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実況放送 NHK 2009-2-8 20:15 遠野物語

2009-02-09 20:18:40 | 随筆・評論
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遠野物語

■■■■(とおのものがたり)とは■■國男が1910年(明治43年)に発表した説話集である。

岩手県遠野町(現・遠野市)出身の■■■喜善によって語られた地元の民話を、柳田が編纂したものである。その内容は天狗、河童、座敷童子など■■に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらには祀られる神様、そして行事など多岐に渡る。

『遠野物語』本編は119話で、続いて発表された『遠野物語拾遺』には299話が収録されている。

民間伝承に焦点を当て奇をてらうような改変はなく、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評されている。日本の■■■の発展に大きく貢献した。


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『遠野物語』 :デジタル画像(近代デジタルライブラリー)



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カテゴリ: 日本の文学作品 | 説話 | 岩手県を舞台とした作品
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遠野物語

遠野物語(とおのものがたり)とは柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集である。

岩手県遠野町(現・遠野市)出身の佐々木喜善によって語られた地元の民話を、柳田が編纂したものである。その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらには祀られる神様、そして行事など多岐に渡る。

『遠野物語』本編は119話で、続いて発表された『遠野物語拾遺』には299話が収録されている。

民間伝承に焦点を当て奇をてらうような改変はなく、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評されている。日本の民俗学の発展に大きく貢献した。


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カテゴリ: 日本の文学作品 | 説話 | 岩手県を舞台とした作品
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東京大学  早稲田大学  京都大学 岩手大学

森鴎外  遺言三種

2008-07-26 16:28:02 | 随筆・評論
遺言三種
森鴎外



   遺言


壱 予ハ予ノ死後遺ス所ノ財産ヲ両半ニ平分シ左ノ弐条件ヲ附シテ壱半ヲ予ノ相続者予ノ長男森於菟ニ与ヘ壱半ヲ予ノ母森みねニ与フベシ
弐 予ノ祖母森きよノ生活費予ノ妻森しけガ生家荒木氏ニ復籍シ若クハ他家ニ再嫁スルニ至ルマデノ生活費予ノ弟潤三郎ガ他家ニ養ハレ若クハ自活ノ方法成立スルニ至ルマデノ生活費及教育費予ノ長女茉莉ガ他家ニ嫁スルニ至ルマデノ生活費及教育費並他家ニ嫁スル時ノ支度費ハ予ノ死後森於菟ガ予ノ与フル所ノ財産及其利子ノ壱部ヲ以テ負担スヘキコト是ヲ条件ノ壱トス
参 予若シ森於菟ガ未ダ丁年ニ達セザル時ニ死セバ森於菟ノ財産ハ森しけヲシテ管理セシメズ予ノ弟森篤次郎及予ノ妹小金井キミヲシテ管理セシムルコト是ヲ条件ノ弐トス
肆 右第参号ノ条件ハ予ヲシテ此遺言ヲ為サシムル動機ノ存スル所ナルガ故ニ予ハ茲ニ右条件ノ已ム可カラザル所以ヲ特ニ言明ス即チ森しけガ森於菟ト同居年ヲ踰エナガラ正当ナル理由ナクシテ絶テ之ト言ヲ交ヘズ既ニシテ又正当ナル理由ナクシテ森みね及森潤三郎ト同居ヲ継続スルコトヲ拒ミ右参人ニ対シテ悪意ヲ挟ミ到底予ノ遺族ノ安危ヲ託スルニ由ナキコト是ナリ
伍 予若シ森於菟ガ未ダ丁年ニ達セザル時ニ死シテ予ノ遺族恩賜金ヲ受ケ若クハ寡婦孤児扶助料ヲ受クルトキハ縦令其恩賜若クハ扶助ハ森しけノ名ヲ以テセラレンモ予ハ右第参号ノ管理者ヲシテ之ヲ管理セシメ以テ予ノ遺族全体ノ安全ヲ謀ランコトヲ欲ス
陸 此遺言証書ハ予ノ母森みねヲシテ管理セシム
漆 此遺言ノ執行ハ冨塚玖馬氏及予ノ妹婿小金井良精ニ委任ス


   遺言

予ハ明治三十七年従軍セシ時遺言ヲ作リシニ其後家族ニ生歿アリテ事情一変セリ故ニ更ニ遺言スルコト下ノ如シ
一、有価証券並預金現金ハ小金井喜美、森(分家)潤三郎ニ与フル各千円計弐千円ヲ控除シ残余ヲ
二分シ半ハ於菟ニ与ヘ半ハ更ニ三分シテ茉莉、杏奴、類ニ平等ニ与フ
二、本郷ノ地所家屋ハ東半部強ヲ於菟ニ西半部弱(賀古鶴所ヨリ買取リシ地所並之ニ属スル家屋)ヲ類ニ与フ
三、日在ノ夷隅川岸ノ地所家屋ハ志げニ与フ
四、日在ノ御門停車場脇ノ地所ハ於菟ニ与フ
五、家財(伝家ノ物品、恩賜ノ物品及一切ノ書籍ヲ除ク)ハ荒木博臣遺物並新年賀式用器具一揃ヲ志げニ与ヘ残余中ヨリ於菟ヲシテ志げ、喜美、潤三郎ト協議シ親戚故旧ニ贈ルベキ遺物ヲ選定セシメ其残余ハ於菟、類ヲシテ適宜ニ之ヲ分タシム
六、遺著ヨリ生ズル収入ハ於菟、茉莉、杏奴、類ニ平等ニ分チ与フ於菟ハ志げ、喜美ト協議シ其取扱方法ヲ定ムベシ
七、系譜記録類、伝家ノ物品、恩賜ノ物品及一切ノ書籍ノ事ハ別ニ之ヲ定ム
八、遺言ノ執行ニハ賀古鶴所ノ立会ヲ求ム
  大正七年三月十三日

