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day by day

癒さぬ傷口が 栄光への入口

新月の彼女 ~8~年に一度の彼女

2011-12-12 | オリジナル。
 年に一度、彼女から電話がかかってくる。
 いつの頃からかこの季節になるとそれが楽しみになっていた。我ながら寂しい人生だと思う。
 神埼晋一はそろそろ寒くなってきた空を見上げた。街はもうクリスマスに向かっている。
 待ち合わせの場所に少し早く到着したので、植え込みに腰掛けてポケットに入れていた文庫本を取り出して広げた。じっとしているとじわじわと冷気が身体を侵食する。指がかじかんでページを捲るのにも苦労するようになった。
 ホットの缶コーヒーでも買っておけばよかったかな、と思った時、晋一の前にパンプスの足が立ちどまった。
「ごめんなさい、お待たせして」
 コートにマフラー。薄手のモヘアの手袋が暖かそうだ。パンプスの足なのに不思議と寒そうとは思わない。
「いや、たいして待ってないよ。久しぶり」
「嘘。鼻が真っ赤だもの。どこか暖かいところでお茶でもしましょう」
 にっこりと微笑んだ彼女は晋一の腕をくい、と引っ張った。

 綺麗になったなあ。

 毎年、会う度に思う。
 彼女は、彼女の母親に全然似ていない。彼女の母親も美しい女性だったがタイプが全く違う。大雑把なイメージで言えば母親が肉食獣なら彼女は草食獣だ。
 彼女はこんな寒い時期にもどこか春の匂いがする。もう随分とこの季節にしか会ったことはないが、以前夏に会った時も蒸し暑く不快な夏の空気は彼女を避けているかのようだった。
 もう薄暗い夕刻だからそのまま夕食に行っても良かったのだが、暖房の効いた喫茶店に座る。彼女はキリマンジャロを注文した。
「……おかあさん、どうしてる?」
「この間一度帰国してました。相変わらず精力的に働いてるようです」
「ダンナさんとは……」
 と言い掛けると彼女は晋一の目を覗き込むように見て少し悪戯っぽく笑った。
「おあいにくさま。仲良くやってるみたいですよ」
「おあいにくって何だよ」
 くすくすと彼女の笑い声がテーブルを転がって晋一の手元に届く。
「言っておくけど、別に彼女とよりを戻したいとかそんなことを思ってるわけじゃないぞ」
「ええ、そう思ってても母は振り向きもしないことだって知ってます」
「ひっどいなあ」
「今更よりを戻せるくらいなら別れていないでしょう?おとうさん」

 彼女──ゆうりは、憎たらしいほど清楚な笑顔で父親の出鼻を見事に挫いた。

 晋一がゆうりの母親の遥子と結婚したのはまだ互いに大学生の頃だった。出来ちゃった婚の学生結婚、というやつだ。
 海外への留学が決まっていた遥子はそれを翻して産むと言った。そう言われては晋一も責任を取らないわけにはいかず、まだ稼ぎのあてもないというのに結婚した。妻子のために頑張って働こうとして、その頃は景気も良かったから一時は大儲けもしたが生来のちゃらんぽらんな性格が災いしてどの仕事もたいして長続きしなかった。
 やがて娘──ゆうりの手が離れる頃になると遥子はだらしのない夫に見切りをつけたのか自分で働きに出るようになった。
 そして、その先で晋一の何倍も仕事が出来て大人で包容力があって生活力もあって、なにより性格が合う、そんな理想の男性と出会ってしまったのだ。
 別れて欲しい、と言われた時に晋一は何の反論も出来なかった。
 娘のゆうりは中学生になっていたが、いずれにしても生活力のない晋一が親権で争っても結果は火を見るより明らかで、負けるとわかっている勝負はしない主義の晋一はおとなしく引き下がった。
 娘との面会も要求はしなかったが、娘の方から定期的に連絡を取って会いにきてくれる。
 娘が成人してからは年に一度、この季節──晋一の誕生日にだけ、食事をするのが慣例になった。
 こんな駄目な父親とあんな精力的な母親の娘なのに、ゆうりはいくつになっても清楚で上品で穏やかだ。
 遥子が働くようになってからは殆ど遥子の母親がゆうりを躾けていたのでそのせいなのだろう。多分、彼女は遥子をこんな風に育てたかったんだろうと思う。

