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2013/12/31 ヒジハラ

佐々友房、戦袍日記

2009-09-26 | ヒストリ:近代MTS
サイトの史跡レポを作るのに佐々友房の「戦袍日記」を借りてきました。



何気なく表紙をめくってみたらサインが…



図書館から借りて来た本ですが、贈書を寄贈されたのかな?
で、ふっと見て気が付いたんですが、赤のライン引いてある所。
贈り主。
え…

え?

佐々になってるんですけれども

本人?

佐々友房、亡くなった年を調べてみたら明治39年でした。
恵贈の年は明治32年。生きてることは生きてる。
これだけでは正直言って何にも分からないのですけれども。
でも佐々ってあんまりある名前じゃないよねえ。
もしかしてひょっとする?
返しに行く時に図書館でどういう経緯で蔵書になったのか聞いてみようと思います。
多分分からないだろうなー…と思いつつ…
記録残ってるかな。多分蔵書になったのは戦前だろうし。
しかし服部大人て誰ですか。西宮の人ですか。

というかですね…私この本2年ほど前にも借りてるんですよね…
その時に気が付かなかったんだな…orz



佐々友房は熊本の人です。
西南戦争時、党薩諸隊といって合わせて12の九州各地の隊が薩軍側についた。
その中に熊本隊という隊があったのですが、佐々はこちらの隊に参加していました。

ついでに言うと、熊本隊の隊長は池辺吉十郎と言います。
西南戦争が終結した後に自首して処刑されている。
息子が池辺三山で、この方は明治の三大ジャーナリストのひとりとして数えられる人物です。
あとのふたりは陸羯南と徳富蘇峰。
陸の方は正岡子規の面倒を見、引き立てた人として「坂の上の雲」にも出てきますのでご存じの方も多いと思います。
この方、司法省法学校で原敬と同級生です。
ふたりとも賄い征伐で学校を辞めた。
はらけーの家は南部藩の家老職ですので、本来なら豊かな家のボンボンなんですが当時は結構家計が逼迫していたようで、東京留学するのにも家屋敷の一部を売り払って…と結構苦労していた。
そういう事情もあり辞めたくなかったようですが、気の毒にも巻き込まれたんですな(^^ゞ
まあそれはまた別のお話。

池辺三山は大坂朝日、東京朝日で筆を揮った記者ですが、この方の力で夏目漱石、二葉亭四迷が朝日に入社しています。
漱石は確か10年程朝日にいたような気がします。
このふたり、ウマがあったようで「彼岸過迄」ですか、冒頭にこの書を亡友三山に捧げるといった言葉があります。
随分温厚な人であったようですが、父・吉十郎も同じく温厚な君子、多くの人に慕われる人物であったようです。
それが「肥後の西郷隆盛」と呼ばれるほど。
そういった人が熊本隊を率いていた。

佐々の「戦袍日記」はその記録になります。
熊本隊は先日書きました田原坂・吉次峠方面の戦に参加していました。
主に吉次峠方面の守備についていた。



で、よく引かれるのが佐々が詠んだ「吉次峠の戦」という漢詩です。
「君見ずや吉次の険は城よりも険なり」、というアレ。
もうひとつが、吉次峠の戦況を聞いて木留に置かれていた薩軍出張本営からやって来た篠原国幹、村田新八、別府晋介らと初めて出会う場面でしょうか。
木留は上地図には示していませんが、植木駅と七本柿木台場の間、蛇行している線がありますがその辺りです。

余始テ篠原、別府氏ニ接ス 
篠原氏歯五十許、頭半ハ禿ケ、顴骨高ク秀デ眼光射ルガ如ク謹厳剛直ノ風アリ
一見人ヲシテ畏敬ノ心ヲ起サシム
別府年尚ホ壮ニ風丰清秀、挙止活発、一個ノ美丈夫ナリ


ええまあ…結構ショックでした(笑
文中の「歯」は「は」ではなく「よわい」ですね。
冬一郎、冬さんこと篠原国幹、御年42なんですけれども…
そして別府君。美丈夫ですか!これが吃驚なんですよねえ。
彼をこういう形容詞で呼んでいるのは私、他に見たことないです。
…いやそうではなくて。別府君ではなくて(笑
これが3月3日の出来事で、翌日に篠原はこの吉次峠・原倉で狙撃され亡くなっている。

