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癒さぬ傷口が 栄光への入口

『アンメット-ある脳外科医の日記-』《2024春/月22:00》(終了)

2024-07-10 | テレビ。
画像は内容とは関係ありません。
焼肉丼の写真でもあったら良かったのだが。


2024年春ドラマ(4月期)面白かったドラマの個別感想、続きましてこちら。


アンメット - ある脳外科医の日記 -
カンテレ 月曜22:00

=スタッフ・キャスト=

カンテレ公式
原作:子鹿ゆずる 漫画:大槻閑人
脚本:篠﨑絵里子
監督:Yuki Saito 本橋圭太 日髙貴士
出演:杉咲花 若葉竜也 岡山天音 生田絵梨花 野呂佳代 千葉雄大/井浦新

【主題歌】OP:上野大樹「縫い目」/
ED:あいみょん「会いに行くのに」

=イントロダクション=
川内ミヤビは、かつて将来を嘱望される優秀な若手脳外科医だった。
一年半前、不慮の事故で脳に損傷を負い、記憶障害という重い後遺症を負うまでは。
現在彼女は、過去二年間の記憶がすっぽり抜け落ちた上に、今日のことを明日には全て忘れてしまう。
誰と何を話し、何に喜んで何に悲しんだのか。翌日には全てリセットされてしまうのだ。
許された仕事は看護師の補助だけ。医療行為は一切NGで手術などもってのほかだ。
「私には今日しかない。だからせめて、今日できることをやろう。」
そう決めたミヤビは、今日の出来事や患者の状態、
細かい会話の内容からその時の気持ちに至るまで、毎日を詳細な日記に綴る。
毎朝5時に起きてはそれら全てを読み返し、記憶を補って新しい一日を始めているのだ。
ミヤビは、そうやって日々を、努めて明るく前向きに生きている。
「私はまだ、医者なのだろうか。」
この思いには、完全にフタをして。

そんなミヤビの前に現れた男。アメリカ帰りの脳外科医・三瓶友治。
診断能力も手術の腕も超一流だが、陰気な上に態度は不遜で超マイペース。
謎だらけの変人・三瓶は、ミヤビの記憶障害を知った上でなお、こう言い放つ。
「ただでさえ人手が足りないんだから、できることはやってもらわないと。」
強引な三瓶の導きによって、ミヤビはもう一度、脳外科医としての道を歩むことになる。

この前代未聞の挑戦を、ミヤビの主治医である大迫紘一も応援。
周囲の心配や反対を受けながらも、ミヤビは着実に、脳外科医として新たな一歩を踏み出していく。
しかし、やがてミヤビの“消えた2年間”の記憶の中に、
様々な謎や人間関係が隠されていることが分かってくる。
今は取り出せなくなっているミヤビの記憶の中にある、大きな秘密とは。そしてミヤビの“本当の思い”とは?
“記憶障害の脳外科医”再生の行方はーーー



この作品を見始めるにあたって、私の中に蟠りが二つあった。
ひとつは、「カンテレ制作の医療ものは信用するべからず」
世間的には評判高かったらしくシリーズ化され劇場版まで作られた「チーム・バチスタの栄光」。
放送当時あまりにもあまりな出来だったので私はこのブログでけっこう辛辣に感想を書いた記憶がある。というかいまだに時折アクセスがある。
そのシリーズの他にも、いくつかの医療ものを(医療もの自体は好きなのでとりあえず見る…)見てはみるものの毎度ガッカリしていたものだった。そうして出来上がった「カンテレ医療ものは信用するな」は心の掛け軸に大きく掲げられていたのだ。
もうひとつは、脚本家・篠﨑絵里子。
この人の作品履歴を見ても、これまで私が「面白い!!」と好きになったドラマが一本もなかった。
(一番は朝ドラ『まれ』…)
ただ、近年は特にWOWOWオリジナルドラマで原作つきのサスペンスなどを手掛けていることが多く、そのあたりは見られていないものも多い。だから一概に私に合わない作家だとは決めつけたわけでもないが、やっぱり「(好きだった)あの作品を書いた人か!」という印象って大きいんだなと思う。

そうやってあまりよろしくないフィルターを付けたまま第一話を見終わった時に、横っ面を張り倒されたような気がした。
これ、もしかして何かとんでもない作品を見ようとしている?


