ライオンの詩 ~sing's word & diary 2

~永遠に生きるつもりで僕は生きる~by sing 1.26.2012

宇宙人と呼ばれて。

2014-09-19 18:39:56 | Weblog


病院というものは、そういうものだ。
何度か入院ってものをしたことがあるが、病院ってのは、常にそういうものなんだ。

下半身強化リハビリが僕には気づかせてくれたのは、「自分は歩ける」という自覚。
傷をかばって、痛みが出ないように、ソロリソロリと歩いていたけれど、普通に歩いても大丈夫なんだということに気づかされた。

これが大きかった。

少々の痛みは、回復への通り道。だと思い始めた。
早く回復して、元気になりたい。と、思い始めた。

ベッドの上に寝転がってばかりいるのはつまらない。と、思い始めた。
前向きなココロは、細胞を活性化させる。と、信じ始めた。

これが大きかった。

入院してから15日目の回診の日。主治医の先生は僕にこう言った。

「だいぶ元気になりましたね。もう埼玉の方に戻れそうですね。来週退院しましょう」

あまりの急な宣告に、僕は驚いてしまった。
あと一ヶ月か、あと二ヶ月か・・・退院はいつなんだろう?雪が降る前には帰りたいな・・・とかね。

あまりの急な展開に、僕自身が驚いてしまった。

僕も驚いたが、もっと驚いていたのは、周りの人たちである。

同じ病棟で、僕が死にかけちゃんで運ばれて来た頃を知っている人は特に驚いていた。

「超人なんですか?」

僕が、ついこの前まで、生まれたてのカモノハシくらいのスピードでトイレに向かって歩いていたのを知る人も驚いていた。

「サイボーグなんですか?」

退院が決まったんだよぉ!と、嬉しそうに報告する僕に、みんなは色々な言葉をかけてくれた。

「宇宙人に連れて来られたんですか?」

とかね。


僕が、退院に則した状態なのかは、僕にもよくわからない。
だって、予定よりだいぶ早い退院だからね。

でも、病院というのは、元気に歩き回る人をずっと入院させておくような場所ではないんだよね。
そういう人は、「通院しなさい」ってことだね。
つまり、君は遠方から来てるので、この病院からは退院して、地元の病院に通いなさい。ってことだね。

そわなわけで、急な展開ではありますが、

「明日、退院します」

やっほー!

やったー!!

超人万歳!!!

心配かけたね。家へ帰るよ。

サイボーグと呼ばれて。

2014-09-19 17:06:32 | Weblog


僕は、僕が知らないうちに、少しずつ回復していた。

僕は、僕が知らないうちに、少しずつ少しずつ、凄まじい勢いで回復していた。

生まれたてのタズマニアンデビルくらいのスピードでしか歩けなかった僕が、驚異的な早さで普通に歩けるようになったのには、理由がある。

それは、理学療法士の上村さんによるリハビリのお陰だ。

僕のリハビリは、他の人のリハビリとは少し違っていた。少し違っていたではなく、まったく違っていた。

まともに歩くことも出来ない僕に、理学療法士の上村さんは、相当なメニューを課した。相当なリハビリとは、相当にハードなリハビリという意味だ。

折れた肋骨に響かないことなら、なんでもやらされた。

バランスボールを使った、腹筋、背筋。

壁に背中を付けて、いわゆる電気椅子の状態からの上下動。

スクワットウォーキング。これはキツイ。こんなこと、病人にさせてもいいのか?というくらいにキツイ。
汗が吹き出して来ても、構わずにスクワットウォーキングは続く。

ふくらはぎを鍛えるための運動。これは説明出来ないけれど、脚の痙攣が終了後30分も続くほどキツイ。地味にキツイ。

リハビリの最後には、必ずサイクリングマシーンが待っている。
サイクリングマシーンをただ漕ぐだけでも、死にかけちゃんの僕には相当な意味があると想うのだけど、そうはいかない。
負荷をかけて、ペダルを重くする。そして、回転数を指定される。回転数とはスピードのこと。このスピードは日に日に上げられて行く。
ペダルを漕ぐこと15分。脈拍は常に120~130を指し示す。

