岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

02 鬼畜道(始めの一歩編)

2023年03月01日 13時18分51秒 | 鬼畜道 各章&進化するストーカー女

 七日から八日の深夜に切り替わった頃、また俺の部屋をノックする音が聞こえる。その主は、想像した通り三村だった。

「一体何ですか?」

「やっぱりあなたは長男だから、この家を……」

「いい加減にして下さいよ。何時だと思ってんですか?」

 本当この女と話すとイライラが溜まる。

「ご、ごめんね」

「明日…、いやもう今日か。中曽根さんに家の状況聞きますから、それから考えるって言いませんでしたか?」

「それはそうなんだけどね、やっぱり龍ちゃんは長男なんだし……」

「だから…、長男がなんなんですか? 長男だってふんぞり返って強引に行使したのは、親父だけですよ? 三村さん、あなたがいつもそうやって甘やかしてばかりいたから。いつ俺がこの家で長男らしい扱いなんて受けましたか? 何でこんな状況…、トランプで言えば最後の二枚にババが入った状態で、そんな責任を負わなきゃいけないんですか? あんたたちの都合いいようになんて、俺は動くつもりありませんから。それにもし、俺が継ぐにしたって、親父のあの感覚を直さなきゃ、誰が継いだって話になりませんよ。違いますか?」

「でも、あの人も才能ある人だから……」

「あーっ! もう、いい加減にしろよっ! あんたがそうやって言うけどさ、じゃあ実際にあなたの言う通り『神威クリーニング』は親父が継ぎました。しかも強引に…。それから三年経ちました。それで会社自体黒字ですか? それとも赤字ですか? 才能ある人がやって、どんな結果になりましたか?」

「だから、それは今は置いといて……」

「誤魔化すような問題じゃないでしょ? そうやっていつまでズルズル行くんです? 現実をもっと見ましょうよ? それに伊橋さんの件…。あれは完全な不当解雇ですからね」

「それって本当に余分にお金を払わないといけないものなの?」

「ええ、当たり前です。労働基準監督署から営業湯停止処分を食らいますよ? 不当解雇の場合、その月の一か月分の給与以外に、別途で一ヶ月から三ヶ月の保障をしなきゃいけないんです」

「でもね、あとで悪かったと謝って、それでも戻ってこない場合は」

「一体何を言ってんですか? 親父が目の前で『クビだ』と言い切ったんですよ? そんな姑息な事をしていたら、訴えられますよ、ほんとに……」

「あの人も従業員の立場でね、長年働いていると、ずいぶん大きな事を言うんだなと思ってね」

「大きな事って伊橋さんが何か言ったんですか?」

「龍ちゃん、前にだけど、おじいさんへ結婚してくれって迫った話知ってる?」

「はぁ~……」

 金金金…。この女はいつだって金の話ばかり。

 俺が以前目の前で聞いたのは、ジョークの範囲に過ぎない。年金等も普通の人より多くもらえるおじいちゃん。おばあちゃんは俺が中学生の時に亡くなっているので、伊橋さんが昼食中に「会長、どうせもらえるのなら形だけ籍を入れておけば、私にも年金入るから、もしそれで入ったらみんなで山分けしようか?」と笑い話での事である。

 どこでそれを聞きつけてきたのか知らないが、こいつはいつも遺産だの誰がどの権利だの、そんな事ばかり気にしているから嫌われるんだ。だからみんなから、三村は金目的と噂されても当たり前の話なのだ。

 これ以上この馬鹿と話をしていると、こっちまで頭がおかしくなる。

「もう、ゆっくりさせて下さい」

 俺は三村を強引に帰し、ドアを閉めた。

 早めに起き、すぐ外へ出られるよう着替えを済ませておく。

 朝の九時半頃、三村の義理息子である中曽根が出勤する。俺は配達に行く彼の準備を手伝いながら「家の…、会社の件で色々話がありまして、俺も一緒に配達付き合うのでいいでしょうか?」と聞いてみた。

「ええ、全然構いませんよ。僕も本当にどうなっているのか、一度龍一君と話してみたかったんですよ」

 そう笑顔で答えてくれる。

 継ぐ継がないにしても、配達するお客さんの家を覚えておくのは、何かの役に立つ。俺は助手席へ乗り込み共に向かう事にした。

 数軒の配達先を回り、連繋寺の駐車場へ車を停車する。いきなり核心的な問題から聞いておくか。

「唐突ですが今、家の事業資金ってあとぶっちゃけいくらぐらいなんですか? 三年前の役員会議で俺が南大塚の土地の話をまとめ、四千万って金を作っていたはずなんですが」

「そ、そうですね…。会社の運営金としては、僕の計算上だとあと二年は持つという事になりますね」

「すみません…。ちゃんと金額で言ってもらえませんか?」

「は、はい…。金額にすると、残り四百万円です……」

「……」

 衝撃の事実を聞き、俺は言葉を失った。三年前は最低でも四千万円あった事業資金が、たったの四百万。三年で十分の一なんて、一体どうやったら使いこなせるのだ?

「僕たちが『神威クリーニング』に入ってからですが、最初の一年目は赤字だったんです。この一年は仕方ないと思っています。ドライクリーニングのボイラーの燃料を当時まで、ずっと灯油を使っていましたが、ここ数年の灯油の高騰。その燃料代や設備を変えるのに一千万円ほど使っていますから」

「確かにそれはそうですね」

「…で、二年目も赤字だったんですが、役員の給料や会長へ払う家賃等、人権費及び経費の削減で徐々に減らしていきまして……」

「でも、三年目も赤字だったからこそ、こうやって残りの資金がたった四百万円になっている訳ですよね? それにあと二年はと言いますが、三年でそれだけの金額が減っているのに、何故あと二年は持つなんて言えるんですか?」

 持ち家であるおじいちゃんへ払うはずの会社の家賃を親父や三村はずっと誤魔化し続け、月に五万円しか納めていなかった現実。三村などはしょっちゅう実家の長野へ用を作っては帰り、高速代からプライベートのガソリン代までやりたい放題である。

