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大学受験 古文読解 入試出典ベスト70

大学入試 【古文・漢文・現代文】

【ランキング①~⑩】⇒【論述・穴埋め問題】

【第一女子】 受験準備 106 108 河合塾 60 代ゼミ 18 駿台 12

2008-07-22 15:40:06 | ▽新聞・雑誌
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞編集室 中村惇夫



宮城県第一女子高校

出典 http://www.ichijo.myswan.ne.jp/2007shinrojoukyou.html

大学別合格状況合格者数の推移  
Ⅰ 2007年3月卒業生の進学等状況

1.大学・短大等合格者数(延べ数)
●2007年内訳 <主な大学>
  2007 2006         ( )内は昨年度   県 内 58   秋田大 3



学 国
立 文系 60 103 59 106 国公立合計 126 (130) 県 外 68 弘前大 1
理系 43 47     東北大 26 岩手大 8

立 文系 13 23 11 24   文系 73 (70) 宮教大 16 山形大 17
理系 10 13     理系 53 (60) 宮城大 16   東京大 3

立 文系 202 273 192 261 県 内 109 東北学院大 65   東北薬科大 22  
理系 71 69 県 外 164 宮城学院女子大 15   東北福祉大 3  

大 国公立 0 2 0 1 県 内 1                        
私 立 2 1 県 外 1                        
専修・各種専門など 12 9 医療・看護系 4   海外大学 6            
進路決定先総数 413 401

2.大学・短大等進路決定数(実数:卒業生325名)
●2007年内訳 <主な大学>
  2007 2006         ( )内は昨年度   県 内 56   秋田大 3



学 国
立 文系 59 96 53 98 国公立合計 116 (118) 県 外 60 弘前大 1
理系 37 46     東北大 25 岩手大 6

立 文系 11 20 8 20   文系 70 (61) 宮教大 16 山形大 14
理系 9 12     理系 46 (58) 宮城大 15   東京大 3

立 文系 63 86 59 85 県 内 27   東北学院大 10   東北薬科大 12  
理系 23 26 県 外 59   宮城学院女子大 1   東北福祉大 2  

大 国公立 0 2 0 1 県 内 1                        
私 立 2 1 県 外 1                        
専修・各種専門など 7 9 医療・看護系 3 海外大学 2  
就   職 2 1 地方公務員 2                      



出典 http://www.ichijo.myswan.ne.jp/2007shinrojoukyou.html

受験準備 106 108 河合塾 60 代ゼミ 18 駿台 12 CAP 5 その他 11
進路決定先総数 319 322




その他(未定・不明) 6 0
合  計 325 322

大学・短大進学者数 204 204
大学・短大進学率 63% 63%
進学達成率 65% 66%
進学準備率 33% 34%

3.推薦入試合格者数 < 38名 ( 指定15,公募・AO等24 ) >

◇ 国立大 15  <東北大7,山形大3,秋田大1,他>
◇ 公立大 2  <宮城大1,国際教養大1>
◇ 私立大 21  <指定15,公募・自己推薦6>














芥川龍之介  追憶  全1万3000字×0.75=

2008-07-18 14:08:32 | ▽新聞・雑誌
追憶
芥川龍之介



     一 埃

 僕の記憶の始まりは数え年の四つの時のことである。と言ってもたいした記憶ではない。ただ広さんという大工が一人、梯子(はしご)か何かに乗ったまま玄能で天井を叩(たた)いている、天井からはぱっぱっと埃(ほこり)が出る――そんな光景を覚えているのである。
 これは江戸の昔から祖父や父の住んでいた古家を毀(こわ)した時のことである。僕は数え年の四つの秋、新しい家に住むようになった。したがって古家を毀したのは遅(おそ)くもその年の春だったであろう。

     二 位牌

 僕の家(うち)の仏壇には祖父母の位牌(いはい)や叔父(おじ)の位牌の前に大きい位牌が一つあった。それは天保(てんぽう)何年かに没した曾祖父母(そうそふぼ)の位牌だった。僕はもの心のついた時から、この金箔(きんぱく)の黒ずんだ位牌に恐怖に近いものを感じていた。
 僕ののちに聞いたところによれば、曾祖父は奥坊主を勤めていたものの、二人の娘を二人とも花魁(おいらん)に売ったという人だった。のみならずまた曾祖母も曾祖父の夜泊まりを重ねるために家に焚(た)きもののない時には鉈(なた)で縁側を叩(たた)き壊(こわ)し、それを薪(たきぎ)にしたという人だった。

     三 庭木

 新しい僕の家の庭には冬青(もち)、榧(かや)、木斛(もっこく)、かくれみの、臘梅(ろうばい)、八つ手、五葉の松などが植わっていた。僕はそれらの木の中でも特に一本の臘梅を愛した。が、五葉の松だけは何か無気味でならなかった。

     四 「てつ」

 僕の家(うち)には子守(こも)りのほかに「てつ」という女中が一人あった。この女中はのちに「源(げん)さん」という大工のお上さんになったために「源てつ」という渾名(あだな)を貰(もら)ったものである。
 なんでも一月か二月のある夜、(僕は数え年の五つだった)地震のために目をさました「てつ」は前後の分別を失ったとみえ、枕(まくら)もとの行灯(あんどん)をぶら下げたなり、茶の間から座敷を走りまわった。僕はその時座敷の畳に油じみのできたのを覚えている。それからまた夜中の庭に雪の積もっていたのを覚えている。

     五 猫の魂

「てつ」は源(げん)さんへ縁づいたのちも時々僕の家(うち)へ遊びに来た。僕はそのころ「てつ」の話した、こういう怪談を覚えている。――ある日の午後、「てつ」は長火鉢(ながひばち)に頬杖(ほほづえ)をつき、半睡半醒(はんすいはんせい)の境にさまよっていた。すると小さい火の玉が一つ、「てつ」の顔のまわりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははっとして目を醒(さ)ました。火の玉はもちろんその時にはもうどこかへ消え失(う)せていた。しかし「てつ」の信ずるところによればそれは四、五日前に死んだ「てつ」の飼い猫(ねこ)の魂がじゃれに来たに違いないというのだった。

     六 草双紙

 僕の家(うち)の本箱には草双紙(くさぞうし)がいっぱいつまっていた。僕はもの心のついたころからこれらの草双紙を愛していた。ことに「西遊記(さいゆうき)」を翻案した「金毘羅利生記(こんぴらりしょうき)」を愛していた。「金毘羅利生記」の主人公はあるいは僕の記憶に残った第一の作中人物かもしれない。それは岩裂(いわさき)の神という、兜巾鈴懸(ときんすずか)けを装った、目(ま)なざしの恐ろしい大天狗(だいてんぐ)だった。

          一一 郵便箱

 僕の家(うち)の門の側(そば)には郵便箱が一つとりつけてあった。母や伯母(おば)は日の暮れになると、かわるがわる門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往来の人通りを眺(なが)めたものである。封建時代らしい女の気もちは明治三十二、三年ころにもまだかすかに残っていたであろう。僕はまたこういう時に「さあ、もう雀色時(すずめいろどき)になったから」と母の言ったのを覚えている。雀色時という言葉はそのころの僕にも好きな言葉だった。

     一二 灸

 僕は何かいたずらをすると、必ず伯母(おば)につかまっては足の小指に灸(きゅう)をすえられた。僕に最も怖(おそ)ろしかったのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられるということである。僕は手足をばたばたさせながら「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」と怒鳴ったりした。これはもちろん火がつくところから自然と連想(れんそう)を生じたのであろう。

          一四 幽霊

 僕は小学校へはいっていたころ、どこの長唄(ながうた)の女師匠は亭主の怨霊(おんりょう)にとりつかれているとか、ここの仕事師のお婆(ばあ)さんは嫁の幽霊に責められているとか、いろいろの怪談を聞かせられた。それをまた僕に聞かせたのは僕の祖父の代に女中をしていた「おてつさん」という婆さんである。僕はそんな話のためか、夢とも現(うつつ)ともつかぬ境にいろいろの幽霊に襲われがちだった。しかもそれらの幽霊はたいていは「おてつさん」の顔をしていた。

     一五 馬車

 僕が小学校へはいらぬ前、小さい馬車を驢馬(ろば)に牽(ひ)かせ、そのまた馬車に子供を乗せて、町内をまわる爺(じい)さんがあった。僕はこの小さい馬車に乗って、お竹倉や何かを通りたかった。しかし僕の守(も)りをした「つうや」はなぜかそれを許さなかった。あるいは僕だけ馬車へ乗せるのを危険にでも思ったためかもしれない。けれども青い幌(ほろ)を張った、玩具(おもちゃ)よりもわずかに大きい馬車が小刻みにことこと歩いているのは幼目にもハイカラに見えたものである。

     一六 水屋

 そのころはまた本所(ほんじょ)も井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺(じい)さんが水桶(みずおけ)の水を水甕(みずがめ)の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現(ゆめうつつ)の境に現われてくる幽霊の中の一人だった。

     一七 幼稚園

 僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園は名高い回向院(えこういん)の隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭の隅(すみ)には大きい銀杏(いちょう)が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾(はさ)んだのを覚えている。それからまたある円顔(まるがお)の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。僕はつい去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇(あ)い、そのころのことを話し合った末、「先方でも覚えているかしら」と言った。
「そりゃ覚えていないだろう」
 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合わない、萩(はぎ)や芒(すすき)に露の玉を散らした、袖(そで)の長い着物を着ていたものである。

     一八 相撲

 相撲(すもう)もまた土地がらだけに大勢近所に住まっていた。現に僕の家(うち)の裏の向こうは年寄りの峯岸(みねぎし)の家だったものである。僕の小学校にいた時代はちょうど常陸山(ひたちやま)や梅ヶ谷の全盛を極(きわ)めた時代だった。僕は荒岩亀之助が常陸山を破ったため、大評判になったのを覚えている。いったいひとり荒岩に限らず、国見山でも逆鉾(さかほこ)でもどこか錦絵(にしきえ)の相撲に近い、男ぶりの人に優(すぐ)れた相撲はことごとく僕の贔屓(ひいき)だった。しかし相撲というものは何か僕にはばくぜんとした反感に近いものを与えやすかった。それは僕が人並みよりも体(からだ)が弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束(わらたば)ねにした褌(ふんどし)かつぎが相撲膏(すもうこう)を貼(は)っていたためかもしれない。

     一九 宇治紫山

 僕の一家は宇治紫山(うじしざん)という人に一中節(いっちゅうぶし)を習っていた。この人は酒だの遊芸だのにお蔵前の札差しの身上(しんしょう)をすっかり費やしてしまったらしい。僕はこの「お師匠さん」の酒の上の悪かったのを覚えている。また小さい借家にいても、二、三坪の庭に植木屋を入れ、冬などは実を持った青木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覚えている。
 この「お師匠さん」は長命だった。なんでも晩年味噌(みそ)を買いに行き、雪上がりの往来で転んだ時にも、やっと家(うち)へ帰ってくると、「それでもまあ褌(ふんどし)だけ新しくってよかった」と言ったそうである。

     二〇 学問

 僕は小学校へはいった時から、この「お師匠さん」の一人息子(むすこ)に英語と漢文と習字とを習った。が、どれも進歩しなかった。ただ英語はTやDの発音を覚えたくらいである。それでも僕は夜になると、ナショナル・リイダアや日本外史をかかえ、せっせと相生町(あいおいちょう)二丁目の「お師匠さん」の家へ通って行った。It is a dog――ナショナル・リイダアの最初の一行はたぶんこういう文章だったであろう。しかしそれよりはっきりと僕の記憶に残っているのは、何かの拍子に「お師匠さん」の言った「誰(だれ)とかさんもこのごろじゃ身なりが山水(さんすい)だな」という言葉である。

     二一 活動写真

 僕がはじめて活動写真を見たのは五つか六つの時だったであろう。僕は確か父といっしょにそういう珍しいものを見物した大川端(おおかわばた)の二州楼へ行った。活動写真は今のように大きい幕に映るのではない。少なくとも画面の大きさはやっと六尺に四尺くらいである。それから写真の話もまた今のように複雑ではない。僕はその晩の写真のうちに魚を釣(つ)っていた男が一人、大きい魚が針にかかったため、水の中へまっさかさまにひき落とされる画面を覚えている。その男はなんでも麦藁帽(むぎわらぼう)をかぶり、風立った柳や芦(あし)を後ろに長い釣竿(つりざお)を手にしていた。僕は不思議にその男の顔がネルソンに近かったような気がしている。が、それはことによると、僕の記憶の間違いかもしれない。

