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全文掲載 【寺田寅彦 根岸庵を訪う記】  付:参考文献

2009-03-01 21:15:31 | ★[近代の文学]
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【寺田寅彦 根岸庵を訪う記】 の検索結果 約 1030 件中 1 - 10 件目
2009-3-1

①■■■■ 根岸庵を訪う記 根岸庵を訪う記. ■■■■. 九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の 寓居 ( ぐうきょ ) を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も 賑 ( にぎ ) おうている。 ...
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②図書カード:■■■を訪う記作品名:, ■■■を訪う記. 作品名読み:, ねぎしあんをおとなうき. 著者名:, 寺田 寅彦 ... 底本:, 寺田寅彦全集 第一巻. 出版社:, 岩波書店. 初版発行日:, 1996(平成8)年12月5日. 入力に使用:, 1996(平成8)年12月5日 ...
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③“えぷろんの朗読本棚”: 寺田寅彦 ■■■を訪う記(2)ようこそおいでくださいました。シニアの手習いではじめた「福祉朗読」が縁で文学散歩を始めました。ご一緒に散歩をしていただければ幸いです。
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“④えぷろんの朗読本棚”: ■■■■ 思い出草次回からは寺田寅彦の「子規の追憶」「高浜(虚子)さんと私」「根岸庵を訪う記」を読んでみたいと思います。 ☆カテゴリ上のリンクに・・・本棚お話しPod で公開中の作品を掲載しました。 ただいま「林芙美子 清貧の書」を読み進めています。 ...
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⑤■■■を訪う記 寺田 寅彦 (てらだ とらひこ) - 小説@pedia根岸庵を訪う記 寺田 寅彦 (てらだ とらひこ) -小説@pedia.
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⑨富士山-言葉で描かれた「富士山」: ■■■■ 寺田寅彦. 野分止んで夕日の富士を望みけり. 朝寒や富士を向ふに大根畑. 「言葉の不思議」 アイヌ語「シリ」はいろいろの .... 「根岸庵を訪う記」 室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方 ...
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①寺田寅彦 根岸庵を訪う記根岸庵を訪う記. 寺田寅彦. 九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の 寓居 ( ぐうきょ ) を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も 賑 ( にぎ ) おうている。 ...
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②図書カード:根岸庵を訪う記作品名:, 根岸庵を訪う記. 作品名読み:, ねぎしあんをおとなうき. 著者名:, 寺田 寅彦 ... 底本:, 寺田寅彦全集 第一巻. 出版社:, 岩波書店. 初版発行日:, 1996(平成8)年12月5日. 入力に使用:, 1996(平成8)年12月5日 ...
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③“えぷろんの朗読本棚”: 寺田寅彦 根岸庵を訪う記(2)ようこそおいでくださいました。シニアの手習いではじめた「福祉朗読」が縁で文学散歩を始めました。ご一緒に散歩をしていただければ幸いです。
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“④えぷろんの朗読本棚”: 寺田寅彦 思い出草次回からは寺田寅彦の「子規の追憶」「高浜(虚子)さんと私」「根岸庵を訪う記」を読んでみたいと思います。 ☆カテゴリ上のリンクに・・・本棚お話しPod で公開中の作品を掲載しました。 ただいま「林芙美子 清貧の書」を読み進めています。 ...
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⑨富士山-言葉で描かれた「富士山」: 寺田寅彦寺田寅彦. 野分止んで夕日の富士を望みけり. 朝寒や富士を向ふに大根畑. 「言葉の不思議」 アイヌ語「シリ」はいろいろの .... 「根岸庵を訪う記」 室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方 ...
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根岸庵を訪う記
寺田寅彦



 九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居《ぐうきょ》を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑《にぎ》おうている。西郷の銅像の後ろから黒門《くろもん》の前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力《じんりき》と何か八釜《やかま》しく云って直《ね》ぶみをしていたが話が纏《まと》まらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠《かぶ》ったのがここばかりでない途中でも沢山《たくさん》見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入《はい》った。鞦韆《ぶらんこ》に四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。其処《そこ》へ美術学校の方から車が二台|幌《ほろ》をかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場《かんこうば》の方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方《そちら》へ足が向いたが丁度その前まで行くと一切《ひとき》り済んだのであろうぴたりと止《や》めてしまって楽手は煙草などふかしてじろ/\見物の顏を見ている。後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々|大姉《だいし》と刻してある。真逆《まさか》に墓表《ぼひょう》とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処《そこ》で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼《せいりょう》な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸《かみねぎし》までの道を聞いたら丁寧《ていねい》に教えてくれた。不折《ふせつ》の油画《あぶらえ》にありそうな女だなど考えながら博物館の横手|大猷院尊前《だいゆういんそんぜん》と刻した石燈籠の並んだ処を通って行くと下り坂になった。道端に乞食が一人しゃがんで頻《しき》りに叩頭《ぬかず》いていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文《びたいちもん》も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。※[#「虫+召」、第4水準2-87-40]※[#「虫+僚のつくり」、第4水準2-87-82]《つくつくほうし》が八釜《やかま》しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭《うやうや》しく子規《しき》の家を尋ねたが知らぬとの答|故《ゆえ》少々意外に思うて顏を見詰めた。するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序《ついで》にこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々|横柄顏《おうへいがお》が癪《しゃく》にさわったれども前のが親切に対しまた恭しく礼を述べて左へ曲った。何でも上根岸八十二番とか思うていたが家々の門札に気を付けて見て行くうち前田の邸《やしき》と云うに行当《ゆきあた》ったので漱石師《そうせきし》に聞いた事を思い出して裏へ廻ると小さな小路《こうじ》で角に鶯横町《うぐいすよこちょう》と札が打ってある。これを這入って黒板塀と竹藪の狭い間を二十|間《けん》ばかり行くと左側に正岡|常規《つねのり》とかなり新しい門札がある。黒い冠木門《かぶきもん》の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を乞うと右脇にある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師より予《かね》て紹介のあった筈《はず》である事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう。枕上《まくらがみ》のしきを隔てて座を与えられた。初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間《ま》の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々|咳《せき》が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に倚《よ》る事さえ叶《かな》わぬのであろうか。右脇には句集など取散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止るのは足の方の鴨居《かもい》に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本《もと》を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。まいかいは花が落ちてうてながまだ残ったままである。白粉花《おしろいばな》ばかりは咲き残っていたが鶏頭《けいとう》は障子にかくれて丁度見えなかった。熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言《かげん》な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。師と子規と親密になったのは知り合ってから四年もたって後であったが懇意になるとずいぶん子供らしく議論なんかして時々|喧嘩《けんか》などもする。そう云う風であるから自然|細君《さいくん》といさかう事もあるそうだ。それを予《あらかじ》め知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。室《へや》の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々《らいらい》たる赭土塊《あかつちくれ》を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。不折ほど熱心な画家はない。もう今日の洋画家中唯一の浅井|忠《ちゅう》氏を除けばいずれも根性の卑劣な※[#「女+冒」、第4水準2-5-68]嫉《ぼうしつ》の強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭《いや》であるから邪魔をしようとするのである。驚いたものだ。不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬《ねた》みを買い既に今度仏国博覧会へ出品する積《つも》りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道《しどう》の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白《こうはく》を貪《むさぼ》ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。少し若い女などになるとどうしても一円は取られる。それでなかなか時間もかかるから研究と一口に云うても容易な事ではない。景色画でもそうだ。先頃|上州《じょうしゅう》へ写生に行って二十日ほど雨のふる日も休まずに画いて帰って来ると浅井氏がもう一週間行って直して来いと云われたからまた行って来てようよう出来上がったと云っていたそうだ。それでもとにかく熱心がひどいからあまり器用なたちでもなくまだ未熟ではあるが成効するだろうよ。やはり『ホトトギス』の裏絵をかく為山《いざん》と云う男があるがこの男は不折とまるで反対な性で趣味も新奇な洋風のを好む。いったい手先は不折なんかとちがってよほど器用だがどうも不勉強であるから近来は少々不折に先を越されそうな。それがちと近来不平のようであるがそれかと云うてやはり不精だから仕方がない。あのくらいの天才を抱きながら終《つい》に不折の熱心に勝を譲るかも知れぬなど話しているうち上野からの汽車が隣の植込の向うをごん/\と通った。隣の庭の折戸の上に烏《からす》が三羽下りてガー/\となく。夕日が疊の半分ほど這入って来た。不折の一番得意で他に及ぶ者のないのは『日本』に連載するような意匠画でこれこそ他に類がない。配合の巧みな事材料の豊富なのには驚いてしまう。例えば犬百題など云う難題でも何処《どこ》かから材料を引っぱり出して来て苦もなく拵《こしら》える。いったい無学と云ってよい男であるからこれはきっと僕等がいろんな入智恵をするのだと思う人があるようだが中々そんな事ではない。僕等が夢にも知らぬような事が沢山あって一々説明を聞いてようやく合点《がてん》が行くくらいである。どうも奇態な男だ。先達《せんだっ》て『日本』新聞に掲げた古瓦の画などは最も得意でまた実際|真似《まね》は出来ぬ。あの瓦の形を近頃|秀真《ほずま》と云う美術学校の人が鋳物《いもの》にして茶托《ちゃたく》にこしらえた。そいつが出来損なったのを僕が貰うてあるから見せようとて見せてくれた。十五枚の内ようよう五枚出来たそうで、それも穴だらけに出来て中に破れて繕《つくろ》ったのもあるが、それが却《かえ》って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛《かたつむり》を這わして「角《つの》ふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちがって鋳物だから蝸牛が大変よく利いているとか云うて不折もよほど気に入った様子だった。羽織を質入れしてもぜひ拵えさせると云うていたそうだと。話し半《なか》ばへ老母が珈琲《コーヒー》を酌んで来る。子規には牛乳を持って来た。汽車がまた通って※[#「虫+召」、第4水準2-87-40]※[#「虫+僚のつくり」、第4水準2-87-82]《つくつくほうし》の声を打消していった。初対面からちと厚顔《あつかま》しいようではあったが自分は生来絵が好きで予《かね》てよい不折の絵が別けても好きであったから序《ついで》があったら何でもよいから一枚|呉《く》れまいかと頼んで下さいと云ったら快く引受けてくれたのは嬉しかった。子規も小さい時分から絵画は非常に好きだが自分は一向かけないのが残念でたまらぬと喞《かこ》っていた。夕日はますます傾いた。隣の屋敷で琴が聞える。音楽は好きかと聞くと勿論きらいではないが悲しいかな音楽の事は少しも知らぬ。どうか調べてみたいと思うけれどもこれからでは到底駄目であろう。尤《もっと》もこの頃人の話で大凡《おおよそ》こんなものかくらいは解ったようだが元来西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないからなおさら駄目だ。どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。黯然《あんぜん》として吾《われ》も黙した。また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底|見込《みこみ》がないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考《しろうとかんが》えで何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手《ひきて》の情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽《がく》の大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴《ろはん》の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか疊の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。烏はいつの間にか飛んで行っていた。また出ますと云うたら宿は何処《どこ》かと聞いたから一両日中に谷中《やなか》の禅寺へ籠る事を話して暇《いとま》を告げて門へ出た。隣の琴の音が急になって胸をかき乱さるるような気がする。不知不識《しらずしらず》其方へと路次を這入《はい》ると道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨《と》いでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとよう/\広い街に出たから浅草の方へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘《こうもりがさ》を阿弥陀にさしてゆる/\あるく。山の上には人が沢山《たくさん》停車場から凌雲閣《りょううんかく》の方を眺めている。左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業《かるわざ》の太鼓|御賽銭《おさいせん》の音に汚《けが》すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡《きんぶちめがね》隣に坐った禿頭の行商と欠伸《あくび》の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。[#地から1字上げ](明治三十二年九月)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
2004年7月8日修正
青空文庫作成ファイル:



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岡崎 ラサール・駒場東邦・渋谷幕張・東海・浦和・桐朋・広島学院・洛南・宇都宮・浅野
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海野十三『ネオン横丁殺人事件』 初出:「アサヒグラフ」(昭和6)年10月号

