理的外傷を与えていたことも判っています。双葉さんが被害届を出せば、被疑者死亡のまま修介さんにさらに傷害罪が追加されることになります。それでもよろしければどうぞ。そんな告訴で勝てるとは思いませんが」
藤木の声が聞こえてきた。
「修介さんが暴力にいたった要因は双葉さんにもあったかもしれない。でも、腹が立ったからって妻を殴ったりまして人を殺したりしていい理由はどこにもありません。この事件について双葉さんの落ち度はない。双葉さんは修介さんに娘を殺され、父を傷つけられた。あなたがたが双葉さんに謝罪する必要はないかもしれないがあなたがたが双葉さんを責める謂れもありません」
ふと顔を上げて藤木の横顔を見る。
ここへ来る前に、修介の親族連中に何を言われても謝る必要などないと藤木に念をおされていたことを思い出した。
あなたは被害者なんです。おっきな顔してればいいんですよ。言いたいことがあれば言えばいい。
ただ、もし腹が立ってもコロスぞとか言っちゃいけません。脅迫になってしまいますからね。
藤木はそう言って笑っていた。
突然、夢から醒めたように頭の中が明瞭になる。
そういえば、あたしってもともと不良で、暴走族なんかとも付き合ってて、頭にくれば殴るぞ殺すぞとか凄むのも普通だった。
女同士で髪の引っ張り合い、殴り合いの大喧嘩なんかもしたことある。男たちの喧嘩に巻き込まれて大怪我だってしたことある。
なのに、修介程度のへなへなパンチになんであんなに怯えてたんだろ。
みさきがいたから?
あたしは殴られても平気。でもみさきが殴られるのは耐えられない。だから段々臆病になっていったのか。
あたしが本気で反撃すれば、修介なんか逆に従えさせることだって出来たんじゃないの。
やっぱ、あたしが馬鹿だったんだな──
結局、双葉は修介の親族の前で一言も喋ることはなかった。全部、藤木が話してくれた。森平家の者たちは腹いせに双葉を苛めたかっただけなのだろう、と藤木が笑う。これで完全に縁を切ってしまえばせいせいするんじゃないですか。
せいせいする──
みさきのことを思うとまた涙が溢れるけれど。
とにかく自分を失ったような生活からは解放されたのだ。
「お父さんの様子、見に行きましょうか」
「でもいまだにあたしの顔見ると、どこの別嬪さんかね、なんてあたしのことナンパしようとするんですよ、あの色気じじいったら」
父は事件のことをすっかり忘れている。
それどころかあの日、双葉がみさきを預けていったことも忘れている。だから、現在の双葉の容姿も覚えていない。
父にとっては、15歳の頃に家を出た金髪の不良娘が双葉なのだ。
「いいかげん、娘の今の顔くらい覚えてもらわなきゃね……」
現場となった長屋はどうせ空家にしておいても人は入らない、だいいち数年後には取り壊してマンションを建てる計画なのだという。当初、双葉が退院した父と一緒に住もうとした新しいマンションに引越しさせたが父は目を離すとすぐにあの長屋に戻ってしまう。
本人にとっては惨劇の記憶が無いのだから自分の家に帰るのは当然のことなのかもしれない。
大家や近隣の住民はあの惨劇を父が覚えていないことに安堵し、気遣ってくれているようだ。子供の頃あの家で過ごした双葉のこともまた、あんなに迷惑をかけたのに隣人たちは「近所の子」として暖かく見守ってくれている。
あたし、修介と暮らしてた頃は誰も頼れないと絶望してた。
でも、落ち着いて周りを見てみたら、力になろうとしてくれる人はいっぱいいる。
友達もいる。刑務所に逆戻りしちゃったけどあたしのために人殺しまでした兄ちゃんもいる。優しくしてくれる近所の人もいる。
それから。
ふと藤木の顔を見上げて気づかれないように頭を振った。
だめだめ、この人は仕事で優しくしてくれてるだけなんだから。惚れっぽいのがあたしの一番駄目なとこ。
あんなに酷い目に遭ったのにまだ懲りないの?
