岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

01 鬼畜道(始めの一歩編)

2023年03月01日 13時11分30秒 | 鬼畜道 各章&進化するストーカー女

鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~

始めの一歩 ノンフィクション

 

 

 当時、新宿歌舞伎町の風俗店『ガールズコレクション』でやるせない思いを抱えながら働いていた俺。最悪の年だった二千四年が明け、二千五年になった頃、家の目の前にある駐車場で働き出した伊橋さんという年配の女性と出会う。とても愛想が良く、優しい人だった。

 俺には生みの母親と、戸籍上母親というだけ人間がいる。生みの親は虐待を繰り返し、戸籍上だけの者は周囲の反対を強引に押し切って家に住みつくようになった。史上最大に嫌いな女と結婚した親父を俺は憎むようになっている。

 一年ほど駐車場で働いた伊橋さん。おじいちゃんの話によると、彼女は文学系の大学を出て、かなり優秀らしい。小説を書いていた俺は伊橋さんにこれまでの作品を見せ、評価を聞こうと思った。待っていた感想や指摘は、俺の作品に対する自身を木っ端微塵に打ち砕き、一年間小説が書けなくなってしまった。

 そんな伊橋さんが駐車場の仕事を辞め、うちの家業『神威クリーニング』で働くという。あの親父と三村の馬鹿夫婦の口車に騙されたのだろうと、俺は彼女へ何度も辞めたほうがいいと伝えた。あとできっと後悔するからと……。

 それでも伊橋さんはうちで働く事を決め、俺は裏切られた感覚がし、彼女を軽蔑するようになった。親父、三村側の人間となった者に気を許す事などできぬ。

 そんな俺に伊橋さんは電話をくれ、自分の立ち位置と考えを伝えてきた。そんなものしょせん綺麗事だ。そう思った俺は普通に話をするようになったものの、嫌悪感を隠せないでいる。そしてすぐ、伊橋さんの元に上京していたお袋さんは亡くなった。

 つまらない自分の意地だったのか? それまで冷たく接してしまった事を深く反省した俺は、伊橋さんと笑顔で会話をするよう務めた。

 時間の経過と共に彼女の持つ信念や優しさを再認識し、俺は家族同様…、いや、家族以上に笑顔で話せるようになれる。

 その間に様々な変化があった俺。長年いた歌舞伎町の裏稼業を引退し、サラリーマン生活を経て、『神威整体』を起こす。その際、運良く処女作の『新宿クレッシェンド』が受賞し、順風満帆の人生の幕開けだと、明るい未来を想像した。

 今思えば自分の甘さがすべて招いた種だったのだろう。明るかったはずの未来は、一転して急降下をし、人生のどん底まで叩き落された。

 小学時代の友人に騙され、整体を経営していく事すらできなくなっていた当時。起死回生の策として、総合格闘技へ復帰するという道を選ぶ。本が全国書店に発売され、試合にも出場するから整体を多忙の為辞める。これなら表向き格好だけはつく。当然もの珍しさから多くのマスコミもこの話題には食いついた。

 だけど現実はそんなに甘くない。現役を退いてからのブランク七年半という期間は、容赦なく俺の肉体と強さを奪っていた。準備期間もないまま試合へ出て、当然のように負け、たくさんの嘲笑と罵倒を浴びる。それに加え、出版社との確執。挙句の果てに信頼していた後輩の陰口を弟から聞かされ、俺は人間不信になっていた。

 これまでの人生を呪い、蔑んだ人々を恨むようになり、自分の部屋へ引き籠もるようになった俺。知人のアドバイスを受け、何故こうまで怒り、恨み、嘆き、悲しむのか、そのマイナス的なものをすべて俺は文章として書き綴る。そして誰に見せる訳でないその作品に対し、『パンドラの箱』と名付けた。

 どんなに辛くても、俺は自殺する勇気さえ持ち合わせていない。

 生きるという事は、当然腹も減る。

 怒りの裏側にはコメディ要素が潜んでいる事実にも気付く。

 負の要素を整理した俺は、再び社会へ一歩を踏み出した。約一年半の間、大日本印刷と携帯電話会社ドソアで働きだした俺。これまでの経験が味方したのか、サラリーマンでの成績はかなり優秀なものを残せた。

 しかし目的意識がまるで見出せないままだったのである。

 気性の荒い性格が災いしたのかドソアでも揉め、会社を辞めてしまう。

 こんな俺に生きている価値などあるのだろうか? 幸い失業保険だけは会社都合にさせたので、すぐに出る。

 しばらくゆっくりしようじゃないか。二千九年の十月。俺は執筆も何もせず、のんびり時間を過ごす事に決めた。

 小説を書くようになって丸六年。その間、俺は他の誰の作品も読んでいない。読みたくないのではなく、読んでいると自分の作品を書かなきゃと思い、集中できないのだ。

 そんな事を思いながらも、最近の俺は執筆をまるでしていない。こんな時期だ。誰かの作品を読んでみるか。じゃあ、誰の本を……。

 そういえば昔よく読んだ児童作家の山中恒。あの人の作品をもう一度見てみたいなあ。インターネットで検索すると、『ゆうれいをつくる男/てんぐのいる村』と『カンナぶし』がネットオークションである。定価六百八十円なのに、千五百円もするのか。仕方ない。絶版で新書が入らない今、あの作品を読めるなら安いものだ。俺は知り合いに頼み、二冊の本を注文した。

 数日で頼んだ本が届く。本当に便利な時代になったものだ。便利になった分、人々の心から大切な何か失い、反比例するようにおかしな世の中になっている。

 小学時代一番好きだった『てんぐのいる村』。文字を読んでいるだけなのに、澄み切った星の見える夜空が克明に想像できたあの頃。また懐かしい感覚を取り戻したくて、俺は本をゆっくり開く。

