岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿コンチェルト04

2022年04月25日 21時50分26秒 | 新宿コンチェルト/とれいん

 百合子と知り合ったこの数ヶ月間って、一体何だったんだろうな……。
 しばらく部屋の白い天井をジッと見つめていた。楽しかった日々がこんなにも急激に終焉に向かうなんて。
 お互いもうちょっと冷静に話し合うべきだったんじゃないのか? いや、もう遅い。別れ際の百合子の目。あれはあきらかに軽蔑を含んだ冷めた目つきだった。女は現実的だと誰から聞いた事がある。彼女の中で、俺との今後はすでに無いものとして決めてしまったからこそ、あんな冷たい態度を取ったんだ。
 温かい家庭を作るつもりだったのに、どこで歯車が狂ってしまったのだろう……。
 発端はすべて俺のせいだ。軽はずみに風俗の仕事など引き受けるから、こんな目に遭う。計画性がまるで無い俺に対し、百合子は愛想をつかした。そんなとこじゃないのか。
 では、何故俺が留置所に入っている時、百合子はずっと待っていた?
 本当にあいつは、子供をおろすつもりなのか?
「……」
 自分一人でいくら考えても、何が正しいのか分からなかった。
 翌日になり、スーツに着替えて家を出ようとしてから、妙な違和感に気付く。今日は日曜日で店には誰も来ない。仕事に行く必要なかったんだ。仕事? 金も何も発生していないものを仕事だなんてな…。百合子もこの一ヶ月収入のない俺を見て、イライラしていたのだろう。
 突っ伏して寝たせいか、いまいち寝た感じがしない。横になって体を休めていると、いつの間にか寝てしまう。
 目を覚ますと夕方の五時になっていた。携帯電話を見ても、誰からも着信はない。

 昨日の百合子との喧嘩を思い出す。あいつ、あれから一切連絡をくれていない。完全に一人になってしまったのだなと自覚した。寂しさが周りを包みだしてくる。
 昨夜のやり取り。あれで二人の仲は完全に崩壊したのだ。
 知り合いに伝えておかないと……。
《女とは話し合って完全に終わりにしました。子供もおろさせます。今までいつも相談に乗ってもらったのに、本当に申し訳ありませんでした。ご迷惑をお掛けして申し訳ないです。 神威龍一》
 仲のいい知人たちに、俺の子供ができた事を伝えていた。これであいつと別れるなら、それなりのけじめを周りにもつけなければいけない。
 自分の打ったメールを繰り返し何度も読み返した。
 目に涙が滲む。もう仕方がない事なのだ。
 俺は知人たちにそのメールを送信した。
 やるせない気持ちになる。でも自分が犯した過ちなのだ。
 すぐに俺の恩師ともいえる高校時代の亀田先生からメールで連絡があった。
《残念だったね。考えた末の決断なら仕方ありません。仕事頑張って下さい。 亀田》
 続いて仲のいい先輩や友達から続々メールが届いた。
《とりあえず、ご苦労さまでした。僕は別に迷惑を受けたとは思っていないので気にしないで下さい。また飯でも喰おう。 月吉》
《俺は大して相談にのってあげられてないから大丈夫だよ。 長谷部》
《そうかぁ…。終わったかぁ…。ウマくやって欲しかったけど、まぁ、しょうがないことだね。 最上》
《そうですか。了承しました。色々つらいでしょうけど元気出して下さい。 石井》
 みんなからのメールを読んで酷く自虐的な気持ちになる。
 もっといい方向にいかせられなかったのか?
 もっと方法はなかったのか?
 さっき打ったメールを見て、何故俺は泣いた? 悲しかったからだけじゃないだろ。本当にそれでいいのかって後悔したからじゃないのかよ。
 俺はメールを打ち出した。
《もう連絡はしないとは言ったけど、俺は百合子の事を真剣に考えていたからこそ、おまえとのけじめは済んでも、まだやらないといけない事があるのに気づいた。俺は百合子のお袋さんには迷惑掛けたと反省している。だから俺なりのけじめをつける。 神威龍一》
 百合子宛にメールを送信すると、すぐ彼女の家に電話を掛けた。
「何の用で連絡してきたんですか?」
 百合子のお袋さんの声は非常に冷たく聞こえた。当たり前だ。
「今回の件は百合子さんから聞いていますか?」
「ええ」
「本当に申し訳なかったです」
「しょうがないです。お互いの考えが食い違ってそうなったのですから」
「私は確かにガミガミ口うるさいです。でもそれは先の生活を考えて……」
「すみません…。もう終わったのですから、できればそっとしておいて下さい」
「でも……」
「あの子も自分なりに考えての決断だったんだと思います。だから私は百合子の意志を尊重したいです。あなたがどうだとか責めるつもりは一切ありません」
「すみませんでした…。あのー……」
「あの子なら今さっき病院に行くと言って出掛けています。お願いですから、百合子を放っておいてあげて下さい」
 電話を切ると一気に力が抜ける。何で誰も俺を責めてくれないんだ? 百合子の母親ぐらい、もっと俺を責めたっていいのに……。
 あいつはもう病院に行っていると言っていた。
 もうすべてが手遅れなのか?