 喫茶店を出て、予約している店へ向かう途中でミニシアターの前を通りかかった。そのポスターの前で足が止まる。
「どうしたの?」
 ポスターをよく見ると、とあるヨーロッパの映画監督作品を特集で上映しているらしい。古い映画から最近の映画まで、日替わりで上映している。
「この映画、懐かしいなあ」
 ポスターの古い写真をひと撫でする。ゆうりは不思議そうに首を傾げた。
「君のおかあさんはちょっとマニアックで芸術的な映画が好きでね。これは僕が彼女と大学で出会って初めてデートで見に行った映画だよ。もっとも僕には退屈で内容も全然覚えていないけど」
 付き合う時も、デートコースを決めるのも、いつも遥子が仕切っていた。すべて彼女の好みに任せていた。
 結婚する時も、離婚する時も、すべて彼女が自分で決めて、晋一はそれに従うだけだった。
 彼女が自分で選んだことを遮る存在ではいたくなかったのだ。
「ごめん、なんだか感傷的になってしまった」
「おとうさんは感傷的な人ですもの。知ってるわ」
 娘にまで感傷的な人だと思われていたのか。それはまあ仕方あるまい。何があっても決して涙を見せなかった気丈な遥子と違い、晋一は動物もののドキュメンタリーをテレビで見ただけで幼い娘の前でも平気で号泣するような男だったのだから。
 ゆうりは晋一が自らそのポスターの前を離れるまで足を進めようとはしなかった。だから、仕方なく晋一が自分から歩きだした。

 予約時間に若干遅れて辿り着いたのは、繁華街はずれの一軒家の割烹である。超高級とまではいかないが、晋一が決して普段使いなどしない上品な店だ。娘と年に一度のデートなのだから、とこの日のために何ヶ月も前から予約しておいた、いわゆる予約の取れない店。
 一応普段は生え放題の無精髭もきちんと剃り、随分と白髪の混じってきた髪も染め、一着しかない一張羅のスーツを着ては来たのだが──自然体のゆうりの方が何倍もこの店にしっくり馴染んでいる。
 去年はフランス料理のフルコースでやっぱりそう思った。慣れないことはするもんじゃないな、と反省したのにそれでも見栄なのかなんなのかついついこんな気取った店を選んでしまうのだ。
 ただ、今年はちゃんと個室を取っているので食事をしている時くらいはリラックス出来る筈だ。

「小説はまだ書いてるの?」
 ゆうりはええ、とにっこり微笑んだ。
 ゆうりは翻訳の下請け仕事をしながら小説を書いているのだと聞いている。昔からとにかく本の好きな子で、幼い頃から自分でも書いていたことを晋一は知っていた。幼いゆうりの作品の唯一の読者が父親の晋一だったのだ。もともと晋一が遥子も呆れるほどの読書好きだったからゆうりのそれは晋一の影響なのかもしれない。
 本好きがこうじて、結局現在は小さな古本屋を営んでいる。
「デビューは出来そうなの?」
「ないしょ。ちゃんと決まったら必ず知らせます」
 可愛いらしく笑ってゆうりは箸を自分の口元に運んだ。酒のせいか、真っ白い肌がほんのり桜色に染まっている。
「そうだ、おとうさん。お願いがあるの」
「何?珍しいね」
 ゆうりが晋一にねだりごとなど、めったにない。決して我を張らない娘である。
「この本を──」
 箸を置くとゆうりは自分の背後に置いていた大きなバッグの中から更にビニールの袋に入ったものを取り出した。中から出てきたのは三冊の本である。同じ本ばかり三冊。
「おとうさんのお店に置いていただけないかしら」
 三冊のうちの一冊を手に取り、まじまじと見つめる。
「『つごもりの彼女』──珍しい本だな。久しぶりにお目にかかったよ」
「おとうさんもこの作品、読んだの?」
「まあね。どこか拙い文章だけど何かしら心にひっかかる作品だね」
 ゆうりは驚くほど嬉しそうな顔をした。戸惑ってその顔から目を逸らしてしまう。
「わたしこの作品が大好きなの。いつも持ち歩いて、何度も何度も読んでいるの。もしかしたら全部そらで言えるくらいよ」
 うん、確かにこの娘は昔から気に入った作品に出会うとこんな風に目をキラキラさせて普段ないくらいテンションが上がる。それを晋一は思い出していた。
「ある方から在庫で残っていた分を何冊もわけて頂いたんだけど、わたしが何冊も持っておくよりも誰か本の好きな人に読んでもらえたらいいなと思って、それで」
「僕の店にってわけ?古本屋だけどね」
「いいの。古本屋で本を探す人って、本の好きな人でしょう?だからそういう人に手に取ってもらえればいいの」
 こういう時だけは、ゆうりはやはり遥子の娘なのだなと感じる。
 自分が良いと思うものを是非とも人にも知ってもらいたい。ゆうりは本に関してだけだが、遥子はすべてにおいてそうだった。
「まあ、お安い御用だよ」
 積み上げた古書の山の上に、値段をつけて乗っけるだけでいい。売れるかどうかはわからないが。そもそもこの本は、発売した時もさほど売れてはいなかったし話題にもならなかった。

