白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

杉檜の植栽は行政が推進した (炭鉱と行政・その3)

2009年02月25日 | Weblog
私は、当時照葉樹林と機械化茶園の造成に携わってきた、杉檜の植栽をしていた行政担当者からは異端者呼ばわりをされていた、今その彼らに地球温暖化の犯罪者だと怒っている。佐々川の水源である国見外輪山に行政がどうして杉苗を植えたのか、その一因を話しておくことにする。
その頃林野統一によって使用目的を制限されていた採草地が、草屋根が瓦屋根に変わり化学肥料の開発等で原野が放置されていた、そこで原野に植林する為に、二つの条件をつけて町が牧野開放をした。
第一条件は、開放した原野に必ず植林すること。第二は、土地を分割して個人有とせず、部落会員又は数人の共有とすること、但し地上権の分割は認める。    こうして町有原野を農家に開放した。雑木林の改植と併せた積極政策がとられた為に、人口造林の杉と檜山ができたのです。この町有原野の払い下げ等に要する融資を個人名義で借り入れて、町財政に流用して町が林家に変わって返済し続けたのだと語られており、この前田町政の三大産業政策であった畜産、茶業、林業で、農家を維持できなかったのは現実である。
こうした町の政策も、今日では山村人口の流失と外材輸入で、この造林地の殆どが放置されて、山林の自然崩壊の原因となっている。
杉山は雨水が浸透しないので山地の湧き水が枯渇し、長崎県最長を誇る佐々川が減水している。杉・檜の人口造林は林業政策の失敗である。写真は、世知原町を取り巻く国見外輪山、杉の人工造林。

石炭産業に依存した乞食行政 (公務員の生涯・その4)

2009年02月23日 | Weblog
茶色に日焼けしている「せちばる公民館報」を読んでいる、昭和三十五年七月一日付け第五十四号である。炭鉱全盛期の役場職員の仕事と町議会の記事を掲載しておこう、当時の行政の気骨が理解できるのではないかと思う。
その中に「世知原町公民館では、本年度新に話し合い学習の一環として、又地域住民の文化並びに教育の向上、社会福祉と健康増進等を計るため特に山間僻地を巡回し、生活の実態を把握するとともに、地域住民と直接的つながりを持つために、その第一回を六月十八日、町役場社会課下野清徳主事の協力を得て、映画を持って訪問を試みた、と云う記事が目に入った。
この時黒石開拓団で当時モダンなブロツク建築の北川節男さん宅に一泊したことを懐かしく想いだした。
一面に「手洗いを忘れず明るい町づくり」の標語が載っている、その横に載っている町議会の決議文の記事を紹介する。
 昭和三十五年六月十四日召集・世知原町第五回定例議会
国政改善に関する要望決議・提出者 世知原町議会・議員 吉崎 米雄
賛成者 同  藤井 勝義・岡上 万吉・弓弦  稔・松岡  実・岩崎  務・貞方 権吉・谷口 丁蔵・北島  丑・山口獅子太郎
決 議 文
   一、安保条約批准をやめよ
   二、岸内閣は総辞職せよ
   三、国会を解散して民意を問え
       右決議する。(原案可決)
役場職員の給料日には、炭鉱事務所に鉱山税の前納願いに行き月2千円程度の給料前借に当てた、そして炭鉱長屋の自治は全て炭鉱地区労務の協力を受けた。炭鉱閉山(昭和四十五年)後は、放置された犬猫250頭を毒殺して現在の「城山分譲宅地」に埋めるなどして長屋を解体した、購入した炭鉱用地の分譲宅地造成(昭和五十年)など閉山処理にあたった・・・軍人恩給や民間引揚者のお世話などの戦後処理、炭鉱閉山による人口の大移動、高度経済成長、そしてバブルの崩壊まで激動する社会のなかで平成九年三月まで四十二年間を世知原町役場で勤め終えた。写真は、早朝の石炭積込作業の風景(北島万七氏撮影)

失業対策事業で汚職事件 (公務員の生涯・その3)

