翌日になり、昼まで部屋でゴロゴロして過ごす。
そうだ、昨日の試合の事を自分のブログに書かないと……。
俺はパソコンを起動して、『新宿リュウの部屋 セカンド』を開く。
【負けてしまいました。
二千八年一月十四日。
応援してくれたみなさま、ごめんなさい。負けてしまいました。
写真の花束はサイマリンガルより(新宿クレッシェンドを出版してくれた会社)。
でも、大きな怪我もなく、無事試合も終わりました。
会場に来てくれたみなさま、ごめんなさい。そしてありがとうございました。
満員御礼、立ち見の人までいましたね。来場してくれた方々、ありがとうございます。
明らかに練習不足とブランク。でも、言い訳になりません。みなさま、すみませんでした。対戦相手の権田選手には、これからも頑張ってほしいですね。
たー坊、今日は本当にありがとう。お疲れさまでした。
格闘技って色々な人の想いで成り立ち、たくさんの温かい観客の声援で熱を帯び、とてもいい経験と勉強になりました。
最後にこのような場を設けてくださった主催者のディーファさん、ありがとうございます。 神威龍一】
日にちを昨日にして上で記事を書き終え、セブンスターに火をつける。煙をゆっくり吐き出しながら、自分の書いた記事や画像をしばらく眺めた。
この試合でもらったファイトマネーとか、サイマリンガルの意味不明な行動をハッキリ書いたら、みんな驚くだろうな。まあ、そんな事こんな時期に書ける訳ないけど。
それにしても、本当に時間が流れるのが早く感じた日々だったなあ……。
忙しかったけど、それなりに充実していた証拠だ。
先輩の最上さんから電話が入る。
「おまえの試合は負けたら映像消すって言ったけど、家にあのあと帰って有子に見せたら、『龍君頑張ったんだから、ちゃんと渡してあげなさいよ』ってうるさいから、ネット上にアップするから」
「ありがとうございます、最上さん!」
いつも最上さんは皮肉を言うくせに、根っこの部分では優しい。「龍一が負けた映像なんて取っといてもしょうがない」と試合前、何度も言っていたぐらいだ。
腹が減ったので、一階の居間へ向かう。ちょうどおばさんのユーちゃんが昼食の準備をしていたので、俺も席へ座る。
おじいちゃんと従業員の伊橋さんもいたが、特に試合の事は聞いてこない。あまり格闘技には興味がないのだろう。
トーストを食べながら世間話をしていたので、俺は昨日試合に負けた事を伝える。しかしユーちゃんは、どうでもいいような対応しかしなかった。仕方なく小説の話題に切り替えようとすると、「おまえの作品は、読んでいて暗く嫌な気分になるから読みたくない」と簡単に言われてしまう。
幼少期から俺を育てているユーちゃんからすれば、『新宿クレッシェンド』の主人公である赤崎隼人の虐待シーンが、俺の実体験だという事ぐらい分かるはずだ。それにしても、酷い言われようである。
「ユーちゃんはそうでも、こんな俺の作品を喜んでくれる読者だってたくさんいるんだ」
「おまえの本は、二時間もあれば読めてしまう。そんな短い時間で読める本に、九百八十円も出すのはもったいない」
何をしても完全な俺否定。いつだってそう。大和プロレスへ入門した時も、神威整体を開業した時も、すべて否定から入るのがユーちゃんだった。
「あのさ…、一応俺、賞を獲って本を出したプロの作家なんだけど?」
本当はこんな風な言い方などしたくはない。しかし応援してくれる読者に対し、このぐらいの言い方をしないと申し訳ないと感じた。
「あの程度の賞で、何を言ってんだよ」
呆れたように笑うユーちゃん。
「おい…、おまえが自分で同じ事をやってから、簡単に言えや、コラ……」
俺が凄みながら言うと、横にいた伊橋さんが口を挟んでくる。
「本当だよ、龍ちゃん。あのぐらいで天狗になっていたら、笑われちゃうよ」
「……」
あのぐらい? 処女作で賞を獲った事をあのぐらいと簡単にこの人は言えるのか……。
昔、伊橋さんはいい大学の文学部に所属し、選考委員などもした経緯があるらしいが、以前俺の作品をこれでもかと言うぐらい罵倒された。おかげで考え過ぎた俺は、二千五年の一年間、一つも作品を完成できず、大スランプになった過去がある。
結果を出し、本まで出版した俺に向かって、まだそんな言い方をするのか。クレッシェンドだって、応募数五百部ほど集まった中で、一位に輝いた作品なのだ。
大手出版社の川角だって、作品応募数はそう変わらない。選考委員をやった経験があるのに、その価値すら分からないなんて、だから世の中、どうでもいいつまらない本ばかりが評価を得て、本屋に羅列するのだ。
気分が悪くなりそうだったので、俺は外へ散歩に出掛ける。
賞を獲ってのが去年の八月三十一日なので、四ヶ月以上の時間が過ぎた。
日本全国ネットでニュースになったにも関わらず、川越の人間はまったく意に欠かさない状態だった。俺の事をよく知る知り合いのみが、作品に関する話題をするぐらいだ。
近所の早稲田大学を出た酒屋さんには、「一回賞を獲ったぐらいじゃ、駄目だよ。二回も三回も獲らなきゃ」と簡単に抜かしていたが、「じゃあ、あんたが一回でもいいから獲ってみなよ」と言いたい。
学校に本を卸す大手の本屋の息子である同級生の吉村辰夫。通称タタには発売前、「俺の本が発売されたら、おまえのところの本だけは全部サインしといてやるよ」と道端で会った時伝えた事がある。しかし、タタは「サインされると返品利かねえんだよ」と小生意気な事を抜かした。
幼稚園からの同級生だった守野純治からは、「神ヤンが賞? ちゃんと本になるんだ? もっと胡散臭い賞かと思ったよ」と言われる始末。
市役所に至っては「川越出身の作家として賞を獲ったのは、神威さんが初めてでずが、本を出す為、営利目的になるので、市の広報へ載せる事はできません」と言われた。
「おじいちゃんには、いつもお世話になっています」
「お父さんには、いつもご馳走になっています」
そう人の顔を見る度抜かす川越の住民たち。だけど俺がした事に関しては、何の興味も示さない。
地域活性化を謳う川越。どこが人情味に溢れた街なのだろうか?