先日も書きましたがこの篠原、非常に無口であったというのが必ず引かれるエピソードのひとつになっています。
あー…薩摩というのはアレですねえ。
男は黙ってついてこいじゃないけど、そういう感じですね。
議論肌の人間というか、口数が多い人間は軽侮される雰囲気があったようです。
論より実行といいますか、黙っていつつやることはやる。
決める所は決める、そういう人間が好かれるし、評価される。
こういう所は長州とは逆やな~…(笑
よく手を組めたなと思います、本当に(^^ゞ

若いころの東郷平八郎は話好きというかおしゃべりだったそうですが、その口数の多さを大久保利通に咎められ以降寡黙になったという話が残っている。
イギリスに官費留学するのに大久保に頼んだ所拒否されたそうですね。
理由がおしゃべりだから(結局西郷に頼んで留学している)。
凄い理由だと思いますが、そういうお国柄なのだなと。
そういう土地であっても篠原の無口というのは際立っていたようです。
薩摩でいう非常に無口というのは一般社会では異常に無口ではないのかと思いますが、どうなんでしょう(笑)

その篠原の無口伝説に出てくる人が池辺吉十郎。
西南戦争が始まる前の話、池辺が鹿児島の篠原宅を尋ねたことがあるそうです。
朝訪れて、午餐が出て、夜ご馳走になって酒まで注がれて、玄関で見送られたけれども篠原の声は聞いていないという。なんという(笑)
まあ…
無口もさることながら、
池辺が訪ねて来たのが戦争前という微妙な時期であったことを考えると、篠原個人の意見であっても変に言質を与えることもできなかったでしょうし。
ましてや篠原から見ると池辺は他国人ですからねえ…
この辺りはそのまま無口であったと考えるより、色々な理由が折り重なっているのかなとは思います。

篠原に関する資料というのは非常に少ないですねえ。
遠戚の方が西南戦争で薩軍が敗れた後に遺族が関係資料を焼いたのではないかといった事を書かれていましたが…
それに加えて本人が極端に無口で周囲の人間も篠原に関するまとまった話を残すことができなかったのではないかとも思います。
残されている日記写を見ると、もう少しどんな人であったのかを知りたいとは思いますね。やっぱり。

 
以上つれづれでした。
…佐々友房どこへ行った(笑)
 


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花散る剣抜きつれて

2009-09-24 | ヒストリ:近代MTS
御命日です。
  
132回忌。
毎年出してるけど今年も出すよ。


左中より:辺見十郎太、池上四郎、永山弥一郎、桐野利秋

 桐野。

 
左から 村田新八、淵辺群平、別府晋介、桂久武


西郷南洲終焉の地。
JR鹿児島本線の傍にあります。南洲墓地からも近いよね。
去年地元図書館に頼んで鹿児島県図から借りてもらった本によると、実際の終焉地とは違うようです。
ちょっと場所がずれているとありました。

政府軍の総攻撃が始まったのが明治10年9月24日午前4時。
3時間後の7時頃には全てが終わった。
何と言うか、爽やかな人たちだなあと思うんですよねえ。
あの悲壮感の無さは何なのでしょう。

最近「翔ぶが如く」をぺら読みしていますが、この本を読んでいると本当に不必要に心拍数上がります。
読んでいて心臓がどきどきしているのが分かる。笑。
たまにハウキュートユーアー!とか絶叫しながらベッドでのた打ち回りたくなる。
それは違うんじゃないかなあと思う所もありますが、やっぱりめっちゃ面白いですこのお話。

桐野に逢えた事を思うと司馬さんに感謝だなあと思う日でもあるし、広瀬に出逢えた事を思うと桐野に感謝だなあとも思う。
亡くなった日だなと寂しくなるよりありがとう大好きと言いたくなる。
不思議だけど今日はそんな日。



■サイト更新 史跡レポ:【 田原坂5・田原坂レポ全面改訂 】

今日は西南戦争に因んで随分止まっていた西南レポ。
先日書いたとおり、今までの更新分は全面改定という事で写真を大部分入れ替え、また新しく挿入しました。
そして地元の地図関係も見やすいように作りなおした。
現地の地理、薩軍と政府軍の位置関係、これは真面目に随分分かりやすいと思います(自分で言う)。
写真撮ってた自分、エライよマジで。
ただ篠原国幹特集のページは既述の通り全く触ってません(笑)
お時間があります方、宜しければ1ページ目からご覧ください。