2009年02月22日 | Weblog
朝鮮戦争で北朝鮮を支持した、世知原町の労働争議がマツカーサー元帥の指令で終結した事までを話して、集団赤痢の話に入ったので、労働争議でレットパージー(共産党追放)等に遭った失業者の救済に行政がどのように対処したのかを書いて置く事にする。・・・
私は、飯野松浦炭鉱の就職試験に合格して、初任給一万六千二百円で働くことにしていた。昭和二十七年、私が中学三年のとき、江越千吉おじさんが、「もうすぐラジオに代わって、絵が写るテレビが出来るぞ、英語を勉強しておけ」と言って英和辞典のコンサイスを買ってくれたことがある。
その叔父さんが、石炭を燃料にする時代はもう終わるぞと言った、私は、昭和三十年の二月に、立木一男助役の面接を受けた、そして、長崎県北松浦郡の世知原町役場に初任給五千三百円で就職した。
すでに昭和二十六年四月一日に開始されていた、失業対策事業を皮切りに私の公務員生活が始まった。戦後のわが国は、占領軍政策によって改革が行われて来たが。復員軍人及び引揚者等の就職斡旋、病弱者等生活困窮者の救済や保護と失業者対策が必要であった。世知原町も、こうした戦後の不況とレットパージによる多くの失業者を抱えていた。そこで、労働係を新設して失業対策事業が開始されていた。失業対策事業の詰め所前には、朝早くから失対認定者が列をなしている。
私の仕事は朝七時出勤、失対労務者の受付に始まり、現場の配置、賃金の計算と支払い、それが毎日の仕事になった。
また、家内産業として、町で購入した編み機を失業者に貸出した、生産したセーターを集めて町で販売していた。また、失体労務者の殆どは、町道や農道の新設工事に従事させていたのである。
この時の失業適確認定者は百二十人程であった。この時、同じ職場で働いていたハーフらしい女の子が、なんと今の老妻である。その時の彼女は安定所に出張する度に「パパ愛してるよ・」なんてメモ書きをしていたものだ。
当時、共産党系の町議会議員を中心とした汚職の噂が出ていた。昭和三十年五月、前田信義町長就任と同時に、満州国を引揚げて飯野信用組合長をしていた山口春次氏を町の監査委員に任命して、汚職摘発が行われた。元レットパージを受けた町会議員と幹部職員がつるんだ汚職事件が発覚した。
このとき、町役場の宮原薫失対事業係長と力竹明寿総務課長、職業安定所の職員と共産党の町会議員二人が逮捕されたのである。
その後、共産系分子によって失対労務者の第二組合が結成された、その団体交渉のときに失対詰所内で、私が鉄のセイランボーで背中を強打された、私は、失対適確者の洗い直しをして、共産系分子を中心に認定者を半数程度に減らした。
また、私の身内に炭鉱関係の有力者が多かったこともあって、前田町長から役場の会計事務を改善するように特命を受けた、町の山口監査委員と共に、当時の会計事務の、手書き請求書、手書き領収書等の全てを、伝票会計方式に改良した。商業高校を卒業した私の発案だったことは誰も知る者はいないだろう。 
その後、昭和四十三年に石炭関係審議会の建議が行われ、四十四年の閣議決定によって、産炭地域開発就労事業に移行したが、公共事業等への紹介対象者が高齢化したために五十九年度で廃止となった。写真は、世知原駅・石炭ポケット・ボタ山・右に石積の本部事務所が建っている(昭和35年頃北島万七氏撮影)


世知原町が赤痢撲滅で日本一の健康モデル町になった(炭鉱と行政・その2)