リハビリ室を出る時に、噴き出すほどの汗をかいているのは、いつでも僕だけだったような気がする。

僕は、キツイメニューを課されるたびに、理学療法士の上村さんにこう問いかける。

「これって・・・アスリートがやるトレーニングじゃないんですか?病人がやってもいいトレーニングなんですか?」

理学療法士の上村さんは、そのたびにこう答える。

「そうですよ。アスリートがやるトレーニングですね。しんぐさんは、下半身に怪我はないので、アスリート扱いなんです」

とね。

つづく。

超人と呼ばれて。

2014-09-19 16:35:54 | Weblog


超人は、存在するのか・・・

超人が、存在するかどうかは、わからないな。

でも、たぶん、きっと、僕は、超人なのかもしれない。


三週間前、確かに僕は、死にかけ人形みたいになっていた。

それは、自分でもそう想ったし、他人から見てもそうだったんだと想う。

最低でも二ヶ月くらいの入院と言われていた。
ベッドに磔にされた寝たきりの僕は、その言葉でさえも、希望的観測の数字だと想ったくらいだ。

日々は過ぎる。

入院から一週間後に、全身麻酔をかけて開胸観血手術。手術を終えた時は、あまりの苦しさに悶絶した。

また、日々は過ぎる。

リハビリが始まる。
この頃から、僕のココロは完全に前を向き始めたのだと想う。

蚊の鳴くような声しか出なかったのが、普通の声に変わってきた。

車椅子に乗せられて、階下へ運ばれるだけでもヘトヘトヘロヘロになっていたのが、自力で歩けるようになって来た。

歩くスピードが、歩き始めの赤ちゃんくらいのスピードだったのが、生まれたてのカピバラくらいのスピードになった。生まれたてのカピバラって歩けるの?知らないけど。

歩いて行ける場所がトイレだけだったのが、階段を使って下の階まで行けるようになった。

売店に行って、アイスクリームを買えるようになった。売店のおばちゃんは、僕を見てとても驚いていたけどね。

内緒で、病院の外の喫煙所に、タバコを一口吸いに行けるようになった。肺が壊れてるから、お医者さんに絶対ダメって言われてたけどね。

赤く染まった白眼は白く戻って来て、破れた鼓膜は塞がって来て、まっすぐ歩けるようになって来て、病院の隣にある川沿いの公園のベンチが、暇な時の僕の居場所になってきた。
病院の規則で、公園に行く土手を越えるのは絶対禁止ってなっていたんだけどね。

つづく。

生、ゆで、半熟、温泉、味付け。

2014-09-19 08:43:59 | Weblog
北海道へ旅立つにあたって、僕は、我が家の電気のブレーカーを落としてきた。
ブレーカーを落とすということは、電気が消えるということ。電気が消えれば冷蔵庫も切れる。つまり、冷蔵庫の中にモノが入っていてはいけない。つまり、旅立つまでに、冷蔵庫の中身を空にしなければ!ということ。

ねぶた祭りに行く前も、八丈島に行く前も、八丈島から帰って来てから北海道へ旅立つ前も、僕はずっと、冷蔵庫に入っていた食品の片付けに追われていたんだよ。



病院のご飯は、想像以上に美味しくない。
毎日三食、規則正しく、病院のご飯。

唄は歌える。唄が歌える。

2014-09-18 22:59:34 | Weblog


ここ最近、病院に入院しているわけなんだけど。
だから、ここ最近、そうなってしまった経緯とか、そうなった上での心持ちとか、心情の変化とかを書き綴ってきたわけなんだけど。

もう少しだけ、そんなのの続きみたいのを書くことを許して欲しいなと、想ったりするのだな。


ICUで目覚めた時のことは、前の記事に書いた。
自分の身体の部位の無事を確認したというところ。

指と手と腕の動きを確認した僕は想った。
「良かった、ギターは弾ける」

足先と脚と膝が曲がることを確認した僕は想った。
「きっと歩ける。立ってギターが弾ける」

喉を震わせて声を出してみた。ひどく掠れて、ひどく小さかったし、ひどく苦しかったけど、声が出た。
「うん、きっと歌える」

それは、ちょっとした奇跡なのだと想う。
生きていたことが奇跡なのは、当然のことなのだけど、唄を歌うための何一つも奪われなかったこと・・・これも正しく奇跡なのだと、僕は想う。
だって、指が一本動かなくなるだけだ、今までのようにギターは弾けない。

ベッドの上で、そんな奇跡を確認した時、僕の唄を愛してくれる、みんなの顔が浮かんだんだよ。
ストリートに来てくれるみんな。
ストリートに来てくれたみんな。
ストリートで出逢ったみんな。
ライブに来てくれるみんな。
ライブに来てきれたみんな。
ライブで出逢ったみんな。
数え切れないくらいの人の顔が、僕の頭の中を駆け巡った。