一人で照れ笑いをすると双葉は空を見上げて深呼吸した。

「被害者は森平修介45歳会社員、死因は後頭部殴打による頭蓋骨陥没に加え背後から包丁で刺されたことによる失血死」
淡々と報告の声が響く。
「次に森平みさきちゃん8歳。死因は包丁により頚動脈を斬り付けられたことによる失血死。安岡昭士62歳、腹部を数回刺されたことにより病院に収容され現在も重態。安岡は森平修介の妻、双葉さんの父親です。安岡の長男、安岡広樹35歳を森平修介殺害の容疑で緊急逮捕しました。安岡広樹は既に犯行を認めています」
宵の長屋での惨事。
安岡昭士の暮らす長屋の隅で人の言い争う声を聞いた向かいの家の住人が台所の小窓から様子を見ていた。玄関先にトレンチコートを着た痩せ型の中年の男が訪問し、安岡ともみ合いになり、突然包丁を取り出して安岡を刺したのを見て住人は慌てて110番通報したのだという。安岡の側には幼い少女がいたらしく悲鳴ともつかない泣き声を上げた。その少女に向かって、安岡を刺した中年男は手に持った包丁を振り下ろした。
振り下ろされた包丁は少女の首に食い込み、噴水のように鮮血が吹き上がるのを見て向かいの住人は失神しそうになったという。
その後、安岡の家の奥から女の悲鳴が聞こえたが、すでに110番通報していることもあり、恐ろしくなって住人は家族に惨劇を告げて家の奥に引っ込んでがたがた震えていた。近隣の住人に尋ねると、安岡宅の騒ぎに表へ出てきたものの玄関先の惨劇を見てしまって皆同様に家に逃げ込んでいたのだという。
同じこの事件に関する110番通報は、計4件を数えた。
女の悲鳴の直後、この長屋の路地にものすごい勢いで駆け込んできた男が目撃されている。それが森平修介を殺害した安岡広樹だと思われる。
森平双葉は当初茫然自失しておりろくな証言が取れなかったが、パトカーが駆けつけた時の双葉の衣服の乱れから森平修介は自分の妻をこの場で強姦しようとしていたと見られる。そこへ兄の広樹が駆けつけ、玄関先にあった銅製の置物で森平の後頭部を殴った。森平は倒れたがまだ動いていたため、安岡昭士とみさきを刺した凶器の包丁を拾ってさらに数回刺した。
森平修介の犯行は目撃されているし、安岡広樹の自供は現場に残された痕跡との齟齬は全く見られなかった。凶器の包丁は犯行の数十分前に近くの100円ショップで森平自身が購入したことも確認されている。平静を取り戻し始めた森平双葉の証言もこれらの経過を確認することになった。
ただ、意識を取り戻し回復した安岡昭士からは証言を取ることが出来なかった。
老人は、あまりに凄惨な場面を目の当たりにしたためか──長く退屈な入院生活のせいか。事件のことは何一つ覚えていなかったのだ。
認知症の症状も出始めていると医師は言った。
捜査は裏づけを取るだけで終了し、送検された安岡広樹の裁判もさっさと終わった。
過去の傷害事件で服役していた広樹は仮出所中だったこともあり、情状酌量は認められたものの再び刑務所へと逆戻りとなったという。
安岡広樹は、日常的に妹に暴力をふるっていた森平修介に対し妹と別れるよう話そうと事件当日森平の会社を訪ねている。しかし当日森平は会社を早退しており、その後森平の後を追って父の居宅まで行くと凶行に遭遇した。もう少し早く父の家へ行っていれば姪は殺されずに済んだと後悔はするが、森平を殺したことに関しては特に後悔していないと述べて裁判官の心証を悪くしたというのは高山も後に聞いた話だ。これで妹が夫に殴られて暮らすことは無くなったのだと思うとせいせいした、などと嘯いたという。
──ほっとした顔してやがったもんな。
事件は凄惨だったが、特にやっかいなものではなかったと高山は思う。
