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若山牧水  『岬の端』5350字

2008-07-11 11:04:44 | ★[近代の文学]
岬の端
若山牧水



 細かな地図を見ればよく解るであらう。房州半島と三浦半島とが鋭く突き出して奥深い東京湾の入り口を極めて狭く括(くく)つてゐる。その三浦半島の岬端から三四里手前に湾入した海浜に私はいま移り住んでゐるのである。で、その半島の尖端の松輪崎といふのは私たちの浜からやゝ右寄りの正面に細く鋭く浮んで見ゆる。方角はちやうど真南に当る。また、前面一帯は房州半島で、五六里沖に鋸山や二子山が低く聳え、左手浦賀寄りの方には千駄崎といふ小さな崎が突き出てゐる。だから眼前の海の光景は一寸見には四方とも低い陸地に囲まれた大きな湖のやうで、風でも立たねば全く静かな入江である。それで、奥には横浜あり、東京あり、横須賀があつて、其処へ往来の汽船軍艦が始終出入りしてゐるので、常に沖辺に煙の影を断たず、何となく糜爛(びらん)した、古い入江の感をも与へる。
 私の居るのは千駄崎寄りの長さ二三里に亘つた白浜で、松の疎らに靡(なび)いた漁村である。浜に出ると正面に鋸山が見える。続いて目につくのは右手に突き出た松輪崎である。細かくおぼろに霞の底に沈んでゐた時も、うす/\と青みそめた初夏の頃も、常になつかしく心を惹(ひ)いてゐた。一度その崎の端まで行つて見度いとは、早春こちらに移つて来て以来の永い希望であつた。盛夏のころ一月あまりを私は下野信濃の山辺に暮してゐたのであつたが、帰つて来て眺めやつた海面は、いつの間にかすつかり秋になつてゐた。日毎に微かな西風(にし)が吹いて、沖一帯にしら/″\と小さな波が立つてゐる。とりわけて目を引いたのは松輪崎の尖端(とつぱな)に立つてゐる白浪で、西から来る外洋のうねりを受け、際立つて高い浪が真白に打ちあげて、やがては風に散つて其処等を薄々と煙らせてゐる。
 其処からずつと脊を引いた岬一帯の輪郭は秋めいた光のかげにくつきりと浮き出て見えて居る。

 或日、とりわけて空の深い朝であつた。食後を縁側の柱に凭(よ)つてゐたが、突然座敷の妻を見返つた。
『オイ、俺は今から松輪まで行つて来るよ、いゝだらう。』
『今から?』
 とは驚いたが、兼ねて行き度がつてゐるのを知つてゐるので、留めもしなかつた。
『そして、いつお帰り? 今夜?』
『さア、よく解らんが、彼処に宿屋があるといふから気に入つたら一晩か二晩泊つて来やう、イヤだつたら直ぐ帰る。』
 幾らか小遣銭を分けて貰つて私はいそ/\と家を出た。風が砂糖黍の青い葉さきに流れて、今日も暑くなりさうな日光がきら/\と砂路に輝いてゐる。
 道路を外(そ)れて直ぐ浜に出た。下駄を脱いで手頃の縄に通して提げながら高々と裾を端折つた。波打際の濡砂の上を歩いてゆくと、爪先が快く砂に入つて、をり/\は冷たい波がさアつと足の甲を洗ふ。
 今日も風が出てゐた。渚から沖にかけて海はしら/″\とざわめいてゐる。不図目をあげると思ひも寄らぬ方にほんのりと有明月が残つてゐた。沖の波に似た白雲の片々(かけら)が風に流れて、紺深く澄み入つた空の片辺に、まつたく忘れられたものゝやうに懸つてゐる。ア、と思ふ自分の心の底には早や久しく忘れてゐる故郷の山川が寂しい影を投げてゐた。故郷と有明月、何の縁も無さゝうだが、有明月を見るごとにどうしたものか私は直ぐ自分の故郷を思ひ起すのが癖である。渓間の林の間を歩いてゐた自分の幼い姿をすぐ思ひ浮べる。
 その朝は何故(なぜ)か渚に漁師の姿が少ないやうであつた。下駄を砂上に引きずりながら、私はこの有明の月をどうがなして一首の歌に詠まうものと夢中になつて苦心した。一里あまり、二里ほども歩いてゆくうちにとう/\その一首も出来ず、雪の様な浜は尽きて真黒な岩の磯が表れた。浪の音が急に高く、岩上に吹く松風の声もあり/\と耳に立つ。兎も角もと私は其処に腰を下した。足の裏がちくちくと痛んでゐる。雲の片(かけら)は次第に消えて白い月影のみいよ/\寂しい。
 大概の見当をつけて崖を這ひ上つてみると果して小さな路があつた。今度は下駄を履いて松や雑木の木の間を辿る。ずつと見はるかす左手の海の面がいかにも目新しく眺められて、ツイ磯の深い浪の間には無数の魚が群れて居さうに思はれる。小さな丘を越すと一つの漁村があつた。金田といふ。も一つ越すとまた一つあつた。狭い渓谷みたいな所に二三十戸小さな家が集つてゐる。中に一軒お寺があつて切りに鉦(かね)が鳴つてゐた。風のせゐか、此処の漁師も沖を休んで居るらしく、其処此処に集つて遊んでゐた。小さな茶店に休んでゐると其処にも四五人がゐて、何か戦争の話が逸(はず)んでゐた。村出身の予備後備の軍人の年金の話で、いま一戦争あつて引出されると俺もこれでまた一稼ぎ出来るがなア、何しろ斯う不漁(しけ)ぢア仕様がねえと図太い声を出したのを見るともう五十歳に近い大男であつた。年金を当に戦争に出度がる、耳新しいことを聞くものだと思つた。
 それから暫く嶮しい坂になつて、登り果てた所は山ならば嶺(いただき)、つまりこの三浦半島の脊であつた。可なり広い平地で、薩摩芋と粟とが一杯に作つてある。思はず脊延びして見渡すと遠く相模湾の方には夏の名残の雲の峯が渦巻いて、富士も天城(あまぎ)も燻(いぶ)つた光線に包まれて見えわかぬ。眼下の松輪崎の前面をば戦闘艦だか巡洋艦だか大きなのが揃つて四隻、どす黒い煙を吐いて湾内を指(さ)してゐる。此頃館山港に三十隻からの軍艦が集つて、それから垂れ流す糞便で所の者は大困りだといふ二三日前の誰かの話を不図思ひ出した。その演習も終つていま横須賀に帰つて行く所であらう。斯うして揃つた姿を見てゐると、何とはなしに血の躍る心地がする。松輪への路を訊くと、芋畑の中にゐる爺さんが伸び上つて、その電信柱について行きさへすれば間違ひはないと教へてくれる。なるほどこの丘の脊を通して電信柱が列なつてゐる。そしてその先が小さくなつてゐる。