僕がこんな姿で寝ている姿を見たら、みんな泣いちゃうだろうなぁ・・・なんて想ったから、心の中でこう想ったんだよ。

「また歌えるから、大丈夫だよ」

僕は、唄歌いだからね。


最近、考えていることはね、

「復活ライブ、いつにしようかなぁ」

とかね。

十月の終わりとか、歌えるようになってるかなぁ・・・とかね。

場所はどこがいいかなぉ・・・とかね。

しっとりと歌えるから、下北沢ラウンがいいかなぁ・・・とかね。

みんな来てくれるかなぁ・・・とかね。

ソールドアウトになるかなぁ・・・とかね。

ラウンに問い合わせて、日程決めちゃおうかなぉ・・・とかね。

でも、まだ、ギター触ってないからなぁ・・・とかね。

ギターは弾けるけど、ちゃんと声が出るのかなぁ・・・とかね。

ギターも声も出ると想うけど、120パーセントの力で歌ったら、肺が耐えられるのだろうか?肋骨は大丈夫だろうか?・・・とかね。

でも、 やっぱり早く歌いたいなぁ・・・とかね。

やっぱり、早く、みんなに逢いたいなぁ・・・とかね。

みんな、来てくれるかなぁ・・・とかね。

最近、考えているのはね、

「ほんとにね、そんなことなんだよ」


相棒Forever。3

2014-09-17 08:27:44 | Weblog


94823.8。
九万四千八百二十三点八キロメートル。

憧れの十万キロを目前にして、マグナちゃんダウン。ノックダウン。あと五千キロちょいだったのにな。
夢を果たすのって、そんなに簡単じゃないんだな。

それでも、地球を二周分、僕とマグナは旅をした。色んな所を旅をした。めまぐるしく旅をした。
マグナは僕を、何処へでも連れて行ってくれた。僕が行きたい場所なら、何処へでも。行ける場所なら、何処へでも。

よく頑張ってくれたな・・・と、心から想う。
暑い日も寒い日も、いつも馬車馬のように走ってくれた。
雨の中も風の中も、時々雪の中も。

事故があって、事故に遭って、マグナちゃんは動かなくなってしまった。ボロボロになって、動かなくなってしまった。

幾人かの人はこう言った。

「バイクが身代わりになってくれたんだよ」

僕も、そう想った。

よくはわからないけど、マグナが僕を跳ねあげて、ガードレールを飛び越えさせた。そして、マグナは逆さになってガードレールに突っ込んでいった。

マグナが僕を助けてくれたような気がしてならなかった。

想うたびに、泣けてくる。

信じられないと想うけど、信じられないくらいの時間を共に過ごして来たからね。
いつもそばにはマグナがいて、同じ景色を見てきたからね。

マグナが僕を助けてくれるようなことがあっても、全然不思議ではない。そんな気がする。

マグナに逢いたいなぁ・・・と、毎日想う。

タンクを撫でてあげなければいけない。
旅が終わると、いつも「ありがとう」とタンクを撫でた。

タンクを撫でてあげなければいけない。

「助けてくれて、ありがとう」と「たくさん、ありがとう」と、撫でてあげたい。

マグナに逢いたい・・・と、毎日、想う。

傷だらけだけど、元気だろうか?
僕と同じくらいに。

おわり。

相棒Forever。2

2014-09-16 08:20:21 | Weblog
今回の旅も、荷物満載の旅だった。何しろ、北海道に二ヶ月半。あわよくば、その後そのまま九州へ。さらにあわよくば、屋久島や沖縄へフェリーに乗って。来年まで旅が続くかもな・・・という旅である。荷物も多くなるというものだ。

クレイジーホース、北海道スペシャルエディションと名付けた積載方法も、今では迷いなくチャッチャとパーフェクトにこなす。

今回は定住型の旅になる。しばしの辛抱だ。と、重い荷物を引っ張るマグナちゃんに言い聞かせ、まずは新潟港まで300キロ弱。


僕はまだ、その後のマグナとは対面していない。
マグナはしばらくの間、新潟の湯沢辺りの自動車工場で保管されていた。

写真は見た。

事故現場のマグナと、保管されているマグナ。

でも、よくは覚えていないんだ。

よく見なかったのかもしれない。

事故直後で頭がボーッとしていたのかもしれない。

だから、その後のマグナの姿を思い出そうとしても、なかなかうまくいかない。


交通機動隊が撮ってくれた写真、事故現場の写真には、ワイヤーのガードレールに突き刺さったマグナの姿が写っていた。マグナは上下逆さまになって、ガードレールに刺さっていた。

ガードレールに刺さるまで、何回転したのか、半回転しかしなかったのか・・・それはわからない。
縦に回ったのか、横に回ったのか・・・それもわからない。

ただ、時速100キロ近い速度でガードレールに激突した。

マグナはもう、転がすことも出来ない状況だったと。
ガードレールから引き抜くのに、重機を使わなければならなかったと。

そんなふうに、僕は聞いた。


マグナの写真を見せられたのに、僕はほとんど覚えていない。

認めたくなかったからだと想う。
泣きたくなかったからだと想う。

まだ、認めたくなかったからだと、僕は想うんだ。



相棒Forever。

2014-09-15 09:23:58 | Weblog
涙ぐんでしまう話。

もうすっかり、元気になってきた僕なのだけど、いまだに、涙ぐんでしまうトピックがある。

ICUにいる時、僕は長い長い夢の中で、自分が病院にいるのであろうことを知った。
目が覚めると、色々な管が繋がれていて、着ていたはずの服は脱がされて、青と白のギンガムチェックのパジャマを着せられていた。
目が覚めて、自分が、確実に病院にいると、自覚した。