     二二 川開き

 やはりこの二州楼の桟敷(さじき)に川開きを見ていた時である。大川はもちろん鬼灯提灯(ほおずきぢょうちん)を吊(つ)った無数の船に埋(うず)まっていた。するとその大川の上にどっと何かの雪崩(なだ)れる音がした。僕のまわりにいた客の中には亀清(かめせい)の桟敷が落ちたとか、中村楼の桟敷が落ちたとか、いろいろの噂(うわさ)が伝わりだした。しかし事実は木橋(もっきょう)だった両国橋の欄干が折れ、大勢の人々の落ちた音だった。僕はのちにこの椿事(ちんじ)を幻灯か何かに映したのを見たこともあるように覚えている。

     二三 ダアク一座

 僕は当時回向院(えこういん)の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇(だいじゃ)、鬼の首、なんとか言う西洋人が非常に高い桿(さお)の上からとんぼを切って落ちて見せるもの、――数え立てていれば際限はない。しかしいちばんおもしろかったのはダアク一座の操(あやつ)り人形である。その中でもまたおもしろかったのは道化(どうけ)た西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。僕はいまだに花キャベツを食うたびに必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。

     二四 中洲

 当時の中洲(なかず)は言葉どおり、芦(あし)の茂ったデルタアだった。僕はその芦の中に流れ灌頂(かんじょう)や馬の骨を見、気味悪がったことを覚えている。それから小学校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて当惑したことも覚えている。

     
     三一 答案

 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙(わらばんし)を配り、それへ「かわいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした。それは僕には真実だった。が、僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。
「雲などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」
 先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。

     三二 加藤清正

 加藤清正(かとうきよまさ)は相生町(あいおいちょう)二丁目の横町に住んでいた。と言ってももちろん鎧武者(よろいむしゃ)ではない。ごく小さい桶屋(おけや)だった。しかし主人は標札によれば、加藤清正に違いなかった。のみならずまだ新しい紺暖簾(こんのれん)の紋も蛇(じゃ)の目(め)だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗(のぞ)きに行った。清正は短い顋髯(あごひげ)を生(は)やし、金槌(かなづち)や鉋(かんな)を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。

     三三 七不思議

 そのころはどの家もランプだった。したがってどの町も薄暗かった。こういう町は明治とは言い条、まだ「本所(ほんじょ)の七不思議」とは全然縁のないわけではなかった。現に僕は夜学の帰りに元町通りを歩きながら、お竹倉の藪(やぶ)の向こうの莫迦囃(ばかばや)しを聞いたのを覚えている。それは石原か横網かにお祭りのあった囃しだったかもしれない。しかし僕は二百年来の狸(たぬき)の莫迦囃しではないかと思い、一刻も早く家へ帰るようにせっせと足を早めたものだった。

     三四 動員令

 僕は例の夜学の帰りに本所(ほんじょ)警察署の前を通った。警察署の前にはいつもと変わり、高張り提灯(ぢょうちん)が一対ともしてあった。僕は妙に思いながら、父や母にそのことを話した。が、誰(だれ)も驚かなかった。それは僕の留守(るす)の間に「動員令発せらる」という号外が家(うち)にも来ていたからだった。僕はもちろん日露戦役に関するいろいろの小事件を記憶している。が、この一対の高張り提灯ほど鮮(あざや)かに覚えているものはない。いや、僕は今日でも高張り提灯を見るたびに婚礼や何かを想像するよりもまず戦争を思い出すのである。

     三五 久井田卯之助

 久井田(ひさいだ)という文字は違っているかもしれない。僕はただ彼のことをヒサイダさんと称していた。彼は僕の実家にいる牛乳配達の一人だった。同時にまた今日ほどたくさんいない社会主義者の一人だった。僕はこのヒサイダさんに社会主義の信条を教えてもらった。それは僕の血肉には幸か不幸か滲(し)み入らなかった。が、日露戦争中の非戦論者に悪意を持たなかったのは確かにヒサイダさんの影響だった。
 ヒサイダさんは五、六年前に突然僕を訪問した。僕が彼と大人(おとな)同士の社会主義論をしたのはこの時だけである。(彼はそれから何か月もたたずに天城山(あまぎさん)の雪中に凍死してしまった)しかし僕は社会主義論よりも彼の獄中生活などに興味を持たずにはいられなかった。
「夏目さんの『行人(こうじん)』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずに膳(ぜん)を下げさせるところがあるでしょう。あすこを牢(ろう)の中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」
 彼は人懐(ひとなつこ)い笑顔(えがお)をしながら、そんなことも話していったものだった。

     三六 火花

 やはりそのころの雨上がりの日の暮れ、僕は馬車通りの砂利道を一隊の歩兵の通るのに出合った。歩兵は銃を肩にしたまま、黙って進行をつづけていた。が、その靴(くつ)は砂利と擦(す)れるたびに時々火花を発していた。僕はこのかすかな火花に何か悲壮な心もちを感じた。
 それから何年かたったのち、僕は白柳(しらやなぎ)秀湖氏の「離愁」とかいう小品集を読み、やはり歩兵の靴から出る火花を書いたものを発見した。(僕に白柳秀湖氏や上司(かみつかさ)小剣氏の名を教えたものもあるいはヒサイダさんだったかもしれない)それはまだ中学生の僕には僕自身同じことを見ていたせいか、感銘の深いものに違いなかった。僕はこの文章から同氏の本を読むようになり、いつかロシヤの文学者の名前を、――ことにトゥルゲネフの名前を覚えるようになった。それらの小品集はどこへ行ったか、今はもう本屋でも見かけたことはない。しかし僕は同氏の文章にいまだに愛惜を感じている。ことに東京の空を罩(こ)める「鳶色(とびいろ)の靄(もや)」などという言葉に。

     三七 日本海海戦

 僕らは皆日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。が、「今日晴朗なれども浪(なみ)高し」の号外は出ても、勝敗は容易にわからなかった。するとある日の午飯(ひるめし)の時間に僕の組の先生が一人、号外を持って教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と声をかけた。この時の僕らの感激は確かにまた国民的だったのであろう。僕は中学を卒業しない前に国木田独歩の作品を読み、なんでも「電報」とかいう短篇にやはりこういう感激を描いてあるのを発見した。
「皇国の興廃この一挙にあり」云々(うんぬん)の信号を掲げたということはおそらくはいかなる戦争文学よりもいっそう詩的な出来事だったであろう。しかし僕は十年ののち、海軍機関学校の理髪師に頭を刈ってもらいながら、彼もまた日露の戦役に「朝日」の水兵だった関係上、日本海海戦の話をした。すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。
「なに、あの信号は始終でしたよ。それは号外にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが」

     三八 柔術

 僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸(はまちょうがし)の大竹という道場へもやはり寒稽古(かんげいこ)などに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投(ともえな)げを食い、向こう側に控えた生徒たちの前へ坐(すわ)っていたことを覚えている。当時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は鳥取(とっとり)の農林学校か何かの教授をしている。僕はそののちも秀才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった。

     三九 西川英次郎

 西川は渾名(あだな)をライオンと言った。それは顔がどことなしにライオンに似ていたためである。僕は西川と同級だったために少なからず啓発を受けた。中学の四年か五年の時に英訳の「猟人日記」だの「サッフォオ」だのを読みかじったのは、西川なしにはできなかったであろう。が、僕は西川には何も報いることはできなかった。もし何か報いたとすれば、それはただ足がらをすくって西川を泣かせたことだけであろう。
 僕はまた西川といっしょに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だったらしい。しかし僕らは大旅行をしても、旅費は二十円を越えたことはなかった。僕はやはり西川といっしょに中里介山氏の「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」に近い丹波山という寒村に泊まり、一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。しかしその宿は清潔でもあり、食事も玉子焼などを添えてあった。
 たぶんまだ残雪の深い赤城山へ登った時であろう。西川はこごみかげんに歩きながら、急に僕にこんなことを言った。
「君は両親に死なれたら、悲しいとかなんとか思うかい?」
 僕はちょっと考えたのち、「悲しいと思う」と返事をした。
「僕は悲しいとは思わない。君は創作をやるつもりなんだから、そういう人間もいるということを知っておくほうがいいかもしれない」
 しかし僕はその時分にはまだ作家になろうという志望などを持っていたわけではなかった。それをなぜそう言われたかはいまだに僕には不可解である。

     四〇 勉強

 僕は僕の中学時代はもちろん、復習というものをしたことはなかった。しかし試験勉強はたびたびした。試験の当日にはどの生徒も運動場でも本を読んだりしている。僕はそれを見るたびに「僕ももっと勉強すればよかった」という後悔を伴った不安を感じた。が、試験場を出るが早いか、そんなことはけろりと忘れていた。

     四一 金

 僕は一円の金を貰(もら)い、本屋へ本を買いに出かけると、なぜか一円の本を買ったことはなかった。しかし一円出しさえすれば、僕が欲(ほ)しいと思う本は手にはいるのに違いなかった。僕はたびたび七十銭か八十銭の本を持ってきたのち、その本を買ったことを後悔していた。それはもちろん本ばかりではなかった。僕はこの心もちの中に中産下層階級を感じている。今日でも中産下層階級の子弟は何か買いものをするたびにやはり一円持っているものの、一円をすっかり使うことに逡巡(しゅんじゅん)してはいないであろうか?

     四二 虚栄心

 ある冬に近い日の暮れ、僕は元町通りを歩きながら、突然往来の人々が全然僕を顧みないのを感じた。同時にまた妙に寂しさを感じた。しかし格別「今に見ろ」という勇気の起こることは感じなかった。薄い藍色に澄み渡った空には幾つかの星も輝いていた。僕はこれらの星を見ながら、できるだけ威張って歩いて行った。

     四三 発火演習

 僕らの中学は秋になると、発火演習を行なったばかりか、東京のある聯隊(れんたい)の機動演習にも参加したものである。体操の教官――ある陸軍大尉はいつも僕らには厳然としていた。が、実際の機動演習になると、時々命令に間違いを生じ、おお声に上官に叱(しか)られたりしていた。僕はいつもこの教官に同情したことを覚えている。

     四四 渾名

 あらゆる東京の中学生が教師につける渾名(あだな)ほど刻薄に真実に迫るものはない。僕はあいにく今日ではそれらの渾名を忘れている。が、今から四、五年前、僕の従姉(いとこ)の子供が一人、僕の家(うち)へ遊びに来た時、ある中学の先生のことを「マッポンがどうして」などと話していた。僕はもちろん「マッポン」とはなんのことかと質問した。
「どういうことも何もありませんよ。ただその先生の顔を見ると、マッポンという気もちがするだけですよ」
 僕はそれからしばらくののち、この中学生と電車に乗り、偶然その先生の風(ふうぼう)に接した。するとそれは、――僕もやはり文章ではとうてい真実を伝えることはできない。つまりそれは渾名どおり、正(まさ)に「マッポン」という感じだった。

(大正十五年三月―昭和二年一月)





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底本:「河童・玄鶴山房」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年11月30日改版初版発行
   1979(昭和54)年9月20日改版14版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:一色伸子
校正:小林繁雄
2001年1月29日公開
2004年3月16日修正
青空文庫作成ファイル:

正岡子規  『九月十四日の朝 病牀に於て』1700字

2008-07-18 13:11:56 | ▽新聞・雑誌
九月十四日の朝
病牀に於て
正岡子規



 朝蚊帳の中で目が覺めた。尚半ば夢中であつたがおい/\といふて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて來た。虚子は看護の爲にゆふべ泊つて呉れたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはづす。此際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く濕ひの無い事を感じたから、用意の爲に枕許の盆に載せてあつた甲州葡萄を十粒程食つた。何ともいへぬ旨さであつた。金莖の露一杯といふ心持がした。斯くてやう/\に眠りがはつきりと覺めたので、十分に體の不安と苦痛とを感じて來た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあつたので、直ちにうちの者に不淨物を取除けさした。余は四五日前より容態が急に變つて、今迄も殆ど動かす事の出來なかつた兩脚が俄に水を持つたやうに膨れ上つて一分も五厘も動かす事が出來なくなつたのである。そろり/\と臑皿の下へ手をあてがうて動かして見やうとすると、大盤石の如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余は屡種々の苦痛を經験した事があるが、此度の様な非常な苦痛を感ずるのは始めてゞある。それが爲に此二三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護旁(かたがた)訪ひ來るなどで、病室には一種不穩の徴を示して居る。昨夜も大勢來て居つた友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節)は歸つてしまうて余等の眠りに就たのは一時頃であつたが、今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同じであるが、昨夜に限つて殆ど間斷なく熟睡を得た爲であるか、精神は非常に安穩であつた。顏はすこし南向きになつたまゝちつとも動かれぬ姿勢になつて居るのであるが、其儘にガラス障子の外を靜かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇つた空は少しの風も無い甚だ靜かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀(よしず)が三枚許り載せてあつて、其東側から登りかけて居る絲瓜は十本程のやつが皆瘠せてしまうて、まだ棚の上迄は得取りつかずに居る。花も二三輪しか咲いてゐない。正面には女郎花が一番高く咲いて、鷄頭は其よりも少し低く五六本散らばつて居る。秋海棠は尚衰へずに其梢を見せて居る。余は病氣になつて以來今朝程安らかな頭を持て靜かに此庭を眺めた事は無い。嗽(うが)ひをする。虚子と話をする。南向ふの家には尋常二年生位な聲で本の復習を始めたやうである。やがて納豆賣が來た。余の家の南側は小路にはなつて居るが、もと加賀の別邸内であるので此小路も行きどまりであるところから、豆腐賣りでさへ此裏路へ來る事は極て少ないのである。それで偶珍らしい飲食商人が這入つて來ると、余は奬勵の爲にそれを買ふてやり度くなる。今朝は珍しく納豆賣りが來たので、邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買ふて居る聲が聞える。余も其を食ひ度いといふのでは無いが少し買はせた。虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、絲瓜の葉が一枚二枚だけひら/\と動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であつた。何だか苦痛極つて暫く病氣を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなつて余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらうた。筆記し了へた處へ母が來て、ソツプは來て居るのぞ〈な〉といふた。