ただ、その後重態から生還した安岡昭士は一人きりであの惨劇の現場に戻って元のように生活出来るのだろうか──珍しくそんな風に気にかかっていた。
それが、ちょうど3年前の今頃のことだ、と高山は呟いた。
「──安岡の子供は広樹と双葉の二人だけ。広樹は独身で、双葉には殺された女の子が一人だけだ。つまり安岡にはもうあの年頃の孫はいねえ」
高山は煙草に火をつけ、ふうっと煙を吐き出した。紺野はその煙を目で追う。
「だから気になって後をつけたら爺さん、いきなり倒れやがったんだよ。連れてた女の子は驚いて泣き出すし、しょうがねえからすぐに救急車を呼んだ」
「それ、何だったんですか」
脳梗塞だ、と呟くと高山は夜空を見上げる。
「病院運んで、とりあえず子供も連れていくわな、で、処置が済んでとりあえず一命を取り留めたのが判るまで子供が泣くのを宥めて」
安岡の孫ではないことは判っているから素性を聞こうとするが子供は泣くばっかりで要領を得ない。仕方ないから署に連絡したら、柊と紺野が行方不明の子供を捜しているというのでそのまま署に連れて帰ったが、誰かに子供の面倒を押し付けようにも誰も替わってくれなかったので仕方なく引き続き高山が見ていたのだという。
高山が泣き喚く小学生の女の子をどうやって宥めていたのか──それは見ものだったに違いない。鶴田がにやにやしていた理由が判った気がした。是非見たかったものだと残念に思う。
「ちなみに安岡さんが倒れたのって何時頃ですか?」
「あー、9時11分、かな。救急車呼んだ時に時計見た」
紺野は小さく舌打ちした。
「高山さーん、子供連れてるのが怪しいと思ったんなら先に署に問い合わせるとかなんとかして下さいよ!その時点で連絡くれてたら俺ら、わざわざ舘刀神社近辺の捜索とかやんなくても良かったのに!」
「まあ、研修やったと思えよ。勤務外で人命救助したんだからあんまりがたがた言うな」
そうこうしているうちに、柊と加地夫妻を乗せたパトカーが到着した。最初に加地宅へ向かった車は紺野が乗っていたので、三つ池町交番のパトカーを回してもらっていて時間が掛かったらしい。
「まあ、あとで柊さんにたっぷり絞られて下さい。俺のようにはいきませんよ」
そう言い残すと紺野は車を降りた柊に駆け寄って行った。
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禁無断複製・転載 (c)Senka.Yamashina
次回の更新は5/7ごろの予定です。

ふと見上げると、桜が随分開いている。
まだ夜は冷え込むがもうそろそろ春なのだということに高山恩実は漸く気づいた。
夕食がてら定食屋で生ビールを飲んでそのまま自分のマンションに帰宅しようかと思っていたが、桜を見ながら歩いているうちにふとこのまま帰るのが惜しくなってきて次の店へ向かうことにする。そうだ、久しぶりにスコッチでも飲みに行くか。
バスで10分ほど先にある繁華街へそのまま歩いて向かう。
川沿いの桜並木の下を暫く歩き、橋を渡るとその先に明るいネオンの街が見える。数年前に改装された鉄道の駅ビルやショッピングモールなどの新しい建物の周辺に昔からの歓楽街がちまちまと犇いていて、特に大きなわけではないがこの界隈では一番の繁華街だ。その明るいネオン街に入る手前で少々うらぶれた狭い路地に入ると、それこそもう何十年もそこで営業しているような赤ちょうちんや深夜までやっている喫茶店、それに混じって新しいラーメン屋などが軒を連ねる。目的の店はその並びにあった。
しかし──
高山はその店のドアを開くことは出来なかった。
目的の店から人が出てきたのが見えて、反射的に高山は入りかけた路地から出て身を隠す。何を悪いことをしているわけでもない、隠れる必要などないのだが、出てきたのは見覚えのある顔の老人だったのだ。