でも、なぜ病院にいるのかは分からない。混乱している。事故に遭った記憶はない。混乱している。夢の中の出来事が本当に起こっていたことなのだもしても、それそえもほとんど思い出せない。

ただ、確かなのは、北海道へ向かっていたはずの僕が、北海道には辿り着いていないということ。だって、フェリーに乗った記憶がない。

自分の身体を一通り眺め回して、相当な事故に遭ったことは分かる。色々な所が痛い。そして、呼吸が苦しい。鼻にもチューブを入れられている。

僕は考えた。

手はあるのかな?指先を動かしてみる。
「手はある」
脚は動くのかな?両脚を動かしてみる。
「脚もある」
声は出るのかな?そっと声を出してみる。
「ひどく小さいけど、声も出る」

なんだ、どこも取れてないじゃないか。どこも悪くないじゃないか。

「早く北海道に行かなきゃ」

たぶん、二、三日は入院かな。右肩がひどく動かし辛いし、右胸もちょっと痛い気がする。
息が苦しいのは、明日には良くなるだろうし・・・、うん、九月の羅臼の祭りには間に合うな。早く北海道へ行かなきゃ。

ホントのホントに、そう考えていた。

そこで、ふと思った。

「マグナちゃんはどうしたのかなぁ?」

「あれ?・・・マグナちゃんはどこにいるのかなぁ?」

「あれ?・・・さっきまで一緒だったのに・・・あれ?」

僕は、もう一度、自分の身体を眺め回した。

僕がこんな状態になっていて・・・マグナちゃんが無傷なわけがないことくらいはわかる。。

「マグナちゃんは今どこにいるのかなぁ?」

「大丈夫かなぁ?」

「北海道、行けるかなぁ?」

痛み止めを点滴から注入し続け、ボーッとしている頭で・・・
僕はそんなことを心配していたんだ。

どんな風に生きる。最終回。

2014-09-13 21:20:42 | Weblog


どんな風に生きるか?
それは、それぞれの自由。
どんな風に生きたっていい。
どんな風に生きたって構わない。
自分の人生だ。自分の命だ。
好きに生きて構わない。

つまり、どんな風に生きてもいい中で、
どんな風に生きるのか?
それが、ひとつ、重要な問題だということ。

キミは、どんな風に生きる?

指針。方向。ベクトルの向き。たどり着きたい場所。

そしてボクは、どんな風に生きる?


僕は、不遇と言える事故に遭った。

ありがたいことに、たくさんの励ましや心配の手紙を頂いた。みんな優しくて、涙がポロリポロリと零れたりする。
僕みたいなロクデナシに、愛をありがとう。と、ココロから想う。

たくさんの手紙の中には、そうじゃないものもある。
「ざまぁみろ!」とか、「死ねば良かったのに」とか。
ある意味、差出人の「素敵すぎる趣味」に、感動したりする。最高に恨まれてるなぁ、と。
僕みたいなロクデナシに、最適すぎる評価じゃないか、と。

そこにも、一つの答があるのではないかと、僕は想う。
どんな風に生きようと、自分が幸せならば、それでいいと。

人を恨みながらでも、妬みながらでも、悪態をつきながらでも、そんな自分をココロから幸せだと想えるのなら、その生き方は正解なのだろう。
方程式に当てはめれば、自ずと、そうなる。

ボクは、どうだ?

僕が幸せだと想うことは、なんだ?

キミは、どうだ?

君が幸せだと想うことは、なんだ?


例えば・・・
どうしようもないやり切れなさの中で、
打ちのめされた悲しみの中で、
やり場のない怒りの中で、
傷つけられた心の痛みの中で、
胸を締め付けられるほどの切なさの中で、
ひとりぼっちの寂しさの中で、
取り残されてしまった孤独の中で、
例えば・・・
傷つけてしまった後悔の中で、
例えば・・・
取り戻せない後悔の中で、

どんな風に生きる?

キミは、どんな風に生きる?

ボクは、どんな風に生きる?

方程式に当てはめると、自ずと、どうなる?