  子規子逝く
九月一九日午前
一時遠逝せり






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底本:「日本の名随筆19 秋」作品社
   1984(昭和59)年5月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第12刷発行
底本の親本:「子規全集 第一二巻」講談社
   1975(昭和50)年10月
入力:渡邉つよし
校正:浦田伴俊
2000年12月12日作成
2005年1月26日修正
青空文庫作成ファイル:

寺田寅彦LIBER STUDIORUM  6000字 

2008-07-18 13:06:07 | ▽新聞・雑誌
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫


LIBER STUDIORUM
寺田寅彦



       一

 震災後復興の第一歩として行なわれた浅草凌雲閣(あさくさりょううんかく)の爆破を見物に行った。工兵が数人かかって塔のねもとにコツコツ穴をうがっていた。その穴に爆薬を仕掛けて一度に倒壊させるのであったが、倒れる方向を定めるために、その倒そうとする方向の側面に穴の数を多くしていた。準備が整って予定の時刻が迫ると、見物人らは一定の距離に画した非常線の外まで退去を命ぜられたので、自分らも花屋敷(はなやしき)の鉄檻(てつおり)の裏手の焼け跡へ行って、合図のラッパの鳴るのを待っていた。その時、一匹の小さなのら犬がトボトボと、人間には許されぬ警戒線を越えて、今にも倒壊する塔のほうへ、そんなことも知らずにうそうそひもじそうに焼け跡の土をかぎながら近寄って行くのが見えた。
 ぱっと塔のねもとからまっかな雲が八方にほとばしりわき上がったと思うと、塔の十二階は三四片に折れ曲がった折れ線になり、次の瞬間には粉々にもみ砕かれたようになって、そうして目に見えぬ漏斗から紅殻色(べんがらいろ)の灰でも落とすようにずるずると直下に堆積(たいせき)した。
 ステッキを倒すように倒れるものと皆そう考えていたのであった。
 塔の一方の壁がサーベルを立てたような形になってくずれ残ったのを、もう一度の弱い爆発できれいにもみ砕いてしまった。
 爆破という言葉はどうしてもあのこわれ方にはふさわしくない。今まで堅い岩でできていたものが、突然土か灰か落雁(らくがん)のようなものに変わってそのままでするするとたれ落ちたとしか思われない。それでもねもとのダイナマイトの付近だけはたしかに爆裂するので、二三百メートルの距離までも豌豆(えんどう)大(だい)の煉瓦(れんが)の破片が一つ二つ飛んで来て石垣(いしがき)にぶつかったのを見た。
 爆破の瞬間に四方にはい出したあのまっかな雲は実に珍しいながめであった。紅毛の唐獅子(からじし)が百匹も一度におどり出すようであった。
 くずれ終わると見物人は一度に押し寄せたが、酔狂な二三の人たちは先を争って砕けた煉瓦の山の頂上へ駆け上がった。中にはバンザーイと叫んだのもいたように記憶する。明治煉瓦時代の最後の守りのように踏みとどまっていた巨人が立ち腹を切って倒れた、その後に来るものは鉄筋コンクリートの時代であり、ジャズ、トーキー、プロ文学の時代である。
 あの時に塔のほうへ近づいて行ったあの小犬はどうしたか。当時を思い出すたびに考えてみるのだが、これはだれに聞いても到底わかりそうもない。
 こんな哀れな存在もあるのである。

       二

 ある日乗り合わせた丸(まる)の内(うち)の電車で、向かい側に腰をかけた中年の男女二人連れがあった。男は洋服を着た魚屋(さかなや)さんとでもいった風体(ふうてい)であり、女はその近所の八百屋(やおや)のおかみさんとでも思われる人がらであった。しかるに二人の話し合っている姿態から顔の表情に至っては全く日本人離れがしている。周囲のおおぜいの乗客はたった今墓場から出て来たような表情であるのに、この二人だけは実に生き生きとしてさも愉快そうに応答している。それが夫婦でもなくもちろん情人でもなく、きわめて平凡なるビジネスだけの関係らしく見えていて、そうしてそれがアメリカの魚屋さんとアメリカの八百屋(やおや)さんのように見えるのが不思議である。
 二人ともにあるいは昔からの活動写真、近ごろの発声映画のファンででもあるかとも考えてみた。そうとでも仮定しなければ他に説明のしかたのないほどに、あく抜けのしたヤンキータイプを見せていた。
 喫茶店(きっさてん)などで見受ける若い男女に活動仕込みの表情姿態を見るのは怪しむまでもないが、これが四十前後の堅気な男女にまで波及して来たのだとすると、これはかなり容易ならぬ事かもしれない。
 天平時代(てんぴょうじだい)の日本の都の男女はやはりこういうふうにして唐(とう)や新羅(しらぎ)のタイプに化して行ったのかもしれない。

       三

 書店の二階の食堂で昼飯を食いながら、窓ガラス越しに秋晴れの空をながめていた。遠くの大きな銀行ビルディングの屋上に若い男が二人、昼休みと見えてブラブラしている。その一人はワイシャツ一つになって体操をしてみたり、駆け足のまねをしてみたり、ピッチャーの様子をしたりしている。もう一人は悠然(ゆうぜん)としてズボンのかくしに手を入れ空を仰いで長嘯(ちょうしょう)漫歩しているふぜいである。空はまっさおに、ビルディングの壁面はあたたかい黄土色に輝いている。
 こういう光景は十年前にはおそらく見られないものであったろう。この二人はやはり時代を代表している。
 ジャズのはやるゆえんである。

       四

 一週に一度永代橋(えいたいばし)を渡って往復する。橋の中ほどから西寄りの所で電車の座席から西北を見ると、河岸(かし)に迫って無骨な巌丈(がんじょう)な倉庫がそびえて、その上からこの重い橋をつるした鉄の帯がゆるやかな曲線を描いてたれ下がっている。この景色がまたなく美しい。線の細かい広重(ひろしげ)の隅田川(すみだがわ)はもう消えてしまった代わりに、鉄とコンクリートの新しい隅田川が出現した。そうしてそれが昔とはちがった新しい美しさを見せているのである。少し霧のかかった日はいっそう美しい。
 邦楽座(ほうがくざ)わきの橋の上から数寄屋橋(すきやばし)のほうを、晴れた日暮れ少し前の光線で見た景色もかなりに美しいものの一つである。川の両岸に錯雑した建物のコンクリートの面に夕日の当たった部分は実にあたたかいよい色をしているし、日陰の部分はコバルトから紫まであらゆる段階の色彩の変化を見せている。それにちりばめた宝石のように白熱燈や紅青紫のネオン燈がともり始める。
 白木屋(しろきや)で七階食堂の西向きの窓から大手町(おおてまち)のほうをながめた朝の景色も珍しい。水平に一線を画した高架線路の上を省線電車が走り、時に機関車がまっ白な蒸気を吐いて通る。それと直交し弓なりに立って見える呉服橋(ごふくばし)通りの道路を、緑色の電車のほかに、白、赤、青、緑のバスが奇妙な甲虫(コレオブテラ)のようにはい上りはいおり行きちがっている。遠くにはお城の角櫓(すみやぐら)が見え、その向こうには大内山(おおうちやま)の木立ちが地平線を柔らかにぼかしている。左のほうには小豆色(あずきいろ)の東京駅が横たわり、そのはずれに黄金色(こがねいろ)の富士が見える。その二つの中間には新議会の塔がそびえている。昔はなかったながめである。百年前に眠ったままで眠り通し、そうして今この窓で目ざめたとしたら……。いつもこんなことを考えながら一杯のコーヒーをすするのである。
 震災前の東京は、高い所から見おろすと、ただ一面に鈍い鉛のような灰色の屋根の海であった。それが、震災後はいったいにあたたかい明るい愉快な色の調子が勝って来た。それと同時にそういう所で仰ぎ見る空の色が以前よりも深く青く見えだしたような気がする。これはコントラストのせいであろう。これほど著しい色彩の変化が都人の心に何かの影響を及ぼさないはずはないという気がする。
 実際は東京の空気は年々に濁るはずである。自動車のガソリンの煙だけでも霧の凝縮核を供給することはたいしたものであろう。寒い曇天無風の夜九段坂上(くだんざかうえ)から下町を見るといわゆるロンドンフォッグを思わせるものがある。これも市民のモーラルを支配しないわけにはゆかないであろう。

       五

 上野(うえの)のデパートメントストアの前を通ったら広小路(ひろこうじ)側の舗道に幕を張り回して、中に人形が動いていた。周囲に往来の人だかりのするのを巡査が制していた。なんとなく直感的にその幕の中には人が死んでいそうな気がしたが、夕刊を見るとやっぱり飛び降り自殺であった。あまり珍しくないそれであった。
 それから数日後にまた同じ屋上庭園から今度は少しばかり前とちがって建物の反対側へ飛んだ女があった。そうして庭園はついに閉鎖された。
 また数日たって某大学の構内を通ったら壮麗な図書館の屋上に立ってただ一人玄関前の噴水池を見おろしている人がある。学生であるか巡視であるか遠いのでよくわからなかったが、少し変な気持ちがした。その後さらに数日たって後、同じ大学の中央にそびえた講堂の三階から飛んだ学生があったという夕刊記事を読んで、また変な気持ちがした。この終わりの自殺者と、前の図書館屋上の人とはおそらくなんの関係もないかもしれないが、しかし自分の頭の中では前後四人の「屋上の人」がちゃんと一つの鎖でつながれている。
 臆病者(おくびょうもの)の常として自分もしばしば高い所から飛びおりることを想像してみることがある。乾坤一擲(けんこんいってき)という言葉はこんな場合に使ってはいけないだろうが、自分にはそういう言葉が適切に思い出される。飛びおりてしまえば自分にはその建物もその所有者も、国土も宇宙も何もかも一ぺんに永久に無くなるのだから、飛ぶ場所の適否の問題も何もないであろうが、他の人にはやっぱり世界は残存しその建物と事件の記憶は残るであろう。
 また数日たって後の雪のふる日、ある婦人がその飼っていた十姉妹(じゅうしまつ)の四羽とも一度に死にかかったのを手のひらへのせて一生懸命火鉢(ひばち)で暖めていた。見ると、もう全く冷たくなってしまっている。しかし、「たとえだめでもそうしないと気がすまない」のだという。「人間が死んだらお経をあげると同じじゃありませんか」とその人はいう。
 こういう唯心論者もまだ少しはいるのである。

       六

 ある大学講堂の前へ突き当たって右の坂道へおりようとする曲がり角(かど)に、パレットナイフのような形の芝生(しばふ)がある。きちょうめんにちゃんと曲がり角を曲がってあるくのと、その芝生の上を踏みにじって行くのとで、歩く距離にすれば三尺とはちがわない。しかし多くの人がその三尺の距離の歩行を節約すると見えて芝生がそこだけ踏みつぶされてかわいそうにはげている。この事を人に話したら、それは設計が悪いのだという。そんな所へ芝生をこしらえるのが間違っていると言われてなるほどそれもそうかと思った。
 上野(うえの)竹(たけ)の台(だい)の入り口に二つ並んで噴水ができた。その周囲の芝生に立ち入るなと書いた明白な立て札はあるが、事実は子供も大供も中供もやはり芝生に立ち入って水の面をのぞかなければ気が済まないのである。これもたしかに設計が悪いと言われなければならないのがいわゆる時代の推移であろう。二十年前だったら、設計も立て札も当然自明的であって、制札を無視するのが没公徳的で悪いのであった。
 自分の郷里では、今は知らず二十年も以前は、婚礼の三々九度の杯をあげている座敷へ、だれでもかまわず、ドヤドヤと上がり込んで、片手には泥(どろ)だらけの下駄(げた)をぶら下げたままで、立ちはだかって花嫁や花婿の鼻の高低目じりの角度を品評した。それを制すれば門の扉(とびら)の一枚ぐらい毀(こぼ)たれても苦情は言えなかった。これはむしろ一九三〇年を通り越していたとも考えられる。
 今度法令が変わると他人の家へうっかり黙ってはいって来るものにはピストルを向けてぶっ放してもいいことになるという話である。これは芝生(しばふ)の場合とは逆の方向への推移である。もっともアフリカ内地へでも行けば、今でも、うっかり国境へ入り込んで視察でもしていたというだけでもすぐ拘禁され、場合によると命があぶない所もあるかもしれない。
 これらの事実の関係ははなはだ錯綜(さくそう)していて、考えても考えても、考えが隠れん坊をして結局わからなくなるのである。時代は進むばかりであとへはもどらないはずであるが、時代の波の位相(フェーズ)のようなものはほぼ同じことを繰り返すのかもしれない。しかしただ繰り返すだけではなくて、やはり何かしらあるものの積分だけは蓄積しているには相違ない。そうしてその積分されたものの掛け値なしの正味はと言えば結局科学の収穫だけではないかという気がする。思想や知恵などという流行物(はやりもの)はどうもいつも一方だけへ進んでいるとは思われない。

