サードウェイ(第三の道) ~白井信雄のサスティナブル・スタイル

地域の足もとから、持続可能な自立共生社会を目指して

環境問題におけるジレンマ

2020年03月27日 | 持続可能性

(1)環境問題におけるジレンマとは何か

1)囚人のジレンマ

 私(たち)は利己的な行動をとるが、利己的な行動が自分に不利益をもたらす場合がある。環境問題は、まさに利己的である私(たち)が、自分の利己的な行動(加害)により、自分自身に被害を受けるという不合理な結果である。こうした不合理はなぜ生じるのだろうか。

 利己的である私(たち)が不利益な結果を得る仕組みは、「囚人のジレンマ」というゲーム理論によって説明される。1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案した理論である。

・ある犯罪で捕まった2人の囚人が別々に尋問を受け、自白を求められている場合、2人の自白の仕方で刑罰の重さが異なる。例えば、2人とも黙秘すれば2人とも懲役2年、いずれかが自白し、いずれかが黙秘であれば、自白した者は釈放、黙秘は懲役10年、2人とも自白すれば2人とも懲役5年だとする。

・2人の囚人はそれぞれ自分が釈放されたいから、自白をしてしまうが、その結果、両方とも自白をしてしまうと懲役5年になる。お互いが協力して黙秘をすれば懲役2年ですむのに、自分の利益だけを追求するから懲役が多くなってしまう。

 このように、囚人のジレンマは、協力行動を取るほうがよい結果をもたらすのに、非協力行動を選択する理由をモデル化して示している。利己的であることを追求した結果、不利益が生じるという矛盾である。

 環境問題は、自分だけよけれればと加害行動をとり、加害者同士での協力行動をとらないために生じるという点で、「囚人のジレンマ」に通ずる問題である

 

2)コモンズの悲劇:社会的ジレンマ

 「囚人のジレンマ」を発展させ、個人の利己的な行動が社会全体の不利益となり、自分の不利的として帰ってくるという仕組みを説明したのが、生態学者のギャレット・ハーディン(1968)による「コモンズの悲劇」である。単純化して説明する。

・3人の村人で共有する牧草地があり、各々が1頭の羊を放牧している。合計3頭の羊を飼うには十分な牧草があり、1頭当たりで10万円の利益を得ることができる(1人当たり10万円の利益)。

・村人のうち1人がもっと利益を得たいと考えて、さらに1頭の羊を放牧したとする。そうすると合計4頭の牛に対して、牧草が不足し、栄養不足となるために、1頭当たりの利益は9万円になるとする。それでも、羊を2頭に増やした村人は10万円の利益が18万円となり、増益となる。他の村人は10万円の利益が9万円になり、減益となる。

・このため、他の村人も自分も利益を増やしたいと考えて、放牧する羊の数を増やす。競い合って、羊を増やした結果、牧草地は荒れ果て、誰も使えないものになってしまった。

 この悲劇のように、個人の利己的な行動と社会全体の不利益の間でのジレンマを「社会的ジレンマ」という。「コモンズの悲劇」あるいは「社会的ジレンマ」は、環境問題が解決しにくい構造を示している。個人の利己的な行動が当然である状況において、他者への配慮、あるいは社会からの制約が与えられない限り、加害者同士の協調行動はとられないのである。

 

(2)ジレンマをどのように解消するのか

1)短絡的な目的合理性ではなく、広く合理的な判断の仕組みをつくる

 環境問題を解決するためには、個人の利己的な行動スタイルを許容しつつも、ジレンマの構造の解消が必要となる。すなわち、目先の利益を追求する目的合理性を改め、もっと広い合理性を行動選択の基準とするように、意思決定の仕方を個人あるいは社会において変更することが必要となる。

 広い合理性には2つある。1つは、「囚人のジレンマ」の構造において、他者と情報共有を行ない、双方は最悪とならないように協調して、行動判断をすることである。つまり、環境問題が生じているなか、一人ひとりが孤立せず、加害者同士でよく話し合う場を設けることが「囚人のジレンマ」を解消する。

 もう1つは、「コモンズの悲劇」という「社会的ジレンマ」に陥らないように、利己的な行動による社会全体の不利益、さらにそれが自分の不利益としてフィードバックされることを社会全体で共有し、行動判断をすることである。環境の悪化やその一人ひとりへの影響の予測、環境の悪化の原因と個人の責任等の状況を共有することで、社会的ジレンマが解消される。

 気候変動の問題のジレンマ構造を考えよう。気候変動の被害は、漸進的で実感しにくい、あるいは将来世代への被害として予測されるが現在世代の被害が小さい等とされてきた。このため、将来予測等の科学的な知見の共有が「社会的ジレンマ」の解消のために必要であった。

 しかし、1990年代以降の気温上昇や異常気象の頻繁化等を考えると、目に見えて実感しやすい被害になってきている。先進国は加害者で被害者意識は弱かったが、緩和策の遅れから気候変動が進行する今日では、先進国も被害者となっている。こうした状況では、現在の被害が自分に生じていることを共有することが、「社会的ジレンマ」を解消する手立てとなる。

 

2)環境倫理と環境正義の規範を社会制度に組み込む

 環境倫理や環境正義を、社会のあるべき意思決定を図る際の規範として採用し、その規範を法制度により、運用することも、「社会的ジレンマ」を解消する方法である。

 この際、環境倫理や環境正義に対して、私(たち)一人ひとりが理解し、それを規範として運用することを支持することが必要である。「自律性」がない環境正義は、「功利主義的環境正義」あるいは「エコファシズム的環境正義」に陥るからである。

 例えば、気候変動に関する国際連合枠組条約(1994)では、先進国と開発途上国の間の不平等への配慮が明文化されている。「島しょ国、沿岸地域、乾燥地城、砂漠化のおそれのある地域、ぜい弱な山岳の生態系を有する開発途上国は、特に気候変動の悪影響を受けやすいこと」、「持続的な経済成長の達成及び貧困の撲滅という開発途上国の正当かつ優先的な要請を十分に考慮すること」等の記述が、先進国と途上国の不平等への配慮に相当する。ただし、同条約には、過疎地、高齢者、女性・子ども等の社会的弱者への配慮は示されていない。

 生物の多様性に関する条約(1993)では、前文で「伝統的な生活様式を有する多くの原住民は、生物資源に緊密にかつ伝統的に依存しており、伝統的な知識、工夫及び慣行の利用がもたらす利益を衡平に配分することが望ましいこと」、「生物の多様性の保全及び持続可能な利用において女子が不可欠の役割を果たすこと」等の記述がある。

 

3)内面を掘り下げ、人間として成長する生き方をする

 社会的ジレンマを解消するためには、社会制度を変えるとともに、個人の利己的な生き方を変えていくことが求められる。当然ながら、環境倫理や環境正義をかざして、個人の生き方を変えることは避けなければならないが、利己的でない生き方を共有し、その生き方が生きづらいものとならないように社会基盤を整備することは問題とはならない。

 この際、利己的ではない生き方とは、利他を優先して我慢する生き方ではなく、私(たち)の内にある自然を解放することで、私(たち)も自然も生き生きとしていけるような内的に深い生き方である。


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