今回は田原坂→吉次峠と来て田原坂に戻ってきました(やっと!)
副題が「花散る剣抜きつれて」ということで、ちょっとばかり警視庁抜刀隊の話を書いています。
えー…何かと誤解の多い抜刀隊。
ページでも触れましたが、なぜかその主力を旧幕臣、旧佐幕藩藩士と思っている人が多い。
小説とかドラマの影響かと思うのですが。るろ剣とかで斉藤一が参加してたりしてました?
私この話の1話をWJで読んで腹が立ってそこから読んでないので(早っ)詳しい内容は知らないのです。
赤報隊が出ているというのを聞いた時は流石にびっくりしたけれども。
(この事件を見る限り西郷隆盛酷いとしか思えない。明治維新期と明治以降とを見比べると本当にあの強かさはどこへ行ったの西郷さんと思わざるを得ない所がありますねえ。本人の持っている政治哲学の問題か)
抜刀隊の母体になっている警視隊に旧幕臣、旧佐幕藩藩士が多かったのは確かですが…

そもそも警視庁の巡査(西郷下野以前は邏卒)は薩摩の郷士身分(城外士)が中心なんですよねえ。
警察の組織を作り上げた川路利良も薩摩人ですし、後押ししてた大久保利通も薩摩人。
その流れから警察は薩摩閥です。
今でも薩摩の力が強いという話を聞いたことがあるなあ。

とまれ抜刀隊の主力は薩摩の城外士ですし、確か死傷率も一番薩摩出身者が高かったはず。
この辺り昔何かで見たのですが、何で読んだかちょっと思い出せないのです(苦
誰か分かりませんか。小川原さんの「西南戦争」ではないです…

勘違いしやすい例でいうと佐川官兵衛とか。
あと新選組三番隊隊長の斉藤一、当時は藤田五郎ですか。
一ちゃんのほうは昔調べたことがありますが、田原坂の戦いには参加してません。
九州に渡ったのは5月。豊後口。
田原坂の戦いは3月ですから、物理的にこちらで編成された抜刀隊に参加するのはムリですよね。

とにかく何だか色々な情報が交錯しているような気がします。
 


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クランク・イ~ン!

2009-09-23 | ヒストリ:近代MTS
…熊本行こうかな…

とマジで考え始めました…(笑)
熊本城周辺と植木の辺り。本当にタイムオーバーで行き残している所結構あるんですよねえ…
熊本行くなら鹿児島まで1時間だし竹田も1時間だなと思うとホラ、こうなんだかムラムラと…(笑

そういえば、映画『半次郎』が先週末クランクインしたそうです。
それが桐野利秋開墾地、吉田からという!なんという!!
ぎゃああああっ!!大好き榎木さん!(落ち着け)

というか公式サイトでキャストが発表されていました。
ちょっと目を離すと情報がどんどん更新されている。

中村半次郎 榎木孝明
永山弥一郎 AKIRA(EXILE)
さと 白石美帆
鮎川小次郎 葛山信吾
西郷隆盛 田中正次
大久保一蔵 北村由起哉
別府晋介 津田寛治
村田新八 坂上忍
篠原国幹 永澤俊矢
辺見十郎太 広島光
常吉 田上晃吉
藤 雛形あき子
村田屋伊兵衛 竜雷太

ながやましゃん…え、えぐざいる!?

そうなんだ…最近よくテレビに出てる人かな?人数いすぎてよくわからん。
別府君を津田寛治がというのは何かで見た記憶がありますが。
そうかーしんぱっちー村田を坂上忍がですか。
もうそんなお歳なんですね(笑)なんだか若いイメージがあるので…(^^ゞ
『田原坂』では西郷菊次郎役でしたね。
まあ、どんな映画になるかな~楽しみにしてますよ~
しかしどういう時間配分で幕末と明治をやりくりするのだろう。
それがものすっごい疑問なのです…
発表されているキャストだけを見ていると、どうも幕末の比重が大きいような。
映画は2時間半以内に纏めろ3時間なんて以ての外と思っている私ですが、幕末2時間明治2時間でも喜んで観る。桐野なら。
というか、映画の公開が更に延びています!9月になってる(笑)

3月→5月→9月

どんどん延びるな~
最終的に再来年とかにならないよね?(^^ゞ
軍服用に要らなくなった学生服を寄付してくださいという話も出ていましたし。
会社でなく個人でフィルムを作ると借金まみれになると聞きましたが、本当に大変そうだ…

で、明日は城山が陥ちた日ですね。
とりあえず田原坂史跡レポの続きをUPします。
 

今白洲次郎見てますが。
GHQ民政局次長と不倫関係になった鳥尾子爵夫人の話出てくるかな。
疑問に思いつつ調べたことがないのですが、この鳥尾って鳥尾小弥太の関係?
  