2008-07-26 16:39:19 | ★[近代の文学]
ネオン横丁殺人事件
海野十三



     1


 近頃での一番さむい夜だった。
 暦のうちでは、まだ秋のなかに数えられる日だったけれど、太陽の黒点のせいでもあろうか、寒暖計の水銀柱はグンと下の方へ縮(ちぢ)[#ルビの「ちぢ」は底本では「ちじ」]んでしまい、その夜更け、戸外に或いは立ち番をし、或いは黙々として歩行し、或いは軒下に睡りかけていた連中の誰も彼もは、公平にたてつづけの嚔(くしゃみ)を発し、
「ウウウン、今夜は莫迦(ばか)に冷えやがる」
 といったような意味の独言を吐いたのだった。
 猟奇趣味が高じて道楽に素人(しろうと)探偵をやっているという変り種の青年理学士、帆村荘六君も、丁度この戸外組の一人だった。彼は今、午前三時半における新宿のブロードウェイの入口にさしかかったところである。
 大東京の心臓がここに埋まっていると謂われる繁栄の新宿街も、この時間には、まるで湖の底に沈んだ廃都のような感があった。グロテスクな装飾をもった背の高い建物は、煤色(すすいろ)の夜霧のなかに、ブルブル震えながら立ち並んでいた。ずっと向うの十字路には、架空式の強い燭力の電灯が一つ、消しわすれたように點いていて、そのまわりだけを氷山のように白くパッと照しだしていた。
 アスファルトの舗道に、凍りつきそうな靴を、とられまいとして、もぐような足どりの帆村荘六だった。
「鐘わァ鳴ァる、鐘わァ鳴ァるゥ。マロニィエのオ……」
 どうやら彼はいい気持でいるらしい。傍へよってみると、ジョニー・ウォーカーの香がプンプンすることであろう。どこから今時分でてきたのか知らないが、多分代々木あたりの友人の宅での徹夜麻雀(マージャン)の席から、例の病で真夜中の街へ滑りだしたものであろう。
 身体がヨロヨロと横へ傾いた拍子に、灯のついていない街灯の鉄柱がブーンと向うから飛んできたように思った。こいつは奇怪なりと、やッとそいつを両腕でうけとめたが、ゴツリと鈍い音がして頭部をぶっつけてしまった。その拍子に正気にかえった。
「おお、つめたい」
 そう言って彼は、両手を鉄柱から離した。抱きついた鉄柱は氷のように冷えていた。うっかりそれを抱えた両手は急に熱を奪われて感覚を失い木乃伊(ミイラ)の手のように収縮したのを感じた。ひょいと眼を高くあげると、両側の建物のおでこのところに、氷柱(つらら)のようなものが白くつめたく光って見えるのだった。
「氷柱ができるような夜かいな」
 眼をこすりこすり幾度も見直しているうちに、帆村はウフウフ笑いだした。
「なアんだ、ネオンサインか。そして此処は正しくネオン横丁。わしゃ、すこし酔ってるね」
 それは、新宿第一のカフェ街、通称ネオン横丁とよばれる通りだった。氷柱と見えたのは、消えているネオンサインの硝子管だった。これがまだ宵のうちであれば、赤、青、緑の色彩うるわしい暈光(うんこう)が両側の軒並に、さまざまのカフェ名や、渦巻や、風車や、カクテル・グラスの形を縫いだして、このネオン横丁の入口に立ったものは、その絢爛(けんらん)たる空間美に、呀(あ)ッと歎声を発せずにはいられない筈である。だが唯今は丑満時をすこし廻った午前四時ちかく、泥のように熟睡しているネオン横丁を、それと見まちがえたのは、あながち帆村荘六が酔っ払っているせいばかりでもなかった。
 彼は鉄柱の傍を離れると、なおも蹌踉(よろよろ)と歩みを運んで、とうとうネオン横丁をとおり抜け、その辻の薄暗い光の下に暫く佇立していたが、決心がついたのでもあろうか、その儘まっすぐに三越裏の壁ぎわを這うようにつたわり、架空灯があかるく點いているムサシノ館前の十字路の、丁度真ン中まで辿りついたのだった。
「おや、なんだろう……」
 夜の静寂を破って、ドターンというような音響が、突然彼の鼓膜をうった。それは急にどんなものがたてた音であると言い当てられない程の、やや鈍い、さまで大きくない音であって、どうやら、彼の背後一二丁のところから響いてきたように思われたのだった。彼は半ば探偵意識を活躍させながら、一方ではその意識を浅ましく舌打ちしながら、後方をずっと見渡して、またもや別な物音がするかしらと耳を澄ましていたが、それから後はカタリとも音がせず、先刻鼓膜をうった音でさえ静寂の中にとけこんで、あれは自分の耳鳴りであったろうかと疑われるのだった。五分、六分、七分……。
「呀(あ)ッ、怪しいやつ……」
 ネオン横丁の出口にあたる四ツ角の、薄暗い光の下に、何者とも知れぬ人影がパッと映ったが、忽ち身を飜して電車道の横丁へ走りこんだ。その人影は帆村荘六の醒めきらぬ眼にハッキリした印象をのこさなかったが、和服を纏(まと)った長身の男らしく思われた。
「事件だ!」
 彼はそう叫ぶと、今度こそは本当に正気になって、あの人影がうつったネオン横丁の出口をめがけてバタバタと駈けだした。その四ツ角から左に曲って、人影を追ったがどうしたものか、どこにもその姿は見当らなかった。電車道を越えて、小路の多い大久保の方へ逃げこんだものと見える。そうだとすると、追跡は全く不可能になる。
 帆村は追跡をあきらめて、元の横丁へ、とってかえした。いまの人影は、どこから出てきたのだろう。それから例の怪音は、どの家から発したのだろう。どこかそのあたりに、今にも屍(しかばね)の匂いがプーンとして来そうに思われた。
 彼は怪音の出所を、ネオン横丁と断定した。それでその横丁にとびこむと、向うの端まで家並を、ザッと一と通り睨みながら、通りぬけたが、入口の扉や、窓などが開いている家は一軒もなかった。
(こいつは間違ったかな)
 そう思いながら、こんどは両側の窓下と戸口を一々丁寧に見てゆくことにした。彼の身躾(みだしな)みの一つであるポケット・ランプをパッと點けると、まずネオン横丁の入口に最も近いカフェ・オソメの前に跼(しゃが)んで戸口の前や、ステンド・グラスの入った窓枠(まどわく)などを照し、なにか異常はないかとさがしたが、そこには血潮も垂れていなければ、泥靴の生々しい痕もない。扉は押してもビクとも動かなかった。ではこのカフェ・オソメも大丈夫であろう。こんな風に、隣りから隣りのカフェへと、表口を一々しらべていった。だが、何処にも異状が見当らなかったのだった。
「人殺しィ。うわぁ、誰かきて……」
 イキナリ帆村の頭の上で、婦人の金切声があった。それは丁度、四軒目のカフェ・アルゴンの前だった。悲鳴は、その三階と覚しいあたりから発したようだった。
「うん、果(はた)して事件だ。さっきのは、するとピストルの音だった」
 帆村荘六の酔いは完全に醒めてしまった。彼はドシンドシンと、カフェ・アルゴンの扉に身をぶっつけた。扉は意外に苦もなくパタリと開いた。近所では、やっと気がついたものとみえて、窓をあける音や、人声や、下駄のかち合う音が、そこら近所に騒々しく湧きおこった。
 帆村が一歩足を踏みこんだところで、靴先にカタリと当たる何物かを蹴とばした。懐中電灯で探してみると、それはダンディ好みの點火器(ライター)だった。彼は手帛(ハンカチ)をだして、それを拾いあげると、ポケットに収いこんだ。これも事件の謎をとく何かの材料かもしれない。
 店をとおりすぎ、洋酒瓶の並ぶうしろに、三階へつづく螺旋階段(らせんかいだん)があった。二階へも別な階段があったが、二階と三階とを通ずる階段はなかった。帆村は螺旋階段に手をかけると、スルスル三階へ登っていった。
「やあ、――」
 三階をのぼりきった室には、けばけばしい長襦袢を着た三十ぢかい肥肉(ふとりじし)の女が、桃色の夢がまだ漂っているようなフカフカした寝床の上に倒れていた。その横に、も一つ寝床があるが、そこに寝ている人の姿はなかった。
「君、しっかりなさい、どうしたんです」
 帆村は女の艶(なまめ)かしい肩を叩いた。
 すると女は、ますます顔を夜具の中に埋めるようにして全身を戦(おのの)かせながら、左手をツとあげて、無言のまま表口寄りの隣室を指すのだった。さてはこの隣に、屍体が転っているのであるか。
「おお、これは――」
 帆村は、隣室の襖に手をかけたが、これは頑として動かなかった。よくみると、襖は襖だが、特製のもので、こっちからみると紙が貼ってあるが、裏の方は檜材かなにかの堅い板戸になっている。その板戸に内部から錠前がかかっているのだった。なんという厳重なしまりをしてある室なんだろう。
「君、鍵はありませんか」
 女は布団に顔を伏せたまま、かぶりを振るばかりだった。帆村は、ジリジリしてくる心をやっと押えつけながら、室のうちを、あちこちと見廻したが、襖がすこし開きかけている押入に気がつくと、急に眼を輝かしたのだった。
 それは江戸川乱歩が「屋根裏の散歩者」を書いて以来、開けた自由通路だった。押入の襖を開くと、女給の化粧道具や僅の梱などが抛(ほう)りこまれてある二重棚の上にとびあがった帆村荘六は、天井板を一枚外して天井裏にもぐりこんだ。それから、厳重なしまりのある隣室と思われる方向へ、腹這いになってすすんでいったが、電線のようなものに、片手を挟まれた拍子に懐中電灯をパタリと落してしまった。
「ちえッ!」
 光は消えて、帆村の眼は眩んだ。
 イライラしてくる数十秒間、やっと眼が闇に慣れてきた。
 すると、眼の前に、ボーッと光る猫の眼玉のようなものが見えるではないか。ギョッとして反射的に身を引いたが、よく見ると何のことだ、天井裏の小さな節穴だった。
(こいつはいいものがめっかった)
 帆村は、節穴の方に、ジリジリと這いよった。節穴は思ったより大きく一銭銅貨大もあった。それに片眼をあてて、ソッと下の方を覗いてみた。
「呀(あ)ッ」
 孔の真下には、果して、顔面を真紅に血潮でいろどった一個の惨死体が、ほのぐらい室内灯の光に照しだされて、横たわっていたのだった。それは、年の頃は五十がらみの男だった。彼は、寝床の中に、天井の方を真直向いて睡っているところを、射たれたものらしい。傷は致命傷だったと見えて苦しみもがいた様子は一向になかった。
 折から下では、ドシンドシンと凄じい音がして、その度に天井までビリリビリリと響いてくるのだった。警官たちが駈けつけて、いよいよ、厳重な板戸をうち破っているのだろう。
 帆村は屋根裏へ這いあがったついでに、そのあたりの様子をみて置きたいと思った。それで懐中電灯を落したあたりを手さぐりで探してみた。まず手にあたったのは、柱の切り屑のような木片だった。のけようと思ってひっぱったが、しっかり天井裏にくっついている。その横の方に手を廻すと、ヒィヤリと金具らしいものが、指先にふれたので、それをグッと掌のうちに握った。
「おや、これは懐中電灯ではない」
 ズシリと重みのある、そして大変冷たい物体だった。暗闇の中に、仔細に手さぐりをしてみると、正しくそれはピストルだった。
「こんなところに、ピストルが落ちていた」
 彼は一瞬にして或る場面を想像した。この屋根裏に忍びこんだ犯人が、この節穴から、下の老人を狙いうったのであると。では先刻ムサシノ館前の十字路で聞いたように思った音響は、このピストルの音だったのかも知れない。
「オイ、誰かッ。降りてこい!」
 いきなりサッと明るい光線が帆村の横顔を照した。警官が、さっきのぼって来た押入の天井裏から、こちらを誰何(すいか)したのだった。
「僕は……」
「文句があるなら後でいえ。サッサと降りて来ないと、ぶっ放すぞ」
 本気にぶっ放すかも知れない警官の意気ごみだった。帆村は苦笑いをして、それ以上の頑張りをやめ、拾ったピストルだけを獲物に、そのまま引返したのだった。
 警視庁から捜査課長大江山警部などの、刑事部首脳が駆けつけてくるまでの帆村荘六は、滑稽な惨めさに封鎖されていた。
「外山君」と大江山課長は、その警官の名を呼んだ。
「帆村探偵の素状を一応調査しておいた方がいいだろうかね」そういって警官の非礼を婉曲に帆村荘六に詫びるのだった。
 さて正式の取調が始まった。
 殺されたのは、このカフェ・アルゴンの主人である虫尾兵作(むしおへいさく)だった。
 その隣室にいた女性は、同人の妾である立花おみねと呼ぶ者だった。
 誰が殺したか。
 殺した手段は、帆村が発見したピストルによることは、大体明らかであって、なお屍体解剖の上で確かめられる手筈になった。では何物が、天井裏にのぼって、あの節穴からカフェ・アルゴンの大将虫尾兵作を狙い射ちにしたのか。
「おみねさん」と大江山警部は、悄気(しょげ)きっている大将の妾に言葉をかけた。
「この部屋には寝床が二つとってあるが、一つはお前さんの分で、もう一つは誰の分なんだい」
「ハイ。それはアノ……」
「はっきり言いなさい」
「ハ、それは、なんでございます、うちのナンバー・ワンの女給、ゆかりの寝床なんです」
「ウンそうか。で、そのゆかりさんは見えないようだが、どうしたんだい」
「それがちょっと、アノ、昨夜出たっきり帰ってまいりませんので……」
「なァ、おみねさん。胡麻化(ごまか)しちゃいけないよ。敷っぱなしの寝床か、人が寝ていた寝床か、ぐらいは、警視庁のおまわりさんにも見分けがつくんだよ」
 このとき帆村の頭のなかには、ネオン横丁の出口のところで見た怪しの人影のことがハッキリ浮かんできたのだった。
「言えないね」と大江山警部は顎(あご)をなでた。
「じゃ別のことを訊くが、大将は誰かに恨みを買っていたようなことは無かったかね」
「それはございます。妾の口から申しますのも何でございますが、ここから四軒目のカフェ・オソメの旦那、女坂染吉がたいへんいけないんでございますよ。このネオン横丁で、毎日のように啀(いが)み合っているのは、うちの人と女坂の旦那なんです。いつだかも、脅迫状なんかよこしましてね」
「脅迫状を――。そいつは何処にある」
「主人が机のひきだしにしまったようですが……」と言っておみねは机をかきまわしていたが「あ、ありました、これです」
「どれどれ」大江山警部は、状袋に入った脅迫状というのを取り上げて、声を出してよんだ。

すぐネオン横丁から出てゆけ。ゆかないと、さむい日に、てめいのいのちは、おしゃかになるぞ。

「なんだか、おかしな文句だな。さむい日と断ってあるが、こいつは当っている。おしゃかになるというのは『毀(こわ)す』という隠語だがこれは工場なんかで使われる言葉だ。――おみねさん、この脅迫状には名前がないが、どうして女坂染吉とやらが出したとわかるんだい」
「だって、外には、そんな手紙をよこす人なんて、ありませんわ」
「そいつは、何ともいえないね」と警部は言って、ちょっと考え込んでいたが、「この辺で工場へ行っている人とか、職工あがりという種類の人を知らないかね」
「ああ、あいつかも知れません。ネオン・サイン屋の一平です。あれはこの横丁の地廻りで、元職工をしてたので、ネオンをやってるんです。うちのネオンも、一平が直しに来ます」
「ふうん。一平と虫尾とはどんな交際だい」
「さあ、別にききませんけれど……」
 おみねは、やっと気分をとりもどしてきたようだった。
「おみねさん」そう言って口をはさんだのは先刻から黙って横にきいていた帆村荘六だった。
「その一平というのはどんな身体の男なんですか」
「ネオン屋の一平は、背が高くて、ガニ股でいつも青い顔をしていますよ」
「ほほう、背が高いんですね」帆村は、薄暗い灯影で見た男も背が高かったのを思い出した。
「では、あなたはこんなものを御存知ありませんか」
 そういって此処の入口で拾ったライターを掌の上にのせて、おみねの前にさしだした。
「あッ、それは――」それを一と目みたとき今まで明るかったおみねの顔色が、さッと蒼くなり全身に軽い痙攣(けいれん)までがおこったのだった。


     2


「このライターは誰のです?」帆村荘六は、おみねが驚駭(きょうがく)にうちふるえている前に、このカフェ・アルゴンの入口で拾ったライターをさし示した。
「……い、一平のでしょう」と、おみね。
「なに一平のライターだって」大江山警部は身体を前へのり出した。
「おみねさん、君が先刻返事をしてくれなかったことがあったね。この二つの寝床の一つは君が寝ていたが、今一つには誰が寝ていたか。それはナンバー・ワンの女給ゆかりの布団なんだろうが、入ってたのは別人だった。いいかね。この帆村君は、さっき四時前に、ここから長身の男が逃げてゆくのを発見したんだ。つづいてライターをこの家のうちで拾った。すると、こっちの布団(と、一方の寝床を指しながら)には、その背の高い、そのライターの持ち主が寝ていたのだ。もしそのライターがネオン屋の一平のだったら、お前さんはここで一平と寝てたことになるよ、それでいいかい」
「まァ、誰が一平なんかと……」
「もう一つお前さんに見せたいものがある」
 そう言って大江山警部は帆村に目交せをして屋根裏で拾ったピストルをおみねの前につきつけた。
「このピストルを知らないかい」
「ああ、これは……。これこそ一平のもってたピストルです。あいつは、これでいつかあたしのことを……。あたしのことを……」
 おみねはなにを思い出したものか、ヒステリックに喚きだした。
「やっぱし、あいつだ。あいつだ。一平が主人を撃ったのです。その外に犯人はありません。そうなんですよオ、そうなんです」
「これ、おみねさん、しっかりしないか。おい外山君、この婦人を階下へ連れてって休ませてやれ」
 おみねが去ると、三階には係官一行と帆村探偵とだけが残った形になった。
「どうだ帆村君」大江山警部はにこやかに呼びかけた。
「これは単なる痴情関係で、一平が女給ゆかりの身代りにこの寝床にもぐっていて、頃合を見はからって、屋根裏にのぼり、主人の虫尾を射って逃げ、その途中で入口にライターを落とし四つ辻では君に見咎(みとが)められて、逃走したと解釈してはどうかね」
「だが、同じ逃げるものなら、どうして寝床にぬくぬくと入っていたのでしょう。隠れるところはカーテンの後でも、押入の中でもいくらもありますよ」と帆村は反駁(はんばく)したのだった。
「うん、そいつはこう考えてはどうか。すこし穿(うが)ちすぎるが、あの夜、おみねは虫尾の寝床で彼の用事を果すと、この部屋に退いた。爺さん便所に立つときに、隣りの布団をみて(ゆかりの奴、寒がりだから頭から布団をかぶって寝てやがる)と思った。それから再び自分の室に入ると、脅迫状が恐いものだから、厳重に錠をおろして寝た。そこでおみねは、先客の一平が寝ているゆかりの布団へもぐりこんで、午前三時半までいた。それから頃合よしというのであの犯行が始まった。――」
「それにしても午前四時近くの犯行は、すこし遅すぎますよ」
「なあに、一平が脅迫状に寒い日にやっつけると書いた。一日のうちでも一番寒い時刻というのは午前四時ごろだ。で、合っているよ」
「えらいことを課長さんは御存知ですね、一日のうちで午前四時近くが、一番気温が低いなんて。それはそれとして、僕にはどうもぴったりしませんね。もう一つ気になるのは、ドーンとピストルが鳴ってから犯人が逃げだすまでの時間が、十分間ちかくもありましたが、これは犯罪をやった者の行動としては、すこし機敏を欠いていると思うです。タップリみても三分間あれば充分の筈です。しかも犯人は十分もかかりながら遽(あわ)てくさってライターを落とし、おみねさんは胡麻化(ごまか)すにことかいて、ゆかりの寝床を直すことさえ気がつかなかった。これから見ても両人は余程あわてていたんです。計画的な殺人なら、なにもそんなに泡を食う筈はないのです」
「うむ、すると君の結論は、どうなのだ」
「僕にはまだ結論が出ません」と帆村は首をふって言った。
「だが、この事件を解くにはもっと沢山の関係者がでてこないかぎり、三次方程式の答えを、たった二つの方程式から求めるのと同じに、不可能のことです」
「ほほう、すると、君は、ゆかりのことなんかも怪しいと見るかね」
 そこへドタドタと跫音がして、さっきの警官外山が上ってきた。
「課長どの、唯今、女給のゆかりが、こっそり帰ってきたのを、ここへひっぱりあげて参りました」
「なに、ゆかりというナンバー・ワンが……」
 ふりかえって見ると、その階段の上り口に高価な毛皮の外套を着た、ちょっとみると、入江たか子のような洋装の娘が立っていた。
「おお、ゆかりさんか、ちょっとこっちへ来て下さい」
 物馴れた大江山警部は、こともなげに、彼女をさしまねいたのだった。
「あなた、昨夜、何時ころから出て、どこへ行ってました、叱るわけじゃないから、ドンドン言ってください」
「あたし、あのウなんですノ、昨夜は、ちょっと外泊したんですが……」と、彼女は行末を契(ちぎ)ったNという青年と、多摩川の岸にあるH風呂へ泊りに行ったことを、真直ぐに告白した。そうして、午前五時近く暁の露を吹きとばしながら自動車で此処まで帰ってきたのだと言った。
(ウン、もう夜明けだ)
 帆村は、いつしか白く明るい光線が忍びこんで来た室内を、もの珍しそうに眺めまわしたのだった。
「あなたに、ちょいと見て貰いたいものがあるんだが、このピストルと、ライターに見覚えが無いですか」と大江山警部がいった。
「このピストルですね、オヤジを射ったのは。さあ、見覚えがありませんね。こっちのライターは……おや、これは、あの人のだ」そう言って、彼女はライターをキュッと掌のうちに握ると、言おうか言うまいかと思案をするような眼付をして、課長の顔をチラリと見た。
「おみねさんが教えてくれたんだがね」
「まあ、もう白状しちゃったんですか。そいじゃ私が言うまでも、これは銀さんのよ」
「なに、銀さん」警部はキュッと口を結んだ。
「銀さんって誰のことかい」
「おや、マダムは銀さんのだと言わなかったの、まァ悪いことをした。でも、こうなったらしょうがないわ、銀さんッて、マダムのいい人よ、木村銀太といって、ゲリー・クーパーみたいな、のっぽさんよ」
「一平と、その銀太君とは、どっちが背が高いんですか」と、横合から帆村がきいた。
「それはね」と、ゆかりは、新手の質問者の方を見てちょっと顔を赤くして言った。
「どっちもどっちののっぽですわ」
「銀太というのは、ここへもちょくちょく忍んで来るだろうね」大江山警部は訊いた。
「私が、いいだしにつかわれてるのよ」そう言って彼女は寝床の一つを指して鼻の先でフフンと笑った。
「いやその位で、ありがとう」