 やがて柱の行列の尽きる所に来た。なるほど、この電線はこの岬端にある剣崎灯台(土地では松輪の灯台と呼んでゐる)に懸つてゐるものであつたのだ。灯台は今はたゞ白々と厳(いかめ)しい沈黙を守つて日に輝いてゐるのみである。そして附近に人家らしいものも見えぬ。あちこちと見廻してゐると、すぐ眼下の崖下にそれらしい一端が見えて居る。私は勇んで坂を降りて行つた。咽喉も渇き、腹も空いてゐた。
 降りて行つて驚いた事には其処は戸数五十近くの旧い宿場じみた漁村であつた。前に小さな浅さうな入江があつて、山蔭の事でぴつたりと静まつてゐる。一わたり歩いてみた所では宿屋らしい家も見えず、腰かけて休むべき店すら見つからぬ。此処が松輪かと訊くと、左様だといふ。兼ねて想像してゐた松輪には小綺麗な宿屋か小料理屋の二三軒もあつて、何となく明るい賑かな浦町であつた。これは/\と呆れたり弱つたりしたが、何しろ飯を食ふ所がない。宿屋が一軒あつたが客が無いので今は廃めたのだ相だ。それならもう少し歩いて三崎までおいでなさい、これから一里半位ゐのものだと、その漁村の外れの藁葺の家に帰り遅れた避暑客とでも云ふべき若い男が教へて呉れる。窺くともなく窺くと年ごろの痩形の廂髪が双肌ぬぎの化粧の手を止めて此方を見てゐる。その前の鏡台からして土地のものでない。仕方なく礼を言ひながら其処を去つて少し歩くと小さな掛茶屋があつて、やゝ時季遅れの西瓜が真紅に割かれて居る。其処に寄つてこぼすともなく愚痴を零(こぼ)すと、イヤ宿屋はあるにはあるといふ。エ、では何処にあると息込んで問ひ返すと、灯台の向ふ側にいま一ヶ所此処みたいな宿屋があつて其処にさくら屋といふのがあるといふ。いゝ宿屋か、海のそばかと畳みかければ、二階建で、海の側で、夜は灯台の光を真上に浴びるといふ。それではと矢庭に私は立ち上つた。そして教へられた近路を取つて急いだ。これで今夜は楽しく過される。兼ねて楽しんでゐた独りきりの旅寝の夢が結ばれるともう其事ばかり考へて急いだ。前の丘を越え戻つて、灯台の下の磯を目がけて行くと木がくれに二三の屋根が表はれ、やがて十軒あまりのに出て来た。先づ目についたはさくら屋といふ看板で、黒塗りのブリキ屋根の小さな軒に懸つてゐる。海のそばといふ私の言葉には直ぐ浪うち際の岩の上にでもそそり立つてゐる所を想像してゐたのであつたが、これは狭い砂浜の隅に建てられたマツチ箱式の二階屋である。再び驚いたが、もう落胆(がつかり)する勇気も無い。私はつか/\とその店頭へ歩み寄つた。
 むく/\肥つた四十恰好(かつかう)の内儀(おかみ)が何だか言つてゐるのを聞き流して私は取りあへずそこの店さきにある井戸傍に立つた。頭から背から足さきまで洗ひ流して、直ぐ二階に上らうとした。また内儀が何か言ふ。あまりに頬の肉が豊富で口はその奥に引込んで而かも歯が欠けてゐるため、何をいふのか甚だ解し難い。下座敷がよくはないかといふ様なことではあつたが、私はずん/\階子段を上つてしまつた。そして海に向いた方の部屋の障子を引きあけてみて驚いた。其処はふさがつてゐた。しかも三十前の男女が恐しい風をしてまだ蚊帳の中に寝てゐる。惶(あわ)てゝ其処を閉めたが、サテ他にはその反対側に今一つきり部屋がない。てれ隠しに恐々(こは/″\)それをも窺いてみると三畳位ゐで、而かも日が真正面(まとも)に当つてゐる。
 すご/\下に降りると内儀は笑ひながら奥の間(と云つてもこれより外に座敷らしい処はない)の縁側に近い所へ座布団を直した。兎もあれ麦酒を一二本冷やして呉れといふと、そんなものは無いといふ。いよ/\なさけ無くなつたが、それでも酒はと押し返すと、どの位ゐ飲むかと訊く。何しろ大変なものであらうが、兎に角少しでもやつて見ようと決心して、二合ばかりつけて呉れ、それに缶詰でも何でもいゝから直ぐ飯を食はしてくれと頼むと、缶詰もないと呟く。そして小さな燗徳利を持つて戸外(そと)へ出てゆく。オヤ/\二合だけ買ひに行くのと見える。
 裸体になつて柱に凭(よ)つてゐると、流石に冷たい風が吹く。日のかん/\照つてゐる庭さきには子供が三人長い竿で蜻蛉を釣つてゐる。赤い小さいのが幾つも幾つもあちこちと空を飛んでゐるのだ。二階で起き上つた気勢(けはひ)がして何やら言ひ争つて居る。その声の調子から二人とも芸人だなと直ぐ気づかれた。降りて来た男を見ると髪が長い、浪花節だなとまた思ふ。女の方はずつと若く、綺麗な荒(すさ)んだ顔をしてゐた。
 むく/\動いて内儀さんが帰つて来た。そしてまた蜻蛉釣の子供を呼んで何やらむぐ/\言ひつけてゐる。やがて物を焼く匂ひがする。はゝア壷焼きだなと感づいた頃はもう好し悪しなしに燗のつくのが待ち遠かつた。
 案じてゐた程でもないと思ふと、直ぐまたあとを酒屋に取りにやつた。少しづつ酔の廻るにつけて、何となく四辺(あたり)が興味深く思ひなされて来た。矢張り初めの思ひ立ち通り此処に一晩泊つて帰らうか。それともこのまゝ一睡りして夕方かけて先刻(さつき)の路を歩かうか、浪花節語りと合宿も面白いかも知れぬ、肥つちよの内儀さんも面白さうだ、などと考えてゐると次第に静かな気持になつて来た。柱に凭(もた)れたまゝ斜めに仰ぐ空には高々と小さな雲が浮んで、庭さきの何やらの常磐樹の光も冷たく、自身をのみ取り巻いてゐるやうな単調な浪の音にも急に心づき、秋だ/\と思ふ心は酒と共に次第に深く全身を巡り始めた。またしても有明月の一首をどうかしてものにしたいと空しく心を費す。
 二度目の酒も終つた。飯も済んだ。泊らうか帰らうかの考へはまだ纏らぬ。其うち二階ではまた何か言ひ合ひ始めた。壊れた喇叭の様な男の声に混つてゐる女の声はまるでブリキを磨り合せてゐるやうだ。それにしてもなか/\いゝ女だ、久しぶりにあゝした女を見た、などとまたあらぬ事を考へ始める。
 うと/\してゐると、突然ぼう――つといふ汽船の笛が直ぐ耳もとに落ちて来た。
 三崎行だな、と思つた時には既に半分私は立ち上つてゐた。
『おばさん、勘定々々、大急ぎだ。』
『…………?』
『三崎だ/\、大急ぎ!』
 駆けつけた時は丁度砂から艀を降す所であつた。身軽に飛び乗るとする/\と波の上に浮び出た。小さな、黒い汽船はやゝ離れた沖合に停つてまだ汽笛を鳴らしてゐる。房州の端(はな)が眼近に見え、右手は寧ろ黒々とした遠く展けた外洋である。せつせと押し進む艀の両側には、鰹(かつを)からでも追はれて来てゐたか、波の表が薄黒く見ゆる位ゐまでに集つた(しこ)の群がばら/\/\と跳ね上がつた。





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底本:「日本の名随筆92 岬」作品社
   1990(平成2)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第五巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年5月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2002年11月12日作成
2004年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:

若山牧水  『なまけ者と雨』  2300字

2008-07-11 10:59:28 | ★[近代の文学]
なまけ者と雨
若山牧水



 降るか照るか、私は曇日を最も嫌ふ。どんよりと曇つて居られると、頭は重く、手足はだるく眼すらはつきりとあけてゐられない様な欝陶しさを感じがちだ。無論為事は手につかず、さればと云つてなまけてゐるにも息苦しい。
 それが静かに四辺(あたり)を濡らして降り出して来た雨を見ると、漸く手足もそれ/″\の場所に帰つた様に身がしまつて来る。
 机に向ふもいゝし、寝ころんで新聞を繰りひろげるもよい。何にせよ、安心して事に当られる。

 雨を好むこゝろは確に無為(むゐ)を愛するこゝろである。為事の上に心の上に、何か企てのある時は多く雨を忌んで晴を喜ぶ。
 すべての企てに疲れたやうな心にはまつたく雨がなつかしい。一つ/\降つて来るのを仰いでゐると、いつか心はおだやかに凪いでゆく。怠けてゐるにも安心して怠けてゐられるのをおもふ。
 雨はよく季節を教へる。だから季節のかはり目ごろの雨が心にとまる。梅のころ、若葉のころ、または冬のはじめの時雨など。
 梅の花のつぼみの綻(ほころ)びそむるころ、消え残りの雪のうへに降る強降のあたゝかい雨がある。桜の花の散りすぎたころの草木の上に、庭石のうへに、またはわが家の屋根、うち渡す屋並の屋根に、列を乱さず降り入つてゐる雨の明るさはまことに好ましいものである。しやあ/\と降るもよく、ひつそりと草木の葉末に露を宿して降るもよい。


