白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

金子町長が私の生涯の師です、脳梗塞で倒れてあの世から蘇えった私 (白骨の道・その5)

2009年01月21日 | Weblog
私が四十歳のとき、佐世保市役所の玄関で倒れた。西肥バスから降りて市役所まで歩道橋を二百メート程走った、玄関の案内係りの前で突然全身がだるくなり脱力で動けなくなった。喉がカラカラになって、言葉が出ない、住所氏名を書いた県民手帳を制服の内ポケットから出して受付に見せた、その後は意識を失って倒れていた。ピーホー、ピーポー救急車の声がかすかにしたようだ、京町の中央病院に搬入された。
板山茶園造成の農業構造改善事業計画書作成で、一年余り残業続きであった、そのうえ、ここ四、五日間の徹夜による疲労が原因で脳梗塞を起こしたのである。後遺症で左手足に麻痺が残った、コップを持てなかったのである。
倒れた時私は「空の上から世知原町の街中を見下ろしていた、国見山近くの空をふわふわと泳いでいた、明るくすがすがしい気持ちだった」突然苦しくなった、真っ暗な宇宙にいる、頭からまっ逆さまに落ちて行く、苦しいなんとも言いようの無い苦しみであった。ふと、目が覚めた、トンボの目玉のような電気が天井についている、ブルーの手術衣にメスを持った医師が三、四人上から覗き込んでいる。
その時に意識が戻ったようだが、その後は酸素吸入をしながら中央病院に入院していた、数日は意識がもうろうとしていたのである。
当時の金子町長が、私の耳元で「必ず助けてやるから、頑張れ」と叫ばれたそうだです。誰かが私を呼んでいる、かすかに聞こえた金子町長のこえで、意識がはっきり蘇ったのである。今でも、金子町長を私は「生涯の師」として、また命の恩人として感謝しています。
三ヶ月程入院していたが病名が判明しない、中央病院から長崎大学病院へ白バイ先導で搬送された、検査したが別に異常がない、疲労とストレスが原因だったのである。役場は公務扱いにはしなかった、障害が残っていたが退院と同時に勤務に付いた。私は、霊場弦掛観音のお世話で篠栗八十八箇所巡礼をした。
左の足を引き摺って歩いていたが、帰りには殆ど回復していたのだから不思議なことである。 
定年退職の年に人間ドックに入ってからは、毎月循環器科に予約通院をしている。定年してから、私は奥の八畳の部屋に、ベッドを買い込んで、バソコンを置いて一人で寝ている。私は女性との時間を週二回が望みであるが、毎週土曜日に妻の布団に行くのが妻との約束である。その頃、射精すると血液が混入している、前にもセックスのあと二、三日出血することがあった。
泌尿器の南先生の話では、前立腺で精液が造られて精嚢に溜められるが、このときに出血するのだろうと云うことである。溜まった精液は八回程の射精で出てしまうそうである。抗菌剤を二週間飲んで出血は止まったので、後は漢方薬の投与をうけた。在る日、病院で患者達が話している、心臓の止まった患者に向かって、「あんた、子供と奥さんば残して、死んどる暇なんかなかとばい、しっかりしなさいよ」と婦長が叫んだら、死んだ患者が生き返ったそうですよ、この話を聞いたとき、その婦長に心の中で合唱していた。(写真、左から二番目が、消防出初式での金子町長の勇姿です、写真提供は、北島万七さん)