そして、その老人は、幼い女の子を連れていた。老人は微笑んでいる。少女もはしゃいでいる。
──そんなはずは。
胸がざわざわする。嫌な感じだ。
路地の角の看板に隠れた高山に気づくこともなく、老人と少女は手を繋いで楽しげに角を曲がって行った。高山が来たのとは反対方向。この方向にはあの老人の家があることを高山は知っている。
──そんなはずはねえ。
高山は『面倒くせえ』を出すことも忘れて老人の後を追った。
繁華街から離れて大通りを渡ると、小さな町工場が身を寄せ合っている地帯だ。そろそろ今日の操業も終えている所が多いのだろう、すでに街は眠りについているかのように見えた。大通り沿いのコンビニエンスストアと100円ショップだけがいやに煌々と明るい。
既視感。
いや、そんなものではない。確かに高山は以前、殆ど同じルートでこの道を急いだことがある。あれもちょうど桜の季節だった。
申し訳程度の街灯がうすぼんやりと夜道を照らす。片側一車線狭い道路から更に車一台通るのがやっとの路地へ入る。迷路のように入り組んだ袋小路がそこここに出現する。
次の角を右に曲がれば、あの老人の住んでいた長屋がある。
声をかけるべきか。
いや、彼らが帰宅した時点で訪ねた方がいい。
その前に、一度署に問い合わせをしておいた方がいいか。
考えを張り巡らせる。
その高山の目の前で──
少女と楽しげに手を繋いで歩いていた老人が突然、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。

酷い現場だ。
いや、殺人現場はどんなものでも酷くないものなんかない。
しかし、出血が夥しい現場というのはやはりうんざりする。
狭い路地から救急車が走り去るのを目で見送ると高山は漸くその現場に到着した。
制服の警察官に鑑識係に刑事が数名犇いているのが見える。
「こんだけ人手が出てりゃ俺の手なんか要らねえだろ」
ぼそりと呟くと、背後から襟をぐいと引っ張られた。振り返って見れば同僚の刑事・平田清秀である。
「そうですねえ、誰かさんがのんびりえっちらおっちら徒歩で来てくれたんで人手が足りちゃいましたね」
ちっ、と舌打ちして平田の手を振りほどく。
「被害者は」
「今救急車で運ばれてった老人と、女子児童と、あと中年男です。女子児童と中年男はすでに死亡が確認されてます」
高山はふん、と鼻を鳴らした。殺人現場となった家の玄関先に血の海が出来ている。この夥しい血が特有の生臭く錆臭い臭いを発していた。
血の臭いが鼻をつくと後で離れなくなる。解剖のような酷い遺体を見るのは慣れたが血や遺体が腐乱した臭いだけは慣れることが出来ずにいる。臭いが鼻に残っている気がして二、三日は飯も酒も不味い。
「やったのは」
と言った途端、現場の屋内から手錠をかけられた若い──とはいっても三十代くらいか、の悪そうな顔をした男が刑事に連れられて出てきた。その表情が妙に目につく。
──ほっとしたような顔してやがる。
男がパトカーに乗せられ連行されるのを見送ると、平田は走り去ったパトカーを顎をしゃくって示した。
「今の男が、ガイシャの一人の中年男の殺害を認めてます」
「一人か」
「そもそも、その中年男がじいさんと女の子を包丁で刺したり斬ったりしたようでね。それを目撃したお向かいさんが110番通報したんですよ」
振り返ると向かいの住人が別の刑事に簡単に事情聴取を受けているようだった。
「この件について110番通報が合計4件ありましてね。相当大きな騒ぎだったのかご近所がみんなそれぞれ通報したようだ。まだまだ人情も捨てたもんじゃないですね、世の中」