 俺は男だからまだいい、百合子は女なんだ。現実問題として子供をおろすという事に対して逃げられない立場なのだ。
 自分の甘えなのは重々承知だ。彼女にメールを再び打った。
《本当にすみませんでした。今、君のお袋さんに電話して謝りました。これでしつこくしてしまったけど、実質上俺からは最後の連絡だと思って下さい。百合子を傷つけてしまった事に反省しています。思いやりが足りず、自分の主義思想を押し通そうとしたのが今回の原因だと今は思いました。もう少しスマートなやり方をできていたら、こんな風にはならなかった。やり直したいとか言う訳ではなく、自分にも半分は最低でも責任あるお腹の子に対し、俺は何もせずにこの世から消されてしまう事になんとも言えない寂しさを感じます。でもその寂しさは実際に体内に宿し、現実から逃げられない君の立場から比べれば、些細なものなのかもしれません。色々な事を思い出し酷い事を言ったけど、そこの部分だけは君に心から悪い事をしてしまったと思っている。本当にごめんなさい。これからは個々の道を歩く訳だけど、俺は百合子を本当に愛していたから子供を作りました。その気持ちだけは嘘じゃありません。それを平気でおろせと言えた自分がいけない。つらい事を押しつけてしまって本当に申し訳ない。百合子を傷つけてしまって本当にごめんな。男、父親として情けない限りです。 神威龍一》
 メールをすぐ送信した。何とも言えない居心地の悪さ、そして罪悪感に包まれる。
 しばらく待っても、百合子からの返事は何もなかった。

 考え事でいっぱいになった時、どうしても小説を書こうとしても集中できない。頭の中で思い浮かぶ文章をひたすらキーボードで文字に書き綴るだけなのに、途中で混乱してしまう。
 一人でいるのが溜まらなく嫌だった。行く宛もなく、ただ外へ飛び出す。とても冷たい風が容赦なく体に降り掛かり、吐く息は真っ白。それでもコートのポケットに両手をつっ込むと、フラフラと夜道を歩き出した。
 百合子と出会い、付き合うようになってからは、必然的に酒の量は減っている。彼女と時間を共有した分だけ、酒を飲みに行く時間が減ったからだ。多分、ずっと寂しかったから自然と俺は酒を飲みに出掛けていたのだろう。今こうして酒を求めて歩いているのもそうだ。
 孤独。何故か自身は人から忌み嫌われている。そんな錯覚に何度も捉われた過去。しかしこの現状を見る限り、それは錯覚ではなく現実的なものなのかもしれない。
 ウイスキーのボトル二本を空けてもまるで酔わない俺。なのに何故飲もうとするのか? 単なる現実逃避に過ぎない。そう分かっていながら、ジッとしていられないのだ。
 川越祭りで顔を合わす、同じ町内の先輩、知美が働くスナックが見える。うん、今日は大いに飲もう。飲んで嫌な事はすべて忘れちまえばいい。
「あら、龍君。珍しいね」
 ドアを開け、店内へ入ると知美が驚いた顔で出迎える。
「俺が来ちゃ、マズかったですか?」
 ちょっとした嫌味を言ってみた。
「何を言ってんの。あ、そこへどうぞ。飲み物はウイスキーのストレートでいいんだっけ?」
「久しぶりなのに、よく覚えていますね」
「水商売長いからね」
 そう言いながら知美は、グラスにウイスキーを注ぐ。グレンリベットでなく、国産の安いウイスキーなのが残念だが、そんな贅沢を言ってられない。マズいウイスキーを飲み、胃袋へ流し込む。
「相変わらず、龍君はお酒強いねえ」
「強くたって何もいい事なんてないですよ」
 一気にグラスの酒を飲み干す。
「弱いよりはいいわよ。ほら、隣見てみ」
 彼女が指す方向を見ると、同じ町内の先輩である田沼が横に座っていた。ほとんど酒に酔い潰れているのか、視線は虚ろだ。
「あれ、田沼さんじゃないですか」
「ん…、ああ…、龍一じゃないか」
「今日は一人ですか?」
「うん…、今日はヤケ酒だぁ~」
「ちょっと田沼さん、飲み過ぎ~」
 知美がグラスを取り上げると、田沼はグッタリしながらテーブルへ突っ伏すようにして顔を沈める。
「いつも温厚で真面目なイメージしかなかったけど、どうしちゃったんですか、田沼さん」
「ほら、お囃子の雀会の件でさ。彼も色々と頭を悩ませているのよ」
「雀会ですか……」













 特にする事もないので、小説を書く。何かしてないと落ち着かなかった。パソコンを起動させる。その時下から俺を呼ぶ親父の声が聞こえた。部屋を出て階段を降りて居間へ行く。親父が俺を見るなり近寄ってきた。
「おい、おまえは一体、何をやったんだ?」
「はあ?」
 すごい剣幕で怒鳴りつける親父を見て、こいつは何を考えているのだろうと思った。絶対俺に対して何か誤解している。
「西武新宿駅の人から電話が三回もあったぞ」
「それで向こうは何て言ってたの?」
「いや、おまえが家にいらっしゃいますかってだけで、ハッキリと用件は言わないんだよ。それで三回も電話があるだろ?」