 でも、それだけじゃ、三千六百万なんて金額はなくならない。

「そこなんですが、この不況の時代にも関わらず売上自体はまったく落ちていないんです。だからやり方や経費の削減で二年とは言いましたが、いくらでも面白くやりようがあると思うんです」

「帰ったら帳簿見せてもらえます? 家を継ぐという訳ではありませんが、自分の家の事です。どんな状況かぐらい把握しておきたい」

「ええ、それはもちろんですよ」

 中曽根さんはそこまで話すと、配達を再開させた。

 俺より五つ六つ年上の中曽根さん。家へ入ってきた当初は、油断のならない奴だという認識でいた。あの三村の娘婿なのだ。そのぐらい警戒心を持つのは当たり前だった。

 しかしこの三年、彼に接している内にそうまで悪人ではないと俺は判断する。

 何故なら幼少期、親父の不倫で傷ついた自分がいたように、三村の娘も同じように傷ついていたはずなのである。

 一度、三村の娘であり中曽根の嫁でもある戸籍上俺の義理姉が、精神的な病気からそのまま倒れた事があった。彼女は立った状態で意識をなくし、受身も何もとらずにアスファルトへ顔面を打ちつけ、鼻の骨を折ったらしい。

「いや~、うつぶせになったまま鼻血がドクドク出て、地面一帯が赤く染まっているのを発見した時は、下手なホラー映画よりも怖かったです」

 彼は苦笑しながらその事を俺に話した事がある。三歳の娘を持つ中曽根は、子供の保育園の送り迎え、そして奥さんの看病、さらに仕事と自分のプライベートなど何もない状態だった。

 普通ならすべてを投げ出してしまうだろう。そんな酷い日々を送りながらも、まだこうして家の仕事を手伝っている。

 不利な条件の中、親父と三村にうまくそそのかされ、家に入ってきた中曽根。会計事務所で働く彼を最初、親父は大層気に入っていた。息子である俺と二人で食事など一度も行った事ないくせに、中曽根とはよく食事へ連れ歩く。

 ある日近所の先輩から電話があり、「龍一、おまえの親父さん、一体どうしちゃったの?」と言われた事がある。その原因は、三村の娘家族と一緒に写った写真を使った年賀状を近所へ出していた事のようだ。俺ら三兄弟へ結婚の報告もせず、陰でそのような事だけはしていた親父。これで親子の亀裂はさらに深まった。

 従業員の伊橋さんの話によると、親父が中曽根へ調子良く接していたのは最初だけで、後半は酷いものだったと言う。

 配達の時間一つ取っても「幸ちゃんより、俺のほうが一時間も早く終わる」と従業員へ自慢しながら何かにつけて優劣を決め、自分がいかに優れているかをアピールしていたようだ。その内「あいつは使えない。駄目な奴だ」と言うようになり、ちょっとした確執ができていた。そこへ今回の三村騒動。彼にしてみれば、抜けられるいいチャンスだっただろう。

 中曽根自身も三年働いていれば、何が本当で何が嘘かぐらい理解してくる。

 始めは軽い挨拶程度、徐々にちょっとした世間話をするようになり、今日に至る。

 おばさんのユーちゃんはまったく逆で、始めの頃は「真面目な人だ」と言い、年数が過ぎると「あれは責任感も何もない」と言い放つ始末である。

 週に二回の配達と、会計役で月十万円の給料。それで会社の責任を押し付けられても、俺ならきっと「冗談じゃない」ってなってしまうだろう。

 当初、中曽根家族を勝手に家にあげ、廊下で俺に会っても挨拶すらしない三村の娘には常識のない女だと感じ、ずっと憎しみさえ抱いていた。しかし戸籍上姉であり精神的に病んでいた三村の娘。

 病気の妻と幼い娘を育てながら働かないといけない中曽根さんには、何を言われても、どんな状況でもイエスと頷くしか術がないかったのである。

 伊橋さん同様、彼も犠牲者の一人なのだ。

 神威家の家族から迫害を受けた者同士という共通点が、ちょっとした安堵感を生んでいたのも事実。

 俺が家を継がない最大の理由…、それは親父と一緒に仕事などできないというものからだった。それを彼は三年間も、その理不尽さに堪え忍んできたのだ。

 中曽根が品物をお客さんの家へ届けている間、名簿などを拝見してみる。細かい字でプリントされたルート表。一軒ごと回る度につけていたが、こうでもしないと顧客の住所など覚えられない。

 親父は要領が悪いと罵っていたが、昔から同じルートを配達してきた人間と、ここ数年でやり始めたばかりの人間を比較するほうがおかしい。経理だけしかして来なかった人間に、建築業の人間が「兄ちゃん、体力ないなあ」と小馬鹿にしているようなものだ。

「お待たせしましたー」

 ニコニコしながら中曽根が車へ戻ってくる。

「あ、中曽根さん。せっかくだから教えてくれれば、俺が帳簿つけますよ」

「あ、本当ですか? じゃあ、まずここを……」

 彼は自分で作成した表のつけ方を丁寧に教えてくれた。うん、確かに今日初めて配達へ付き合う俺も、これなら分かり易い。

「ところでそのビニール袋って何ですか?」

「ああ、あそこのお客さんのところへ行く場合、社長がいつも買っておけと」

 中身を見るとダンゴだった。

「これって毎回なんですか?」

「ええ…、今のお店は千円分買って、次のお客さんのところは五百円分鰹節を買ってといった具合なんですよ」

「だってそのお店がうちに配達で出した洗濯物って、ワイシャツ一枚で二百五十円だけですよね? それなのに千円分も毎回ダンゴを買うんですか?」

「はあ…、最初は僕も色々これでは仕事にならないと経費削減として忠告はしたんですが、やはり社長がそれでも付き合いだから買えと言われると……」

 確かに中曽根の立場で、社長である親父からそう言われたら、何も逆らえないだろう。俺が整体を開業した時なんて一度も顔を出しに来なかった親父。それでも周り近所に格好をつける性格は昔と何も変わっていない。