森 林太郎

   遺言

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
  大正十一年七月六日

森林太郎言 拇印
賀古鶴所書





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底本:「日本の名随筆 別巻17 遺言」作品社
   1992(平成4)年7月25日第1刷発行
入力:渡邉つよし
校正:浦田伴俊
2000年8月19日公開
2006年5月10日修正
青空文庫作成ファイル:

[ 大槻文彦] ことばのうみのおくがき 『日本辭書編輯の命あり、

2008-07-22 15:41:19 | 随筆・評論
ことばのうみのおくがき
大槻文彦



先人、嘗て、文彦らに、王父が誡語なりとて語られけるは、「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」と語られぬ、おのれ、不肖にはあれど、平生、この誡語を服膺す。本書、明治八年起稿してより、今年にいたりて、はじめて刊行の業を終へぬ、思へば十七年の星霜なり、こゝに、過去經歴の跡どもを、おほかたに書いつけて、後のおもひでにせむとす、見む人、そのくだ/\しきを笑ひたまふな。

明治七年、おのれ、仙臺にありき、こは、その前年、文部省のおほせをうけたまはりて、その地に宮城師範學校といふを創立し、校長を命ぜられて在勤せしをりなりけり。さるに、この年の末に、本省より特に歸京を命ぜられて、八年二月二日、本省報告課(明治十三年に、編輯局と改められぬ。)に轉勤し、こゝにはじめて、