「それで駆けつけてみりゃ全部終わってましたじゃしょうがないがな」
しかし、騒ぎを聞きつけて見てみれば向かいの家で包丁を振り回している男がいたなら110番通報するくらいしか出来ることは無いだろう。うかつに止めに入ったりしたら自分だって殺されるかもしれないのだ。見て見ぬふりをするよりは通報してくれただけでもよしとしなければなるまい。
通報を受けてパトカーが現場に到着すると、玄関先には老人と女児が、屋内で中年男が倒れていて、連行された男が現場に正座して警官隊を待っていたのだという。
「つまり、その中年男が玄関先で包丁振り回して二人を傷つけたあと、今度は今の男がそいつを殺したとそういうわけか」
「大雑把なとこ、そんなもんでしょうね。事情聴取はこれからですが、他にホシがいるとかそういうややこしい事件じゃないでしょう」
なんだ、やっぱり呼び出しなんか無視して飲みに行きゃよかった──高山は小さくぼやくと平田はそれをじろりと横目で睨んだ。
「俺なんか、明日は公休で久しぶりに息子の少年野球の試合見に行く約束してたんですよ。なのにこれのおかげでまたパーだ」
会話の途中で人の動きを感じて再び現場に目をやると、今度は女性警察官に付き添われた女がよろよろと出てきた。着衣がいくぶん乱れ、髪もぐしゃぐしゃになっている。顔は繰り返し殴られたように酷く腫れあがっていた。腫れあがった頬に隠れそうになっている目は視点も定まっていないように見える。
「あれはさっきの連行された男の妹らしいです。ただ、ああいう状態で意識はあるが今はまだまったく受け答えが出来ないみたいですね。聴取は少し回復してからになりそうです。多分彼女が一部始終を見てたんだろうし」
「ほっとしてるんじゃねえか」
平田がえっ、と高山の顔を見る。
「さっきの男もだが、今の女もなんかほっとした顔してやがった」
「あの腫れた顔でそんな表情わかったんですか?当てずっぽうはやめましょうよ」
ちっ、と何度目かの舌打ちを落とすと高山はまあどっちでもいいや、と言った。

伏し目がちに周囲を見回すと、明らかに不快と怒りを顔に浮かべた者たちが自分を取り囲んでいる。
双葉は唇を噛んで一層うつむいた。
「弁護士の藤木彰吾と申します」
双葉の隣に正座した男が丁寧に正面の男性に名刺を渡している。
「確かにうちの修介がとんでもないことをしでかしたということは判っているし、世間に顔向け出来ることじゃないとは思っていますよ」
正面の男性はどこか上から目線で静かに切り出した。森平修介の父親である。
「でもね、修介はもともと優しい親思いの子で、双葉さんと知り合うまでは私たちをとても大事にしてくれるいい子だったんですよ。その女と知り合ってからあの子は私たちの言うことなど全くきかなくなってしまったんです。修介がおかしくなったのはその女のせいです」
その隣に座っていた、老いてはいるがしゃんと背筋を伸ばした厳しそうな女性がそう言った。修介の母親だ。
「修介が人殺しをするなんて、今でも信じられませんわ。よほどストレスが溜まっていたんじゃないかしら。可哀想に」
「われわれ親族一同はね、あの事件のおかげでたいへんな精神的苦痛を味わったんです。ちょうど弁護士さんもいらしたことだ、われわれがその女に損害賠償を要求することは出来ませんか」
双葉は事件の後、今もなおフラッシュバックに苦しめられている。血の海に倒れた愛娘。苦しみうめく父。そして怪物のように恐ろしい形相で迫ってくる夫。
あたしが悪かったの?
あたしが修介さんを怒らせるようなことをしなければ、あんな事件は起こらなかったの?
あたしがヒロくん──兄ちゃんに相談なんかしたからいけなかったの?
あたしひとりが我慢すればみんな平和なままだったの?