 本当に親父って腐った男だ。こうまで近所付き合いを大事に気遣えるくせに、子供の教育を放棄し、自分の快楽の為だけにずっと生き続けているのだ。

「書類一つ見てもそう。これ、中曽根さんがご自分で作ったものですけど、本来なら会社で用意してあげるぐらいの気遣いって必要じゃないですか。それに近所付き合いって言っても限度はありますよね。俺が会社を経営するなら、毎週配達の度になんて絶対に買わないですよ。どうしても買わないと会社としてこれまでやってきた面子がって言うなら、月に一度いくらまでと決めて、女性の事務員に買いに行かせますね」

 一瞬中曽根の顔が輝いた気がした。

 おばさんのユーちゃんが以前彼の事を「あれは責任感も何もなく、お兄さんの言いなり。臆病で駄目だ」と言っていた。その理由は親父に対し、経理を担当しているくせに何も言えないからだと言う。三村の義理息子の立場でうちに突然来て、あの親父の下で働く。そして親父の顔の為だけに仕事上好き勝手に動かされる状況。三村がいなくなるのなら辞めたくなって当然だ。

 川越の中をグルグル回り、隣の上福岡市、富士見市へ配達を進める。中には大きな病院もあった。こんなにもたくさんの客がある現状を見て感心する。これだけの基盤をおじいちゃんがせっかく築いたのに、台無しにしてしまった親父。

 おばあちゃんが生きていた頃を思い出す。俺が小学生の頃だ。

「広龍! 配達で回収してきた金をちゃんと出しな」

 そう親父に怒っていた事があった。渋々親父はポケットから札を取り出し、テーブルの上へ放り投げたのを覚えている。

 親父は家で従業員たちが一生懸命仕上げた品物を配達し、それを給料とは別に自分のポケットへくすねていた現実。ユーちゃんは学生だった俺に、いつもそう言いながら悔しそうにしていた。自分の部屋に置いておいた金まで盗まれた事があるらしい。それを追求して殴られ、鼻を折られた事もある。

 自分の邪魔になる人間は、三村と共にすべて排除してしまった裸の王様。何も知らない家来同然の人間だけを集め、自分の王国を築いたつもりだろうが、それでは繁栄など望めない。

 これまでの経験を活かした俺が、崩壊寸前の家業を継いだらどうか? 親父が経営するようになって穴だらけだった箇所もすべて修復し、新たな戦略を出しながらおじいちゃんの作り上げた城をさらに大きくできる。

「……」

 おまえのせいだ。ユーちゃんに責められた言葉が蘇る。両親の離婚の件もそう、南大塚の土地問題の件もそう…。また俺は、親父の尻拭いをこうしてやろうとしているのか?

 何故俺は傷つくのを分かっていながら、今こうして中曽根と一緒に会社の状況を見ようとしている? 家を継ぎ、経営を助けたところで、その先に待っているのは地獄しかないのだ……。

 プロレスのプロテストに合格した時もそう。

 歌舞伎町で金を稼いでいた時もそう。

 小説で賞を獲った時もそう。

 俺ら三兄弟の育ての親であるユーちゃん。俺は彼女に認めてもらいたかったのだ。

「私の行くプールにはインターハイ選手がゴロゴロいる」

「おまえは金のありがたみが分かっていない」

「こんな二時間で読めるような本に、九百八十円も出すのはもったいない」

 そう…、いつだって蔑まされてきた。本当にいい方向で捉えれば、俺を発奮させる為に言った台詞かもしれない。しかし、言い方に限度ってものがある。俺だって伊達や酔狂で様々な事をやってきた訳じゃない。

 レスラーの肉体一つ作るのも、どれほどの時間を費やし、鍛錬を積んできた事か。起きたら吐いていたぐらい食料を胃袋へ詰め込み、トレーニングの酷使から血の小便を流し、ボロボロになりながら体を作り上げたのだ。

 歌舞伎町で金を稼いだのだって、楽して稼いだ訳じゃない。死にそうな目に遭った事だってある。警察に捕まった事だってある。楽をして得た金なんて、どこにもない。

 小説だって同じだ。どんな想いを込めて文字に投影してきたか。固く閉ざされ心の根底まで静かに沈んでいた憎悪をほじくり返し、過去のトラウマを思い出しながら、そして時には泣きながらキーボードを打ち込み、作品を一つ一つ完成させていったのだ。

 周りから見れば、華やかに見えるかもしれない。でも、その分だけたくさんの努力と涙、そして想いが詰まっているのだ。どれ一つ取っても、楽な道などなかった……。

「あ、龍一さん、あそこの赤い屋根の家分かりますか?」

「え、はい……」

 いけない。今は配達の最中だというのに、過去の忌々しい記憶を振り返っていた。

「あそこもお客さんの家なんです。あの家はさっき買ったお団子を一つ一緒に持っていきます」

「それも親父の命令で?」

「はあ……」

「中曽根さん…、本当に今まで大変でしたね……」

「いえ、仕事ですから」

 彼は寂しそうに微笑みながら車から降りた。

 俺は一人になると、ポケットに入れておいたデジタルカメラを取り出し、お客さんの家とその近くの風景の写真を撮っておく。中曽根も辞めてしまうのだ。仮に継ぐと仮定して、配達の従業員を雇う際、配達のルートの地図やお客さんの家の様子などの画像付きの地図を作っておけば、誰が入ってもできるだろう。

 家に帰ったら、そのマニュアル的なものを作成してみるか。

「あれ、何をしているんですか?」

 中曽根が俺を見て、不思議そうな表情をしている。

「いえ、中曽根さんも当初は本当に苦労したんだなって」

 先ほど閃いたアイデアを細かく話し、こうしたら誰が入っても丁寧で分かり易いというものを作ってみるのはどうか伝える。

「龍一さん…、僕はずっと思っていたんですけど、神威家の兄弟、龍一さんと龍也さん、龍彦さんの三人で、一気に化けるのって龍一さんしかいないって思っているんです。もし、龍一さんがあの会社を継ぐというのなら、僕も楽しみだからまだ協力したいし、発想も斬新で面白いです」

 一度この人とは腹を割って話してみたかった。お互い誤解を招くような現状からスタートだったが、よく考えてみれば、どちらも親父と三村の犠牲者なのだ。

 彼が小説や格闘技の話を聞きたがったので、当時いかにやるせない気持ちだったかを俺は正直に話した。出版社と揉め、未だ印税すらもらえていない件。何故格闘技の試合へ、七年半のブランクがあるにも関わらず出たのか。その後様々な人間から罵られ、裏切りに遭い、人間不信になった事。すべてを話していた。

