白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

       ・・・・・今日は、佐世保市老人クラブ連合会の定期総会に出席した・玉屋会場・・・・・

2011年06月23日 | Weblog

        老人クラブ会員が急速に高齢化している・写真は佐世保九十九島の夜景です
海老のように曲がった老人達がゲートボールをしている、みんな背丈が同じになつている「お前も俺と同じ背丈になったな」「腰が曲がってみんな同じ背丈になったよ」と言ってゲラゲラ笑っている。これを見ていた老人会のグランドゴルフの若者達がクスクスと笑っていたが、このグランドゴルフの老人会員も70歳前後のようだった。ゲートボールが全盛時代の老人クラブは今より若くて元気があったようだ、カラオケ店にゲートボール時代の老人が、ヨチヨチと今にも倒れそうな格好で入ってくる、マイクを持っと何と演歌は上手なものだ。佐世保市の老人クラブ数は287(平成23年6月1日現在)であるが、22年度に休会(解散)しているクラブが48もある、会員の高齢化で会長を引き受ける者が居ないからだそうだ。ちなみに6月1日現在の会員数は、男性が6,260名 女性が10,977名で合計17,237名である。

・・・・・「寒蘭は長生きの花」・寒蘭やエビネ蘭の山採りは止めましょう・・・・・

2011年06月23日 | Weblog

「寒蘭は長生き花」と云われるのは、今年駄目なら、来年こそは、美しい花を咲かせたいと夢中になる、株分けのバルブから花を咲かせるまで八年近くの歳月を要するのです、花が咲くまで元気で栽培しなければなりません。だから「寒蘭は長生きの花」と云われているのでしょう。ところで、皆さんは、「寒蘭」という植物をご存じですか?
蘭科植物は世界中に多く分布していますが、その中でも「東洋蘭」としての位置づけに「寒蘭」があります。「寒蘭」は10月下旬から12月初旬の寒い時期に花を着けるため 「寒蘭」と呼ばれています。「寒蘭」は一茎に数輪から二十数輪の花を着け、その姿と芳香は日本の侘び・寂を体現する日本の文化を象徴する花です。
春蘭がかなり寒い地域まで分布しているのに対して「寒蘭」は黒潮が洗う温暖な里山に分布し、昔は秋の時期に山の中にはいると 「寒蘭」が自生し開花している場所はその芳香で在処が解ったようです。 でも、近頃では乱獲がたたり、自生地もめっきり少なくなってきました。最近では、各人の培養で交配した種を「蘭坪」に播種して自然に戻す運動が始まっています。この世知原の深山にも昔のように、寒蘭が自生できるよう自然を守りたいものです。
写真は、「ダコニール800倍液」で殺菌をした私の蘭舎です。一週間おいてから再度噴霧消毒をします。
上記の文章は、世知原町文化協会誌の投稿を参考にしたものです。

・・・・・寒蘭会も世代交代している・・投資と趣味を自覚した会員の協調を・・・・・

2011年06月22日 | Weblog

写真は、本日入荷した「日本一」です、長崎県西彼杵産です。数十万円のこの苗が七・八年後に咲いた時には流行遅れになるのではと心配しながら、花の咲くまで元気で生きたいと頑張っています。

寒蘭会も世代交代をしている・投資と趣味を自覚して会員が協調しなければと思います。
寒蘭会の運営ではどこも同じ悩みを抱えている。地元で山採りした寒蘭だけを展示しても、人は寄り付かない、そこで流行の高額な寒蘭を展示することになる。すると品種の流行遅れや、出品技術が遅れて入賞できない会員は入賞の常連者を批判する。私は、販売や投資を目的としている会員と、趣味の範囲で栽培している会員は、その目的を自覚しなければ、寒蘭会の運営は出来ないと思っている。ふと、世知原寒蘭会と県北寒蘭会の会則がまったく同じである事を思い出したので書いてみた。
板山機械化茶園造成で、国有林の払下げを受けた伐採地を案内していた私に、当時の金子薫町長が「世知原で寒蘭会を設立したらどうかね」と云われた。世知原町の特産品として栽培できないかと云うのである。その頃は板山や黒石、観音木、平川原等には「花が咲いている寒蘭」が自生し、その周辺には甘い蘭の香りが漂っていた。蘭会の設立を希望された金子町長の意向を受けて、当時農業相談室長をしていた私が会則案を作って発起会を招集した、昭和46年頃だったと思う、松月旅館での発起会で、初代会長は満州国から引き上げた七種武平氏でした。同時期に設立した長崎県北寒蘭会の初代事務局長も七種武平氏でした。こうした関係で当初世知原寒蘭会員全員が県北寒蘭会に加入したのです。(上記の文章は、私が世知原町文化協会誌に投稿した原稿を参考にしたものです)

・・・佐世保市世知原小学校で・・老人会の皆さんと生徒が昔遊びで楽しみました・・・

2011年06月14日 | Weblog


水鉄砲・竹馬乗り・紙飛行機作り・メンコ・竹とんぼ・コマ回し・ビー玉・お手玉・おはじき・折り紙・糸電話・等など昔の遊びでお年寄りも子供も一緒になって楽しく遊びました。このほか「老人会の皆さんと子供とのふれあい給食」又「あじさい発表会」での合唱や音読を聴かせて頂き感激の一日でした。

・・・大雨も明けて久々の温泉に行く・・写真は鹿町温泉やすらぎ館と江迎鹿町駅です・・・

2011年06月13日 | Weblog


写真上は、鹿町温泉の男湯の大浴槽です。下の写真は、江迎鹿町駅です、昔は江迎駅でしたが旧鹿町町と旧小佐々町には鉄道が通っていなかったこともあって、江迎駅が鹿町町の境界に入っていた事で、鹿町町からクレームが付いて両町名を駅名にしたような記憶がある。

・・・我が家は「地滑り地域」に指定されています・・唯今大雨洪水警報が出ている・・・

2011年06月11日 | Weblog

我が家の上を佐世保市日野から松浦市に通じる県道11号線が通っている、又この路線は昭和28年と32年の大地滑りの際に決壊している。写真上は、「下羽付西肥バス停」の県道に山林から大雨が流れ込んでいます。この県道「下羽付地区」は長崎県で最長の石橋「倉渕橋」(写真下)に隣接しており、県道から写真右上に登る階段は、羽付住宅の生活道路で通学道路にも成っています。倉渕橋を流れる佐々川も増水しているが、茶色の濁流になっていないので上流では地滑り等の被害は無かったように見えます。

・・・大腸癌の摘出手術をしてから、嬉野温泉「シーボルトの湯」に通い始めた・・・

2011年06月01日 | Weblog


佐世保中央病院で大腸癌の摘出をして、その後一年間抗癌剤の投与を続けた。私は、温泉は熱いと云うイメージがあって自分から進んで入浴した事が無かつた。処が今年の三月末で服薬が完了した事もあって、気の向くままに嬉野温泉の「シーボルトの湯」に入ったことからこの温泉のとりこになった。今日は佐世保中央病院帰りに嬉野温泉行きのバスに飛び乗ったのです。ちなみに、今日の病院の診察は、血糖値が下がって全て正常に回復していました。写真は、「シーボルトの湯」の全景です