わが庭の竹のはやしの浅けれど降る雨見れば春は来にけり
しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや
窓さきの暗くなりたるきさらぎの強降雨を見てなまけをり
門出づと傘ひらきつつ大雨の音しげきなかに梅の花見つ
ぬかるみの道に立ち出で大雨に傘かたむけて梅の花見つ
わがこころ澄みてすがすがし三月のこの大雨のなかを歩みつつ
しみじみと聞けば聞ゆるこほろぎは時雨るる庭に鳴きてをるなり
こほろぎの今朝鳴く聞けば時雨降る庭の落葉の色ぞおもはる
家の窓ただひとところあけおきてけふの時雨にもの読み始む
障子さし電灯ともしこの朝を部屋にこもればよき時雨かな


 など、春の初めの雨と時雨とを歌つたものは私に多くあるが、大好きの若葉の雨をばどうしたものかあまり詠んでゐない。僅かに、


うす日さす梅雨の晴間に鳴く虫の澄みぬる声は庭に起れり
雨雲のひくくわたりて庭さきの草むら青み夏むしの鳴く


 などを覚えてゐるのみである。
 夕立をば二三首歌つてゐる。


飯(いひ)かしぐゆふべの煙庭に這ひてあきらけき夏の雨は降るなり
はちはちと降りはじけつつ荒庭の穂草がうへに雨は降るなり
俄雨降りしくところ庭草の高きみじかき伏しみだれたり
渋柿のくろみしげれるひともとに滝なして降る夕立の雨


 一日のうちでは朝がいゝ。朝の雨が一番心に浸む。真直ぐに降つてゐる一すぢごとの明るさのくつきりと眼にうつるは朝の雨である。
 眺むるもよいが、聴き入る雨の音もわるくない。ことに夜なかにフツと眼のさめた時、端なくこのひゞきを聴くのはありがたい。


わが屋根に俄かに降れる夜の雨の音のたぬしも寝ざめて聴けば
あららかにわがたましひを打つごときこの夜の雨を聴けばなほ降る


 雨はよく疲れた者を慰むる。


あかつきの明けやらぬ闇に降りいでし雨を見てをり夜為事を終へ


 遠山の雲、襞(ひだ)から襞にかけておりてゐる白雲を、降りこめられた旅籠屋(はたごや)の窓から眺める気持も雨のひとつの風情(ふぜい)である。
 山が若杉の山などであつたらば更にも雨は生きて来る

 紀伊熊野浦にて。

船にして今は夜明けつ小雨降りけぶらふ崎の御熊野(みくまの)の見ゆ

 下総犬吠岬にて。

とほく来てこよひ宿れる海岸のぬくとき夜半を雨降りそそぐ

 信濃駒ヶ嶽の麓にて。

なだれたち雪とけそめし荒山に雲のいそぎて雨降りそそぐ

 上野榛名(かうづけはるな)山上榛名湖にて。

山のうへの榛名の湖(うみ)の水ぎはに女ものあらふ雨に濡れつつ

 常陸霞が浦にて。

苫蔭にひそみつつ見る雨の日の浪逆(なさか)の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ


 平常為事をしなれてゐる室内の大きなデスクが時々いやになつて、別に小さな卓を作り、それを廊下に持ち出して物を書く癖を私は持つて居る。火鉢の要らなくなつた昨日今日の季候のころ、わけてもこれが好ましい。
 廊下に窓があり、窓には近く迫つて四五本の木立が茂つてゐる。なかの楓の花はいつの間にか実になつた。もう二三日もすればこの鳥の翼に似た小さな実にうすい紅ゐがさして来るのであらうが、今日あたりまだ真白のまゝでゐる。その実に葉に枝や幹に、雨がしとしと降つてゐる。昨日から降つてゐるのだが、なか/\止みさうにない。
 楓の根がたの青苔のうへをば小さい弁慶蟹の子が二疋で、さつきから久しいこと遊んでゐる。


ゆきあひてけはひをかしく立ち向ひやがて別れてゆく子蟹かな






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底本:「日本の名随筆43 雨」作品社
   1986(昭和61)年5月25日第1刷発行
   1991(平成3)年10月20日第10刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:加藤恭子
校正:浦田伴俊
2000年8月18日公開
2005年6月26日修正
青空文庫作成ファイル:

芥川龍之介  奉教人の死

2008-07-11 10:51:26 | ★[近代の文学]
奉教人の死
芥川龍之介



たとひ三百歳の齢(よはひ)を保ち、楽しみ身に余ると云ふとも、未来永々の果しなき楽しみに比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如し。