2009年02月21日 | Weblog
昭和二十九年七月二十三日の夏休みに、一千三百八十人に及ぶ大集団赤痢が勃発した。
一夜にして十一人の幼い子供が亡くなり、全町民が死の恐怖におののいたのである。炭鉱の水道は消毒されずに、川の水がそのまま街中の炭坑住宅と小学校等に配水されていた。こうした、炭鉱水道水の汚染と町内医師の届け出不履行が集団発生の原因となった。
この時に、開催した厚生省公認の「明るい生活展」では二千五百世帯に対して三千人の参加者を得たのである。世知原町の衛生活動に対して、視察した厚生省保険所課の村中技官も、この熱意に深く心を打たれ「衛生教育の国家機関の立場から世知原町への指導、助言を惜しまない」と語られたのである。
このとき、赤痢患者から保菌者及び健常者に対して世知原町が乳酸菌飲料を整腸剤として試飲させた事が、赤痢撲滅の成果の一因となった事には間違いない、この時の乳酸菌飲料が現在製品化されている「ヤクルト」であることを誰が覚えているだろうか(昭和三十五年「健康友の会」発行の「明るい暮らし」六十七ページに掲載されている)
写真は、右の建物が昔の中川商店、左の塀に映画館のポスターが張ってある、この下が炭鉱の坑口である。

炭鉱水道で集団赤痢発生 (炭鉱と行政・その1)

2009年02月19日 | Weblog
昭和二十七年に九十八名の赤痢患者が発生したが、翌年はやや下火となった。明けて昭和二十九年七月二十三日の夏休みの日に炭鉱の水道によって、古今未曽有の大集団赤痢が発生した。
このとき、町営の水道施設が無かったことで、自治体が行政を炭鉱に依存していたことがうかがえる。殆どが、コマゴメB三菌とゾンネ菌によるものであった。この時の集団赤痢患者数は一、四五六名で十五名の尊い子供の命が奪われたのである。死者を出した家は、葬式も出せない、煮炊きも禁止した。患者は小学校の講堂や教室に隔離、発生した住宅街には消石灰を散布して街中真っ白になっていたが、その後も発生は続いた。
 昭和三十三年、当時衛生係の金子薫(後の町長)氏が社会課長へ昇進したことで、その後を継いで私が赤痢撲滅に当たることになった。
私はいつも素足に下駄履き、白衣を着て防疫の腕章をしていた。患者が出ると三%のクレゾール消毒液の入った噴霧器を背負って行く、経口伝染病の小さな死体に私は消毒液を噴霧する、親兄弟にも見せなかった、私一人でその小さな棺桶に釘を打ったのである。
その後も、昭和三十三年に二百二十八名(死亡五名)三十四年には二百二十三名(死亡一名)と数回の集団発生を繰り返した。
赤痢予防のために、クレゾール石鹸液による手洗いを町民に強制した、それは、炭鉱長屋住宅の十世帯あまりの向かい合わせを一班として、班内で順番に各世帯が検査員となって巡回する、日替わりで交代した、つまり連帯責任制にしたのである。
クレゾール三パーセント入りの洗面器の設置と共同便所の消毒の巡回検査を毎日実施させる、私が、その検査記録簿を点検に廻った。
私は、共同便所の検査では便槽にまで入り、魚鈎で畳をはぐって検査をした。白衣を着た私の姿をみて、町民は慌てて消毒液を入れ換えていたのである。   松浦病院の音成院長と宋先生など町内医師の協力で、住民への衛生教育に夜遅くまで集会所を廻ったものである。
また、炭塵で真っ黒になった顔、目玉だけをギョロギョロさせた炭坑夫を坑口に並ばせる、ガラス棒を尻に突っ込んで検便をしたのである。その横に警官が立って何気なく監視をしている。転がっている子供の死体、私が一人でその亡骸を消毒している・・今でも悪夢にうなされる・・
赤痢撲滅のために、国の補助事業で整腸剤として、全町民に町役場から配達して試飲させたのが、商品化する前の乳酸飲料が今の「ヤクルト」であることを付け加えておこう。
このとき実践に当たった私は、昭和三十五年に衛生功労者として全国厚生振興会総裁賞と長崎県知事賞を、また昭和三十九年には公衆衛生功労者として長崎県知事賞を受賞したのである。
こうして、行政の全てを炭鉱(企業)に依存したことから起こった、赤痢の大集団発生で二千六百万円の財政赤字を出したのである。
昭和三十一年九月に石炭掘削が引き起こした五十ヘクタールに及ぶ鷹取の大地すべり。労働争議が生んだレットパージとこの赤痢集団発生。この世知原の“三赤事件”に対する政治の責任はどうなったのだろうか?
写真は、松浦炭鉱診療所全景昭和25年頃(北島万七氏撮影)