日本辭書編輯の命あり、




これぞ本書編輯着手のはじめなりける。




時の課長は西村茂樹君なりき。
その初は、榊原芳野君とともに、編輯のおほせをかうむりたりしに、幾ほどなくて、榊原君は他にうつりて、おのれひとりの業とはなりぬ。後に聞けば、初め、辭書編輯の議おこれる時、和漢洋を具微せる學者數人、召しあつめられむの計畫にて、おのれは、那珂通高君の薦めなりきとか聞きつる。又これよりさきに、編輯寮にて語彙を編輯せしめられしに、碩學七八人して、二三年の間に、わづかに「あ、い、う、え」の部を成せりき。横山由清君もそのひとりなりしが、再擧ありと聞かれて、意見をのべられけるは、「語彙の編輯、議論にのみ日をすぐして成功なかりき、多人數ならむよりは、大槻一人にまかせられたらむには、却て全功を見ることあらむ、」といはれたりとなり。此事、横山君の直話なりとて、後に、清水卯三郎君、おのれに語られぬ。此業の、おのれひとりの事となれるは、かゝる由にてやありけむ。
初め、編輯の體例は、簡約なるを旨として、收むべき言語の區域、または解釋の詳略などは、およそ、米國の「ヱブスター」氏の英語辭書中の「オクタボ」といふ節略體のものに傚ふべしとなり。おのれ、命を受けつるはじめは、壯年鋭氣にして、おもへらく、「オクタボ」の注釋を翻譯して、語ごとにうづめゆかむに、この業難からずとおもへり。これより、從來の辭書體の書數十部をあつめて、字母の順序をもて、まづ古今雅俗の普通語とおもふかぎりを採收分類して、解釋のありつるは併せて取りて、その外、東西洋おなじ物事の解は、英辭書の注を譯してさしいれたり。かくすること數年にして、通編を終へて、さて初にかへりて、各語を逐ひて見もてゆけば、注の成れるは夙く成りて、成らぬは成らず、語のみしるしつけて、その下は空白となりて、老人の齒のぬけたらむやうなる所、一葉ごとに五七語あり。古語古事物の意の解きがたきもの、説のまち/\なるもの、八品詞の標別の下しがたきもの、語原の知られぬもの、動詞の語尾の變化の定めかぬるもの、假名遣の據るところなくして順序を立てがたきもの、動植物の英辭書の注解に據りたりしものゝ、仔細に考へわくれば、物は同じけれども、形状色澤の、東西の風土によりて異なるもの、其他、雜草、雜魚、小禽、魚介、さては、俗間通用の病名などにいたりては、支那にもなく、西洋にもなく、邦書にも徴すべきなきが多し。かく、一葉毎に、五七語づゝ、注の空白となれるもの、これぞ此編輯業の盤根錯節とはなりぬる。筆執りて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のたゞなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣く深きにあきれて、おのがまなびの淺きを耻ぢ責むるのみなりき。さるにても、興せる業は已むべきにあらず、王父の遺誡はこゝなりと、更に氣力を奮ひおこして、及ぶべきかぎり引用の書をあつめ、又有識に問ひ、書に就き、人に就き、こゝに求め、かしこに質して、おほかたにも解釋し、旁、又、別に一業を興して、數十部の語學書をあつめ、和洋を參照折中して、新にみづから文典を編み成して、終にその規定によりて語法を定めぬ。この間に年月を徒費せしこと、實に豫想の外にて、およそ本書編成の年月は、この盤根錯節のためにつひやせること過半なりき。(この間に、他書の編纂訂など命ぜられ、又、音樂取調掛兼勤となりしことも數年なりき。)解釋をあなぐれる事につきて、そのひとつふたつを言はむ。某語あり、語原つまびらかならず、外國語ならむのうたがひあり、或人、偶然に「そは、何人か、西班牙語ならむといへることあり」といふ、さらばとて、西英對譯辭書をもとむれど得ず、「何某ならば西班牙語を知らむ、」君その人を識らば添書を賜へ、」とて、やがて得て、その人を訪ふ、不在なり、ふたゝび訪ひて遇へり、「おのれは深くは知らず、」さらば、君が識れる人に、西語に通ぜる人やあらむ、」某學校に、その國の辭書を藏せりとおぼゆ、」さらば添書を賜へ、」とて、さらにその學校にゆきて、遂にその語原を、知ることを得たりき。捕吏の、盜人を蹤跡する詞に、「足がつく」足をつける」といふことあり、語釋の穿鑿も相似たりと、ひとり笑へる事ありき。その外、酒宴談笑歌吹のあひだにも、ゆくりなく人のことばの、ふと耳にとまりて、はたと膝打ち、さなり/\と覺りて、手帳にかいつけなどして、人のあやしみをうけ、又、汽車の中にて田舍人をとらへ、その地方の方言を問ひつめて、はては、うるさく思はれつることなど、およそ、かゝるをこなる事もしば/\ありき。すべて、解釋の成れる後より見れば、何の事もなきやうにみゆるも、多少の苦心を籠めつる多かり。
おのれは漢學者の子にて、わづかに家學を受け、また、王父が蘭學の遺志をつぎて、いさゝか英學を攻めつるのみ、國學とては、さらに師事せしところなく、受けたるところなく、たゞ、おのが好きとて、そこばくの國書を覽わたしつるまでなり。さるを思へば、そのはじめ、かゝる重き編輯の命を、おふけなくも、いなまずうけたまはりつるものかな、辭書編輯の業、碩學すらなやめるは、これなりけりと思ひ得たるにいたりては、初の鋭氣、頓にくじけて、心そゞろに畏れを抱くにいたりぬ。また、局長には、おのれが業のはかどらぬを、いかにか思はるらむ、怠り居るとや思ひをらるらむ、などおもふに、そも、局長西村君は、そのはじめ、この業をおのれに命ぜられてより、ひさしき歳月をわたれるに、さらに、いかにと問はれし事もなく、うながされし事もなし、その意中推しはかりかねて、つねにはづかしく思へりき。さるに、明治十六年の事なりき、阿波の人井上勤君、編輯局に入り來られぬ、同君、まづ局長に會はれし時に、局中には學士も濟々たらむ、何がし、くれがし、と話しあはれたる時、局長のいはるゝに、「こゝに、ひとり、奇人こそあれ、大槻のなにがしといふ、この人、雜駁なる學問なるが、本邦の語學は、よくしらべてあるやうなり、かねて一大事業をまかせてより、今ははや十年に近きに、なほ、倦まずして打ちかゝりてあり、強情なる士にこそ」と、話されぬと、井上君入局して後に、ゆくりなくおのれに語られぬ。おのれ、この話を聞きて、局長の意中も、さては、と感激し、また、その「強情をとこ」の月旦は、おのれが立てつるすぢを洞見せられたりけり、「人の己を知らざるを憂へず」の格言もこれなりなど思ひて、うれしといふもあまりありき。げにや、そのかみの官衙のありさまは、忽に變遷する事ありて、局も人も事業も、十年の久しきに繼續せしは、希有なる事にて、おのれがこの業は、都下※[#「執/れっか」、二-20]閙の市街のあひだにありて、十年の間、火災に燒けのこりたらむがごとき思ひありき。そも、この業の成れるは、おのれが強情などいはむはおふけなし、ひとへに、局長が心のよせひとつに成りつるなりけり、西村君は、實にこの辭書成功の保護者(Patron.)とや言はまし。
