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ニッポンのゆる~い日常

ネトゲ「大航海時代」で日本海を「朝鮮海」と表記

2010-01-06 09:29:00 | Weblog

ネトゲ「大航海時代」で日本海を「朝鮮海」と表記 ユーザーの批判殺到


http://sankei.jp.msn.com/life/education/100104/edc1001042223002-n1.htm


日本製の人気オンラインゲームで、日本海を「MER DE COREE」(朝鮮海)と表記している地図が使われていることが分かった。開発したゲームソフト大手「コーエー」(横浜市)のホームページ上の公式掲示板には、「大変不快」「どこの国の企業なんだ?」などとユーザーの非難が殺到。日本政府の見解と異なる表記を使用したことに識者からも批判の声が上がっている。

 問題となっているのは、日本人ユーザー向けに先月、公開されたオンラインゲーム「大航海時代 Online」シリーズの「El Oriente(エル・オリエンテ)」。歴史上の大航海時代の世界を舞台にしたロールプレーイングゲームで、オープニングムービーに映し出される古地図で、日本海の部分がフランス語で「朝鮮海」を意味する「MER DE COREE」と書かれている。

 これに対し同ゲームの公式掲示板には「日本人ユーザーの気持ちを無視している」などと修正を求める書き込みが相次いでいる。コーエーは産経新聞の取材に対し「現存する古地図をそのまま利用した。修正は予定していない」と説明。古地図の出典や採用の経緯については回答しなかった。

 大航海時代は日本人ユーザー3万人以上の人気シリーズで、韓国では2005年から公開されている。エル・オリエンテの韓国での公開開始については明らかにされていないが、コーエーは「すべてのユーザーに配慮した」としている。

 日本海の呼称をめぐっては、韓国・北朝鮮が国連に同時加盟した翌年の1992年から「東海」との併記や「朝鮮海」への表記変更を強く要請。「日本海」は植民地時代に押しつけられた表記だと主張している。

 しかし、外務省が平成16年に、仏国立図書館所蔵の16世紀から19世紀の間に発行された古地図1495枚を調査したところ、「日本海」は249枚あったものの、「朝鮮海」はわずか60枚だった。歴史的に「日本海」という表記が一般的だったと判明している。

 日韓関係に詳しい下條正男拓殖大学教授は「批判の声をあげているユーザーは、日本の主権を理解している」と評価。コーエーに対し「国際関係の意識が希薄で、見識を疑う。訂正を求めたい」とした。

 コーエーは、「信長の野望」「三國志」シリーズなどの人気ゲームを開発したことで知られる。





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「千島列島引き渡しは国際法上誤り」

2010-01-06 09:21:19 | 国際時事
チャーチル英首相の通訳「千島列島引き渡しは国際法上誤り」


http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100105/erp1001051922006-n1.htm


第二次大戦末期、ソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談で、チャーチル英首相の通訳を務めたヒュー・ルンギ氏(89)が本紙のインタビューに応じ「千島列島は日本の領土で、ソ連への引き渡しを決めたヤルタ協定は国際法上間違いだった」と語った。会談では、体調がすぐれないルーズベルト米大統領に対し、ソ連最高指導者スターリンはメモなしで堂々と議論を進めたという。

 オックスフォード大卒のルンギ氏は大戦中、モスクワで英軍のロシア語通訳として勤務。米英ソ首脳による1943年のテヘラン、45年のヤルタ、ポツダムの3会談、44年10月の英ソ首脳会談で通訳を務めた。

 ヤルタ会談についてルンギ氏は「ソ連は対ドイツ戦の勝利をほぼ手中に収めていた。スターリンはご満悦の様子で、彼を取り巻く空気は快活そのものだった」と振り返る。そして「極東問題はルーズベルトとスターリンの2人で話し合われ、チャーチルは署名に応じただけだった。それが公に知られるようになったのは戦後何年もたってからだ」と語る。

 ルンギ氏がヤルタ協定の存在を知ったのも戦後のことだが、「スターリンはルーズベルトに『千島列島は日本が第二次大戦で占領した領土の一部だ』とデタラメの説明をした。ルーズベルトは、千島列島が日本の領土になった歴史的経緯を正確に示した米国務省の資料に、目を通していなかった」と説明。「千島列島は1875年の樺太千島交換条約でロシアから譲渡された日本の領土で、引き渡しは国際法上の誤りだ」と断言した。

 チャーチルのすぐ後ろで3首脳のやり取りを観察した氏は、スターリンについて「彼はすべての事実と、自分が何を求め、何を成し遂げたいのかを知っていた。非常に簡潔に要点を突いて話し、袋小路に迷い込むことはなかった」という。すべて暗記していて誰の力も借りず受け答えし、「会談中、一切メモを受け取らず、決意が固いことを周囲に見せつけようとしていた」という。

 一方、高血圧を患っていたルーズベルトは「見るからに調子が悪そうだった。顔はロウのように黄色かった。顧問団から多くのメモを受け取り、質問に答えるのを助けてもらっていた。チャーチルともメモを交換していた」と振り返る。

 3つの会談で米英ソによって戦後秩序が決められたにもかかわらず「ソ連はかなり邪魔だてしていた。スターリンは、ソ連が対ドイツ戦で攻勢に転じたクルスクの戦い(1943年)など、ドイツに関する軍事情報を一切米英に与えなかった。猜疑(さいぎ)心が強いスターリンは全員を敵とみなしていた。冷戦は大戦中からすでに始まっていた」と語った。






ヤルタ会談
1945年2月にF.ルーズベルト・チャーチル・スターリンの米英ソ首脳が、
黒海沿岸の保養地ヤルタで第二次大戦後の国際秩序を協議した会談。
ソ蓮の対日参戦と引き換えに千島列島の引渡しと南樺太の返還を決めた密約も
このとき成立した。







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