       七

 妙な夢を見た。大河の岸に建った家の楼上にいる。どういうわけかはわからないが、この自分はもう数分の後には、別室に入って、自分からは希望しない自殺を決行しなければならないことになっている。その座敷というのがこっちからよく見える。大きな川に臨んだ見晴らしのいいきれいな部屋(へや)で、川向こうに見える山は郷里の記憶に親しいあの山である。だれとも知れず四五人の人々がそばにいておし黙っている。五分、三分、一分いよいよ時刻が迫ったのでずっと席を立ってその別室へはいった。その時までは死ぬことに対しては全く平気でいたのが、そこへすわった瞬間に急に死ぬのがいやになった。それはちょうど大河の堤を切り放したように、生命への欲望が一度に汎濫(はんらん)した。と思うと大きな恐ろしいうなり声のようなものが聞こえて目をさました。
 二三日前にある友人とガリレーやブルノやデカルトの話をした。そうして、学説と生命とを天秤(てんびん)にかけた三人が三様の解決を論じた。その時に頭を往来した重苦しい雲のようなものの中に何かしらこういう夢を見させるものがあったかもしれない。
 ブルノは学問と宗教と生命とを切り離す事ができなかった。デカルトではこれが分化(ディフェレンシエート)されていたように見える。ガリレーはその二人の途中に立って悩んでいたのであろう。
 この夢を見た夜は寝しなに続日本紀(しょくにほんぎ)を読んだ。そうして橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)らの事件にひどく神経を刺激された、そのせいもいくらかあったかもしれない。臆病者(おくびょうもの)はよくこんな夢を見る。

(昭和五年三月、改造)





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底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:

新美南吉  「椋の實の思出」900字

2008-07-18 13:02:50 | ▽新聞・雑誌
椋の實の思出
新美南吉



 それは秋のこと――。丁度尋常五年の今頃だつた。いつもの樣に、背戸川の堤の上に青々と繁つて高く突き立つて居る椋の木に登つて、繁と、正彦と、勝次と、それから僕との四人は樂しく遊んで居た。
 背戸川は長い照りでかんからだつた。川上の方からころがつて來た小さな圓い礫が一ぱい敷きつめてゐる上を、赤とんぼが可愛い影を落しながらスイスイと飛んでゐた。
 皆は何事も忘れて、たゞ椋の實を採る事に夢中だつた。
 小さな青い椋の實を澤山採つてもみがらの中に入れて置くと、丁度霜が下りて寒くなる頃には黒く軟かくなる。竹馬に乘つて日當のいゝお寺の白壁にもたれながら、それを頬張るのはとてもうまい。それで、誰よりも自分が澤山とらうと、成るべく高い成るべく人の行つた事もない枝へ登つて行く。
 小さくて身輕な勝次は今まで誰一人行つた者のないらしい場所に、枝もたはむ程になつてゐる青い椋の木を見つめながら、赤い頬に笑を浮べて叫んだ。「今に見てろ! 俺が誰よりも澤山採つて來るからツ。」それから皆は自分の事をも打忘れ、勝次が夥しい椋の實を貪り採つてゐる嬉しさうな姿を羨しく見つめてゐた。勝次はやがてふつくらとふくらんだ懷をおさへながら、復枝を傳ひかけた。その時の彼の顏は本當に得意さうだつた。が、その時……。みなは齊しく驚きの眼を見張つた。と、その瞬間、彼の身體は毬の樣に下へ落ちて行くのだつた。皆が驚いてやつと木から下りた時には、勝次の身體は冷たい石の上にうつむいて横たはつてゐた。彼の懷からは青い椋の實が四邊へ散りこぼれ出してゐた。
 勝次は足を折つて皆に運ばれ、遂に遠くの病院へかつがれて行つた。そして未だに村へは歸つて來ないのだ。皆が先生に何度もきいた事もあつた。けれどもやつぱり先生も何にも知らないらしい。今は背戸川のかんからの時だ。勝次の懷からこぼれ出たやうな青い椋の實が、今もあの石の四邊には散りこぼれてゐるだらうが、勝次は一體どうしてゐるだらう――。

初出:「柊陵 第九号」
   1928(昭和3)年2月
青空文庫作成ファイル:

新美南吉 椋の實の思出  1000字

2008-07-18 12:59:58 | ▽新聞・雑誌
椋の實の思出
新美南吉



 それは秋のこと――。丁度尋常五年の今頃だつた。いつもの樣に、背戸川の堤の上に青々と繁つて高く突き立つて居る椋の木に登つて、繁と、正彦と、勝次と、それから僕との四人は樂しく遊んで居た。
 背戸川は長い照りでかんからだつた。川上の方からころがつて來た小さな圓い礫が一ぱい敷きつめてゐる上を、赤とんぼが可愛い影を落しながらスイスイと飛んでゐた。
 皆は何事も忘れて、たゞ椋の實を採る事に夢中だつた。
 小さな青い椋の實を澤山採つてもみがらの中に入れて置くと、丁度霜が下りて寒くなる頃には黒く軟かくなる。竹馬に乘つて日當のいゝお寺の白壁にもたれながら、それを頬張るのはとてもうまい。それで、誰よりも自分が澤山とらうと、成るべく高い成るべく人の行つた事もない枝へ登つて行く。
 小さくて身輕な勝次は今まで誰一人行つた者のないらしい場所に、枝もたはむ程になつてゐる青い椋の木を見つめながら、赤い頬に笑を浮べて叫んだ。「今に見てろ! 俺が誰よりも澤山採つて來るからツ。」それから皆は自分の事をも打忘れ、勝次が夥しい椋の實を貪り採つてゐる嬉しさうな姿を羨しく見つめてゐた。勝次はやがてふつくらとふくらんだ懷をおさへながら、復枝を傳ひかけた。その時の彼の顏は本當に得意さうだつた。が、その時……。みなは齊しく驚きの眼を見張つた。と、その瞬間、彼の身體は毬の樣に下へ落ちて行くのだつた。皆が驚いてやつと木から下りた時には、勝次の身體は冷たい石の上にうつむいて横たはつてゐた。彼の懷からは青い椋の實が四邊へ散りこぼれ出してゐた。
 勝次は足を折つて皆に運ばれ、遂に遠くの病院へかつがれて行つた。そして未だに村へは歸つて來ないのだ。皆が先生に何度もきいた事もあつた。けれどもやつぱり先生も何にも知らないらしい。今は背戸川のかんからの時だ。勝次の懷からこぼれ出たやうな青い椋の實が、今もあの石の四邊には散りこぼれてゐるだらうが、勝次は一體どうしてゐるだらう――。





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底本:「校定 新美南吉全集第二巻」大日本図書
   1980(昭和55)年6月30日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年5月20日3刷
初出:「柊陵 第九号」
   1928(昭和3)年2月
入力:高松理恵美
校正:川向直樹
2004年10月30日作成
青空文庫作成ファイル:

高村光太郎  『智恵子の紙絵』1400字

2008-07-18 12:55:30 | ▽新聞・雑誌
智恵子の紙絵
高村光太郎



 精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へんよろこんで其で千羽鶴を折つた。訪問するたびに部屋の天井から下つてゐる鶴の折紙がふえて美しかつた。そのうち、鶴の外にも紙灯籠だとか其他の形のものが作られるやうになり、中々意匠をこらしたものがぶら下つてゐた。すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して見ろといふ風情であつた。紙包をあけると中に色がみを鋏で切つた模様風の美しい紙細工が大切さうに仕舞つてあつた。其を見て私は驚いた。其がまつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしさうに笑つたり、お辞儀をしたりしてゐた。
 その頃は、何でもそこらにある紙きれを手あたり次第に用ゐてゐたのであるが、やがて色彩に対する要求が強くなつたと見えて、いろ紙を持つて来てくれといふやうになつた。私は早速丸の内のはい原へ行つて子供が折紙につかふいろ紙を幾種か買つて送つた。智恵子の「仕事」がそれから始まつた。看護婦さんのいふところによると、風邪をひいたり、熱を出したりした時以外は、毎日「仕事」をするのだといつて、朝からしきりと切紙細工をやつてゐたらしい。鋏はマニキュアに使ふ小さな、尖端の曲つた鋏である。その鋏一挺を手にして、暫く紙を見つめてゐてから、あとはすらすらと切りぬいてゆくのだといふ事である。模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣に於ける色襲ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼りつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。智恵子は触目のものを手あたり次第に題材にした。食膳が出ると其の皿の上のものを紙でつくらないうちは箸をとらず、そのため食事が遅れて看護婦さんを困らした事も多かつたらしい。千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。





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底本:「日本の名随筆68 紙」作品社
   1988(昭和63)年6月25日第1刷発行
   1996(平成8)年8月25日第7刷発行
底本の親本:「智恵子紙絵」筑摩書房
   1979(昭和54)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:

日東駒専=■■大学・◇◇大学・■■大学・◇◇大学

2008-07-18 12:48:26 | ▽新聞・雑誌
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫  宮正孝


日東駒専


日東駒専(にっとうこません)とは、以下の大学群の総称である。

日本大学
東洋大学
駒澤大学
専修大学
目次 [非表示]
1 由来
2 大学間の交流
3 関連項目
4 参考文献
5 外部リンク



由来
大学受験に偏差値が用いられ始めた1960年代にMARCHと同時期に登場した用語である。旧制大学から続く在京私学の中で多方面における実績の割にはあまり知名度が高くなかったこれら4つの大学が、1960年代から学部学科の増設や定員枠の拡大などで急速に規模を拡大させ始めて以来注目を浴び、さらにたまたま偏差値としては近い位置にあったため、旺文社の螢雪時代という受験情報誌の編集長が作り出したという説がもっとも有力視されている。

このほかの説には以下のものがある。

東京都立日比谷高等学校の進路担当教員が、タイプの違う4つの中堅大学を例示する際に使用していたという説
東都大学野球連盟のファンや関係者の間で使われていた東駒戦・日専戦という用語が両国予備校によって受験指導へ転用されたという説
代々木ゼミナールが設立当初から受験指導に用いていたという説
ただし、これら3つの説はいずれも蛍雪時代の誌面に登場する以前に使用していたことを示す文献がなく、俗説として流布しているだけのため、現時点では蛍雪時代発祥説がもっとも有力と見られている。

1980年代の受験参考書では一部で「東」を東海大学としている状況がある。また、「日専東駒」や「日東専駒」などと語順を変えている文献もある。なお、この用語が生まれたとされている螢雪時代および大学関係の記事を1980年代から多く掲載しているサンデー毎日では一貫して「日東駒専」の語順で「東」を東洋大学として扱っている。

また、螢雪時代の記述には、派生系と思われる用語が複数見られるがいずれも数回の出現でその後使用されなくなってしまっていることから定着せずそのまま使用されなくなってしまった。


大学間の交流
もともとはこうした大学受験におけるスラングであり、全く交流のない関係であったが、この4大学がいずれも東都大学野球連盟に加盟しており、また東京箱根間往復大学駅伝競走でも戦前から参戦しているライバル(駒澤大学だけは戦後の参加)であったことから、まず学生スポーツの世界で相互に対抗心を燃やすようになり、そこから学生間の交流へとつながった。さらにそうした学生交流によって、大学間の交流も始まるようになり、現在ではこの4大学は相互に何らかの関係を持つまでになっている。

4大学が全て揃って行われている公的な集会や企画は特にないが、学生サークルのレベルでは中心となっていることが多い。これら4大学が中心となって結成されている学生組織は「東都」を冠していることが多い。


関連項目
学歴
大学群
東都大学野球連盟

参考文献
蛍雪時代(旺文社)各号
YOZEMI Jornal(代々木ゼミナール)各号

外部リンク
「WKMARCH」「日東専駒」「大東亜帝国」から「学ぶ力は生きる力、生きる力は学ぶ力」へ 「日東専駒」命名者
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カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 日本の大学受験