そのかみは、官途も、今のごとくにはあらず、奉承榮達の道も、今よりは、たはやすかりきとおぼゆ、同僚は、時めきて遷れるも多し、おのれに親しく榮轉を勸めたりし人さへも、ひとりふたりにはあらざりき、されど、かゝる事にて心の動く時は、つねに王父の遺誡を瞑目一思しぬ。明治十一年六月、おのが父にておはする人、七十八歳にして身まかられぬ、老い給ひての上の天然の事とはいへ、いまさらの事にて、哀しきことかぎりなし、今よりは、難義の教を受けむこともかなはずと思へば心ぼそし、辭書の成稿を見せまゐらせむの心ありしかども、そのかひもなし。この後幾ほどなき事なりき、同郷なる富田鐵之助君、龍動に在勤せられて、「來遊せよかし、おのれ、いかにもして扶持せむ、」など、厚意もて言ひおこせられたり。君の我を愛せらるゝこと、今にはじめぬ事ながらと、感喜踊躍して、さて思へらく、かゝる機會は多く得べからず、父の養ひはすでに終へつ、おのれは次子なり、家兄は存せり、家の祀、母のやしなひ、托すべき人あり、また妻もなく子もなし、幾年にてもあれ、海外に遊びてあられむ程はあらむ、いづこにも青山あらむ、海外にて死にもせむ、さらば、この土に、何をか一事業をとどめてゆかむ、その業は、すなはちこの辭書なるめり、いよ/\半途にして已むべきにあらず。かく思ひなりて、さて、その頃、おのれは本郷に住めり、父を養はむために營みつる屋敷なりけり、かゝる事の用にとならば、なき靈もいなみ給はじ、など思ひさだめて、やがて、そを賣りて、二千餘金を得、これに蓄餘を加へなどして、腰纒をとゝのへて、さて、ひたふるに辭書の成業をいそぎぬ。されども、例の盤根錯節は、たはやすく解けやらず、今はこうじにこうじて、推辭せむか、躱避せむか、棄てむ、棄てじ、の妄念、幾たびか胸中にたゝかひぬ、されど、かゝるをりには、例の遺誡を思ひ出でゝしば/\思ひしづめぬ。かくて心のみはやりて、こゝろならずも日をすぐせる内に、當時、楮幣洋銀の差大に起りて、備へつる腰纒は、思ひはかりし半ばかりとなり、幾程なく富田君も歸朝せられて、いよ/\呆然たり、さてこそ、この願望は一睡妄想の夢とは醒めたれ。およそ、この辭書編輯十年間は、おのれが旺壯の年期なりしを、またくこの事業の犧牲とはしたりき、善く世と推しうつりたらましかば、かばかり沈滯もせざらまし、今は已みなむ。然はあれど、又つら/\人の上を顧みおもふに、時めかしつるも、變遷しぬるも、さてその十數年間、何の業をかなせると見れば、黄粱一夢鴻爪刻船のさまなるも多かり、我には、數ならねど、此十年間の事業は痕をとゞめたり、相乘除せば、さまで繰言すべくもあらじ、まして、箕裘を繼ぎつる上はこの文學の道にかくてあらむは、おのれが分なり。さるにても、世の操觚の人は、史文に、綺語に、とかく、花も實もありて、聲聞利益を博せむ方にのみ就くに、おのれは、かゝる至難にして人後につき名も利も得らるまじきうもれ木わざに半生をうづみつるは、迂闊なる境涯なりけり。されど、この業、文學の上に、誰か必用ならずとせむ、必用なる業なれど人は棄てゝ就かず、おのれは人の棄てつる業に殉せり、いさゝか本分に酬ゆるところありともせむかし。
本篇引用の書にいたりては、謹みて中外古今碩學がたまものを拜す、實に皆その辛勤の餘澤なり、家に藏せる父祖が遺著遺書のめぐみ、また少からず。編輯中の質疑にいたりては、黒川眞頼、横山由清、小中村清矩、榊原芳野、佐藤誠實、等諸君の教、謝しおもふところなり。然して、稿本成りて、名を言海とつけられしは、佐藤誠實君の考選にいでたり。稿本の淨書をはじめつるは、明治十五年九月にて、局中にて、中田邦行、大久保初男の二氏を、この編輯業につけられ、字寫字は、おほかたこの二氏の手に成れり。さて、初稿成れりし後も、常に訂正に從事して、その再訂の功を終へたるは、實に明治十九年三月二十三日なりき。
さて、局長西村君は、前年轉任せられ、おのれも、十九年十一月に、第一高等中學校教諭、古事類苑編纂委員などに移りて、本書出版の消息なども、聞く所あらず。ひとゝせ故文部大臣森有禮君の第に饗宴ありし時、おのれも招かれて、宴過ぎて後に、辻新次君と鼎坐して話しあへるをりにも、「君が多年苦心せる辭書、出版せばや、」など、大臣、親しく言ひいでられつる事もありしが、編輯の拙き、出版にたへずとにや、或は資金の出所なしとにや、その事も止みぬ。かくて、稿本は、文部省中にて、久しく物集高見君が許に管せらるときゝしが、いかにかなるらむ。はて/\は、いたづらに紙魚のすみかともなりなむなど、思ひいでぬ日とてもあらざりしに、明治二十一年十月にいたりて、時の編輯局長伊澤修二君、命を傳へられて、自費をもて刊行せむには、本書稿本全部下賜せらるべしとなり、まことに望外の命をうけたまはりて、恩典、枯骨に肉するおもひあり、すなはち、私財をかきあつめて資本をそなへ、富田鐵之助君、及び同郷なる木村信卿君、大野清敬君の賛成もありて、いよ/\心を強うし、踊躍して恩命を拜しぬ。かくて、編緝局の命にて、かならず全部の刊行をはたすべし、刊行の工事は同局の工塲に托すべし、篇首に、本書は、おのれ文部省奉職中編纂のものたることを明記すべし、そこばくの獻本すべし、などいふ約束を受けて、十月二十六日、稿本を下賜せられ、やがて、同じ工塲にて、私版として刊行することとはなりぬ。
刊行のはじめ、中田大久保の二氏、閑散なりしかば、家にやどして、活字の正せむことを托しぬ。稿本も、はじめは、初稿のまゝにて、たゞちに活字に付せむの心にて、本文のはじめなる數頁は、實にそのごとくしたりしが、數年前の舊稿、今にいたりて仔細に見もてゆけば、あかぬ所のみ多く出できて、かさねて稿本を訂正する事とし、訂塗抹すれば、二氏淨書してたゞちに活字に付し、活字は、初より二回の正とさだめたれば、一版面、三人して、六回の正とはなりぬ。かくてより、今年の落成にいたるまで、二年半の歳月は、世のまじらひをも絶ちて、晝となく夜となく、たゞこの訂正合にのみ打ちかゝりて、更に他事をかへりみず。さてまた、篇中の體裁も、注釋文も、初稿とは大に面目をあらためぬ。
本書刊行のはじめに、編輯局工塲と約して、全部、明年九月に完結せしめむと豫算したり。又、書林は、舊知なる小林新兵衞、牧野善兵衞、三木佐助の三氏に發賣の事を托せしに、豫約發賣の方法よからむとすゝめらるゝにしたがひて、全部を四册にわかちて、第壹册は三月、第二册は五月、第三册は七月、第四册は九月中に發行せむと假定しぬ。さるに、此事業、いかなる運にか、初より終まで、つねに障礙にのみあひて、ひとつも豫算のごとくなることあたはず、遂に完結までに、二年半をつひやせり、今、左にその障礙のいちじるきものをしるさむ。
明治二十二年三月にいたりて、編輯局の工塲を、假に印刷局につけられたるよしにて、その事務引きつぎのためにとて、數十日間、工事の中止にあひ、さて、二十三年三月にいたりて、編輯局の工塲は、終にまたく廢せられぬ。これより後は、一私人として、さらに印刷局に願ひいでずてはかなはず、その出願には、規則の手續を要せらるゝ事ありて、豫算にたがへる事もおこりしかば、編輯局にうれへまうす事どもありしかど、今はせむかたなしとて郤けられぬ、稿本下賜の恩命もあれば、しひて違約の愁訴もしかねて、それより、家兄修二、佐久間貞一君、益田孝君などの周旋を得て、とかくの手つゞきして、からうじて再着手とはなれり、此の間も、中止せられぬること、六十餘日に及びぬ。又、この前後、公用刊行の物輻湊する時は、おのれが工事は、さしおかれたる事もしば/\なりき。かく、數度の障礙にはあひつれど、この工事を他の工塲に托せむの心は起らざりき、さるは、同局の工事は、いふまでもなき事ながら、植字に正に、謹嚴精良なる事、麻姑を雇ひて癢處を掻くが如く、また他にあるべくもあらざればなり、見む人、本書を開きて目止めよかし。さてまた、本書植字の事、原稿の上にては、さまでとも思はざりしが、さて着手となりてみれば、假名の活字は、異體別調のものなれば、寸法一々同じからず、その外、くさ/″\の符號など、全版面に、およそ七十餘とほりのつかひわけあり、植字正のわづらはしきこと、熟練のうへにてもはかどらず、いかに促せどもすゝまず。又、辭書のことなれば、母型に無き難字の、思ひのほかに出できて、木刻の新調にいとまをつひやせる事、甚だ多し。およそ、これらの事、豫算には思ひもまうけぬ事どもにて、すべて遲延の事由とはなりぬ。又正者中田邦行氏、腦充血にて、二十二年六月に失せられぬ、本書の業につきては、その初より、大久保氏とともに、助力おほかたならず、多年、篇中の文字符號に熟練せる人を失ひて、いと/\こうじぬ。また、去年の春、流行性感冐行はれ、年の末より今年にかけて、ふたゝび行はれ、おのれも、正者も、植字工も、この前後再度の流行に、數日間倒れぬ。また、去年の十月、おのが家、壁隣の火に遇へり。また、正者大久保初男氏、その十一月、徳島縣中學校教員に赴任せられて、たのめる一臂を失ひていよ/\こうじぬ、およそこれらの事、皆此書の遭厄なり。これより後は、先人の舊門なる文傳正興氏に托して、正の事を擔任せしめぬ。