 それはそうだ。何の用件かだなんて言える訳がない。言えば言っただけ、自分自身の首を絞めるだけなのだから。仮に家に三回電話していないなら、何故俺の携帯電話に掛けてこないのだろう? 本当に悪いと思っていたら、そのぐらいの誠意を見せなれないのか。俺ならまず連絡して平謝りに謝るしかないと思う。
「ああ、それはね……」
 俺はこの間の小江戸号での一部始終を詳しく親父に説明した。そして昨日の西武新宿駅での出来事まで。
「うーん…、それは確かに向こうに落ち度があるな」
「でしょ? 本当はそんなに引っ張りたくないんだ。でも今日だって家に三回も電話しときながら、俺の携帯には何もない訳でしょ? そんなんでいいのかって」
「まあ、あまり変な風に絡むなよ」
「俺だって面倒臭いんだ。もっとちゃんとした対応してくれてれば、次は気をつけて下さいで終わりにできるんだ。でも今の状態だと許す訳にはいかないでしょ? 謝るにしても誠意が足りな過ぎるし、礼儀に欠けてるよ」
「おまえの立場ならそうなるな」
「酷い事はしないけど、ガツンと言ってやらないと気が済まないからね」
「穏便に済ませろよ」
「分ってるよ」
 その日は一日中家にいて、小説の続きを書いていた。もちろん彼女からの連絡はあれからない。

 翌日西武鉄道から電話が入った。あれから四日間経つ。その間、色々なものを失った気がする。
「こちら西武新宿駅の朝比奈と申します。連絡遅れて申し訳ありません」
「ええ、本当に遅過ぎです」
「申し訳ありません」
 ここは相手も謝るしか方法はないだろう。
「いいかい?」
「はい……」
「今さら電話でそんな謝られ方されても、何も誠意が伝わらないよ。俺はあの日の内に自分の連絡先まで教えたし、次の日新宿まで直接行くとも言っておいたはずだよ」
「すみません……」
「その事は伝わってなかったの?」
 もし、これで相手が聞いていなかったと誤魔化したら、その責任は本川越駅駅長の村西さんの責任になるだけだ。
「いえ、本川越駅の駅長から連絡は受けていました」
「じゃあ、要するに俺を馬鹿にしてるって事だ? ただの若造がほざいたぐらいだから、別に気にする必要もないだろうって思ってるんだ?」
「そういう訳ではないです」
「ふざけんな! そうじゃないなら何なんだ? 俺の立場からしてみたら、そう思うの当然だろう? 新宿行ったらすっぽかされ、連絡も今日やっとあったぐらいで」
「おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした」
「一昨日、三回も家に電話したからもういいだろうと思ったの?」
「いえ、違います」
 これ以上彼を責めてもどうにもならないか。話題を変える事にしよう。
「あんただろ? 最初に電車の中で俺に応対したのは?」
「そうです」
 朝比奈の声は明らかにか細くなっている。こうなるしかないのを承知で私は続けた。
「何だあの対応は? 俺が何か間違っていたのか? それともあの女が間違ってるのか?こんな馬鹿にされて、公衆の面前であんな赤っ恥かかせられてよ」
「申し訳ございません」
「とりあえず電話じゃいくら謝られても気が済まない」
「はい……」
 明日、いや明日は店のシステムを決める打ち合わせだから変に時間は取れない。
「明後日、そっちの駅に顔出すからその時に話し合おう。それでいい?」
「はい。本当に申し訳ございませんでした」
 一人の勘違い女の騒ぎから始まったくだらない騒動も、これで終わりになりそうだ。百合子の件も、今話したところでいい方向へ行くとは思えない。物事が混乱したら一つ一つ片付けていけばいい。
 その時ピンと頭の中で何かが閃いた。
 俺はすぐパソコンのフォトショップを起動させ、電車の絵を描いてみる。うん、こんな感じだ。デザイン的に黒い感じの暗い表紙にしたい。見た目は地味だけど、ちょっと気になる程度の表紙。思いつくままに色々作ってみた。
 二時間ほど時間を掛けて、自分で納得する扉絵ができあがった。あとはタイトルを入れるだけだ。題名を考えるのにまた三時間ほど掛かる。
『トレイン』
 誰でも電車の事だと分かるだろう。もし、これをひらがなに直してみると……。
『とれいん』
 これだ。これしかない。この小説のタイトルは、『とれいん』。これでいこう。
 時計を見ると夜中の三時を回っていた。表紙にタイトル名を入れ完成させる。もうそろそろ眠らないと明日に支障をきたす。

 店のシステムを決める打ち合わせ。料金はいくらにするか? 女の子の取り分は? 広告媒体はいくら掛け、どこに出すか? そういった事を念入りに話し合う。
 店がオープンした際、坂本と若松が従業員として店内にいるので彼らの意見を尊重させてみる。
 周りの風俗店の相場を考えると、三十分で早い時間なら六千円から一万円ぐらいが相場だ。あまり高い料金設定にしても客は寄り付かないだろうし、安過ぎても足元を見られてしまう。
