白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

炭鉱の労働争議「松葉いぶし事件」(公務員の生涯・その2)

2009年01月30日 | Weblog
私が住んでいた町は、平家の落ち武者の里と言われていた。
その佐賀県堺にある小さな炭鉱の町、長崎県北松浦郡世知原町は、維新前の戸数は僅か三百、人口千人であつた山村が、昭和二十五年には戸数二千戸を超え人口は一万人を超えている。その年に朝鮮戦争が勃発した。
前年からの松浦炭鉱の労働争議は、なお活発化し、組合員の座り込み、デモ行進、ハンストの続行、一月十九日には全国的に知られた炭鉱職員社宅への松葉いぶし事件が発生した。
その後、警察庁舎が全焼、飯野松浦会館が全焼、そして検察と警察による権力の介入、企業用心棒による暴力行為、建物破壊などで組合員の逮捕へと発展していったのです。これによる松浦労組のレットパージが行はれて五十人が追放されたのである。この闘争は、全国的にも数少ないものと言われている。
 とくに二十五年一月十九日に発生した「松葉いぶし事件」は大量に刑事責任を問われるに至り、炭鉱仲間では、百日闘争と共に今でも語り継がれているといわれている。この闘争時の組合員は、男が一千四百七十七人、女が三百七十九人で合計一千八百五十六人を数えていたと言われている。その頃、マッカーサ元帥は、日本共産党の行動を非難し、断固たる措置をとる態度を声明した。この年に、世界を驚倒させた朝鮮戦争が勃発した、このとき左派系のあらゆる機関は北朝鮮を支持し、南朝鮮が挑発したものだと反論した。これを知ったマッカーサ元帥は、六月二十六日には共産党機関紙「アカハタ」の発行を停止した、それを手始めに弾圧的措置を強行した。七月十八日アカハタの後継紙発行の停止、引き続き新聞及び放送事業から赤色分子の追放が発表された。これに引き続き官公労、公企体労働者、教育関係に広がり、やがて全産業にレットパージの風が吹いたのである。
外輪山に囲まれた小さな街の真中を佐々川が流れている、洗炭水で真っ黒になった水が、佐々町まで流れていた。その近くに、山口神社裏の佐々川から採取した、砂岩で建築された大きな炭坑事務所が建っていた。受け銭(給料)の日の松浦通りは、炭鉱夫で大賑わいである、アンケードのある商店街松浦通りが繁盛していたのである。そのアーケドを取り囲むように炭坑の長屋が密集しており、その長屋に千八百人の炭坑夫と八千人のその家族がひしめき合って暮らしていた。
 いま、私の脳裏に強く残っているのは、国家管理体制を確立した中での炭鉱の労働争議がある。労組の婦人部員が、頭に「闘争」と書いた鉢巻をしている“立て万国の労働者”労働歌を叫び子供達はドラム缶を叩いている。昭和二十五年一月に起きた「松葉いぶし」事件である。「資本家を殺せ」出てこい、「いぶり出せ」労働者の目は血走っている、たいまつの中の顔、顔、顔が社長宅を取り巻いている。焚き火がパチパチと音を立てて、男達の顔を赤々と照らし出している。青々とした松の葉に火を付けようとしている、家の中に居る人をいぶり出そうとしているのである。敗戦後のこの時代、ソ連と中国共産党が朝鮮半島を占領して、日本国まで侵入しょうとしていた、之を阻止したのが朝鮮戦争である。このソ連共産党の片棒を担いだのが日本共産党による「松葉いぶし・百日闘争」である。世知原町で起きたこの労働争議はマツカーサー元帥の指令によって終結したのである。
こうした全国の労働争議の引き金になったのが、資本家と軍国政府の人権差別の一部である。職務上知り得た一部をここに紹介しておこう。炭鉱のあった市町村の戸籍係には、炭坑長屋に住んでいる人々の炭鉱戸籍があった。この「炭鉱戸籍」の住所欄には南坑、本坑、中央坑、新坑等と坑口を中心とした名が書かれていた、世帯主欄には採炭夫とか掘進夫・雑夫と職種が記載されており、妻の名称蘭には「婦」と書かれていた、二人妻の人は「婦」「婦」と記入されていたのである。
その「炭鉱戸籍」に登録されていた彼らには、国家権力と資本家の管理の元で蔑視と飢えに喘ぎながら、生きてきた永い過去を背負っていたのである。心の中では人権復活を叫ぶ・炭鉱人の差別との闘いだったのであろう。こうなれば、労働争議ではない、差別闘争であり集団リンチだったのである。
少年時代に、こうした炭坑町で育った私は、少なからずこの時代の感化を受けている。この時代の洗脳が、私を常に戦略と闘争心に燃えた町つくり構想に専念させ、私の公務員生活を庶民中心主義にさせていたのだと思う。写真は、新坑石炭ポケツト・右奥に松浦会館が見える、会館は昭和25年7月2日に出火全焼した(北島万七氏撮影)