割愛 nakamurayoshio@gmail.com




敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり  後京極


There is nothing so well done, but may be mended.





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底本:「言海」大槻文彦
   第一册(お以上 ) 1889(明治22)年5月15日出版
   第二册(自か至さ) 1889(明治22)年10月31日出版
   第三册(自し至ち) 1890(明治23)年5月31日出版
   第四册(つ以下 ) 1891(明治24)年4月22日出版
※変体仮名は普通仮名にあらためました。
※「編輯」と「編緝」の混在は、底本通りです。
入力:kamille
校正:多羅尾伴内
2004年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:


土井晩翠  「漱石さんのロンドンにおけるエピソード 」 夏目夫人にまゐらす

2008-07-18 15:06:50 | 随筆・評論
漱石さんのロンドンにおけるエピソード
夏目夫人にまゐらす
土井晩翠



 夏目夫人、――「改造」の正月号を読んで私が此一文を書かずには居れぬ理由は自然に明かになると思ひます、どうぞ終まで虚心坦懐に御読み下さい。
 漱石さんが東京帝国大学英文学の卒業生で私共の先輩であつたことは曰ふ迄もありません。『英国詩人の天地山川に対する観念』などを『哲学雑誌』で田舎書生が驚嘆の目に読んだのは三十余年の昔です。そして此渇仰の大家の風貌に初めて接したのは『塩釜街道に白菊植ゑて何を聞く聞く、ソリヤ便りきく』の名邑を去る一里余、あやめが浦の海水浴場地の一ホテルに於てでした。『夏目君が……館に来てゐる、先輩に対する礼としてでも往訪するんだが同伴しないか』と私を誘うて下すつたのは同じく英文科の先輩(目下二高の教頭)玉虫一郎一さんでした、同郷の秀才で後同じく英文科に学んだが惜いかな中途で斃れた秀才渡辺芳治君も亦同伴されたと記憶します。『天風海濤』と誰やらの書いた額のある室で、初めて受けた印象は寡言で厳粛な、奥深さうな学者と曰ふに過ぎません、何等の委細のお話を承る機会なしに直ぐ其ホテルをお去りになつたからであります。
 大学一年級の折、同じく、玉虫さん(三年級)に誘はれて本郷の或下宿に参上したことがあります、漱石さんは不在、『すぐお帰りになるでありませう』と宿の者が曰ふので、其室に通つて待つてゐる間、部屋一面の洋書の堆積に吃驚した田舎書生の自分の姿が今も眼中に浮びます。其後漱石さんは松江と熊本とに前後赴任されて次に英国留学生として出発される其送別会(一ツ橋の学士会)に私も列しました。其跡を逐うたといふ訳でも何でも無いのですが、明治三十四年六月同郷の志賀潔さん(当時すでに赤痢菌の発見者として学界を驚した大家)が北里研究所からの在欧研究者として出発されるので、父にせがんで共に常陸丸(後ち日露戦役に撃沈されたもの)の船客として印度洋通過で、英国に着いたのは八月中旬、ヴイクトリヤ停車場に漱石さんのお出迎を忝うし、その下宿――クラパム、コンモン附近のとある素人下宿に落ちつきました、純粋の赤ケツトが何かにつけ指導を被つたのは曰ふ迄もなく、今の追懐にも感謝せずには居れません。十月の末には都合上ロンドン北西部、翌卅五年三月には其近くのタフネル、パークに転居し、其後病気のため英国南岸ブライトン附近に仮寓したこともあります。
 九月上旬夏目さんをもとの下宿に訪問すると(其訪問は全く偶然であつたか、誰からか病気と聞いての上であつたか、忘却)驚くべき御様子――猛烈の神経衰弱、――大体に於て「改造」正月号第二十九ぺージにあなたが御述べになつてゐる通りの次第でした。
 但し同ぺージに『英文学の研究で留学を命ぜられて彼方へ行つてゐた某氏が落合つて様子を見ると、ただ事でない……三日ばかり其方が側についてゐて下すつたさうですが、見るほど益怪しい、そこへ文部省とかへ夏目がロンドンで発狂したといふ電報を打たれたといふことです』とありますが、此中の誤は正さねばなりません。私は文部省派遣の留学生では無く前述の如く、父にせがんでの全く私費生でした、其以前に一年有余二高の教授となつては居ましたが、当時は依願免官のあとで、文部省とは何等の関係のない一私人一浮浪人でありました。何等の関係のない一私人が文部省に対して『貴省の留学生夏目が発狂した……』と打電したなら其こそ本気の沙汰ではありますまい。文部省にせよ、何省にせよ、省の官命に因て派遣された者の行動に関し消息に関して督学官に非ず監督官にあらず一私人が本省に打電するといふべきことはあり得べきことでせうか、常識は之に対して否と答へることは明々白々と信じます。
 始めの二日は日通ひでお見舞しましたが下宿のリイル婆さん(老ミスの姉妹二人)が『心配だから一寸でも傍について見てくれ』と曰ひ、漱石さんも『君が居てくれると嬉しい』と曰はれるので、九月九日(重陽だから暗記し易い)朝まづ領事館に行つて住居変更を届け(翌十日公使館にも同様)五月十八日迄クラパムのチエーズ八十一に滞在しました、大した御役にも立たず、ろくなお世話も出来なかつたのですが、ともかく十日ばかり同宿したのであります(領事館或は公使館に明治三十五年の日本人住居録が若し保存されてあるなら以上の日附の誤ないことが証明されませう、どうでもよいことなのですが)
 其同宿の折であつたか後であつたか、故芳賀矢一先生が独乙留学の期が満ちて帰朝の途中ロンドンに来られました、それで二三の同志が落合つた折、自然話は夏目さんの病気に及びました。其頃ベルリン留学生の或る真面目な方が発狂して下宿屋に放火したといふ一珍談があつたので芳賀先生は『……どうも困つたな、夏目もろくに酒も飲まず、あまり真面目に勉強するから鬱屈して、さうなつたんだらう、もう留学も満期になる頃だが、それを早めて帰朝させたい、帰朝となると多少気がはれるだらう、文部省の当局に話さうか……』――正確には記憶しませんが以上の意味の言葉があつたやうです、(姉崎正治教授がその席にお出ででなかつたか、どうか、何しろ二十五六年前のことなので記憶は朦朧たらざるを得ません)