 自分が客の立場で考えてみると、料金なんて最初の時だけで、あとはどれだけ自分好みの女がいるかどうかに尽きる。気に入った女がいれば、男はいくらだって金を落とす生き物なのだ。
 始めるに当たって不安材料は腐るほどあった。肝心の働く女がまだ集まっていないという現実。俺の作成するホームページもまるで進まない状況だ。
 料金はいくらにするかとそれぞれが言い合い、二時間ほど過ぎる。俺は割引券や店の広告などをデザインし、決まった料金を入れた。印刷屋にすぐ連絡し、データを送るので各十万枚ほど刷るようお願いする。
 坂本のせいで、ただでさえオープンが遅れているのだ。あまり時間を掛けられない。
「坂本さん、女の子の写真は?」
「いや~、若松さんの弟さんのほうが知り合いの女の子を連れてくるって言ったきり……」
「今まで何をしてたんですか? 女の子入ったら、デジカメ買っといたからこれ使って何ポーズか写真撮っておいて下さいよ。これじゃいつまで経ってもオープンなんかできる訳ないじゃないですか!」
「そ、そんな怒らないでよ」
「じゃあ、ちゃんとやって下さいよ!」
 そもそもの混乱の原因は、俺がこんな馬鹿な連中と組んで風俗をやるなんて決めたのがいけなかったのだ。あの時百合子は嫌がった。これから赤ちゃんが生まれるのだ。まともな仕事をしてほしいと思っていただろう。様々なストレスから俺は相当酷い事を言ってしまった。言葉は形としては残らないが、心をエグる事もある。取り返しのつかない事をしてしまったのだ。
 店の看板をデザインしながら、俺はこんな事何でしているのだろうと悔やんだ。

 あれから一日経つが、百合子からの連絡はまったくない。悶々としながらようやく寝て、次の日に備える。
 目覚めの悪い朝を迎え、熱い風呂に入って気を引き締めた。これからようやく駅長の峰とご対面だ。一つ一つ片付けていこう。
 自作の小説『とれいん』の執筆途中までをプリントアウトし、以前デザインした表紙もつけ、本の形に作る。まだ数ページしか書けていないが、これを見たら何て思うだろう。
 西武新宿駅に到着すると、改札口のところに見覚えのある顔があった。一昨日電話で話した助役の朝比奈だった。俺の表情が険しくなる。すでに朝比奈は私に気付いているようで真剣な顔で近付いてきた。
「先日はお客さまに対し、本当に失礼な応対をしてしまい申し訳ありませんでした」
「あのさ、あんたたちの行動を見てる限り、どう見たってそうは思えないよ」
「もし、よろしかったら、こちらへどうぞ」
 以前駅長の間壁さんと話す際に通された改札口横の駅員室へ入る。促されるまま予め用意してある椅子に腰掛けると、あの時の駅長である峰も近付いてきた。思わず峰に睨みつける。
「先日は本当に申し訳ありませんでした」
 二人とも平謝りだが、あれから時間が経ち過ぎている。そのせいも手伝ってか素直に許すという気持ちにならなかった。
「あなたが駅長の峰さんですね?」
「はい……」
「私的には先日の件について、迅速に動いたつもりです。その日の内に連絡先を教えて、次の日にここに来ると言ったはずです」
「ええ、お客さまの事はちゃんと聞いていました。本当に失礼な真似をして申し訳なかったです。すみませんでした」
 峰の横で立っている朝比奈も同時に頭を下げる。
「いいですか? 私はあなたに公衆の面前で赤っ恥をかかされたんです」
「い、いえ。別に私はそんなつもりで言った訳ではないんです」
「じゃあ他にどんな意味があるんですか?」
 俺は目を剥き出して、峰を見つめた。
「あの状況で…、あの時、あの場に立ってたのは私なんです。お客さんのせいでこれ以上電車を遅らせる訳にはいかないと言いましたよね? あの女は席に座ってます。電車の中からだって外からだってはたから見たら、私が誤解されますよ。違いますか? あれで赤っ恥をかかせるつもりじゃない? いい加減な事を言わないで下さい」
「いえ、そんなつもりは……」
「峰さんはあの時お客さんのせいでこれ以上電車を遅らせる事はできないと言ったじゃないですか? その台詞はあの時言いませんでしたか?」
「言いました。ただ、そういう意味で言った訳では……」
「あなたがどういうつもりで言ったか私には分かりません。ただ誰が聞いたって、みんなそれはそう思いますよ? 誤魔化さないで下さい」
 聞いていて非常に見苦しい峰の台詞。心の奥の静かな炎が一気に燃え上がってきた。
「それに朝比奈さんはあれからしばらくしてからだけど、謝罪の電話をしてきた。でもあなたはその間何をしてたんですか?」
 相手の痛いところをガンガン突いてやった。百合子との事でやり場のない怒りをぶつけていた。自分の口から出てくる言葉が情けなかった。分かっていながらそれでも言葉は止まらない。