 それ以外本当に何もせず、ぐうたら気分のまま年が明け、二千十年になった。

 

 家で働くようになって三年ほど経つ伊橋さん。当時俺はこの家で働く事に散々反対したが、彼女は親父と三村の実態を分からなかった。近所同士で世間話をするような仲から、社長と従業員の関係になった伊橋さんは、この三年間で嫌っていうほど神威家の実態を知る。いかに親父と三村が悪であるか、身を持って知ったのだ。

 それでも伊橋さんは、何とか家の商売を良くしようと日々頑張った。十数万の少ない給料の中から工面して、俺が『神威整体』を開業した時も祝い金を包んでくれ、いつも優しく見守ってくれていた。

 去年十月、俺が携帯電話会社のドソアを辞め、失業保険でゆっくり過ごそうと、よく家にいるようになった頃、三村は「ねえ、伊橋さん…。あの子、急に家の中にいるようになったけど、ひょっとして家業を継ぐつもりなんじゃないでしょうね。まったくこの家に寄生しているのが由紀子さん一人かと思えば、もう一匹増えるなんてねえ」と愚痴をこぼしていたようだ。馬鹿な三村は、伊橋さんが従業員の立場だから「はいはい、マッチさんも大変ね」と調子を合わしていた事に気付かないのである。そんな三村は彼女へ、俺たちの悪口を平気で口にした。

 今年になってすぐ、三村は自分の九十二歳の母親が危篤だから、家の仕事を辞め、実家の長野へ帰って住むと言い出す。自分の親なのだから、何もおかしい事はない。

 しかし、普通親が危篤なら、夜中でも何でも真っ先に駆けつけるものではないのだろうか? それに何故あれほど家業にしがみついた物の怪が、あっさりと向こうへ住むなんて言い出しているのだろう。その点については全員が不審がる。

 そして自分の仕事を伊橋さんに押し付け、「私はこの家を守ろうと必死に頑張ってきました。だけどおじいさんは私に家を守ってほしいと呼んでおきながら、まったく必要としない。この家の人間は誰も私に協力しない。三年経って私も限界になりました」と意味不明な言い訳を近所の人たちへ言い触らすようになった。近所からも嫌われ者の三村。当然その事は俺ら家族の耳へ入る。

 何故親が危篤なのに、今さらそんな言い訳や嘘を言い触らす必要性があるのか?

 それに元々入ってくるなと、全員から言われていたのを強引に住み着いたのはどっちだ。この家をなんて抜かしているが、朝おじいちゃんが掃除をしているのを一度でも手伝って事があるのか。三村がこの三年でしてきた事は、社長婦人面して『神威』の名を語り、店の金を好き放題経費で遣っただけじゃないか。

「親父がマッチさんを認めないから、仕事を辞め、実家へ帰るって言っているぞ」

 二千十年一月六日の朝。親父はおじいちゃんにそう文句を言っていたそうだ。そして自分が招いた種なのにおじいちゃんのせいにする親父を見ていられなかった伊橋さんが、「広龍さん、それはちょっと違うでしょ」とかばう。

「何だ、社長に逆らうなら、おまえなんかクビだっ! 帰れっ!」

 この三年間で過去に一度そう怒鳴りつけた親父。前回は親父を説得した三村が、伊橋さんの元へあとで謝罪に行き、許したそうだ。しかし二度目の理不尽さを繰り返した親父に対し、伊橋さんは許せなくなり、本当に家を辞める決意をした。

 何の目的も見出せず、毎日部屋の中でボーっとしていた俺。昼ぐらいになってその情報を聞き、世話になった伊橋さんへ電話を掛けてみる。彼女が今、どれだけ辛い心境かが何となく理解できたのだ。

「あら、どうしたの、龍ちゃん?」

「今朝の話を今さっき聞いて…。伊橋さん、お昼食べちゃいましたか? 良かったら飯でもどうです?」

 いきなりクビになり、世間へ放り出された親父と同じ年の伊橋さん。電話などでなく、実際に会って話を聞いてみたかった。

 今回の一件では、普段温厚な伊橋さんも相当ストレスが溜まり、感情的になっている。

 この三年、残業代など一円も払わなかった親父たち。忙しかった日は、店の経費で夜食をご馳走すればいいだろう。そんな状態だったらしい。自分らが酒を毎日のように飲み食いする金があるなら、その分を従業員の残業代へ当ててやればいいものを……。

 年中ある事ない事を伊橋さんへ吹き込む三村。自分にとって都合のいい事しか言わないらしい。親父らの関係は、俺が小学校中学年ぐらいからの不倫だった事実を教えると愕然としている。高校三年生の時、家に三人の人妻が押し掛けてきた件。一時親父は三村から逃げ、しつこいあの女は毎日のようにストーカーをしていた件。二十九歳の総合格闘技の大会前日、夜中家へ勝手に上がり込み、大騒動を巻き起こした件。どれだけ家族に嫌われてきたかをすべて克明に俺も話した。

 これには伊橋さんも、さすがに驚くしかないようだ。

「あの人、本当に自分の事しか考えられない人なんだねえ……」

「伊橋さんだって三年も家にいれば、あいつらがどういう人間はよく骨身に沁みて分かったでしょう?」

「あそこまで腐っているとは思わなかった」

「だから最初に俺は、あれだけ家にだけは入らないほうがいいって言ったんですよ」

「だってさ…、外ではいつもあんなに笑顔でニコニコされ、金払いも良く、人柄もいい。みんな、実態なんて分からないよ」

 そう…、人間って生き物は自分で一度痛い目に遭わないと、それが本当に駄目な事だと気づかないものだ。

 あれだけ俺の作品を読ませ、いつも親父と三村の事を当時説明したけど分かってくれなかった。この人の言葉で、俺の小説をケチョンケチョンに言われ、二千五年は一つも作品を完成できない大スランプに陥った事もある。