 あとに述べる通りそれから一ヶ月以内に私は全く英国を去つてしまつたので、くはしい其後の消息はわかりませんが、帰朝の期の早まつたことは良好の結果を来した云々とパリで所謂風の便りに聞いたやうです。多分芳賀先生が文部当局と相談なされての上で無かつたでせうか? 当時文部省には芳賀先生の親友上田萬年博士が専門局長であられたと記憶します、今日の学習院長福原さん、先頃まで大阪高等学校の野田義夫さんも同省に在官であられたでせう。ともかく此件に関しては漱石さんは感謝さるべきであると信じます。
『夏目と同じ英文学の研究者の所から、夏目が失脚すればその地位(!)が自然自分のところにまはつて来るといふので(!)たいした症状もないのにこんな奸策(!)をめぐらしたのだ(!)彼奴は(!)怪しからん奴だ(!)などゝ憤懣の口調を洩してゐたことがありました』『改造』正月号三十ぺージの一段は私にとり意外千万で、今日迄全く思ひもかけなかつた次第であります。
 所謂奸策とは『文部省とかへ打電云々』を指してるのはお言葉の前後から正当に推量されますが、驚き入つた次第です。一私人が文部省に打電云々は前述の如く私自身が発狂せぬ限はあり得ません。もし文部省へでは無い、一官人か一私人かに打電したとなら果して誰に対してですか。甚だケチなことを申すやうでお恥しい次第ですが、懐中乏しい当時の一私費生は(眼前フランス行を決定して居つて)当時ロンドンから日本へ『一文部省留学生が精神病にかゝつた』と発電する余裕は御座いませんでした。一日も早くと消息を聞きたがつてゐる父や母や妻にも『フランス着』の電報を発したのではありませんでした。
 九月十八日夏目さんの宿を辞した私は十月十一日全く英国を去り、ヴイクトリヤ停車場から、ニユーヘブン、デイプを経て武田五一さん(今日京都大学工学部教授)の親切にもルーアン迄の御出迎を受けて同日夕パリに着き、パンテオン附近、カーテルラタンのスーフロウ館、和田英作さん、中村不折さん、中川孝太郎さんの宿に落ちつきました。そして翌年(三十六年)三月頃から南欧の旅に立ち、イタリヤの南端シシリイ島を極として再び北に帰り、瑞西、独乙に各数月を過し、帰国準備のため、ロンドンに帰つたのは三十七年の秋、日露戦役の闌なりし頃、そして懐しい日東帝国に帰つたのは同年十一月です。
 夏目さんの失脚を覗つたなら英国で神妙に英語英文を研究して機会を待つたであらうとは常識にも考へられぬでせうか。
 帰国後、父の望なので東京には住せず、仙台に帰つてブラ/\して居ましたが卅八年四月二高の独語主任青木(昌吉)教授が『独乙語の教師に欠員があるから手伝はぬか』との好意と周旋とにより、甚だ覚束ない独乙語教師として二三年つとめ、続いて職員の都合がついて英語部へ移つて爾来二十余年、今日も猶ほ其運命を続けて居ります。非材の分止むを得ません。
 あなたが誤つて漱石さんのお言葉を伝へたとは到底思ひもよらぬ事ですが、其に因れば漱石さんは二重の誤解をなさいました。
(一)私が『夏目発狂』云々の打電をしたことのないのに打電したとの誤解。
(二)誰が発電したにせよ、せぬにせよ、発電があつたとすれば前後の事情より察しても分る通り其発電者は好意上よりなりしを悪意よりとの誤解。
 外ならぬあなたのお言葉ですから、到底之を否定する事は出来ませんが、実際夏目漱石先生がああいふ言葉を発せられ、ああいふ考を抱かれたとは、どうしても信じたくないのであります。
 帰朝以来千駄木町のお宅に参上したこともあります、蛟竜池底を出でて淵に躍る前後は度々賞讚と渇仰の言を呈したこともあります。漱石全集中の書翰部にある通り、漱石さんの自画像に懇篤の言を添へられたのを頂戴したこともあります。其の漱石さんが私を目して『我が失脚に乗ぜんとて奸策を弄したもの』と思はれ、又人に口外されたとは、どうしても論理に合はず、常識の所見にも合はぬ次第です。『怨を匿(かく)して友とするを左丘明は恥づ、丘も亦恥づ』と孔夫子が仰せられました。しかし何度申しても外ならぬあなたが『良人がかく曰つた』と公言される上は全く恐縮の外はありません。
 当時御発病の折、ロンドンに私が居りましたこと、私が当時十日余も同宿いたしました事、また英文科卒業生であること、以上が煩をしたので誠に遺憾に耐へません。
 弁明したくも漱石さんは、もはや此世におはさず、せめてあなたになりと此誤解を正したく此一文を草するのであります。
 作品に対する弁難攻撃には在来決して答へませんでした。帰朝匆々ある詩派『明星』といふ一雑誌が党同異閥の精神からか、露伴先生の『出廬』を攻撃した其翌月、私のやうなものにも喰つてかかり、謂れない悪罵を逞うした折も黙視して、たゞ在京の友へ『売りかねた喧嘩の花も江戸の春』と駄句つた位のものでした。
 しかし人格に対しての無実の誣言は断じて放置するわけには行きません、尊い古人の文句を引くのは憚る処ですが『正当の証拠によつてわが不法を証明せよ、上帝は爾と我との間を判ぜん』であります。
 此一文は遺言してまでも必ずわが拙い集の中へ是非とも編入させます。
 ルーソーの『告白』の序に『此一巻を携へて上帝の前に出でん……』云々とありますが私も此一文は死後九天の上九泉の下何処へなりと示すを憚りません。其ルーソーより聯想されますが、文芸上の天才には時として(敏感性の半面として)甚だしい猜疑の発作があります。万里の異郷の孤館の研学が度を過して多少精神に異状を来したといふことは、むしろ同情すべき事で決して不名誉とは思ひませんが、漱石さんが其事実をあとから否定されたとするのも、或は又帰朝の後にもかゝる発作の折にあゝいふ言を発せられたとするも、是は天才の痛はしい半面と見てたゞ嘆息すべきでありませう。
 今は世に無い御良人に対して辞句或は敬を失したかも知れませんが、漱石さんが深淵の学識と非凡の天才とを兼ねた文豪であり、明治大正に亘りて爛々の光彩を放つた偉大の作家であるといふ事実に対しては、深厚の敬意を払ひつゝある私であります。そして此一文を書いて寃を漉ぐ機会を偶然にも与へて下すつたあなたには一片感謝の念が無いではありません、決して皮肉にかく申すのではありません。