世知原町で起きた労働争議の背景 (公務員の生涯・その1)

2009年01月29日 | Weblog
私は、外輪山に囲まれた、川のある静かな山村の町役場に四十二年間勤めて定年退職した。誰から中傷されようとも、利権に群がる烏合の衆には成らなかった。それを人生訓としてきた、今からも、悠々自適な人生を送ろうと思っている。その上、念仏を聞きながら臨終を迎えたい、常に死をイメージしてトレーニングしておこう、死の作法を心得ておこう、これを臨終訓として一生を終わりたいと願っている。なんと欲張り者である。
 向日葵の花は、陽のあたる方向ばかり向いているが、夕顔の花は暗い場所でなければ花を咲かせることが出来ないのだと、そう自分に言い聞かせ諦めて生きて来たようでもあるが。いま、私の体の中で何かが起こっている、過去の出来事が走馬灯のように蘇ってくる。
私は、昭和十一年に生まれた。この年に国内では、皇道派青年将校らによる二・二六事件が発生しており、我が世知原村では、中倉万次郎翁の村葬が行はれ、飯野海運株式会社が買収した松浦炭鉱株式会社が設立した年である。
三本煙突の立つ炭鉱町に育った私の少年時代と言えば、昭和二十二年の総選挙で第一位となった社会党が、初めて片山連立内閣で炭鉱国管法などを通過させながらも、連立内閣の弱みで社会党らしい政策が実現出来ずに、次の年には辞職した。
三月十七日には芦田内閣が成立したが、昭和電工の疑獄事件が発生して、第三次吉田内閣が成立するなど、政局の不安が続いていた。
 当時は、松浦炭鉱会社側から物資の配給がされており、炭鉱の労働組合では、この野菜や魚の買い出しに立ち会い、勤労者の待遇改善と賃上げ闘争が繰り広げられていたのである。
昭和二十四年GHQは日本経済の自立促進のために、経済九原則(ドッヂライン)で為替レートを一ドル三百六十円に設定し、シヤープ使節団による税制勧告などを行った。ここで日本経済は一大変貌をとげることとなった。この中で世知原町では松浦炭鉱の労働争議がピークに達していた。この続き「松葉いぶし事件」などを赤裸々に掲載します。乞うご期待あれ。
写真は、駅前の踏切を通過する石炭輸送の貨車(昭和28年頃)明治29年にこの松浦炭鉱降炭鉄道完成以来、県北最初の鉄道として、小佐々の臼浦港まで石炭を運んだ。正面先に見える山は東八天岳です(北島万七氏撮影)

囲碁打ちは親の死に目に会えぬ (白骨の道・その8)