―慶長訳 Guia do Pecador―


善の道に立ち入りたらん人は、御教(みをしへ)にこもる不可思議の甘味を覚ゆべし。

―慶長訳 Imitatione Christi―

       一

 去(さ)んぬる頃、日本長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござつた。これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしや」の戸口に、餓ゑ疲れてうち伏して居つたを、参詣の奉教人衆(ほうけうにんしゆう)が介抱し、それより伴天連(ばてれん)の憐みにて、寺中に養はれる事となつたげでござるが、何故かその身の素性(すじやう)を問へば、故郷(ふるさと)は「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)などと、何時も事もなげな笑に紛らいて、とんとまことは明した事もござない。なれど親の代から「ぜんちよ」(異教徒)の輩(ともがら)であらなんだ事だけは、手くびにかけた青玉(あをだま)の「こんたつ」(念珠)を見ても、知れたと申す。されば伴天連はじめ、多くの「いるまん」衆(法兄弟)も、よも怪しいものではござるまいとおぼされて、ねんごろに扶持して置かれたが、その信心の堅固なは、幼いにも似ず「すぺりおれす」(長老衆)が舌を捲くばかりであつたれば、一同も「ろおれんぞ」は天童の生れがはりであらうずなど申し、いづくの生れ、たれの子とも知れぬものを、無下(むげ)にめでいつくしんで居つたげでござる。
 して又この「ろおれんぞ」は、顔かたちが玉のやうに清らかであつたに、声ざまも女のやうに優しかつたれば、一(ひと)しほ人々のあはれみを惹(ひ)いたのでござらう。中でもこの国の「いるまん」に「しめおん」と申したは、「ろおれんぞ」を弟(おとと)のやうにもてなし、「えけれしや」の出入りにも、必(かならず)仲よう手を組み合せて居つた。この「しめおん」は、元さる大名に仕へた、槍一すぢの家がらなものぢや。されば身のたけも抜群なに、性得(しやうとく)の剛力であつたに由つて、伴天連が「ぜんちよ」ばらの石瓦にうたるるを、防いで進ぜた事も、一度二度の沙汰ではごさない。それが「ろおれんぞ」と睦(むつま)じうするさまは、とんと鳩になづむ荒鷲のやうであつたとも申さうか。或は「ればのん」山の檜(ひのき)に、葡萄(えび)かづらが纏(まと)ひついて、花咲いたやうであつたとも申さうず。
 さる程に三年あまりの年月は、流るるやうにすぎたに由つて、「ろおれんぞ」はやがて元服もすべき時節となつた。したがその頃怪しげな噂が伝はつたと申すは、「さんた・るちや」から遠からぬ町方の傘張の娘が、「ろおれんぞ」と親しうすると云ふ事ぢや。この傘張の翁(おきな)も天主の御教を奉ずる人故、娘ともども「えけれしや」へは参る慣(ならはし)であつたに、御祈の暇にも、娘は香炉をさげた「ろおれんぞ」の姿から、眼を離したと申す事がござない。まして「えけれしや」への出入りには、必(かならず)髪かたちを美しうして、「ろおれんぞ」のゐる方へ眼づかひをするが定(ぢやう)であつた。さればおのづと奉教人衆の人目にも止り、娘が行きずりに「ろおれんぞ」の足を踏んだと云ひ出すものもあれば、二人が艶書をとりかはすをしかと見とどけたと申すものも、出て来たげでござる。
 由つて伴天連にも、すて置かれず思(おぼ)されたのでござらう。或日「ろおれんぞ」を召されて、白ひげを噛みながら、「その方、傘張の娘と兎角の噂ある由を聞いたが、よもやまことではあるまい。どうぢや」ともの優しう尋ねられた。したが「ろおれんぞ」は、唯(ただ)憂はしげに頭を振つて、「そのやうな事は一向に存じよう筈もござらぬ」と、涙声に繰返すばかり故、伴天達もさすがに我(が)を折られて、年配と云ひ、日頃の信心と云ひ、かうまで申すものに偽はあるまいと思されたげでござる。
 さて一応伴天連の疑(うたがひ)は晴れてぢやが、「さんた・るちや」へ参る人々の間では、容易にとかうの沙汰が絶えさうもござない。されば兄弟同様にして居つた「しめおん」の気がかりは、又人一倍ぢや。始はかやうな淫(みだら)な事を、ものものしう詮議立てするが、おのれにも恥しうて、うちつけに尋ねようは元より、「ろおれんぞ」の顔さへまさかとは見られぬ程であつたが、或時「さんた・るちや」の後の庭で、「ろおれんぞ」へ宛てた娘の艶書を拾うたに由つて、人気(ひとけ)ない部屋にゐたを幸(さいはひ)、「ろおれんぞ」の前にその文をつきつけて、嚇(おど)しつ賺(すか)しつ、さまざまに問ひただいた。なれど「ろおれんぞ」は唯、美しい顔を赤らめて、「娘は私に心を寄せましたげでござれど、私は文を貰うたばかり、とんと口を利(き)いた事もござらぬ」と申す。なれど世間のそしりもある事でござれば、「しめおん」は猶(なほ)も押して問ひ詰(なじ)つたに、「ろおれんぞ」はわびしげな眼で、ぢつと相手を見つめたと思へば、「私はお主(ぬし)にさへ、嘘をつきさうな人間に見えるさうな」と、咎(とが)めるやうに云ひ放つて、とんと燕(つばくろ)か何ぞのやうに、その儘つと部屋を立つて行つてしまうた。かう云はれて見れば、「しめおん」も己の疑深かつたのが恥しうもなつたに由つて、悄々(すごすご)その場を去らうとしたに、いきなり駈けこんで来たは、少年の「ろおれんぞ」ぢや。それが飛びつくやうに「しめおん」の頸(うなじ)を抱くと、喘(あへ)ぐやうに「私が悪かつた。許して下されい」と囁(ささや)いて、こなたが一言(ひとこと)も答へぬ間に、涙に濡れた顔を隠さう為か、相手をつきのけるやうに身を開いて、一散に又元来た方へ、走つて往(い)んでしまうたと申す。さればその「私が悪かつた」と囁いたのも、娘と密通したのが悪かつたと云ふのやら、或は「しめおん」につれなうしたのが悪かつたと云ふのやら、一円合点(いちゑんがてん)の致さうやうがなかつたとの事でござる。
 するとその後間もなう起つたのは、その傘張の娘が孕(みごも)つたと云ふ騒ぎぢや。しかも腹の子の父親は、「さんた・るちや」の「ろおれんぞ」ぢやと、正(まさ)しう父の前で申したげでござる。されば傘張の翁は火のやうに憤(いきどほ)つて、即刻伴天連のもとへ委細を訴へに参つた。かうなる上は「ろおれんぞ」も、かつふつ云ひ訳の致しやうがござない。その日の中に伴天連を始め、「いるまん」衆一同の談合に由つて、破門を申し渡される事になつた。元より破門の沙汰がある上は、伴天連の手もとをも追ひ払はれる事でござれば、糊口のよすがに困るのも目前ぢや。したがかやうな罪人を、この儘「さんた・るちや」に止めて置いては、御主(おんあるじ)の「ぐろおりや」(栄光)にも関(かかは)る事ゆゑ、日頃親しう致いた人々も、涙をのんで「ろおれんぞ」を追ひ払つたと申す事でござる。
 その中でも哀れをとどめたは、兄弟のやうにして居つた「しめおん」の身の上ぢや。これは「ろおれんぞ」が追ひ出されると云ふ悲しさよりも、「ろおれんぞ」に欺かれたと云ふ腹立たしさが一倍故、あのいたいけな少年が、折からの凩(こがらし)が吹く中へ、しをしをと戸口を出かかつたに、傍から拳(こぶし)をふるうて、したたかその美しい顔を打つた。「ろおれんぞ」は剛力に打たれたに由つて、思はずそこへ倒れたが、やがて起きあがると、涙ぐんだ眼で、空を仰ぎながら、「御主も許させ給へ。『しめおん』は、己(おの)が仕業もわきまへぬものでござる」と、わななく声で祈つたと申す事ぢや。「しめおん」もこれには気が挫けたのでござらう。暫くは唯戸口に立つて、拳を空(くう)にふるうて居つたが、その外の「いるまん」衆も、いろいろととりないたれば、それを機会(しほ)に手を束(つか)ねて、嵐も吹き出でようず空の如く、凄(すさま)じく顔を曇らせながら、悄々(すごすご)「さんた・るちや」の門を出る「ろおれんぞ」の後姿を、貪るやうにきつと見送つて居つた。その時居合はせた奉教人衆の話を伝へ聞けば、時しも凩にゆらぐ日輪が、うなだれて歩む「ろおれんぞ」の頭のかなた、長崎の西の空に沈まうず景色であつたに由つて、あの少年のやさしい姿は、とんと一天の火焔の中に、立ちきはまつたやうに見えたと申す。
 その後の「ろおれんぞ」は、「さんた・るちや」の内陣に香炉をかざした昔とは打つて変つて、町はづれの小屋に起き伏しする、世にも哀れな乞食(こつじき)であつた。ましてその前身は、「ぜんちよ」の輩(ともがら)にはゑとりのやうにさげしまるる、天主の御教を奉ずるものぢや。されば町を行けば、心ない童部(わらべ)に嘲(あざけ)らるるは元より、刀杖瓦石(たうぢやうぐわせき)の難に遭(あ)うた事も、度々ござるげに聞き及んだ。いや、嘗(か)つては、長崎の町にはびこつた、恐しい熱病にとりつかれて、七日七夜の間、道ばたに伏しまろんでは、苦み悶(もだ)えたとも申す事でござる。したが、「でうす」無量無辺の御愛憐は、その都度「ろおれんぞ」が一命を救はせ給うたのみか、施物の米銭のない折々には、山の木の実、海の魚介など、その日の糧(かて)を恵ませ給ふのが常であつた。由つて「ろおれんぞ」も、朝夕の祈は「さんた・るちや」に在つた昔を忘れず、手くびにかけた「こんたつ」も、青玉の色を変へなかつたと申す事ぢや。なんの、それのみか、夜毎に更闌(かうた)けて人音も静まる頃となれば、この少年はひそかに町はづれの小屋を脱け出(いだ)いて、月を踏んでは住み馴れた「さんた・るちや」へ、御主「ぜす・きりしと」の御加護を祈りまゐらせに詣でて居つた。
 なれど同じ「えけれしや」に詣づる奉教人衆も、その頃はとんと「ろおれんぞ」を疎(うと)んじはてて、伴天連はじめ、誰一人憐みをかくるものもござらなんだ。ことわりかな、破門の折から所行無慚(しよぎやうむざん)の少年と思ひこんで居つたに由つて、何として夜毎に、独り「えけれしや」へ参る程の、信心ものぢやとは知られうぞ。これも「でうす」千万無量の御計らひの一つ故、よしない儀とは申しながら、「ろおれんぞ」が身にとつては、いみじくも亦哀れな事でござつた。
 さる程に、こなたはあの傘張の娘ぢや。「ろおれんぞ」が破門されると間もなく、月も満たず女の子を産み落いたが、さすがにかたくなしい父の翁も、初孫の顔は憎からず思うたのでござらう、娘ともども大切に介抱して、自ら抱きもしかかへもし、時にはもてあそびの人形などもとらせたと申す事でござる。翁は元よりさもあらうずなれど、ここに稀有(けう)なは「いるまん」の「しめおん」ぢや。あの「ぢやぼ」(悪魔)をも挫(ひし)がうず大男が、娘に子が産まれるや否や、暇ある毎に傘張の翁を訪れて、無骨な腕に幼子を抱き上げては、にがにがしげな顔に涙を浮べて、弟と愛(いつく)しんだ、あえかな「ろおれんぞ」の優姿を、思ひ慕つて居つたと申す。唯、娘のみは、「さんた・るちや」を出でてこの方、絶えて「ろおれんぞ」が姿を見せぬのを、怨めしう歎きわびた気色(けしき)であつたれば、「しめおん」の訪れるのさへ、何かと快からず思ふげに見えた。