「私が間違ってるんですか? 事の始まりはくだらない件で、しかもすぐに治まる事なんです。私は何回か治まるチャンスは作ったつもりです。簡単に言えば、あの女に『この席はこちらのお客さんのですからどいて下さい』って言えば済む問題なんですよ。席に置いてあった荷物だって勝手にどかすと、セクハラだって騒ぐ馬鹿な女がいるから立って待っていたんです。それをあの女は戻ってきても、すいませんのひと言もなしに知らん顔。当然私に席の荷物をどかせぐらい言われてもしょうがないでしょ?」
「は、はい……」
「そしたらあの馬鹿女、逆切れじゃないですか。それで駅員さんを呼ぼうと。あの女も呼べとか偉そうに抜かしてたんで、こちらの朝比奈さんを呼んだんですよ。そうですよね、朝比奈さん? 何か今までの状況で違うとこありますか?」
「おっしゃる通りです……」
「あの時駅員さんがあの馬鹿に、席の荷物をどかせと言ってくれれば問題になる事も何もないんです。でも朝比奈さんの対応は、明らかにあの女寄りの対応でしたよね?」
 朝比奈は戸惑った表情をしながらも俺から視線を逸らさなかった。俺の心の中はどんどん残虐的な気分に支配される。
「いえ、そのような……」
「あの状況であの女の目線に沿って座って応対してたじゃないですか? 何時に切符買ったのかって、どうでもいい事をわざわざ聞いてくるし…。駅員なら切符の大きさ見れば、一目瞭然でしょ? 客である立場の私にだって見れば分かりますよ。大きい切符は事前じゃ変えないって。前もって切符を購入している証拠でしょ? あの馬鹿は切符もないくせに身勝手にエスカレートしてギャーギャーうるさいし」
 これだけ言ってもまだ言い足りない。自分自身の気が済まなかった。
「そこで峰さんがあとから来てようやく話の分かる人が来たと思ったらあれでしょ? あんな赤っ恥かかされるとは思わなかった。ずっとこの小江戸号に乗ってて、こんなの初めてだよ。それから謝罪の電話があったのも結構時間が経って。その二日ぐらい前に自宅には電話あったらしいけど、私は自分の携帯番号もちゃんと教えていましたしね。どう考えても馬鹿にしてんじゃないのかって思うでしょ?」
「携帯のほうはですね、お仕事中だったら大変失礼にあたると思いまして、自宅へ掛けた次第です。」
 苦しい言い訳をする峰。もちろんそんな言い訳が私の耳に届いても納得する訳にはいかない。
「ガキの使いじゃないんですよ。ガキの使いじゃ…。携帯番号を教えたって事は普通、そっちに連絡をしろって意味でしょ? 仮に仕事中で大事なようだったら、今は無理だって言えば済む話だし、そんなのは言い訳にしかならないですよね?」
 俺はあの時の状況を再度説明してから、その後の対応が悪いと繰り返し責めた。何度同じ言葉を使っただろう。自分でもウンザリするぐらい怒りをぶつけた。
「ではお客さん。あの時の乗車券代、四百十円をお返しします」
 峰の言った台詞が心に刺さる。本川越駅駅長の村西さんも同じ事を言ったが、峰が俺に対して言うのは絶対に間違いだ。
「ふざけんなって。馬鹿にしてんのか? 俺はそんな四百十円が欲しくて、こんな事してる訳じゃねえんだ。いらないですよ、そんなもん。あんまり馬鹿にしないで下さい」
「決してそういう訳では…。会社の規則でそう決まってるんです」
「もういい。どっちにしても今日はこれから仕事だし、俺はもう行きますから」
「お客さん……」
 俺は興奮しながらも、持ってきた『とれいん』の途中まで印刷したものを見せた。
「今回のこの事はノンフィクションの小説として書き始めてます。これがその小説の一部です。良かったら見て下さい」
「いや、結構です」
 駅長の峰は俺の差し出した小説を受け取ろうともしなかった。
「そうですか。まあ、今日の話し合いはこの辺で止めときます。あなたたちの出方次第で、私はどう出るか考えさせてもらいます」
 交渉は決裂。できれば温和にいきたかったが、言い訳ばかりなので素直に許す気になれなかった。どうケリをつけてくれよう。プライベートでもうまくいかず、この件もこんなザマだ。今の俺は憎悪の炎でいっぱいになっていた。

 二週間が過ぎた。西武新宿からも百合子からも連絡は何もない。駅長の峰はあれでもういいと思っているのかもしれない。しばらく放っておく事にした。
 変わった事といえば、ようやく『ガールズコレクション』が店としてオープンに近づいた事ぐらいである。
 若松はオーナーである弟に金を回してもらい遊んでいるのか、何一つ動きはない。
「坂本さん、印刷屋から連絡あって、明後日には割引券等注文した品が全部届くそうです。若松さんは情報館とかの手配頼んであるんですよね?」
「ああ、それで今日これから情報館の人間連れて来るらしいよ」
 この頃歌舞伎町に情報館という新たな商売がポツリポツリとでき始めた時期だった。無料案内所と謳い、中には風俗店やキャバクラなどのパネルや割引券を置く店である。情報館の料金はこの当時格別に高かった。パネルを貼るだけで月に十八万から二十万の料金を取られる。この値段の違いはパネルの位置が上段にあるか下段かの違いしかない。