『セクシー田中さん』問題があったこともあって、原作、とりわけ漫画原作の実写化作品は今とてもやりづらい状況だと思う。見る側も作品の出来不出来以上に懐疑的に作品を見るだろうし、原作者を含め制作関係者もうっかりした発言をすれば言葉尻をとらえたり切り取られたりしていつ何時大炎上するかもわからない。
この作品「アンメット」は原作の漫画作品自体にも、「原作/作画」の二人のクレジットがある。元脳外科医である子鹿ゆずると作画の大槻閑人。
原作は(いつものように)未読なのだが、原作の主人公は三瓶であり、ミヤビではないと聞いて大丈夫かなと思ったのは確かだった。
しかしドラマが始まった直後ごろ、公式サイトに上がっていたプロデューサーと原作者の対談に気付いた。
色んな局からドラマ化のオファーはあったらしく、その中で「ミヤビを主人公に」という企画で持ってきたカンテレを原作者自身が選んだこと。原作者が自分では描き切れていないなと思っていた「川内ミヤビ」を、主人公にすることでより深く描いてもらえるのではと判断されたこと。対談を読むとそういう流れがわかって、まずは主人公変更の件への不安は消えた。

「いつかドラマになったら…」が現実に。 原作漫画家・大槻閑人が杉咲花と若葉竜也の芝居に賛辞! 第1話の放送で涙を流した理由を明かす



第1話の冒頭。
朝、目覚めるミヤビ。目覚まし時計にヨレヨレの付箋で「おはようございます。まず机の上の日記を読むこと」と書かれている。枕元のスマホを手に取ると同じようにヨレヨレの付箋に同じことが書いてある。
「?」が浮かんだ顔で机の上の日記を手に取ると、その表紙にも「7時までにこれを全部読むこと」と付箋。
こういうの、知ってる。
認知症の人が生活する上で、生活必需品のありかやしなければならない事を大きく目立つところに貼りだしてあるやつだ。
ページを捲ると、その最初のページに「私は事故の後遺症で記憶障害があり、事故前の半年を含めて約2年の記憶が無く新しい記憶が1日しかもたない。寝て起きたらすべて忘れている」という旨の説明が書かれている。
すでに膨大になった革表紙のノートのページの隅がくたびれていて毎日それを繰り返していることを表していた。
記憶を失う以前から知っている人のことは覚えているから、それ以降に知り合った人は写真を貼り付け説明書きしてある。出勤して何事もないように「おはようございます」と笑顔で挨拶する看護師や研修医もそうやって「今朝覚えた人」。

冒頭から2分ほどで、記憶障害のある”医師”川内ミヤビは現在どのように毎日を送っているのかをすべて説明してしまった。
「記憶を失っているミヤビが今日新しく覚えること」としてそれがこちらにも共有されているからただ説明を聴いただけではない説得力だ。

この朝のミヤビのルーティーンはこのあと終盤まで何度も何度も繰り返し映し出される。
見ている視聴者はすでに知っていることなので省略されている内容も多いが、その繰り返されるルーティーンを映し出すことで、ミヤビの記憶が昨日と繋がっていないことを視聴者側がうっかり忘れることもない。そんな大事なことをうっかり忘れそうなほど、昼間のミヤビはまるで昨日と記憶が繋がっているかのように生活しているのだ。それは毎朝あの膨大な日記を読んで覚え直すという大変な努力が支えている。
そしてその繰り返されるルーティーンがあるからこそ、昨日と違う朝を迎えた時の違和感が大きい。

主人公であるミヤビ自身が怪我による脳の後遺症に苦しんでいる。その治療は可能なのか、そもそも事故がどうして起きたのか、後遺症は本当に”後遺症”なのか。ミヤビが失っている2年の間に何があったのか。そういった『川内ミヤビ』に関するストーリーが縦糸、そして毎話ミヤビや三瓶が出会う『患者とその家族の現在と未来』の物語が横糸となって様々な色合いのドラマを展開していく。
脳梗塞、脳出血、脳動脈瘤、もやもや病、髄膜種、事故による外傷、悪性の脳腫瘍…
脳の病や怪我は生命に直結する。そしてたとえどんなに優秀な脳外科医が、例えば”ゴッドハンド”みたいな現実離れしたような医師が、奇跡のような手術をして患者を生還させたとしても、その前の状態に戻れるとは限らない。
脳の手術をした患者はそこからが本当の(後遺症との)闘病なのだとひとつひとつの症例で見せていく。
原作者の子鹿ゆずるがこの物語で描きたかったもののひとつは『脳の病気とその数多い種類の後遺症を世の中の人に知ってもらいたい、少しでも理解を深めてもらえたら』ということだったという。
そういった意味で、この『ミヤビを軸にしながらも様々な患者の様々な症例、そしてその後遺症との向き合い方』をきちんと描いていくことは原作者の意思に沿ったものだったと言えるのではないだろうか。
言われてみれば、これまで医療ものドラマは好きで様々見てきたけれど、脳外科の患者が脳の手術を終えてからの後遺症の方に重きを置いた描き方をしたものを見たのは初めてかもしれない。
以前『アライブ がん専門医のカルテ』というドラマを好きで見ていた。
それは、華麗な手術でがんを取り除く外科医ではなく、がん治療のスペシャリストである腫瘍内科の医師が主人公だった。その時もこの切り口は珍しいなと思ったのだが、今作を見ていてなんとなくあの作品を思い出したりもしていた。