「龍一さ~ん」
俺を呼ぶ声がしたので振り向くと、川越祭りで同じ連々会に属している女の子二人だった。
「おう、どうした」
「私たちに…、『新宿クレッシェンド』を下さ~い。あとサインもして下さ~い」
いきなり手を前に出して本をせがむ二人。
「……」
呆れて何も言えなかった。ここから歩いて五分ほどの距離にある神威整体を開業した際、一度だって挨拶に来た事がない。試合だって当然応援にすら来ないし、激励さえない。挙句の果てに、まだ本までねだろうというのか?
あくまでも俺は本の作者であり、本屋ではない。彼女らが言った台詞を額面通りとると、俺がわざわざ本屋に行って自腹で『新宿クレッシェンド』を買い、サインまでしてプレゼントしなきゃいけないのかって感じだ。
ヤクザの内野にしても、何でこの街は、たかり思想の奴らが多いのだろうか。
あの忌々しい記憶もそうだ。賞を授賞した日にたかってきた川角書店下請け会社取締役の海野と、リサーチ会社部長の肥田。あいつら記念すべき日に、祝おうと近づきながら最後の会計では、「あれ、金がない」と、うまく俺に支払いを押しつけてくるような五十代後半のオヤジ連中。
いや、地元だけじゃない。思い返せば、歌舞伎町の連中だって人を利用しようという人間は多かった。あの頃はまだ多額の金を稼いでいたから、そう気にならなかっただけなのかもしれない。
裏稼業は日本の法律では罪になる。でも、俺が過去にやってきたものは、少なくても人を騙すような商売などしていない。それなのに犯罪者扱いされる現実。
人をうまく利用する事のほうが、よほど罪深い事なんじゃないのか?
だからこの世の中が、どんどんおかしくなるのだ。
整体時代、よく来た同級生の岡崎龍典ことちゃぶ台も酷い奴だった。俺の診療時間中、患者がいようと平気な面をしながら来て、自分の悩みを話す。石沢さんとかいい患者に恵まれていたおかげか、たまたま怒るような人間はいなかっただけで、俺にしてみればいい営業妨害である。
俺に当時付きまとってきた京都のカウンセラー大山しじみ。あの女を追い駆け京都まで行ったちゃぶ台は、それ以降ほとんど俺と関わろうとしなかった。昔から女とのトラブルがなくなると、急に付き合いをしなくなるような男である。
現に俺の授賞した日の祝賀会には「眠いから」のひと言で参加せず、試合だって「仕事だから」と来なかった。あいつもゴッホ同様、電話の一つもない。
今までの小さな事が、一つの大きな憎悪になっていくのを感じた。
応援しろとか、協力しろなんて言わない。せめて俺を利用したり、邪魔しようとしたりするのだけは本当にやめてほしいものだ。
試合から一週間が過ぎ、同級生の飯田誠と会う約束をする。その間、俺はコメディ小説の『膝蹴り』、ミステリーホラーの『忌み嫌われし子』を賞へ応募してみた。俺の半生でもある幼少期から高校時代までを描いた作品『鬼畜道』も応募に踏み切る事にする。クレッシェンドに続き、また授賞できたら面白い展開になってくれるだろう。
彼とレストラン『エトワール』へ食事に行く事にした。
ここは雰囲気のいいレトロな店で、店の人も愛想が良く懇意にしている場所の一つだった。店頭にあるガラスのショーウインドーに収まったメニューの数々。品数も豊富な老舗のレストランである。
俺はチーズハンバーグセットと、ナポリタンとカニクリームコロッケ二つのメニューを注文する。飯田はビーフシチューを頼んだ。
「あれからゴッホの奴、一度も連絡ないんだぜ。ちょっと酷いと思わない?」
「一体どうしたんでしょうね~」
「ちゃぶ台みたいな奴は、昔からそういうところがあったから、まだいいやって思えるんだけど、ゴッホはさすがに今回の一件で呆れちゃったよね……」
「うん、僕もあれはちょっとないと思いますよ。あ、そうそう…、神ヤンの本を二冊持ってきたんだけど、サインしてもらっていいでしょうか?」
穏やかな彼の存在は、苛立つ俺の心を静めてくれる。
「そんなのお安い御用だよ。本当にありがとう……」
本にサインをしていると、店の主人が笑顔でやってくる。
「神威先生…、本当ならビールでも出したかったんですが、お車でいらしたようなんで、代わりにジンジャーエールで乾杯して下さい」
そう言いながら、ゆっくりテーブルの上にジンジャーエールを置いてきた。
「そんな…、申し訳ないですよ……」
