誰でも、「明日も、確実に生きていたい」と願うものであろう。これは、生物としての本能である。
ところで、この「確実であって欲しい生命」であるが、それは、食物を抜きにしてはありえない。
その食物を産みだすものが、農業である(ここでは、漁業・他については論じない)。つまり、生命を確実に維持する術は、農業にかかっているのである。
しかも、その農業は、「身土不二の原則」から云えば、自国の農業でなければならない。
だが、農業ほど、不確実なものはない。
料飲店、バー、スナックなどは、水商売といわれる。水商売とは、人気によって存続が左右される不安定な商売のことである。
農業は、この水商売よりも、いっそう不安定である。
雨水が多すぎても、少なすぎてもダメ。日照も少なくてはダメ。暑すぎても寒すぎてもダメ。
天候も順調であって、今年は豊作に違いないと皮算用していても、台風一過で、農作物が壊滅的打撃を受けることもある。
天候は気まぐれであり、人間の力では如何ともしがたい。この気まぐれな天候に左右されるのが、農業である。農業の性格を、ひとことでいえば、「不確実」に尽きる。
さきに、誰しも、「生命は確実であって欲しい」と願うと述べた。
この「確実であって欲しい生命」が、「不確実きわまる農業」に頼らざるを得ないとは、大いなる矛盾と言わなければなるまい。
この「矛盾」に思いをはせると、あらゆる方策を尽くしても、日本の農業を擁護しなければならないはずである。
食糧自給率100%では,まだ、安心できない。少なくても、200%程度は確保すべきである。
さらに、不作に備えて、米などの備蓄を、最低3年分は用意しなければなるまい。
そのため、国家予算で許せる限りの税金を、他の分野の費用を削ってでも、農業へまわさなければならない。
なぜ、これほど農業を重視しなければならないのであろうか。先に述べたが、「生命は農業に担保」されているからである。
生命あっての、政治と経済である。
政治にしても経済にしても、「生命が安んじられる」ためにこそ、必要となる。
このように考えると、わが国の食糧自給率がカロリー換算で40%(最近では39%)とは、気違い沙汰である。
この数字は、政治と経済が「生命をないがしろ」にしていることを雄弁に物語っている。
◆レスターブラウンの警告
食糧の基本である穀物の需給が、世界的に逼迫しているといわれている。
レスターブラウン『フード・セキュリィティ』によると、この4年間で、世界の穀物生産量は、その生産量が消費量を下回った。その結果、穀物の備蓄は、ここ30年間の最低水準まで落ち込み、穀物の価格の高騰も予想される。
ところで、わが国の穀物自給率は、およそ20%である。 1950年代、わが国は穀物はほぼ自給できていたが、いまでは、米を除けば、その穀物自給率は危うい状況にある。その米でさえ、減反政策という悪政で、国民の必要量を賄えない。
レスターブラウンは、前掲書で、食物争奪戦争もありうるとつぎのようにいう。
「土地の生産性の伸びが鈍化し続け、一方で、人口が毎年七000万人以上増えつづけるなら、各国政府はナショナル・セキュリティ(国家安全保障)を、食糧不足と食糧価格の高騰、そして「不足の時代」に対応する政治という観点から構想するようになるだろう」。
さらに、同氏は「フード・インセキュリティ(食糧不安)は、各国政府の最大の懸念材料として、近いうちにテロリズムより重視されるかもしれない」(前掲書11ページ)という。
このような国際状況にあって、食糧輸入大国、つまり農業小国である日本は、じつに危うい国であるといわなければなるまい。
わが国は、「農滅べば、民滅び、国亡ぶ」への途を歩んでいる。
食糧危機ともなれば、わが国の納税者は危うい。納税者の税金で運営されている政府が、納税者を餓死させる危機にさらしかねないとは、なんたることか。
先日の身土不二紹介ブログの件です。