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>なかむらきりのさん
いえ、なんだかいつもタイミングが悪いというか…
なかむらきりのさんからメッセージを頂く時は何らかのトラブルが起きているような気がorz いつもお手数をおかけしてしまいすいません。
三宮においででしたか!
私も所用で何度か三宮~神戸に出ていましたので、もしかしたらすれ違っていたかもしれませんね♪
でもあの辺り、観光できる所は大してないですよ(笑)(←県民にあるまじき言葉…)

明日御命日ですね。
特に何もできませんが、上記の通り史跡レポをUPしようかと思っています。
田原坂の写真は我が事ながら驚きました(^^
本当になぜか田原坂では(というか熊本では)親切にして頂いてます。
ありがたや…
30日お墓参りですか。羨ましいです!
やはり行くならこの時期に行きたいですよね~

越すに越されぬ田原坂

2009-09-21 | ヒストリ:近代MTS
ひースイマセンスイマセン。生きてます。
久しぶりにPC付けまひた…何か色々溜まってる(吐血

しばらく前に「田原坂(←史跡レポ)の続きを今月中に始める」と該当ページで大宣言。(ブログじゃない所が何とも…
首絞めたと思いつつなんだか目途が立った。よかった。
で、田原坂の関連ページですがとりあえず全体的に写真入替作業をしました。
といっても写真を大きくしただけですが、次回更新以降随分見やすくなると思います。多分。
全然触ってないページもあるんですが。
吉次峠とか吉次峠とか吉次峠とか(笑
田原坂のレポートは作り始めた時、まだ旧ドメインで写真の容量をエラく気にして作っていた記憶があります。
プロバイダーを変えてから容量の悩みは解決しましたので、気が向いた時に密かにかちかちいじってます。
とはいっても内容はほぼ触らず、写真とか見栄えが良くなるようにというだけですが。

で、田原坂ですが現地の写真と思って色々アルバムをみていたんですが…



これ今度使う写真。サイトにはもう少し大きいのを載せます。
自分でよくこんな写真撮ってたなと感心しました(笑)
エライ。3年前の自分。
西南戦争、田原坂の戦いの中でも激戦地になった辺りの写真です。
田原坂の戦いは明治10年3月4日~20日。
薩軍と政府軍の攻防がこの小さな坂をめぐって繰り広げられるわけですが…
手前の二俣台地に陣取っていたのが政府軍。
奥の田原坂に陣取っていたのが薩軍になります。
田原坂資料館(田原坂の頂上)から、三の坂、二の坂、書いていませんが一の坂と下っていく。
一の坂の入り口(境木)からは政府軍の主力部隊が突入し、
二の坂の下辺り、舟底から七本柿木台場あたりへも部隊が投入される。
有名な警視庁の抜刀隊が投入されたのはこの辺りですな。
それを援護するために二俣台地からは猛砲撃が加えられた。
それが3月20日の早朝。
七本柿木台場の防衛線が破られて薩軍は向坂へ敗走することになる。
そういう辺りの写真です。



これは田原坂から撮った二俣台地の写真。
で。
ページを作っている時に気が付いたんですが、上の写真と下の写真、撮影した日が同じだった。
06年9月21日と99年9月21日。
そうか~ちょうど10年前の今日、初めて田原坂に行ったんだな私。
…と思いまして(笑)

田原坂はね~…私いい思い出しかなくて。
本当に行くたびに地元の方に親切にして頂いている。
10年前は地元の方の色んな話を聞いて、テレカ貰って本貰って小玉スイカ丸まま1個貰って(笑)
いやー流石に旅行鞄にも入らず両手で抱えて電車に乗りました。
でそのまま鹿児島に行った…(爆笑
3年前はこれまた地元の方に、吉次峠に連れて行ってもらい横平山に行き半高山に行き、山鹿を回って植木駅まで送って頂いた。
吉次峠とか、普通に旅行者が行ける所じゃないよ…(マジで