学習月刊誌 【蛍雪時代 VS  高三コース】①~⑩

2008-07-18 12:24:56 | ▽新聞・雑誌
【蛍雪時代 VS  高三コース】 の検索結果 約 178 件

ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫


「蛍雪時代」というネーミング - 時間の外したのが、旺文社の「中一時代」~「蛍雪時代」であり、同様に学研の「中一コース」~「 高三コース」であった。 小学館の月刊誌と違い、付録には組み立て付録みたいなものが付かなくなったのだが、最初はそれがけっこう寂しかった。 ...
blog.goo.ne.jp/banbo1706/e/18cedecd4390cbe0077fc644af90f532 - 48k - キャッシュ - 関連ページ

小学館・学年別月刊誌の付録 - 時間の外高校の頃は「高一時代」~「蛍雪時代」(旺文社)。学研にも「高一コース」~「高三 コース」があったと思う。 今回は「コース」や「時代」ではなく、小学校の頃の小学館の学習月刊誌をとりあげてみたい。 毎号、付録がつく・・というのは、当時の月刊誌の ...
blog.goo.ne.jp/banbo1706/e/4580271de3643a566dc236a489c13177 - 49k - キャッシュ - 関連ページ

昭和37年ブログ 時代とコース(学習雑誌の系譜 2)「科学」と「学習」を出していた学研が、そのままの流れで中高生向に出していたのが、「中一コース」~「高三コース」。 これに対して旺文社が発行していたのが「中一時代」~「蛍雪時代」です。 体裁も内容もまぁ似たり寄ったりだったわけですが、個人的 ...
1962.blog45.fc2.com/blog-entry-45.html - 38k - キャッシュ - 関連ページ

「蛍雪時代」という雑誌を見る機会があり、おもしろそうだなと思ったの ...2007年12月1日 ... そして高校になると「高一時代」「高二時代」と続き高三用に「蛍雪時代」となるわけです。 それに対し学研が発行している学習雑誌もありました。 こちらは「中一コース」 からはじまり 最後「高三コース」までです。 ...
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かつての受験雑誌、時代/コース、今もありますか? -OKWave数十年前、中学、高校生に読まれていた受験雑誌、「蛍雪時代」や「高三コース」を店頭で見かけません。今も、あるのでしょうか?廃刊されたのであれば、いつごろ、どんな理由によるものでしょうか?
okwave.jp/qa3487449.html - 46k - キャッシュ - 関連ページ

OB・OGインタビューでも、漫画研究会(漫研)には入部したいと高校時代から思っていました。当時は『蛍雪 時代』や、今はもう出版されていないかもしれませんが『高三コース』などの受験生向けの月刊誌が発行されていて、そこによく早稲田の漫研が紹介されていたんです。 ...
www.waseda.jp/student/weekly/contents/2007b/137e.html - 11k - キャッシュ - 関連ページ

寺山修司年譜 1936年(昭和11年1月10日)寺山修司は、寺山八郎、ハツの ...中村草田男が選者をしていた『蛍雪時代』の俳句欄に投句。他に、『浪漫飛行』『万緑』『断崖』に投句。 .... 寺山は、『高一コース』や『高三コース』で詩の選者をする。 やがて、その投稿者を集め、『書を捨てよ、町へ出よう』を上演。 ...
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05_03b上の記事の「小学館の学習雑誌」、当時の雑誌付録の制限も合って書店ではなく学校や訪問販売だった学研の「科学」「学習」、中学~高校生向けの学研「中一コース」~「 高三コース」 旺文社の「中一時代~蛍雪時代」といった、その学年ごとに雑誌があった ...
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園子温高校時代の詩『飛び石』園子温のコメント『蛍雪時代』のこの詩は、選者が詩人・山本太郎氏であった。山本氏の選は、常に堅いものが主だったので、 ... この手の詩は、「高三コース」にも多く見受けられ、 次の「ねらい」、「ざわざわ」、「日かげ」、「ねらい」等で若々しくも ...
www.geocities.jp/anchorsline/shi/koukou/tobiisi.html - 3k - キャッシュ - 関連ページ

どの時代のエリック・クラプトンが好き?蛍雪時代... 31 名前: 名盤さん 投稿日: 03/01/17 14:10 ID:6HbAG8VJ: 高三コース; 32 名前: 名盤さん 投稿日: 03/01/17 21:36 ID:6lu5qsuR: このあいだ若い女にDVD 見せたら めがねをかけてないクラプトンってかこいいね と言った・・・・ ...
tv3.2ch.net/musice/kako/1042/10424/1042469072.html - 36k - キャッシュ - 関連ページ



【学び方研究:①~⑩】 の検索結果 約 14万1000 件

2008-07-18 12:18:49 | ▽新聞・雑誌
【学び方研究:①~⑩】 の検索結果 約 14万1000 件

ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫  宮正孝  牧野文治



大学受験・進学60年史プロフィール 戦後教育の総括と将来像を考える(財)日本生涯学習総合研究所 元理事長 旺文社『螢雪時代』 元編集長 (NPO法人)学びの支援コンソーシアム 理事 代田恭之 ... 学び方研究会 〒170-0013 東京都豊島区東池袋2-45-8-702 TEL:03-5960-5660 FAX:03-5960-5661 Eメール: univ60@howtolearn.biz ...
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CiNii - 「学び方」 に関する基礎的研究 : 「日本学び方研究会」の場合「学び方」 に関する基礎的研究 : 「日本学び方研究会」の場合. A Fundamental Study on `How to Learn' : in the Case of `Japan Research ... 1奈良教育大学教育学研究科 2奈良教育大学国語科教育研究室. 1Department of Japanese Language Education, ...
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中学生のひとり学び / 三河学び方研究会/編 - Yahoo!ブックスYahoo!ブックスは、中学生のひとり学び、三河学び方研究会/編をお取扱しています。 情報検索、読者レビュー、書店売上ランキングや、コミックや書籍の購入をご案内している、本の総合サイトです。
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学び方 | 大阪市立大学大学院創造都市研究科(GSCC)大阪市立大学 創造都市研究会e. 学び方. 学び方. ↓ 専攻を選択してください。 ... アントレプレナーシップ研究分野. システム・ソリューション研究分野. アジア・ビジネス研究分野. 都市経済政策研究分野. 都市公共政策研究分野. 都市共生社会研究分野 ...
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Amazon.co.jp: 経営の学び方―マネジメントの学習と研究法 ...Amazon.co.jp: 経営の学び方―マネジメントの学習と研究法 (マネジメント基本全集): 根本 孝, 上村 和申: 本.
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「研究計画書の考え方と方法」の学び方 細川英雄 アクティブ・ウィーク ...2006年10月10日 ... 研究計画書を書き上げるためにもっとも必要なことは何か。自分自身の考えを深化させ,「 研究」の俎上に載せるプロセスをクローズアップ。『研究計画書の考え方と方法』(東京図書)をテキストとして、著者が,その考え方と方法を解説し ...
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明治図書ONLINE 『授業研究21 スペシャルワーク版 学び方技能 ...学び方技能を育てるために、このワークは課題発見→情報収集→情報発信→調べた事柄の検証・話し合い→次の課題への挑戦というプロセスをふんで、問題意識を深めている。
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[PDF] 質的研究の学び方―質的心理学の方法論(4)ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
質的研究の学び方―質的心理学の方法論(4). 企画・司会: 田垣正晋(大阪府立大学). 話題提供者: 田垣正晋(大阪府立大学). 家島明彦(京都大学). 安田裕子(京都大学). 指定討論者: 能智正博(東京大学). 1.企画趣旨. 昨年に引き続き、質的心理学の教育 ...
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公開ワークショップ <認知言語学の学び方5>主催:東京大学・大学院人文社会系研究科言語学研究室 大学院総合文化研究科言語情報科学専攻. 「認知言語学の学び方5」. 日時:2008年5月10日(土)午後1:00 - 4:30. 場所:東京大学・本郷キャンパス(地下鉄丸の内線 本郷三丁目駅下車 ...
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PSJ渋谷研究所X: 学び方に応じた教育方法『ポピュラーサイエンス日本版』から『家電批評monoqlo』と渡り歩く「ニセ科学研究 所」のBLOG.
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蛍雪時代  【ユネスコが提示した4つのグローバル・スタンダード】

2008-07-18 12:06:29 | ▽新聞・雑誌
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」
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調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

旺文社  蛍雪時代 全入時代  赤尾好夫 学研 

【ユネスコが提示した4つのグローバル・スタンダード】





―代田さんは大学入試の名コピーライターとしても知られていますが、どのようなことから始められたのですか。

代田 私が旺文社に入社したのは昭和32年で、受験生のバイブルと言われた『螢雪時代』の編集を長い間やっていました。そんな関係で、「日東専駒」などの造語を、当時の大学受験文化に対する一種の遊び心で作ったのです。大学が大衆化されるなかで人気大学が変わっていくのはなぜだろうかと考えているうちに、出てきたコピーなんです。別に偏差値でグループ分けしたわけではありません。

―時代とともにどのように人気大学が変わってきたのでしょうか。

まず昭和30年代は「WKMARCH」ですね。これは、早稲田・慶應・明治・青山学院・立教・中央・法政の7大学。ちょうど高度成長期突入の時代で、猛烈競争の世の中ですから、受験生もこれらの難関大学に積極的に挑戦していったのです。

昭和40年代になると進学率が上がり、特に女子の進学率の上昇が目立つようになりました。43年の『経済白書』には「国際化」という言葉が初めて登場し、受験生も女子を中心に上智・青山学院・立教といったミッション系に人気が集まりました。海外旅行でJALパックが流行り、受験界では私が言う「JARパック」の人気が高まったのです。

大学の人気に社会状況が反映
―大学受験の動向は社会変化や経済状況に大きな影響を受けているということですね。

代田 そうです。昭和50年代に突入すると、大学数・受験者数ともかなり多くなり、大衆化の兆候を見せ始めました。社会のトレンドは、「脱猛烈、豊かさ志向」に変化し始めています。受験生にも猛烈チャレンジ志向から実力相応校を受ける、いわゆる"フィットネス志向"が強まりました。そこで「日東専駒」が出てきました。正確に言うと、「日東専駒成成神」(日大・東洋大・専修大・駒沢大・成蹊大・成城大・神奈川大)です。

平成の時代になると、大学数も受験者数も急増し、大学受験はまさに大衆化、成熟化に拍車がかかりました。平成元年の『経済白書』の表題は、「平成経済の門出と日本経済の新しい潮流」です。受験界にも新しい潮流、トレンドが現れ、"楽(らく)して楽しむ豊饒時代"の志向が強くなりました。受験生の大学に対する意識は大きく変わり、大学をイメージ商品に近い感覚で選択するようになりました。人気大学としては「大東亜帝国」(大東文化大・東海大・亜細亜大・帝京大・国士舘大)グループが浮上しました。

受験生が「RENTAL症候群」に
―そういう受験生の意識変化に対して、どのような感想を持ちましたか。

代田 社会でも"レンタル"が流行り始めた時期でしたが、受験生の大学選択の基準もアスピレーションの冷却による借り物的になりましたね。

そこで受験生の行動基準を「RENTAL症候群」というネーミングにしたわけです。RはRiskless(危険回避・安全志向)、EはEnergy-saving('省力)、NはNearby(近場志向)、TはTogetherness(均質集団同一行動=輪切り出願)、AはAmenity(快適志向)、LはLooks&Location(見栄えと立地条件)ということです。

多くの受験生に、没自我、没個性、無目的、無感動、安全志向、挑戦回避などの傾向が強くなった、というのが私の実感です。

―その後の動きについてはどうでしょうか。

代田 大学受験者数は平成4年をピークに減少期に入りました。大学は広き門になり、受験生が大学を選び、学生が大学の主人公になる「受験生消費者」「学生消費者」「The Buyers'Market」の時代に向かっています。すでに短大を中心に定員割れになっているところもあります。今後、大学間では減少する受験生のパイをめぐり、熾烈な奪い合いが展開される一方、"偏差値崩壊"が進んでいるのも事実です。

ユネスコの「学びの四本柱」
―このような時代に、どのような視点を持つべきでしょうか。

代田 やはり大切なのは、学びの原点に立ち返ることだと思います。ユネスコの『21世紀教育国際委員会報告書』では21世紀教育のキーワードを「生涯学習」として、学びの四本柱を具体的に示しています。つまり、「知ることを学ぶ」(learning to know)、「為すことを学ぶ」(learning to do)、「共に生きることを学ぶ」(learning to live together)、「人間として生きることを学ぶ」(learning to be)です。私は、大変感銘を受けました。

現在の教育荒廃の一因は、明治以来の学制を踏襲した学校教育の制度疲労、と言ってもいいのではないでしょうか。"20世紀の特急教育号"は脱線したのです。しかも、いじめや学級崩壊などのきわめて憂慮すべき問題が未解決のまま21世紀に先送りされようとしています。ユネスコが提示した4つのグローバル・スタンダードについては、今後の我が国の教育改革でも真剣に考えて欲しいものです。

