白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

世知原町で起きた労働争議の背景 (公務員の生涯・その1)

2009年01月29日 | Weblog
私は、外輪山に囲まれた、川のある静かな山村の町役場に四十二年間勤めて定年退職した。誰から中傷されようとも、利権に群がる烏合の衆には成らなかった。それを人生訓としてきた、今からも、悠々自適な人生を送ろうと思っている。その上、念仏を聞きながら臨終を迎えたい、常に死をイメージしてトレーニングしておこう、死の作法を心得ておこう、これを臨終訓として一生を終わりたいと願っている。なんと欲張り者である。
 向日葵の花は、陽のあたる方向ばかり向いているが、夕顔の花は暗い場所でなければ花を咲かせることが出来ないのだと、そう自分に言い聞かせ諦めて生きて来たようでもあるが。いま、私の体の中で何かが起こっている、過去の出来事が走馬灯のように蘇ってくる。
私は、昭和十一年に生まれた。この年に国内では、皇道派青年将校らによる二・二六事件が発生しており、我が世知原村では、中倉万次郎翁の村葬が行はれ、飯野海運株式会社が買収した松浦炭鉱株式会社が設立した年である。
三本煙突の立つ炭鉱町に育った私の少年時代と言えば、昭和二十二年の総選挙で第一位となった社会党が、初めて片山連立内閣で炭鉱国管法などを通過させながらも、連立内閣の弱みで社会党らしい政策が実現出来ずに、次の年には辞職した。
三月十七日には芦田内閣が成立したが、昭和電工の疑獄事件が発生して、第三次吉田内閣が成立するなど、政局の不安が続いていた。
 当時は、松浦炭鉱会社側から物資の配給がされており、炭鉱の労働組合では、この野菜や魚の買い出しに立ち会い、勤労者の待遇改善と賃上げ闘争が繰り広げられていたのである。
昭和二十四年GHQは日本経済の自立促進のために、経済九原則(ドッヂライン)で為替レートを一ドル三百六十円に設定し、シヤープ使節団による税制勧告などを行った。ここで日本経済は一大変貌をとげることとなった。この中で世知原町では松浦炭鉱の労働争議がピークに達していた。この続き「松葉いぶし事件」などを赤裸々に掲載します。乞うご期待あれ。
写真は、駅前の踏切を通過する石炭輸送の貨車(昭和28年頃)明治29年にこの松浦炭鉱降炭鉄道完成以来、県北最初の鉄道として、小佐々の臼浦港まで石炭を運んだ。正面先に見える山は東八天岳です(北島万七氏撮影)