 でも、整体を開業した辺りから誠心誠意俺に接してくれる伊橋さんの姿を見て、あれは良かれと思って言ってくれた事なんだと気づく。そして感謝を感じられるようになれた。

 歌舞伎町時代の頃のように金も力もない俺。精神的に弱っている伊橋さんに何がしてあげられるだろうか? せめてそのやるせなさぐらいは分かってあげたかった。

 伊橋さんはもう六十二歳。山形から埼玉の川越まで四年ほど前に、一人ひっそりと出てきたのだ。それがこんな結末を迎え、どれだけ心細い事だろうか。

「私はね…、一度目は許したの。広龍さんが『クビだ』と言った事にね。でも、二度目はないとちゃんとあの時言った。それが今日また同じ事を繰り返す……」

 親父…、いや、もうあれは俺ら三兄弟をセックスして、ただ生み出しただけの男に過ぎない。あの馬鹿一人が遊んでいる分なら、まだ笑っていられた。史上最大に嫌いな女を家に入れてしまうまでは……。

 一生懸命尽くしてきた伊橋さんの気持ちを考えると、どれだけやり切れないだろう。彼女の娘が孫を見せに川越まで来たって、親父は休みなどあげなかった。三村はどうでもいいような用件でいつだって勝手に休んでいたくせに。

 伊橋さんの三年間の想い。俺は腰を据えて話を聞く。

 一月五日の昨日になっていきなり辞めると言った三村。あいつは伊橋さんへ、母が危篤だから三日後には帰るので、仕事をよろしく頼むと言い出したらしい。さすがにそんな急に言われても、抜けた部分の人材確保はどうするのか? それを追求したところ、とにかく実家へ帰るの一点張りだったようだ。

 さすがにそれでは残された自分たちが仕事上困るので、誰か代わりの人間を入れる処置や、新人に仕事を教え込むといった作業をどうするのか問いただし、後始末ぐらいちゃんとしてくれと伝えた。

 そこへ三村の義理息子である中曽根さんまで「お母さんが辞めるなら、僕も辞めます」と続く現状。ストレスの溜まった親父が、おじいちゃんへ八つ当たりし、それを見た伊橋さんが筋違いだと間に入ったところ『クビだ』という事に繋がる。

 それで分かった三村の真相。

 ここでまでで、不可解な点があの女にはあり過ぎた。

 おそらく俺が南大塚の土地問題で話し合い、登記まで済ませて作った四千万円の金を三村はほとんどこの三年でうまく自分の懐に入れたのだろう。つまり家で持ち出せる金がなくなったからこそ、この家にいる意味合いがなくなったのだ。

 あの三年前にやった家族会議、そして役員会議は何の意味があったのだ? 馬鹿夫婦をこの三年間遊ばせる為に、俺はあの四千万を作った訳じゃない。

「私にだって意地がある」

 伊橋さんは目に涙を溜めながら呟くように言った。

「ええ、今回その意地は大事です。伊橋さんにとっていい形にできるよう俺は動きます」

「ありがとう、龍ちゃん……」

 今度中曽根さんと直に会い、家の経営状態を把握しておく必要性があるな……。

 大方予想つくのが、親父と三村はまた伊橋さんのところへ謝りに行き、これまでと同じように。そんな形を望むはず。何故なら三村は伊橋さんに辞められると帰るタイミングを失う。親父はそんな状態で営業を続ける事ができないからだ。

 そこで伊橋さんが戻っては何の意味もない。自分たちがしてきた数々の悪行。いい加減他人にでなく、自分たちで拭かせなきゃいけないのだ。

 今回のこの一件は、完全な不当解雇となる。まだ一月初旬だが、これで辞めても月給分出させる事と、解雇保障として給料一ヶ月から三か月分の保障。失業保険に関しても、会社都合ですぐ給付金をもらえる形にしてあげなくてはならない。

 俺を生んだお袋とほぼ同世代の伊橋さん。シミュレーションでもいい。一度、こうやって大変な時に、力になってやりたかった……。

 たくさんの金も稼いだ。

 リングにも上がった。

 ピアノ発表会にも出場した。

 小説で賞を獲り、本にもなった。

 裏稼業から足を洗い、表社会で働きもした。

 今、金も何もない俺が一番大事に思う事。それは人の痛みが分かるという事だ。

 それが分からないのならどんなに成功しても、人間死ぬ時は笑って死ねないだろう。

「でも私が受け持っていた仕事があるから、数日間は仕事に行くよ」

 生真面目な伊橋さんは、自分の行動でお客さんにまで迷惑を掛ける事はできない。そう言いたいのだろう。

「ええ、相手がどうであれ、自分の責任はちゃんと果たす。そういう事ですよね?」

「だってお客さんには罪ないでしょ?」

「はい…。でも、本当は伊橋さんにだって罪なんてないんですけどね……」

 また親父と三村は今日ここに…、また一人の犠牲者を出した。

 あんな親父に表面上惹かれ、浮気をしてきた馬鹿な人妻たちには、まるで同情などしない。そんなもの、自業自得だからだ。

 でも、伊橋さんの件…。彼女は本当に真の犠牲者なのだ。伊橋さんの犯した罪は、俺ら家族の言葉を当初信用できず『神威クリーニング』を自分の生活の糧とする場所に決めた。それだけなのだ。

 そんな六十二歳の女性を自分のくだらない感情一つで切り捨てる親父。許せなかった。

「私はね、マッチさんが自分のした事に何の責任も感じず、さっさと実家へ逃げ帰るような真似だけはさせたくないんだ。あれだけ神威家を混乱させ、急に三日後帰ります。それじゃあんまりでしょ?」