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底本:「日本の名随筆 別巻31 留学」作品社
   1993(平成5)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「雨の降る日は天気が悪い」大雄閣
   1934(昭和9)年9月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
2005年11月22日修正
青空文庫作成ファイル:

夏目漱石マードック先生の『日本歴史』――明治四四、三、一六―一七『東京朝日新聞』――

2008-07-18 14:56:20 | 随筆・評論
マードック先生の『日本歴史』
夏目漱石



       上

 先生は約(やく)の如く横浜総領事を通じてケリー・エンド・ウォルシから自著の『日本歴史』を余に送るべく取り計(はから)われたと見えて、約七百頁の重い書物がその後日(ひ)ならずして余の手に落ちた。ただしそれは第一巻であった。そうして巻末に明治四十三年五月発行と書いてあるので、余は始めてこの書に対する出版順序に関しての余の誤解を覚(さと)った。
 先生はわが邦(くに)歴史のうちで、葡萄牙(ポルトガル)人が十六世紀に始めて日本を発見して以来織田、豊臣、徳川三氏を経て島原の内乱に至るまでの間、いわゆる西欧交通の初期とも称して然(しか)るべき時期を択(えら)んで、その部分だけを先年出版されたのである。だから順序からいうと、第二巻が最初に公(おおや)けにされた訳になる。そうして去年五月発行とある新刊の方は、かえって第一巻に相当する上代(じょうだい)以後の歴史であった。最後の巻、即ち十七世紀の中頃から維新の変に至るまでの沿革(えんかく)は、今なお述作中にかかる未成品(みせいひん)に過ぎなかった。その上去年の第一巻とこれから出る第三巻目は、先生一個の企てでなく、日本の亜細亜(アジア)協会が引き受けて刊行するのだという事が分った。従って先生の読んでくれといった新刊の緒論は、第三巻にあるのではなくて、やはり第一巻の第一篇の事だと知れた。それで先ず寄贈された大冊子(だいさっし)の冒頭にある緒言(しょげん)だけを取り敢(あえ)ず通覧した。
 維新の革命と同時に生れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。余自身の歴史が天然自然(てんねんしぜん)に何の苦もなく今日まで発展して来たと同様に、明治の歴史もまた尋常(じんじょう)正当に四十何年を重(かさ)ねて今日まで進んで来たとしか思われない。自分が世間から受ける待遇や、一般から蒙(こうむ)る評価には、案外な点もあるいはあるといわれるかも知れないが、自分が如何にしてこんな人間に出来上ったかという径路(けいろ)や因果や変化については、善悪にかかわらず不思議を挟(さしはさ)む余地がちっともない。ただかくの如く生れ、かくの如く成長し、かくの如き社会の感化を受けて、かくの如き人間に片付いたまでと自覚するだけで、その自覚以上に何らの驚ろくべき点がないから、従って何らの好奇心も起らない、従って何らの研究心も生じない。かかる理の当然一片の判断が自己を支配する如くに、同じく当り前さという観念が、やはり自己の生息する明治の歴史にも付け纏(まと)っている。海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未(いま)だかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試(ため)しがない。必竟(ひっきょう)われらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、凡(すべ)てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑(うたがい)の起る余地が天(てん)で起らないのである。丁度葉裏(はうら)に隠れる虫が、鳥の眼を晦(くら)ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着(とんじゃく)すべき所以(いわれ)がない。こう変色するのが当り前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。
 マードック先生のわれら日本人に対する態度はあたかも動物学者が突然青く変化した虫に対すると同様の驚嘆(きょうたん)である。維新前は殆んど欧洲の十四世紀頃のカルチュアーにしか達しなかった国民が、急に過去五十年間において、二十世紀の西洋と比較すべき程度に発展したのを不思議がるのである。僅か五隻のペリー艦隊の前に為(な)す術(すべ)を知らなかったわれらが、日本海の海戦でトラファルガー以来の勝利を得たのに心を躍らすのである。

