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③は数字はまったく出てこないよ(^.^) だらだら~っとくっちゃべりますです。
ちなみにこれはみんなド素人白猫がつらつら考えたことっていうだけで何の立証もされてません。また、ニースワールドの採点の是非に言及するものでもありませんので、その点よろしく。
長いしだらだらしてるし・・・なので、お暇と根気のある方だけお付き合いいただければ嬉しいですm(__)m
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人の感動には実は「脳」がえらく関わっているんだそうな。特に脳の中の扁桃体とか即座核なるものが・・・え~と淡白脳の白猫にはよくわかんないけどね(^。^;)。
さて、いろんな刺激・情報が入ってくると、脳でそれを分類する・・・シンプルに「快」と「不快」に分けるらしいけど・・・分類するとそれに適した反応を起こさせる。動悸が激しくなるというような自律神経の反応と、思わず笑っちゃったりするような身体的反応・・・その反応を更に大脳皮質が感知し、判別して自覚する。そこまでやってやっと人は「嬉しい」とか「悲しい」とか「すごい」とか、まぁいわゆる感情とか感動というものを実感するらしい。なんともややこしいことだ。
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ニースワールド表彰台の3人のFSは、「感動」を生み出す手法の違いが明らかで面白かった。
羽生のロミオは例えるならば超面白いアニメ。はっきりくっきり、観た者を間違いのない感情の放流に巻き込む。主人公に強烈に感情移入出来るという点で出色だ。作り方もはっきりしていて、最初に劇的な音楽と大技で引込み、その後静かに繊細に表現し、最後は怒涛のコリオで爆発させる。ある意味定番の感動曲線だが定番であればあるほど老若男女問わず、人はシンプルに感動出来る。もちろんそこへストレスなく引き込める羽生の能力(技術的にも表現的にも)があればこそ可能な手法だ。
チャンのアランフェスは例えるならば自然界の営みを綴る映像。彼自身に感情移入することはないが、氷河の崩落や海のうねりや、落日の燃える色が砂漠を染めていくさまのような・・・壮大さがある。高難度ジャンプをこともなげに決め、常に大きく身体を使って、素晴らしいスピードなのにゆったりたゆとうように感じさせるスケートは、それ自体が楽曲表現だ。
高橋のブルースは・・・う~ん、あんまり例えられない(^。^;)。素人の手撮りビデオに出てくる名も知らぬ老人の人生でもあるようで、あるいは遠い国の昼下がりの景色でもあるようだ。時間と空間が自由に行き来する・・・不思議な4分半。これを競技の枠で切り取るのは至難の業だろうなぁ・・・正直、ジャッジに同情するよ(^^ゞ
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思うに、「観客(視聴者)」と「ジャッジ」の感動曲線は違うんじゃなかろうか。
感動的な映画を見ているとして、それにどっぷり浸かれるのが「観客(視聴者)」だとしたら、「ジャッジ」は同じ場で映画を見ながら時代考証や衣裳・照明をチェックし、最後に総評を書かなければならないようなもんだ。
もちろん今のルールを、細部を見て全部を見ていない、欠陥だと結論づける価値観もあっていい。でもさぁ、細部には技術を伴うでしょう?ひとつひとつのジャンプの難度・精度・・・そこにも感動は存在する。高橋大輔のサーキュラーステップだけを取り出してみても「凄い!」って白猫は思う。その評価も競技である以上必要だと思うのだよね。
つまり、細部と全部、感情曲線の違う「観客(視聴者)」と「ジャッジ」・・・その全てをつかむ演技こそ最高!・・・だからこそ、このスポーツは面白いのだとわたしは思う。
そしてルールは、よりジャッジが感情曲線に入り込みやすい形に変わってきた。「コリオ」の採用だ。わたしは、「観客(視聴者)」と「ジャッジ」の感動曲線が最も接近するのがこの「コリオ」だと思っている。技術面ではなく表現面を主に評価されるわけだしね(技術チェックが皆無というわけではないけど)。
そういえば、ステップを特集した動画を見たとき、羽生のコリオに「あれ?」と思ったことがあった。二度見して「ああ、コリオ前の雄叫びがないからか」と妙に納得。つまりそこも含めてコリオなんだろう、あのロミオは。
チャンのニースワールドFSはジャンプミスから終盤音ズレしタイムオーバーとなった。コリオは本来の振り付けよりも全面的に遅れている。白猫は最初「音ズレしてもINは1位?」と思ったもんだ。実は全体で何位というのは絶対評価ではそれほど意味はもたないけれど・・・ジャッジ全員が高く評価したのは事実。でも、この音ズレこそチャンの怖さかもしれないと今は思う。いや、「音からズレたことを平気で受け入れて表現したこと」が、だ。あのコリオで彼が表現すべきだったことは「振り付け通り滑ること」じゃなくて、「雄大で大きな彼のスケーティングと、壮大な音楽とのコラボ」だ。だからこそあの振付はピンポイントの同調整をさほど重視していない。だってさぁ、見返してみて、おかしい?おかしくないんじゃない?その意味で、逆説的だけど、遅れを取り戻すために動きをカットするとか速くするという選択肢をまったく選ばなかったことこそ、彼のプログラムへの理解力を示していると思う。しかもチャンは最後までやった。スピン後、そのまま手を開いて終われば1点を失うことはなかったのに、だ。最後の跪いたポーズで上を見上げたかったんじゃないのかな・・・そこには表現への情動がある。
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観客あってのスポーツだからこそ、長丁場のFSは感動を喚起するものが多い。
羽生は「感動する音楽」と「感動する感情開放」で。
チャンは「感動する音楽」で。
では、高橋は?・・・白猫は、感動曲線に頼らないのが『Blues for Klook 』だと思うんだ。このプログラムの魔法を起動させるのは「感動」じゃない。それは「ゆとり」・・・とか「余白」じゃないかな。ニースワールドFSはそこにテクニカルを散りばめた・・・結果的に最もジャッジがルールの縛りから解放されて堪能できるコリオが表現としては弱くなり全体のインパクトを奪ったかもしれない。けれど技術を散りばめた上であれほど楽しげに軽やかに表現できることは驚異的だ。繰り返し見れば見るほどその素晴らしさが増してくる。・・・まぁ、採点競技としては醸造されていく魅力というのは得か損かわかんないけど(^。^;)
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のらりくらりと書いてきたけど、最後に。
フィギュアスケートは誰のためのものだろう?
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観客(視聴者)は感動を求める。そして自らが感じた感動と同じ結果を求める。
ジャッジはこの競技の進化に寄与すると信じてルールを遵守するが、それは時に観客の感動とは乖離する。
そしてスケーターは自らの理想を追い、最終的な満足を求める。
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白猫は、その全てのためにあると思う。だからフィギュアスケートはこんなに奥深く、こんなに面白いんだ。
「観客(視聴者)」・「ジャッジ」・「スケーター」、3つの異なる視点の感動曲線。その全てを手にした者こそが、真の王者なのだと思う。なかなか簡単には生まれないよね。
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・・・そしておそらく、「彼」ほどその3つの視点を無意識に持っているスケーターはいないと白猫は思ってるんだ・・・(^.^)
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