ボクは・・・笑いながら・・・いきたい。
出来ることなら、ボクは、笑顔のままで、いきたい。


『どんな風に生きる?』


カズヤくんとユキノちゃんの話。

ユキノちゃんのお腹が大きい。来月には待望の赤ちゃんが生まれる。

僕は、僕自身は、こんなに傷だらけなんだけど・・・、とても幸せな気持ちになる。

カズヤくんは事故の影響で、運転を控えているらしく、奥さんのユキノちゃんが、往復二時間の道を運転して、病院まで見舞いに来てくれる。

「妊婦さんなんだから、無理しちゃダメだよ。無理に来なくていいからね」と僕が言うと、ユキノちゃんはこう答えた。

「わたしが来たいから来てるんです。しんぐさんの話を聞くのが楽しくて。ここに来るのが、楽しみなんです」


僕は、実際、まだ、答を、見つけてはいない。
まだまだ、答はみつからないのかもしれない。

どうして、僕が事故に遭ってしまったのか?
神様は、僕に何を望んだのか?
大いなる魂は、僕に何を与えようとしたのか?

・・・さっぱりわからない。

今は、まだ、わからなくても、いい。

これから、傷を治して、旅に戻って、旅をしながら、探そうと想う。
たくさんの出逢いを繰り返しながら、迷いながら、間違えながら、探そうと想う。

いつか、きっと、答は、見つかる。

笑いながら、語りながら、歌いながら、懐かしがりながら、笑いながら、肩を叩き合いながら、握手を交わしながら、探そうと想う。

この命が、尽きるまで。

『どんな風に生きる?』

ボクは、そんな風に生きる。



PS.

北海道へ行く時は、必ず新潟を通ることにしようと想う。

カズヤくんとユキノちゃんの子供が生まれて、歳月とともに大きく育っていく。
その成長する姿を目にすることが出来たなら、僕は、それを、本当に、幸せなことだと想う。

ココロから、そう想う。

今は、新しい命が、無事に元気に、この世界に生まれ来ますように・・・祈る。


~どんな風に生きる。終わり~



どんな風に生きる。3

2014-09-13 00:11:35 | Weblog
斜めに割かれた鎖骨を繋ぐ手術。それをするために、一週間待たなければならなかった。
なぜなら、肺に血が溜まっていたから。肺に溜まった血がなくなるのを待つのと、傷んだ肺の回復を待つのとで、一週間。

何も出来ず一週間。
骨がブランブランに折れたままの一週間。
手術待ちの一週間。

この間に、僕はICUを脱し、第二病棟の個室に移された。そこでしばらく経過を観察。手術の前に第五病棟に移された。

入院四日目にして、尿管に刺されたチューブを抜いてもらった。
どうしても嫌で、嫌で、わがままを言って抜いてもらった。
上にも下にもチューブが付いてるなんて、我慢ならない。

人間というのは不思議なもので、同じ状態でいられるなら、その状態に慣れて行ける。
つまり、骨がブランブランに折れていようとも、その痛みには次第に慣れてしまうということ。

少しずつ、口に入れられるものも増えて来て、おかゆ一口とか、おかゆ二口とか、おかゆ三口とか。状態は安定していたように思う。
全身麻酔の手術を控えていて少しナーバスではたったものの、状態は安定していたように思う。


夜。

「こんばんは」という声とともにカーテンが開く。

そこには、カズヤくんとユキノちゃんが立っていた。

驚いた。心から驚いた。何しに来たんだろう?と思った。驚いた。ドギマギした。

傷はどうですか?とか、手術はいつですか?とか・・・。
当たり障りのない質問がいくつかあって・・・。
ごめんなさい・・・とか、どうもすみません・・・とか、ありきたりなやりとりがいくつかあって、話すことなんてなくなる。

どうして、話すことがなくなるか。。。それは、被害者と加害者だから、かな。わかんないけど。

僕の中には、悔しいとか、なんで?とか、色々な感情はあるのだけれど、
怒りとか・・・恨みとか・・・そういうのは、もう、なんだか全然無くて。

そうしたら、「もう、いっか」って気持ちになるんだね。なるんだよね。

被害者とか加害者とかじゃなくて、ケガしちゃった人のところへ、ケガを心配してくれる人が来てるっていうシチュエーションなら、話すことがなくなるなんてことはない。
普通に喋ったり、語ったり、笑ったり、すればいい。

そもそも、僕は、喋ったり、語ったり、笑ったり、笑わせたりするのが得意じゃないか。

「また来てもいいですか?」
二人は僕にそう聞いた。

「もちろん。手術が終わったら、様子を見に来てね」
僕は笑顔でそう答えた。

なんか、なんだか、心のモヤモヤが晴れた気がした。
なんか、答が、見つかったような気がした。

許すとか、許さないとかじゃなくて。
許したとか、許せたとか、そういうのじゃなくて。
全然関係のないもの。

その時に僕が想ったこと。

「僕は、あの二人に、僕の人生を語るために、人生を教えるために、事故に遭って、ここに、いるのかもしれない」

答なんて、なんだっていい。そんなこと知ってる。
自分で考えて、自分で導き出す答なんて、どうだっていい。そんなことも知ってる。
でも、あったって、なくったっていいわけじゃない。答は、絶対に必要なんだ。