人間は狩猟民族・狩猟が食文化の始まり

2009年02月09日 | Weblog
昨日2月8日第二日曜日は恒例の猟友会だった、私が庶務会計を仰せ付かっているので、少々早めに家を出た。会員が持参した獲物の受付をする、最近はキジとヤマドリが少ない、これも猪の被害である。今回の獲物は、猪・兎・ひよどりで、夫々の点数に応じて金額を支払うのである。人間は昔狩猟民族であった、食する為に狩猟をしたのである。肉食動物は、繁殖力の強い菜食動物を狩って生きている。その肉食動物を商売の為に殺してしまい、自然林を伐採して杉、檜を植栽した。その結果猪や鹿等が増殖して農産物被害が起きている。また、猟銃による事件が起きれば猟銃を規制する、包丁での殺人はどうするのか、銃が人を殺したのではない、人間が銃で人を撃ったのである。動物を殺すのは惨い等と毛皮のコートを着た人達がキンキン声で叫んでいるが、銃を警察に持って行って銃猟を止める人が多いので、猟銃店が倒産している。農作物は鹿や猪・猿等の被害で全滅している。外国から農薬入りの食料品を輸入すれば好いと云うのならばそれまでの事である。

今日は節分、弦掛山西福寺で大護摩祈祷が行なわれた

2009年02月03日 | Weblog
・・私の先祖は何処から来たのか・・
国府は、古代日本の各国ごとに置かれた政府の中心都市であった。大化改新(645)により中央集権の政治体制確立を目指した大和朝廷は、それまでの地方豪族による地方統治から中央官吏による直轄統治を推進した。
地方統治の単位である国ごとに国府を定め、中央から国司を派遣して、徴税、軍事、治安維持等にあたらせた。天皇中心の律令国家は、こうして次第に体制を整えていった。壬申の乱(672)を経て、大宝元年(701)大宝律令の成立によって完成した。関東平野の北部栃木県の中南部に「下野市」が存在する、旧石器時代より先人が住んでいたという、天武天皇の白鳳時代には下野薬師寺が建立され、日本三戒壇の一つである戒壇が設置された。
八世紀には聖武天皇の詔により下野国分寺・国分尼寺が建立され、古代東国地方の仏教文化の中心地として栄えている。江戸時代には五街道の一つである日光街道の宿場町(小金井宿・石橋宿)を軸として繁栄したと伝えられている。
ちなみに、私の先祖は、永平寺を総本山とする愛媛県大谷村の古いお寺に過去帖があった。現在は、家の近くにある真言宗智山派のお寺「西福寺」の檀家である。このお寺の総本山は京都の「智積院」で明智光秀が祀られている・・・
この西福寺は、小さな参道の奥にある岩窟の祈祷所だつた、数人の檀家と信者が集い本堂新築を計画した、まずは資材運搬の道路建設から始めたのである、当時住民課長だつた檀家の私が町予算を計上して町道を建設した。本堂建設奉賛会を設立して故七種健吾氏・故立石秋正氏・故立石澄夫氏・故真弓三男氏等(私も寄付金集めの会計係)が中心となり、多くの寄進者によつて現在の本堂が建てられた。

昔の写真・・松浦炭鉱の病院へ出勤する人々・・・

2009年02月02日 | Weblog
炭鉱の町世知原の全盛時代の風景です。手前右が国鉄の官舎で左が国鉄職員の住宅だつたと思う、私が子供の頃よく遊びに来た懐かしい場所です、左の中央が「世知原駅」奥に見える高い建物が「新坑の石炭ポケツト」である。写真は、松浦病院付近から世知原駅(現在の躍進の泉)方向を撮影している。鉄道を歩いて松浦炭鉱の病院に出勤する人(北島万七氏撮影)