 自分の気持ちを相手が百パーセント理解してくれるなんて思わない。でも、分かろうとしてくれる人間はいる。中曽根は何度もゆっくり頷きながら、俺の話を聞いてくれた。

「話を聞いててもったいないのが、龍一さんはすぐ怒ってしまう部分なんですね。出版社の件なんて、僕が代わりに交渉をしたいぐらいですよ。でも、それだけやってきたのに、家族から認められる事すらないって、やっぱり辛いし、悲しいですよね……」

「いえ…、もうある程度は慣れましたよ。多分だけど、俺が今後何をしても、家族の見る目って変わらないと思うんです。大和プロレスに入団した事。歌舞伎町で多額の金を稼いでいた事。ピアノ発表会へ出場した事。総合格闘技へ復帰した事。パソコンのスキルの上昇。小説で賞を獲り本にした事。料理だってそうです。俺の作った料理、他人は喜んでおいしいって食べてくれますが、家だと誰も食べてくれません」

 自分で言っていて馬鹿だなと感じた。なら、何故あんな家を継ぐ継がないでこうやって悩み、実際に今中曽根とこうして話しているのだろう。俺は悲しいぐらい馬鹿だ。

 それでも中曽根の優しさは、俺の心を幾分か軽くしてくれる。

「え、龍一さんって料理もするんですか?」

 驚く中曽根。確かに俺が料理をする姿なんて、ピアノ同様想像もつかないのだろう。

「酷いですね~。ある意味一番経験の長いスキルですよ」

 お袋が家を出ていき自由になった俺。自分で好きなものをお腹いっぱい食べてみたい。そういった希望が俺の料理の原動になっている。包丁を持ち、台所へ立つ俺を親父は「女みてえな事しやがって」と殴ってきた。まだ小学生だった俺は、泣きながらそれでも包丁を離さず、野菜を刻んだものだ。

 お子様ランチを食べた事がない俺。高校生になってアルバイトをし、得た金で何度もハンバーグやミートソース、チキンライスを食べた。いくら食べても食べ飽きる事がない。気付けば自分で、それらの料理を作るようになっていた。

 味にこだわりを持ち、様々なものを食べてきた自分の舌を信じ、料理にはたくさんの時間を費やした。

 近所の人たちは俺の料理を喜んで食べてくれる。

 俺に懐く近所の子供たちには、お子様ランチ系の料理を作ってあげると大はしゃぎしてくれた。

 でも、未だ家族は俺の作った料理には手をつけない……。

 たくさん作ったミートソースが数日経っても減らず、薄っすら白いカビのようなものができたのを見ると、食べ物を粗末にしてしまったなあとやるせない気持ちになる。

 何で俺の料理だけは、そんなに忌み嫌うのだろう……。

 浅草ビューホテルでも多くを学び、懇意の仲である新宿プリンスホテルでも様々な料理を食し、歌舞伎町の激うま中華料理『叙楽苑』では本場の中華を食べてきた。

 一番下の弟…、いや、もう戸籍上弟ではないが、龍彦は七年半やっていた『神威クリーニング』を辞め、イタリアンレストランで働くようになった。何でもそこのオーナーはイタリアで修行し、一気に億単位の金を稼ぐようになったという。

 調理師の免許も持っていない龍彦の料理をおばさんのユーちゃんたちは喜んで食べていた。

 その程度の経験ぐらいでそうなるなら、俺のほうがよほど年数だってあるのにな。口に出さずとも、心の中では常にそう思う自分がいた。

 家族が期待する中、一年ほどで龍彦はそこを辞めた。

 あいつは厳しかったような事を言い、「兄貴じゃ勤まらない」と負け惜しみを言っていたが、俺は鼻で笑ってやり過ごす。それ以上の経験を俺はしてきている。少なくとも自分が勤まっていない状況なのに、相手へどうのこうのって言っている時点で言語道断だからだ。

 やめよう……。

 しょせん俺は、忌み嫌われし者なのだから。

『忌み嫌われし子』。二千六年に書いた作品。本当はどれだけ自分が忌み嫌われていたのか、それを書きたかったのだ。しかし書き出した内容は、まるで違うものだった。どれだけ読んだ人間を嫌な気分にさせるか。題名と内容がかけ離れた作品になってしまった。当時付き合っていた百合子は「これを読んであなたの人間性が嫌になりました。世に出るまで会うのはやめましょう」と言われ、別れる起因となった作品。

 別に人に嫌われようと思って行動してきた訳じゃない。人の為にと動いてきたつもりだ。でもちょっとした誤解から、濡れ衣から、人間は簡単に嫌われる。

 これまでの俺の人生、生き様など決して人に自慢できるものでもないし、疎まれるようなものだろう。

 だけど家族に言いたい。親父よりも俺は、そんなに悪い事をしてきたのかと……。

 結局のところ、神威家は誰かしら共通の敵を作っていないと、生きていけない呪われた家系なのかもしれないな。

 お袋が家にいた時代は、お袋が家族共通の敵。

 お袋がいなくなり、親父が敵になる。

 親父が三村という強力な援軍を引き入れると、次は息子である俺が敵。

 まるでロールプレイングゲームのラストに出てくるボスのようだ。ボスを倒す為、家族は一致団結する。

 連帯感を出すには、人間を一つにまとめるには手っ取り早い方法がある。それは一つの強大な敵を作り上げる事だ。常にボスは孤独な一人を選択。周りに強力な配下などいないほうが、人間はまとまりやすい。

 現実社会で言えば、その標的にされた人間は、忌み嫌われし者である。

 それが定めならば、俺は受け入れるしかない。いくら足掻こうが地団駄を踏もうが、何一つ現実など変わらないのだ。

 そこまで分かっていながら何故俺は、家のやっかい事に首を突っ込んでいる?

 家を継げと、家族に頼られているから?