父ちゃんも。
ヒロくんも。
みさきも。
ごめんなさい。
あたしのせいでごめんなさい。
ぜんぶあたしが悪いんだ。
あたし、死んだ方がいいのかも。
頭の中をぐるぐるとそんな考えが巡って、一同に会した修介の両親や親戚たちと藤木の会話は殆ど双葉の耳には入ってこなかった。
藤木は広樹についてくれた国選弁護人だったが、その後の双葉の様子をなにかと気に掛けてくれている。修介の両親に呼び出されたので迷った挙句藤木に相談すると、ついてきてくれたのだ。報酬など払う当てはないと言ったが、広樹さんの弁護のアフターケアですよと言ってくれた。弁護士など儲かる商売だろうからそんなサービスをしてもさほど損はしないのかと思った。国選弁護人などろくな収入になりはしない仕事だというのを知ったのはずっと後のことだ。
「──夫婦の仲を円満に保つのは双方の努力であるべきです。いくらストレスが溜まっているからといって力の劣る女性や子供を日常的な暴力で屈服させるのは努力とはいいません。双葉さんや亡くなったみさきちゃんが日常的に暴力を受けていたということは医師の診断からも明白です。なんなら診断書をお見せしますよ。それから双葉さんのカウンセリングの結果からも、日常的な暴力によって多大な心理的外傷を与えていたことも判っています。双葉さんが被害届を出せば、被疑者死亡のまま修介さんにさらに傷害罪が追加されることになります。それでもよろしければどうぞ。そんな告訴で勝てるとは思いませんが」
藤木の声が聞こえてきた。
「修介さんが暴力にいたった要因は双葉さんにもあったかもしれない。でも、腹が立ったからって妻を殴ったりまして人を殺したりしていい理由はどこにもありません。この事件について双葉さんの落ち度はない。双葉さんは修介さんに娘を殺され、父を傷つけられた。あなたがたが双葉さんに謝罪する必要はないかもしれないがあなたがたが双葉さんを責める謂れもありません」
ふと顔を上げて藤木の横顔を見る。
ここへ来る前に、修介の親族連中に何を言われても謝る必要などないと藤木に念をおされていたことを思い出した。
あなたは被害者なんです。おっきな顔してればいいんですよ。言いたいことがあれば言えばいい。
ただ、もし腹が立ってもコロスぞとか言っちゃいけません。脅迫になってしまいますからね。
藤木はそう言って笑っていた。
突然、夢から醒めたように頭の中が明瞭になる。
そういえば、あたしってもともと不良で、暴走族なんかとも付き合ってて、頭にくれば殴るぞ殺すぞとか凄むのも普通だった。
女同士で髪の引っ張り合い、殴り合いの大喧嘩なんかもしたことある。男たちの喧嘩に巻き込まれて大怪我だってしたことある。
なのに、修介程度のへなへなパンチになんであんなに怯えてたんだろ。
みさきがいたから?