2009年01月26日 | Weblog
囲碁文化の発展に貢献した人物を顕彰するために「囲碁殿堂資料館」が東京都千代田区の日本棋院東京本院内にある。
初年度に殿堂入りしたのは囲碁振興に貢献があった徳川家康、近世囲碁の開祖とされる本因坊算砂、敵なしと称され元禄期の隆盛を導いた本因坊道策、近代布石の基礎を築いた本因坊秀策の四人である。
ところで、「囲碁打は親の死に目に会えぬ」という言葉を聴くが、これに関して「御城碁」を調べてみると、年に一度、江戸城内で将軍上覧の対局が行なわれていた、この御城碁に出場できるのは、四つの家元の当主と跡目相続人、それに七段以上の実力者による他流試合だった。いつたん、対局場に入ったら勝負がつくまで、どんな事件があっても外出は許されない、たとえ親が死んでも当然のこと「囲碁打ちは親の死に目に会えぬ」というのは、このことを言っている。
つまり当主、跡目、七段のように親の死に目に会えない身分になるなと言うことである。
ちなみに、私事だが、昭和三十六年の農業基本法の制定を待って、板山機械化茶園と黒石地区茶園の造成計画に着手した、同時に国有林払下げ計画書の作業を行った。この時五百ヘクタールの西の岳国営放牧場の計画にも着手していた。県庁とのヒヤリングと遭わせて熊本林野庁職員労働組合との交渉などで数ヶ月の徹夜残業続が続いた。三十四年に取得した運転免許もこの時に失効した、この疲労が重なって四十才の厄年に佐世保市役所の玄関で倒れた、過度の疲労から来た脳梗塞だと診断された。
そのとき同じ病室の囲碁三段の患者さんに勧められてリハビリに碁石を握ったのが始まりで、病室で囲碁を打つうちに、コップも持てなかった左手と引きずって歩いていた左足が徐々に回復した。
その後八十八箇所巡礼と囲碁を続けて二年後にその成果がでた、それが日本棋院の初段免状である。
その後に、本議会開催中に妻の母親が亡くなった、その葬式に出席する事ができなかった。事務局長の仕事は、本会議や委員会で議事進行する為の議長や委員長の「口述書」を作成しなければならない。本議会開催の日には事務局長が議長の横に座って議長の補佐をするのである。また、当選直後は議会組織が出来ていないので、事務局長が初議会を召集して議員講習会をする、そして議長を選出するのである。
議会中は会議の記録をする、終了したら「議事録」を作成しなければならない。こうした執務で、私用よりも仕事が最優先します。この時期女性(議長の親戚)の部下が書記の職務を放棄したので、管理職会議で提案した結果、議事録作成を業者に委託することに決定した、なお今後は書記に女性を配置しない事を申し合せたのである。


昨日からの降雪で銀世界「末次精一後援会の新年会」

2009年01月25日 | Weblog
昨日24日12時から「末次精一後援会の新年会」が佐世保玉屋で開かれた。末次精一県議会議員は県北寒蘭会の名誉顧問で、石本名誉会長の後継指名を受けた事もあって同じ会員として出席した。黒髪町から副会長が出席、世知原町から私事務局長と理事長、事務局補佐、林けんじ市会議員が出席した。帰りに末次精一を熱く熱く応援する会である「精ちゃんクラブ」に加入した。寒蘭会の石鞍会長が出席していなかった事に不満の声も聞こえた。
行くときには、前夜からの降雪で道路が凍結して山越えの県道が交通止めになったので、佐々町廻の西肥バスに乗った。帰りのバス待ちの時には大雪となっていた、世知原町にバスが着いた時には目先が見えない程猛烈に降ってきた。その雪が今朝もまだ降り続いている。写真は、私の家の上を通る県道桜並木から、街中を見下ろしている、右前方が標高777メートルの国見山でその先が佐賀県の伊万里市・西有田である。

金子薫町長の町づくりは、佐世保市世知原町の桃源郷創りだったのです (白骨の道・その7)