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底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「アサヒグラフ」
   1931(昭和6)年10月号
※「山下のおでん屋の屋台に噛(かじ)りついて」の「噛」には底本ではが使われています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:

若山牧水  酒と歌  800字

2008-07-26 16:38:22 | ★[近代の文学]
酒と歌
若山牧水



 今まで自分のして來たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を作つて來た事だけの樣である。いま一つ、出鱈目に酒を飮んで來た事。
 歌を作つて來たとはいふものゝ、いつか知ら作つて來たとでもいふべきで、どうも作る氣になつて作つて來たといふ氣がしない。全力を擧げて作つて來たといふ氣がしない。たゞ、作れるから作つた、作らすから作つたといふ風の氣持である。寢食を忘れてゐる樣な苦心ぶりを見聞きするごとにいつもうしろめたい氣がしたものである。
 わたしは世にいふ大厄の今年が四十二歳であつた。それまでよく體が保てたものだと他もいひ自分でも考へる位ゐ無茶な酒の飮みかたをやつて來た。この頃ではさすがにその飮みぶりがいやになつた。いやになつたといつても、あの美味い、いひ難い微妙な力を持つ液體に對する愛着は寸毫も變らないが、此頃はその難有(ありがた)い液體の徳をけがす樣な飮み方をして居る樣に思はれてならないのである。湯水の樣に飮むとかまたはくすりの代りに飮むとかいふ傾向を帶びて來てゐる。さういふ風に飮めばこの靈妙不可思議な液體はまた直にそれに應ずる態度でこちらに向つて來る樣である。これは酒に對しても自分自身に對しても實に相濟まぬ事とおもふ。
 そこで無事に四十二歳まで生きて來た感謝としてわたしはこの昭和二年からもつと歌に對して熱心になりたいと思ふ。作ること、讀むこと、共に懸命にならうと思ふ。一身を捧じて進んで行けばまだわたしの世界は極く新鮮で、また、幽邃である樣に思はれる。それと共に酒をも本來の酒として飮むことに心がけようと思ふ。さうすればこの廿年來の親友は必ず本氣になつてわたしのこの懸命の爲事を助けてくれるに相違ない。


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底本:「若山牧水全集 第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
ファイル作成:野口英司
2001年2月3日公開
青空文庫作成ファイル:

与謝野晶子 (『太陽』一九一八年六月)[ 平塚さんと私の論争]

2008-07-26 16:37:26 | ★[近代の文学]
平塚さんと私の論争
与謝野晶子


 私は女子の生活が精神的にも経済的にも独立することの理想に対して、若い婦人の中の識者から反対説が出ようとは想像しませんでした。それは、この理想の実現が人生に真の幸福を築き初める第一の基礎であることが余りに明白なことだからです。しかるに平塚雷鳥(ひらつからいちょう)さんが最近に私の主張する女子の経済的独立に抗議を寄せられたのは非常に意外の感に打たれました。
 平塚さんは、私が『婦人公論』誌上に載せた断片的な感想の中で「男子の財力をあてにして結婚し、及び分娩する女子は、たといそれが恋愛関係の成立している男女の仲であっても、経済的には依頼主義を取って男子の奴隷となり、もしくは男子の労働の成果を侵害し盗用している者だと思います。男女相互の経済上の独立を顧慮しない恋愛結婚は不備な結婚であって、今後の結婚の理想とすることが出来ません」と述べ、従って、妊娠分娩等の時期にある婦人が国家に向って経済上の特殊な保護を要求しようという欧米の女権論者の主張が私たちの理想と背馳(はいち)することを思って、「既に生殖的奉仕に由って婦人が男子に寄食することを奴隷道徳であるとする私たちは、同一の理由から国家に寄食することをも辞さなければなりません」と述べたのがお気に入らなかったのです。
 これに対して、平塚さんは「母は生命の源泉であって、婦人は母たることに由って個人的存在の域を脱して、社会的な、国家的な存在者となるのでありますから、母を保護することは婦人一個の幸福のために必要なばかりでなく、その子供を通じて、全社会の幸福のため、全人類の将来のために必要なことなのであります」という理由から、「母体に妊娠、分娩、育児期における生活の安定を与えるよう、国庫に由って補助すること」を主張されております。これに由って見ると、平塚さんは母性を過大に尊重しておられることが解ります。私は人間生活の高度な価値を父たり母たることに偏倚(へんい)させて考えることを欲しません。私が賢母良妻主義に反対するのも一つは同じ理由からです。勿論父たり母たることに人生の重要な内容の一つとして相対的の価値を認めることは何人(なんぴと)にも譲らないつもりでおります。しかし必ずしも「婦人が母たることに由って」特に最上の幸福を実現し得るものとは決して考えておりません。人間はその素質と境遇とそれらを改造する努力とに由って為(な)し得る限りの道徳生活を建設することが最上の幸福であると信じております。もし平塚さんの主張の通りにすれば、エレン・ケイ女史が人の妻ともならず、人の母ともならずに、著述家を以て一生を送りつつある如きことは、平塚さんのいわゆる「個人的存在の域」を脱しない不幸な婦人といわねばならないことになるでしょう。
 私は平塚さんとは異った立場から、固(もと)より正当に母性を尊重します。さればこそ、女性の尊厳を維持しつつ、出来るだけ順当な母性の実現を期するためにも、私は女子の経済的に独立することが必要であると述べているのです。これについては一条忠衛(いちじょうただえ)さんが近刊の『六合(りくごう)雑誌』で「夫婦の扶養義務について」と題して書かれた所と全く同感です。一条さんは学者としての研究的態度から、その議論が周到深切を極めております。その一節に「けだし人間が男女に分れているのは分業であって、その第一の目的は生殖的個性の発揮であり、第二の目的は精神的個性の発揮であって、この二つを兼ねて、男子は男子として、女子は女子として、その特殊的境遇の中に普遍的な人格を完成しなければならぬ者である。而して夫婦なる者は、実にこの分業を道徳的に誓約した至誠的和合であるから、その経済的生活に関しては協同的のものであって、主従の関係でなく、相本位的に同一の目的の下に、婚姻より生ずる一切の経済的費用を相互で自弁しなければならぬ関係者である。夫が妻を養うのでもなく、妻が夫を養うのでもなく、自ら自己を養いながら互に互を養う自他一体の有機的な経済的生活者である。……要するに、経済に関する夫婦間の生活費用は、扶養義務の形式において夫婦の共同生活を完成するための諸費であるから、その共同生活に必要なだけの費用を得ることに関しては夫婦は偕(とも)に生産者となり、労働者となってそれを負担すべき義務者であり、一方にのみこの重荷を負わせる訳には行かない」といわれたのは、今後の夫婦生活の理想として、まことに合理的だと考えます。こういう風に経済の保障が確立している夫婦生活の中でなければ、母性の順当な実現は覚束(おぼつか)ないことだと思います。
 平塚さんが「母の職能を尽し得ないほど貧困な者」に対して国家の保護を要求せられることには勿論私も賛成します。しかしその事を以て、私が「老衰者や癈人が養育院の世話になるのと同一である」といったことを、平塚さんが「間違っている」といわれるのは合点が行きません。老衰者や癈人の不幸はあるいは不可抗力的な運命に由ってその境遇に追い入れられるとも考えられるのですが、貧困にして母の職能を尽し得ない婦人の不幸は、私たちの主張するように、経済的に独立する自覚と努力とさえ人間にあればその境遇に沈淪(ちんりん)することを予(あらかじ)め避けることの出来る性質の不幸だと思います。私たちはその不幸を避けるために、女子の経済上の独立を主張し、「今後の生活の原則としては、男も女も自分たち夫婦の物質的生活は勿論、未来に生るべき我子の哺育と教育とを持続し完成し得るだけの経済上の保障が、相互の労働に由って得られる確信があり、それだけの財力が既に男女のいずれにも貯えられているのを待って結婚しかつ分娩すべきものであって、たとい男子にその経済上の保障があっても、女子にまだその保障がない間は、結婚及び分娩を避くべきものだと思います」と述べているのです。そうして、これは一条さんもいわれたように、「生活費用の計算において、夫婦は月末に同額を支出すべしというような乱暴な意味ではなく、ただ夫婦は各自の実力に従って自己の家庭のためには自弁者たるべしという意味である」のです。
 平塚さんは「現にあること」と「将(まさ)にあるべきこと」とを混同しておられます。現在の多数の婦人が経済的に独立していないからといって、未来の婦人が何時(いつ)までも同様の生活過程を取るものとは決っておりません。私たちは一つの理想に向って未来の生活を照準し転向しようとするのです。妊娠、分娩、育児等の期間において国家の保護を求めねばならぬような経済的に無力な不幸な婦人とならないようにという自覚を以て、女子が自ら訓練し努力しようとするのです。従って、国家の特殊な保護は決して一般の婦人に取って望ましいことではなく、或種の不幸な婦人のためにのみやむをえず要求さるべき性質のものであると思っています。この事を平塚さんが識別されるなら、私たちの主張に賛成して、私たちの議論の形式的に不備な点を補修されることはあっても、私たちの根本思想に反対される訳はないはずです。それとも平塚さんは、すべての母は国家に保護される権利を持っているから、必ずしも経済的に夫婦相互の独立を計る必要はない。妊娠、分娩、育児の期間は良人(おっと)に妻子の扶養を要求し、良人が無力であれば国家にそれを要求すれば好い。従って経済上の無力から生ずる不幸が十分に予見されていても構わず、恋愛さえ成立すれば結婚して、養育の見込の立たない子女を続々と挙げるのが今後の世界に認容される夫婦生活の公準であると主張されるのでしょうか。
 平塚さんは「十分な言葉の意味で、母の経済的独立ということは、よほど特殊な労働力ある者の外は全然不可能なことだとしか私には考えられません」といわれ、併せて私の主張のように経済的に無力な婦人は結婚を避くべきものだとすれば「まず現代大多数の婦人は生涯結婚し分娩し得る時は来ないものと観念していなければなりますまい。……如此(かくのごと)く今日の社会においては所詮実行不可能な理想を要求し、結婚年齢にある婦人を、健康な子供を産み得る婦人を、生涯もしくは長期間、独身者として労働市場に置こうとすることは、婦人自身の不幸はいうまでもありませんが、国家にとっても種種なる意味で大損失でなければなりません」といわれました。私は平塚さんが現実のみを――殊にその一面のみを――固定的に眺めておられるのを歯痒(はがゆ)く思います。現在の労働制度が我々人間の力で改造されないものと決っているならともかく、男子も女子も心的に体的に何らかの労働に従事することを以て物質生活を持続することが普通の状態となるに到れば、今に幾倍する摯実(しじつ)と熱心と勇気とを以て、一般の労働制度を我我に最も適応したものに鋳直(いなお)さずには置きません。そうなれば、勤勉な労働婦人は、その妊娠、分娩、育児に要する或時期だけ労働を休んでも、平生と同じ物質的の報酬を得ることも出来、また平生の報酬の剰余を貯蓄して置くことに由って、その期間だけ労働を休んでも、夫婦相互の扶養と子供の哺育及び教育に当てるだけの物質に不足しないでいることが出来るに違いありません。こういう労働制度の改造も男女相互の経済的独立心が旺盛にさえなれば実現され得べき事実です。平塚さんのように、「大多数の婦人は生涯結婚し分娩し得る時は来ないものと観念」するにも当りません。反対に、大多数の労働婦人が安全に結婚し分娩し得る幸福な時代は、富の分配を公平にする制度さえ人間が作れば容易に実現され得るものであることが予想されます。
 現実の一面が固定的に膠着(こうちゃく)した状態にあるからといって、私たちの主張を「所詮実行不可能の理想」といわれるのは平塚さんにも似合わない臆断です。理想は現実を改造することを常に予想しています。そうして、現実の大部分は常に多少とも変動しつつあるものです。それに正当な方向の指導を与えて統一した推移を計るものが理想です。固定的に見える現実の一面ばかりを注視するなら、平塚さんも唱えられ、私たちも要求している恋愛結婚にしても、「今日の社会においては所詮実行不可能な理想」といわねばならないでしょう。この理由からして、平塚さんがその恋愛結婚の理想の主張を抛棄(ほうき)されたとも聞きません。むしろ一面に媒妁結婚が頑強な勢力を持っていればこそ、他面には恋愛結婚に対する憧憬が鬱然(うつぜん)として盛んな機運を作ろうとしつつあり、従って平塚さんのような先覚者がこの機運の順当な開展のために最善の指導を与えようと努力される必要があるのではないでしょうか。
 平塚さんは、私の主張の中に独身者の増加の予想されることを婦人自身の不幸、国家の大損失だといわれましたが、現在のように、経済的に無力な大多数の女子が、それらのことを殆ど顧慮しないで同栖(どうせい)を急いでしまう軽率放縦な結婚が、媒妁結婚にせよ、恋愛結婚にせよ、どれだけ婦人自身は勿論、良人及び子供の不幸となり、それから生じる種々の道徳上及び物質上の欠陥がどれだけ社会の迷惑となり損失となっていることでしょう。平塚さんは此方の不幸と損失とを独身者の一時的増加に由る損失よりは小(ちいさ)いものとして、この経済的に無力な女子の軽率放縦な結婚をこのままに肯定し、かつ持続させて置こうとされるのでしょうか。
 私たちは現在の女子が経済上の方面にも一つの自覚を起して、労働を常則として独立する積極的の実行に取掛り、これに由って現在及び将来の不幸から自ら解き放つことを主張するものですが、もし平塚さんのように、私たちの主張を拒まれるとすれば、現状のままに放置された無理想、無解決の大多数の女子は、益男子の寄生者として屈従の生活、一種の売淫生活を送る者の増加すると共に、男子に寄生し得ないで、平塚さんにおいては正当なる権利の主張として、私に取っては養育院の世話になる老衰者や癈人と同じ不幸な依頼主義者として、国家の特殊なる保護を要求する者が層一層繁殖して行く結果となるでしょう。
 さなきだに、私は、近頃の都会において、売笑を職業とする婦人以外に、普通の家庭にある女子で、男子の注意を引くことの意志を最も露骨に示した、厚化粧と、過度な派手好みの服装と、厭うべき媚態とを備えた、娼婦型の女子の目立って増加したことについて、窃(ひそ)かに顰蹙(ひんしゅく)している一人です。それらの女子は精神的には勿論、経済的に無力なために、労働を以て独立しようとはせずに、廉恥も名誉も忘れて、唯だ身を以て男子に売ろうとしつつある者としか考えられません。これは男子の成金気質に附随して発生した一時的現象かも知れませんが、不完全ながらも現代の教育を受けた女子が、こういう風に頽廃した傾向を示すことは怖ろしいことだと思います。時代遅れの寄生的気分に満ちた、こういう懶惰(らんだ)な遊民的女子の将来が如何に不幸であるかは平塚さんも認められるでしょう。彼らが他日「母の職能を尽し得ないほどの貧困」に陥る危険が予想されているにかかわらず、その危険の時が来たら国家が彼らを保護する義務を当然持っているからと云って、現状のままに放擲(ほうてき)して置いて好いでしょうか。
 平塚さんは「国家」というものに多大の期待をかけておられるようですが、この点も私と多少一致しがたいように考えます。平塚さんのいわれる「国家」は現状のままの国家ではなくて、勿論理想的に改造された国家の意味でしょう。それなら、個人の改造が第一の急務でなければなりません。改造された個人の力を集めなければ改造された国家は実現されないはずです。平塚さんは私への抗議の中で、なぜ「国家」を多く説いて、一言も個人の尊厳と可能性とに及ばれなかったのでしょうか。平塚さんの見識がもし個人の改造を首位に置かれたなら、女子を警醒して経済的に独立の精神を訓練させることが私たち各自の人格改造に最も急要な事実の一つであることを、私たちと共に同感されたであろうと思います。
 「国家」の場合にだけ改造された国家を予想しながら、未来の女子と社会状態については改造されたそれらを全く顧慮しないで「我国の如く婦人の労働範囲の狭い、その上、終日駄馬の如く働いても、自分ひとり食べて行くだけの費用しか得られないような、婦人の賃銀や給料の安い国」や「生涯を通じて働いてもなお老後の生活の安全が保証されない、またはそれだけの貯蓄を為(な)し得るほどの賃銀が得られないような経済状態にある現社会」が何時(いつ)までも人間の力で改造されずに固定して存続する物のように平塚さんの考えておられるのが何よりの誤解だと思います。恋愛の自由を主張される時にはエレン・ケイ女史と同じような立場から、自由思想家として理想主義的な議論をされる平塚さんが、私たちのいう意味の婦人の経済的独立に反対される時には、どうしてこうまで運命論的、自然主義的な行詰った消極論を述べられるのでしょうか。
 また平塚さんは、私が現代の理想として、こうした婦人の経済的独立を尊重しかつ要求するなら、それに先だって「婦人の職業教育奨励、職業範囲の拡張、賃銀値上問題等」になぜ大に努力しないかという風にいわれましたが、これなどは私の素養と、境遇と、精力とに対して甚だ思い遣(や)りのない、いわゆる「難(かた)きを人に強(し)うる」註文だと思います。人は分業的に協力して社会生活に寄与するものです。平塚さんのような註文が正当なら人は悉(ことごと)く万能を完備しなければなりません。私とても平塚さんが挙げられたような問題について、微力の及ぶ限り注意もし研究もしております。それらについて「大に努力」こそしませんが、心では大に努力したい希望を持っていて、機会があれば文筆の上でも述べております。平塚さんが私の書いたものに対して、「観察があまりに狭隘(きょうあい)であるばかりか、ややもすれば事実その物の観察に出発せず、かつ事物の広くして深い関係を無視し、単独に一つの事件なり現象なりに対して是非の結論を急ぐ傾向が見えます。この欠点は氏が社会問題を論ぜられる場合に殊に著しく目立つところで、複雑な関係の上に置かれている社会問題も、氏によっては単独孤立的なものであるかの如く取扱われ、甚だしきは現社会の事実を全く無視して、自分ひとりを標準として極めて主観的な判断を大胆にも下しておられます」といわれたのは、虚礼的謙遜を避けて私がいえば、それはかえって平塚さん御自身に適用すべき非難であろうと思います。少くも私への抗議に現れた平塚さんの態度にはこの非難を下し得る遺憾が明かにあります。
 平塚さんは、私が『婦人公論』に載せた、あの一篇の短い感想だけを読んで、私という個人全体の欠点を非難されました。これが「事実その物の観察」に出発して「事物の広くして深い関係」を考え、一つの事件を、「単独孤立的」に取扱わず、慎重な観察を以て「社会の事実を無視」しない人の為すべきことでしょうか。私は今憚(はばか)らずにいう必要を感じます。この七、八年間の私が乏しい時間の中で最も親んでいる所の、かつ出来るだけ広く読もうと心掛けている所のものは、文学の書物よりも、むしろ政治、経済、教育、労働問題等のそれであることや、それと同時に私が男女のあらゆる職業に対して実際にどれだけ注意し、踏査し、かつ他人の経験に聞きつつあることやは、私の日常の実際行為として平塚さんの耳目に触れないのは当然ですが、平生文筆に由って私の公開しているものについて、もし平塚さんが通読の煩を厭(いと)われなかったなら、たとい結果は一知半解の独断的意見が多くなっているにもせよ、私の取扱っている題目の範囲のかなりに広い上に、私の態度が私の微力の能う限りにおいて社会事実の有機的関係を広く深く観察すると共に、その全体と核心と部分との統一と本末軽重を無視するどころか、常にそれを顧慮し高調していることにお気が附かねばならないはずです。私の書いたものから特に欠点のみ拾って揚足(あげあし)を取ろうとする悪戯(いたずら)的気分や小人的敵意に満ちた人はともかく、私に多少の愛を持って私の長所を発見し、それを助成しよう、補導しようとする人ならば、私が凡庸な素質と、迂遠な独修的教育と、乏しい経験と、狭い知識とから出来る限り固陋(ころう)な自己を破って、正大自由な理想と苦行的な実行との中に自分の生活を建てよう、更にこの理想を述べることに由って私たちの同性の自奮自発を促す万一の貢献をしたいと焦心していることに一顧を払われるであろうと思います。平塚さんが私の幾冊もない詩集と文集とのいずれをも読まれることなしに、私が「事実の観察に出発せず」加之(おまけ)に「事実の関係を全く無視して極めて主観的な判断を下す」といって私の文筆生活に現れた私の人格全体を非難されたのは、それこそ余りに主観的な、大胆きわまる判断だと思います。
 平塚さんの私に対する抗議が以上のようなものであって見れば、これは最早第三者の位地にある人たちの公平な批判に一任して置いて好い性質のものだと思います。それで茲(ここ)に私の述べた所は、平塚さんに寄せる私の答弁では全くなくて、第三者たる人たちの裁定の資料として述べたのに過ぎません。平塚さんと私との考えのいずれが間違(まちがっ)ているかはそれらの人たちが教えて下さるであろうと思います。(一九一八年五月)