 それは違う。誰も俺になど期待なんかしていない。

 何で三村がこのタイミングで抜けるのか? 計算高いあの女の事だ。八十年続いた店が潰れる際、自分がその場にいたくないからだ。「あなたがこの家に来たせいで、すべてが駄目になった」と噂され、罵倒されるのが嫌だから、このタイミングで抜けるのだろう。

 親父は今の会社の事業資金の状態を分かっているのか? いや、ほとんど分かっていないはずだ。

 あんな女に神威家を好きなようにさせやがって。うまく踊らされている事すら気付かない無知な親父。そして卑劣な三村。

 無知は本当に罪だ。

 馬鹿も本当に罪だ。

 生きている事すら罪になる。

 体内に流れる静かな殺意……。

 やっぱり過去、ヤクザ者に相談した時三村を殺しておけば、少なくても今、こんな風に悩む事などなかった。

 違う。ただのいい訳に過ぎない。あの時こうしたら、そんな事を振り返っても何もならない現実。過去は取り戻せないのだ。

 配達もほぼ終わり、残り数軒になった頃合いを見計り中曽根へ声を掛けた。

「中曽根さん、親父の命令で、和菓子屋で買ったダンゴをあの家とあの家には届ける。こっちには鰹節をといったやり方ってどう思います?」

「うーん…、確かに非効率ですよね」

「ええ、特に配達料も取らないし、逆にわざわざよそで購入したものまで与える始末。それで客のほうがたくさんの品物を出すかと言えば、逆に洗濯代のほうが少ないぐらいの現実。親父が付き合いという部分は分かりますが、いい格好し過ぎなんですよね」

「まあ……」

 中曽根は車を停め、バツが悪そうにしている。

「別に中曽根さんを責めている訳じゃないんですよ。だって親父がそうしろって言い出し、それを断るのって難しい事ですからね。これだけお客さんの家を回り、一つ閃いた点があるんですよ」

「え、どんなです?」

「ルート順になっていますが、一軒一軒の間が無駄に長い。つまり非効率な配達なんですよね。それに他の商売をしている客の品物を毎回購入。そういう事でしか付き合いができないのなら、必要ないと思うんです。そっちに経費を掛けるなら、別の掛け方がありますしね」

「龍一さんならどんな風に?」

「例えばですが、うちでしか使えない金券を作るんです。五百円券とか、ワイシャツ無料券でも何でもいいですよ。もちろん期日を決めて。…で、せっかく週に二回配達すると決まっているのなら、一軒ずつチラシも配りPRするんです。顧客紹介キャンペーンでも何でもいいんですが、紹介してくれたお客さんには千円分の金券を贈呈するとか」

「へー、それは面白い!」

 身を乗り出して笑顔になる中曽根。

「期日を設けているから、客もその金券を使おうとします。ただ、それだけじゃ悪いと思うのが人間の心理です。つまり金券以上の洗濯物を出さなきゃってなると思うんですね。それに顧客も増えるし、一軒ごとの感覚も無駄なく配達できるので、効率が非常に円滑になると思うんですよ。それにうちでしか使えない金券なんで、経費的にもそう無駄はないと思います。あくまでもこれは一例に過ぎませんが」

「すごいですよ、龍一さん」

「客が喜び、なおかつ客も増え、売上も上がる。そんな方法を適当に考えるのって得意なんですよね。昔ですが、一応SPプランナーもしていた時期ありますから」

「龍一さん! 一緒に頑張れませんか?」

「俺が入れば、親父がやっているよりは遥かマシにできますよ? ただ、親父が本当の意味で変わらない限り、俺がどんな手を使って会社を立て直したところで意味がないんですよ。だって親父は自分でしてきた事に対し、何のケツも取っていないじゃないですか。俺はこれ以上、親父のケツなど拭きたくないんです」

「……」

 いい頃合いだ。本当の本音をぶつけてみるか。

「中曽根さん…。三村…、さん付けなどしません。ハッキリ言いますが、俺は三村が大嫌いです」

「……」

「俺や中曽根さんの戸籍上母親になっていますが、あいつのした事はやはり許せないんです。俺、あいつらが結婚していたのを知ったのって、五年経ってからなんですよ。つまり中曽根さんと初めて会った頃、あのぐらいに初めて知ったんです……」

「りゅ、龍一さんもそうだったんですか……」

「え?」

「うちの高ちゃん…、僕の妻ですが、彼女も自分の母の結婚をほぼ同時期に知ったようです。僕が『神威クリーニング』へ入るちょっと前ですね……」

「……」

 以前中曽根の妻が不意に意識をなくし倒れ、顔面をぶつけ、鼻を折った件。精神的におかしくなっていると彼は言っていた。

 親父らが中曽根家族を家へ招いた時もそうだ。廊下で俺とすれ違っても、挨拶一つしない中曽根の妻を憎んでいたが、気が病んでいるだけだったのだ。

 俺ら三兄弟は男だし、まだ精神的にタフにできていた。

 三村の娘は二人姉妹。一人は顔も見た事ないが、片方、中曽根の妻は通常の生活ができないぐらい病んでいる現実。知らないほうは伊橋さんの話だと、母親である三村を嫌い、まったく無関係な生活を送っていると聞いた事がある。

「前に社長と、お母さんが揉めていた頃……。もうずいぶん昔の事ですが…、車の中で当時『神威クリーニング』で働いていたパートの人を車に乗せて、お母さんがすごい剣幕でその人を怒鳴っていた時、後部座席でまだ若かったうちの高ちゃんが、泣きながら『お母さん、やめて』と何度も叫んでいたそうです。まだ僕が、彼女と会う前の話なんですけどね……」

 うちで過去働いていたパート…。茜さんの事か……。

 俺が高校三年生の頃だから、もう二十年も前の話になる。うちに乗り込んできた三人の人妻の三村、宮橋、パートの茜さん。学生だった俺の前だけでなく三村は、自分の娘の目の前でも錯乱し、醜態を晒していたのか……。