 この国の諺(ことわざ)にも、光陰に関守(せきもり)なしと申す通り、とかうする程に、一年(ひととせ)あまりの年月は、瞬(またた)くひまに過ぎたと思召(おぼしめ)されい。ここに思ひもよらぬ大変が起つたと申すは、一夜の中に長崎の町の半ばを焼き払つた、あの大火事のあつた事ぢや。まことにその折の景色の凄じさは、末期(まつご)の御裁判(おんさばき)の喇叭(らつぱ)の音が、一天の火の光をつんざいて、鳴り渡つたかと思はれるばかり、世にも身の毛のよだつものでござつた。その時、あの傘張の翁の家は、運悪う風下にあつたに由つて、見る見る焔に包れたが、さて親子眷族(けんぞく)、慌てふためいて、逃げ出(いだ)いて見れば、娘が産んだ女の子の姿が見えぬと云ふ始末ぢや。一定(いちぢやう)、一間(ひとま)どころに寝かいて置いたを、忘れてここまで逃げのびたのであらうず。されば翁は足ずりをして罵りわめく。娘も亦、人に遮(さへぎ)られずば、火の中へも馳(は)せ入つて、助け出さう気色(けしき)に見えた。なれど風は益(ますます)加はつて、焔の舌は天上の星をも焦さうず吼(たけ)りやうぢや。それ故火を救ひに集つた町方の人々も、唯、あれよあれよと立ち騒いで、狂気のやうな娘をとり鎮めるより外に、せん方も亦あるまじい。所へひとり、多くの人を押しわけて、馳(か)けつけて参つたは、あの「いるまん」の「しめおん」でござる。これは矢玉の下もくぐつたげな、逞しい大丈夫でござれば、ありやうを見るより早く、勇んで焔の中へ向うたが、あまりの火勢に辟易(へきえき)致いたのでござらう。二三度煙をくぐつたと見る間に、背(そびら)をめぐらして、一散に逃げ出いた。して翁と娘とが佇(たたず)んだ前へ来て、「これも『でうす』万事にかなはせたまふ御計らひの一つぢや。詮ない事とあきらめられい」と申す。その時翁の傍から、誰とも知らず、高らかに「御主(おんあるじ)、助け給へ」と叫ぶものがござつた。声ざまに聞き覚えもござれば、「しめおん」が頭(かうべ)をめぐらして、その声の主をきつと見れば、いかな事、これは紛(まが)ひもない「ろおれんぞ」ぢや。清らかに痩せ細つた顔は、火の光に赤うかがやいて、風に乱れる黒髪も、肩に余るげに思はれたが、哀れにも美しい眉目(みめ)のかたちは、一目見てそれと知られた。その「ろおれんぞ」が、乞食の姿のまま、群(むらが)る人々の前に立つて、目もはなたず燃えさかる家を眺めて居る。と思うたのは、まことに瞬(またた)く間もない程ぢや。一しきり焔を煽(あふ)つて、恐しい風が吹き渡つたと見れば、「ろおれんぞ」の姿はまつしぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁(うつばり)の中にはいつて居つた。「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空高く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩(こがらし)に揺るる日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。
 なれどあたりに居つた奉教人衆は、「ろおれんぞ」が健気(けなげ)な振舞に驚きながらも、破戒の昔を忘れかねたのでもござらう。忽(たちまち)兎角の批判は風に乗つて、人どよめきの上を渡つて参つた。と申すは、「さすが親子の情あひは争はれぬものと見えた。己が身の罪を恥ぢて、このあたりへは影も見せなんだ『ろおれんぞ』が、今こそ一人子の命を救はうとて、火の中へはいつたぞよ」と、誰ともなく罵りかはしたのでござる。これには翁(おきな)さへ同心と覚えて、「ろおれんぞ」の姿を眺めてからは、怪しい心の騒ぎを隠さうず為か、立ちつ居つ身を悶えて、何やら愚(おろか)しい事のみを、声高(こわだか)にひとりわめいて[#「わめいて」は底本では「わめいつて」]居つた。なれど当の娘ばかりは、狂ほしく大地に跪(ひざまづ)いて、両の手で顔をうづめながら、一心不乱に祈誓を凝(こ)らいて、身動きをする気色さへもござない。その空には火の粉が雨のやうに降りかかる。煙も地を掃(はら)つて、面(おもて)を打つた。したが娘は黙然と頭を垂れて、身も世も忘れた祈り三昧(ざんまい)でござる。
 とかうする程に、再(ふたたび)火の前に群つた人々が、一度にどつとどよめくかと見れば、髪をふり乱いた「ろおれんぞ」が、もろ手に幼子をかい抱いて、乱れとぶ焔の中から、天(あま)くだるやうに姿を現(あらは)いた。なれどその時、燃え尽きた梁(うつばり)の一つが、俄(にはか)に半ばから折れたのでござらう。凄じい音と共に、一なだれの煙焔(えんえん)が半空(なかぞら)に迸(ほとばし)つたと思ふ間もなく、「ろおれんぞ」の姿ははたと見えずなつて、跡には唯火の柱が、珊瑚の如くそば立つたばかりでござる。
 あまりの凶事に心も消えて、「しめおん」をはじめ翁まで、居あはせた程の奉教人衆は、皆目の眩(くら)む思ひがござつた。中にも娘はけたたましう泣き叫んで、一度は脛《はぎ》もあらはに躍り立つたが、やがて雷(いかづち)に打たれた人のやうに、そのまま大地にひれふしたと申す。さもあらばあれ、ひれふした娘の手には、何時かあの幼い女の子が、生死不定(しやうじふぢやう)の姿ながら、ひしと抱かれて居つたをいかにしようぞ。ああ、広大無辺なる「でうす」の御知慧(おんちゑ)、御力は、何とたたへ奉る詞(ことば)だにござない。燃え崩れる梁に打たれながら、「ろおれんぞ」が必死の力をしぼつて、こなたへ投げた幼子は、折よく娘の足もとへ、怪我もなくまろび落ちたのでござる。
 されば娘が大地にひれ伏して、嬉し涙に咽(むせ)んだ声と共に、もろ手をさしあげて立つた翁の口からは、「でうす」の御慈悲をほめ奉る声が、自らおごそかに溢れて参つた。いや、まさに溢れようずけはひであつたとも申さうか。それより先に「しめおん」は、さかまく火の嵐の中へ、「ろおれんぞ」を救はうず一念から、真一文字に躍りこんだに由つて、翁の声は再(ふたたび)気づかはしげな、いたましい祈りの言(ことば)となつて、夜空に高くあがつたのでござる。これは元より翁のみではござない。親子を囲んだ奉教人衆は、皆一同に声を揃へて、「御主、助け給へ」と、泣く泣く祈りを捧げたのぢや。して「びるぜん・まりや」の御子(みこ)、なべての人の苦しみと悲しみとを己(おの)がものの如くに見そなはす、われらが御主「ぜす・きりしと」は、遂にこの祈りを聞き入れ給うた。見られい。むごたらしう焼けただれた「ろおれんぞ」は、「しめおん」が腕に抱かれて、早くも火と煙とのただ中から、救ひ出されて参つたではないか。
 なれどその夜の大変は、これのみではござなんだ。息も絶え絶えな「ろおれんぞ」が、とりあへず奉教人衆の手に舁(か)かれて、風上にあつたあの「えけれしや」の門へ横へられた時の事ぢや。それまで幼子を胸に抱きしめて、涙にくれてゐた傘張の娘は、折から門へ出でられた伴天連の足もとに跪(ひざまづ)くと、並み居る人々の目前で、「この女子(をなご)は『ろおれんぞ』様の種ではおぢやらぬ。まことは妾が家隣の『ぜんちよ』の子と密通して、まうけた娘でおぢやるわいの」と思ひもよらぬ「こひさん」(懴悔)を仕(つかま)つた。その思ひつめた声ざまの震へと申し、その泣きぬれた双の眼のかがやきと申し、この「こひさん」には、露ばかりの偽さへ、あらうとは思はれ申さぬ。道理(ことわり)かな、肩を並べた奉教人衆は、天を焦がす猛火も忘れて、息さへつかぬやうに声を呑んだ。
 娘が涙ををさめて、申し次いだは、「妾は日頃『ろおれんぞ』様を恋ひ慕うて居つたなれど、御信心の堅固さからあまりにつれなくもてなされる故、つい怨む心も出て、腹の子を『ろおれんぞ』様の種と申し偽り、妾につらかつた口惜しさを思ひ知らさうと致いたのでおぢやる。なれど『ろおれんぞ』様のお心の気高さは、妾が大罪をも憎ませ給はいで、今宵は御身の危さをもうち忘れ、『いんへるの』(地獄)にもまがふ火焔の中から、妾娘の一命を辱(かたじけな)くも救はせ給うた。その御憐み、御計らひ、まことに御主『ぜす・きりしと』の再来かともをがまれ申す。さるにても妾が重々の極悪を思へば、この五体は忽(たちまち)『ぢやぼ』の爪にかかつて、寸々に裂かれようとも、中々怨む所はおぢやるまい。」娘は「こひさん」を致いも果てず、大地に身を投げて泣き伏した。
 二重三重(ふたへみへ)に群つた奉教人衆の間から、「まるちり」(殉教)ぢや、「まるちり」ぢやと云ふ声が、波のやうに起つたのは、丁度この時の事でござる。殊勝にも「ろおれんぞ」は、罪人を憐む心から、御主「ぜす・きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで身を落いた。して父と仰ぐ伴天連も、兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんだ。これが「まるちり」でなうて、何でござらう。
 したが、当の「ろおれんぞ」は、娘の「こひさん」を聞きながらも、僅に二三度頷(うなづ)いて見せたばかり、髪は焼け肌は焦げて、手も足も動かぬ上に、口をきかう気色(けしき)さへも今は全く尽きたげでござる。娘の「こひさん」に胸を破つた翁と「しめおん」とは、その枕がみに蹲(うづくま)つて、何かと介抱を致いて居つたが、「ろおれんぞ」の息は、刻々に短うなつて、最期(さいご)ももはや遠くはあるまじい。唯、日頃と変らぬのは、遙に天上を仰いで居る、星のやうな瞳の色ばかりぢや。
 やがて娘の「こひさん」に耳をすまされた伴天連は、吹き荒(すさ)ぶ夜風に白ひげをなびかせながら、「さんた・るちや」の門を後にして、おごそかに申されたは、「悔い改むるものは、幸(さいはひ)ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益(ますます)、『でうす』の御戒(おんいましめ)を身にしめて、心静に末期(まつご)の御裁判(おんさばき)の日を待つたがよい。又『ろおれんぞ』がわが身の行儀を、御主『ぜす・きりしと』とひとしく奉らうず志は、この国の奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる徳行でござる。別して少年の身とは云ひ――」ああ、これは又何とした事でござらうぞ。ここまで申された伴天連は、俄(にはか)にはたと口を噤(つぐ)んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られた。その恭(うやうや)しげな容子(ようす)はどうぢや。その両の手のふるへざまも、尋常(よのつね)の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頬の上には、とめどなく涙が溢れ流れるぞよ。
 見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門に横はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣(ころも)のひまから、清らかな二つの乳房が、玉のやうに露(あらは)れて居るではないか。今は焼けただれた面輪(おもわ)にも、自(おのづか)らなやさしさは、隠れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて「さんた・るちや」を逐(お)はれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼(ま)なざしのあでやかなこの国の女ぢや。
 まことにその刹那(せつな)の尊い恐しさは、あたかも「でうす」の御声が、星の光も見えぬ遠い空から、伝はつて来るやうであつたと申す。されば「さんた・るちや」の前に居並んだ奉教人衆は、風に吹かれる穂麦のやうに、誰からともなく頭を垂れて、悉(ことごとく)「ろおれんぞ」のまはりに跪(ひざまづ)いた。その中で聞えるものは、唯、空をどよもして燃えしきる、万丈の焔の響ばかりでござる。いや、誰やらの啜(すす)り泣く声も聞えたが、それは傘張の娘でござらうか。或は又自ら兄とも思うた、あの「いるまん」の「しめおん」でござらうか。やがてその寂寞(じやくまく)たるあたりをふるはせて、「ろおれんぞ」の上に高く手をかざしながら、伴天連の御経を誦(ず)せられる声が、おごそかに悲しく耳にはいつた。して御経の声がやんだ時、「ろおれんぞ」と呼ばれた、この国のうら若い女は、まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおりや」を仰ぎ見て、安らかなほほ笑みを唇に止めたまま、静に息が絶えたのでござる。……
 その女の一生は、この外に何一つ、知られなんだげに聞き及んだ。なれどそれが、何事でござらうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも換へ難い、刹那の感動に極るものぢや。暗夜の海にも譬(たと)へようず煩悩心(ぼんなうしん)の空に一波をあげて、未(いまだ)出ぬ月の光を、水沫(みなわ)の中に捕へてこそ、生きて甲斐ある命とも申さうず。されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。