(『太陽』一九一八年六月)





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底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「心頭雑草」天佑社
   1919(大正8)年1月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:




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●表記について

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【寺田寅彦】地震雑感  地震というものの概念は人々によってずいぶん著しくちがっている

2008-07-26 16:36:57 | ★[近代の文学]
地震雑感
寺田寅彦



      一 地震の概念

 地震というものの概念は人々によってずいぶん著しくちがっている。理学者以外の世人にとっては、地震現象の心像はすべて自己の感覚を中心として見た展望図(パースペクティヴ)に過ぎない。震動の筋肉感や、耳に聞こゆる破壊的の音響や、眼に見える物体の動揺転落する光景などが最も直接なもので、これには不可抗的な自然の威力に対する本能的な畏怖が結合されている。これに附帯しては、地震の破壊作用の結果として生ずる災害の直接あるいは間接な見聞によって得らるる雑多な非系統的な知識と、それに関する各自の利害の念慮や、社会的あるいは道徳的批判の構成等である。
 地震の科学的研究に従事する学者でも前述のような自己本位の概念をもっていることは勿論であるが、専門の科学上の立場から見た地震の概念は自ずからこれと異なったものでなければならない。
 もし現在の物質科学が発達の極に達して、あらゆる分派の間の完全な融合が成立する日があるとすれば、その時には地震というものの科学的な概念は一つ、而(しか)してただ一つの定まったものでなければならないはずだと思われる。しかし現在のように科学というものの中に、互いに連絡のよくとれていない各分科が併立して、各自の窮屈な狭い見地から覗(うかが)い得る範囲だけについていわゆる専門を称(とな)えている間は、一つの現象の概念が科学的にも雑多であり、時としては互いに矛盾する事さえあるのは当然である。
 地震を研究するには種々の方面がある。先ず第一には純統計的の研究方面がある。この方面の研究者にとっては一つ一つの地震は単に一つ一つの算盤玉(そろばんだま)のようなものである、たとえ場合によっては地震の強度を分類する事はあっても、結局は赤玉と黒玉とを区別するようなものである。第二には地震計測の方面がある。この方面の専攻者にとっては、地震というものはただ地盤の複雑な運動である。これをなるべく忠実に正確に記録すべき器械の考案や、また器械が理想的でない場合の記録の判断や、そういう事が主要な問題である。それから一歩を進むれば、震源地の判定というような問題に触れる事にはなるが、更にもう一歩を進めるところまで行く暇のないのが通例である。この専門にとっては、地震というものと地震計の記象とはほとんど同意義(シノニム)である。ある外国の新聞に今回の地震の地震計記象を掲げた下に Japanese Earthquake reduced to line. と題してあるのを面白いと思って見たが、実際計測的研究者にとっては研究の対象は地震よりはむしろ「線に直した地震」であるとも云われる。
 第三に地質学上の現象として地震を見るのもまた一つの見方である。
 この方面から考えると、地震というものの背景には我地球の外殻を構成している多様な地層の重畳したものがある。それが皺曲(しゅうきょく)や断層やまた地下熔岩の迸出(へいしゅつ)によって生じた脈状あるいは塊状の夾雑物(きょうざつぶつ)によって複雑な構造物を形成している。その構造の如何なる部分に如何なる移動が起ったかが第一義的の問題である。従ってその地質的変動によって生じた地震の波が如何なる波動であったかというような事はむしろ第二義以下の問題と見られる傾向がある。この方面の専門家にとっては地震即地変である。またいわゆる震度の分布という問題についても地質学上の見地から見ればいわゆる「地盤」という事をただ地質学的の意味にのみ解釈する事は勿論の事である。
 第四には物理学者の見た地震というものがる。この方の専門的な立場から見れば、地震というものは、地球と称する、弾性体で出来た球の表面に近き一点に、ある簡単な運動が起って、そこから各種の弾性波が伝播する現象に外ならぬのである。そして実際多くの場合に均質な完全弾性体に簡単なる境界条件を与えた場合の可逆的な変化について考察を下すに過ぎないのである。物理学上の方則には誤りはないはずであっても、これを応用すべき具体的の「場合」の前提とすべき与件の判定は往々にして純正物理学の範囲を超越する。それ故に物理学者の考える地震というものは結局物理学の眼鏡を透して見得るだけのものに過ぎない。
 同じく科学者と称する人々の中でも各自の専門に応じて地震というものの対象がかくのごとく区々(まちまち)である。これは要するにまだ本当の意味での地震学というものが成立していない事を意味するのではあるまいか。各種の方面の学者はただ地震現象の個々の断面を見ているに過ぎないのではあるまいか。
 これらのあらゆる断面を綜合して地震現象の全体を把握する事が地震学の使命でなくてはならない。勿論、現在少数の地震学者はとうにこの種の綜合に努力し、既に幾分の成果を齎(もたら)してはいるが、各断面の完全な融合はこれを将来に待たなければならない。

      二 震源

 従来でもちょっとした地震のある度にいわゆる震源争いの問題が日刊新聞紙上を賑わすを常とした。これは当の地震学者は勿論すべての物理的科学者の苦笑の種となったものである。
 震源とは何を意味するか、また現在震源を推定する方法が如何なるものであるかというような事を多少でも心得ている人にとっては、新聞紙のいわゆる震源争いなるものが如何に無意味なものであるかを了解する事が出来るはずである。
 震源の所在を知りたがる世人は、おそらく自分の宅(うち)に侵入した盗人を捕えたがると同様な心理状態にあるものと想像される。しかし第一に震源なるものがそれほど明確な単独性(インディヴィジュアリティ)をもった個体と考えてよいか悪いかさえも疑いがある、のみならず、たとえいわゆる震源が四元幾何学的の一点に存在するものと仮定しても、また現在の地震計がどれほど完全であると仮定しても、複雑な地殻を通過して来る地震波の経路を判定すべき予備知識の極めて貧弱な現在の地震学の力で、その点を方数里の区域内に確定する事がどうして出来よう。
 いわんや今回のごとき大地震の震源はおそらく時と空間のある有限な範囲に不規則に分布された「震源群」であるかもしれない。そう思わせるだけの根拠は相当にある。そうだとすると、震源の位地を一小区域に限定する事はおそらく絶望でありまた無意味であろう。観測材料の選み方によって色々の震源に到達するはむしろ当然の事ではあるまいか。今回地震の本当の意味の震源を知るためには今後専門学者のゆっくり落着いた永い間の研究を待たなければなるまい。事によると永久に充分には分らないで終るかもしれない。

      三 地震の源因

 震災の源因という言語は色々に解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地辷(すべ)りに起因するとかいうような事が一通り分れば、それで普通の源因追究慾が満足されるようである。そしてその上にその地辷りなら地辷りが如何なる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというような事が分ればそれで万事は解決されたごとく考える人もある。これは源因の第一段階である。
 しかし如何なる機巧(メカニズム)でその火山のその時の活動が起ったか、また如何なる力の作用でその地辷りを生じたかを考えてみる事は出来る。これに対する答としては更に色々な学説や臆説が提出され得る。これが源因の第二段階である。例えば地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力(わいりょく)なりが集積したために起ったものであるという判断である。
 これらの学説が仮りに正しいとした時に、更に次の問題が起る。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力を起すに到ったのは何故かという事である。これが源因の第三段階である。
 問題がここまで進んで来ると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学あるいは地球物理学の問題となって来るのである。
 地震の源因を追究して現象の心核に触れるがためには、結局ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理を明らかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、事によると、人体の生理を明らかにせずして単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究はすなわち地球特に地殻の研究という事になる。本当の地震学はこれを地球物理学の一章として見た時に始めて成立するものではあるまいか。
 地殻の構造について吾人(ごじん)の既に知り得たところは甚だ少ない。重力分布や垂直線偏差から推測さるるイソスタシーの状態、地殻潮汐(ちょうせき)や地震伝播の状況から推定さるる弾性分布などがわずかにやや信ずべき条項を与えているに過ぎない。かくのごとく直接観測し得らるべき与件の僅少な問題にたいしては種々の学説や仮説が可能であり、また必要でもある。ウェーゲナーの大陸漂移説や、最近ジョリーの提出した、放射能性物質の熱によって地質学的輪廻(りんね)変化を説明する仮説のごときも、あながち単なる科学的ロマンスとして捨つべきものでないと思われる。今回地震の起因のごときも、これを前記の定説や仮説に照らして考究するは無用の業ではない。これによって少なくも有益な暗示を得、また将来研究すべき事項に想い到るべき手懸りを得るのではあるまいか。
 地震だけを調べるのでは、地震の本体は分りそうもない。

      四 地震の予報

 地震の予報は可能であるかという問題がしばしば提出される。これに対する答は「予報」という言葉の解釈次第でどうでもなる。もし星学者が日蝕を予報すると同じような決定的(デターミニステイク)な意味でいうなら、私は不可能と答えたい。しかし例えば医師が重病患者の死期を予報するような意味においてならばあるいは将来可能であろうと思う。しかし現在の地震学の状態ではそれほどの予報すらも困難であると私は考えている。現在でやや可能と思われるのは統計的の意味における予報である。例えば地球上のある区域内に向う何年の間に約何回内外の地震がありそうであるというような事は、適当な材料を基礎として云っても差支えはないかもしれない。しかし方数十里の地域に起るべき大地震の期日を数年範囲の間に限定して予知し得るだけの科学的根拠が得られるか否かについては私は根本的の疑いを懐(いだ)いているものである。
 しかしこの事についてはかつて『現代之科学』誌上で詳しく論じた事があるから、今更にそれを繰返そうとは思わない。ただ自然現象中には決定的と統計的と二種類の区別がある事に注意を促したい。この二つのものの区別はかなりに本質的なものである。ポアンカレーの言葉を借りて云わば、前者は源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である場合に当り、後者は源因の微分的差違が結果に有限の差を生ずる場合である。
 一本の麻縄に漸次に徐々に強力を加えて行く時にその張力が増すに従って、その切断の期待率は増加する。しかしその切断の時間を「精密に」予報する事は六(むつ)かしい、いわんやその場処を予報する事は更に困難である。
 地震の場合は必ずしもこれと類型的ではないが、問題が統計的である事だけは共通である。のみならず麻糸の場合よりはすべての事柄が更に複雑である事は云うまでもない。
 由来物理学者はデターミニストであった。従ってすべての現象を決定的に予報しようと努力して来た。しかし多分子的(マルティモレキュラー)現象に遭遇して止むを得ず統計的の理論を導入した。統計的現象の存在は永久的の事実である。
 決定的あるいは統計的の予報が可能であるとした場合に、その効果如何という事は別問題である。今ここにこのデリケートな問題を論じる事は困難であり、また論じようと思わない。
 要は、予報の問題とは独立に、地球の災害を予防する事にある。想うに、少なくもある地質学的時代においては、起り得べき地震の強さには自ずからな最大限が存在するだろう。これは地殻そのものの構造から期待すべき根拠がある。そうだとすれば、この最大限の地震に対して安全なるべき施設をさえしておけば地震というものはあっても恐ろしいものではなくなるはずである。
 そういう設備の可能性は、少なくも予報の可能性よりは大きいように私には思われる。
 ただもし、百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別の大きな施設を平時に用意するという事が、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だと云う人があらば、それはまた全く別の問題になる。そしてこれは実に容易ならぬ問題である。この問題に対する国民や為政者の態度はまたその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度を覗(うかが)わしむる目標である。
(大正十三年五月『大正大震火災誌』)