2009年01月23日 | Weblog
昔の役場や病院は心の癒し場所だった、百姓の老人が片手に四合瓶をぶら下げて、ふらふらしながら役場に入ってくる。酒の臭いをプンプンさせながら、シベリヤ抑留や満鉄の話をしてくれました、中国の茶畑や桃源郷の話を懐かしく話してくれる。あるとき、満州鉄道の助役をしていた金子薫町長が「桃の花が一面に咲いて、そりゃー綺麗かった・・平和な村だったよ・・」懐かしそうに話された事があった。つづいて、金子町長は「世知原に桃と桜の苗木を一面に植えて、桃源郷にしたいね、そして老人ホームを建てればいいよ・・」と言われた事を思い出す。
昭和四十五年松浦炭鉱が閉山し、八千人近くの人間が都会に流出した、炭鉱の閉山処理の中で医療機関の継続と福祉施設の充実に行政の全勢力を注ぐこととなった。そこで、金子町長から、私が老人ホーム建設の特命を受けて、農業構造改善係(茶業・畜産)から福祉係に異動したのである。早速、松浦病院の内科と外科を存続させる為に、百名が入所出来る老人ホーム建設計画を立てた。まず五十床の養護老人ホームを設計した、松浦病院の音成院長と福祉事務所長と保健所長と金子町長と私の五人のスタッフが直接この事業に当たったのです。町行政の主導で医療機関と福祉施設を一体化した町づくりを推進したのです。
建物の入札から、内部器具の布団、箸、茶碗を揃えるまで、役場事務を遂行する傍ら私一人がこの事務に当たったのです。今では、この事を記憶している者は居ないでしょう。国・県・町の税金で建設した百床の老人ホームを松浦病院に併設して、世知原町の外科・内科を充実した救急病院の存続をはかったのです。病院敷地への町有地払い下げ、等により松浦病院の存続に行政が貢献したのです。
金子町長が将来私を助役にする、陣野町長からは社協会長をしてくれ、と依頼があったが、定年退職後は天下りを全て断って現在も趣味悠々の生活を送っている。写真は、松浦病院の昼休み昭和42年頃、玄関先に国鉄の鉄道が見える(北島万七氏撮影)

愛は奪うもの、情けは与えるもの (白骨の道・その6)

2009年01月22日 | Weblog
「愛」があれば何もいらない、と言う人が居る。
花に、茎も葉も根もそして地中の養分もあるように、私は「情(なさけ)」がなければ愛は育めないと考えている。私が、住民福祉課長在職のときには、年に一回八月に町内外の入院患者全員百二・三十人を、お見舞いしていた。
佐世保の千住病院など老人病院に行くと、オムツをされたお年寄りが、鼻と口にゴム管を入れられて、目だけ大きく見開いてベッドに寝かされている。お見舞いの声をかけても無言のままである。
労災病院には、頭をボーズに剃ったご婦人が、末期癌ですからね、もう家には帰れないでしょう、と私につぶやく。私が何時もお世話になっている友人の奥さんである、涙でその人の顔が見えない、返す言葉も無い・・
誰でも、陽の当たる自分の部屋で、苦しまずに眠っている内に息を引きとりたい。子供達には世話を掛けずに臨終を迎えたいと願っているでしょう。
 病院も、死期が近くなると、自宅の畳の上で臨終を迎えてやってはどうですかと言つて退院を促す。しかし、患者はモルヒネも使えないので、全身の痛みで苦しむ、小便も大便も垂れ流しである。オムツをしていても、両手で大便をつかんで口に持っていく、うわごとで下賎な言葉を叫ぶ、夫婦が二人で親の看病に当たる。
葬式が済むまで仕事にも行けないのである。その家の中は一瞬にして生き地獄になる。私は、脳溢血と肺がんで両親共に臨終のときには入院させていたが、延命処置は出来なかった。
どたばた苦しんで暴れている、その患者の息が止まるまで、体を抑えて見ていろというのか。どこまでが、愛情なのか?そして、介護と臨終の心得が今の私には出来ていない。日本の家にはどこにでも、キリスト教会が置いてある、ある外人が話していたという。昔の家には、仏間があり仏壇が置いてあった、そこで、誰もが、死者と先祖に手を合せる。私もそうしているが、意識が無くなってからの自分の死に様が心配である。臨終のベットで幼い頃の悲しい出来事(トラウマ)を大声で叫んでいた私の母親の声が今でも耳から離れない・・