「いえいえ、その代わり食事中失礼ですが、先生の本買いましたんで、サインいただいてもよろしいでしょうか?」
主人の心遣いに思わず泣きそうになってしまう。こういう心温まる店が、まだ残っているじゃないか。
「本当にありがとうございます」
俺は何度も頭を下げてお礼を言いながら、丁重にサインをした。
まだこんな俺を先生と呼んでくれる人がいる……。
川越の店に食事へ行き、このように「サインがほしい」と言ってくれた店は、三軒だけだった。この『エトワール』、川越駅西口にある『トーゴー』、そして近所のラーメン屋『呑龍』である。
味噌焼きチキンが絶品の店『トーゴー』では、マスターがアルバイトの子に「おい、今すぐ神威さんの本を買ってきてよ」とその場で買いに行かせ、サインをしてほしいと来てくれた。
嫌な事ばかりではない。『エトワール』へ食事に来て、俺は大切な何かを見つけられたような気がする。
「いいお店ですよね」
飯田も店内をゆっくり見回し、ニコニコしながら何度も言っていた。
ゴッホからは未だ連絡がない。
飯田と会って気分良くなった俺は、試合にも応援に来てくれた荻原強ことおぎゃんを誘い、酒を飲みに行く事にした。
店は、彼の家の近くにある美食居酒屋『ぼだい樹』へ決める。
ここの若オーナーである成田真奈美とは、一時期いい仲になりそうだった。いつも明るく可愛い真奈美は、俺より二つ年下。彼女はよく仕事が終わってから、整体へ顔を出し、色々な話をしていた。真奈美の母親からも気に入られたのか、神威整体時代毎日のように弁当などを差し入れしてくれた。
亀裂が入ったのが二千七年三月十五日。彼女が患者として施術をしているところ、突然大崎秋奈が整体へ来たのだ。
秋奈はこれまでで一番愛した女性といっても過言ではない。彼女の為にピアノを弾き始め、小説を書き出したのだ。それでも俺になびいてくれない秋奈。五年ぶりの再会だった。彼女を忘れようと諦めかけた頃でもある。だから色々な女に手を出し、やるせなさを誤魔化していたのだ。
「真奈美ちゃん…、悪いけど、帰ってくれないかな……」
もう少しでうまく行きそうだった真奈美に対し、自然とそう口を開いた俺。最低なのは百も承知だった。それでも秋奈は俺にとって、今でも特別な女性だと実感する。
『新宿クレッシェンド』がまだ賞を獲る前だったので、俺は秋奈へ「賞を獲れたら俺の女になれ」と伝えた。彼女は寂しそうに笑うだけでちゃんとした返事をくれず、実際に賞を獲り、みんなが見ているインターネット上から告白するも、フラれた……。
同じ女に数年掛けて口説き、何度もフラれた馬鹿。それが俺だ。
それ以来俺が『ぼだい樹』へ行っても、営業用のスマイルしかしなくなった真奈美。
悲しくもあるが、自分で招いた種なのである。
おぎゃんと店へ到着すると、カウンター席に見覚えのある顔が見えた。幼少時代のピアノの先生である、飯田政子先生だ。
「あれ、政子先生じゃないですか!」
「龍君! それに萩原君…。今日はどうしたの?」
ひょんな事におぎゃんの家、化粧品店の目の前に先生の家はあった。
「どうしたのって、ここに飲みに来ただけですよ」
「偶然だね~。私、最近忙しくてさ、ここに来るのも本当久しぶりなのよ」
先生とは整体を開業する前の二千六年の夏、二十七年ぶりの再会を果たし、それ以来いい関係を保っている。その時紹介してもらった店が、この『ぼだい樹』だった。
先生の娘さんである智子ちゃんは、バトントワリングという新体操のような種目で二年連続金メダルを獲ったすごい子だ。一度、神威整体に大会前、政子先生は智子ちゃんを連れてきて「龍君、お金払っとくから、この子の施術しといて」と置いていった事がある。
とても素直で綺麗な子である。
「あ、龍君、紹介するね。私の学生時代の同級生の唐木君」
先生の横にいたダンディーな男性は、ペコリとお辞儀をする。
「はじめまして、先生の教え子だった神威龍一です」
政子先生は、唐木に俺のこれまでの流れを簡単に説明してくれた。
「ふ~ん、大したもんだ。早速君の本、五十冊注文しとくよ」
「いえいえ、そんな申し訳ないですよ。お気持ちだけで充分嬉しいですから」
「いや、俺が買うって言ったんだから、絶対に買うぞ!」
豪快な性格の唐木は、話していてとても気持ちがいい人だった。
おぎゃんと一緒に四人で飲む事になり、楽しい宴を過ごす。