「……」

 三村、あの女は正に害虫のような女だった。本当に金の事と自分の保身しか考えられない女だったんだな。やっぱあの時、殺しときゃ良かった……。

 翌日、三十八年間当たり前のように感じていた『神威クリーニング』のシャッターが開く事はなかった。生まれてからずっと他力本願の親父は、伊橋さんをクビにし、三村にさえ去られようとし、イジけたのか店を開けようともしなかったのだ。

 おじいちゃんが一代でここまで築いた店。それが一人の馬鹿息子によって潰されようとしている。一人、居間で寂しそうにお茶を啜るおじいちゃん。

「ねえ、これってどういう事?」

「私には分かりません」

「おじいちゃんっ! 何で店が開いてないの?」

「広龍……。あいつは本当に馬鹿だ……」

 親父は出勤してきた職人へ「今日はやらねえ」と感情的に言い、帰してしまったと言う。

 すっかり疲れ切った表情のおじいちゃん。もう九十二歳。本当なら静かに余生を笑顔で過ごしたっていいのに……。

 大騒動を巻き起こし、無責任に去ろうとする三村の姿は見えない。まだのん気に部屋で寝ているのか?

「おじいさん、私に出て行けと言うならマンションを買って下さい」

 恥も外聞もなく平然とそう言い放っていた三村。

 これだけの事をしておきながら、最後はおじいちゃんのせい? ふざげんじゃねえ。

 全身を激しい怒りが流れ、気づけば俺は親父の部屋へ向かっていた。ノックもせず、ドアを乱暴に開ける。

「キャッ」

 着替え途中の三村。俺の姿を見ると、キッと睨みつけてきた。

「おい、キサマ……」

「ちょっと龍ちゃん! あなたね、女性の着替え中にノックもせず、ドアを開けるなんて失礼よ」

 キンキン声で叫ぶ三村。構わず部屋へ入っていく。

「おまえ、本当にふざけんなよ? 今、何時だと思っている? とっくに家の仕事の時間なんて過ぎているだろ?」

「あなたねー、女性が着替えだって言ってんのに……」

 俺は肩を強引に鷲づかみ、力を込めた。

「おい…、キサマが女性だ? あまり舐めた事抜かすと、今この場で殺すからな……」

「な、何よ…、ぼ、暴力は……」

「やりたい放題したい放題、散々好き勝手な事をしてきて、挙句の果てに何の責任も取らず帰る? キサマの勝手な行動が、みんなを崩壊させた」

「そんなの知らないわよ。もう私は辞めて、危篤状態の母の面倒を見るようなんだから…、あ、痛い痛いっ! ちょっと離してよ!」

 このまま肩を握り潰してやろうかと思うぐらい力を込めていた。

「何故この時間になって家が開いてない?」

 目の前にあった映画館のホームラン……。

 隣にあった長谷部さんのいた『小料理屋 よしむ』……。

 昭和の良き時代、幼かった俺の脳裏に残っていたものは、平成になってどんどん消えていく。なくなるなんて思わなかった。未来永劫ずっと当たり前のようにあるものだと思っていた。

 そして今、当たり前のようにあった家までが……。

「し、知らないわよ…。あなたのお父さんに聞いたら?」

「おい、いい加減にしろよ? このまま人生終わりになりてえのか……」

 三村の胸倉をつかみ、人生これまでの憎悪を込めて静かに言った。

「は、離しなさいよっ!」

「おまえが出て行くのには全然構わねえ。むしろ賛成だ。だがな、最後ぐらいけじめつけろや。じゃねえと俺が殺すぞ、キサマ……」

「ど、どうしろって言うの?」

「ちゃんと人材の確保をして、テメーのしでかしたケツを自分で拭けって事だ」

 そこまで言うと手を離し、俺は乱暴に親父の部屋のドアを叩き付けた。

 あれだけ苛立っていたはずなのに、何故か無性にせつなく寂しい気持ちになる。

 昼過ぎになると、馬鹿な親父は帰った職人を呼び戻し、『神威クリーニング』を開けた。感情的だったのを時間が過ぎた事で落ち着き、世間体を気にするようになったのだろう。それだけの事なのに、少しホッとしている自分がいた。

 伊橋さんは口約通り家に来て、自分の仕事を黙々とこなす。どれだけ仕事がやりにくく、また精神的に辛い事だろう。

 夜になり、部屋をノックする音が聞こえた。

「龍ちゃん…、ちょっといいかな?」

 甲高い猫撫で声。体内へ入れたくない三村の声だった。あの女、こんな深夜にどういうつもりだ? 今日あれだけ脅してやったのに、まだ何か企んでいるのか?

 ドアを開けると、案の定三村が立っていた。

「一体何の用ですか?」

 怪訝そうな表情をしながら迷惑そうに口を開く。

「あのね、あなたはこの家の長男でしょ? 私は常におじいさんへ、長男を大事にしなきゃいけない。そう言ってきました」

「……」

 こいつ、今まで自分がしてきた事を覚えていないのか? どれだけ人を馬鹿にしているのだ。右の拳をギュッと固く握り締める。待て…、今怒ったところで何もなるまい。ここはこの女がどんな計画を立てているのか。それをまず見極めろ……。

「こんな狭い部屋に住まされて、誰もあなたを必要なんてしない。でもね、私はあなたが本当は一番優しくて、人の思いを分かってあげられる人だって分かっているの。その事は何度もおじいさんへ言ってきたのよ?」

 ふざけるな。初耳もいいところだ。

「あの~…、三村さん……。一体何が言いたいんですか? おっしゃる意味合いがまるで分からないのですが?」

「私は自分の母の体調が悪く、これから実家に帰らなきゃいけない。妹も色々うるさいしね。でもこの家を出て行く訳だから色々調べものしていて、一つ知っちゃった事があるの。龍彦ちゃんはああやって籍を抜いちゃったけど、あなたは広龍さんの子供でしょ?」

「え? 何すか、それ……」

 一番下の弟である龍彦。あいつが籍を抜いた? 一体どういう事だ?