金子町長が私の生涯の師です、脳梗塞で倒れてあの世から蘇えった私 (白骨の道・その5)

2009年01月21日 | Weblog
私が四十歳のとき、佐世保市役所の玄関で倒れた。西肥バスから降りて市役所まで歩道橋を二百メート程走った、玄関の案内係りの前で突然全身がだるくなり脱力で動けなくなった。喉がカラカラになって、言葉が出ない、住所氏名を書いた県民手帳を制服の内ポケットから出して受付に見せた、その後は意識を失って倒れていた。ピーホー、ピーポー救急車の声がかすかにしたようだ、京町の中央病院に搬入された。
板山茶園造成の農業構造改善事業計画書作成で、一年余り残業続きであった、そのうえ、ここ四、五日間の徹夜による疲労が原因で脳梗塞を起こしたのである。後遺症で左手足に麻痺が残った、コップを持てなかったのである。
倒れた時私は「空の上から世知原町の街中を見下ろしていた、国見山近くの空をふわふわと泳いでいた、明るくすがすがしい気持ちだった」突然苦しくなった、真っ暗な宇宙にいる、頭からまっ逆さまに落ちて行く、苦しいなんとも言いようの無い苦しみであった。ふと、目が覚めた、トンボの目玉のような電気が天井についている、ブルーの手術衣にメスを持った医師が三、四人上から覗き込んでいる。
その時に意識が戻ったようだが、その後は酸素吸入をしながら中央病院に入院していた、数日は意識がもうろうとしていたのである。
当時の金子町長が、私の耳元で「必ず助けてやるから、頑張れ」と叫ばれたそうだです。誰かが私を呼んでいる、かすかに聞こえた金子町長のこえで、意識がはっきり蘇ったのである。今でも、金子町長を私は「生涯の師」として、また命の恩人として感謝しています。
三ヶ月程入院していたが病名が判明しない、中央病院から長崎大学病院へ白バイ先導で搬送された、検査したが別に異常がない、疲労とストレスが原因だったのである。役場は公務扱いにはしなかった、障害が残っていたが退院と同時に勤務に付いた。私は、霊場弦掛観音のお世話で篠栗八十八箇所巡礼をした。
左の足を引き摺って歩いていたが、帰りには殆ど回復していたのだから不思議なことである。 
定年退職の年に人間ドックに入ってからは、毎月循環器科に予約通院をしている。定年してから、私は奥の八畳の部屋に、ベッドを買い込んで、バソコンを置いて一人で寝ている。私は女性との時間を週二回が望みであるが、毎週土曜日に妻の布団に行くのが妻との約束である。その頃、射精すると血液が混入している、前にもセックスのあと二、三日出血することがあった。
泌尿器の南先生の話では、前立腺で精液が造られて精嚢に溜められるが、このときに出血するのだろうと云うことである。溜まった精液は八回程の射精で出てしまうそうである。抗菌剤を二週間飲んで出血は止まったので、後は漢方薬の投与をうけた。在る日、病院で患者達が話している、心臓の止まった患者に向かって、「あんた、子供と奥さんば残して、死んどる暇なんかなかとばい、しっかりしなさいよ」と婦長が叫んだら、死んだ患者が生き返ったそうですよ、この話を聞いたとき、その婦長に心の中で合唱していた。(写真、左から二番目が、消防出初式での金子町長の勇姿です、写真提供は、北島万七さん)

人間は生きる為に豹変する・(白骨の道・その4)

