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ニッポンのゆる~い日常

多様な中身持った「安倍談話」に

2015-01-22 10:17:53 | 正論より
1月22日付    産経新聞【正論】より


多様な中身持った「安倍談話」に   東洋学園大学教授・櫻田淳氏

http://www.sankei.com/column/news/150122/clm1501220001-n1.html


 本年の全国紙各紙の年頭社説には「戦後70年」の意義に着目する文言が踊った。本年には、例年以上に「歴史認識」に国際政治の焦点が当てられることになる。実際、中国政府は、露韓両国を巻き込む体裁で「歴史認識」を梃子(てこ)にした「反日」共闘を演出しようとしているもようである。日本では、20年前の「村山談話」や10年前の「小泉談話」に続く「安倍談話」が今夏に発出されると伝えられる。国際政治の世界での対外優位を確保するために、自らの「説得性」を賭した闘争が展開されているのである。




 ≪緻密さが求められる評価≫


 そもそも、「歴史認識」を軸とした国際政治の世界では、第二次世界大戦の敗戦国である日本は、常に「守勢」の立場に置かれてきた。そうした立場であればこそ、「村山談話」に象徴されるように、日本は、折に触れ「反省と謝罪」を要求されてきた。


 しかしながら、明治以降の日本の対外進出は、一体、何れが「反省と謝罪」の対象になるのか。

 たとえば、台湾、千島列島・南樺太、南洋諸島に対する進出は、その是非が議論されることは今では稀(まれ)であろう。朝鮮半島に対する進出は、帝国主義期の支配的な作法に則(のっと)ったものである以上、それ自体は「反省と謝罪」の対象にならない。朝鮮半島との関係で問われるのは、そこでの植民地統治が優秀であったか拙劣であったかということでしかない。


 中国本土に関していえば、日清戦争や北清事変(義和団の乱)に代表される第一次世界大戦以前に行われた進出もまた「反省と謝罪」の対象にはならない。むしろ、第一次世界大戦以降、対華二十一カ条要求、満州事変を経て日中戦争勃発に至る過程での対中進出の有り様にこそ「反省と謝罪」の如何(いかん)を検証する材料はある。

 一方、第二次世界大戦勃発前後の東南アジアへの進出は、それを「アジア解放」の文脈で評価する向きがあるけれども、そうした評価は客観的には無理の多いものである。それは、明白な「反省と謝罪」の対象になるのである。近代以降の対外進出の評価は、その「場所」と「時期」に即して緻密に行われるべきではないか。




 ≪何が「批判」に値するか≫


 このように考えれば、近代以降の日本の対外進出における「反省と謝罪」の対象として、明白な検証の材料となるのは、第一次世界大戦後の対中進出であり、第二次世界大戦勃発前後の対東南アジア進出であるということになる。

 第一次世界大戦以前の日本の対外進出は、帝国主義期の冷酷な国際「常識」に則った結果である。21世紀に至っても、英国がインドやエジプトのような国々に対して、さらにはフランスがアルジェリアや他のアフリカ諸国に対して、「反省と謝罪」を表明しているのでなければ、この件で日本が特段の非難を浴びる謂(いわ)れはないという弁明は十分に可能である。


 しかし、その一方では、第一次世界大戦後、「民族自決」原則と「戦争違法化」思潮が擡頭(たいとう)し、それまでの国際「常識」が変わっていく中で、たとえば満州における「帝国主義」権益に固執し、そうした変化に適応できなかった往時の日本政府の対応は、批判に値しよう。

 「過去の一時期、国策を誤り、…アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」という「村山談話」の認識は、その限りでは決して誤ってはいないのである。




 ≪「村山談話」の最大の瑕疵≫


 ただし、「村山談話」における曖昧さは残る。韓国では、現在は自衛隊旗として使用されている「旭日旗」を「戦犯旗」と呼んで、それをスポーツ・イベントを含む国際場裡から排除しようという動きがある。これは、日本が第二次世界大戦において敗北した事実に半ば便乗して、近代以降の日本の歩みのすべてを断罪しようという心理の反映であろう。


 日本国内にも、第二次世界大戦という「近代以降に一度、敗けただけの対外戦争」の敗北に拠(よ)って、近代日本の歩みそれ自体が一つの「成功物語」である事実を否定しようとする論調がある。


 しかしながら、既に述べたように、近代日本の対外進出が「場所」と「時期」によって多様な相貌を持つものである以上、こうした心理や論調に反映された「十把一絡げ」の評価は、却(かえ)って近代日本の歩みの意味に対する正確な理解を妨げる。「村山談話」における最大の瑕疵(かし)は、そうした「十把一絡げ」の評価を実質上、追認したことにあろう。