「あら、やだ…。龍ちゃん、知らなかったの? あのね…、私が戸籍などを調べていたら、龍彦ちゃん、由紀子さんの養子縁組をしていたのよ。しかもずいぶん前よ」

「……っ!」

 そんな真相に対し、正直俺は愕然としていた。親父と三村がいつの間にか籍を入れていた事を非難していた家族。しかしおばさんのユーちゃんと龍彦も同じような事をやっていたのである。ショックを隠せなかった。

 しかも初めてその事実を聞いたのが、このタイミングで三村から……。

 これまでの自分の人生をすべて否定されたような疎外感。そう…、俺はいつだって蚊帳の外なんだ。

 神威家にとって忌み嫌われし無意味な存在……。

 確かに家の事など、これまであまり振り返ってこなかった。だけど俺が動く時は必ず結果を出してきたはずだ。

 お袋と親父を離婚させたのも俺。

 ずっと数十年に渡って揉めていた南大塚の問題を解決し、四千万という金を作ったのも俺。

 しかし、それが三村を家に引き寄せる原因となってしまった現実。

 この三年間、親父と三村を遊ばせる為に資金を用立ててしまった現実。

 良かれと思って動いた行動が、すべて裏目になっているのである。

 生きている価値なんて、俺にあるのか?

「龍也ちゃんは結婚して家を出て行った。だから龍ちゃん、あなたがお父さんを助けてあげないでどうするの?」

「……」

「あなたは優しい子。長男だし、この家を守るのもあなたの役目」

 俺の肩へそっと手を置こうとする三村。とっさにその手を跳ね除け、静かに言った。

「俺は親父と違って長男らしい事なんて、まったくしてもらっていない。長男だからと都合いい時だけ言われ続けてきただけだ…。俺が家を継ぐ? 何で今さら?」

「大丈夫。あなたならやれる。私には分かるから」

 思い切りグーで、この憎らしい顔面を陥没させてやりたかった。よくもここまで白々しい事を言えるものだ。ある意味感心してしまう。

 この女が家に来てから俺に何をしてきた? 従業員の伊橋さんには、俺とユーちゃんを寄生虫と罵り、まるで自分が面倒を見ているかのように言い触らしてきた。風呂場では浴槽の湯を溜める為の風呂栓を自分たちが入り終わるとどこかへ隠し、ここ数年家の風呂ではまともに湯船へ浸かった事がない。しかも去年末まで俺が会社を辞めた際、「この家を狙っているのかしら」と陰口を叩いていたぐらいなのだ。

 結論から言えば、みんなからこのまま去るのかという件に対し、俺という後釜を入れれば丸く収まるとでも思っているのだろう。

 俺は一瞬三村を睨みつけ、ドアを閉めた。これ以上あんな奴と関わると、本当に頭がおかしくなりそうだ。

 それでもまだ廊下から三村は俺の名前を呼んでいたが、無視をして布団へ寝転がる。

 

 二千十年一月七日。この家に関わった俺がいけなかったのか。そう考える自分がいた。もっと自分の事だけを考えさっさと飛び出していれば、違った幸せの形を手に入れられていたかもしれないのだ。

 いや、違う…。結局あの家を出てしまったあと、残されたおじいちゃんの事を考えるとそうはできなかったのだ。

 何故あんな女と親父は結婚した?

 何故龍彦とユーちゃんは、養子縁組をした事を俺に言わない?

 三村から聞いた衝撃の事実。一晩寝ても頭が混乱していた。

 部屋を出て、一階へ降りる。おじいちゃんなら何故か知っているはず。話を聞いてみよう。

「ねえ、おじいちゃん……」

「ん、何だ?」

「たあとユーちゃんの件でなんだけど…。本当に親父との籍なんて抜いて養子縁組していたの?」

「誰から聞いたんだ?」

「……。三村だよ……。何で俺には言わなかったの? 何であんな奴が俺より先に知っているの? 何で黙っていたの?」

「私が死んだ時分かる……」

「何だよ、それ? そんな言い方じゃ分からないよ?」

「……」

 おじいちゃんはそれ以上口を開いてくれなかった。

「何が長男だよ! 冗談じゃねえよ!」

 俺は部屋に戻り、今後どう生きていいかすら分からなくなった。おじいちゃんに大きな声で言ったって、しょうがないのにな……。

 伊橋さんへ電話を掛け、昨夜三村が家を継げと意味不明な事を抜かした件と、龍彦とユーちゃんの養子縁組の件を話す。

「まったくあの女は、とうとう龍ちゃんまで巻き込もうとして…。いいかい、龍ちゃん? 自分がどうしても継ぎたいっていうならとめないけど、義理だとか長男だとか、そんな事にこだわる必要なんてないんだからね」

 呆れたように伊橋さんは三村を罵倒した。

「ええ、そんな継ぐ意志などあったら、とっくに馬鹿やってないで昔の時点で継いでますからね。龍彦とユーちゃんの件は伊橋さん、知っていましたか?」

「ごめんね…、一応口止めされていたから、あえて私の口からは言わなかったんだけどね」

「いえ、そんな事はもうどうだっていいんですよ…。ただ三村の口から聞いたという事がショックだっただけで……」

 嘘だった。俺と龍彦は戸籍上兄弟じゃない。そんな事すら口止めされていた現実を聞き、また一つ心にヒビが入ったような気がした。

「龍ちゃん、今ね、これ以上『神威クリーニング』を続けるかどうか。それをおじいちゃんは広龍さんへ話しているみたい。この三年間で赤字しか作ってこれなかった責任を取って、社長を辞めろって」