       二

 略

(大正七年八月)

菊池寛 『志賀直哉氏の作品』  5300字

2008-07-11 10:45:52 | ★[近代の文学]
志賀直哉氏の作品
菊池寛



 自分は現代の作家の中で、一番志賀氏を尊敬している。尊敬しているばかりでなく、氏の作品が、一番好きである。自分の信念の通りに言えば、志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている。
 自分は、「白樺」の創刊時代から志賀氏の作品を愛していた。それから六、七年になる。その間に自分はかつて愛読していた他の多くの作家(日本と外国とを合せて)に、幻滅を感じたり愛想を尽かしたりした。が、志賀氏の作品に対する自分の心持だけは変っていない。これからも変るまいと思う。
 自分が志賀氏に対する尊敬や、好愛は殆ど絶対的なもので従って自分はこの文章においても志賀氏の作品を批評する積(つも)りはないのである。志賀氏の作品に就いて自分の感じている事を、述べて見たいだけである。

 志賀氏は、その小説の手法においても、その人生の見方においても、根柢においてリアリストである。この事は、充分確信を以て言ってもいいと思う。が、氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬように自分に思われる。先ず手法の点から言って見よう。リアリズムを標榜(ひょうぼう)する多くの作家が、描かんとする人生の凡(すべ)ての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には厳粛な手堅い撰択が行われている。志賀氏は惜しみ過ぎると思われるくらい、その筆を惜しむ。一措も忽(ゆるがせ)にしないような表現の厳粛さがある。氏は描かんとする事象の中、真に描かねばならぬ事しか描いていない。或事象の急所をグイグイと書くだけである。本当に描かねばならぬ事しか描いていないという事は、氏の表現を飽くまでも、力強いものにしている。氏の表現に現われている力強さは簡素の力である。厳粛な表現の撰択からくる正確の力強さである。こうした氏の表現は、氏の作品の随所に見られるが、試みに「好人物の夫婦」の書出しの数行を抜いて見よう。

