白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

今年の元旦も銀世界

2009年01月01日 | Weblog
昨年に続いて今年の元旦も銀世界です。昨日から降り出した雪で山間地は正月早々から交通止めになつている。佐世保市内と大阪に住んでいる孫たちもお年玉を待っていることだろう。「世知原くんち」には大相撲を呼んで賑わっていた町も、炭鉱閉山と共にゴーストタウンと化してしまった。すり鉢の底ようなこの町は国見外輪山に囲まれている、この深山には寒蘭が自生しているので、昔から世知原寒蘭会が盛んである。

地を這いずり回った公務員の叫び (白骨の道・その1)

2009年01月01日 | Weblog
差別と権力に挑戦して、地を這いずり回った公務員達の真実の叫びを、赤裸々に描き出したいと思っている。私にはその叫びが今でも聞こえて来るのです。私は、少年時代を人口一万三千人の炭鉱町の繁華街で育った。
住宅の前にはシンボルノ三本煙突が立っていた、炭鉱の事務所や配給所や坑口があり、近くの駅には石炭を積んだ貨車が何列も並んでいた。
子供達は石炭を洗った排水で真っ黒くなった佐々川で泳いで成長したのである。兄弟五人の長男として高校を卒業と同時に、月給一万六千二百円で松浦炭鉱の経理事務試験に合格したが、父の勧めで初任給五千三百円の町役場に勤めることにした。今は人口四千二百人の過疎町になっているのである。
 私が永い勤めの中から思う事は、砂漠になる大昔の話ナイル川が氾濫するたびに多くの民が飢えていた。その救済としてビラミツドの建設工事が行われたと言われている。二千年の栄華を誇った古代エジプトのピラミツトは、失業救済のための公共事業だったのだと云う。氾濫で土地が肥沃になるので、化学肥料を使わずに、ダムも造らずに農耕を続けた民族の知恵だったとすれば、民を救うための行政能力に脱帽をするばかりである。
 私は、平成九年の三月に定年退職した、ある時にこんな夢を見た、私が砂漠を歩いているとどこにも道が無い、遠くに白いものが点々と見える。近づいて見ると、それは行き倒れになった人間の白骨である。
その先にも白いものが見える、それは先達者が歩いた人の道「白骨の道」だったのでしょう。はっとして目が覚めた。
 私の公務員生活は、戦後処理からバブルの崩壊までの四十二年間で、誰もが経験したことの無いような事件が多かった。まず、生活困窮者には毛糸のセーター編み機を貸し付けて、その製品を行政が商店に卸した、戦地からの復員軍人や満州国などからの引揚者へ恩給や国債の手続きをし、黒石及び板山開拓団入植の仕事をした、山林を開墾する一方で原野への植林と農林産物の増産に全力を注いできた。国有林を開墾して茅葺の小屋に電気も水道も無い、萱草の上に産まれたばかりの赤ちゃんが鳴いている、産婆さんも居ないので農婦が一人で出産したと言うのである。
二十九年七月には千三百人に及ぶ大集団赤痢が発生した、十一人の幼い子供が一瞬にして亡くなった、その子供の死体に合掌して私が一人で、クレゾール消毒液の入った噴霧器で消毒し納棺した。今でも夢に見て夜中に目を覚ますことがある。この時に、赤痢保菌者に整腸剤として試飲させたのが、現在のヤクルトで在ることを知る者も居ないだろう。私は、平成九年に町役場を退職した、四十二年間の公務員生活を忘れて、悠悠自適の第二の人生を送ろうとしているが、 昔の行政の実態を赤裸々に公開して、差別と村社会の権威に立ち向かい、地を這いずり回って村興しに努めた小さな虫達に敬意を捧げたいと思っている。写真は、新坑三本煙突と石炭ポケツト(昭和25年頃)三本煙突は松浦炭鉱のシンボルで、石炭運搬その他の動力源であつた。このブログに掲載する昔の写真は、北島万七氏が撮影されたものが多いと思います、本人のご了解を頂いて掲載していますのでご紹介しておきます。