生涯学習の視点からの大学選び
―生涯学習の立場から見たとき、大学進学はどう考えられるでしょうか。

代田 私が『螢雪時代』に携わっていたころは、大学進学と言えば18歳受験者が中心で、しかも偏差値による大学選びが主流でした。とにかく大学に入学して卒業すればよしとする"大学一回通過型"が特色でした。

しかし、いま人々は心の豊かさや生きがい、そして新しい知識・技術の習得やリフレッシュを本格的に求め始めています。生涯にわたって学び続ける「生涯現役学習社会」の到来です。

私は、若者に対して、生涯学習の視点に立って将来の進路を考えるように訴えています。たとえばこれからの大学などにおける学習は、"一回完結型""一回洗礼型"で終わるものではなく、社会人になっても必要に応じ、再三再四、大学に戻る"リカレント型"になります。ですから、大学入試にあたっては、偏差値に縛られたり、極度の緊張や縮み志向にとらわれることなく、もっとグローバルな視点とゆとりのマインドで志望校を選択すること、そして学力については生涯にわたって学習を続けるための基礎・基本として確実なものにしておくこと、などをアドバイスしているのです。

最後に、「生きることは学ぶこと、学ぶことは生きること。生きることと学ぶこと―それはあざなえる縄のごとし」という言葉を贈ります。


『NEXUS』誌より引用
記事掲載時の代田氏の肩書きは「(財)日本生涯学習総合研究所専務理事」











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【補足】
昭和50年代後半、首都圏の私立人気女子大として、
津田の東の本女にはセイント・フェリスの泉あり。大妻・実践・共立の昭和女の白百合は武蔵野跡に咲き乱る
(代田氏創作)
が流行したことを補足しておきたい。
(津田塾大・東京女子大・日本女子大・聖心女子大・フェリス女学院大・清泉女子大・大妻女子大・実践女子大・共立女子大・昭和女子大・白百合女子大・武蔵野女子大・跡見学園女子大<当時の大学名>)

本女…ぽんじょ
昭和女…しょうわむすめ



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代田氏へのお問い合わせは下記まで
学び方研究会
〒170-0013 東京都豊島区東池袋2-45-8-702
TEL:03-5960-5660 FAX:03-5960-5661 Email: univ60@howtolearn.biz



大学受験年鑑:①~⑩】

2008-07-18 11:04:42 | ▽新聞・雑誌
【大学受験年鑑:①~⑩】 の検索結果 約 9万7700 件

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セブンアンドワイ - 本 - 全国短大&専門学校受験年鑑 最新 2008年 ...全国短大&専門学校受験年鑑 最新 2008年入試用 ... 短期大学入試データ(平成20 年新設短大、新設学科情報平成19年度短大・学科・専攻別入試競争率一覧平成19年度短大学費一覧) 2008(平成20)年度専門学校入試ガイド(専門学校各種学校 ...
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【楽天市場】私立中学校・高等学校受験年鑑(2007年度版):楽天ブックス私立中学校・高等学校受験年鑑(2007年度版)(私立中学校・高等学校受験年鑑(2007 年度版)) ... (男子校/女子校 ほか)/4 付属校・大学受験校別目次―大学・短大へは付属校から進学?それとも大学受験をしますか?(併設(系列)大学がある学校/ ...
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大学通信|「大学・短大ホームページ完全NAVI」プレゼントコーナー高等学校. ご希望の書籍の チェックボックスを クリックしてください (複数選択可), 君はどの大学を選ぶべきか. 国公私立大・短大受験年鑑 2009 君はどの大学を選ぶべきか. 【2008年3月3日発行 (B6判・972ページ)】 ...
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雑誌詳細表示4, 2007年11月・臨時増刊, 2007年11月25日, 全国大学 受験年鑑/駿台・河合塾・ 代ゼミ 大学合格難易度データ/合格の ... 5, 2007年10月・臨時増刊, 2007年10 月30日, 全国看護・医療・福祉系大学・短大専門学校受験年鑑/最新情報大学・ ...
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[ 夢を叶える大学 :①~⑩]

2008-07-18 11:02:08 | ▽新聞・雑誌
[ 夢を叶える大学 :①~⑩]の検索結果 約 12万4000 件

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進路 » 先生への夢をかなえる大学進学長尾谷高等学校は通信制の単位制高校です。自由な時間で高卒資格が取得できます。 通学区域は、大阪府・京都府・奈良県・兵庫県・滋賀県です。
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マイナビ進学 - goo カテゴリー検索go.jp/ 日本史を効率的に学ぶなら カリスマ日本史講師の超速DVD教材 無料サンプル・ 動画サンプル有 ureshino.ocnk.net 大学情報ならマイナビ進学 学びたい学問・なりたい仕事・ とりたい資格-夢を叶える大学は?shingaku.mynavi.jp/ 1位 名大日本史研究室 ...
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【楽天市場】君はどの大学を選ぶべきか(2009):楽天ブックス夢をかなえる大学選びを応援。511校(国公立含む)の内容ガイド。 【目次】(「BOOK」 データベースより) 1 解説編―大学・短大入試情報満載!(大学受験入門講座/ランキングに見る大学評価/偏差値30台からの逆転合格/資格取得、4年制大学への編 ...
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教育方針|早稲田ゼミナール大学入試を取巻く環境が変化し、大学受験はより自分の夢を叶える大学への入学に重きがおかれるようになっています。早稲田ゼミナールの生徒一人ひとりを大切にするサポート体制は、そんな受験生たちの目標を叶える、大きな支えになると確信しています。 ...
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セブンアンドワイ ヤフー店 君はどの大学を選ぶべきか 国公私立大 ...夢をかなえる大学選びを応援。523校(国公立含む)の内容ガイド。 目次. 1 解説編―大学・短大入試情報満載!(全国260校著名進学校の進路指導が予測する2007 年入試新課程入試2年目、大学・短大全入時代到来で2007年入試はどう変わるか! ...
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Amazon.co.jp: 君はどの大学を選ぶべきか 内容案内編〈2007〉―国公 ...カレンダー 動物、アート、コミックからSEXYまで、2009年版カレンダー続々入荷中! 人気輸入版カレンダー【15~20%OFFセール】実施中。 商品の説明. 内容(「BOOK」 データベースより) 夢をかなえる大学選びを応援。523校(国公立含む)の内容ガイド。 ...
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奈良佐保短期大学|大学・短期大学・専門学校情報[進学の森]介護・栄養・幼児教育の資格取得ナラサホは“夢”をかなえる大学 ●世界遺産の地「奈良」 の恵まれた環境の中で、豊かな人格を形成するとともに、資格取得のための知識と技術を深めます。 ●過去4年間の就職率は100%。そのほとんどが、資格を生かした職場で ...
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多摩大学 || News Room : Media Clipping2006年3月1日水曜日大学通信発行の『君はどの大学を選ぶべきか 内容案内編「夢を かなえる大学選びを応援」』に学科・入試・イベント情報が掲載されました。(広告). 前のページへ戻る. このページの先頭へ. 本文の終わりです。 ...
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堀辰雄 [ 大和路・信濃路]でだしのみ掲載!!!

2008-07-18 10:49:18 | ▽新聞・雑誌
大和路・信濃路
堀辰雄



  樹下


 その藁屋根(わらやね)の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径(こみち)のかたわらに、一体の小さな苔蒸(こけむ)した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。いずれ観音像かなにかだろうし、しおらしいなどとはもってのほかだが、――いかにもお粗末なもので、石仏といっても、ここいらにはざらにおる脆(もろ)い焼石、――顔も鼻のあたりが欠け、天衣(てんね)などもすっかり磨滅し、そのうえ苔がほとんど半身を被(おお)ってしまっているのだ。右手を頬にあてて、頭を傾(かし)げているその姿がちょっとおもしろい。一種の思惟象(しゆいぞう)とでもいうべき様式なのだろうが、そんなむずかしい言葉でその姿を言いあらわすのはすこしおかしい。もうすこし、何んといったらいいか、無心な姿勢だ。それを拝しながら過ぎる村人たちだって、彼等の日常生活のなかでどうかした工合でそういった姿勢をしていることもあるかも知れないような、親しい、なにげなさなのだ。……そんな笹むらのなかの何んでもない石仏だが、その村でひと夏を過ごしているうちに、いつかその石仏のあるあたりが、それまで一度もそういったものに心を寄せたことのない私にも、その村での散歩の愉(たの)しみのひとつになった。ときどきそこいらの路傍から採ってきたような可憐な草花が二つ三つその前に供えられてあることがある。村の子供らのいたずららしい。が、そんなのではない、もうすこしちゃんとした花が供えられ、お線香なども上がっていたことも、その夏のあいだに二三度あった。

    

「お寺の裏の笹むらのなかに、こう、ちょっとおもしろい恰好(かっこう)をした石仏があるでしょう? あれはなんでしょうか?」夏の末になって、私はその寺のまだ四十がらみの、しかしもう鋭く痩(や)せた住職からいろいろ村の話を聴いたあとで、そう質問をした。
「さあ、わたしもあの石仏のことは何もきいておりませんが、どういう由緒のものですかな。かたちから見ますと、まあ如意輪観音(にょいりんかんのん)にちかいものかと思いますが。……何しろ、ここいらではちょっと類のないもので、おそらく石工がどこかで見覚えてきて、それを無邪気に真似でもしたのではないでしょうか?……」
「そういうこともあるんですか? それはいい。……」私にはその説がすっかり気に入った。たしかに、その像をつくったものは、その形相の意味をよく知っていてそう造ったのではない。ただその形相そのものに対する素朴な愛好からそういうものを生んだのだ。そうしてその故に、――そこにまだわずかにせよ残っているかも知れない原初の崇高な形相にまで、私のようなものの心をあくがれしめるのであろうか? こんないかにもなにげない像ですら。……
「ときどきお花やお線香などが上がっているようですが、村の人たちはあの像にも何か特別な信仰をもっているのですか?」
 最後に私はそんなこともきいてみた。
「さあ、それもいつごろからの事だか知りませんけれど、わりに近頃になってからだそうですが、歯を病む子をつれて、村の年よりどもがよく拝みに来ます。」そういってその住職は笑った。
「あの指先で頬を支えている思惟の相が、村びとにはなんのことやら分からなくって、いつかそんな俗信を生むようになったと見えますな。」
「それはいくら何んでも……」そう言いかけたが、しかしそのまま私は口をつぐんで、これから秋になって、夜ごとに虫がすだいて啼(な)きはじめるあの笹むらのなかで、相変らず、じいっと小さな頭を傾げているだろうその無心そうな像を、ふいと目のうちに蘇(よみがえ)らせた。いつのまにこの像がこんなに自分にとって親しみのあるものになってしまったのだろうと訝(いぶか)りながら。……

    

 それから数年立って、私もときどき大和のほうへ出かけては、古い寺や名だかい仏像などを見て歩いたりするようになったが、そんな旅すがら、路傍などによく見かける名もない小さな石仏のようなものにも目を止めるようにしていた。そういうものの中には私の心を惹(ひ)くようなものもかなりあるにはあったが、数年前信濃の山のべの村で見つけたあんなような味わいのあるものは一つも見出せなかった。そして、私はときどきあの笹むらのなかで小さな頭を傾げていた観音像を好んで思いだしていた。もとより旅にあってはほどよく感傷的になるのも好いとおもっている私のことだから、それが単なる自己の感傷に過ぎなくても、それもそれで好いとおもっていた。
 云ってみれば、それはそれまで何年かその山ちかい村で孤独に暮らしていた自分をもその一部とした信濃そのものに対する一種のなつかしさでもあろうし、又、こうやって大和の古びた村々をひとりでさまよい歩いているいまの自分の旅すがたは旅すがたで、そんな数年前の何か思いつめていたような自分がそういったはかないものにまで心を寄せながら、いつかそれを通してひそかにあくがれていたものでもあったのであろう。ともかくも、その笹むらのなかの小さな思惟像は、何かにつけて、旅びとの私にはおもい出されがちだった。

    

 或る秋の日にひとりで心ゆくまで拝してきた中宮寺(ちゅうぐうじ)の観音像。――その観音像の優しく力づよい美しさについては、いまさら私なんぞの何もいうことはない。ただ、この観音像がわれわれをかくも惹きつけ、かくも感嘆せしめずにはおかない所以(ゆえん)の一つは、その半跏思惟(はんかしゆい)の形相そのものであろうと説かれた浜田博士の闊達(かったつ)な一文は私の心をいまだに充たしている。その後も、二三の学者のこの像の半跏思惟の形の発生を考察した論文などを読んだりして、それがはるかにガンダラの樹下思惟像あたりから発生して来ているという説などもあることを知り、私はいよいよ心に充ちるものを感じた。
 あのいかにも古拙(アルカイック)なガンダラの樹下思惟像――仏伝のなかの、太子が樹下で思惟三昧(しゆいざんまい)の境にはいられると、その樹がおのずから枝を曲げて、その太子のうえに蔭をつくったという奇蹟を示す像――そういう異様に葉の大きな一本の樹を装飾的にあしらった、浅浮彫りの、数箇の太子思惟像の写真などをこの頃手にとって眺めたりしているときなど、私はまた心の一隅であの信濃の山ちかい村の寺の小さな石仏をおもい浮かべがちだった。