「本当龍君が、何にもなくて良かったわよ…。もう、二度と試合に出るとか言わないでよね。こっちは気が気じゃなかったんだから」
タイムリーな話題で、どうしても格闘技の復帰戦の話題になってしまう。
「心配掛けてすみませんでした」
「まあ、いいわ。あなたの元気そうな顔を見れたしね」
先生の笑顔はいつだって俺を元気付けてくれる。
帰り際、政子先生は「ここは私が持つからね」と強引に酒をご馳走してくれた。頭が上がらない恩師の一人である。
俺とおぎゃんは残ってもう少し酒を飲み、お互いの近況を話し合った。
おばさんのユーちゃんに何とか小説の事を分かってもらおうと必死に説明するが、憎まれ口を返され虚しく終わる日々。何でこうも頭が固いのだろうか。身近な人間に、自分のやってきた事を理解してもらいたいという想いは、いつもこうして空振りに終わる。
インターネットの普及により、情報が簡単に入るようになった世の中。
その分、俺の試合や本の事も人々が関心を示さなくなるのも早い。便利になった分、因果な時代になったんだなと感じる。
街を歩いていると、地元なので知り合いによく会うが、一日五回ぐらいは「本を下さい」と言われ、気分を悪くした。ふざけた事を言われているのだからと、不機嫌そうな態度をするようになった俺。
一向に動こうとしないサイマリンガルにもイライラした。
順風満帆だった流れが、どんどん傾いていく。焦りを感じても、どうしようもない。どうやったらこの嫌な流れを変えられるか、まったく分からないでいた。
地元の本屋を回り、俺の本が置いてあるかをこっそりチェックしてみる。そうでもしないと不安で落ち着かない。
本川越駅ステーションビルのペペ四階にある本屋には、『地元出身の作家さんです』というポップアップつきで平積みされていた。作者がこんなところにいるなんて、誰も思わないだろうと考えながら一人ニヤニヤしてしまう。
川越駅ステーションビルの本屋は、行く必要がないだろう。ケーブルテレビの取材時、あの本屋に『新宿クレッシェンド』が置いてあるのを確認してあるからだ。
逆口にあるデパートのアトレの本屋にも置いてあった。
同級生の本屋『吉村謙受堂』へ行くが、タタの店だけはクレッシェンドを置いてなかった。あの野郎…、意識してあえて俺の本を入れなかったんだな……。
皮肉な事に多くの知り合いは「龍一、吉村っておまえの同級生だろ? あそこで本を注文したから」という声は多い。企業の社長や役職クラスの人になると、一人で五冊も二十冊も予約した人もかなりいた。タタの本屋で注文したと俺に言ってきた人は五十名ほど。
それでもタタは、『新宿クレッシェンド』を自分の本屋へ置こうとはしなかった。
注文した人間はタタじゃなく、俺に「何故本を店に置いてないんだ?」と責めてくる。俺は本屋じゃないんだし、そんなのタタに聞けと言いたいところだ。ただ、俺の為に本を買ってくれた人間に対し、そんな乱暴な言い方などできる訳なかった。
ある日街をブラブラしていると、タタと出くわす。
「おい、何でおまえのところ、俺の本を置いてないんだよ?」
「新刊が一ヶ月でどれだけ出ていると思ってんだよ!」
偉そうに口を尖らせながら抜かすタタ。俺は無意識の内に胸倉をつかみ、壁に叩きつけた。この男、ジェラシーでワザと置かないようにしているのが分かったからだ。
「口の利き方に気をつけろよ、おい」
暴力的なやり方は本来好まない。しかし、それでもタタの言い方が気に食わなかった。
身近にいる人間で、一緒に喜んでくれる者が少な過ぎる……。
整体時代、俺は地元の各店をインターネットで取り上げ、買い物に行くにしても、食事へ行くにしても、仲良くしている店を使うよう心掛けてきたのにな。
それが整体には挨拶一つ来ない。本が出ても知らんぷり。試合へ出場しても無視。
当時『川越名店街』として取り上げてきた店の数九十店舗以上。その九割の店が俺に対し、そんな状態だった。笑顔で接するのは俺がその店へ客として行った時のみ。
ずっと地元を愛し、その思想に伴った行動を心掛けてきたつもりだった。
だが、あまりにも冷たいみんなの対応。ほとほと嫌気が差した。
別に見返りを求めていた訳じゃないのに、何故こんなにも悲しいのだろう? 無関心を装うから悲しいのかもしれない。
俺が回りに対し、甘え過ぎていたのだろうか?