 店内は電光掲示板のパネルが貼れるよう作られ、客が来た時の案内として従業員が数名待機している。そこで割引券を渡しながら店に客を送るという仕組みだ。
 そんなものに月二十万の金を払うなんて馬鹿馬鹿しいと思ったが、若松がオーナーたちを説得させてしまったものだからしょうがない。
 時代はインターネット主流になりつつあるので俺はその重要性を訴えたが、機械に疎いオーナーたちはいい顔をしなかった。
 当初二百万あった経費は、俺がインターネット作成料として二十万、パソコン一式で二十万以外の百六十万は、ほとんど坂本と若松で無駄遣いをしてしまったようだ。パソコンを『ガールズコレクション』店内に設置し、経費の詳細を調べてみるとほとんどが二人の食事代と称し、高級料理店の領収書だけで五十万円ほどあった。
「坂本さん! 何ですか、これは?」
「だって給料だって出てないんだし、経費でうまいものぐらい食わないとやってらんないじゃん」
「坂本さんが店内の改装を遅れさせたからオープンできないんじゃないですか! いい加減にして下さいよ!」
「神威ちゃんも一緒に来れば良かったんだよ。パソコンの件でっていつも一緒にいないじゃん」
 これに呆れた俺は怒ったが、責任感の欠片もない二人には効果があまりないようである。こんな奴らのせいでこっちに一円も給料が出ていないという現実。何の為に頑張ってきたのかまるで意味がない。
 こんな事なら村川に言った時点で強引に辞めればよかったのだ。一人で真面目に取り組んできた自分が馬鹿らしくなった。
 はなっから穴の空いていた沈没船に乗り込んだような気がする。一生懸命海水が入らぬよう穴を見つけては塞ぐ作業をするが、他の乗組員たちはのん気に酒盛りをして酔っ払い、俺一人が海水を掻き出している。そんな感覚だ。
 家に帰ると久しぶりに百合子からメールが届く。
《今週子供をおろす事になりました。同意書にサインしてほしいのですが、明日の都合はどうでしょうか? 百合子》
 読んでいて悲しくなる簡潔で冷たい文章だった。ここまで俺は彼女を追い込んでしまったのか。精神的に疲れが溜まっていた。
 自分の主義主張を押し通した結果がこれか? だとしたら俺はどれだけの罪を背負ってしまったのだろう。百合子との物語は俺のエゴで終わりにしてしまった。周りを巻き込み迷惑を掛け、そこまでして自分を押し通す必要性はあったのか? 色々と自分に問いかけても答えは出なかった。彼女のメールに対する返事だけでもしておこう。
《分りました。つらい思いをさせてしまい、申し訳ないです。明日、仕事が終わってからなら問題ないです。明日、仕事が終わったら電話します。 神威龍一》
 メールで送る文章でさえ敬語になっている。もはや恋人とは言えない。完全に他人同士になってしまったのだろう。いや、他人のほうがまだマシだ。ここまでお互いを傷つけ合わなくてもいいのだから……。
 すべてから逃げ出したかった。今の自分に押しかかる現状がとてもつらかった。西武新宿の件ですらどうでもいいように思える。あの駅員からは相変わらず連絡がないが、面倒でどうでもよくなった。自暴自棄…。この言葉が今の俺には一番お似合いだ。

 もうオープンも秒読み段階に入ったところで、若松がいきなり口を挟んできた。何でも知り合いに風俗を経営している人間がいて、うちのシステムはまるでなっていないとの事らしい。
「俺の知り合いが言うにはね、やっぱ料金も見直さないといけないし、女の子に渡す取り分もさ、良くなきゃいい子来ないしね。だから神威君、至急割引券の料金直して作り直してくれる?」
 今さら何を抜かしてんだ、この馬鹿は? ここまで来るのにどれだけの経費と手間を掛けたと思っているのだ。
「もう印刷屋に頼んで明日には届くんですよ? この段階になって何を言ってんですか」
「そんなのまた作り直せばいいじゃん」
「……」
 気付けば俺は壁を思い切り殴りつけていた。今まで何をしていたのか経費の無駄遣いばかりしていた男が、土壇場で邪魔をする。よくも簡単に言えるものだ。
「な、何だよ、そんな怒らないでよ」
「怒りたくもなりますよ。知り合いだか何だか知らないけど、もうじきオープンなんですよ? 今さら言う事ですか? 何で打ち合わせの時言わないんです? みんなで決めた料金でしょ? やっている事かなりズレていますよ」
「だって俺の知り合いがね……」
「知り合いはしょせん知り合いじゃないですか。ただ同業ってだけでうちとは何の関係もないじゃないですか」
「とりあえず神威君はまた新しい割引券と、パネルのデザイン作ってよ」
「おい、何だって?」
 こいつ、いくら年上でオーナーの兄という立場だからって、ちょっと図に乗ってんじゃないのか?
