サードウェイ(第三の道) ~白井信雄のサスティナブル・スタイル

地域の足もとから、持続可能な自立共生社会を目指して

木地屋集落

2008年02月07日 | 環境の地理
1.関連研究の動向

 木地屋とは、山深い人里離れた場所に住み、椀・盆等の木地製品を製作しながら絶えず移動していく人々の総称であり、全国の各地に散在していた。

 最初に木地屋集落を構成する木地屋の研究に着手したのは、明治時代後半に椎茸栽培や木炭焼製の技術等の山林副産の指導に従事していた田中長嶺であった。田中は、各地の山村を奔走している時に、木地屋の存在を知り、1900年にその概要をまとめている。

 この文献の影響を受けて、科学的な立場から木地屋研究の端緒を開いたのが、民俗学者の柳田国男である。彼は、1911年以降に木地屋に関する研究を3編発表している。その内容は、木地屋の歴史、起源、木地屋文書、木地製造技術、分布等の多方面にわたっていた。事例中心主義をとる柳田の研究は、木地屋研究の端緒を開いた。

 それまでの研究者は木地屋研究の専門家ではなかったが、その後、木地屋の問題について専門的・本格的に取り組む者が現れた。農業経済を専攻する研究者であった杉本壽は、全国的な規模で木地屋を研究した最初の研究者であり、初めて木地屋を制度史的に体系づけた。

 また、橋本鉄男は、主として滋賀県及び東北地方を中心として民俗学的な分析を行った。特に、木地屋の生産技術・日常の生活様式・年中行事等を、伝承論的に個々の事例を通して綿密に調査した。

 多くの研究者は、木地屋発生の源は近江の蛭谷・君ヶ畑一帯であるとしている。
しかし、柳田国男・牧野信之助・杉本壽・橋本鉄男等の木地屋に多大の関心を有した研究者間では、木地屋文書あるいは『氏子狩帳』と称せられる文献史料を中心に、研究を展開してきたことが特色となっている。このような限られた文献史料だけで議論してきた結果、木地屋が近江小椋谷に位置する蛭谷及び君ヶ畑発祥一元論が多いようである。

 このように、木地屋が日本で独自に発祥した日本固有のものであるとみなす立場がほとんどであったが、近年の調査では日本の山地及び山間部に位置する集落とほぼ同様な自然的条件を有している地方(中国の雲貴高原やベトナム北部)においても木地屋の存在が認められている。


2.関連研究から得られる知見

●地形図にみられる木地屋の分布

 各地に残っている地名から木地屋集落の分布の復元が試みられている。木地屋集落が存在していた場所の地名には、関連する言葉が用いられているため、それをもとに復元している。

木地屋集落に関連する地名として地形図にみられる地名:
 ・木地製品を製作する主要道具であるロクロに因んだ地名(例:轆轤、六郎、鹿路等)
 ・木地屋、木地あるいはその同音異字体である雉路等の名称が付随している場合
 ・述した木地屋固有の姓である小椋に関連する地名(例:大蔵、大倉、小倉等)

 北海道で木地屋集落がないのは、原木となる広葉樹林がほとんど生育できないという自然条件に加えて、本格的に入植や開拓の実施が、木地業が衰退期となる明治時代以降であるため、木地業が成立し、集落が形成される可能性が少ないためである。

 中国及び四国地方では、西部では木地屋、六郎という地名、東部では小倉という地名が卓越するというように、両地方の東西では集落名称が異なっている。

 近畿地方においては、地形図の記載例からは、日本の木地屋根元地として信じられている蛭谷・君ヶ畑を含む滋賀県内に木地屋集落が1例も発見できない。さらに、木地屋集落の存在が全く確認できない紀伊半島に対して、兵庫県の山間部に木地屋集落が集中しているというように、地方内においても地域的な濃淡が明確に認められる。

 中部及び北陸地方は、木地屋集落の分布が大変希薄な地域となっている。わずかに岐阜県の山間部を中心とする西部と、愛知県の山間部を中心とする地域に見られる程度である。

 関東及び東北地方も木地屋集落の分布が希薄である。とりわけ、広大な平坦地の比率が高いせいか、茨城県と神奈川県の一部地域を除き、関東地方では分布が少ない。

 東北地方の中心は、北上高地、出羽山地、八溝山地の3地域に分布がほぼ限定されている。これらの地域では、河川の最上流に位置する集落は非常に稀である。

 このように、木地屋根元地と信じられている近畿地方や、それに隣接する地域よりも、むしろ遠隔地である九州および東北地方にその分布が濃くなっている。

 これらは、東北地方に代表されるように、中央の近畿地方から原木を求めて移動していった木地屋が、その資源の生育限界地域で定着し、「ムラヅクリ」を実施したことも理由の一因ではないかと推定されるが、主な理由は現在のところ不明である。


●『氏子狩帳』をもとにした木地屋集落の分布

 全国各地の木地屋を巡回しながら、お互いに連絡をとって行く組織が氏子狩と呼ばれる制度であり、その記録をつづったものが「氏子狩帳」と呼ばれるものである。これをもとに、木地屋集落の分布とブナの分布を重ねた地図がある。

 この図でみられるように、わが国の漆器産業に大きく貢献した移動性の木地屋によるブナ、トチノキ等の利用は、まず近畿地方から順次、中国地方、中部地方へと拡大していったと考えられる。

 近畿、中国、四国、九州のブナの分布と木地屋の集落は、ほぼ全域において一致している。このことは、マクロに見た場合、氏子狩の終わる明治初期にはこの地域のブナ林は木地屋によって蚕食され、ほぼ全域にわたって二次林化が起きていたと考えられている。

 中部地方以北とくに東北地方においては、ブナの分布が木地屋集落に比べて相当に広い。これは木地屋によるブナの伐採の手が、西日本に比べると、明治初期の段階ではまだ入りきっていなかったことを意味する。
 
 また、このことは、近世からの木地屋の移動は、西日本から原料の豊富な東北地方へのマクロ的な移動(遠心的移動)が行なわれている傾向があったことを裏付けている。

 東北地方の岩手県及び中部地方の中央部に、木地屋の分布がみられない地域がある。この地域は古くからの馬の牧場が多く、古くから山に火入れを行なった結果、生じた草原が広く見られる。

 また、内陸性の気候で冷涼寡雨であり、元来ブナの生育には適しておらず、火入れ後の二次林としても材の硬いミズナラが優先する林分が多い。また、これはシラカバの分布域とも一致する。したがって、この地域には移動性の木地屋が利用できる樹種が少なかったと考えられる。


【参考文献】

 田畑久夫「木地屋集落 系譜と変遷」2002年、古今書院
 中川重年「木地屋の世界*その移動と森林の変化」
 梅原猛 他『ブナ帯文化』1995年、新思索社
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1 コメント

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木地屋と地名の関連 (たけちゃん)
2011-07-02 23:58:57
木地屋と地名との関連がとてもよくわかりました。北海道に木地屋が存在しない理由も納得しました。ありがとうございました。
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