その頃川越ではNHK連続テレビ小説『つばさ』の舞台として放送が決まっており、街の中心を担う商工会議所などはもの凄い勢いで『つばさ』をピックアップして街全体で宣伝し出した。
街を歩く度見掛ける『つばさ』のポスター。西武新宿線の電車にも、主人公の女性をプリントされたものができたほどである。
地元出身の人間が結果を出しても無視。しかしテレビに取り上げられると大騒ぎの街。
まるでただのミーハーじゃないか。ジャニーズを追い駆ける若い女と、ほとんど変わらない現実をまじまじと見させられた俺は、川越という街を次第に嫌いになっていった。
結局十日過ぎても、ゴッホからはメール一つない状態。
日にちが経つにつれ、苛立ちを隠せない俺。さすがに自分からゴッホへ電話をしてみた。
「あ、もしもし」
ゴッホ特有のダミ声。
「あのさ、おまえは俺の試合が勝ったか負けたかとかさ、怪我はないかとかって気持ち、一つもないの?」
自分で言っている台詞がいかに醜いか、自覚した上で話した。
「ああ、あれから連絡ないからさ。負けたんだなって思ってた」
「あっそ……。分かった。じゃあね」
これを期に、ゴッホとのつき合いはやめよう……。
素直にそう思った。
思えば、どれだけ俺は貧乏くじを引いてきたのだろう。
ゴッホとの昔からの付き合いを思い出すと、無性に腹が立ってくる。
仲のいい知人に、ゴッホの愚痴を何度もこぼした。いくらこぼしても、心が晴れる事はなかった。
翌日になってゴッホから電話が入る。彼は「これから飯でもどうだい?」と誘ってきたが、とてもじゃないが一緒に食事などできるような精神状態ではなかった。
頭の中に常に住み着くイライラ。
中には試合で負けた事を簡単に笑う馬鹿も多かった。
作家としての仕事が何一つこない現状。
サイマリンガルからは未だ印税を払うつもりがないのか、俺の銀行口座番号を一度も聞いてこない。
毎日のように整体に通ってくれた銀行員の患者さんである渡部の言葉を思い出した。
「先生はすごい事をしているんですよ。一年間で整体を開業して、小説で賞を獲って、格闘技の試合まで出場する。それなのにいつも先生は心から喜んでいない。多分ですけど、家の家族…、本当に身近な人間が一緒に喜んでくれないからかなと、勝手に推測しているんですけどね」
そう、渡部の言う通りかもしれない。
生まれてからまだ可愛かった時期ぐらいなのだ、俺が家族に愛されていたのは……。
小学二年生の冬に家を出て行ったお袋。
子供の教育など一切気にせず家の金を自由に遣い遊び呆けていた親父。
両親に共通する点といえば、暴力や虐待だった。
小学四年生の時に親父と不倫をしていた三村。過去何度も家に上がり込み、トラブルを巻き起こしてきた女。そんな世界で一番嫌いな女が、今では戸籍上俺ら三兄弟の母親となっている。
籍を入れた事さえ言わなかった親父と三村。気付けば神威家に住み着き、好きなように社長婦人面をして態度がデカくなっている。
そして親父の妹であり俺らの育ての親でもあるおばさんのユーちゃん。いつからか、俺を憎しみの対象なのかと思うぐらい、酷い台詞を浴びせ続けるようになっていた。
何でこうまで俺の人生って、呪われなきゃいけないのだろう……。
ずっと笑顔で平穏無事に暮らす事なんて、絶対にない。
ひょっとして俺が一番いけないのか?
高校を卒業してお袋と親父を離婚させた。
しかしそれが原因で、三村は家に入り込んでしまった。それをユーちゃんはいつも俺に責めてくる。
家業の支店だった南大塚の店。親父が家を継ぐと決まった瞬間、独立をしたいと言い出した。あの馬鹿な親父と一緒に仕事なんて、とてもじゃないができなかったのだろう。
一切の関係を絶つ為、南大塚は土地も買いたいと申し出てきた。家賃収入も目処に入れていた親父サイドは、猛烈にそれを反対。親父は三村だけでなく、三村の義理の息子である中曽根まで家業に引っ張り込んだ。それで七年勤めていた一番下の弟の龍彦は、辞めるきっかけとなる。
「兄貴たちが好き勝手にやったから、俺が継いだんだじゃないか!」
いつだがそうやって俺に文句を言った龍彦。
「兄貴はいつだって無関心じゃねえかよ」
歌舞伎町時代、自分の事だけを考え日々遊び呆けていた俺に、弟の龍也に言われた台詞。そこで初めて家の状況を知り、役員会議にも委任状をもらって出るようになった。南大塚を説得して土地の登記を済ませ、四千万の金を会社に作った俺。
それさえも親父と三村が好き放題使える金を用意しただけに過ぎなかった現実。
おじいちゃんに何かあったらと心配のあまり、地元で腰を落ち着けようと『神威整体』を開業したのだ。
今じゃその整体は潰れ、小説は売れているのかどうかさえ分からない。試合にも敗れ、今後の見通しさえつかない現状。
呪われているんじゃないのか、俺の人生って……。
平凡にサラリーマンをやって月給を稼ぎ、嫁さんをもらって普通に暮らしているほうが、どれだけ幸せだろうか。
いや、他人の人生を羨んでも仕方ない。自分がこれまですべて決断した道のりなのだ。
歌舞伎町時代はまだ良かった。金があったからである。
今は金も地位も何もなくなった。
あるのは『新宿クレッシェンド』の作者という肩書きと、復帰して負けた格闘家というだけしかない。
街を歩く度、試合で負けた件の嘲笑や罵倒がもの凄く、俺の精神は壊れそうになっていた。だから味方してくれる人間に対し、感謝を感じられる余裕さえなくなっていた。
身近な存在である弟からは「いい赤っ恥を掻いた」と蔑まされ、俺は整体を失っただけでなく、これまでの自信と誇りさえ打ち砕かれた。
命を懸けて臨んだものが、こんな風になるなんて思いもしなかった……。
金もない。唯一の誇りだった力さえ、今じゃ意味のないものになっている。
働かなきゃいけない。そう思っても、何をしていいのか分からない。
小説の仕事の依頼が来るものだと思っていた。しかしどこも来ない現実。
しばらく部屋に籠もり、何もできないでいた。俺を騙した奴を恨み、利用した奴を憎むようになった。
本当はまだ神威整体を続けたかったのに……。
俺を利用した周りの連中からしてみれば、大した事をしていないと思っているのだろう。でも、そういった一つ一つの積み重ねが、整体の破滅を招いたのだ。
もう、俺なんて生きている価値など何もないかもな……。
三十六歳で無職、金なし。これからの人生、何の意味がある?
日々、そんな事を自問自答した。
『新宿クレッシェンド』という子供をこの世へ一冊残せたんだ。出版社から連絡がないって事は、ほとんど売れていないが、小さな歴史を刻む事だけはできた。あんな馬鹿な両親に生まれた子供にしては上出来じゃないか。
もう何をするにも疲れた……。
死んでしまえたら、どんなに楽だろうか?