「まあまあ…。とりあえず神威ちゃん、万が一って事もあるから新しいの作るだけ作っといてよ」
 坂本が間に入ってくる。よく簡単に作ってよなんて言えるものだ。実際におまえがやってみろと言いたいが、下手に言うと「じゃあ業者に出せばいいんでしょ」とか抜かし、また無駄な経費を使うだろう。
「いくらの設定なら気が済むんですか? 早く言って下さい。とっとと作りますから」
 プライベート、仕事、そして西武鉄道…。苛立ちは募るばかりだった。
 今週に百合子が俺の子供をおろす……。
 この日は打ち合わせの最中も上の空で、まるで仕事に身が入らなかった。時間を気にしてばかりでオーナーの村川にもたるんでいると怒られた。事情を話す訳にはいかず、ただ俺は頭を下げた。六時を過ぎた頃彼女へメールをする。
《今日、八時頃には川越に戻れそうです。着いたら連絡します。 神威龍一》
 五分もしない内に返事は来た。
《分かりました。着いたら連絡下さい。待っています。 百合子》
 俺は何度もメールを読み直す。近くに誰もいなければ泣きたかった。
 仕事を終えて、七時三十分の小江戸号に乗って川越に向かう。着くのはだいたい八時十五分ぐらい。
 百合子に会ったら何て言葉を掛けたらいいのだろう。これで本当に俺たちの子供をおろしてしまう事になるのか? 電車の中で思い直せないかどうか考える。しかし名案など思い浮かばない。
 小江戸号は高田馬場、所沢、狭山市と、俺にお構いなく通過して行く。
 同意書……。
 それにサインするという事は、一人の尊い命を消す事だ。今まで感情的になり酷い言葉を容赦なく浴びせてしまった。そして周りの人々もたくさん巻き込んでしまった。
 本当に子供をおろしたほうがいいのだろうか? 俺から悪かったと頭を下げれば…。何が正しい判断なのか分からなかった。
 車内アナウンスで本川越駅に到着する声が聞こえてくる。逃げ出したい気分だった。

 本川越駅に着くと、すぐ百合子に電話をした。十回ほどコールが鳴り、留守電に切り替わる。昨日向こうから言ってきた事なのに何故電話に出ないんだ?
 少しばかりの苛立ちを感じる。この寒い中ここで待っていても仕方がない。俺は家に帰る事にした。道を歩いていると携帯が鳴る。百合子からのメールだった。
《ごめんなさい。二時間ほど残業でした。今、仕事が終わったのでこれからそちらにすぐ向かいます。二十分ぐらいで着くと思います。 百合子》
 それならちょっと前に連絡をくれてもいいものを…。苛立ちがどんどん募る。
 家に着いても、俺は彼女が来るのを外で待っていた。もう十二月半ば。あまりの気温の寒さに体が震えたが、少しも気にならなかった。家の前の道路を走る車を眺めていると、百合子の車が到着する。
「おい、残業になるなら前もって言ってくれてもいいだろ?」
「すいませんでした。これにサインして下さい。お願いします」
 冷静な百合子の台詞に、電車の中で色々と考えていた言葉がすべて吹っ飛ぶ。
「分かったよ。サインすればいいんだろ?」
「ええ、お願いします」
 神威龍一と、自分の名前を同意書に書き、続いて判子を押す。あれだけあった躊躇いは、不思議となかった。
「もう俺たち、やり直せないんだろ?」
 つい、質問口調で卑怯な言い方をしてしまう。
「だって私たち、やり直せないでしょ?」
 お互いいつも先に相手の答えを求め合う堂々巡り……。
 これ以上何の言葉も見つからなかった。これで百合子は病院で、俺たちの子供をおろす事になったのだ。
 俺と彼女のエゴで一人の命が消えていく。それでも俺は百合子に何の言葉を掛けてやれない。
 お互い無言のまま別れた。別れ際一筆書けと書かせた紙切れを取り出してみる。
『子供は責任もっておろします。 十二月十一日 百合子』
 感情的な口論からとうとうここまできてしまったんだな。自問自答を繰り返す。
 俺は何もできなかった。何かしら言ってやれないのか? 言えないからこうなった。子供が可哀想だ。いや、この状態で無理に産んでも不幸なだけだ。どちらが悪いのか? 両方に責任がある。
 完全に噛み合わなくなってしまった歯車。修復不可能だ。今後、本当に苦しいのは俺ではなく百合子である。俺は精神的だけだが、彼女は精神的プラス肉体的苦悩も加わる。精神的な面でも俺の数十倍は上なはずだ。
 あまりの辛さに俺は親父の部屋のドアをノックしていた。
「何だ?」
 こうやって親父の部屋に入るなんて、子供の頃以来かもしれない。親父の部屋には三村も何故かいた。そうだ。俺が二十九歳の総合格闘技の試合の時、この女が騒ぎを起こした時以来だ、親父の部屋に来るのは。一体親父は何を考えているのだろう。こんな女と……。
「何だよ、黙って」
「い、いや……」
 何故俺は親父のところになんか……。
「顔色悪いぞ?」
「お、俺さ……」
「あ?」
「こ、子供おろす事にしたんだ……」
「あのバツ一のか?」
 親父は軽蔑した目で俺を見ていた。
「あ、今何て言った?」
「龍ちゃん、あなたはまだ一度も結婚していないんだし、ちゃんとした子としたほうがいいわよ」
 いきなり三村が口を挟んでくる。
「うるせぇっ!」
 俺はドアを思い切り叩きつけていた。あんな女に何でそんな事を言われなきゃいけない? おまえらが今まで何をやってきたんだ。怒りが全身を包んでいた。
 壁を思い切り蹴ると、大きな穴が開く。おじいちゃんの建てた家を壊してどうする……。
 そのまま階段を降りると、居間でおばさんのユーちゃんがコーヒーを飲んでいた。
「何だい?」
 俺の姿に気付くとユーちゃんは声を掛けてくる。
「お、俺さ……」
「何だよ?」
 感情だけが先走り、大粒の涙を流していた。
「何をいきなり泣いてんだ」
「こ、子供をお、おろす事にした……」
 それだけ言うと、その場に突っ伏して泣き出してしまった。
「何だよ、何を泣いてんだ? 自分のした事だろ? ちゃんとしな」
「う、うん…。ちゃんとする……」
 それだけ言うと、俺は自分の部屋に戻った。
 ちゃんとするって一体何だ?