乃木希典が連隊旗を奪われたのは植木駅よりも少し熊本城寄りの向坂。
田原坂の戦いが始まる10日程前のこと。 

ついでにこの方面の現場指揮を取っていたのが野津道貫。
当時大佐。日露戦争時の第4軍司令官ですな。
政府軍は田原坂を落として一気に向坂まで追撃するのですが、ここで踏みとどまった薩軍に挟撃されて進軍不可。植木まで退却することになります。
この時に奇襲を仕掛けたのが小倉壮九郎。東郷平八郎の実兄。
この方は城山の攻防戦で亡くなっています。

真ん中を通っているのが鹿児島本線。
無料グーグルアースさんですので、3Dじゃない所がもどかしい。
凹 ←こうなってるんですよ。
豊岡眼鏡橋とある「橋」のあたりが田原坂の入り口付近。
そこから真ん中やや右を走るのが田原坂になります。
赤い文字がある所ではないです。
線引いて分かりやすくしようかと思ったのですがね、鳥瞰にならないし、却って分かりにくいのでサイトで使うのは断念しました。

西南戦争関連の本が散乱している様子を見て「今度はどこ行くの」と聞かれてしまった(笑)
熊本行ってもいいな~。まだ行けてない所沢山あるんだ。
 


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>なかむらきりのさん
レス遅くなりましてスイマセン。見てらっしゃるかな…
そしてお久しぶりです!データ復旧していました。
篠原の写真、そうなんですか(笑)
桐野になったりというのは初めて知りましたが…どうなってるの新人◎往◎社(笑)書いている人によって指示が違うのでしょうか?
他の写真と比べると頬の辺りが?とは思っていましたが、普通にそうなんだと受け止めてました。うーん。
人から聞いた話ですが、桐野のあの写真も実は桐野じゃないなんて話もあるようですし、何だか???ですね(^^A キリがないというか何というか。
「桐野利秋のすべて」の写真もですか~…はあ…(苦笑
写真の人名が変わるにしても、どういう考証を経てそうなったのかは知りたい所ですよねえ…
素人ではどうしようもないなあ(遠い目

前九年役、終結

2009-09-17 | ヒストリ:平安の風
■サイト更新 平安創作:【ほたるび11話/12話】 微行・繋絆

昨日も更新してたんですが、熱が出ててブログどころで無かったです。
2年ほどぶりに偶然会った人がいたのですが、ちょうど薬買いに行く時で顔真っ青吐き気でふらふら。向こうは赤ちゃん連れてるし、2言3言位で愛想悪く分かれるという何ともアレなorz(流石に凹む)
とりあずほたるび更新です。ちょっと長めと短いのと。
半年ほど前に書いたものですが、読み返すと恥ずかしいなコレ…(半笑
ゆる~い内容です。あいかわらず。
しかしながら、やっと出て来たよもうひとりの御曹司!
これからしばらくすると戦争に突入していくわけですが、それまでは絡ませたいですいっぱい(笑顔)源氏の御曹司と安倍の御曹司。
こちらの方では宗任と正任位までかな~出てくる弟は。
13話ではやっと経清と永衡が出てくるよ。はーここまで長かった。
ぼちぼち書きためて、また纏めて更新しようかと。
ご覧いただければ幸いです。



で、今日は前九年役が終結した日。
即ち安倍貞任、藤原経清の御命日ですねえ。
このブログでも何度か触れていますので、既に耳タコの方もおられるかと思いますが…
平泉を開いた藤原清衡の父が経清、伯父が安倍貞任になります。
古代東北の雄・安倍氏が最後に依ったのが厨川柵。現在の盛岡市になります。
現在でも擬定地という形ではありますが、柵跡が史跡として残されている。
こちらは既にサイトの方に史跡レポを上げていますので、興味のある方はどうぞ。