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底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年6月15日作成
青空文庫作成ファイル:


2400文字  夢野久作 「涙香・ポー・それから」

2008-07-26 16:27:35 | ★[近代の文学]
涙香・ポー・それから
夢野久作



 探偵小説作家なぞと呼ばれて返事を差出すのは、如何にも烏滸(おこ)がましい気がして赤面します。けれども元来が探偵小説好きなのですから、ソウ呼ばれますと何がなしに嬉しいことも事実です。
 ところで私は今でも探偵小説の定義がわからずに困っているのです。阿呆らしい話ですが、自分の書いているものはドンナ種類に属する小説だろうかと時々疑ってみる事さえあります。そうして漠然ながら、これでも探偵小説に入れられぬ事はあるまい……といったようなアイマイな、コジツケ半分の気持ちで満足して、自分勝手な興味を中心に書いている状態です。
 私が一番最初に読んだ探偵小説は、涙香(るいこう)の「活地獄(いきじごく)」だったと思います。モット古い記憶にさかのぼりますと私は十歳前後から、読んではいけないと叱られ叱られ新聞を読んでおりましたが、そのたんびに、新聞記者というものは、どうしてコンナに色んな事を探り出すのか知らん。エライものだナアと思って感心していた気持ちなぞが、探偵小説愛好慾の芽生えだったかも知れません。
 動物園に行って、奇妙な恰好をして生きている動物たちの気持ちをアッケラカンと考えてみたり、郵便屋さんが家々に投げ込んで行く手紙が、どこから来るのか一々たしかめてみたくなったり、千金丹売りや新四国参りのお遍路さんは、どこから来てどこへ帰るのかと、うるさくお祖母(ばあ)さんに尋ねたのもその前後の事でした。
 又、尋常科三四年頃、小国民とか、少年園とかいう雑誌があった。科学めいた怪奇談や、世界珍聞集みたようなものが載っておりましたが、これも探偵趣味の芽生えを培(つちか)ったに違いありません。そのほか少年世界のキプリングもの、磯萍水(いそひょうすい)や江見水蔭(えみすいいん)の冒険もの、単行本の十五少年漂流記なぞも無論その頃の愛読書で、どこの発行でしたか、何々少年と標題した飜訳の少年冒険談が、全集式の単行本によって出ていたようですが、そんなものも押川春浪(しゅんろう)の冒険談と一緒に二十冊ばかり虎の子のようにしておりました。
 そのうちに中学に這入(はい)って涙香ものに喰い付いた訳ですが、そのころ他に探偵小説めいたものは殆んどありませんでした。家庭小説や自然主義小説の全盛期でしたので、もっと深刻なものを要求していた私の読書慾は絶えずイライラしていたようです。「人間の先祖は猿である」という進化論の理詰めを読んでたまらない痛快味を感じたのもその頃の事でした。
 ところが又そのうちに中学の三年か四年の頃、少年界か少年世界かでポーの「黒猫」の意訳を読んで非常に打たれたものでしたが、私の探偵小説愛好慾は、それ以来急激な変調を来(きた)したようです。つまり涙香物が浅く感じられて来ましたので、逆にアラビヤンナイト式のお伽話(とぎばなし)的怪奇趣味の中にモグリ込んでしまいました。そうして矢鱈(やたら)に変テコなお伽話を書いて人に見せたり、話して聞かせたりしたものでしたが、誰も相手にしてくれませんでした。一方に私は不勉強で英語が出来ませんでしたので、外国の探偵ものを探して読む勇気もなく、棠陰比事(とういんひじ)や雨月物語なぞの存在も知らないままに又もイライラを続けておりますと、そのうちにフトした動機から宗教に凝(こ)りはじめました。
 で、経典以外のものには心を打たれなくなってしまいました。
 私は信心に凝っているうちに、今まで見た事も聞いた事もない怪奇な世界を数限りなく発見しました。それは自分の心の中(うち)の邪悪と、倒錯観念の交響世界で実に不可思議な苦痛深刻を極めたものでした。謡曲阿漕(あこぎ)の一節に、
「丑満(うしみつ)過ぐる夜の夢。見よや因果のめぐり来る。火車に業(ごう)を積む数(かず)。苦(く)るしめて眼の前の。地獄もまことなり。げに恐ろしの姿や」
 とあるのはそうした気持ちの一例とでも申しましょうか。
 そうして、これは芸術にならないかしらと時々思いましたが、一方にそれは芸術の邪道であるというような、宗教カブレらしい気咎(きとが)めもしましたのでそのままに圧殺しておりました。
 ところがこの頃になって探偵小説が流行して、飜訳や創作に、そんな性質や意味の芸術作品がドシドシ発表されるのを見ると愈々(いよいよ)たまらなくなりました。
 そこへ博文館の懸賞募集が出ましたので早速投稿した訳ですが、それが二度目にヤットコサと二等に当りましたのが病み付きで、時々覚束(おぼつか)ないものを書かせて頂く事になりました。
 考えてみるとこれが直接の動機に違いありません。
 ですから私は目下のところ本格物は書けないようです。
 一々事実にくっ付けて一分一厘隙(すき)のないようにキチキチとキメツケて行く苦しさに、いつも書きかけては屁古垂(へこた)れさせられて終(しま)います。
 九大の某教授なぞはいつでも来い、タネを遣るからと云われますが、ドウしても貰いに行く勇気が出ません。ヴァンダインの探偵小説作家心得なぞを読むと猛然として反抗してみたくなりますが、サテ紙に向うと一行も書かないうちにトテモ駄目な事がわかって憂鬱になってしまいます。
 私は探偵小説作家のなり損(そこな)いかも知れません。





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底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:しず
2001年7月23日公開
2006年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:

上村松園 『帝展の美人画』 :「大毎美術 第八巻第十二号」(昭和4) 1800字

2008-07-26 16:27:08 | ★[近代の文学]
帝展の美人画
上村松園



 内緒でこっそりと東京まで帝展を見に行って来ました。
 この頃の帝展はいつの間にか、私にはしっくりしないものになっているような気がします。誰の作品の何処がどうというのではありませんが、あの会場にみちあふれているケバケバしいものがいやだと思います。どぎつい岩ものをゴテゴテと盛上げて、それで厚味があるとかいう風に考えられてでもいるような作が、あの広い会場を一杯に占領しているのを見ますと私はただ見渡しただけで吃驚(びっく)りさせられるばかりでした。

 あれでないと近頃の大会場芸術とやらには、不相応なのかも知れません、ああしないと、通りすがりの観衆の眼を惹かないのかも知れません。ですけれどもあんな調子では、日本画はだんだん堕(お)ちて行くばかりではないかという気がします。画品などというものは、捜し廻っても何処にもありはしません、下卑た品のない、薄ッぺらなけばけばした絵ばかり目につきます。それがモダンというものでしょうかしら? そうしなければ、モダンな味というものは出せないものでしょうかしら? モダンにするために、何もそうわざに品を落して薄ッぺらな絵にしなくても、いいように私は思います。

 あんなに岩ものを盛上げたから、それで絵の厚味が出たと思うのが間違いだと思います。絵の奥の奥からにじみ出す味、それは盛上げたばかりで出るものではないということが、わからないのでしょうか。

 今年は伊東深水(いとうしんすい)さんの「秋晴」がえろう評判でしたが、あけすけにいえば、私は一向感心しませなんだ、どうもまだ奥の方から出ているものが足りないと思います。
 伊藤小波(いとうしょうは)さんの「秋好中宮」は昨年のお作の方が、私には好きだと思います。大きく伸ばしたのでいろんなものが見えたのかも知れません。
 和気春光(わけしゅんこう)さんの「華燭の宵」は怖い顔の花嫁さんやと思いました。
 木谷千種(きたにちくさ)さんの「祇園町の雪」を見ると、ズッと昔の「をんごく」などの方を懐かしく思い起こさせられます。

 私はもう年をとってしまいまして、モダンな現代から置いてけぼりを食ってしまったのやと思います。そうかといって、どうしても無理をしてまで現代に追ッつかんならんとは思いません。私は私で、今まで通って来た道をまっすぐに行くつもりです。

 もちろん帝展にでも出したいとは思っています。毎年夏になって若い人達が出品画の準備を始めますと、やっぱり何ぞ自分も出してみたいなアという気が出て来ます。けども、この二、三年追われずくめでして、まだ先年からの御用画も出来ていませず、それに高松宮様にお輿入れの徳川喜久子姫さまがお持ちになる二曲一双の日が迫っており、一方では伊太利展(イタリーてん)の作品もありますので、今は毎日その方にはまり込んでいますようなわけです。
 二曲の方は徳川期の娘が床几に掛けて萩を見ている図を片双に描いて先年描いた二人の娘の片双を揃えることにしています。十一月一杯はかからずに仕上がるでしょう。
 伊太利展の方は二尺五寸幅の横物に「伊勢の大輔」を描いています。こちらは昨年御大典の御用画に描いた「草紙洗ひ」の小町と対になるものでして、私の今まであまり使わなかった厚仕上げをやってみました。

 私もこの三、四年来、眼鏡がないと細い線など引くのに困るようになりました。唯さえ遅い筆ですのに、眼鏡を掛けて細いものを見詰めていますと、どうも疲れがひどいように思います。年をとったと思えば尚のこと、せめて一年に一度ぐらいは、自分で描きたいものを描いてみたい気がしてなりません。今のうちに、自分のものを描き残して置きたいと思います。





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底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「大毎美術 第八巻第十二号」
   1929(昭和4)年12月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:

上村松園 『応挙と其の時代が好き』 初出:「藝術社会」新田書房(大正14)

2008-07-26 16:24:49 | ★[近代の文学]
応挙と其の時代が好き
上村松園



 別に取り立てて感想もありませぬが、私は応挙と其の時代に憧憬を持つて居るものです。あの落着いた立派な作風、あのガツシリと完成した描法など真に好いと思ひます。今の様に忙しくては到底大作などは出来ませぬが、あの時代の画家は実にのんびりと制作に従つて居て心行くまで研究を積まれたものと思はれます。慥か今から三十年も前の話でありますが、如雲社と云ふ画家の集合展覧会がありました。毎月十一日を期日として別に誰派の区別もなく自分の好いたままに一点でも二点でも作品を持ち寄つてそれを陳べて互ひに見合つたものです。其の当時は景年さんでも無造作な風体でやつて来られるし、栖鳳さんや春挙さんなどもお若い頃で、会場の真中には赤毛氈を布いて火鉢と茶位の設備ではありますが、よい絵の前では坐つて離れなかつたり、画論に華を咲かせたり、本当に悠暢なものでした。それから考へ合しても、応挙の時代が想像されて床しい極みであります。(談)
(大正十四年)





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底本:「青眉抄その後」求龍堂
   1986(昭和61)年1月15日発行
初出:「藝術社会」新田書房
   1925(大正14)年
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2008年5月19日作成
青空文庫作成ファイル:

寺田寅彦  小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」

2008-07-26 16:21:36 | ★[近代の文学]
小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」
寺田寅彦



 十余年前に小泉八雲(こいずみやくも)の小品集「心」を読んだことがある。その中で今日までいちばん深い印象の残っているのはこの書の付録として巻末に加えられた「三つの民謡」のうちの「小栗判官(おぐりはんがん)のバラード」であった。日本人の中の特殊な一群の民族によっていつからとも知れず謡(うた)い伝えられたこの物語には、それ自身にすでにどことなくエキゾティックな雰囲気がつきまとっているのであるが、それがこの一風変わった西欧詩人の筆に写し出されたのを読んでみると実に不思議な夢の国の幻像を呼び出す呪文(インカンテーション)ででもあるように思われて来る。物語の背景は現にわれわれの住むこの日本のようであるが、またどこかしら日本を遠く離れた、しかし日本とは切っても切れない深い因縁でつながれた未知の国土であるような気もする。そうかと思うとどこかまたイギリスのノーザンバーランドへんの偏僻(へんぺき)な片田舎(かたいなか)の森や沼の間に生まれた夢物語であるような気もするのである。
 それからずっと後に同じ著者の「怪談」を読んだときもこれと全く同じような印象を受けたのであった。
 今度小山(おやま)書店から出版された「妖魔詩話(ようましわ)」の紹介を頼まれて、さて何か書こうとするときに、第一に思い出すのはこの前述の不思議な印象である。従って眼前の「妖魔詩話」が私に呼びかける呼び声もまたやはりこの漠然(ばくぜん)とした不思議な印象の霧の中から響いてくるのは自然の宿命である。
 八雲氏の夫人が古本屋から掘り出して来たという「狂歌百物語」の中から気に入った四十八首を英訳したのが「ゴブリン・ポエトリー」という題で既刊の著書中に採録されている。それの草稿が遺族の手もとにそのままに保存されていたのを同氏没後満三十年の今日記念のためにという心持ちでそっくりそれを複製して、これに原文のテキストと並行した小泉一雄(こいずみかずお)氏の邦文解説を加えさらに装幀(そうてい)の意匠を凝らしてきわめて異彩ある限定版として刊行したものだそうである。
 なんといってもこの本でいちばんおもしろいものはやはりこの原稿の複製写真である。オリジナルは児童用の粗末な藁紙(わらがみ)ノートブックに当時丸善(まるぜん)で売っていた舶来の青黒インキで書いたものだそうであるが、それが変色してセピアがかった墨色になっている。その原稿と色や感じのよく似た雁皮(がんぴ)鳥の子紙に印刷したものを一枚一枚左側ページに貼付(てんぷ)してその下に邦文解説があり、反対の右側ページには英文テキストが印刷してある。
 書物の大きさは三二×四三・五センチメートルで、用紙は一枚漉(いちまいず)きの純白の鳥の子らしい。表紙は八雲氏が愛用していた蒲団地(ふとんじ)から取ったものだそうで、紺地に白く石燈籠(いしどうろう)と萩(はぎ)と飛雁(ひがん)の絵を飛白染(かすりぞ)めで散らした中に、大形の井の字がすりが白くきわ立って織り出されている。
 これもいかにも八雲氏の熱愛した固有日本の夢を象徴するもののように見えておもしろい。このような蒲団地は、今日ではもうたぶんデパートはもちろんどこの呉服屋にも見つからないであろう。それをわざわざ調製したのだそうである。小山書店主人のなみなみならぬ熱心な努力が、これらの装幀にも現われているようである。この異彩ある珍書は著者、解説者、装幀意匠者、製紙工、染織工、印刷工、製本工の共同制作によってできあがった一つの総合芸術品としても愛書家の秘蔵に値するものであろう。ただ英文活字に若干遺憾の点があるが、これもある意味ではこうした限定版の歴史的な目印になってかえっておもしろいかもしれないのである。
 複製原稿で最もおもしろいと思うのは、詩稿のわきに描き添えられたいろいろの化け物のスケッチであろう。それが実にうまい絵である。そうして、それはやはり日本の化け物のようでもあるが、その中のあるものたとえば「古椿(ふるつばき)」や「雪女」や「離魂病」の絵にはどこかに西欧の妖精(ようせい)らしい面影が髣髴(ほうふつ)と浮かんでいる。著者の小品集「怪談」の中にも出て来る「轆轤首(ろくろくび)」というものはよほど特別に八雲氏の幻想に訴えるものが多かったと見えて、この集中にも、それの素描の三つのヴェリエーションが載せられている。その一つは夫人、もう一つは当時の下婢(かひ)の顔を写したものだそうである。前者の口からかたかなで「ケタケタ」という妖魔(ようま)の笑い声が飛び出した形に書き添えてあるのが特別の興味を引く。
 その他にもたとえば「雪女郎」の絵のあるページの片すみに「マツオオリヒシグ」としるしたり、また「平家蟹(へいけがに)」の絵の横に「カゲノゴトクツキマタウ」と書いて、あとで「マタウ」のタを消してトに訂正してあったりするのをしみじみ見ていると、当時における八雲氏の家庭生活とか日常の心境とかいうものの一面がありありと想像されるような気がしてくるのである。おそらく夕飯後の静かな時間などに夫人を相手にいろいろのことを質問したりして、その覚え書きのようなつもりで紙片の端に書きとめたのではないかという想像が起こってくる。
「船幽霊」の歌の上に黒猫(くろねこ)が描いてあったり、「離魂病」のところに奇妙な蛾(が)の絵が添えてあったりするのもこの詩人の西欧的な空想と連想の動きの幅員をうかがわせるもののようである。
 一雄(かずお)氏の解説も職業文人くさくない一種の自由さがあってなかなかおもしろく読まれる。八雲氏令孫の筆を染めたという書名題字もきわめて有効に本書の異彩を添えるものである。
 小泉八雲というきわめて独自な詩人と彼の愛したわが日本の国土とを結びつけた不可思議な連鎖のうちには、おそらくわれわれ日本人には容易に理解しにくいような、あるいは到底思いもつかないような、しかしこの人にとってはきわめて必然であったような特殊な観点から来る深い認識があったのではないかと想像される。それを追跡し分析し研究することはわれわれならびに未来の日本人にとってきわめて興味あり有意義であるのはもちろんであるが、そのような研究に意外な光明を投げるような発見の糸口があるいはかえってこうした草稿の断片の中に見いだされないとも限らないであろう。
 たとえば「怪談」の中にも現われまたこの百物語の数々の化け物の中から特に選び出される光栄をもったような化け物どもが、どういう種類の化け物であって、そのいかなる点がこの人にアッピールしたか、またそれがどういう点で過去数千年の日本民族の精神生活と密接につながっているか。こんな事を考えてみるだけでもそこにいろいろなまじめな興味ある問題を示唆されるのであるが、その示唆の呪法(じゅほう)の霊験がこの肉筆の草稿からわれわれの受けるなまなましい実感によっていっそう著しく強められるであろうと思われるのである。

