「食べ処・身土不二」(札幌)は、身土不二を日本と世界へ発信する。食堂ならぬ食堂、啓蒙運動の発信地。日本よ、滅びるな!

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政党の無責任さが、食糧自給率の低下をもたらした

2007-05-01 03:12:23 | Weblog

http://www3.plala.or.jp/shindofuji/

 わが国の食糧自給率のカロリー換算で40%は、先進産業国で最下位である

 
このような低い食糧自給率は、もちろん、政党の無責任さがもたらしたものである。 食糧自給率の低下は、歴史的な経緯がある。
 
 五十五年体制は、周知のとおり自民党と社会党の対決であった。日本農業衰微の源は当時、保守と革新といわれたこれら二大政党にまでさかのぼると言わなければならない。

 かつての保守政党も革新政党も、それぞれの支持者を裏切った。この裏切りが、今日の日本農業の衰退を招いた大きな原因である。 
 
 保守勢力の裏切りとは、何か。 
 周知のごとく、かつての保守政党の基盤は農民にあった。しかし保守は、輸入農産物でもって国産農産物を安楽死させて、その支持者である農民を裏切った。 
 
 革新勢力の裏切りとは、何か。 
革新陣営の基盤は、都市住民、つまり労働者大衆にあった。しかし革新政党は、彼らの労働力再生産の糧となる食糧自給を、党の存亡をかけて闘わず、結果的に保守の犯した誤りを正せなかった。
 
 外国に支配される、わが国の「平和」と「自由」について。 保守と革新の常套文句は、それぞれ「自由」と「平和」「生命の尊重」であった。 「自由」といい、「平和、生命の尊重」といっても、それらは、食糧の自給あってのことではある。食糧自給なくして、いかにして平和と生命が尊重されるのか、理解に苦しむ。いまの日本の「自由と平和」は、食糧供給国の容認する「自由」であり「平和」である。
 
 保守のいう「自由」とは、食料輸出国に背けない「自由」である。はたして、このような「自由」は、自由と言えるのであろうか。食料輸出国の望まない、真の自由を望むならば、日本民衆の多くは、兵糧攻めで餓死を覚悟しなければならない。食糧自給なくして独立・自衛はありえなく、外国への隷属あるのみである。 
 
 また、革新のいう平和とは「観念的平和」でしかない。 食糧自給の壊滅的状況では、餓死覚悟の「平和」あるのみ。真の平和とは食糧自給あってのことである。安保条約に反対といっても、食糧自給なくては、所詮、外国の隷属に甘んじざるを得ない。
 
 保守勢力のいう「自由」も、革新勢力の叫ぶ「平和」も、外国への隷属を甘受するか、それとも餓死覚悟での「自由」であり「平和」のいずれでしかない。
 
 
どちらにしても、このような「自由」と「平和」は、外国への隷属ということに他ならない。このような偽りの「自由」と「平和」は、五十五年体制の崩壊したあとでも、つまり今日でもすこしも変わっていない。まことに危うい国、日本といわなければならない。