    

 一つの思惟像(しゆいぞう)として、瞑想(めいそう)の頬杖をしている手つきが、いかにも無様(ぶざま)なので、村人たちには怪しい迷信をさえ生じさせていたが、――そのうえ、鼻は欠け落ち、それに胸のあたりまで一めんに苔(こけ)が生えていて、……そういえば、そんなにそれが苔づくほど、その石仏のあるあたりは、どんな夏の日ざかりにもいつも何かひえびえとしていて、そこいらまで来ると、ふいと好い気もちになってひとりでに足も止まり、ついそのままそこの笹むらのなかの石仏の上へしばらく目を憩わせる。と、苔の肌はしっとりとしている。ちょっとそれを撫でてみたくなるような見事さで。――そう、いまのいままでそれに気がつかなかったのは、いや、気がついていてもそれを何とも思わずにいたのは随分迂闊(うかつ)だが、あそこは何かの大きな樹の下だったにちがいない。――すこし離れてみなければ、それが何んの樹だかも分からないほどの大きな樹だったのだ。あの頬杖をしている小さな石仏のうえにちらちらしていた木洩れ日も、よほど高いところから好い工合に落ちてきていたので、あんなに私を夢み心地にさせたのだったろう。
 あれは一体、何んの樹だったのだろうか?……そんなことをおもいながら、私はふと樹下思惟という言葉を、その言葉のもつ云いしれずなつかしい心像を、身にひしひしと感じた。あれは一体、何んの樹? ……だが、あの大きな樹の下で、ひとり静かに思惟にふけっていたもの――それはあの笹むらのなかに小さな頭を傾(かし)げていた石仏だったろうか? それとも、それに見入りながらその怪しげな思惟像をとおしてはるか彼方のものに心を惹(ひ)かれていた私のほうではなかったろうか?
 それにしても、あそこには、――あの何やらメエルヘンめいた石仏の前には、いまだにあの愚かな村びとどもの香花が絶えないだろうか? 子供たちがそこいらの路傍から摘んでくるかわいらしい草花だけならいいが……


  十月


   一


一九四一年十月十日、奈良ホテルにて
 くれがた奈良に著いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭(ひげ)を剃(そ)ることにした。


十月十一日朝、ヴェランダにて
 けさは八時までゆっくりと寝た。あけがた静かで、寝心地はまことにいい。やっと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池(あらいけ)に面していることだけは分かったが、向う側はまだぼおっと濃い靄(もや)につつまれているっきりで、もうちょっと僕にはお預けという形。なかなかもったいぶっていやあがる。さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出来るか、なんだかこう仕事を目の前にしながら嘘みたいに愉(たの)しい。きょうはまあ軽い小手しらべに、ホテルから近い新薬師寺ぐらいのところでも歩いて来よう。


夕方、唐招提寺にて
 いま、唐招提寺(とうしょうだいじ)の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれてゐるに馬酔木(あしび)かな」という秋桜子(しゅうおうし)の句などを口ずさんでいるうちに、急に矢(や)も楯(たて)もたまらなくなって、此処に来てしまった。いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦(やねがわら)の上にも、丹(に)の褪(さ)めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽(さわ)やかさだ。此処こそは私達のギリシアだ――そう、何か現世にこせこせしながら生きているのが厭(いや)になったら、いつでもいい、ここに来て、半日なりと過ごしていること。――しかし、まず一番先きに、小説なんぞ書くのがいやになってしまうことは請合いだ。……はっはっは、いま、これを読んでいるお前の心配そうな顔が目に見えるようだよ。だが、本当のところ、此処にこうしていると、そんなはかない仕事にかかわっているよりか、いっそのこと、この寺の講堂の片隅に埃(ほこり)だらけになって二つ三つころがっている仏頭みたいに、自分も首から上だけになったまま、古代の日々を夢みていたくなる。……
 もう小一時間ばかりも松林のなかに寝そべって、そんなはかないことを考えていたが、僕は急に立ちあがり、金堂(こんどう)の石壇の上に登って、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたっている。そしてそこには殆ど色の褪めてしまった何かの花の大きな文様(もよう)が五つ六つばかり妙にくっきりと浮かび出ている。そんな花文のそこに残っていることを知ったのはそのときがはじめてだった。いましがた松林の中からその日のあたっている扉のそのあたりになんだか綺麗な文様らしいものの浮き出ているのに気がつき、最初は自分の目のせいかと疑ったほどだった。――僕はその扉に近づいて、それをしげしげと見入りながらも、まだなんとなく半信半疑のまま、何度もその花文の一つに手でさわってみようとしかけて、ためらった。おかしなことだが、一方では、それが僕のこのとききりの幻であってくれればいいというような気もしていたのだ。そのうちそこの扉にさしていた日のかげがすうと立ち去った。それと一しょに、いままで鮮やかに見えていたそのいくつかの花文も目のまえで急にぼんやりと見えにくくなってしまった。


樋口一葉   わかれ道

2008-07-11 09:53:14 | ▽新聞・雑誌
わかれ道
樋口一葉



       上

 お京(きやう)さん居ますかと窓の戸の外に來て、こと/\と羽目を敲(たゝ)く音のするに、誰れだえ、もう寐て仕舞つたから明日來てお呉れと嘘を言へば、寐たつて宜いやね、起きて明けてお呉んなさい、傘屋の吉だよ、己(お)れだよと少し高く言へば、嫌な子だね此樣な遲くに何を言ひに來たか、又お餅(かちん)のおねだりか、と笑つて、今あけるよ少時(しばらく)辛棒おしと言ひながら、仕立かけの縫物に針どめして立つは年頃二十餘りの意氣な女、多い髮の毛を忙しい折からとて結び髮にして、少し長めな八丈の前だれ、お召の臺なしな半天を着て、急ぎ足に沓脱(くつぬぎ)へ下りて格子戸に添ひし雨戸を明くれば、お氣の毒さまと言ひながらずつと這入るは一寸法師(いつすんぼし)と仇名のある町内の暴れ者、傘屋の吉とて持て餘しの小僧なり、年は十六なれども不圖見る處は一か二か、肩幅せばく顏小さく、目鼻だちはきり/\と利口らしけれど何(いか)にも脊の低くければ人嘲けりて仇名はつけゝる。御免なさい、と火鉢の傍へづか/\と行けば、御餅を燒くには火が足らないよ、臺處の火消壺から消し炭を持つて來てお前が勝手に燒いてお喰べ、私は今夜中に此れ一枚(ひとつ)を上げねば成らぬ、角の質屋の旦那どのが御年始着だからとて針を取れば、吉はふゝんと言つて彼の兀頭(はげあたま)には惜しい物だ、御初穗(おはつう)を我(お)れでも着て遣らうかと言へば、馬鹿をお言ひで無い人のお初穗を着ると出世が出來ないと言ふでは無いか、今つから延びる事が出來なくては仕方が無い、其樣な事を他處の家でもしては不用(いけない)よと氣を付けるに、己れなんぞ御出世は願はないのだから他人の物だらうが何だらうが着かぶつて遣るだけが徳さ、お前さん何時か左樣言つたね、運が向く時に成ると己れに糸織の着物をこしらへて呉れるつて、本當に調(こしら)へて呉れるかえと眞面目だつて言へば、夫れは調らへて上げられるやうならお目出度のだもの喜んで調らへるがね、私が姿を見てお呉れ、此樣な容躰で人さまの仕事をして居る境界では無からうか、まあ夢のやうな約束さとて笑つて居れば、いゝやな夫れは、出來ない時に調らへて呉れとは言は無い、お前さんに運の向いた時の事さ、まあ其樣な約束でもして喜ばして置いてお呉れ、此樣な野郎が糸織ぞろへを冠つた處がをかしくも無いけれどもと淋しさうな笑顏をすれば、そんなら吉ちやんお前が出世の時は私にもしてお呉れか、其約束も極めて置きたいねと微笑んで言へば、其(そい)つはいけない、己れは何うしても出世なんぞは爲ないのだから。何故/\。何故でもしない、誰れが來て無理やりに手を取つて引上げても己れは此處に斯うして居るのが好いのだ、傘屋の油引きが一番好いのだ、何うで盲目縞の筒袖に三尺を脊負つて産(で)て來たのだらうから、澁(しぶ)を買ひに行く時かすりでも取つて吹矢(ふきや)の一本も當りを取るのが好い運さ、お前さんなぞは以前(もと)が立派な人だと言ふから今に上等の運が馬車に乘つて迎ひに來やすのさ、だけれどもお妾に成ると言ふ謎では無いぜ、惡く取つて怒つてお呉んなさるな、と火なぶりをしながら身の上を歎くに、左樣さ馬車の代りに火の車でも來るであらう、隨分胸の燃える事が有るからね、とお京は尺(ものさし)を杖に振返りて吉三が顏を守りぬ。
 例(いつも)の如く臺處から炭を持出して、お前は喰ひなさらないかと聞けば、いゝゑ、とお京の頭をふるに、では己ればかり御馳走さまに成らうかな、本當に自家(うち)の吝嗇(けちん)ぼうめ八釜しい小言ばかり言やがつて、人を使ふ法をも知りやがらない、死んだお老婆(ばあ)さんは彼んなのでは無かつたけれど、今度の奴等と來たら一人として話せるのは無い、お京さんお前は自家(うち)の半次さんを好きか、隨分厭味に出來あがつて、いゝ氣の骨頂の奴では無いか、己れは親方の息子だけれど彼奴ばかりは何うしても主人とは思はれない番ごと喧嘩をして遣り込めてやるのだが隨分おもしろいよと話しながら、鐵網(かなあみ)の上へ餅をのせて、おゝ熱々と指先を吹いてかゝりぬ。
 己れは何うもお前さんの事が他人のやうに思はれぬは何ういふ物であらう、お京さんお前は弟といふを持つた事は無いのかと問はれて、私は一人娘(ご)で同胞(きやうだい)なしだから弟にも妹にも持つた事は一度も無いと言ふ、左樣かなあ、夫れでは矢張何でも無いのだらう、何處からか斯うお前のやうな人が己れの眞身の姉さんだとか言つて出て來たら何んなに嬉しいか、首つ玉へ噛り付いて己れは夫れ限り往生しても喜ぶのだが、本當に己れは木の股からでも出て來たのか、遂ひしか親類らしい者に逢つた事も無い、夫れだから幾度も幾度も考へては己れは最う一生誰れにも逢ふ事が出來ない位なら今のうち死んで仕舞つた方が氣樂だと考へるがね、夫れでも欲があるから可笑しい、ひよつくり變てこな夢何かを見てね、平常(ふだん)優しい事の一言も言つて呉れる人が母親(おふくろ)や父親(おやぢ)や姉さんや兄さんの樣に思はれて、もう少し生て居たら誰れか本當の事を話して呉れるかと樂しんでね、面白くも無い油引きをやつて居るが己れみたやうな變な物が世間にも有るだらうかねえ、お京さん母親も父親も空つきり當が無いのだよ、親なしで産れて來る子があらうか、己れは何うしても不思議でならない、と燒あがりし餅を兩手でたゝきつゝ例(いつ)も言ふなる心細さを繰返せば、夫れでもお前笹づる錦の守り袋といふ樣な證據は無いのかえ、何か手懸りは有りさうな物だねとお京の言ふを消して、何其樣な氣の利いた物は有りさうにもしない生れると直さま橋の袂の貸赤子に出されたのだなどゝ朋輩の奴等が惡口をいふが、もしかすると左樣かも知れない、夫れなら己れは乞食の子だ、母親(おふくろ)も父親(おやぢ)も乞食かも知れない、表を通る襤褸(ぼろ)を下げた奴が矢張己れが親類まきで毎朝きまつて貰ひに來る跣跋(びつこ)片眼(めつかち)の彼の婆あ何かゞ己れの爲の何に當るか知れはしない、話さないでもお前は大底しつて居るだらうけれど今の傘屋に奉公する前は矢張己れは角兵衞の獅子を冠つて歩いたのだからと打しをれて、お京さん己れが本當に乞食の子ならお前は今までのやうに可愛がつては呉れないだらうか、振向いて見ては呉れまいねと言ふに、串戲をお言ひでないお前が何のやうな人の子で何んな身か夫れは知らないが、何だからとつて嫌やがるも嫌やがらないも言ふ事は無い、お前は平常の氣に似合ぬ情ない事をお言ひだけれど、私が少しもお前の身ならでも乞食でも構ひはない、親が無からうが兄弟が何うだらうが身一つ出世をしたらば宜からう、何故其樣な意氣地なしをお言ひだと勵ませば、己れは何うしても駄目だよ、何にも爲やうとも思はない、と下を向いて顏をば見せざりき。