2009年01月20日 | Weblog
 朝鮮動乱の戦争景気で、佐世保市は好景気に沸いていた。
その裏では、朝鮮戦線から佐世保の海軍病院などに、負傷した米兵が運ばれてくるのである、わが町では、米軍の委託で生鮮野菜を栽培していた。
通訳を連れて二名の米兵が、佐世保米軍基地からやってきた。平家の里と言われている開作の新規開墾地へ回虫検査にやってくるのである。検査している畑の横の木に、柿の実が赤く熟していた。もぎ取ってプリーズと言って見たが、ノーノーと言うだけである。
昭和三十年代、佐世保の青果市場では、当時、自衛隊が三億円、米軍関係が五億円、個人消費が七億円の需要があつた。私は、この佐世保青果市場を狙って、高冷地野菜の栽培に取り組んだのである。
第二次世界大戦で、世知原の山奥、木浦原地区に「日本海軍の兵舎」が設置されていた、かの誇り高き、大日本海軍の軍人七百人程がここに常駐していたのだからあきれたものである。すぐ近くの、伊万里に川南造船所があった、そこでは女学生が兵器を作っていると噂されていたが、なんとその兵器は人間魚雷だったと云う。
終戦近くになると、兵舎周辺の農家には、軍の毛布や海軍の缶詰、不思議なことにピアノまで農家の倉庫に格納されていた。後日に取りに来るからと言って、軍事品を農家に預けて帰郷したのである。
 また、戦後八千人の炭鉱人口を抱えていた世知原の農家は、食糧難で苦しんでいた炭鉱人に雑木林を開墾させて借地代を取った。
屎尿桶をリヤカーに乗せて来て、長屋の共同便所の肥やしを汲んで食べ物と交換していた。そして、朝早くから炭鉱長屋に薩摩芋や米、野菜を売り歩く声が響いていた。人間は、恥も見えも捨てて生きる事が出来る。あるとき突然に豹変する動物なのだ。
 ホルムズ海峡の紛争では、主婦達が、原油が不足すると大騒ぎをして、トイレットペーパーを買い込んだ、浴槽にまで保管しているので、風呂にも入れないと言ったのはそう古くない話である。
 昭和元禄景気では、国民全員を「不動産屋」にした、土地や家屋に投資してバブルが崩壊した。この前は「国民総評論家」となって森総理を辞任に追い込んだ、今度は「総政治家」になって、森派の責任者だった小泉純一郎を総裁にした。人間は、利権の為には突然に豹変するのである。

民族保存の為に性器を切徐する (白骨の道・その3)

2009年01月17日 | Weblog
眼が覚めると誰もいない、時計を見るともう十時になろうとしている。
ふと何かが頭をよぎった、アフリカでは「性器切除」の手術を受けていなければ、結婚出来ないという風習があると聞いたことがある。
イスラム教の男性はカツレツを受けているし、アフリカでは少女が三歳までに「クリトリスを切り取るという性器切除」をすると云う、今でも、毎年二百万人も強制されているといわれている。
これは、食料不足な国の人口調整対策であり、衛生対策なのである、これこそ彼等の部族存続の唯一な方法なのであろう。
他国(人)の文化を批判する時には、自分の文化の範囲で批判する。その前に、相手の伝統文化を理解すべきである、アメリカ人が標準ではない。
日本も村封建の悪風習や差別をなくして、住みよい日本国の文化を守りたいものである。しかし、最近の日本の女性は、顔を真っ黒に塗って、道路の端に座りこんでいる。口は大きく白く書いている。言葉もまともに話せない上に、ろくすっぽ字も書けない、まるでオランウータンである。
仕事もしないし、料理もしない、子供は虐待して殺してしまう、これは日本の文化でもなく、まともな人間でもない、今こそ日米の国会こそが「性器切除に関する法律」を制定すべきであるような気がする。
 十五、六年前になろうか、隣の町で、ママさんバレーの仲間達がこぞって海外旅行をした。その後、旅行をした御婦人が妊娠した、長年待ちにまっていた家族は喜んだ、双子の可愛い赤ちゃんを無事に出産した。ところが、その一人が真っ黒の赤ちゃんだったのである、近隣の町村までその話で持ちっきりになつた。その御婦人は、黒人とセックスした仲間の名前を暴露してしまったから、その町はたまったものではない。古今東西この問題は絶えないものである、外国のセックス政策を批判してミサイル攻撃したり、個人の夫婦セックスについて、他人がとやかく批判する権利はないものと思う。二日酔いなのか、昔の事を思い出す儘に書いてしまつてごめんなさい。