「そうですか」

 親父が社長になったらこの家は潰れる。誰もがそう言った予告。それがとうとう現実になるのか……。

「でも、広龍さんはどうしても続けたいって。あの人にとっては社長って肩書きが何よりも大事なんだよね」

「親父はそういう奴ですよ、昔から。それより何でそんな話し合いになったんです?」

「マッチさんがおじいちゃんに『私は実家に帰るから、お金の管理をお願いします』って丸投げしようとしたところから始まったの。広龍さんは金管理なんてしたくない。おじいちゃんがやれって。おじいちゃんも九十二でしょ? それでもうそんなんじゃ、店は辞めようって」

「……」

「それにしても、あのマッチさんは本当にとんでもない女だね」

「また何かあったんですか?」

「この後に及んでもまだ、自分が出て行くのをおじいちゃんのせいにしているし、勝手に家から出て行くくせに、広龍さんとは籍は抜かないんだって。本当にあの人は金だけなんだねえ。散々むしゃぶっておきながら、離れてもまだ骨までむさぼろうとしている」

「そりゃそうでしょ。あの女の執念は世界一ですからね。じゃなきゃ俺や龍也たちがいるこの家に入ってきても、図々しくこうやっていられますかって。伊橋さんがもし、三村の立場だったらどうしていましたか?」

「私は家族全員に嫌われてまで、家の中にはいられないなあ」

「それが当たり前なんですよ。三村、あの女は妖怪か物の怪ですよ。すでに人間なんかじゃない」

 どんな事情にせよ、これでやっと物の怪が家から去ってくれる。俺はその事については嬉しく思っていた。

 夕方になると、弟の龍也から電話が入る。

「兄貴、今どこ?」

「ん、自分の部屋」

「ちょっと下に降りてきてよ」

「何でだよ?」

「今さ、下で家の今後について話し合っているんだよ。だから兄貴も顔を出してよ」

「いや…、いいよ……」

 三年前、親父が社長に就任する前の騒ぎを思い出していた。

 思えばこの頃から、俺の人生は狂ってきたような気がする。歌舞伎町で金を稼ぎ、ふんぞり返っていた俺に「たまには家の事ぐらい少しは気に掛けてくれよ」と言った龍也。その言葉に反省したからこそ、俺は動いたのだ。そして自分のした事が、あの二人をさらに増長させてしまった事実。呪われているのだ。

「兄貴っ! ちょっとでいいから下へ降りてきてよ」

「ああ……」

 力なく答えた。

 結局負の連鎖は、まだまだ俺に襲い掛かって来るというのだろうか?

 一階の居間へ行くと、おじいちゃんを始め、その正面に親父と三村。その横に龍也。そしておじいちゃんの横に伊橋さんがいた。

 俺が顔を出すと三村が興奮したように立ち上がり、「ほら、長男が来たよ」と嬉しそうにはしゃいでいる。

「兄貴、結論から言うとさ、兄貴がこの家を継ぐしかないよ」

 龍也が突然話を切り出す。

「はあ?」

「兄貴はこれまで色々な事をやってきた。それで様々な結果を出してもきた。今回三村さんと中曽根さんが抜けてしまう。兄貴が継げば、伊橋さんも辞めるのを考えるかもしれないし、経理を担当していた中曽根さんの穴もすべて埋まる。いいか、親父? 兄貴は自分からは言わないけど、簿記だって二級持っているし、パソコンのスキルだって企画力だって何だってある。器用に何でもこなすしね。これほどの人材はいないよ」

 妙に盛り上がっている龍也。

「そうかそうか……」

 そう頷きながら薄気味悪いぐらい笑顔の親父。

「ほら、龍ちゃんそんなところ立ってないで、お茶でも淹れるから座ったら」

 三村が甲高いキンキン声を出しながら笑顔で話し掛けてくる。

 何だ、この気持ち悪い空気は…。吐きそうだった。

「三村さん、お茶は結構です。龍也、いきなり呼ばれてそんな事を言われても、正直すぐやるやらないなんて答えは出せない」

「兄貴が継ぐのが一番いい方法なんだよ。兄貴ならこの家をもっと大きくできるだろう?」

「俺を買いかぶり過ぎだ。そんな商才があるなら整体なんぞ潰していない」

「でもさ、また兄貴はサラリーマンをやるわけ? 兄貴がサラリーマンなんて務まらないのを俺はよく分かっているつもりだぜ? 俺が車屋、龍彦はイタリアンレストラン、そして長男である兄貴がこの家を継ぐ。一番いい形じゃん」

 この大団円のような雰囲気に対し、違和感を覚える自分がいる。確かにこの俺の性格じゃ、サラリーマンなんてどこへ行ったとしても、いつ辞めるか、それかクビになるか。経験を積んだ俺が家を継ぎ、丸く家族を収める。そうなれば確かにはたから見れば、いいフィナーレに思われるだろう。

 大団円? ふざけるな。俺がこんな状態の家を継ぐ事の何が大団円なのだ? この中で笑顔の親父、三村、龍也の三人。無表情のおじいちゃんと伊橋さん。何故この三人だけが笑顔なのだ? それは俺が継ぐ事で、この三人に何かしらのメリットがあるからである。

 よく考えろ。慎重になっても感情的にはなるな。必死にそう自分へ言い聞かせた。

「兄貴がこう構えちゃうのも、幼い頃お袋からの虐待を受けたからなんだ」

 俺が考えている間、龍也は勝手な事を話し出している。

「あら~、それは可哀相に……」

 三村が調子を取るように合わせてくる。

 こういった不自然なやり取り一つ取ってもおかしい。三村はを龍也毛嫌いし、過去揉めた時、家の電話から百十番通報したぐらいなのだ。

 まず俺が家を継ぐと返事をすると、この三村のメリットは? こんなタイミングで実家へ逃げ帰ろうと慌てているので、俺が入る事で代わりの人材の確保となる。それに自分がやっとこの家の長男を継がせる事を説得した。だから私も安心して任せて長野へ行ける。きっと近所へこうやって言い触らすだろう。

 次に龍也。以前こいつは俺に「家を潰しちゃもったいないぜ、兄貴。八十年もやっている会社なら、いくらだって国から金を引っ張れる方法なんてあるんだからさ」と言っていた。つまり、親父の実印までどこかへ隠し持っている三村たちが、この家の取締役では難しいが、俺相手なら兄弟の絆で何とか金を引っ張れると踏んでの事だろう。

 最後に親父。何故あれだけいがみ合いをしてきたのに、こうやって素直に俺を迎え入れようとしている?