話が少し逸れるが。
私が好きな”SUPER EIGHT”の安田章大は、髄膜種の後遺症で光に過敏になり、てんかん発作を起こしやすくなっているという。抗てんかん薬の服用もしている。このため日常生活でも光からの刺激を和らげるために『色付き眼鏡』を使用しているのはそろそろファン以外の人にも知られ始めているのではと思う。
2018年に脊髄、腰骨を骨折した安田。この骨折を公表した時も「発作で転倒し」といった表現だった。自宅のどこで転んだら腰の骨を折ったりするのだろうと思ってはいたのだが、最近その状況を詳しく話すようになった。
風呂の浴槽に浸かった時にてんかん発作が起こり、身体が”腰の骨が折れるほどに”反り返ってしまった、そこで意識を失い、湯船に溺れたような状態だったという。たまたま友人たちが遊びに来ていたタイミングでそれにすぐに気づいて救出してくれたから死なずに済んだ──。
アンメットの中で、ミヤビにも、そして患者たちにも何度かてんかん発作が起こるくだりがあった。
これは当然役者さんたちの演技なので痙攣は起こしていても反り返るといった表現ではなかったが、見ていて『章ちゃんはこんな感じで折れるまで反ってしまったのか…』と思わずにはいられなくなって、ストーリーとは関係なくはあるけれど見ていて胸が締め付けられるような気持ちだった。
また、ドラマ内で皆のいきつけの居酒屋の主人が髄膜種で、摘出手術をすることでもしかしたら味覚を感じる神経を傷つけてしまう=料理人として致命的な後遺症になる危険がある、という展開があった。第一話でも、下積みを経てやっと主役を手に入れられそうなところだった女優が脳梗塞の後遺症で失語症になるエピソードがある。
安田も髄膜種の手術のあと、少し言葉が出にくくなっていた時期があったという。タレントとして、歌手として、致命的なことになる危険とも隣り合わせだったのだな、と思う。
(話が逸れたので戻す)

主人公ミヤビとそれをとりまく人々だけでなく、1話限りのゲストである患者の1ケース1ケースとても丁寧に、真摯に作られたことが見ているこちらにも伝わってくるようだった。
だから、たとえば30分前に初めて触れたこの人物の人生に思わず涙してしまったりもするのだろうと思う。派手に悲劇的な場面や泣き叫ぶ家族などいなくても、いや、だからこそ染みこむように彼らの葛藤や苦しみや勇気や希望が人の心を震わせるのだろう。

各方面から驚きと賞賛を贈られたもののひとつに、後遺症を負った患者から見える世界が映像的に表現されていたことがある。失語症になった女優が話そうとしても言葉が出てこない表現だけではなく、その耳に夫や医師看護師らの言葉がどのように聞こえているのか。文字がどのように見えているのか。それを映像的表現で「見せる」。私も過去のすべての映像作品を見たわけでは当然ないのでこんな表現いまだかつてないなどと断言する気はないけれど、ハッとさせられる演出だったのは確かだ。
そこには、脳の疾患や怪我の後遺症を負った本人が見る世界を少しでも伝えたいという作り手の矜持が感じられる。



登場人物の性格や関係性などは原作のある話なのでもちろんそれに準拠したものだと思うのだが、そこに配置された役者たちの演技がそれぞれ本当に自然で、あれは脚本のあり方、監督の撮り方も大きく関係しているのだろうとは思う。いい脚本・いい演出に撮られたらどんな大根役者だって自然な存在感を持った人物になるんだろう。ただでさえそうなのに、ミヤビの杉咲花・三瓶の若葉竜也を筆頭に演技オバケ揃いだった。
その結果、「テレビドラマ」を見ている筈なのに時折「ドキュメンタリー映画」でも見ているのではと思える瞬間さえあった。
この作品、肝心な場面で完全に科白がなくなるところがよく出てくる。
目は口ほどに…と言うが、目だけのアップも多い。印象的なのは手のアップ。
眼球の動き、微かな眉の角度、瞼の開き具合。今にも泣き出しそうな赤くなった目。指の挙動。震え。
会話の合間の(ドラマにしては)長すぎる「間」。
どんな科白よりも、それらが彼ら一人一人の思いや感情を雄弁に語っていた。