       中

 今は亡(う)せたる傘屋の先代に太つ腹のお松とて一代に身上をあげたる、女相撲のやうな老婆(ばゝ)さま有りき、六年前の冬の事寺參りの歸りに角兵衞の子供を拾ふて來て、いゝよ親方から八釜(やかま)しく言つて來たら其時の事、可愛想に足が痛くて歩かれないと言ふと朋輩の意地惡が置ざりに捨てゝ行つたと言ふ、其樣な處へ歸るに當るものか少(ちつ)とも怕(おつ)かない事は無いから私が家に居なさい、皆も心配する事は無い何の此子位のもの二人や三人、臺所へ板を並べてお飯(まんま)を喰べさせるに文句が入る物か、判證文を取つた奴でも欠落(かけおち)をするもあれば持逃げの吝な奴もある、了簡次第の物だわな、いはゞ馬には乘つて見ろさ、役に立つか立たないか置いて見なけりや知れはせん、お前新網へ歸るが嫌やなら此家(こゝ)を死場と極めて勉強をしなけりやあ成らないよ、しつかり遣つてお呉れと言ひ含められて、吉や/\と夫れよりの丹精今油ひきに、大人三人前を一手に引うけて鼻唄交り遣つて退ける腕を見るもの、流石に眼鏡と亡き老婆(ひと)をほめける。
 恩ある人は二年目に亡せて今の主も内儀樣も息子の半次も氣に喰はぬ者のみなれど、此處を死場と定めたるなれば厭やとて更に何方(いづかた)に行くべき、身は疳癪に筋骨つまつてか人よりは一寸法師一寸法師と誹(そし)らるゝも口惜しきに、吉や手前は親の日に腥(なまぐ)さを喰(やつ)たであらう、ざまを見ろ廻りの廻りの小佛と朋輩の鼻垂れに仕事の上の仇を返されて、鐵拳(かなこぶし)に張たほす勇氣はあれど誠に父母いかなる日に失せて何時を精進日とも心得なき身の、心細き事を思ふては干場の傘のかげに隱くれて大地を枕に仰向(あふの)き臥してはこぼるゝ涙を呑込みぬる悲しさ、四季押とほし油びかりする目くら縞の筒袖を振つて火の玉の樣な子だと町内に怕がられる亂暴も慰むる人なき胸ぐるしさの餘り、假にも優しう言ふて呉れる人のあれば、しがみ附いて取ついて離れがたなき思ひなり。仕事屋のお京は今年の春より此裏へと越して來し物なれど物事に氣才(きさい)の利きて長屋中への交際もよく、大屋なれば傘屋の者へは殊更に愛想を見せ、小僧さん達着る物のほころびでも切れたなら私の家へ持つてお出、お家は御多人數お内儀さんの針もつていらつしやる暇はあるまじ、私は常住仕事疊紙(たゝう)と首つ引の身なれば本の一針造作は無い、一人住居の相手なしに毎日毎夜さびしくつて暮して居るなれば手すきの時には遊びにも來て下され、私は此樣ながら/\した氣なれば吉ちやんの樣な暴れ樣(さん)が大好き、疳癪がおこつた時には表の米屋が白犬を擲(は)ると思ふて私の家の洗ひかへしを光澤出(つやだ)しの小槌に、碪(きぬた)うちでも遣りに來て下され、夫れならばお前さんも人に憎くまれず私の方でも大助かり、本に兩爲(りやうだめ)で御座んすほどにと戲言まじり何時となく心安く、お京さんお京さんとて入浸るを職人ども翻弄(からかひ)ては帶屋の大將のあちらこちら、桂川(かつらがは)の幕が出る時はお半の脊中(せな)に長右衞門と唱はせて彼の帶の上へちよこなんと乘つて出るか、此奴は好いお茶番だと笑はれるに、男なら眞似て見ろ、仕事やの家へ行つて茶棚の奧の菓子鉢の中に、今日は何が何箇(いくつ)あるまで知つて居るのは恐らく己れの外には有るまい、質屋の兀頭めお京さんに首つたけで、仕事を頼むの何が何うしたのと小五月蠅(こうるさく)這入込んでは前だれの半襟の帶つかはのと附屆をして御機嫌を取つては居るけれど、遂ひしか喜んだ挨拶をした事が無い、ましてや夜るでも夜中でも傘屋の吉が來たとさへ言へば寢間着のまゝで格子戸を明けて、今日は一日遊びに來なかつたね、何うかお爲(し)か、案じて居たにと手を取つて引入れられる者が他に有らうか、お氣の毒樣なこつたが獨活(うど)の大木は役にたゝない、山椒は小粒で珍重されると高い事をいふに、此野郎めと脊を酷く打たれて、有がたう御座いますと濟まして行く顏つき背さへあれば人串戲とて恕すまじけれど、一寸法師(いつすんぼし)の生意氣と爪はぢきして好い嬲(なぶ)りものに烟草休みの話しの種成き。

       下

 十二月三十日の夜、吉は坂上の得意場へ誂への日限の後(おく)れしを詫びに行きて、歸りは懷手の急ぎ足、草履下駄の先にかゝる物は面白づくに蹴かへして、ころ/\と轉げると右に左に追ひかけては大溝(おほどぶ)の中へ蹴落して一人から/\と高笑ひ、聞く者なくて天上のお月さまさも皓々(かう/\)と照し給ふを寒(さぶ)いと言ふ事知らぬ身なれば只こゝちよく爽(さわやか)にて、歸りは例の窓を敲いてと目算ながら横町を曲れば、いきなり後より追ひすがる人の、兩手に目を隱くして忍び笑ひをするに、誰れだ誰れだと指を撫でゝ、何だお京さんか、小指のまむしが物を言ふ、恐赫(おどか)しても駄目だよと顏を振のけるに、憎くらしい當てられて仕舞つたと笑ひ出す。お京はお高祖頭巾(こそづきん)目深(まぶか)に風通の羽織着て例(いつも)に似合ぬ宜き粧(なり)なるを、吉三は見あげ見おろして、お前何處へ行きなすつたの、今日明日は忙がしくてお飯(まんま)を喰べる間もあるまいと言ふたでは無いか、何處へお客樣にあるいて居たのと不審を立てられて、取越しの御年始さと素知らぬ顏をすれば、嘘をいつてるぜ三十日(みそか)の年始を受ける家は無いやな、親類へでも行きなすつたかと問へば、とんでも無い親類へ行くやうな身に成つたのさ、私は明日あの裏の移轉(ひつこし)をするよ、餘りだしぬけだから嘸お前おどろくだらうね、私も少し不意なのでまだ本當とも思はれない、兎も角喜んでお呉れ惡るい事では無いからと言ふに、本當か、本當か、と吉は呆れて、嘘では無いか串戲では無いか、其樣な事を言つておどかして呉れなくても宜い、己れはお前が居なくなつたら少しも面白い事は無くなつて仕舞ふのだから其樣な厭やな戲言は廢しにしてお呉れ、ゑゝ詰らない事を言ふ人だと頭(かしら)をふるに、嘘では無いよ何時かお前が言つた通り上等の運が馬車に乘つて迎ひに來たといふ騷ぎだから彼處の裏には居られない、吉ちやん其うちに糸織ぞろひを調(こしら)へて上るよと言へば、厭やだ、己れは其樣な物は貰ひたく無い、お前その好い運といふは詰らぬ處へ行かうといふのでは無いか、一昨日自家(うち)の半次さんが左樣いつて居たに、仕事やのお京さんは八百屋横町に按摩をして居る伯父さんが口入れで何處のかお邸へ御奉公に出るのださうだ、何お小間使ひと言ふ年ではなし、奧さまのお側やお縫物しの譯は無い、三つ輪に結つて總の下つた被布を着るお妾さまに相違は無い、何うして彼の顏で仕事やが通せる物かと此樣な事をいつて居た、己れは其樣な事は無いと思ふから、聞違ひだらうと言つて、大喧嘩を遣つたのだが、お前もしや其處へ行くのでは無いか、其お邸へ行くのであらう、と問はれて、何も私だとて行きたい事は無いけれど行かなければ成らないのさ、吉ちやんお前にも最う逢はれなくなるねえ、とて唯いふ言ながら萎れて聞ゆれば、何んな出世に成るのか知らぬが其處へ行くのは廢したが宜らう、何もお前女口一つ針仕事で通せない事もなからう、彼れほど利く手を持つて居ながら何故つまらない其樣な事を始めたのか、餘り情ないでは無いかと吉は我身の潔白に比べて、お廢(よ)しよ、お廢しよ、斷つてお仕舞なと言へば、困つたねとお京は立止まつて、夫れでも吉ちやん私は洗ひ張に倦きが來て、最うお妾でも何でも宜い、何うで此樣な詰らないづくめだから、寧その腐れ縮緬着物で世を過ぐさうと思ふのさ。
 思ひ切つた事を我れ知らず言つてほゝと笑ひしが、兎も角も家へ行かうよ、吉ちやん少しお急ぎと言はれて、何だか己れは根つから面白いとも思はれない、お前まあ先へお出よと後に附いて、地上に長き影法師を心細げに踏んで行く、いつしか傘屋の路次を入つてお京が例の窓下に立てば、此處をば毎夜音づれて呉れたのなれど、明日の晩は最うお前の聲も聞かれない、世の中つて厭やな物だねと歎息するに、夫れはお前の心がらだとて不滿らしう吉三の言ひぬ。
 お京は家に入るより洋燈(らんぷ)に火を點(うつ)して、火鉢を掻きおこし、吉ちやんやお焙(あた)りよと聲をかけるに己れは厭やだと言つて柱際に立つて居るを、夫れでもお前寒からうでは無いか風を引くといけないと氣を附ければ、引いても宜いやね、構はずに置いてお呉れと下を向いて居るに、お前は何うかおしか、何だか可笑しな樣子だね私の言ふ事が何か疳にでも障つたの、夫れなら其やうに言つて呉れたが宜い、默つて其樣な顏をして居られると氣に成つて仕方が無いと言へば、氣になんぞ懸けなくても能いよ、己れも傘屋の吉三だ女のお世話には成らないと言つて、寄かゝりし柱に脊を擦りながら、あゝ詰らない面白くない、己れは本當(ほんと)に何と言ふのだらう、いろ/\の人が鳥渡好い顏を見せて直樣つまらない事に成つて仕舞ふのだ、傘屋の先(せん)のお老婆(ばあ)さんも能い人で有つたし、紺屋(こうや)のお絹さんといふ縮れつ毛の人も可愛がつて呉れたのだけれど、お老婆さんは中風で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くを厭やがつて裏の井戸へ飛込んで仕舞つた、お前は不人情で己れを捨てゝ行し、最う何も彼もつまらない、何だ傘屋の油ひきなんぞ、百人前の仕事をしたからとつて褒美の一つも出やうでは無し朝から晩まで一寸法師の言れつゞけで、夫れだからと言つて一生立つても此背が延びやうかい、待てば甘露といふけれど己れなんぞは一日一日厭やな事ばかり降つて來やがる、一昨日半次の奴と大喧嘩をやつて、お京さんばかりは人の妾に出るやうな腸の腐つたのでは無いと威張つたに、五日とたゝずに兜(かぶと)をぬがなければ成らないのであらう、そんな嘘つ吐きの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉さん同樣に思つて居たが口惜しい、最うお京さんお前には逢はないよ、何うしてもお前には逢はないよ、長々御世話さま此處からお禮を申ます、人をつけ、最う誰れの事も當てにする物か、左樣なら、と言つて立あがり沓ぬきの草履下駄足に引かくるを、あれ吉ちやん夫れはお前勘違ひだ、何も私が此處を離れるとてお前を見捨てる事はしない、私は本當に兄弟とばかり思ふのだもの其樣な愛想づかしは酷からう、と後から羽がひじめに抱き止めて、氣の早い子だねとお京の諭(さと)せば、そんならお妾に行くを廢めにしなさるかと振かへられて、誰れも願ふて行く處では無いけれど、私は何うしても斯うと決心して居るのだから夫れは折角だけれど聞かれないよと言ふに、吉は涕の目に見つめて、お京さん後生だから此肩(こゝ)の手を放してお呉んなさい。

(明治二十九年一月「國民之友」)





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底本:「日本現代文學全集 10 樋口一葉集」講談社
   1962(昭和37)年11月19日第1刷発行
   1969(昭和44)年10月1日第5刷発行
入力:青空文庫
校正:米田進、小林繁雄
1997年10月15日公開
2004年3月19日修正
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