(昭和九年十月、帝国大学新聞)





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底本:「寺田寅彦全集 第十七巻」岩波書店
   1962(昭和37)年2月7日第1刷発行
入力:加藤恭子
校正:かとうかおり
2003年3月6日作成
青空文庫作成ファイル:

【田中英光】『オリンポスの果実』 秋ちゃん。と呼ぶのも、もう可笑(おか)しいようになりました

2008-07-26 16:19:20 | ★[近代の文学]
オリンポスの果実
田中英光



     一

 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑(おか)しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈(はず)だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房(にょうぼう)を貰(もら)い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃(ちかごろ)風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶(ついおく)をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 恋(こい)というには、あまりに素朴(そぼく)な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布(さいふ)のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏(あんず)の実を、とりだし、ここ京城(けいじょう)の陋屋(ろうおく)の陽(ひ)もささぬ裏庭に棄(す)てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
 これはむろん恋情(れんじょう)からではありません。ただ昔(むかし)の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
 思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。

     二

 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアヘの旅は、一種青春の酩酊(めいてい)のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱(すいじゃく)にかかっていたような気がします。
 ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。
 モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足(かけあし)をやって帰ってくると、森さんが、合宿傍(わき)の六地蔵の通りで背広を着て、俯(うつむ)いたまま、何かを探していました。
 駆けているぼく達――といっても、舵(かじ)の清さんに、七番の坂本さん、二番の虎(とら)さん、それに、ぼくといった真面目(まじめ)な四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂(ダイハン)、いっしょに探してくれ」と頼(たの)むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違(まちが)え易(やす)いので、いつも身体(からだ)の大きいぼくは、侮蔑(ぶべつ)的な意味も含(ふく)めて、大坂(ダイハン)と呼ばれていました。
 そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、皆(みんな)が笑うと一緒(いっしょ)に、噴(ふ)き出したくなるのを、我慢(がまん)できなかったほど、好(い)い気味だ、とおもいましたが、それから、暫(しばら)くして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。
 出発の前々夜、合宿引上げの酒宴(しゅえん)が、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。
 その夜は、いくら飲んでも、酔(よ)いが廻(まわ)らず、空(むな)しい興奮と、練習疲(づか)れからでしょう、頭はうつろ、瞳(ひとみ)はかすみ、瞼(まぶた)はおもく時々痙攣(けいれん)していました。なにしろ、それからの享楽(きょうらく)を妄想(もうそう)して、夢中(むちゅう)で、合宿を引き上げる荷物も、いい加減に縛(しば)りおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論(もちろん)ですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。
 そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、揃(そろ)いの背広は始めて纏(まと)う嬉(うれ)しさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、蒲団(ふとん)の間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。はじめから、着ていればよかった。
 運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、二十(はたち)のぼくが、餞別(せんべつ)だけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。
 その頃(ころ)、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑(ゆうわく)されていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞(どうてい)だという点に、迷信(めいしん)じみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳の清(すず)しい彼女(かのじょ)が、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、俺(おれ)でも、大人並(なみ)の遊びをするぞと、覚悟(かくご)をきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。
 宅(うち)に入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃに壊(こわ)れている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関(げんかん)へ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、皺(しわ)と雀斑(そばかす)だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を突(つ)ッこんで、出してみせようとしたが手触(てざわ)りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に訊(たず)ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い烟(けむ)りが、かすかなほど遥(はる)かの角を曲るところでした。「可笑(おか)しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の影(かげ)も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督(かんとく)に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と叱(しか)りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫(だいじょうぶ)だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
 艇庫(ていこ)には、もう、寝(ね)てしまった艇番夫婦(ふうふ)をのぞいては、誰(だれ)一人いなくなっています。二階にあがり、念の為(ため)、押入(おしい)れを捜(さが)してみましたが、もとより、あろう筈(はず)がありません。
 もう、先程(さきほど)までの、享楽を想(おも)っての興奮はどこへやら、ただ血眼(ちまなこ)になってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい恰好(かっこう)で、自動車の路(みち)すじを、どこからどこまで、這(は)うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の戸棚(とだな)のグリス鑵(かん)の後ろになかったかなアと、溝(みぞ)のなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、直(す)ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、鉄亜鈴(てつあれい)や、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々(いやいや)、ひょッとしたら、あの道端(みちばた)の草叢(くさむら)のかげかもしれないぞと、また周章(あわて)て、駆けおりてゆくのでした。
 捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、駄目(だめ)だと諦(あきら)めかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、拡(ひろ)げてみなかったんじゃなかったか、という錯覚(さっかく)が、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。一縷(いちる)の望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷(しぶや)、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
 と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が顛倒(てんとう)しています。言い値どおりに乗りました。
 ぼくは、車に揺(ゆ)られているうち、どうも、はじめの運転手に盗(と)られたんだ、という気がしてきました。(彼奴(あいつ)に一円もやった。泥棒(どろぼう)に追銭とはこのことだ)と思えば口惜(くや)しくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この一癖(ひとくせ)ありげな、運転手に話してきかせました。
 すると、彼は自信ありげな口調で、「そりやア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と愚(ぐ)にもつかぬ嘆声(たんせい)を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り裂(さ)けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎(こづらにく)さで、黙りかえっています。
 それでいて、家につくと、彼は突然(とつぜん)、ここは渋谷とはちがう、恵比寿(えびす)だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、嘗(な)められたと思いましたから、こちらも口汚(くちぎたな)く罵(ののし)りかえす。と、向うは金梃(レバー)をもち、扉(ドア)をあけ、飛びだしてきました。「喧嘩(けんか)か。ハ、面白(おもしろ)いや」と叫(さけ)び、ええ、やるか、と、ぼくも自棄(やけ)だったのですが、もし血をみるに到(いた)ればクルウの恥(はじ)、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの肩(かた)を掴(つか)みます。振りきったぼくは、ええ面倒(めんどう)とばかり十銭払(はら)ってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞(すてぜりふ)を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の閾(しきい)をまたいだのです。
 気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、噛(か)みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに畳(たた)んで、風呂敷(ふろしき)が、上に載(の)っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵(どば)をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
 ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島(むこうじま)まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、憤(いきどお)りと悔(く)いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も更(ふ)け、人気(ひとけ)のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
 ぼくは二階の廊下(ろうか)を歩き、屋上の露台(ろだい)のほうへ登って行きました。眼の下には、鋭(するど)い舳(バウ)をした滑席艇(スライデングシェル)がぎっしり横木につまっています。そのラッカア塗(ぬ)りの船腹が、仄暗(ほのぐら)い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、妙(みょう)に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草(あさくさ)の装飾燈(そうしょくとう)が赤く輝(かがや)いています。時折、言問橋(ことといばし)を自動車のヘッドライトが明滅(めいめつ)して、行き過ぎます。すでに一艘(そう)の船もいない隅田川(すみだがわ)がくろく、膨(ふく)らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説(ロマンス)めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
 大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が暮(く)れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人(フレッシュマン)として、逞(たくま)しい先輩達に伍(ご)し、鍛(きた)えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
 ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々無態(ぶざま)だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱(ぶじょく)されて抵抗(ていこう)の手段がないと諦(あきら)め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂(ダイハン)は怒(おこ)らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを止(や)めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢(ごうまん)な痩意地(やせいじ)にとって、自殺にもひとしかった。
 それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣(しんらつ)であろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口(かげぐち)や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と威(おど)かす五番松山さんの凄(すさ)まじさ、そうした予感が、堪(た)えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の笞(むち)から、いつも庇(かば)ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
 悶(もだ)え悶え、ぼくは手摺(てすり)によりかかりました。其処(そこ)は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終(しま)い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰(こし)の辺に、あたります。離(はな)れかかった足指には、力が一杯(いっぱい)、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間(しゅんかん)、ぼくが唾(つば)をすると、それは落ちてから水溜(みずたま)りでもあったのでしょう。ボチャンという、微(かす)かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々(ばかばか)しくなり、殊(こと)に、死ぬまでの痛さが身に沁(し)みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺(あた)りを、まえに戻(もど)しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
 そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読(たんどく)した小説の悪影響(あくえいきょう)もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が髪(かみ)をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、惹(ひ)かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査(じゅんさ)に呼び咎(とが)められました。それ迄(まで)は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見(りょうけん)も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が致(いた)しました。
 こんな夜遅(おそ)く、学生がへんな恰好(かっこう)でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの傍(そば)にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる処(ところ)ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの蒼(あお)ざめた顔を、酒の故(ゆえ)とでも思ったのでしょう。照れ臭(くさ)くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床(とこ)をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕(まくら)もとの障子(しょうじ)一面に、赫々(あかあか)と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端(とたん)、襖(ふすま)ごしに、舵手(だしゅ)の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞(ふさ)がりました。
 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴(き)きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠(ねむ)ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主(ぼうず)、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫(ねこ)ッ可愛(かわい)がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未(ま)だ、ほんとに子供でした。
 ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言(こごと)一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴(やつ)があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌(おおあわ)てに、支度(したく)を始めました。
 あとになって、判(わか)ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽(さっそう)と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支(さしつか)えないでしょう、と言い置いてくれた由(よし)。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂(きゆう)は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣(はれぎ)とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
 服は仮縫(かりぬ)いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆(しゅっぱん)の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。
かいそう)されているような気がして、姉の子をおぶい、散歩に出た浜辺(はまべ)から、祈(いの)るような気持で、姉の家に帰って行ったものです。
 相模(さがみ)の海の夕焼け空も、太平洋の夕照とかわりありません。到頭(とうとう)あなたの手紙は来なかった。

 












 そうして、ぼく達のグルウプの人々は――。
 帰朝して間もなくインタアカレッジで漕(こ)がされたエキジビジョンの風景を想い出します。
 真紅(しんく)のオォルに真紅のシャツ。みんな出立(いでた)ちは甲斐々々(かいがい)しく、ラウドスピイカアも、「これより、オリムピック・クルウの独漕(どくそう)があります」と華々(はなばな)しく放送してくれたのでしたが、橄欖(かんらん)の翠(みど)りしたたるオリムピアがすでに昔(むかし)に過ぎ去ってしまった証拠(しょうこ)には、みんなの面に、身体に、帰ってからの遊蕩(ゆうとう)、不節制のあとが歴々と刻まれ、曇(くも)り空、どんより濁(にご)った隅田川(すみだがわ)を、艇(てい)は揺(ゆ)れるしオォルは揃わぬし、外から見た目には綺麗(きれい)でも、ぼくには早や、落莫(らくばく)蕭条(しょうじょう)の秋となったものが感ぜられました。
 そうして二三年経(た)ってから。
『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ち崩(くず)し、下関の旅館で自殺をしたときいた。銀座ボオイの綽名(あだな)があった村川が、お妾(めかけ)上がりのダンサアと心中して一人だけ生残ったとの噂もきいた。
 沢村さんは満洲(まんしゅう)へ、松山さんはジャワヘ、森さんは北支(ほくし)、七番の坂本さんはアラスカヘと皆どこかへ行ってしまった。
 東海さんは昨年、戦地で逢いました。補欠(サブ)の佐藤は戦死したと聞きました。
 戦地で、覚悟(かくご)を決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。

 あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。


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底本:「オリンポスの果実」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年9月30日発行
   1991(平成3)年11月30日52刷改版
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
2000年2月7日公開
2001年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:

海野十三 『月世界探険記』

2008-07-26 16:17:38 | ★[近代の文学]
月世界探険記
海野十三



   新宇宙艇


 月世界探険(つきのせかいたんけん)の新宇宙艇は、いまやすべての出発準備がととのった。
 東京の郊外(こうがい)の砧(きぬた)といえば畑と野原ばかりのさびしいところである。そこに三年前から密(ひそ)かにバラック工場がたてられ、その中で大秘密(だいひみつ)のうちに建造されていたこのロケット艇(てい)は、いまや地球から飛びだすばかりになっていた。魚形水雷(ぎょけいすいらい)を、潜水艦ぐらいの大きさにひきのばしたようなこの銀色の巨船は、トタン屋根をいただいた梁(はり)の下に長々と横たわっていた。頭部は砲弾のように尖(とが)り、その底部には、缶詰を丸く蜂の巣がたに並べたような噴射推進装置(ふんしゃすいしんそうち)が五層(ごそう)になってとりつけられ、尾部は三枚の翼(つばさ)をもった大きな方向舵(ほうこうだ)によって飾られていた。銀胴(ぎんどう)のまん中には、いまポッカリと丸い窓が明いている。いや窓ではない。人間が楽にくぐれるくらいの出入口なのだ。その出入口をとおして、明るい室内が見える。電気や蒸気を送るためのパイプが何本となく壁を匍(は)いまわり配電盤には百個にちかい計器(メートル)が並び、開閉器(スイッチ)やら青赤のパイロット・ランプやら真空管が窮屈(きゅうくつ)そうに取付けられていて、見るからに頭の痛くなるような複雑な構造になっていた。
 通信係の六角進(ろっかくすすむ)少年は、受話器を耳にかけたまま、机の上に何かしきりと鉛筆をうごかしていたが、やがて書きおえると、ビリリと音をさせて一枚の紙片(しへん)を剥(は)いで立ち上った。そこで電文をもう一度読みなおしてから、受話器を頭から外(はず)し、
「艇長(ていちょう)、艇長。……ウイルソン山天文台(てんもんだい)から無電が来ましたよ」
 といって、後をふりかえった。
「なに、ウイルソン山天文台からまた無電が……」
 艇長の蜂谷学士(はちやがくし)は、手を伸ばして、進少年のさしだす紙片(しへん)をうけとった。その上には次のような電文がしたためられてあった。
「ワレ等ノ最後ノ勧告(かんこく)デアル。『危難(きなん)ノ海』附近ニハ貴艇ノ云ウガ如キ何等ノ異変ヲ発見セズ。貴艇ノ観測ハ誤(あやま)リナルコト明(あきら)カナリ。ワガ忠告ヲ聞クコトナク出発スレバ、貴艇ノ行動ハ自殺ニ等シカラン」「自殺ニ等シカラン――か。そういわれると、こちらの望遠鏡がいいのだと分っていても、やっぱりいい気持はしないナ」
 と、蜂谷学士は呟(つぶや)いた。
 この新宇宙艇が、非常な決心のもとに、新(あら)たに月世界探険に飛びだしてゆくのは、一つには今から十年前の昭和十一年の夏、進少年の父親である六角博士(ろっかくはかせ)ほか二名が月世界めざしてロケット艇をとばせたまま行方不明となった跡を探し、ぜひ月世界探険に成功したいというためでもあったけれど、もう一つには、このたびの探険隊の持つ電子望遠鏡が、最近はからずも月世界の赤道(せきどう)のすこし北にある「危難の海」に奇怪(きかい)な異物(いぶつ)を発見したためであった。その異物はたいへん小さい白い点であって、正体はまだ何物とも分らなかったけれど、とにかく今から五十四日前に突然現われた物であって、それは以前には決して見当らなかったものであった。そもそも月世界(つきのせかい)は空気もない死の世界で、そこには何者も棲(す)んでいないものと信ぜられていた。だから「危難の海」に現われたこの小さい白点(はくてん)は、月世界の無人境説(むじんきょうせつ)の上に、一抹(いちまつ)の疑念(ぎねん)を生んだ。
 念のために、二百吋(インチ)という世界一の大きな口径の望遠鏡をもつウイルソン山天文台に知らせて調べてもらった。しかしその天文台では、「何(な)にも見えない」という返事をして来たのだった。そしてわが新宇宙艇が月世界探険にのぼる決心だと知るとたいへん愕(おどろ)いて、その暴挙(ぼうきょ)をぜひ慎(つつ)しむようにといくども勧告をしてきたのだった。それにもかかわらず、蜂谷艇長はじめ四人の乗組員の決心は固く、この探険を断念(だんねん)はしなかったのである。だがもしここに乗組員の一人である理学士天津(あまつ)ミドリ嬢が苦心の結果作りあげた世界に珍らしい電子望遠鏡という名の新型望遠鏡がなかったとしたら、そのときは或いはこの探険を思いとどまったかも知れないけれど……。ミドリ嬢の計算によると、彼女の新望遠鏡は、ウイルソン山天文台のものよりも二十倍も大きく見える筈だった。だから月世界に、乗合(のりあい)バスぐらいの大きさのものがあったとしたら、それは新望遠鏡には丁度一つの微小(びしょう)な点となって見えるだろうという……。
「ミドリさんに早く知らせてやろうと思うが、何処(どこ)へ行ったんだろうな。……」
 と、蜂谷学士はロケットの胴中(どうなか)を出て、土間(どま)に下り立った。
「ミドリさーん。……」
 学士は大きな声をだして、女理学士の名を呼んだ。だがどこにも返事がなかった。彼の顔は俄(にわ)かに不安に曇(くも)った。
「どこへ行ったんだろう。オイ進君、君も探してくれ。
 ……ミドリさーん。……」
「えッ、ミドリさんがいないのですか」
 進少年もロケットの胴中から飛び出して来た。
「ミドリさーん」
 二人は声を合わせてミドリの名を呼びながら、小屋の戸を開いて外へ出てみた。外は真昼のように明るかった。八月十五日の名月が、いま中天(ちゅうてん)に皎々(こうこう)たる光を放って輝いているのだった。……
「おお、ミドリさん。……こんなところにいたんですか。一体どうしたというんです」
 学士は、戸外に悄然(しょうぜん)と立っているミドリの姿を見て、愕(おどろ)きの声を放った。