 精神が病み、そんな背景など知らずに結婚した中曽根。彼は親父と三村の口車に乗せられ、三年前『神威クリーニング』へ希望を持って入ってきた。

 恨む相手を間違えるな。

 この三年間、どれだけ辛い日々を過ごしてきたのだろう。

 俺はゆっくりと右手を差し出した。

「龍一さん……」

「はは、何だか中曽根さんと無性に握手したくなっちゃって…。あ、安心して下さいね。別に俺、ホモっけなどないですから」

 俺のくだらないジョークに、中曽根は大袈裟に笑っていた。普段なら愛想笑いしかしない彼。今の笑いが本当かどうかは分からない。

 でも、先ほど話した事実には、彼の本音があった。

「そこで、一つ提案があるんです」

「どんな?」

「いきなり家を継げと言い出したあの馬鹿夫婦。金がある時はやりたい放題して、なくなってから人に押し付けるなんて、舐めているじゃないですか。だからあいつらにも、リスクってもんを背負ってもらうんですよ」

「リスク?」

「ええ、言葉で継げ。誰でもできるんですよね、そんなもん。そうじゃなく本気で言っているのなら、俺のこれからの人生を変えようとしているんですよ? だからあの二人には、それぞれ最低でも百万円ずつ…。個人で借金をしてもらい、俺に差し出せと」

「……」

「別に金がほしい訳じゃないんですよ。ただ継げって事は、俺に会社を授け、賭けるって事です。だったらおまえらも少しぐらいその誠意とリスクを負え…。それだけなんですね」

「なるほど……」

「中曽根さん…、俺とは戸籍上兄弟なんですよ? 中曽根さんは四十二、俺は三十八。言い換えれば義理とはいえ、俺の兄貴なんですよ? 知り合って三年も経っているのに、一度も俺たち食事すら行った事ないじゃないですか。すべて親父と三村が、始めの一歩を踏み間違えているから、こんな風になってしまったんですよ」

「……。そうですね……」

「あいつらがそこまで腹を括るなら、俺も覚悟を決めますよ。その前に入った数百万で、男同士、キャバクラでも風俗でも何でもいいですよ。ドカンと前夜祭として派手に行きましょうよ」

「そ、それはちょっと…、僕は一応妻子持ちですから……」

「じゃあ、うまいものでも何でもいいんですって」

 そこまで話すと俺たちはゲラゲラ笑った。

 中曽根とは本音の話し合いができたのだ。あと俺が継ぐかどうかは、あの馬鹿夫婦がどれだけ腹を括っているのか。そこに尽きる。

 最低でも百万円ずつの借金。金に汚い三村の事だ。どれだけの金をうまく引っ張ったのかまで分からないが、これであの女をギャフンと言わせる事ができる。

 

 配達がすべて終わり家へ戻ると、玄関口で三村が出迎えていた。

「龍ちゃん…、本当に今日はありがとうね」

 何故か目をウルウルさせながら俺を見る三村。この女、演技が臭過ぎるんだよ……。

「何がありがとうなんです? 別に家を継ぐとかそういうんじゃなく、ただ単に家の事業資金がどうなのか。あとは家の客の場所を把握しとこうってだけの事ですよ」

「ううん、私には分かるの。龍ちゃんは本当に優しい子なのをね。お金の事も頼ってこないし、いつも陰から見守っているのも分かっているの」

「……」

 本当に胸くそ悪い台詞を多発する馬鹿だな。今まで陰で人の事をパラサイトなどと抜かしていた女が、急にこれかよ。薄気味悪いんだよ。

「そうだ、お腹減ってるでしょ? 私が出してあげるから、あそこのおそば屋さんでも行って食べて来たら?」

 この守銭奴がこんな台詞を言うなんて珍しいものだ。ただ中曽根と話し、運営金状況を確かめておきたかっただけで、別に家の仕事を手伝っている訳じゃない。まあどうせあとで経費として落とすだけだろう。ここは素直にその好意へ乗っておくか。

「どうせ食べるんなら肉のほうがいいですね」

「あ、そうよね。幸ちゃん、お金持ってる? あとで領収書渡してくれれば出すから、ちょっと立て替えておいてくれる?」

「は、はい……」

 中曽根も、これまでにない対応の三村を見てビックリしているようだ。

「じゃあ、中曽根さん、行きましょう」

 俺たちは再び車に乗り込み、ステーキ宮へ向かって発進した。

「まだ俺が継ぐと決まった訳じゃないのにあいつ、妙に上機嫌でしたね」

「ははは……」

 レストランに到着すると、午後四時だというのにまだランチをやっていた。この不況なご時勢である。飲食店側はこうでもしないと客がなかなか入らない状況なのだろう。

 メンチカツとビーフ五十グラム、ライス、スープお代わり自由の宮ランチが六百八十円。よくこれで儲けが出せるものだ。俺はメニューをひと通り眺めて、サーロインステーキランチに決める。中曽根は何度もメニューを見返し、なかなか決められないようだ。

「俺はこれにします。中曽根さんは?」

「じゃ、じゃあ僕はこれで」

 指したのは一番安い宮ランチ。こんな状況なのに何を遠慮しているのだ。

「駄目ですよ、中曽根さん。ステーキ屋に来ているんですから、せめて俺と同じものを食べましょうよ」

「いや~…、ほとんど僕は外食ってないんですよ。どうもこういうところへ来ると、緊張しちゃいましてね。普段の地味な生活が身についているのか選ぶとしても、ついこういうのになってしまうんですよね」

 週に二回出勤で十万円の給料をもらうだけ。違う日に別の仕事もしているらしいが、それでも生活に余裕があるほど稼げていない現実。

 彼にこんな生活を送らせておきながら、何故家の金はどんどん目減りしていくのだ? 親父は飲むだけの男。やはり三村が金をうまく掠め取っていったとしか思えない。

「だってステーキランチだって千円ですよ? たった三百円違うだけで、ステーキが食えるんです。それにどうせ三村が出すって言ったんだし、こっちにしましょうよ。中曽根さんがステーキを嫌いっていうのなら無理強いはさせませんが」

「よし、じゃあ僕も、龍一さんと同じものにしちゃいます!」

 そう言った彼の表情は少し吹っ切れたように見え、明るくなっていた。

 料理が来るまでの間、俺が過去新宿歌舞伎町時代、いかに乱れていたかを笑いながら話す。抱いた女の数すら把握できず、名前さえ知らない女もいた。当時はそれでモテた気になり、有頂天になっていた馬鹿な時代である。