俺は人間的に弱い。とても弱過ぎる。そして大馬鹿だ。
家じゃ厄介者が消えてくれたと喜んでくれるかもしれない。
前にこんな風に考えた事があったっけな……。
大和プロレスを駄目になった二十一歳の時か。
あれから十五年経つのに似たような事を考える俺。まるで進歩がない。
あの時、最上さんが「頼むからおまえは生きろ」と励ましてくれなきゃ、とっくにこの世を去っていたかもしれない。
こんないじけた俺に、みんなとっくに呆れているさ。これ以上生き恥を晒すのか?
楽に死ねる方法ってないかな。
いつだって俺は臆病だ。首を吊って死ぬのが楽か、飛び降りるのがいいか。そんな事を思う内に、その過程をリアルに想像してしまい、自殺志望のくせに何一つ行動できやしない。
何故もう死ぬんだから、痛かろうが苦しかろうが関係ないだろって思えないのか?
こんな状態で生き恥を晒してまで、まだ生にしがみつこうとしているのかよ……。
でも、俺は誰からも必要とされていない。
それなのに何で日々ブログを更新している? コメントをくれる人たちがいるから?
つまり俺は、イメージ的なものでしか、人間と関われなくなっている……。
自分でも精神が病んでいるのが自覚できた。
プロレスを駄目になり、必死に自分の居場所を探し続けたホテル時代。どんなに小馬鹿にされたって、あの頃は大和プロレスにいたという自負を常に抱きながら行動していたのにな。
あれほど自信に満ち溢れた俺は、一体どこへ行ってしまったのだ?
違う…。それ以上の経験を踏まえて生きてきて、それがこんな結果になっているからこそ、訳が分からなくなっているんだ……。
コンコン。
ドアをノックする音が聞こえる。開けると一番下の弟である龍彦が真面目な顔をして立っていた。
「兄貴さ…、ちょっといい?」
「何が?」
塞ぎ込む俺に対し、龍彦は「いつまでも何をやってんだよ。ただの現実逃避じゃねえか」と文句を言ってくる。すっかり弱っていた俺は、何故こうなったのか言い訳をした。
「小説で賞を獲ったのは確かにすごいと思うよ。でも、だから何だよ」
「おい、簡単に抜かすな。どれだけ苦労してやってきたと思っている。試合だって小説だってな、いい加減にやってきてねえんだよ!」
すると、「兄貴が試合に出られたのは、たー坊のおかげだろ? あいつが主催者側に言わなかったら、たー坊の顔がなかったら試合にさえ出られなかったじゃねえか。陰で、そう言っている人間だっているんだぜ」と簡単に言われた。
そこまで言われ、俺の中で悶々と屈折していた苛立ちが全開に爆発した。
「どこのどいつがそんな事を抜かしたっ! 今すぐ俺の目の前に連れて来い」
「連れて来れる訳ないだろ? 兄貴はどうせぶっ飛ばすだけだろうし」
「当たり前だよ。人を小馬鹿にするような連中なんぞ、思い切りぶん殴ってやるよ。誰が言ったんだよ? それともおまえが勝手に想像で言った狂言か?」
過去の自分の立場も忘れ、よくも偉そうに俺へそんな事を言えたものだ。龍彦が怪我をして家に籠もっていた頃、俺は毎日のようにたくさんの金をやった。しかし金を受け取りながらも、龍彦は感謝というものがまるで感じられなかった。
世の中の人間が何故働く? すべて金を稼ぐ為だからだ。金がすべてではないが、金があればある程度の事はできる世の中。今まで兄らしい事をしてやれなかった想いが、つい龍彦を甘くさせてしまった。
龍也には金を渡している件で「兄貴は甘いよ。そんな事をする必要性なんてないじゃん。余計につけ上がるぜ」と注意された。それでも当時自分の部屋で膝を抱えながらボーっとしていた龍彦を思い出すと、何とかしてやりたかったのだ。
「絶対に本人には言うなよ? 口止めされてんだから……」
「言わねえし、絶対に追求しないから言えや、コラッ!」
誰が言ったか聞いてしまえば、こっちのものだ。そんな生意気な野郎は、骨の髄まで俺の恐ろしさを思い知らせてやる……。
「兄貴のセコンドについた、たー坊だよ」
「……っ!」
龍彦の口から出た言葉が、まるで信じられなかった。
「たー坊の顔があったからこそ、兄貴は試合に出られただけじゃねえか」
「本当にあいつが、そんな事を抜かしたんだな……」
「ああ、ハッキリ言ったよ。でも、絶対にたー坊にはこの事言うなよな」
「うるせー……」
「兄貴っ!」
「じゃあ、おまえもあいつの顔で、試合に出てみろよ? 出れるんだろ、簡単に?」
「そういう問題じゃないだろ!」
「うるせーっ! 目の前から消えろ! おまえなど、兄弟じゃない」
俺は心の底から憎悪を込めて、怒鳴りつけた。あの時の恩も忘れ、よくもそんな口が利けたものだ。恩知らず、礼儀知らずとはこういう奴の事を言うのだろう。もう兄弟とすら思うまい……。
龍彦が消えると、俺は奴の言葉を思い出し、ゆっくり頭の中を整理してみた。
あのたー坊が、陰で俺の悪口を言っていた?