その答が、カランコローンと音を立てて、転がった気がした。

手術を受けて、早く怪我を治そう。そう想った。
早く全部を治して、早く旅に戻ろう。そう想った。

僕の心が、さっきよりも晴れて、さっきよりもずっと軽くなった。
自分が、そうありたいと想える自分でいられる。

二人が会いに来てくれたお陰だ・・・そんな風に僕は想った。

つづく。

どんな風に生きる。2

2014-09-12 22:29:08 | Weblog


新潟といえば・・・良寛和尚。
偉大な人です。
朝ごはんと一緒に牛乳がでます。・・・良寛牛乳。

良寛和尚は、牛乳は飲まなかったはずだけどね。

「ぼろの衣、また ぼろ ぼろぼろ これ我が生涯

食は道々の乞食で食いつなぎ

家は 蓬(よもぎ)が生える家

月の夜は 一晩中 詩歌や句を作って過ごし

花の美しさに見とれては 家に帰るのも忘れる

寺社(円通寺)を出てから このような姿

どう言い訳も出来ない(あえて、その真相(真実)を説き明かすことも出来ない、これが我が生涯)」

風雅に生きた良寛和尚の言葉だ。憧れてしまう。

牛乳を見て、「これかな?」と想ったりした。新潟で事故に遭ったのは、良寛牛乳に出会うためかな?

でも、この頃は、口に入れるものすべて、吐き気を誘発していたので、良寛牛乳を飲んでオェッとなって、「これはきっと違うな」・・・そう想った。

良寛和尚では、ない。と。


お見舞いはほとんど断っているのだけど、一組、何度も来てくれる人たちがいる。

カズヤくんとユキノちゃんという名の夫婦。年の頃は30歳くらいかなぁ。といった感じ。
長岡市という、ここから高速で一時間離れた町から、いつも突然お見舞いに来てくれる。二人揃って。

初めて二人に出逢った時、僕は少し怒っていたのかもしれない。
頭の整理がつかなくて、身体がいうことをきかなくて、小さな声しか出なくて、怒れていたかどうかもわからないのだけど、たぶん、僕はやり場のない怒りみたいなものを抱えていたんだと想う。


僕が事故の被害者ということになるなら、加害者という人が存在する。

カズヤくんは、僕を跳ね飛ばしたワゴン車を運転していた、その人だ。仕事帰りに運転を誤って、僕のバイクに激突した。
ユキノちゃんは、カズヤくんの奥さん。
初めて会った時から、カズヤくんの隣で何度も頭を下げていた。

当たり散らす事が出来たなら、僕は当たり散らしたかった。
なんでぶつかったのか?
なんでぶつけたのか?
なんで狂わせたのか?
なんでこんなにチューブを付けられてるのか?
なんでこの骨は折れてるのか?
なんでこんなにズキズキするのか?
なんでバイクはここにないのか?
なんてことを・・・なんてことを・・・。

心ではね、想わないこともなかった。想ったと想う。
でも、まぁ、ここで言っても、ここで叫んでも、仕方のないことでして。
世の中って、そういうものでして。
というより、もう、起きてしまったことは、元に戻ったりしないわけで。
怒ったぅて、傷が消えて、痛みがなくなるわけではないわけで。
何も変わらないわけで。

僕は、彼にこう言った。

「僕は運良く命を取り留めたけれど、ほとんどの確率で僕は死んでいたでしょう。そしたらあなたは人を殺したことになる。これからは、もっと気をつけて運転をしてくださいね。ライダーとして一言。特に、バイクには気をつけてくださいね。車と違って、みんな一瞬で死んじゃうんだから。」

今の世の中は、それでじゅうぶんなんだ。
あとは、保険会社やら、代理人やら、弁護士やら、代わりの人が全部やってくれる。
起こったことはそこで終わり。そこで反省して、次のターンへ。

形式だけの挨拶の中で、取り乱したって、仕方が無い。そんなの、なんの意味もない。

そんなことよりも、僕が見つけなければならないのは、僕が生きていくための答・・・なんだ。


つづく。

どんな風に生きる。

2014-09-12 22:09:07 | Weblog
たぶん、僕は、一回、死んじゃったような気がする。

あの時、確かに、そんな感じがした。

意識が彷徨ってる時、夢の中を彷徨ってる時、なんとなく、そんな気がした。

目が覚めた時に、想った。
このまま目が覚めなかったら、死んでたってことだな、って。

死んじゃうって、そんなに大変なことじゃなかった。
死んじゃったあととかは、さぞ大変なんだろうけど、死んじゃうってこと自体は、そんなに難しいことじゃなかった。
・・・結局、死んでないけど。
ただ、目が覚めないってことなだけだ。・・・死んでないからわかんないけど。

