白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

1月8日、新しい年の幸せを祈って新春三社初詣に行きました

2010年01月09日 | Weblog
1月8日に世知原町の仲間で恒例の三社詣りに行った、西鉄バスに四十人程が乗り合わせて宗像大社、宮地嶽神社、太宰府天満宮に御参りした。バスの中では梅焼酎にワイン等が振る舞われて久々の世間話で賑わっていた。写真左から、私たち夫婦と四人目が世知原地区在住の「佐世保市議会議員の林けんじ」さんです。

・・・・・・・あなたの 命を戴きます・・・・・・・

2010年01月03日 | Weblog
毎年正月になると、暮れから孫たちが来て騒動する。二三日もするとうるさくてたまらない、老人も核家族の生活に慣れてしまったが、孫たちもお年玉が目当てのようである。食事をする時に、婆ちゃんが孫たちに「ちゃんと戴きますと言いなさいよ」と云っていたので、私が横から「人が食事をする時に戴きます、と云うのは、牛や豚や魚から命を戴きます、と云うことなのだよ」と話していたら・夕食の時の「戴きます」は神妙にも聞き取れた。写真は、猪(いのしし)の牡丹肉です、赤身と白身が美しいのでスライスを鉢に丸く並べると「牡丹の花」のようになります。

・・・・・一休和尚の遺言状・・・ 「なるようになる 心配するな」

2010年01月01日 | Weblog
一休さんは、藤原一族に生まれ、天皇の血筋を持つ人間でもあったが、諸国を放浪し、人々に愛を説き続けた。一休さんは87歳で死去するまで金や権力に媚びる事はなかった。一休さんは臨終の際「この遺言状は、将来、この寺に大きな問題が起こった時に開け。それまでは決して読むな」と言い残していた。僧侶たちは、その教えを守り、決して遺言状を開くことはなかった。一休さんの死後、さまざまな問題が持ち上がる度に「いざとなれば一休和尚の遺言状 が解決してくれる」という安心感もあっただろう。一休和尚の遺言状が、開かれたのは、その死後から100年が経過していた。すがる思いで開いた遺言状には、こう書かれていた・・・「なるようになる 心配するな」。「日刊セイケイより」