あれだけ俺の前じゃ慕い、「龍一さんの試合を俺はこの目で見てみたい」と言った後輩のたー坊が、本当にそんな事を言ったのか? ショックで頭がおかしくなりそうだった。
「自分は神威四兄弟の末っ子だと思ってますから」
常に俺と会う度調子のいい事を言っていたたー坊。
歌舞伎町時代、金を稼いでいた頃はよくキャバクラへ飲みに連れて行きご馳走してやった。一緒に食事へ行く際も、一度だって金など払わせた事がない。
裏ビデオ屋で働いていた頃、あいつは「龍さん、自分の知り合いが裏ほしがってんですけど、自分も小遣いないから何か小遣い稼ぎになれそうな事ありませんか?」と頼んできた事だってある。その頃の俺は羽振りなど良くなかったが、それでも困っているだろうと仕入れの金以外の売上は、たー坊にすべてあげようと思った。
しかしそんな俺の好意をたー坊は知らず、惚けたまま、未だ売上すら持ってこない状況だった。ヤクザの世界なら、少しの金であれ完全なルール違反である。けじめをつけさせるところだが、俺はヤクザじゃない。だからこそこの件は、誰にも言わず心の中へ秘めておいたのだ。あいつも生活が苦しいのだろうと割り切る事で、理解してやろうと思ったから……。
すべては弟のように可愛がっていたからこその行動だった。
「龍さんは、俺のおかげで試合に出れたんすよ」
龍彦の前で調子良く言う奴の顔を思い浮かべる。
たー坊…、よくも俺を裏切るような真似を……。
調子のいい笑顔を思い出すと、静かな殺意すら沸いてくる。
こうして俺は、完全な人間不信に陥った。
本が出た? 賞を獲った? だから何だよ……。
パパ、ママ……。
「何で僕を産んだの?」
幼少期の頃に戻り、その呼び方で両親に、一度でいいから聞いてみたい。
まだ自分の事を「僕」と呼んでいたあの頃。
男三兄弟の長男『神威龍一』として生まれた。本家の初孫である。近くの距離には親戚もたくさんいた。だから当然色々な人に可愛がられた。
「龍ちゃん」
みんなそう呼びながら、満面の笑顔で優しく接してくる。
幼き頃の写真を見ると、非常にあどけない顔をしている。この当時はまだこの先にある未来など知らず、幸せで無邪気だった。
二歳の時に弟の龍也が生まれ、四歳になって二人目の弟の龍彦が生まれる。
いつからなのだろう。心の根底に憎悪が流れている事に気がついたのは……。
己の人生を呪い、体に流れる血を憎んだ。何故こうなってしまったのか。憎悪に満ちた人生をこれまで送り、たくさんの人間を傷つけてきた。
俺はすごい。ずっとそう思いながら毎日を必死に生きてきたつもりだった。しかし気つけば孤独で、周りには誰もいない現状が待ち受けていた。
孤独は非常に寂しいものだ。携帯電話などほとんど連絡ない掛かってこない。
俺はこの世から忌み嫌われ、家族からも必要とされていないのだろうか?
一人で時間を潰す術などいくらでも方法はあった。過去遣いきれないぐらいの金を稼ぎ、すべて遊びで使い果たした。
くらだらない人生を送ってきたものだ。誰かの為にといい加減ながらも誠心誠意尽くしてきたつもりなのに。
このまま俺は朽ち果てていくのだろうか?
誰からも愛されず、誰からも必要とされずに、一人孤独に生涯を……。
俺をうまく利用してきた人間を憎んだ。
俺を相手にしない人間を恨んだ。
成功して常に笑顔の人間を疎ましいと思った。
俺などこの現世では、もう必要ないのかもしれない。クソみたいな時間を過ごしながら、無駄に生き、人々に迷惑を掛けてしまう公害のようなもんだ。
深夜、家族が寝静まるのを待ち、一階に降りる。台所にある包丁を右手に持った。喧嘩で武器など持った事ない俺が、最後は包丁に頼るか。ふん、それもいいんじゃないか。
手首に包丁を横にして、ゆっくり当てる。鈍い冷たさが皮膚から伝わってくる。思わず身震いした。何の為の身震いだ? もうこれから存在自体、いなくなるんだぞ。おかしいじゃないか。
このままじゃ手首は切れない。縦に刃を立てる。そう…、あとはスッと力強く引けば、簡単に人間の皮膚など切れてしまう。
「……」
生きているさえ嫌なんだろ?
さっさと引いてしまえばいい。
血が吹き出して、あっという間に楽になれる。
ゴトッ……。
上から物音が聞こえた。思わず見上げてしまう。
俺にはもう何もない。死ぬのはいい。しかし、ここでこんな死に方をしたら、残された者がいい迷惑だろう。朝一番に起きてここへ来るのはおじいちゃんだ。
孫が台所で手首を切って自殺していたら、どんなにショックを覚えるだろう。
下手したら、おじいちゃんが倒れてしまうかもしれない……。
馬鹿な…、死ぬのにそんな事をいちいち気にしてどうする?
つまらない事など気にするな。
包丁の柄を持つ右手に力が入る。
目を閉じると、頭の中で幼き時代の風景が蘇ってくる。
これが走馬灯というやつか?