みんな、生きてますか?
僕は、生きてます。きっと、誰よりも、生きてます。


生き残ったあとで、頭が思考出来るようになって、色々なことを考えた。ただただ、考えに考えたという話は、何日か前にした。

五日目の朝に、答がどこからか転がり落ちて来たって話も、何日か前にした。

どうして、答が転がり落ちて来たのかって話は・・・まだしていない。

僕は幸運にも命を取り留めた。深い傷を負ったにしても、幸運にも命を取り留めた。
当たり前の話だが、命を取り留めたからにはこれからも生きなければならない。

でも、僕の人生は少し狂ってしまった。予定や計画が狂ってしまうかのように、人生が少し狂ってしまった。
狂ってしまったあとの、僕の人生はどうしたらいいのか。

何が言いたいのか・・・つまり。

「神様が僕を止めるなら、僕は行くわけにはいかない・・・どこにも」

だから、僕はずっと考えていた。
この事故やこの傷が僕に与えるメッセージは・・・なんなんだ?

つづく。

理学療法士の上村さん。

2014-09-11 22:48:25 | Weblog
初めての外国はオーストラリア。
行ってしまえばなんとかなるさ!と渡った異国の地。英語、話せず。聴けず。
ホテルの部屋が取れない。お腹が減っても注文が出来ない。行きたい場所があっても聞けない。
なんとかなったことなんて一つもない。
赤ん坊に戻されて、街の真ん中に放り出されたような不安を抱えて、滞在予定は一年間。

「生きることから、やり直しじゃないか」とつぶやいた、あの頃の自分。



作業療法士と理学療法士の違いってわかるかな?
おれはね、ちょっとわかってきたよ。

リハはね、あっ、リハビリはね、作業→理学の順で行われる。僕の場合は。

作業療法士の小林さんと投げない輪投げで遊んだ後は、部屋が変わる。

理学の部屋では、理学療法士の上村さんが待っていてくれるのだ。

理学療法士の上村さん。かみむらと読む。かみむらというのは、この地方の読み方らしい。まぁ、普通はうえむら?

この地方にはかみむらさんが殊更多いみたいで。
理学療法士の上村さんではなく、作業療法士の上村さん曰く
「僕の弟の中学生の頃のクラスにはかみむらが8人いたそうです」

わかるかな?日本で一番多い苗字は佐藤。二番目は鈴木。だとして。
僕らの学生時代にどれだけ佐藤と鈴木がいたか。クラスに8人佐藤がいたか?

いないっすよぉ。

理学療法士の上村さん。とてもいい人なのである。
辛いリハビリも、隣で一緒にやってくれる。心強い。
でも、こちらは病人なわけで、色々と痛いわけで、どこも痛くない上村さんが隣で同じことをしてくれても、イーブンじゃないというか、フェアじゃないというか・・・上村さんはもうちょっと負荷をかけたらいいんじゃないですか?と、そんなことを思わないわけでもない。

理学のリハビリ初日の話。

上村さんがストローと風船を持って来て、仰向けに寝転がっている僕に手渡す。

「じゃあ、これを膨らませてください。大丈夫です。膨らみやすいように、しずかちゃんの風船を選んで来ましたから」

何を言ってるんだろう、この人は?

風船を膨らますリハビリとか、聞いたことないし。
そんなのリハビリじゃないし。
そんなの簡単だし。
お茶の子さいさいだし。

ストローの先に風船を差し込み、プーっと息を吹き込む。

あれ?

ぷー!

あれ?

どうしちゃったのかなぁ。

ぷー!

あれ?

特殊な風船をなのかなぁ?全然膨らまない。

すがるように上村さんを見る。

「やっぱり。。。肺の機能が相当弱ってますね。。。さぁ、がんばって、膨らましましょう!」

風船を見ると、しずかちゃんのイラストが描いてある。
しずかちゃんのイラストが描いてある風船は膨らませ易いのかなぁ?

風船も膨らますことが出来なくなってしまったなんて・・・ショックでかくないか?