「すごいですね~。でも、僕が『神威クリーニング』に入った頃、龍一さん、子連れの女性と付き合っていましたよね?」

「ああ、あの当時はですけどね…。もうとっくに別れてしまいましたよ」

 もう彼女がいなくなって三年以上の月日が経つ。最後に付き合った彼女、百合子。あの一件で、俺は深く女性に関わるという事から未だ逃げていた。

 もうかなり時間が過ぎたんだ。そろそろ彼女の一人ぐらい作らなきゃ。そう思い、綺麗な女を見れば口説きはする。抱く機会があれば迷わず抱く。しかし相手がそれで本気になると、俺は断り関係を遮断していた。

 忌々しい思い出の数々。楽しい事だってたくさんあったはずなのに、嫌な思い出が異性との距離を開いていた。

「今は彼女さん、いないんですか?」

「ええ、特にほしいとも思わなくなりまして」

「何でまた? 龍一さん、まだ若いじゃないですか」

「別に女に興味がなくなったって訳じゃないんですよ」

「それならそろそろ結婚を考えても」

「結婚ですか……」

「回りから見れば、僕の生活って大変そうに見られるみたいんですけど、それでも結婚、いや家族と言ったほうがいいのかな。戻るところがあるって、いいもんですよ。僕の娘もやっぱり本当目に入れても痛くないですしね」

 中曽根の顔を見る限り、虚勢で張っているように見えなかった。そうか、あんな状況でもこうして頑張れるのは、大事な家族が彼にはいるからなんだ……。

 百合子とは結婚まで考えていた。バツ一だった彼女の娘、詩織と小百合。血は繋がっていないが父親として出来る限り接するよう気遣い、最善の努力をしてきたつもりだ。だから毎年出る川越祭りの前夜祭へ、四人家族として出席もした。ホテルのレストランを貸しきりで行われた催しなので、町内の人たちに紹介するという意味合いもあったのである。

 笑顔で元気良く挨拶した詩織と小百合を、汚いものでも見るかのように無視した親父。俺はそれが許せなくて、終始前夜祭では苛立ちを隠せなかった。百合子の娘たちを守りたかったのだ。

「私の娘をあなたたちのくだらない親子関係に巻き込まないでよ!」

 前夜祭が終わったあと、百合子に言われた台詞。思えばこれが別れに向かう起因だったのかもしれない。

「よくもこんな作品を読ませたわね? 三流お笑い芸人並みの小説を」

 以前『忌み嫌われし子』を読んだあと百合子に言われた台詞。あれから四年近く経っているのに思い出すと、未だに精神がおかしくなりそうだ。

 読者の一人からは「神威龍一さんは天才だと思った」と言われた事もあるこの作品。考えさせられた。最後は感動した。様々な感想をもらい、本来なら自信を持てるような状況なのに、百合子の言葉で木っ端微塵に打ち砕かれた。

「先生と呼ばれていい気になってんじゃないの? こんな場所で開業したからって、偉いとでも思ってんの? 白衣を着ているから先生? 本当に図に乗ってるわね」

 本川越駅前の『神威整体』へ両脇に詩織と小百合を従えて来た時、言われた台詞。クリスマスイブ前日で人通りも多かったせいか、多数の通行人が不思議そうにこちらを眺めていた。

「失せろっ! 二度と俺の前に姿を現すなっ!」

 薄緑色のパテーションをつかみ、入り口へ向かって投げつけた俺。頭を抱え、うんざりするぐらいイライラした。

 皮肉にもこの日、患者がたくさん押し寄せ、夜中の四時まで施術をした。俺の精神状態がどうであれ、患者たちにはまるで関係ない。予約をすべて受け、痛みを訴える患者へ誠心誠意接する事で、ずいぶんと気が紛れた。

 患者すべての施術を終えると、俺は徒歩五分の距離で帰れる家に行くのさえ面倒で、そのまま整体の鍵を閉め、寝台ベッドへ寝転がり目を閉じた。そして真冬だというのに毛布も掛けず、そのまま寝てしまう。

 何度も鳴る携帯電話で重いまぶたを開く俺。起き上がると気だるさを感じた。風邪でも引いてしまったかな……。

 それでも携帯電話を手に取る。百合子からの着信だった。

「何だよ……」

 まだ朝の六時だったせいか睡眠不足もあり、苛立った声で電話に出る。

「別れる方向で考えていいのね?」

 ヒステリックに叫ぶ百合子。こんな朝から何を考えているのだ、この女は? ずっと罵倒される言葉を黙って聞いていた俺は、そのまま電話を切った。すぐに鳴り出す電話。

 もう本当にうんざりだ……。

 俺は携帯電話の電源ごと落とし、この日を境に百合子と別れる。

 過去の嫌な思い出を一つ一つ、ゆっくり思い出しながら俺は中曽根に話していた。

「それは大変でしたね~……」

「ええ、本当に大変でした。今も女はいいかなっていうのあるぐらいですからね」

「もっといい女性との出会いだって、きっとこれからありますよ」

「それはそうでしょうね。俺、ピアノを弾いたり、小説を書いたり、色々してきたじゃないですか。あれって何でだか分かります?」

「いえ、何でです?」

「三十歳になった頃、一人の綺麗で可愛い女と出会いましてね。当時月に百万も二百万も歌舞伎町で稼いでいた頃です。ほとんどの女がなびいたんですが、その子だけはなびいてくれなかったんですね」

「へえ」

「最初口説いた時は、彼女も自分の誕生日に時間を作ってくれて、本当に幸せを感じました。俺、酒ってメチャクチャ強いんですよ。でも、その日に限って不思議と酔っちゃいましてね。気付けば避けられるようになっていました」

「あらー、それでどうしたんです?」

「金とか権力とかそういうんじゃなく、じゃあその時の自分に何をしてやれるか? そう思うようになり、彼女…、秋奈って名前だったんですが、秋奈へピアノを弾いてやろう。それでピアノを始めた訳なんです」