あたしは殴られても平気。でもみさきが殴られるのは耐えられない。だから段々臆病になっていったのか。
あたしが本気で反撃すれば、修介なんか逆に従えさせることだって出来たんじゃないの。
やっぱ、あたしが馬鹿だったんだな──
結局、双葉は修介の親族の前で一言も喋ることはなかった。全部、藤木が話してくれた。森平家の者たちは腹いせに双葉を苛めたかっただけなのだろう、と藤木が笑う。これで完全に縁を切ってしまえばせいせいするんじゃないですか。
せいせいする──
みさきのことを思うとまた涙が溢れるけれど。
とにかく自分を失ったような生活からは解放されたのだ。
「お父さんの様子、見に行きましょうか」
「でもいまだにあたしの顔見ると、どこの別嬪さんかね、なんてあたしのことナンパしようとするんですよ、あの色気じじいったら」
父は事件のことをすっかり忘れている。
それどころかあの日、双葉がみさきを預けていったことも忘れている。だから、現在の双葉の容姿も覚えていない。
父にとっては、15歳の頃に家を出た金髪の不良娘が双葉なのだ。
「いいかげん、娘の今の顔くらい覚えてもらわなきゃね……」
現場となった長屋はどうせ空家にしておいても人は入らない、だいいち数年後には取り壊してマンションを建てる計画なのだという。当初、双葉が退院した父と一緒に住もうとした新しいマンションに引越しさせたが父は目を離すとすぐにあの長屋に戻ってしまう。
本人にとっては惨劇の記憶が無いのだから自分の家に帰るのは当然のことなのかもしれない。
大家や近隣の住民はあの惨劇を父が覚えていないことに安堵し、気遣ってくれているようだ。子供の頃あの家で過ごした双葉のこともまた、あんなに迷惑をかけたのに隣人たちは「近所の子」として暖かく見守ってくれている。
あたし、修介と暮らしてた頃は誰も頼れないと絶望してた。
でも、落ち着いて周りを見てみたら、力になろうとしてくれる人はいっぱいいる。
友達もいる。刑務所に逆戻りしちゃったけどあたしのために人殺しまでした兄ちゃんもいる。優しくしてくれる近所の人もいる。
それから。
ふと藤木の顔を見上げて気づかれないように頭を振った。
だめだめ、この人は仕事で優しくしてくれてるだけなんだから。惚れっぽいのがあたしの一番駄目なとこ。
あんなに酷い目に遭ったのにまだ懲りないの?
一人で照れ笑いをすると双葉は空を見上げて深呼吸した。

「被害者は森平修介45歳会社員、死因は後頭部殴打による頭蓋骨陥没に加え背後から包丁で刺されたことによる失血死」
淡々と報告の声が響く。
「次に森平みさきちゃん8歳。死因は包丁により頚動脈を斬り付けられたことによる失血死。安岡昭士62歳、腹部を数回刺されたことにより病院に収容され現在も重態。安岡は森平修介の妻、双葉さんの父親です。安岡の長男、安岡広樹35歳を森平修介殺害の容疑で緊急逮捕しました。安岡広樹は既に犯行を認めています」
宵の長屋での惨事。
安岡昭士の暮らす長屋の隅で人の言い争う声を聞いた向かいの家の住人が台所の小窓から様子を見ていた。玄関先にトレンチコートを着た痩せ型の中年の男が訪問し、安岡ともみ合いになり、突然包丁を取り出して安岡を刺したのを見て住人は慌てて110番通報したのだという。安岡の側には幼い少女がいたらしく悲鳴ともつかない泣き声を上げた。その少女に向かって、安岡を刺した中年男は手に持った包丁を振り下ろした。
振り下ろされた包丁は少女の首に食い込み、噴水のように鮮血が吹き上がるのを見て向かいの住人は失神しそうになったという。
その後、安岡の家の奥から女の悲鳴が聞こえたが、すでに110番通報していることもあり、恐ろしくなって住人は家族に惨劇を告げて家の奥に引っ込んでがたがた震えていた。近隣の住人に尋ねると、安岡宅の騒ぎに表へ出てきたものの玄関先の惨劇を見てしまって皆同様に家に逃げ込んでいたのだという。
同じこの事件に関する110番通報は、計4件を数えた。
女の悲鳴の直後、この長屋の路地にものすごい勢いで駆け込んできた男が目撃されている。それが森平修介を殺害した安岡広樹だと思われる。
