今回のパリ五輪の開会式が世界的なブーイングを受ける中、主催者側がキリストの最後の晩餐を愚弄した事について謝罪していたが、あんなの、やる前から大問題になるのは分かっていた事だ。米国の通信会社がオリンピックのスポンサーから下りる声明を発表した途端コレ。本当に現金な連中だ。そんでもって結局、閉会式も開会式と同様なアバンギャルドだったなら、もう、笑うしかない。
今回の開会式を見て、パリ五輪の主催者は何を考えているのかと最初は呆れたが、フランスの歴史的背景を知るうちに、パリという街には元々、前衛的で左派的な文化が根底にあったのでは?と認識を改めるに至った。市民が権利を勝ち取るため、王政を打倒すべく引き起こされたフランス革命だが、歴史を紐解けば、その残酷さが際立ち、世界的な認識としてそれほど称賛される事もなく、主権も王から市民に移ったわけではなかった。結局のところ、「左派」の名を借りた「悪魔崇拝者」達が王や貴族の権力を奪い取る為に市民を扇動したようにしか見えない。
もう一つは「芸術の都」パリという虚像。今回ふと頭の中で繋がった事がある。近代アートの中心地でもあったパリから多くの芸術家が輩出されているが、ここで才能を開花した二人の芸術家が浮かんだ。ピカソと岡本太郎だ。二人のアートへの熱意は凄まじいものだったが、そのアバンギャルドな作風を語る上で、フランスでの創作活動は欠かせない。両者の作品には凄まじいパッションが感じられるが、不思議と全く美意識が感じられない。特に岡本太郎は「芸術はきれいであってはならない」という名言を残しており、その言葉に沿った作風であった。本来、アートの定義付けは人それぞれであり、アーチストによって定義が異なるからこそ、多彩なアートの生まれる素地が出来る。岡本太郎の作風もその在り方の一つであり否定する理由はない。しかし岡本太郎の名言が知名度とともに周知される事で、アートとは「美しくないもの」だと大衆の脳裏に認識づけられてしまった。
ピカソも岡本太郎も天賦の芸術家だったからこそ、どんな作品であれ世に知れ渡ったと思うが、その二人の作風に大きく影響したのがパリで過ごした日々にある。だがその基盤こそが、市民革命以降、悪魔崇拝者達によって醸成された文化だったのではないか。岡本太郎は1970年の大阪万博で「太陽の塔」というオブジェを作り、大阪万博を象徴する役割を果たした。その奇抜さは今でも目を引くが、正直、あれが美しいとは言い難い。今年パリ五輪を終え、来年には2度目の大阪万博が開催される。パリと大阪万博がここで岡本太郎を通じて繋がる。大阪万博は現時点において全く良い話題がないが、醜悪なモノから目を背けたい私としては、むしろ失敗で終わって欲しいとさえ思えてくる。
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