「それで前に川越の市民会館でやったピアノ発表会まで?」

「ええ、ただ今もインターネットで調べればすぐに出てきますけど、あの発表会の演奏のあと、俺すごいそっけなく挨拶して帰っているんですよ」

「え、何でですか?」

「肝心の秋奈が会場に来てくれなかったからですよ。とんだピエロですよね。だからとっとと帰ってしまったんです」

「龍一さんらしいなあ」

 中曽根は目を細めて笑っていた。

「でも、諦めの悪い俺は、今度小説にチャレンジしたんですよ。それで生み出されたのが『新宿クレッシェンド』なんです」

「へえ、あの小説って一人の女性の為に?」

「まあ色々理由付けはありますよ。自分の一番信頼できる先輩で最上さんっているんですけど、あの人が俺にパソコンのスキルを叩き込んでくれたんです。だから何か一つでも負けないものがほしいなあと思うようになったから、小説を書き始めたのもありますしね」

「それで賞まで獲っちゃうっていうのがすごいんですよ。しかも格闘技の試合まで出てしまうんですから」

「どっちにせよ二千八年のあの頃は、過去の貯金に過ぎないですよ。今の俺がどうこうしたからって訳じゃないですしね。それにうちの家族見れば分かると思いますけど、誰もすごいなんて思わないですよ。逆に真面目に仕事をしろってうるさいぐらいで」

 俺が何をしても家族は認めてくれない現実。それを考えるなら川越という土地柄もそうか。ほとんどの人間が関心すら示さない。

 俺は地元に嫌気を差し、関わるのもやめようと思ったんじゃないのか? それなのに何故まだこうして家を継ぐかどうかなど関わっているんだ?

「話を戻してすみませんが、小説を書いて、その女性の反応ってどうだったんですか?」

「ああ、秋奈はずっとあれだけ会ってくれというのに駄目だったんですが、『新宿クレッシェンド』を本にして送ったら、彼女からメールが届いたんですね」

「何てですか?」

「何かうまく言えないけど、すごい良かったです。メールとかじゃなくて、逢って実際に感想とか言いたいって」

「へえ、それはいい話ですね」

「そこまではですけどね……」

 今考えても自分の愚かさを呪う。そして都知事、あいつだけはいずれ俺が引導を渡してやる。

「そこまでと言うと?」

「ずっと待ち焦がれた秋奈とのデートの前日に、馬鹿な都知事がやった新宿歌舞伎町浄化作戦が始まったんですよ……」

「あらら……」

「当時あの街で裏稼業の統括をしていたんですが、その内の一店舗がいきなり警察にパクられたんですよ。それでどこの警察署が持っていったのかを調べ、弁護士の手配、差し入れの準備と色々駆けずり回っている内に、徹夜になったんです」

「そんな大切なデートの前日にですか?」

「ええ、本当に何て日だって恨みましたよ。…で、待ち合わせまで二時間ほどあったから、疲れた顔をしていたし、ちょっとだけ寝ようと。起きたらすごい時間寝ていて、秋奈をすっぽかす形になってしまったんですね。あれほど待ち望んでいたはずなのに……」

「とんだ災難だったんですね」

「その日って、当時口説いていた百合子の誕生日でもあったんですよ。それでそのまま百合子と付き合うようになって」

「運命の分かれ道だったってところですかね」

 話の腰を折るようなタイミングで、料理が運ばれてくる。

 中曽根はとても嬉しそうにステーキを切り分け、口へ持っていく。こういう場所へ来る事自体、久しぶりなのだろう。

「実は僕も大学生の頃だったんですが…、あ、これ、高ちゃんには内緒にして下さいよ?」

 食事を終えた中曽根が突然話を切り出した。

「え、奥さんにですか? もちろんですよ。それに俺は接点なんてないじゃないですか」

 笑いながら言うと、彼は安心したように口を開く。

「実は大学時代、本当に綺麗な子がいましてね。僕、女性ってものに対しあまり口下手だったせいで、彼女とかいなかったんです。でも、その子からある日映画へ行きませんかって突然誘われて…。もちろんOKしましたよ。それをきっかけに何度かデートみたいなものをするようになったんですよ」

「思いっきり青春じゃないですか」

「ええ、その通りですね。懐かしいものです。それで僕が、急遽留学する事になったんです、一年ほど」

「彼女は?」

「待っていると言ってくれました。でも、その一年で僕は逆に不安になってしまったんですよ」

「不安に? 何でです?」

「向こうは、こんな僕を勝手に美化して待っているんじゃないかって」

「ずいぶんつまらない事を考えていたんですね」

「ええ、それでその勝手に生み出したプレッシャーに堪えられなくなったんです。気が付けば、彼女を避けるようになり……」

「……」

 好きなのに避ける。俺では考えられない事だけど、普通はこういうものなのだろうか? 過去付き合ってきた女たちと、今でも連絡を取り合うという事がまるでない俺。とことん嫌になるまでは付き合ってきたつもりだから、別れたあと未練がないのだ。

「一度、彼女から会ってほしいと言われました。でも、僕は会えませんでした。それから少しして、その子は結婚してしまいました。そのあとですけどね、高ちゃんと知り合ったのは」

 彼は幸せだとは言うが、それが三村の娘とのきっかけだったのか。中曽根の最大の不幸は、三村のような女と戸籍上親子になってしまった事だ。すべてが自分の欲の為だけに生き、目的の為なら何でも傍若無人に行動する図太い神経の持ち主。

 しかしそれが原因でできた俺と中曽根の接点。本当に皮肉な人生である。

 今日は何にせよ、こうして話し合う事ができて良かった。

「時間を作って中曽根さんと話せて本当に良かったです」

「僕もですよ。龍一さん…、龍一さんが継ぐなら僕も辞めるとかじゃなく……」

「その時はぜひよろしくお願いしますよ。でも、その前にあいつら馬鹿夫婦にけじめをつけさせてからですよ。そしたら俺の義理の姉でもある中曽根さんの奥さん…、そしてお子さんも一緒にうまいものでも食べに行きましょうよ」

「そうですね」

 俺たちはまたガッチリと握手を交わした。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 01 鬼畜道(始めの一歩編) | トップ | 03 鬼畜道(始めの一歩編) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

鬼畜道 各章&進化するストーカー女」カテゴリの最新記事