「深い秋の静かな晩だつた。沼の上を雁が啼(な)いて通る。細君は食卓の上の洋燈を端の方に引き寄せて其(そ)の下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居た。二人は長い間黙つて居た。」

 何という冴えた表現であろうと、自分はこの数行を読む度に感嘆する。普通の作家なれば、数十行乃至数百行を費しても、こうした情景は浮ばないだろう。いわゆるリアリズムの作家にこうした洗練された立派な表現があるだろうか。志賀氏のリアリズムが、氏独特のものであるという事は、こうした点からでも言い得ると思う。氏は、この数行において、多くを描いていない。しかも、この数行において、淋しい湖畔における夫婦者の静寂な生活が、如何(いか)にも溌剌として描き出されている。何という簡潔な力強い表現であろう。こうした立派な表現は、氏の作品を探せば何処にでもあるが、もう一つ「城の崎にて」から例を引いて見よう。

「自分は別にいもりを狙はなかつた。ねらつても迚(とて)も当らない程、ねらつて投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考へなかつた。石はコツといつてから流れに落ちた。石の音と共に同時にいもりは四寸程横へ飛んだやうに見えた。いもりは尻尾を反(そ)らして高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思つて居た。最初石が当つたとは思はなかつた。いもりの反らした尾が自然に静かに下りて来た。するとひぢを張つたやうに、傾斜にたへて前へついてゐた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめつてしまつた。尾は全く石へついた。もう動かない。いもりは死んで了(しま)つた。自分は飛んだ事をしたと思つた。虫を殺す事をよくする自分であるが、その気が全くないのに殺して了つたのは自分に妙ないやな気をさした。」

 殺されたいもりと、いもりを殺した心持とが、完璧と言っても偽ではない程本当に表現されている。客観と主観とが、少しも混乱しないで、両方とも、何処までも本当に表現されている。何の文句一つも抜いてはならない。また如何なる文句を加えても蛇足になるような完全した表現である。この表現を見ても分る事だが、志賀氏の物の観照は、如何にも正確で、澄み切っていると思う。この澄み切った観照は志賀氏が真のリアリストである一つの有力な証拠だが、氏はこの観照を如何なる悲しみの時にも、欣(よろこ)びの時にも、必死の場合にも、眩(くら)まされはしないようである。これは誰かが言ったように記憶するが、「和解」の中、和解の場面で、
「『えゝ』と自分は首肯(うなづ)いた。それを見ると母は急に起上つて来て自分の手を堅く握りしめて、泣きながら『ありがたう。順吉、ありがたう』と云つて自分の胸の所で幾度か頭を下げた。自分は仕方がなかつたから其頭の上でお辞儀をすると丁度頭を上げた母の束髪へ口をぶつけた。」と描いてある所など、氏が如何なる場合にも、そのリアリストとしての観照を曇らせない事を充分に語っている。
 志賀氏の観照は飽くまでもリアリスチックであり、その手法も根柢においてリアリズムである事は、前述した通りだが、それならば全然リアリズムの作家であろうか。自分は決してそうは思わない。普通のリアリストと烈しく相違している点は、氏が人生に対する態度であり、氏が人間に対する態度である。普通のリアリストの人生に対する態度人間に対する態度が冷静で過酷で、無関心であるに反して、ヒューマニスチックな温味を持っている。氏の作品が常に自分に、清純な快さを与えるのは、実にこの温味のためである。氏の表現も観照も飽くまでリアリスチックである。がその二つを総括している氏の奥底の心は、飽くまでヒューマニスチックである。氏の作品の表面には人道主義などというものは、おくびにも出ていない。が、本当に氏の作品を味読(みどく)する者にとって、氏の作品の奥深く鼓動する人道主義的な温味を感ぜずにはいられないだろう。世の中には、作品の表面には、人道主義の合言葉や旗印が山の如く積まれてありながら、少しく奥を探ると、醜いエゴイズムが蠢動(しゅんどう)しているような作品も決して少くはない。が、志賀氏は、その創作の上において決して愛を説かないが氏は愛を説かずしてただ黙々と愛を描いている。自分は志賀氏の作品を読んだ時程、人間の愛すべきことを知ったことはない。
 氏の作品がリアリスチックでありながら、しかも普通のリアリズムと違っている点を説くのには氏の短篇なる「老人」を考えて見るといい。
 これは、もう七十に近い老人が、老後の淋しさを紛(まぎ)らすために芸者を受け出して妾に置く。芸者は、若い者に受け出されるよりも老先の短い七十の老人に受け出される方が、自由になる期が早いといったような心持で、老人の妾になる。最初の三年の契約が切れても老人はその妾と離れられない。女も情夫があったが、この老人と約束通りに別れる事が残酷のように思われて、一年延ばす事を承諾する。一年が経つ。そのうちに女は情夫の子を産む。今度は女の方から一年の延期を言い出す。そして又一年経つ裡(うち)に女は情夫の第二の子を産む。そして今度は老人の方から延期を申出す。そしてその一年の終に老人は病死して妾に少からぬ遺産を残す。そして作品は次のような文句で終る。

「四月の後、嘗(か)つて老人の坐つた座蒲団には公然と子供等の父なる若者が坐るやうになつた。其背後の半間の間には羽織袴でキチンと坐つた老人の四つ切りの写真が額に入つて立つて居る……」

 この題材は、もし自然派系の作家が扱ったならば、どんなに皮肉に描き出しただろう。老人がどんなにいたましく嘲笑されただろう。が、志賀氏はかかる皮肉な題材を描きながら、老人に対しても妾に対しても充分な愛撫を与えている。「老人」を読んだ人は老人にも同情し、妾をも尤(もっと)もだと思い、その中の何人にも人間らしい親しみを感ぜずにはいられないだろう。情夫の子を、老人の子として、老人の遺産で養って行こうとする妾にも、我等は何らの不快も感じない。もし、自然派系の作家が扱ったならば、この題材はむしろ読者に必ずある不快な人生の一角を示したであろう。が、志賀氏の「老人」の世界は、何処までも人間的な世界である。そして、我々は老後の淋しさにも、妾の心持にも限りなく引付けられるのである。氏の作品の根柢に横たわるヒューマニスチックな温味は「和解」にも「清兵衛と瓢箪」にも「出来事」にも「大津順吉」などにもある。他の心理を描いた作品にも充分見出されると思う。

 氏の作品が、普通のリアリズムの作品と違って一種の温かみを有している事は、前に述べたが、氏の作品の背景はただそれだけであろうか。自分は、それだけとは思わない。氏の作品の頼もしさ力強さは、氏の作品を裏付けている志賀直哉氏の道徳ではないかと思う。
 自分は耽美主義の作品、或は心理小説、単なるリアリズムの作品にある種の物足らなさを感ずるのは、その作品に道徳性の欠乏しているためではないかと思う。ある通俗小説を書く人が「通俗小説には道徳が無ければならない」と言ったという事を耳にしたが、凡(すべ)ての小説はある種の道徳を要求しているのではないか。志賀氏の作品の力強さは志賀氏の作品の底に流れている氏の道徳のためではないかと思う。
 氏の懐いている道徳は「人間性(ヒューマニティ)の道徳」だと自分は解している。が、その内で氏の作品の中で、最も目に着くものは正義に対する愛(Love of justice)ではないかと思う。義(ただ)しさである。人間的な「義しさ」である。「大津順吉」や「和解」の場合にはそれが最も著(いちじる)しいと思う。「和解」は或る意味において「義しさ」を愛する事と、子としての愛との恐るべき争闘とその融合である。が、「和解」を除いた他の作品の場合にも、人間的な義しさを愛する心が、随所に現われているように思われる。
 が、前に言った人道主義的な温味があるというのも、今言った「義しさ」に対する愛があるという事ももっと端的に言えば、志賀氏の作品の背後には、志賀氏の人格があると言った方が一番よく判るかも知れない。そして作品に在る温味も力強さも、この人格の所産であると言った方が一番よく判るかも知れないと思う。
 志賀氏の作品は、大体において、二つに別(わか)つ事が出来る。それは氏が特種な心理や感覚を扱った「剃刀」「児を盗む話」「范の犯罪」「正義派」などと、氏自身の実生活により多く交渉を持つらしい「母の死と新しい母」「憶ひ出した事」「好人物の夫婦」「和解」などとの二種である。志賀氏の人格的背景は後者において濃厚である。が前者も、その芸術的価値においては決して、後者に劣らないと思う。氏は、その手法と観照において、今の文壇の如何なるリアリストよりも、もっとリアリスチックであり、その本当の心において、今の文壇の如何なる人道主義者よりも、もっと人道主義的であるように思われる。これは少くとも自分の信念である。