盛岡 前九年の役関連史跡: 厨川柵擬定地(天昌寺)他

9月17日に戦が終結したとはいえ当時は陰暦(10月下旬)。
それに加え場所も岩手県ですので、もう随分寒かったのではないかと思いますねえ…


ここにおいて経清を生虜る。将軍召し見て責めて曰く、

「汝の先祖相伝えて予が家僕たり。
しかるに年来朝威を忽緒し、旧主を蔑如す。大逆無道なり。
今日白符を用い得るや否や」と。

経清首を伏して言うことあたわず。将軍深くこれを悪む。
故に鈍刀を以てその首を斬る。
これ経清が痛苦久しからんことを欲すればなり。

貞任は、剣を抜きて官軍を斬る。官軍鉾をもってこれを刺す。
大楯に載せて、六人してこれを将軍の前に舁く。
その長六尺有余、腰の圍七尺四寸、容貌魁偉にして、皮膚は肥白なり。
将軍罪を責む。貞任一面に死す。



最後の様子です。
厨川柵で籠城していたのですが、最後はふたりとも柵から出て戦っていたんですね。
経清は捕えられ、陸奥守兼鎮守府将軍である源頼義の前に引き出された。
頼義は八幡太郎義家の父になります。

経清を引き据えた頼義は言うわけです。
お前は先祖の代より我が家の家人であろう。そうであるのに朝廷に反し、旧主である我にも反した。大逆無道と言うべきだ。
そして「今でも白符を用いる事ができるか」と。
当時税を納めたらその受け取りか何かとして赤符が発行されていたそうです。
しかし朝廷に納められるべき税を安倍方が取り立て、その受け取りで白符を発行していた。
陸奥話記では確か源氏の目の前で米かっさらって白符発行していたのが経清でしたか。
特に何も答えない経清を見て頼義は刃の欠けた刀でもって経清の首を挽いた。
苦痛を長引かせるために、と陸奥話記にはあります。

一方の貞任は生け捕られた時、瀕死であったようです。
背が高かったんですね。
180センチ以上、腹周りにっ、にめーたー以上というメタボ大男。
いいんです。私の耳には180㎝以上という話しか入りません。
吉田茂のように私の耳は都合のいいことしか聞こえないんです(笑)
安倍氏は巨漢伝説というか、色んな書物で大男という話になってますねえ。
時代を下るごとに大きくなっているというのをどこかで読んだことがあります。
で、その貞任も大きな板に乗せられた状態で頼義の前に引き出されます。
頼義が貞任を責めても、それをちらと一瞥するだけで落命した。
彼らの首級が戦後どうなったかというのは去年書きましたので、興味がある方はどうぞ。

落日譜 ~貞任の首

前九年といいつつ、実は足かけ12年に及ぶ大戦争でした。
どうも後に起った後三年の役と混ざった揚句ごっちゃになったらしい。
後三年の方は3年間で終わったんですけれども…

長期に及ぶ戦争とはいえ東北の話でもありますし、それプラス米を育てて収穫しないといけないので、1年のうちで実際に戦闘が出来る時期って非常に限られていたようですね。
源氏の力不足というのもあると思いますが、ここまで長引いたのはそういう所にも原因があるようです。

安倍氏は棟梁の貞任が戦死、弟も重任が戦死していますが、他は投降して許されています。
後伊予や太宰府等に配流となっている。
特に貞任の次弟・宗任は太宰府に流された後どうやら平穏に過ごしたようです。
娘が甥清衡の妻になっていますし、またこの人、九州の松浦水軍の祖と言われている。
更に付け加えると安倍晋三元総理のご先祖さんですな、宗任は。
「安倍一族」という宗任系のご子孫さんが作った本があるのですが、父晋太郎さんが文章を書いている。
貞任には千代童丸という嫡子がいましたが、彼も厨川の陥落で亡くなっている。
で、もうひとり高星丸(たかあきまる)という幼子がいたらしい。
こちらが青森の十三湊(とさみなと・現十三湖)に逃げ、安東水軍の祖になったと言われています。
安東水軍といやオメー、すごいよ…鎌倉から室町にかけての東北の大豪族です。
不思議と水軍に縁のある家ですな。

東北で安倍の血を引いているというのは、一種のステイタスだったようです。
安倍貞任の血を引く○○とか、たまに見る。

朝廷には朝廷の、源氏には源氏の、安倍氏には安倍氏の正義があった戦争だと思いますが、中央から見るとやはり安倍氏は”朝敵”扱い。
それなのにステイタスなのか、凄いもんだなといつも思うのです。
東北に住んでいなければ分からない歴史感覚があるのだろうなと。
 



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拍手、15日分データが異常だそうです。
多分特にコメントなどないと思いますが一応。