「おまえは、この神威家を継ぐ覚悟はあるのか?」

 親父を見ていると、笑顔で自信満々に言ってきた。

「……」

 呆れて物が言えない。しかし、これで分かった。三村にも中曽根にも去られ、どうする術もない親父。誰かしらをこうやって味方に引き込んでおきたいだけなのだ。昔からこいつはそう…。いつだって誰かしらのすねを齧ろうとするただの馬鹿に過ぎない。そして虚栄心だけは、人並み以上にあるのである。自分のしでかした事を肝心な時になると逃げ回るだけの性格。我が親ながら本当につまらなく、くだらない男だ。

「みんな今まで俺も含め、全員がそれぞれ自分たちのエゴを出し過ぎてきた…。今ここで一番大事なのは何か? もっとそれを中心に考えたほうがいい。俺が継ぐとか、継がないとかそういう事が問題ではなく、何故こんな風になったのか? そして家を辞める辞めないについては、この店を一代で築いたおじいちゃんが本当にどうしたいのか? その気持ちが一番大切だ……」

 自然と言葉が口から出ていた。

「だからこの家は潰さないって方向で決まったから、あなたを長男として……」

「三村さん! 俺はあなたのエゴなんて何も聞いていない。おじいちゃんがどうしたいのか? それについて話をしている。昔からあなたはいつも大事なところで余計な口を挟む。お願いだから、少し黙っていて下さい」

 お喋りな三村を黙らせる。

「おじいちゃん…、この『神威クリーニング』…。今このタイミングで潰す方向でいいのかい? それとももうちょっと頑張ってやっていくのを見たいのかい?」

「……」

 それについておじいちゃんは口を閉ざし、すぐに答えなかった。複雑な心境なのだろう。

 この場にいないおばさんのユーちゃんは、いいチャンスだから店を潰し、親父ら夫婦に責任を取らせろと昼間言っていた。一見正論かもしれない。でも、どうやってこんな恥知らずで馬鹿な奴らが責任を取れる? ユーちゃんはいつもそう。自分じゃ動かないくせに、正論だけを常に主張し自分の意見はまず譲らない。本当にそう思うなら、この場にも出席し、堂々と自分の意見を主張するべきなのだ。参加しない人間に、物事を偉そうに抜かす資格なんてどこにもない。

 それにこの店を潰すと決められる権利を持つのは、作り上げたおじいちゃんだけだ。

 何故親父は続けたいのか? 自分の立ち位置と経費の自由な使い込みをしたいから。

 何故三村も続けたいのか? 自分が出てすぐ潰れては回りに何を言われるか分からないという自尊心。だからこそ金に汚い女が急に飛び出そうと焦っているのだ。少し実験してみるか……。

「ここで今、俺が継ぐ継がないを出す前に、三村さん…。あなたに一つ聞いておきたい事がありますが、いいですか?」

「え、な、な~に?」

「親が危篤だから実家へ帰る。人道的にもそれは分かるし、大変なのも理解できます」

「うん、そうでしょ」

「しかし、なら何故すぐにでも親元へ駆けつけないのです? そこに何故いちいち家を辞めなきゃいけないとか、おじいちゃんが酷い事を言ったから限界だなどと、そんなものを付け加えるんですか?」

「だからね、妹も親の世話が大変で、私に『お姉さんもお母さんの面倒見てよ』って頼まれているし……」

 まるで答えにも言い訳にもならない事を挙動不審で話す三村。まあ今はそんな事どうだっていい。

「まあその件はいいです。これ以上話したところで会話にならないでしょうから。一つ確認します。今、会社の金はどのぐらい残っていますか?」

「私は分からないわ。幸ちゃんなら分かると思うわ」

「……」

 本当にこの女は常に言い逃れの連続だ。親父の実印さえ、この家に置かずどこかへ隠し持っているような奴が、家の状況知らないはずがない。もう自分は消えるから、この場にいない義理の息子の中曽根さんのせいにしようとしている。汚い、本当に汚い女である。

「分かりました。なら近日中に中曽根さんと話し合いの場を持ちます」

「じゃあ、龍ちゃん、あなたこの家をやっと継いでくれるのね?」

「三村さん…、それとこの話は別問題ですよ。俺はまず会社の財政状況を確認すると言っただけです。伊橋さんも辞めてしまう。三村さんも辞めて実家へ帰ると言い出す始末。どうやってあなた、仕事の引継ぎとかさせるんですか? それにはまず人材を入れて補強すべきでしょ?」