 志賀氏は、実にうまい短篇を書くと思う。仏蘭西のメリメあたりの短篇、露国のチェホフや独逸のリルケやウィードなどに劣らない程の短篇を描くと思う。これは決して自分の過賞(かしょう)ではない。自分は鴎外博士の訳した外国の短篇集の『十人十話』などを読んでも、志賀氏のものより拙いものは沢山あるように思う。日本の文壇は外国の物だと無条件でいい物としているが、そんな馬鹿な話はないと思う。志賀氏の短篇などは、充分世界的なレヴェルまで行っていると思う。志賀氏の作品から受くるくらいの感銘は、そう横文字の作家からでも容易には得られないように自分は思う。短篇の中でも「老人」は原稿紙なら七八枚のものらしいが、実にいい。説明ばかりだが実にいい(説明はダメ飽くまで描写で行かねばならぬなどと言う人は一度是非読む必要がある)。「出来事」もいい。何でもない事を描いているのだがいい。「清兵衛と瓢箪」もいいと思う。
 志賀氏の作品の中では「赤西蠣太」とか「正義派」などが少し落ちはしないかと思う。
 色々まだ言いたい事があるが、ここで止めておこう。ともかく、自分の同時代の人として志賀氏がいるという事は、如何にも頼もしくかつ欣(よろこ)ばしい事だと自分は思う。
 最後にちょっと言っておくが、自分はこの文章を、志賀氏の作品に対する敬愛の意を表するためにのみ書いたのである。

(一九一八年十一月)





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底本:「半自叙伝」講談社学術文庫、講談社
   1987(昭和62)年7月10日第1刷発行
入力:大野晋
校正:noriko saito
2005年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:

高山樗牛  「清見寺の鐘聲」2000字

2008-07-11 10:40:59 | ★[近代の文学]
清見寺の鐘聲
高山樗牛



 夜半(よは)のねざめに鐘の音ひゞきぬ。おもへばわれは清見寺(せいけんじ)のふもとにさすらへる身ぞ。ゆかしの鐘の音(ね)や。
 この鐘きかむとて、われ六(む)とせの春秋(はるあき)をあだにくらしき。うれたくもたのしき、今のわが身かな。いざやおもひのまゝに聽きあかむ。
 秋深うして萬山(ばんざん)きばみ落(お)つ。枕をそばだつれば野に悲しき聲す。あはれ鐘の音、わづらひの胸にもの思へとや、この世ならぬひゞきを、われいかにきくべき。怪しきかな、物おもふとしもあらなくに、いつしかわが頬に涙ながれぬ。
 間(ま)どほなる鐘の音はそのはじめの響きを終りぬ。われは枕によりて消ゆるひゞきのゆくへもしらず思ひ入りぬ。
 第二の鐘聲(しようせい)起こりぬ。夜はいよ/\しめやかにして、ひゞきはいよ/\冴えたり。山をかすめ、海をわたり、一たびは高く、一たびはひくく、絶えむとしてまたつゞき、沈まむとしてはまたうかぶ。天地の律呂(りつりよ)か、自然の呼吸(こきふ)か、隱(いん)としていためるところあるが如し。想へばわづらひはわが上のみにはあらざりけるよ。あやしきかな、わが胸は鐘のひゞきと共にあへぐが如く波うちぬ。
 おもひにたへで、われは戸をおしあけて磯ちかく歩みよりぬ。十日あまりの月あかき夜半なりき。三保(みほ)の入江にけぶり立ち、有渡(うど)の山かげおぼろにして見えわかず、袖師(そでし)、清水の長汀(ちやうてい)夢の如くかすみたり。世にもうるはしきけしきかな。われは磯邊(いそべ)の石に打ちよりてこしかた遠く思ひかへしぬ。
 おもへば、はや六歳(むとせ)のむかしとなりぬ、われ身にわづらひありて、しばらく此地に客(かく)たりき。清見寺の鐘の音に送り迎へられし夕べあしたの幾(いく)そたび、三保の松原になきあかしゝ月あかき一夜は、げに見はてぬ夢の恨めしきふし多かりき。
 六とせは流水の如く去りて、人は春ごとに老いぬ。清見潟(きよみがた)の風光むかしながらにして幾度となく夜半の夢に入れど、身世怱忙(しんせいそうばう)として俄(にはか)に風騷(ふうさう)の客たり難(がた)し。われ常にこれを恨みとしき。
 この恨み、果(はた)さるべき日は遂(つひ)に來(きた)りぬ。こぞの秋、われ思はずも病にかゝりて東海のほとりにさすらひ、こゝに身を清見潟の山水に寄せて、晴夜(せいや)の鐘に多年のおもひをのべむとす。ああ思ひきや、西土(せいど)はるかに征(ゆ)くべかりし身の、こゝに病躯(びやうく)を故山にとゞめて山河の契りをはたさむとは。奇(く)しくもあざなはれたるわが運命(うんめい)かな。
 鐘の音はわがおもひを追うて幾たびかひゞきぬ。
 うるはしきかな、山や水や、僞(いつは)りなく、そねみなく、憎(にく)みなく、爭(あらそ)ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡(こうばう)のわだちを廻(めぐ)る。山や、水や、かはるところなきなり。おもへば恥(はづ)かしきわが身かな。こゝに恨みある身の病を養へばとて、千年(ちとせ)の齡(よはひ)、もとより保つべくもあらず、やがて哀れは夢のたゞちに消えて知る人もなき枯骨(ここつ)となりはてなむず。われは薄倖兒(はくかうじ)、數(かず)ならぬ身の世にながらへてまた何(なに)の爲(な)すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂浪の旦暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。
 鐘の音はまたいくたびかひゞきわたりぬ。わがおもひいよ/\深うなりつ。
 夜はいたく更けぬ。山と水と寂寞として地に横はり、星と月と寂寞(じやくまく)として天にかゝれり。うるはしの極(き)はみかな。願はくは月よ傾かざれ、星よ沈まざれ、永久(とは)の夜の、この世の聲色(せいしよく)を掩(おほ)ひつゝめよかし。されどわれには祷(いの)るべき言葉なかりき。
 最後の鐘聲おこりぬ。餘音(よいん)とほくわたりて、到るところに咏嘆のひゞきをとゞめぬ。うれしの鐘の音や、人間の言の葉に上(のぼ)りがたきわがいくそのおもひ、この鐘ならで誰か言ひとかむ。

 年を越えてわれ都にかへりぬ。わが思ひまた胸にむすぼれつ。夜半のねざめに清見寺の鐘聲またきくべからず。われは今に於ても幾たびか思ひぬ。唱一語(しやういちご)以てわがこの思ひを言ひあらはさむすべもがな。かくて月あかき一夜、海風(かいふう)に向ひて長く嘯(うそぶ)かなむ。わが胸のいかばかり輕(かる)かるべき。

(明治三十四年五月)





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底本:「現代日本文學全集 第十三篇」改造社
   1928(昭和3)年12月1日発行
※底本は総ルビですが、読みやすさを考慮して振り仮名の一部を省きました。
入力:三州生桑
校正:今井忠夫
2003年12月15日作成
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