暖かな朝の最低気温は9.6℃、柔かな日差しで午後2時前には18.7℃と、昨日に
続き12月中旬とは思えない小春日和の一日になりました。
今週は暖かな日が続きそう、日曜日から本格的な冬へ季節は移るようですね。

でも今夜からの雨、渇水で困っている琵琶湖の今朝の水位-74㎝まで進んだ。
2日で1㎝の減、あと1月で-90㎝、取水制限が始まると。そして14年ぶりの
-1m以下に進みそう、琵琶湖周辺には本格的な雨が欲しいものですね。
NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はヤドリギ科の「ヤドリギ・宿生木・
宿(り)木・寄生木 」、半寄生植物で地面には根を張らず、主に落葉広葉樹の
枝の上に生育する常緑の多年生植物。ヨーロッパや西部・南部アジアが原産
とされ、昔から日本にも自生する。
和名の由来は、冬でも緑の葉が茂るため神が宿る木とされたことからで、古名
とされる「ホヨ・保与」「ホヤ・保夜」が別名として呼ばれている。

依水園近辺2021.2.11
雄株と雌株に分かれ、雄株に咲く雄花は黄色く直径7mmほどで、1枚の花びら
が4つに分かれた形で蜜を出さず、花びらの内側には葯が張り付き、網目状に
裂けて花粉を出す。
一方雌株に咲く雌花は直径2mmほど、黄緑色で蜜を出す特徴があり、受粉して
実になればり内部に粘り気の強い粘液「ビシン」に包まれ、内部に種が1個。

この実はヒレンジャクやキレンジャクなどの鳥が好んで食べるそうで、種と
ビシンは消化されず糞と一緒に排出され、糸のように伸びて木の枝に引っ掛
かったり、貼りつくことで寄生する仕組みとなる。
花言葉は「困難に打ち勝つ」
今日は「国連児童基金・ユニセフ創立記念日」、
1946(昭和21)年のこの日、前身の「国連国際児童緊急基金・UNICEF」が創立
1953(昭和28)年に改組され、現在の名称・国連児童基金になるも一般に広く
普及したユニセフを、現在も使っている。
現在も続くガザ紛争、戦火の中活動され犠牲者も出ていますが・・・
手を出した方が悪いのか、進行した方が悪いのか、混とんとしている。
しかし、子供の被害者だけは出さないで願いたいものだが・・・
さて今日の記事は昨日の続き「近世奈良町の仏師②江戸時代」
Ⅰ.南都大仏師系図による、宗印→貞空式部→宗哲侍従、「侍従」の仕事
Ⅱ.寛文10年(1670)『奈良町北方二十五町家職御改帳』にみる「鳥大仏師」
Ⅲ.寛文6年(1666)に椿井仏師に双論が起こり椿井方と松坊方に分裂
Ⅱ.寛文10年(1670)『奈良町北方二十五町家職御改帳』にみる「鳥大仏師」
Ⅲ.寛文6年(1666)に椿井仏師に双論が起こり椿井方と松坊方に分裂
してから
Ⅰ.侍従の名が出てくるのは
Ⅰ.侍従の名が出てくるのは
寛永21年(1644) 京都・東寺五重塔本四仏像
*五重塔826年建立、落雷などによって4度焼失し、現在の五重塔は、
寛永21年(1644)に再建された5代目です。
『聞書并日記』「東寺塔御再興之事」
寛永廿季六月五日午刻 四仏八菩薩之御衣木加持有之、長者尊性親王於御宿
坊観智院道勤仕給了、奈良大仏師四仏并八菩薩之両目鼻口四ヶ処以鑿一打
了但各々不打之四仏モ八菩薩モ一仏一尊ニテ兼之者也
*御衣木加持:着工式
*慶長7年(1602)、東寺金堂薬師三尊像の御衣木加持は醍醐寺金剛輪院で
執行されていることから、
八菩薩の両目鼻口の4か所に鑿を入れる着工式も醍醐寺で行われたと
『義演准后日記』には
慶長13年(1613) 醍醐寺如意輪堂如意輪観音像
「慶長十三年戌申五月朔日、奈良大仏師侍従作
醍醐寺文書聖経目録〔第53函192〕年月日未詳
「愛染明王木像開眼供養記包紙」
「寛永弐拾壱甲申暦、自三月廿七日愛染之像修仏師侍従良賢令修覆畢」
『松屋会記』「久重茶会記」
寛永8年(1631)3月19日晩の茶会、亭主布屋善兵衛、侍従は道也の相伴客にて
4月朔日晩の茶会、亭主大仏師侍従、道也、久重ら
掛物「定家コセン」