森平双葉は当初茫然自失しておりろくな証言が取れなかったが、パトカーが駆けつけた時の双葉の衣服の乱れから森平修介は自分の妻をこの場で強姦しようとしていたと見られる。そこへ兄の広樹が駆けつけ、玄関先にあった銅製の置物で森平の後頭部を殴った。森平は倒れたがまだ動いていたため、安岡昭士とみさきを刺した凶器の包丁を拾ってさらに数回刺した。
森平修介の犯行は目撃されているし、安岡広樹の自供は現場に残された痕跡との齟齬は全く見られなかった。凶器の包丁は犯行の数十分前に近くの100円ショップで森平自身が購入したことも確認されている。平静を取り戻し始めた森平双葉の証言もこれらの経過を確認することになった。
ただ、意識を取り戻し回復した安岡昭士からは証言を取ることが出来なかった。
老人は、あまりに凄惨な場面を目の当たりにしたためか──長く退屈な入院生活のせいか。事件のことは何一つ覚えていなかったのだ。
認知症の症状も出始めていると医師は言った。
捜査は裏づけを取るだけで終了し、送検された安岡広樹の裁判もさっさと終わった。
過去の傷害事件で服役していた広樹は仮出所中だったこともあり、情状酌量は認められたものの再び刑務所へと逆戻りとなったという。
安岡広樹は、日常的に妹に暴力をふるっていた森平修介に対し妹と別れるよう話そうと事件当日森平の会社を訪ねている。しかし当日森平は会社を早退しており、その後森平の後を追って父の居宅まで行くと凶行に遭遇した。もう少し早く父の家へ行っていれば姪は殺されずに済んだと後悔はするが、森平を殺したことに関しては特に後悔していないと述べて裁判官の心証を悪くしたというのは高山も後に聞いた話だ。これで妹が夫に殴られて暮らすことは無くなったのだと思うとせいせいした、などと嘯いたという。
──ほっとした顔してやがったもんな。
事件は凄惨だったが、特にやっかいなものではなかったと高山は思う。
ただ、その後重態から生還した安岡昭士は一人きりであの惨劇の現場に戻って元のように生活出来るのだろうか──珍しくそんな風に気にかかっていた。
それが、ちょうど3年前の今頃のことだ、と高山は呟いた。
「──安岡の子供は広樹と双葉の二人だけ。広樹は独身で、双葉には殺された女の子が一人だけだ。つまり安岡にはもうあの年頃の孫はいねえ」
高山は煙草に火をつけ、ふうっと煙を吐き出した。紺野はその煙を目で追う。
「だから気になって後をつけたら爺さん、いきなり倒れやがったんだよ。連れてた女の子は驚いて泣き出すし、しょうがねえからすぐに救急車を呼んだ」
「それ、何だったんですか」
脳梗塞だ、と呟くと高山は夜空を見上げる。
「病院運んで、とりあえず子供も連れていくわな、で、処置が済んでとりあえず一命を取り留めたのが判るまで子供が泣くのを宥めて」
安岡の孫ではないことは判っているから素性を聞こうとするが子供は泣くばっかりで要領を得ない。仕方ないから署に連絡したら、柊と紺野が行方不明の子供を捜しているというのでそのまま署に連れて帰ったが、誰かに子供の面倒を押し付けようにも誰も替わってくれなかったので仕方なく引き続き高山が見ていたのだという。
高山が泣き喚く小学生の女の子をどうやって宥めていたのか──それは見ものだったに違いない。鶴田がにやにやしていた理由が判った気がした。是非見たかったものだと残念に思う。
「ちなみに安岡さんが倒れたのって何時頃ですか?」
「あー、9時11分、かな。救急車呼んだ時に時計見た」
紺野は小さく舌打ちした。
「高山さーん、子供連れてるのが怪しいと思ったんなら先に署に問い合わせるとかなんとかして下さいよ!その時点で連絡くれてたら俺ら、わざわざ舘刀神社近辺の捜索とかやんなくても良かったのに!」
「まあ、研修やったと思えよ。勤務外で人命救助したんだからあんまりがたがた言うな」
そうこうしているうちに、柊と加地夫妻を乗せたパトカーが到着した。最初に加地宅へ向かった車は紺野が乗っていたので、三つ池町交番のパトカーを回してもらっていて時間が掛かったらしい。
「まあ、あとで柊さんにたっぷり絞られて下さい。俺のようにはいきませんよ」
そう言い残すと紺野は車を降りた柊に駆け寄って行った。

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