腐敗した死体と寝る公務員 (白骨の道・その2)

2009年01月16日 | Weblog
今日は朝から頭があがらない、頭の中がもやもやしている。役場で衛生係と福祉係りをしていた時の事が蘇ってきた。
昭和三十年代に福祉係りをしていた時のことである。突然官山の手入れをしていた農夫が、役場に飛び込んできた、黒石の炭窯で男が死んでいると言う。
早速、警察と町医に連絡をとった、ジープで現場に急行、炭窯に入ると大男が横たわっている。町医の鳥谷先生が検死にかかる、死体は男である、腐敗して丸く膨れあがっている。錆びたナイフが懐からコロリと落ちた。死体を動かした時のこと、スーッと腔門からガスが抜けた、鼻を突いた悪臭に全員が炭窯から跳び出した。雑木で作った担架に死体をくくりつけて、役場まで担いで山を下る、死体は石のように重い肩に食い込む、国有林の道なき道を黙々と歩く、役場の当直室に死体を運び当直室に横たえる。当直室で福祉係りの私が、死体と一緒に眠ったのである。
 また、江迎町の老人ホームに入所させた、身寄りの無いお年寄りが亡くなったときも、施設の死体安置室で、私が一人で御通夜をした。こうした、身元不明者は、福祉係りが火葬をして無縁仏として、町の無縁墓地に埋葬するのである。
 山深い我が町では、一年に数件、首吊り死体が発見される、死体を抱えて、首の縄を切ると、死体が圧し掛かって来る。ウジ虫が湧いている、異臭が鼻を刺す。
こうした、行路病死の世話は福祉係だと知っていても、私の仕事の内容を知っている者は居ないのである。今日は、二日酔いで私の体も生臭い。生くさいと言えば、衛生係りのときは、朝からし尿処理場とごみ処理場を運転する。し尿に第一硫酸鉄と石灰を加えて攪拌すると水分と分離して凝固する。
時には、し尿タンクが噴出して天上に当って頭から降り注ぐ事もある、近くに置いていたチャンポンを何とも思わずに喰った事もある。
羽付に、伝染病棟と町営火葬場が在った。火葬炉のロストルが高熱で曲がってくると、棺桶が入らなくなるので、私は、一人で火葬炉の中に入る。棺桶を乗せるロストルの下に潜って、三十キログラムくらいの鋳物のロストルを取り替える。炉の中は秋刀魚を焼いたように生くさい。
誰もが嫌がる仕事で在る、私一人で火葬室に入った時に、もし扉が閉まっていたら、と思うとゾオットとする。二日酔いなのか、今日はこんなことばかり思い出す。早く忘れたい。

世知原猟友会の料理風景です

2009年01月15日 | Weblog
私が、世知原猟友会の庶務会計を受け持っているので、本年21年度の世知原猟友会の開催通知を発送した。例年のように2月の第2日曜に行なう。私が在職時代に建設した農村公園集会所に、会員が12時に獲物を持って集まり、宴会開始は15時からである。炭鉱閉山前の全盛期には70数名の会員を有し、町会議員を立候補させるだけの勢力を持っていた。警察や町長等を招待して宴会を行い、銃による殺傷事件を起こすような会員は育てなかったのである。料理している獲物は、いのしし・うさぎ・きじ・はと・かも・ひよどり等である。猟銃が人を殺すのではない、人が猟銃を使って人を殺したのである、今回の佐世保市の猟銃による射殺事件は、大日本猟友会員の責任ではない、警察行政の怠慢と、両親の監視責任の怠慢から起きた事件だと私は考えている。