慶安3年(1650)『長谷寺御造営方諸色入用銀目録』
銀拾五貫百三八匁 奈良大仏師 仏師方 侍従
長谷寺本尊両脇侍、雨宝童子立像と難陀龍王立像の修理に携わったか
左:雨宝童子立像(重文・室町時代)難陀龍王立像:右


Ⅱ.寛文10年(1670)『奈良町北方二十五町家職御改帳』にみる「鳥大仏師」
①中筋町:仏師屋三太夫、仏師宇(右)兵衛・・・兄弟もしくは親子
寛文7年(1667)奈良市大柳生町下出会所 阿弥陀如来坐像 鳥大仏師右兵衛
延宝4年(1676)田原本町八尾公民館 阿弥陀如来坐像 鳥大仏師右兵衛,三太夫
延宝4年 奈良市西大寺本堂弥勒菩薩像修復
「鞍部村主司馬達等鳥大仏師/宇兵衛/三太夫」
②小西町:仏師甚助
奈良市後光院阿弥陀如来坐像(37㎝)「山口甚助」、寛永年間か
奈良市浄国院 開山暁誉上人像 「山口甚助」
③上三条町:仏師与右衛門

北室町
Ⅲ.寛文6年(1666)に椿井仏師に双論が起こり、椿井方と松坊方に分裂する
松坊方の屋敷は北室町(後に東向南之町)
椿井方は大坂堺筋油町1丁目に移住
公慶上人の東大寺復興
*永禄10年(1567)の三好・松永の乱で二月堂や法華堂、南大門や転害門
正倉院や鐘楼な残して灰燼に帰す。
東大寺の復興は戦乱で難渋し、大仏の仏頭も銅板で覆うだけの修理に
江戸初期の公慶上人により、諸国勧進と諸大名の協力を幕府に懇願し
復興に取りかかる。徳川幕府の協力で元禄5年(1692)に開眼供養に。
そして宝永6年(1709)大仏殿の落慶供養が行なわれた。
その後、伽藍の整備は歴代の大勧進職によって続行されることに。
元禄11年(1698) 椿井民部性慶、東大寺念佛堂地蔵菩薩坐像(1237年)を修理
元禄14年(1701) 椿井民部法橋性慶、手向山八幡宮東照権現像を製作
徳川家の関わり合いが
宝永3年(1706) 法橋椿井性慶・即念、東大寺公慶上人坐像を制作
(公慶上人没年の翌年)

享保20年(1735) 山本左京順慶・椿井賢慶、東大寺大仏殿如意輪観音像制作
*京都の仏師 性慶の子
右
如意輪観音像(重文)HPより

宝暦5年(1755) 椿井尹慶・八田了慶、東大寺大仏殿虚空蔵菩薩像を制作
左
虚空蔵菩薩像(重文)HPより

*八田了慶は東大寺仏師として、大坂や高知県などで仏さまを制作し、
奈良県の田原本町の西誓寺1751年の大仏師椿井民部の記録がある。
江戸時代を生き抜いた大仏師、これからも未発見の仏像もあるようだ。
以後も奈良各地で仏像制作、修理を行っておられ、現在に続いている。