 さっき映画館に通りかかった時、ゆうりは気付いていなかったのだろうか───
 あの映画のタイトルが、『月篭り』である。
 確か原題はドイツ語か何かで『新月の前日』というタイトルだったと思う。日本にはちょうどその日のことを指す『月篭り』──『つごもり』という綺麗な言葉があるから、翻訳者がそう邦題をつけたのだろう。『みそか』や『晦』ではなく『月篭り』としたあたり、翻訳者のセンスは自分と合うなと思う。
 晋一があの本を手に取ったのは、何となくその『つごもり』というタイトルに惹かれただけだったのだ。
 
「──君は自分の名前の由来、おかあさんから聞いた?」
 ゆうりはきょとんとした。突然話題が変わったので驚いたのだろう。
「たしか、おかあさんの好きな映画の主人公の名前だとか?」
「そう。それがさっきの映画だよ」
 『月篭り』からの連想が、ゆうりの名前に繋がる。
 娘は三月生まれだから、と晋一は三月と書いて『みつき』と読ませる名前を提案した。『弥生』では工夫がないと思って『みつき』を提案したのだが、遥子にセンスがないと一蹴されてしまった。結局遥子が選んだのは、自分が好きな映画の主人公『ユーリ』を平仮名で書く名前だった。ユーリとはドイツ語なら七月のことだ。三月生まれの娘に七月という名をつけるなんて、センスが無いのはどっちだと食い下がってみたが結局いつものように晋一の方が折れることになった。

 普段、滅多に自己主張しない晋一がおそらく遥子との夫婦生活の中で一番頑張ったのはあの時だと思う。

「わたし、『みつき』という名前も好きよ、おとうさん」
 不意を突かれて晋一は箸を取り落としそうになった。
 ゆうりは、晋一が『みつき』という名を提案したことまで知っていたのか。
「いつも自分の意見を言わないおとうさんが珍しく意地を張ったから、どのくらい頑張れるか見たくてわざと意地悪言ったんですって、おかあさん。そうしたら案外簡単に折れてしまったから引っ込みがつかなくなって自分の意見を通すことになってしまったって」
「なんだよ、それ」
 娘の名前という重大な、彼女の一生を左右するかもしれない決定事項なのに、遥子は晋一に対する意地悪でそんな大事な事を決めてしまったのか──

──だって、晋一は自分の娘の名前だって自分の意見を通せなかったんだものね。

 ぎくり、と息が止まった。
 遥子が別れてくれと切り出した時のことが雷のようにくっきりと脳裏に蘇る。

──晋一にとってあたしとの生活って、何だったの?
──本当はどうでも良かったんじゃないの?だから、何でもあたしの言うなりになってたんでしょう?
──晋一がどうしたいって言ってくれたこと、一度だって無いじゃない。あたしたち家族のことなのに。
──どうして怒らないの。あたし浮気したのよ。
──あんたって夫がいてゆうりって娘もいるのに。あたし、他に好きな人が出来たって言ってるのよ。
──なんでじゃあ仕方ないねなんて言えるの。

