白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

炭鉱の労働争議「松葉いぶし事件」(公務員の生涯・その2)

2009年01月30日 | Weblog
私が住んでいた町は、平家の落ち武者の里と言われていた。
その佐賀県堺にある小さな炭鉱の町、長崎県北松浦郡世知原町は、維新前の戸数は僅か三百、人口千人であつた山村が、昭和二十五年には戸数二千戸を超え人口は一万人を超えている。その年に朝鮮戦争が勃発した。
前年からの松浦炭鉱の労働争議は、なお活発化し、組合員の座り込み、デモ行進、ハンストの続行、一月十九日には全国的に知られた炭鉱職員社宅への松葉いぶし事件が発生した。
その後、警察庁舎が全焼、飯野松浦会館が全焼、そして検察と警察による権力の介入、企業用心棒による暴力行為、建物破壊などで組合員の逮捕へと発展していったのです。これによる松浦労組のレットパージが行はれて五十人が追放されたのである。この闘争は、全国的にも数少ないものと言われている。
 とくに二十五年一月十九日に発生した「松葉いぶし事件」は大量に刑事責任を問われるに至り、炭鉱仲間では、百日闘争と共に今でも語り継がれているといわれている。この闘争時の組合員は、男が一千四百七十七人、女が三百七十九人で合計一千八百五十六人を数えていたと言われている。その頃、マッカーサ元帥は、日本共産党の行動を非難し、断固たる措置をとる態度を声明した。この年に、世界を驚倒させた朝鮮戦争が勃発した、このとき左派系のあらゆる機関は北朝鮮を支持し、南朝鮮が挑発したものだと反論した。これを知ったマッカーサ元帥は、六月二十六日には共産党機関紙「アカハタ」の発行を停止した、それを手始めに弾圧的措置を強行した。七月十八日アカハタの後継紙発行の停止、引き続き新聞及び放送事業から赤色分子の追放が発表された。これに引き続き官公労、公企体労働者、教育関係に広がり、やがて全産業にレットパージの風が吹いたのである。
外輪山に囲まれた小さな街の真中を佐々川が流れている、洗炭水で真っ黒になった水が、佐々町まで流れていた。その近くに、山口神社裏の佐々川から採取した、砂岩で建築された大きな炭坑事務所が建っていた。受け銭(給料)の日の松浦通りは、炭鉱夫で大賑わいである、アンケードのある商店街松浦通りが繁盛していたのである。そのアーケドを取り囲むように炭坑の長屋が密集しており、その長屋に千八百人の炭坑夫と八千人のその家族がひしめき合って暮らしていた。
 いま、私の脳裏に強く残っているのは、国家管理体制を確立した中での炭鉱の労働争議がある。労組の婦人部員が、頭に「闘争」と書いた鉢巻をしている“立て万国の労働者”労働歌を叫び子供達はドラム缶を叩いている。昭和二十五年一月に起きた「松葉いぶし」事件である。「資本家を殺せ」出てこい、「いぶり出せ」労働者の目は血走っている、たいまつの中の顔、顔、顔が社長宅を取り巻いている。焚き火がパチパチと音を立てて、男達の顔を赤々と照らし出している。青々とした松の葉に火を付けようとしている、家の中に居る人をいぶり出そうとしているのである。敗戦後のこの時代、ソ連と中国共産党が朝鮮半島を占領して、日本国まで侵入しょうとしていた、之を阻止したのが朝鮮戦争である。このソ連共産党の片棒を担いだのが日本共産党による「松葉いぶし・百日闘争」である。世知原町で起きたこの労働争議はマツカーサー元帥の指令によって終結したのである。
こうした全国の労働争議の引き金になったのが、資本家と軍国政府の人権差別の一部である。職務上知り得た一部をここに紹介しておこう。炭鉱のあった市町村の戸籍係には、炭坑長屋に住んでいる人々の炭鉱戸籍があった。この「炭鉱戸籍」の住所欄には南坑、本坑、中央坑、新坑等と坑口を中心とした名が書かれていた、世帯主欄には採炭夫とか掘進夫・雑夫と職種が記載されており、妻の名称蘭には「婦」と書かれていた、二人妻の人は「婦」「婦」と記入されていたのである。
その「炭鉱戸籍」に登録されていた彼らには、国家権力と資本家の管理の元で蔑視と飢えに喘ぎながら、生きてきた永い過去を背負っていたのである。心の中では人権復活を叫ぶ・炭鉱人の差別との闘いだったのであろう。こうなれば、労働争議ではない、差別闘争であり集団リンチだったのである。
少年時代に、こうした炭坑町で育った私は、少なからずこの時代の感化を受けている。この時代の洗脳が、私を常に戦略と闘争心に燃えた町つくり構想に専念させ、私の公務員生活を庶民中心主義にさせていたのだと思う。写真は、新坑石炭ポケツト・右奥に松浦会館が見える、会館は昭和25年7月2日に出火全焼した(北島万七氏撮影)