肺挫傷。血胸。肋骨6本骨折。僕の右胸は、予想よりもだいぶ役立たずになっているようだ。だって、風船も膨らますことが出来ないなんて。

ぷー、ぷー、ぷー。とね。

ぷー。ぷー。ぷー 。とね。

あきらめずに、ゆっくりと、少しずつ。

しずかちゃんのイラストがしっかり見えるくらいまで膨らませて行く。
それを5セット。

ぷー。ぷー。ぷー。とね、右斜め上の小さな窓からのぞく青空を見上げながら、ぷー。ぷー。ぷー。とね、想うんだよね。

「風船を膨らませることこら、やり直しじゃないか」・・・とね。
ちょっと涙ぐみそうになりながらね。
でも、ちょっと笑いながらね。

作業療法士の小林さん。

2014-09-10 21:58:36 | Weblog
手術が終わって、リハビリが始まる。

リハビリ・・・初体験。

昔、ストリートやポスカのお客さんの中に、作業療法士や理学療法士の学校に行っている子達がチラホラいて、「で、それって、何やる人なの?」と、僕がよく聞いていたのを覚えている。
それは、リハビリの指導をする人だったような気がする。

看護師さんが僕に言う。

「しんぐさん、リハは何時から?」

えっ?リハ?リハーサル?えっ?リハ?えっ、なんで?リハーサル?

と思ったらリハビリのことをリハとか言っちゃうってね。驚くっつぅの。まだ歌えないっつぅの。

で、リハビリ室。

目の前のテーブルの上に、輪投げが置かれる。

「おっ、輪投げで遊ぶの?ちょー楽しそう。でもな、怪我してるからな。うまく出来るかな。やるっきゃないな」

と、僕は思う。僕は思うよ。

作業療法士の小林さんは、言う。クールに言うね。

「ここに、輪投げの輪が30本ありますね。これを、一本ずつ外して横に置いて、全部終わったら、一本ずつ元に戻してください。はい、スタート!」

えっ?輪投げなのに?投げないの?輪投げなのに?うそ?まぢ?一本も?うそ?ほんとのほんとに?

これが、リハビリってやつなんですか。もちろん、終わったら、「はい、もう一回!」

うそ?ほんとのほんとに?また投げないの?

これがリハビリってやつなんですよ。リアルに。

そして、これが、結構、来るんですよ、右腕に。
つまり、現時点の僕の存在は、目の前の輪投げも投げられない、木偶の坊みたいな存在ってことなんです。


何日か後。

また、輪投げを置かれる。
もう嫌だぁ。
輪投げ、投げたい。

輪投げなら、投げたい。

輪投げなのならば、投げたい。

投げたいです!


作業療法士の小林さん。「じゃあ、重たいやつに変えますか」

えっ?鬼?重たいヤツ?違うよ、輪投げが投げたいんだよ。重たいのはイヤだよ。鬼なの?

作業療法士の小林さん。「これを全部外したら、戻す時は投げて入れていいですよ」

ヤッホー!!!

そんなわけで、毎日、座って、輪投げの輪を、外したり、戻したり、そんなことをしています。

あぁ、疲れる。

僕の深刻な申告。

2014-09-10 00:54:23 | Weblog
顔面の右側を強打したためだろう。右の耳の鼓膜が破けたみたいだ。

入院して、日に日に身体の痛みが増して行った。昨日痛まなかった箇所が今日は痛み始める。それが強烈な打撲ってやつだそうだ。

右肘に大きなガーゼが貼ってあることに、一週間後に気づくなんてこともあった。右腰の側部にも巨大な擦り傷があり、大きなガーゼが貼ってあった。
カーゴパンツはハサミで切られたはずではあるが、傷をみるかぎり、転倒により相当破れていたのかもしれないな。などと、ふと思ったりする。


僕はミュージシャンなのでね。一応、ニューアルバムをりりーしたばかりのミュージシャンなのでね。鼓膜が破けるの困る。ちょっと困ったりする。

事故後、耳の聞こえが悪い気がした。左耳が抜けない感じがする。こもった感じというのか。

主治医っぽいお医者に、その旨を伝えると、その赤く曇った右目を眼科で診てもらうついでに、耳鼻科にも言ってきな!とのことなので、行った。

行ったというのは間違いだ。僕は一人では動けない。車椅子でさえ一人では漕げない。車椅子に乗せられて、後ろから押されて行くのである。つまり、連れていかれた。連れて行ってもらった。が正解。

耳鼻科のお医者は、こう言った。

「あぁ、右耳の鼓膜が破れてるね」

へぇ。そうなんだ。へぇ。それはいいとして、僕が聞こえが悪いと言ってるのは左耳なんですがね?

「左耳?・・・気のせいなんじゃない?だって、右耳、破れてるし」

ということで、僕の申告は無視。僕の感じることなんて無視。だって、右耳が破れてるしね。

ミュージシャンとして大丈夫なのか?ってことだね。

鼓膜なんて、放っておけば元に戻るそうですよ。左耳は治るかどうかわからないけどね。

あのね、もともと難聴気味で音なんてほとんど聞こえないんだから、鼓膜が破けたくらいで騒ぐんじゃないよ!とかちょっとでも思った人はね、明後日あたりに有罪判決が出るから、気をつけた方がいいと思うよ。ほんとに。


現在、左耳も右耳も、聞こえは良好であります。