──晋一は、最初からあたしのこと愛してなんかいなかったんでしょう。子供が出来ちゃったから仕方なく結婚しただけなんだものね。

 何故あの時、反論できなかったのだろう。
 愛していたから、彼女の思う通りにやらせてやりたかったのだと。
 多分、晋一が遥子を愛していなかったと断定されたことがショックで何も言えなかったのだ。
 否───
 結局は彼女と議論することが、二人の家庭をより良いものにするために自分の意見を主張して戦うことが、晋一には億劫だったのだ。彼女の言う通りに従うことが楽だったから、そうしていただけだったのだ。ならば、彼女に愛想をつかされたとしてもやはり仕方なかったのだろう。

「わたしもね」
 晋一の胸のうちを知ってか知らずか、ゆうりがぽつりと言葉を落とす。
「おかあさんが決めたことにはあまり逆らわないの。だっておかあさんが決めたことはたいてい正しいしわたしに異議はないから。そんなときおかあさんはこういうのよ」
 顔を上げたゆうりは、何故か少し嬉しそうな顔をしている。
「あなたやっぱり晋一の娘ねって」
 もちろん穂積のおとうさんの居ないところでよ、と付け加えるとゆうりは置いていた箸を再びとった。


 食事を終えて外に出ると、空気は一層冷え込んでいた。
 吐き出す息が白くけぶる。
「君は、誰か大事なひとがいるの?」
 父親として、少し気になっていたことを思い切って尋ねてみた。自分が結婚した年をゆうりはとうに過ぎている。
 ゆうりは少し頬を赤らめて──それは酒か寒さのせいだったのかもしれないが──小さく頷いた。
「君が選んだ男なら大丈夫だと思うけど、どんな男?」
「おとうさんみたいな人」
 そう言うとゆうりはくすっと可笑しそうに笑った。
「それは駄目だ。僕みたいな男と一緒になったらろくなことはない。やめておきなさい」
「おとうさんみたいに本がとにかく大好きで、夢中になったらどこへでも飛んでいっちゃうの。でもおとうさんのそんなところも彼のそんなところもわたしは大好きだから平気」
 その時自分はどんな顔をしていたのか、晋一は想像できなかった。
 ただ、口元がだらしなくにやけていたことだけは間違いない。
「だったら──」
 空を見上げる。
 少し欠け始めた月が輝いている。
「自分がこうしたいとか、こうして欲しい時はちゃんと言うんだよ。君のおかあさんみたいに」
 ゆうりはにっこり微笑んで大きく頷いた。
 この娘が結婚する時は、自分は父親としてその宴に顔を出すことは出来ない。万が一招待してくれたとしても、出席することはないだろう。
「僕はあの月のように、遠くからずっと君の幸せを願っているから」
 陳腐な歌の歌詞のような台詞を言ってしまった、と思わず顔を顰めて苦笑いすると、ゆうりは手を伸ばして晋一の手をとった。
「ねえ、そこまで手を繋いでいきましょう。子供のころのように」
「え、恥ずかしいだろう」
 不倫カップルじゃあるまいし、いい年をして手をつないで歩く父娘なんて、と手を外そうとするとゆうりは一層強く晋一の手を握りしめる。
「わたしがそうしたいの。いいでしょう?」

 やっぱり僕は、彼女らには逆らえない。
 晋一は照れくさいやら嬉しいやらどんな顔をして歩けばいいのか迷ったまま、娘の手を握り返した。
 娘の手は、暖かかった。




禁無断複製・転載 (c)Senka.Yamashina

これは「恋愛お題ったー」で出題されたキーワードを元に即興で創作したお話です。
テーマ:ヤマシナセンカさんは、「夜の映画館」で登場人物が「出会う」、「雷」という単語を使ったお話を考えて下さい。

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