「そ、そうよね。明日にでもすぐ職安へ行って、募集をしてくるわ。それなら龍ちゃんがあとは継いでくれるのね?」

「申し訳ないですが、まずは中曽根さんと話し、状況を確認する。それだけです」

「兄貴さ……」

「悪いけど、俺はこの辺で消えさせてもらうよ」

 これ以上ここで話すのは得策ではない。俺は背後から呼び掛けられても無視して自分の部屋へ戻った。

 あとで伊橋さんから電話が掛かってくる。

「龍ちゃん、さっきの対応といい言い方といい、私から見ていて頼もしかったし、本当に良かったと思うよ」

「継ぐにしても、継がないにしても、情報が足りな過ぎます。明日にでも中曽根さんと話して色々把握しておきますよ」

 電話を切ってから、横になって天井を見上げる。この俺が家を継ぐかなんて、そんな事一度も考えた事なかったなあ……。

 俺がこの家を継ぐ事に対し、みんなは何を期待しているのだ。こんな不景気なご時世に。

 自分の生きたいように、やりたいように散々ムチャクチャをしてきて、何も残っていない俺。賞を獲って本が出たら、もっと世の中変わるかと思っていた。実際に信念を持って臨み、思った通りの結果を出した途端、俺は余計分からなくなり彷徨っていた。

 人間不信にも陥り、金とか欲よりも、もっと大事な何かを求めるようになっている。

 今の俺に残っているもの。それは小説を書けるといったスキルぐらいだ。

 いや、馬鹿な…。全然作品なんかここ最近書いてもいないじゃないか。

 約一年前に書いた『新宿クレッシェンド』シリーズ第五弾『新宿セレナーデ』以来、作品なんて一つも完成させていない現実。あとはお茶を濁したように過去の作品を推敲し、再度見直すぐらいだ。第六弾『新宿リタルダンド』も結局のところ執筆がとまった状態のまま年を越してしまう。もう会社は辞めたのだから、書く時間がないなんて言い訳に過ぎない。去年の十月から今までの約三ヶ月間、俺は執筆すらしていないのである。

 今年の一月四日締め切りの『さいたま文芸賞』へ出してみたらと、小説の師である野村先生から連絡が来たが、俺は過去留置所時代の実体験を描いた『かれーらいす』を推敲して出した。埼玉県という小さな世界の中に、巣鴨警察や東京地方検察所の実態を正直に書いた作品を出したところで、どんな評価を得るのか? あれはかなりの問題作だからこそ、目をまるで掛けられない可能性がある。

 思い返すと俺は作家として行き詰まり、これがもう限界なのだろうか? たまたまマグレで賞を獲れたに過ぎないからこそ、未だ人気もないし印税も入ってこない。そして他の出版社からも連絡など二年間何もないのだ。

 才能がない。もうそろそろ自分自身それを認めたっていいんじゃないか? 口に出して言ってみろよ……。

「俺は…、小説家としての…、才能なんて…、ない……」

 声にした瞬間、視界が歪み、心が苦しくなる。

 格好なんかつけず素直に家を継ぎ、おじいちゃんの築いたこの家を守る。俺の人生それでいいんじゃないのか?

 今年で執筆を開始してから丸六年経った。その中で世に送り出せたのは処女作の『新宿クレッシェンド』だけという現実。誰も俺などに期待などしていないし、目も掛けていないのだ。そろそろ諦め時じゃないのか?

 幼少から続く憎悪を糧に小説を書き始めた俺。書く事で自己の魂を少しずつ浄化させているような気でいた。でも、それは単なる俺の自己満足に過ぎない。

「俺は処女作で賞を獲ったんだぞっ! チクショウ……」

 気づけば俺は泣いていた。

 誰も認めちゃくれない。だからもう辞めるのか? 分からねえよ、そんなもん。書きたいから書いた。書いたから作品ができた。だから賞が獲れた。でも、認めてくれない世間。

 言うとやるは違う。ただ口にするだけと、実際に行動するのは別物だ。経験したからこそ俺はハッキリ言える。ずっと誰の前でもそう言ってきた。

 それすら間違っていたのか? 分からない……。

 でも、今の世間の反応がそうじゃないか。誰も俺の作品なんて気に掛けちゃくれない。

 悔しいなあ……。

 何だかとても悔しいなあ……。

 プロレスも中途半端。

 総合格闘技に出たって中途半端。

 ピアノだって中途半端。

 絵も中途半端。

 小説を書き出したって中途半端。

 整体を始めたって中途半端。

 サラリーマンだって中途半端。

 俺はすべてに対し、全部が中途半端なんだ。だから駄目なんだ。大した成果など挙げていないのに、自分じゃずっといっぱしだと突っ張って生きてきた。でも、いっぱしなんて周りが勝手に決める。それが評価だ。

 自分じゃすごい作品を書いてきたと自負があった。『新宿クレッシェンド』程度の作品で賞を獲れたのだ。そのあとに書いた作品なら超えているはず。ずっとそう思いながら自信を持ってこの六年書いてきた。でも、それすら自己満足という現実。

 六年経った今、俺は自信をなくし、だから新しいものが書けないのである。

 もういい潮時じゃないか。一回賞を獲れたし、多少の格好をつける事ができた。それでいいだろ?

 もう無理なんてするなよ。ここは素直に家を継ぎ、適当に結婚して、幸せな家庭を築きゃあいいじゃないの……。

 弟も去年で二人共結婚しちゃったんだぞ? 適当に金を稼ぎ、適当に地元へ馴染み、適当に結婚相手を見つけ、そうやって生きたほうが楽だろ?

 子供だって元々大好きなんだ。近所の子供たちにカレーやミートソースなんかを作って配り歩くぐらい。自分の子供が生まれたら、どんなにもっと可愛いだろうか……。

「……」

 馬鹿野郎! 百合子と別れたとはいえ、あいつとの間にできた子供をおろした事を忘れたのか? 業が深いのだ、俺は……。

 簡単に自分の幸せなど、安易に決めるな。

 誓ったんだろ、名前さえつけてやれなかった我が子に……。

 俺は俺らしく生きるって……。

 とにかく明日だ。中曽根さんと会い、会社の実情を聞いてから考えればいい。今は何一つ正確な情報なんてないのだから、考えたって無駄だ。

 今日は寝よう。ゆっくり休んで起きてから考えればいい。一日で色々な事があり過ぎた。

 

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