       下

 先生はこの驚嘆の念より出立(しゅったつ)して、好奇心に移り、それからまた研究心に落ち付いて、この大部(たいぶ)の著作を公けにするに至ったらしい。だから日本歴史全部のうちで尤(もっと)も先生の心を刺戟したものは、日本人がどうして西洋と接触し始めて、またその影響がどう働らいて、黒船着後に至って全局面の劇変を引き起したかという点にあったものと見える。それを一通り調べてもまだ足らぬ所があるので、やはり上代(じょうだい)から漕(こ)ぎ出して、順次に根気よく人文発展の流(ながれ)を下って来ないと、この突如たる勃興(ぼっこう)の真髄が納得(なっとく)出来ないという意味から、次に上代以後足利(あしかが)氏に至るまでを第一巻として発表されたものと思われる。そうは断ってないけれども、緒論を読むとその辺の消息が多少窺(うかが)われるような気もする。
 従って緒論に現われた先生は、出来得る限りの範囲において、われらが最近五十年間の豹変(ひょうへん)に対する説明を、箇条(かじょう)がきの如くに与えておられる。その内にはちょっとわれらの思い設けぬ解釈さえある。西洋人が予期せざる日本の文明に驚ろくのは、彼らが開化という観念を誤まり伝えて、耶蘇(ヤソ)教的カルチュアーと同意義のものでなければ、開化なる語を冠(かん)すべきものでないと自信していたからであるというが如きはその一例である。西洋の開化と耶蘇教的カルチュアーと密切(みっせつ)の関係のある事は誰でも知っているが、耶蘇教的カルチュアーでなければ開化といえないとは、普通の日本人にどうしても考え得られない点である。けれどもそれが西洋人一般の判断だと、先生から注意されて見ると、なるほどと首肯(しゅこう)せざるを得ない。こういう意味において、先生の著述は日本を外国に紹介する上に非常な利益があるばかりでなく、研究心に富んだ外国人が、われら自身を如何に観察しているかを知る便宜もまた甚(はなは)だ少なくないのである。
 西洋の雑誌を見ると、日本に関した著述の広告は、一週に一、二冊はきっと出ている。近頃ではこれらの書籍を蒐集(しゅうしゅう)しただけでも優(ゆう)に相応の図書館は一杯になるだろうと思われる位である。けれども真の観察と、真の努力と、真の同情と、真の研究から成(な)ったものは極めて乏しいと断言しても差支はあるまい。余(よ)はこの乏しいものの一として、先生の歴史をわれら日本人に紹介する機会を得たのを愉快に思う。
 歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今のわれらは刻々に押し流されて、瞬時も一所に徊(ていかい)して、われらが歩んで来た道を顧みる暇(いとま)を有(も)たない。われらの過去は存在せざる過去の如くに、未来のために蹂躙(じゅうりん)せられつつある。われらは歴史を有せざる成(な)り上(あが)りものの如くに、ただ前へ前へと押されて行く。財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸(か)け隔(へだ)たった国民が、鼻と鼻とを突き合せた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう。過去などはどうでもよい、ただこの高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼らを真向(まとも)に圧迫するからである。
 われらはただ二つの眼(め)を有(も)っている。そうしてその二つの眼は二つながら、昼夜(ちゅうや)ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮(あせり)に焦慮(あせっ)て、汗を流したり呼息(いき)を切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇(はげ)しき病毒を社会に植付けつつある。夜番(よばん)のために正宗(まさむね)の名刀と南蛮鉄(なんばんてつ)の具足(ぐそく)とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵(たくあん)の尻尾(しっぽ)を噛(かじ)って日夜齷齪(あくせく)するにもかかわらず、夜番の方では頻(しき)りに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾身(こんしん)の気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃(たお)れるまで前進するのである。しかもわれらが斃れる時、われらの烟突(えんとつ)が西洋の烟突の如く盛んな烟(けむ)りを吐(は)き、われらの汽車が西洋の汽車の如く広い鉄軌(てっき)を走り、われらの資本が公債となって西洋に流用せられ、われらの研究と発明と精神事業が畏敬(いけい)を以て西洋に迎えらるるや否やは、どう己惚(うぬぼ)れても大いなる疑問である。マードック先生がわれらの現在に驚嘆してわれらの過去を研究されると同時に、われらはわれらの現在から刻々に追い捲(まく)られて、われらの未来をかくの如く悲観している。余はわれらの過去に対する先生の著書を紹介するのついでを以て、われらの運命に関しての未来観をも一言(いちごん)先生に告げて置きたいと思う。

――明治四四、三、一六―一七『東京朝日新聞』――





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底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   1998(平成10)年7月24日第26刷発行
入力:柴田卓治
校正:しず
1999年8月5日公開
2003年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:

【ブックフェア  五木寛之 :①~⑩】7月12日[土]13:00~14:30

2008-07-08 10:31:00 | 随筆・評論
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈東大・早大・慶大・学生街・大学食堂・図書館・〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫


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読者の皆様へ - 第15回 東京国際ブックフェア東京国際ブックフェアは日本最大の本の展示会です。本の仕入れ・注文・購入、著作権取引に絶好の場です。 ... 五木 寛之 氏. 7月12日[土]13:00~14:30 会場:東京ビッグサイト会議棟 「人間の関係」 作家 五木 寛之 氏 ...
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日本最大の「本」の展示会である「第15回 東京国際ブックフェア」が今年も盛大に開催される。今年は、. 過去最多となる770社が世界30カ国 ... 7月12日(土)に作家の五木寛之氏、7月13日(日)に“百ます計算”で有名な陰山英男氏. が講演する。 ...
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東京国際ブックフェア東京国際ブックフェアでは、本の大切さや楽しさを知っていただくことを目的に読書推進セミナーを開催いたします。 ... 作家五木 寛之 氏. 人間は「関係」がすべてである。そして家族も夫婦もまず「他人」になることから出発するしかない。 ...
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地引網出版のブログ | 東京国際ブックフェアー先週は、年に一度の出版界の見本市「東京国際ブックフェアー」に行って来ました。国内外700社あまりが出展し、全国から出版人、書店 ... 一つは、五木寛之、村上龍、吉本ばなな氏などの本の編集を手がけてきた幻冬社専務の石原正康氏による「編集者という ...
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