とにかくセリフが聞き取れれば話はわかるとばかりに配信サイトで倍速設定にしてドラマなどを見る層が増えているというのは、見逃し配信が当たり前になった頃にはすでに言われていたことではあった。確かに、そうやって見れば筋書きだけは「見た」ことになるだろう。どういう話でどんな展開をしたかはそれでわかる。
けれど、こういう「間」が醸し出すニュアンスは等倍速でしっかり診なければ受け取ることは出来ないだろう。
5秒の沈黙があったとして、それを3秒に縮めたらその5秒の沈黙が語った筈の空気は多分1秒分も伝わらない。
だから、この時代にこうしてたっぷりの間をとり科白に頼らず役者の演技に委ねた演出は、きっと役者の演技だけでなく我々視聴者のことも信頼してくれていた賜物なのだと思う。
そしてこの作品の高評価は、その信頼通りきちんとそれを受け取れる視聴者が多くいたという証左だったのではないだろうか。


ミヤビの失われた約2年の記憶の中にあった三瓶との出会い。学会で滞在していた国で巻き込まれた感染症。そうして二人で過ごした時ミヤビが三瓶を救った言葉。
それは三瓶にとってはそれまでの人生の中で一番幸せで「心の中に灯すあかり」だった記憶のはず。
皮肉にもミヤビが失ったのはその記憶。
あの無表情の下で、三瓶は何度絶望の淵を覗き込んだのだろうか。
それでもその淵に堕ちなかったのは三瓶の心の中にはすでにミヤビというあかりが灯っているから。
「記憶は消えても強い感情は残ります」という言葉は三瓶自身を励ます言葉でもあったのかもしれない。

「アンメット」とは「満たされない」という意味。
ものに光を当てると影ができる。その影を消そうと別の方向から光を当てるとまた別の影ができる。
「僕はまだ光を見つけられていません」
という三瓶の言葉に、
出会ったころのミヤビと、その時の記憶を失っているはずのミヤビが同じことを言う。
「光は自分の中にあったらいいんじゃないですか」
きっと、三瓶が何度同じところで立ちすくんでしまっても、
何度だってミヤビは同じように答えるのだろう。

毎日リセットされる記憶。
「私は今日出来ることをやるしかない。私には今日しかないんだから」
と書いていたミヤビが、それを消して
「私の今日は明日につながる」
と書き残した日記。
リセットされた記憶の中でそれを読んでいるだけのはずのミヤビが、しかしいつのまにか「自分の今日が明日に繋がる」ことを疑わなくなっていく。
それが「今日が明日に繋がっている」ということ。たとえ蜘蛛の糸のように細く頼りないものでも。
そして、ミヤビ自身の記憶に残っていなくても、その日のミヤビが生きて人と触れ合って話して悩んで行動した結果が、患者に勇気を与えたり仲間の人生と関わったりそうして彼らがミヤビを救うために動き出してくれたりしたそのことすべてが、
ミヤビの『今日』が『明日』に繋がったことの証明になっていたのだ。


この作品の中では、似たような場面が繰り返し、あるいは少しずつ形や状況を変えて何度も登場することがあった。
それは、数々のさりげない、あるいはとても大切な光景を記憶していることのかけがえなさを伝えるためだったのかもなと思う。

術後、まだ目を覚まさないミヤビを見つめる三瓶。
目を覚ますミヤビ。
これまでは毎朝最初に顔を合わせた時に「脳外科医の三瓶友治です」と自己紹介していた三瓶が何も言わずにミヤビの顔を見つめる。
「わかりますか」
戸惑ったような顔から、涙が浮かんでくるミヤビの目。
「わかります」

ドラマとしての物語は、そこで終わった。
静かで、何も語らないけど、この上なく幸せなラストシーン。


第一話の冒頭から最終話のラストシーンまで、余計なものも欠けたものもない、完璧なストーリーだったなと大袈裟でなく思う。
素晴らしかったところを上げ始めたらきりがないのでこのへんで締めたいと思います。

主演の(敬称略)杉咲花、若葉竜也は当然だけど、
周囲を固めた井浦新、千葉雄大、野呂佳代、岡山天音、生田絵梨花をはじめ病院のスタッフのキャスト、毎回の患者たち、すべての出演者の皆さんにも感謝を。(個人的には院長と師長のコンビが大好きでした。病院ものでこんないい人の院長なんかめったに出てこないよ!ってくらいいい人だった…)
そして原作・作画のお二人はもちろん、演者と密にコミュニケーションを取りながら仕上げていった脚本の篠﨑さん、演出のみなさん、そして米田プロデューサー。
素晴らしいドラマをありがとうございました。

ごちそうさまでした!!!
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