今年の元旦も銀世界

2009年01月01日 | Weblog
昨年に続いて今年の元旦も銀世界です。昨日から降り出した雪で山間地は正月早々から交通止めになつている。佐世保市内と大阪に住んでいる孫たちもお年玉を待っていることだろう。「世知原くんち」には大相撲を呼んで賑わっていた町も、炭鉱閉山と共にゴーストタウンと化してしまった。すり鉢の底ようなこの町は国見外輪山に囲まれている、この深山には寒蘭が自生しているので、昔から世知原寒蘭会が盛んである。

地を這いずり回った公務員の叫び (白骨の道・その1)

2009年01月01日 | Weblog
差別と権力に挑戦して、地を這いずり回った公務員達の真実の叫びを、赤裸々に描き出したいと思っている。私にはその叫びが今でも聞こえて来るのです。私は、少年時代を人口一万三千人の炭鉱町の繁華街で育った。
住宅の前にはシンボルノ三本煙突が立っていた、炭鉱の事務所や配給所や坑口があり、近くの駅には石炭を積んだ貨車が何列も並んでいた。
子供達は石炭を洗った排水で真っ黒くなった佐々川で泳いで成長したのである。兄弟五人の長男として高校を卒業と同時に、月給一万六千二百円で松浦炭鉱の経理事務試験に合格したが、父の勧めで初任給五千三百円の町役場に勤めることにした。今は人口四千二百人の過疎町になっているのである。
 私が永い勤めの中から思う事は、砂漠になる大昔の話ナイル川が氾濫するたびに多くの民が飢えていた。その救済としてビラミツドの建設工事が行われたと言われている。二千年の栄華を誇った古代エジプトのピラミツトは、失業救済のための公共事業だったのだと云う。氾濫で土地が肥沃になるので、化学肥料を使わずに、ダムも造らずに農耕を続けた民族の知恵だったとすれば、民を救うための行政能力に脱帽をするばかりである。
 私は、平成九年の三月に定年退職した、ある時にこんな夢を見た、私が砂漠を歩いているとどこにも道が無い、遠くに白いものが点々と見える。近づいて見ると、それは行き倒れになった人間の白骨である。
その先にも白いものが見える、それは先達者が歩いた人の道「白骨の道」だったのでしょう。はっとして目が覚めた。
 私の公務員生活は、戦後処理からバブルの崩壊までの四十二年間で、誰もが経験したことの無いような事件が多かった。まず、生活困窮者には毛糸のセーター編み機を貸し付けて、その製品を行政が商店に卸した、戦地からの復員軍人や満州国などからの引揚者へ恩給や国債の手続きをし、黒石及び板山開拓団入植の仕事をした、山林を開墾する一方で原野への植林と農林産物の増産に全力を注いできた。国有林を開墾して茅葺の小屋に電気も水道も無い、萱草の上に産まれたばかりの赤ちゃんが鳴いている、産婆さんも居ないので農婦が一人で出産したと言うのである。
二十九年七月には千三百人に及ぶ大集団赤痢が発生した、十一人の幼い子供が一瞬にして亡くなった、その子供の死体に合掌して私が一人で、クレゾール消毒液の入った噴霧器で消毒し納棺した。今でも夢に見て夜中に目を覚ますことがある。この時に、赤痢保菌者に整腸剤として試飲させたのが、現在のヤクルトで在ることを知る者も居ないだろう。私は、平成九年に町役場を退職した、四十二年間の公務員生活を忘れて、悠悠自適の第二の人生を送ろうとしているが、 昔の行政の実態を赤裸々に公開して、差別と村社会の権威に立ち向かい、地を這いずり回って村興しに努めた小さな虫達に敬意を捧げたいと思っている。写真は、新坑三本煙突と石炭ポケツト(昭和25年頃)三本煙突は松浦炭鉱のシンボルで、石炭運搬その他の動力源であつた。このブログに掲載する昔の写真は、北島万七氏が撮影されたものが多いと思います、本人のご了解を頂いて掲載していますのでご紹介しておきます。