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2013/12/31 ヒジハラ

東京、100年前

2009-09-14 | ヒストリ:近代MTS
昨日の「素敵な宇宙船地球号」見ました?
私はテレビをつけ流しにしていて偶然見たのですが、105年前の写真、凄かったですね。

ご覧になっていない方の為に書きますと、東京の空撮写真が出ていたのですよ。
それが最古の東京の空撮写真で、明治37年、撮影したのが海軍で気球から。
海軍か~よもや水路部ではあるまいな?(笑
そういったことは基本的に陸軍の陸地測量部がやっているものだと思っていましたので、海軍の写真というのが意外でした。
色々な事をやっているのですねえ。実に面白い(ガリレオ先生)。
しかし遠い記憶を辿ると西南戦争の時でも気球を軍用する話、出ていたんですよね。
熊本城に籠城した谷干城以下熊鎮首脳部を救うために。
そのシュミレーションをしていたのは確か海軍でした。

それはともかく明治37年ですよ。
月日は出ていませんでしたが、これがあの人たちが暮らしていた街かと思いました。流石に。
広瀬が住んでいた街を、上空から。
今みたいに超高層ビルなんてないし、あっても浅草にあった浅草十二階(凌雲閣)。
道路も舗装されていませんし、あー…のどか(笑
これが百何年か前の大都市・東京だったんですね。今とは全く違う世界。

 


空撮写真ではありませんが、明治30年発行の東京鳥瞰地図です。
久々に広げた。大きすぎるので全体を写せません。

 皇居の南側。

 こうなってる。

官庁街。霞ヶ関ですね。
皇居の周辺はお役所や大きな会社が多いだけに西洋風の建築物が多い。
少し離れるとひしめく様に民家が建ち並んでいます。

 ちょっと海の方へ。

まだ鹿鳴館がある。
鹿鳴館の政治目的での利用は早々に失敗し、数年で宮内省に払い下げられています。
建物自体は結構長いこと使われており、取り壊されたのが昭和15年か16年か、その辺り。名前は変わらずに使われていたんでしょうか?

 さらに海の方へ

築地の辺り。
海軍大学校と水交社があります。
こちら、元々海軍兵学校があった所ですね。既に江田島に移転した後。

 

こう見ると、今とは全然街の様相が違う事が分かります。
川がまだ生きてる。
江戸時代、江戸での主要な交通手段のひとつは舟でした。
大坂は水の都と呼ばれますが、江戸も水の都ですね。
画面右上、黄色になっている所がありますが、この辺り日本橋小網町。
西郷隆盛が住んでいた所。

江戸の町並みは残っていないと言われています。
大正の大震災と昭和の大空襲で壊滅した。
しかしながら山本夏彦の本を読んでいると、それでも根岸あたりと神田の連雀町は震災も空襲の被害も免れてたそうで、まだ残っていると。
今現在もそうであるかはちょっと分かりませんが、その文章が書かれた当時は古い古い木造の建築物が建っていたそうです。
”『戦前』を見に”学生を連れて行ったら、それを見て当時の日本は貧しい国だったのだと茫然としたという文章が印象に残っています。
今と比べるとねえ…。

そういえば昨日の番組内では明治神宮の森の話がされていましたが、実は世界中の大都市で一番緑が豊かなのは東京です。
意外でしょ?(笑

江戸の中心を占めるのは武家地で、それが大体7割ほど。
1.5割が寺社、残りの1.5割が町屋。
大きく山の手と下町に二分できますが、山の手の方は武士階級、下町は町人・商人階級です。
山の手は台地、下町は海の方。低地。
関東大震災まではその台地と低地を分ける崖のラインがはっきりと見えており、そこが境界線であったそうですが、今はそれもない。

で、その7割の武家地ですが、みなさんご存じの通り参勤交代で出てくる諸大名のために幕府が下された土地なんですな。
国元から江戸にやってきた時に住む。藩邸です。
藩邸にも種類がありまして、
 ・上屋敷
 ・中屋敷
 ・下屋敷
一番重要であるのは上屋敷で、ここはお殿様や藩士が駐在する、江戸に於ける藩政府の中心地。
中屋敷には先代、世継ぎが住む。
下屋敷は別荘地、また上屋敷に何かあった時の避難所でもあります。
これが江戸城を中心に展開していて、重要な屋敷ほど城に近い。
下屋敷が置かれるのは大抵郊外になります。
郊外と言っても当時の江戸の範囲は狭いので、今では都心。
例えば浜離宮もどこかの藩(忘れた)の下屋敷です。
下屋敷以外でも大抵樹木は植えていたでしょうし…
広大な庭園、池。形は残っていなくてもその名残がある。
東京にはこういうのが今でも残っているんですよねえ。
 
因みに武家地であった山の手、明治維新以降は官公庁、政府高官(政治家、軍人)・資本家といった上流階級が住むことになる。
下町は変わらず庶民が住んでいる(笑)
現在の標準語はこの山の手の言葉であるということはよく知られています。
学校が始まった時、下町の庶民が山の手の言葉なんか話せるか~!という感じになったそうですね。お上品すぎて!って。

明治30年代というのは水道・ガス・電気といった生活のインフラが整い始めた頃。
いやーそれはいいすぎ。緒につき始めた頃。
日露戦争がはじまった頃、37年と30年ではもう本当に10年ひと昔位の違いです。
それが地方にまで広がるようになるのが大正期。

たった30年40年で物凄い進歩を遂げていたんですね。
明治の人が今の東京を見たら腰抜かすだろうね(^^
 


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