木造の二階建て映画館のホームラン……。
お寺の敷地内にあるゲームセンター……。
駐車場で開催されたスーパーカーの展示会……。
古い作りのデパート……。
隣の定食屋『よしむ』……。
何を俺は懐かしさなど感じている? もうすべてが今は、ないものばかりじゃないか。
目からこぼれる涙。
何故、俺は泣いているんだ。
もう生きているのさえ辛いんだろうが……。
それでも包丁を手首に押し当てたまま、いつまで経っても引けない自分がいた。
親不孝どころか、祖父不幸。親父などどうだっていいが、ここまで育ててくれたおじいちゃんに、まだ迷惑を掛けようというのか? 『新宿クレッシェンド』で賞を獲った時、誰に一番始めに連絡をした? おじいちゃんだろ……。
親父や三村以上に、惨い仕打ちをしようとしているのだ、俺は。
死ぬだけならいつでもできる。嘘だ。何もないこんな状態になってさえ、俺はまだ生に執着している……。
今一度、ここで過去を思い出し、自分自身を振り返る事が必要な気がした。
包丁を元に戻す。そして再びゆっくりとまぶたを閉じる。
昭和の匂いのする古めかしい映像が、頭の中で映り始めた。
そんな時突然電話が鳴る。近所の先輩である栄一さんからの着信だった。
自然とポケットから携帯電話を取り出している自分に気がつき、無性におかしくなった。自殺をしたいと思いながら、誰からの電話を気にしている事に……。
こんなタイミングで鳴るなんて、まるで神の啓示みたいだ。出るしかないだろう。
「もしもし……」
「あ、龍ちゃん。なかなか忙しくてごめん。もっと早くお祝いをしようと思ったけど、あの頃はみんながたくさんいたでしょ? だから落ち着いてからゆっくりお祝いをしようと思っていたんだ……」
「……」
「あれ? もしもし…、聞こえる?」
「は、はい…、聞こえます」
「これから一杯どうだい? 遅くなったけど、本や試合復帰の祝いをしたいんだけど」
「ありがとうございます。すぐ準備して向かいます……」
電話を切ったあと俺は部屋まで戻り、膝を抱えて静かに泣いた。
まだ、こんな俺に価値があると言うのか……。
素直に栄一さんからの電話が嬉しかった。
ここ最近ずっと塞ぎ込んで考えていた。
憎悪。
葛藤。
渇望。
嫉妬。
妬み。
ショック。
様々な想いが体内を堂々巡りして、気が狂いそうになった。
しかしここに来て、感動という新しい感情が芽生える。
自棄になって命を投げ出そうとするのは、本当に簡単な事。
俺が尊敬してきた人物を思い浮かべろ。
ヘラクレス大地さん。
大和プロレスのエースだった伊達さん。
いつだって胸を張りながら、どんなに苦しくたって偉大な後姿を見せてくれたんじゃないのか? 俺は短い期間ながらも、あの人たちと一緒の空間にいられた事を今だって誇りに思っているはずだ。
いじけるのは、もういい……。
そんなもの、誰にだってできるんだからさ。
孤独? 俺のどこが孤独なんだよ? 今だってこうして栄一さんが気に掛けて、飲みに誘ってくれている。
結婚していないから悲しむ人はいても、困る人はいない? 本当にそうか?
もっとよく周りを振り返ろうよ。
少なくても自分の分身である『新宿クレッシェンド』にサインをした人たちに、泥を被せるような行為になってしまう。
子供はいないけど、俺の分身であるクレッシェンドが、一万冊もこの世にあるんだぞ。生み出した俺は、もっとしっかりしなきゃ。
駄目な出版社なら、もっと他に方法を考えろ。まだやるべき事はすべてしていない。疲れたなんて十年早いだろ?
大地師匠に少しでも追いつきたくて、色々な事をしてきたんじゃないのか?
賞を獲った時、俺はブログで何て書いた? もう一度見返してみよう。いい加減な気持ちであの記事を書いた訳じゃない。
【獲ったぜ、グランプリ!
二千七年発月三十一日。
みなさん、本当にありがとう。
俺の処女作『新宿クレッシェンド』。みなさんのおかげです。ありがとうございます。
初心…、ずっと信念を持って、ここまで来ました。
師匠…、ちょっとは追いつけましたか?
まだまだですよね……。
より一層、頑張ります。 神威龍一】
そう…、みんなの前で堂々と俺は、こう書いてしまったのだ。
何もなかったところから、無の状態から俺が生み出した栄誉だろ? 周りが何と言おうと、もっと自分を誇ろう。そしてまだまだ頑張ろうじゃないか。
栄一さんのくれたたった一本の電話。カラカラに乾いた砂漠の中で、一滴の水を見つけたような感覚だった。
手早く着替えを済ませ、外へ出る。先輩は飲む場所をバー『あびーろーど』を選んだ。この店へ来るのはずいぶん久しぶりな気がした。確かブランド好きな女と来たのが最後だったから、八年ぶりぐらい? それでもバーの気さくなマスターは、俺の事をちゃんと覚えてくれていた。
「龍ちゃん、グレンリベット好きだったでしょ? ボトルも頼んで入れてあるから」
栄一さんの憎い気遣いには感謝しかない。
ご馳走してもらった酒と料理を胃袋に納めながら、もっと頑張って生きなきゃと心の中で叫んだ。
「本当に祝うの遅くなっちゃってごめんね」
「いえ、とんでもないですよ。今日はありがとうございます」
心の底からお礼を言う。しかしそれでも栄一さんには、これまでの現実を正直に話せる勇気はなかった……。
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