   出発直前の殺人


 彫刻のように立っていたミドリは、このとき右腕をあげて無言で前方を指した。
「ナ、なッ……」
 学士は愕いて、ミドリの指す前の草叢(くさむら)を見た。
「呀(あ)ッ。……羽沢(はざわ)飛行士が倒れている! これはどうした。ああッ……」
 傍(かたわら)へかけよってみると、乗組員の一人である飛行士が白いシャツの胸許(むなもと)のところを真赤(まっか)に染めて倒れていた。調べてみると、彼は心臓の真上を一発の弾丸で射ぬかれて死んでいた。一体こんなところで誰に撃ち殺されたのだろう?
「……ああ、おしまいだ。折角(せっかく)のあたし達の探険……」
 ミドリは悲しげに叫ぶと、ガッカリしたのか、大地の上にヘタヘタと身体を崩(くず)した。それは見るも気の毒な気の落としようだった。ミドリの兄は天津百太郎(あまつももたろう)といって、失踪(しっそう)したロケットの操縦士だった。彼女はこんどの探険を企(くわだ)てたのも、恨(うら)みをのんで死んだろうと思われる兄の霊(れい)を喜ばそうためだった。それだのに羽沢飛行士は壮途(そうと)を前にして、突然死んでしまった。ミドリの悲しみは、察するだに哀(あわ)れなことだった。
「……仕方がない。これも神さまのお心かもしれないよ」と艇長はやさしく彼女の肩に手をおいて云った。「残念だが、このたびは中止をしよう」
 そのときだった。向うの街道(かいどう)から、ヘッドライトがパッとギラギラする両眼をこっちに向けて、近づいてくる様子。
「ああ、誰かこっちへ来る……」
 と、進少年は叫んだ。
 近づいて来たのを見ると、それは競争用の背の低い自動車だった。やがて自動車は、小屋の前に止り、中から出てきたのは、色の浅ぐろい飛行士のような男だった。
「ああ、猿田さんだッ……」
 猿田とよばれた男はツカツカと一同の前に出てきて、
「ああ皆さん。御出発に際して、お見送りの言葉を云いに来ましたよ」
 ミドリはそのとき、スックと立ち上った。
「ああ猿田さん。いいところへ来て下すったわ。……貴方(あなた)この宇宙艇を操縦して月世界(つきのせかい)へ行って下さらない」
「ああミドリさん、ちょっと……」
 と艇長の蜂谷学士がとどめた。しかしミドリはその言葉を遮(さえぎ)ってまた叫んだ。
「ね、猿田さん。行って下さるでしょうネ。貴方が操縦して下さらないと、あたしたちは十年目に一度くる絶好のチャンスを逃がしてしまうんですもの。ぜひ行って下さいナ。……貴方は前からこの宇宙艇を操縦したいといってらしたわネ」
「ええ、お嬢さん。僕は決心しましたよ。僕がこの艇を操縦してあげましょう」
「まあ待ちたまえ」
 と蜂谷学士が云いかけるのを、ミドリは
「……まア蜂谷さん。まさか貴方はこれから十年して、あたしがお婆さんになるのを待って、月の世界にゆけとおっしゃるのではないでしょうネ」
「……」
 蜂谷学士は、なぜか猿田飛行士が探険に加わることを好まぬ様子だったが、ミドリは滅多(めった)に来ないチャンスを惜しむあまり、とうとう羽沢飛行士の代りに猿田飛行士を頼むことにきめてしまった。
 艇の出発はいよいよ間近(まぢ)かになった。のこっているのは、飲料水の入った樽(たる)がもうあと十個ばかりだった。一同は力をあわせて、この最後の荷物を搬(はこ)びこんだ。
「さあこれで万端(ばんたん)ととのった。……進君、もう一度宇宙艇のなかを探してくれたまえ。万一密航者などがコッソリ隠れていると困るからネ……」
 厳重(げんじゅう)な艇内捜索が始まった。樽のうしろや、器械台の下などを入念に調べたが別に怪しい密航者の影も見あたらなかった。
「さあ、密航者はいませんよ。もう大丈夫です」
 進少年は、そう叫んだ。
「では出発だ。扉(ドア)を締めて……」
 重い二重扉(にじゅうドア)がピタリと閉(と)じられ、四人の乗組員は、それぞれ部署についた。蜂谷学士は、ロケットの一番頭にちかい司令席につき六つの映写幕を持ったテレビジョン機の中を覗(のぞ)きこんだ。そこにはこの宇宙艇の前方と後方と、それから両脇と上下との六つの方角が同時に見透(みとお)しのできる仕掛けによって、居ながらにして、宇宙艇のまわりの有様がハッキリと分った。
 そのすこし後には、進少年がラジオの送受機(そうじゅき)を守って、皮紐(かわひも)のついた座席に身体を結びつけた。その横にはミドリ嬢が同じように頑丈(がんじょう)な椅子に身体を結びつけていたが、これは沢山の計器(メーター)と計算機とをもって、宇宙艇の進行に必要な気象を観測したり、また進路をどこにとるのがいいかなどということについて計算をするためだった。
 一ばん後方には、飛び入りの猿田飛行士が複雑な配電盤を守っていた。そこでは艇長の命令によって、刻々(こくこく)方向舵を曲げたり、噴射気(ふんしゃき)の強さを加減してスピードをととのえたり空気タンクや冷却水の出る具合を直したりするという一番重大で面倒な役目をひきうけていたのだった。
「出航用意!」
 艇長は伝声管(でんせいかん)を口にあてて叫んだ。
「出航用意よろし」
 と猿田飛行士のところから、返事があった。
「進路は小熊座(こぐまざ)の北極星、出航(しゅっこう)始めッ」
 ついに蜂谷艇長は、出発命令を下した。猿田が開閉器(かいへいき)をドーンと、入れると、たちまち起るはげしい爆音、小屋は土砂(どしゃ)に吹きまくられて倒壊(とうかい)した。そのとき機体がスーッと浮きあがったかと思うと、真青(まっさお)な光の尾を大地の方にながながとのこして、宇宙艇はたちまち月明(げつめい)の天空(てんくう)高くまい上った。


   宇宙旅行


 わずか五秒しかたたないのに、新宇宙艇は富士山の高さまで昇った。
 スピードはいよいよ殖えて、それから十秒のちには、成層圏(せいそうけん)に達していた。窓外(そうがい)の空は月は見えながらも、だんだん暗さを増していった。
 そこで新宇宙艇の進路が変った。大空の丁度(ちょうど)ま上に見える琴座(ことざ)の一等星ベガ一名(いちめい)織女星(しょくじょせい)を目がけて、グングン高くのぼり始めた。
 地球から月世界までの距離は、三十八万四千四百キロメートルという長いもの、それをこの新宇宙艇は、僅(わず)か十日間で飛び越そうという計算であった。
 進路がベガに向けられて、早や三日目になった。もうあたりは黒白(あやめ)も分らぬ闇黒(くらやみ)の世界で、ただ美しい星がギラギラと瞬(またた)くのと、はるかにふりかえると、後にして来た地球がいま丁度夜明けと見えて、大きな円屋根(まるやね)のような球体(きゅうたい)の端(はし)が、太陽の光をうけて半月形(みかづきがた)に金色(こんじき)に美しくかがやきだしたところだった。
 蜂谷艇長は、観測台のところに立って、しきりにオリオン星座のあたりを六分儀(ろくぶぎ)で測(はか)っていたが、やがて器械を下に置くと、手すりのところへ近づいて、下にいるミドリの名を呼んだ。
「ねえ、ミドリさん……」
「アラ、どうかなすって?」
 ミドリは星座図の上に三角定規(じょうぎ)をパタリと置いて、艇長の顔を見上げた。
「どうも可笑(おか)しいんですよ。もう丸三日になるので、十二万キロは来ていなきゃならないのに、たいへん遅れているんです。始め試験をしたときのような全速度が出ないのです。よもや貴方(あなた)の計算に間違いはないでしょうネ」
「いえ、計算は三つの方法ともチャンと合っていますわ。間違いなしよ」
「間違いなし。……するとこれは、何か別に重大なるわけがなければならんですなア」
 そういって蜂谷艇長は腕をこまねいて考えに沈んだ。
「私の運転の下手(へた)くそ加減(かげん)によるというんでしょう、ねえ艇長!」
 猿田飛行士が、底の方からいやみらしい言葉を投げかけた。
「そうは思わないよ。黙っていたまえ君は……。おう、進君、やがて水を配(くば)る時間だ。第四の樽を開けて置いて呉(く)れたまえ」
 進少年は、通信機のそばを離れて、下に降りていった。床(ゆか)にポッカリと明(あ)いた穴に身体を入れて見えなくなったと思うと、それから間もなく、ワッという悲鳴と共に、一同を呼(よ)ぶ声が聞えてきた。
 艇長は残りの二人を手で制して、ピストル片手に単身(たんしん)底穴(そこあな)に降りていったが、軈(やが)て激しい罵(ののし)りの声と共に、見慣れない一人の青年の襟(えり)がみをとって上へ上って来た。
「密航者だ。……この男がいるせいで、この艇が一向計算どおり進行しなかったんだ。なぜ君はわれわれの邪魔をするんだ。君は一体誰だい」
「まあそう怒(おこ)らないで、連れていって下さいよ、僕は新聞記者の佐々砲弾(さっさほうだん)てぇんです。僕一人ぐらい、なんでもないじゃないですか」
 この不慮(ふりょ)の密航者をどうするかについて、艇では大議論が起った。もう地球から十二万キロも離れては、彼を落下傘(パラシュート)で下ろすわけにも行かなかった。そんなことをすれば死んでしまうに決っている。艇長は云った。
「このまま連れてゆくか、それとも引返すかどっちかだ。連れてゆくのなら、食料品が足りないから、今日から皆の食物の分量を四分の一ずつ減(へら)すより外(ほか)ない」
 真先(まっさき)に反対したのは、猿田飛行士だった。
「密航するなんて太い奴だ。構(かま)うことはない。すぐに外へ放り出して下さい。たった一つの楽しみの食物が減るなんて、思っただけでもおれは不賛成だ」
 といって、頬をふくらませた。ミドリは引返すことに反対した。艇長は遂(つい)に云った。気の毒ながら、この向う見ずの記者に下艇(げてい)して貰うより外はないと。すると先刻(さっき)からジッと考えこんでいた進少年が大声で叫(さけ)んだ。
「艇長さん、それは可哀想(かあいそう)だなア。……じゃいいから、僕の食物を、この佐々(さっさ)のおじさんと半分ずつ食べるということにするから、このままにしてあげてよね、いいでしょう」
「おれの食物の分量さえ減らなきゃ、あとはどうでも構わないよ」
 と猿田は云った。
 艇長はようやく佐々記者を艇内に置くことを承認した。――佐々はどうなることかとビクビクしていたが、進少年の温い心づかいのため救われたので、少年の手をグッと握りしめ、心から礼を云った。
「あなたは僕の命の恩人だ。……いまにきっと、この御恩(ごおん)はかえしますよ」といった後で、誰にいうともなく「いや世の中には、豪(えら)そうな顔をしていて、実は鬼よりもひどいことをする人間が居(お)るのでねえ……」
 と、意味ありげな言葉を漏(も)らした。


   月世界上陸


 月世界(つきのせかい)の探険に於(おい)て、一番難所といわれるのは、無引力空間(むいんりょくくうかん)の通過だった。その空間は、丁度(ちょうど)地球の引力と月の引力とが同じ強さのところであって、もしそこでまごまごしていたり、エンジンが止(とま)ったりすると、そこから先、月の方へゆくこともできず、さりとて地球の方へ引かえすことも出来ず宙ぶらりんになってしまって、ただもう餓死(がし)を待つより外しかたがないという恐ろしい空間帯(くうかんたい)だった。
 蜂谷艇長(はちやていちょう)の巧(たく)みな指揮が、幸(さいわ)いにエンジンを誤らせることもなく、無事に危険帯を通過させたのだった。乗組員四名――いやいまは五名である――は、ホッと安堵(あんど)の胸をなで下ろした。
 やがて地球を出発してから十二日目、いよいよ待ちに待った月世界に着陸するときが来た。ここでは月は、まるで大地のように涯(はて)しなく拡(ひろ)がり、そして地球は、ふりかえると遥かの暗黒(あんこく)の空に、橙色(だいだいいろ)に美しく輝いているのであった。
「さアいよいよ来たぞ」と艇長はさすがに包みきれぬ喜色(きしょく)をうかべて云った。「じゃ大胆に『危難(きなん)の海(うみ)』の南に聳(そび)えるコンドルセに着陸しよう。皆、防寒具(ぼうかんぐ)に酸素吸入器(きゅうにゅうき)を背負うことを忘れないように。……では着陸用意!」
「着陸用意よろし」
 猿田飛行士は叫んだ。彼はすっかり隙間(すきま)のないほど身固(みがた)めし、腰にはピストルの革袋(かわぶくろ)を、肩から斜(なな)めに、大きな鶴嘴(つるはし)を、そしてズックの雑袋(ざつぶくろ)の中には三本の酒壜を忍ばせて、上陸第一歩は自分だといわんばかりの顔つきをしていた。
「……着陸始めッ……」
 艇は速度をおとし、静かに螺旋(らせん)を描(えが)きながら、荒涼(こうりょう)たる月世界(つきのせかい)に向って舞(ま)いおりていった。
「ねえ蜂谷さん。着陸してから、どうなさるおつもり」
 とミドリがいった。
「やはり貴女(あなた)の電子望遠鏡にうつった白点(はくてん)を真先(まっさき)に探険するつもりですよ。途中いろいろと観測しましたが、あれは大きな孔(あな)なんですネ。しかも地球にある階段に似たものが見えるんですよ。ひょっとすると、人間が作ったものかも知れませんネ」
「ああ、もしや六角博士(ろっかくはかせ)や兄が生きていて、その階段を築いたのではないでしょうか」
「さあ……」艇長は、十年前(ぜん)に探険に出かけた博士たちが今まで月世界に生きているものですかと云おうとして、やっと思いとどまった。「それならいいのですがねえ」
「あたしも御一緒に参りますわ。ああ嬉しい」
 そのとき進少年が、艇の底にある倉庫から上ってきた。
「艇長さん、食料品がすこし心細くなったよ。直ぐ引返すとしても、帰りの路は半分ぐらいに減食(げんしょく)しないじゃ駄目だ。ことに水が足りやしない。なにしろ一つの水槽(すいそう)の中に、記者の佐々おじさんが隠れていたんだものねえ。あはははッ」
 


【略】



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底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房
   1989(平成元)年12月31日第1版第1刷発行
初出:不詳
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:

森鴎外 『歴史其儘と歴史離れ』(3500字)わたくしの近頃書いた、歴史上の人物を取

2008-07-26 16:16:41 | ★[近代の文学]
歴史其儘と歴史離れ
森鴎外



 わたくしの近頃書いた、歴史上の人物を取り扱つた作品は、小説だとか、小説でないとか云つて、友人間にも議論がある。しかし所謂 normativ な美学を奉じて、小説はかうなくてはならぬと云ふ学者の少くなつた時代には、此判断はなか/\むづかしい。わたくし自身も、これまで書いた中で、材料を観照的に看た程度に、大分の相違のあるのを知つてゐる。中にも「栗山大膳」は、わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆ど単に筋書をしたのみの物になつてゐる。そこでそれを太陽の某記者にわたす時、小説欄に入れずに、雑録様のものに交ぜて出して貰ひたいと云つた。某はそれを承諾した。さてそれが例になくわたくしの校正を経ずに、太陽に出たのを見れば、総ルビを振つて、小説欄に入れてある。殊に其ルビは数人で手分をして振つたものと見えて、二三ペエジ毎に変つてゐる。鉄砲頭が鉄砲のかみになつたり、左右良(まてら)の城がさうらの城になつたりした処のあるのも、是非がない。
 さうした行違のある栗山大膳は除くとしても、わたくしの前に言つた類の作品は、誰の小説とも違ふ。これは小説には、事実を自由に取捨して、纏まりを附けた迹がある習であるに、あの類の作品にはそれがないからである。わたくしだつて、これは脚本ではあるが「日蓮上人辻説法」を書く時なぞは、ずつと後の立正安国論を、前の鎌倉の辻説法に畳み込んだ。かう云ふ手段を、わたくしは近頃小説を書く時全く斥けてゐたのである。
 なぜさうしたかと云ふと、其動機は簡単である。わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。
 わたくしのあの類の作品が、他の物と違ふ点は、巧拙は別として種々あらうが、其中核は右に陳べた点にあると、わたくしは思ふ。
 友人中には、他人は「情」を以て物を取り扱ふのに、わたくしは「智」を以て取り扱ふと云つた人もある。しかしこれはわたくしの作品全体に渡つた事で、歴史上人物を取り扱つた作品に限つてはゐない。わたくしの作品は概して dionysisch でなくつて、apollinisch なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それは只観照的ならしめようとする努力のみである。
     ――――――――――――
 わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌つて、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ。そしてこれを脱せようと思つた。
 まだ弟篤二郎の生きてゐた頃、わたくしは種々の流派の短い語物を集めて見たことがある。其中に粟の鳥を逐ふ女の事があつた。わたくしはそれを一幕物に書きたいと弟に言つた。弟は出来たら成田屋にさせると云つた。まだ団十郎も生きてゐたのである。
 粟の鳥を逐ふ女の事は、山椒大夫伝説の一節である。わたくしは昔手に取つた儘で棄てた一幕物の企を、今単篇小説に蘇らせようと思ひ立つた。山椒大夫のやうな伝説は、書いて行く途中で、想像が道草を食つて迷子にならぬ位の程度に筋が立つてゐると云ふだけで、わたくしの辿つて行く糸には人を縛る強さはない。わたくしは伝説其物をも、余り精しく探らずに、夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮べて見た。
 昔陸奥に磐城判官正氏と云ふ人があつた。永保元年の冬罪があつて筑紫安楽寺へ流された。妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にゐた。二人の子は姉をあんじゆと云ひ、弟をつし王と云ふ。母は二人の育つのを待つて、父を尋ねに旅立つた。越後の直江の浦に来て、応化の橋の下に寝てゐると、そこへ山岡大夫と云ふ人買が来て、だまして舟に載せた。母子三人に、うば竹と云ふ老女が附いてゐたのである。さて沖に漕ぎ出して、山岡大夫は母子主従を二人の船頭に分けて売つた。一人は佐渡の二郎で母とうば竹とを買つて佐渡へ往く。一人は宮崎の三郎で、あんじゆとつし王とを買つて丹後の由良へ往く。佐渡へ渡つた母は、舟で入水したうば竹に離れて、粟の鳥を逐はせられる。由良[#「由良」は底本では「山良」]に着いたあんじゆ、つし王は山椒大夫と云ふものに買はれて、姉は汐を汲ませられ、弟は柴を苅らせられる。子供等は親を慕つて逃げようとして、額に烙印をせられる。姉が弟を逃がして、跡に残つて責め殺される。弟は中山国分寺の僧に救はれて、京都に往く。清水寺で、つし王は梅津院と云ふ貴人に逢ふ。梅津院は七十を越して子がないので、子を授けて貰ひたさに参籠したのである。
 つし王は梅津院の養子にせられて、陸奥守兼丹後守になる。つし王は佐渡へ渡つて母を連れ戻し、丹後に入つて山椒大夫を竹の鋸で挽き殺させる。山椒大夫には太郎、二郎、三郎の三人の子があつた。兄二人はつし王をいたはつたので助命せられ、末の三郎は父と共に虐けた[#「虐けた」はママ]ので殺される。これがわたくしの知つてゐる伝説の筋である。
 わたくしはおほよそ此筋を辿つて、勝手に想像して書いた。地の文はこれまで書き慣れた口語体、対話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出来ない。そこで調度やなんぞは手近にある和名抄にある名を使つた。官名なんぞも古いのを使つた。現代の口語体文に所々古代の名詞が插まることになるのである。同じく時代を蔑にしたくない所から、わたくしは物語の年立をした。即ち、永保元年に謫せられた正氏が、三歳のあんじゆ、当歳のつし王を残して置いたとして、全篇の出来事を、あんじゆが十四、十五になり、つし王が十二、十三になる寛治六七年の間に経過させた。
 さてつし王を拾ひ上げる梅津院と云ふ人の身分が、わたくしには想像が附かない、藤原基実が梅津大臣と云はれた外には、似寄の称のある人を知らない。基実は永万二年に二十四で薨じたのだから、時代も後になつてをり、年齢もふさはしくない。そこでわたくしは寛治六七年の頃、二度目に関白になつてゐた藤原師実を出した。
 其外、つし王の父正氏と云ふ人の家世は、伝説に平将門の裔だと云つてあるのを見た。わたくしはそれを面白くなく思つたので、只高見王から筋を引いた桓武平氏の族とした。又山椒大夫には五人の男子があつたと云つてあるのを見た。就中太郎、二郎はあん寿、つし王をいたはり、三郎は二人を虐ける[#「虐ける」はママ]のである。わたくしはいたはる側の人物を二人にする必要がないので、太郎を失踪させた。
 こんなにして書き上げた所で見ると、稍妥当でなく感ぜられる事が出来た。それは山椒大夫一家に虐けられる[#「虐けられる」はママ]には、十三と云ふつし王が年齢もふさはしからうが、国守になるにはいかがはしいと云ふ事である。しかしつし王に京都で身を立てさせて、何年も父母を顧みずにゐさせるわけにはいかない。それをさせる動機を求めるのは、余り困難である。そこでわたくしは十三歳の国守を作ることをも、藤原氏の無際限な権力に委ねてしまつた。十三歳の元服は勿論早過ぎはしない。
 わたくしが山椒大夫を書いた楽屋は、無遠慮にぶちまけて見れば、ざつとこんな物である。伝説が人買の事に関してゐるので、書いてゐるうちに奴隷解放問題なんぞに触れたのは、已[#「已」は底本では「巳」]むことを得ない。
 兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りない[#「し足りない」は底本では「足りない」]やうである。これはわたくしの正直な告白である。

(大正四年一月)





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底本:「ザ・鴎外 ―森鴎外全小説全一冊―」第三書館
   1985(昭和60)年5月1日初版発行
   1992(昭和67)年8月20日第2刷発行
初出:「心の花」
   1915(大正4)年1月
※疑問点の確認に際しては、「鴎外全集 第二十六卷」岩波書店、1973(昭和48)年12月22日発行を参照しました。
入力:村上聡
校正:野口英司
1998年3月30日公開
2005年5月14日修正
青空文庫作成ファイル:


岸田國士  芸術と金銭:「文芸時代 第三巻第十一号」(大正15)

2008-07-18 15:01:23 | ★[近代の文学]
芸術と金銭
岸田國士



 芸術によつて「名」のみを得たものが一番多い。
「恋」を得たものも少くない。
「富」を得たものは、数へるほどしかない。

 自分の作品を「金」に代へることは、一つの方便である。芸術的制作品が、他の商品の如く、需要供給の法則に従つて、それ自身一つの価格を生じるといふのは社会的錯覚である。故に、機会さへあれば、芸術家は、その労力の報酬としてゞなく、単に、作品の唯一無二なる特性によつて、その作品を「利用」するものに対し、如何に多額の謝礼を要求しても差支へない。――とまあ、これが原則だと思つてゐればいゝ。

 実際問題として、芸術家は、その所謂「脱俗振り」によつて自ら高しとすることは勝手であるが、さういふ風潮を招くやうな対他的手段を廻らす必要はない。「金銭のことを口にしない」ことは、「金銭のことを問題にしない」ことにならないのみならず、却つて問題にし過ぎてゐるのかもわからない。

 ロダンは、自分の作品を一銭でも高く売ることにあらゆる根気と算段とを惜まなかつたと伝へられるが、これを以て芸術家としてのロダンを侮蔑する一部の人々に私は与することはできない。

 現代に於て、「清貧」といふ言葉は通用しないやうである。「清富」といふ言葉が永久に意味をなさないやうに。

 軍隊の本に「将校は社会の上流に位し」とか、「国民の模範となり」とかいふ文句があつたと記憶するが、文壇の本にも「文学者は時代の先駆にして」とか、「人類の生活を指導し」とかいふ文句があるらしい。
 その点、剣と筆とは共に誇大妄想狂を作ると見える。そして、その誇大妄想狂は、共に蓄財を卑め、借金を恥としない。
 剣を捨て、筆を取り、蓄財を心掛けて、借金に苦められるのも亦故なりと云ふべしである。呵々。





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底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
初出:「文芸時代 第三巻第十一号」
   1926(大正15)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:

【大学 児童文学 :①~⑩】児童文学の学べる大学 - 教えて!

2008-07-18 13:26:03 | ★[近代の文学]
【大学 児童文学 :①~⑩】の検索結果 約 94万9000 件

ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫


児童文学の学べる大学 - 教えて!goo児童文学、あるいはファンタジー文学を学べる大学を探しています。いろいろと資料請求をしてみたのですが、実際のところがいまいち分かりません。教養としてではなく、専門的に学べる大学はあるのでしょうか?現役の方、関係者の方がいらっしゃいましたら ...
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児童文学 - Wikipedia国内における児童文学の学問的研究は体系的に整備されているとは言い難いが、白百合女子大学・玉川大学・梅花女子大学・東京純心女子大学などは専門の学科・研究科を擁している。 また一般の大学・短大も、何らかの形で児童文学関連の講座を設置している ...
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正岡子規  「墨汁一滴」                     出だし

2008-07-18 13:08:53 | ★[近代の文学]
墨汁一滴
正岡子規



 病める枕辺(まくらべ)に巻紙状袋(じょうぶくろ)など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾(わかざり)をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶(しだ)の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙(だいだい)を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据(す)ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨(そこつ)の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林(きつりん)黒竜江(こくりゅうこう)などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何(いか)に変りてあらんか、そは二十世紀初(はじめ)の地球儀の知る所に非(あら)ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱(ほうらい)なり。

枕べの寒さ計(ばか)りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも

(一月十六日)

 一月七日の会に麓(ふもと)のもて来(こ)しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠(かご)の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座(かめのざ)といふ札あるは菫(すみれ)の如(ごと)き草なり。こは仏(ほとけ)の座(ざ)とあるべきを縁喜物(えんぎもの)なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行(ごぎょう)とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子(たびらこ)の札あり。はこべらの事か。真後(まうしろ)に芹(せり)と薺(なずな)とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾(つぼみ)のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜(すずな)とあるは丈(たけ)三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白(すずしろ)の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪(あかかぶら)にて紅(くれない)の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊(こと)にきはだちて目もさめなん心地する。『源語(げんご)』『枕草子(まくらのそうし)』などにもあるべき趣(おもむき)なりかし。

あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来(こ)し病めるわがため

(一月十七日)

 この頃根岸倶楽部(クラブ)より出版せられたる根岸の地図は大槻(おおつき)博士の製作に係(かか)り、地理の細精(さいせい)に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今鶯(うぐいす)横町といへど昔は狸(たぬき)横町といへりとぞ。

田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一(ほういつ)が句に「山茶花(さざんか)や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣(ふうしゅ)ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹(ちく)の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦(れんが)の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古(いにし)への奥州路(おうしゅうじ)の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ水(くいな)の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々(うんぬん)

と博士は記(しる)せり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空(むな)しく帰る俗客もあるべしかし。
(一月十八日)

 蕪村(ぶそん)は天明(てんめい)三年十二月二十四日に歿したれば節季(せっき)の混雑の中にこの世を去りたるなり。しかるにこの忌日(きじつ)を太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。即ち翌年の始に歿したる事となるなり。
(一月二十日)

 伊勢山田の商人(あきんど)勾玉(こうぎょく)より小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。

祈平癒呈(へいゆをいのりてていす)
御両宮之真境(古版)              二
御神楽之図(おかぐらのず)(地紙)               五
五十鈴(いすず)川口のはぜ(薬といふ丑(うし)の日に釣(つ)る)    六
高倉山のしだ                  一

いたつきのいゆといふなる高倉の御山(みやま)のしだぞ箸(はし)としたまへ
  辛丑(かのとうし)のはじめ

大内人匂玉
 まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。
(一月二十二日)

 病床苦痛に堪へずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。傍(かたわ)らに二、三の人あり。その内の一人、人の耳ばかり見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑ふ。我は健(すこや)かなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。
(一月二十三日)

 年頃苦しみつる局部の痛(いたみ)の外に左横腹の痛去年(こぞ)より強くなりて今ははや筆取りて物書く能(あた)はざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。かくては生けるかひもなし。はた如何(いか)にして病の牀(とこ)のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて終(つい)に墨汁一滴(ぼくじゅういってき)といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限(かぎり)とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間(ひま)をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見(まみ)えんとにはあらず、朝々(あさあさ)病の牀にありて新聞紙を披(ひら)きし時我書ける小文章に対して聊(いささ)か自ら慰むのみ。

筆(ふで)禿(ち)びて返り咲くべき花もなし

(一月二十四日)

 去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹(てっかん)子規(しき)と並記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾以為(おも)へらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是(ぜ)ならば子規非(ひ)なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。乃(すなわ)ち書を鉄幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は『明星(みょうじょう)』所載(しょさい)の短歌を評せん事を約す。けだし両者を混じて同一趣味の如く思へる者のために妄(もう)を弁ぜんとなり。爾後(じご)病牀寧日(ねいじつ)少く自ら筆を取らざる事数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝へられ鉄幹子規不可(ふか)並称(へいしょう)の説を以て尊卑(そんぴ)軽重(けいちょう)に因(よ)ると為すに至る。しかれどもこれらの事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁(こうろんおつばく)喧擾(けんじょう)を極めたるは世人をしてやや歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益加はり殊に筆を取るに悩む。終(つい)に前約を果す能はざるを憾(うら)む。もし墨汁一滴の許す限において時に批評を試むるの機を得んかなほ幸(さいわい)なり。
(一月二十五日)

 俳句界は一般に一昨年の暮より昨年の前半に及びて勢を逞(たくまし)うし後半はいたく衰へたり。我(わが)短歌会は昨年の夏より秋にかけていちじるく進みたるが冬以後一頓挫(とんざ)したるが如し。こは固(もと)より伎倆(ぎりょう)の退(しりぞ)きたるにあらず、されど進まざるなり。吾(わが)見る所にては短歌会諸子は今に至りて一の工夫もなく変化もなくただ半年前に作りたる歌の言葉をあそこここ取り集めて僅(わず)かに新作と為(な)しつつあるには非(あらざ)るか。かくいふわれもその中の一人なり。さはれ我は諸子に向つて強ひて反省せよとはいはず。反省する者は反省せよ。立つ者は立て。行く者は行け。もし心労(つか)れ眼(まなこ)眠たき者は永(なが)き夜の眠(ねむり)を貪(むさぼ)るに如(し)かず。眠さめたる時浦島(うらしま)の玉くしげくやしくも世は既に次の世と代りあるべきか如何(いかん)。
(一月二十七日)

 人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂(わいろ)に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ。今年の年玉とて鼠骨(そこつ)のもたらせしは何々ぞ。三寸の地球儀、大黒(だいこく)のはがきさし、夷子(えびす)の絵はがき、千人児童の図、八幡太郎(はちまんたろう)一代記の絵草紙(えぞうし)など。いとめづらし。此(これ)を取り彼をひろげて暫(しばら)くは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味は自(おのずか)らこの取り合せの中にあらはれて興(きょう)尽くる事を知らず。

年玉を並(なら)べて置くや枕もと

(一月二十八日)