 どうすればちゃんとしたって事になるんだ?
 どうしたらいい?
 今から百合子に……。
 馬鹿、電話したって出てくれる訳ないじゃないか。
 じゃあ、どうするんだよ?
 おじいちゃんに相談を……。
 馬鹿、これ以上おじいちゃんにいらぬ心配を掛けさせるつもりなのか?
 じゃあ、どうしたらいい?
 分からない。
 答えが出ない。
 もう俺には何も分からない。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁーーーーーーーーーーーーっ!」 無意識の内に叫んでいた。
 部屋の壁に何度も頭を叩きつけた。このまま壊れてしまえばいいんだ。目の前の壁がどんどん赤くなっていく。気にせずさらに強く頭をぶつけ続けた。
 不意に視界が暗くなり、意識が遠退く。
 後頭部に衝撃を受けた。目を開くと天井が見える。俺は地面に倒れたのか? それで少し我に帰る事ができた。
 錯乱する一歩手前。このまま気が狂ってしまったほうが、どんなに楽か……。
 馬鹿野郎! そのあとどうするんだ? 親父は絶対に面倒など見やしない。おじいちゃんに迷惑を掛けてしまうだけなんだぞ。
 自分のしでかした不始末なんだ。
 もっと冷静になれ。
 自分でケツを拭け。
「……」
 お互いが納得して同意書に判子を押したのだ。何もできないだろう。俺がこれ以上何か百合子に行動すると、彼女自身が嫌な思いをするだけなんだ。
 早く忘れろ。考えても暗くなるばかりだ。早く忘れよう……。

 翌日、暗い気分のまま新宿へ向かう。こんな給料も出ない状態なのに、俺は本当に馬鹿だ。
 店の中では坂本と若松の馬鹿コンビがくだらない会話をしていた。いつもならせっつくのにどうでもよかった。
「あれ、神威ちゃん。額どうしたの? 赤いじゃん」
「何でもないです……」
「そんな事ないでしょ。喧嘩でもしたんじゃないの?」
 しつこく絡んでくる坂本。
「何でもないですよっ!」
 つい、怒鳴ってしまう。しばらくシーンとなる。
 坂本と若松は、「俺たち飯食ってくるよ」と店を出て行った。
 あまりにも簡単にサインしてしまった同意書。もっとほかにやり方があったんじゃないのか? もっと優しく接していたら今頃は……。
 昨日の夜の事を思い出しては深い溜め息をつく。
 突然三時半になって携帯が鳴る。
 聞き覚えのある音楽。百合子からの着信だった。
 もう彼女から連絡はないと思っていたので、正直ビックリした。今になって一体何の用だろう? 電話に出る。
「もしもし……」
 途切れそうなほど弱々しい百合子の声。
「何だ?」
 それでも彼女に対し、冷たい声しか出せなくなっていた。
「これから病院へ行くところだけど、明後日…、おろす事になりました。あなたも責任はあると言ってたし、報告だけはしておかないとって思って……」
 百合子からの突然の電話に、動揺を隠せなかった。充分理解していたつもりでも心が苦しかった。気持ちの整理はついていたんじゃないのか……。
「明後日…、俺も病院に付き合うよ。一番大変でつらい思いをするのも、辛い思いもするのもおまえなんだ…。でも、俺は何もできない。それでもその子は俺にも責任はあるんだ。だから明後日は俺も一緒に行きたい。これは逃げちゃいけない事だと思う。それでも百合子が来るの嫌だと言うなら、俺は我慢する……」
 今の自分で考えられるすべてを精一杯彼女に伝えた。どんなに嫌がられようとも俺は、最後を見届ける義務がある。自分のしでかした責任。それについて逃げては人間として失格だ。自分でもビックリするぐらい正直に言えた。ただ、相手の返答を聞くのが怖かった。
「分かりました…。明後日、九時に病院に行きます」
「どこの病院なんだ?」
「大和産婦人科です」
 あそこの病院なら家から車で十分ぐらいだ。
「分かった。明後日の九時にそこへ向かうよ。それでいいか?」
「はい……」
 電話を切ると、オーナーの村川にすぐ用件を伝えた。言い難い事だがこの際仕方がない。
「すみません。明後日、実は自分の子供をおろすんです。それで一緒に病院へ付き合うので休みをもらえますか?」
 いきなり話を繰り出す俺に対し、村川はジロリと一別する。
「別にいいけど、今、うちの店、オープン前で忙しいの分かってるだろ? しっかりしてくれないと困るよ。まあ状況が状況だからしょうがないけど」
「すみませんでした」
 本当は怒鳴りつけてやりたかった。給料だってこの間五万円をもらっただけで、どれだけ人をタダ働きさせていると思っているのだ……。
 しかし、今ここで揉めても何もならない。ポケットの中に右手を入れ、右の腿を強くツネる事で懸命にこらえた。

 
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