 そうであるとすれば、今夏に発出されると伝えられる「安倍談話」は、「村山談話」のような単一の文書というよりは、米国、英蘭両国を含む欧州諸国、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国、そして豪州を含む太平洋諸国との関係を扱った複数の文書の「総体」として策定されるのが、相応(ふさわ)しかろう。戦後70年に際して、各々の国々に対して日本が語るべき「談話」の中身は、決して同じではないのである。(さくらだ じゅん)









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崩壊した対岸の国の「法治主義」

2015-01-20 11:18:54 | 正論より
1月20日  産経新聞【正論】より


崩壊した対岸の国の「法治主義」    筑波大学大学院教授・古田博司氏


http://www.sankei.com/column/news/150120/clm1501200001-n1.html


 歴史の中に未来はない。あれば将来の得を取ろうと皆が歴史学者になってしまう。そういうことはあり得ないので、歴史の中に未来はないのである。他方、未来に対する先見性はいらないという社会科学者がいる。だが、先見性がなければ政策提言はできない。だから先見性は必要なものだ。



 ≪『大明律』にみる法の粗放性≫


 歴史を学ぶと情感は豊かになるかもしれない。だが現在ではそんなに悠長なことは言っていられない。先見性は跳ばなければ分からないが、この撥(は)ね板の位置と方向性を教えてくれるのが歴史である。とすれば役に立つ歴史とは、現在から遡(さかのぼ)って自分で調べてみるほかないというのが実感である。


 中国や韓国の法治がどうもおかしいと、最近気がついた。あまりに恣意(しい)的で放埓(ほうらつ)である。粗放というべきかもしれない。そこで明国14~17世紀の『大明律』をひもといてみる。名前の偉そうさに騙(だま)されてはいけない。大明律刑律闘殴条に、「人の一歯および手足一指を折り、人の一目をつぶし、人の耳鼻をえぐり、人骨を破り、銅鉄汁(銅鉄の溶けた液体のこと)で人を傷つけるがごとき者は杖(つえ)(棍棒(こんぼう)のこと)で一百。汚物をもって人の口鼻内にそそぐ者、またかくのごとし」とある。私闘したものは百叩(たた)きということだが、最後のところがヘンだ。人の顔にヘドでも吐きかけるのだろうか。


 他方、李氏朝鮮の法典の刑律の項には「大明律を用いる」と書かれている。こういうのを中国の権威にそのまますがる事大主義という。だが、異国の刑政をそのまま持ちこめるのだろうかと疑問がわく。そこで李朝18世紀の『続大典(しょくたいてん)』に上の該当項目があるかと探すと、あった。「墓穴を穿(うが)ち放火し、あるいは汚物を投げこんで戯れをなした者は『汚物、人の口と鼻にそそぐ律』により(罪を)論ず」とある。人の墓穴にゴミを投げこんだ者は、大明律の人の顔にげろを吐いた者を罰する法律で百叩きにするというのである。大変だなと思うことはない。実は賄賂でいかようにも手加減された。




 ≪近代化に失敗した歴史≫


 それよりも、この両者の訳の分からない法律の歴史を問わなければならないだろう。李朝のほうは18世紀ともなると一族同士の墓所争いがひどくなる。朝鮮の墓所は山だから即山争いである。敵一族の墓に汚物を投げこめば百叩き、棺を燃やせば斬首だった。それにしてもシナ人の顔面を朝鮮人の墓面に置きかえるとは何なのか。


 
実に、彼らの歴史とはこのような古代の粗放性に彩られている。日本のような中世や近世はないのだ。日清戦争とその結果の下関条約で直接近代に押し流された。以来120年間。中国は近代化をする気がなく、韓国は近代化の根本である法治主義に失敗したことがますます明らかになりつつある。

 近代にいたるまで中国の文明は現代芸術・技術であった。ところが以後は骨董(こっとう)の芸術品と化した。かつて朝貢とは中国にしかできない精巧な針とか、彩色衣料とかを周りの「蛮族」がもらいに行ったものである。人数分くれるので300とか500人とかで行く。これが財政を圧迫すると止める。するとすぐに略奪しに来る。

 李朝にはそんな勇気はない。軍事力が違いすぎる。むしろ馬とか女とか援軍とかをシナに要求された。馬はしぶって分割払いして数を減らして誤魔化(ごまか)す。女は明時代には働き者の下女が人気だった。清時代になると女色を要求されたので、妓生(キーセン)を送って誤魔化した。



 ≪伝統として続く「濫赦の弊」≫


 この誤魔化し・逃げ口上を漢文で「●塞(とうそく)」という。朝鮮の外交史は●塞の歴史だ。援軍を要求されると、倭寇が攻めてきて忙しいからいけないと誤魔化した。こういうのをシナと朝鮮の宗藩関係とかいうのである。手なずけとばかし合いの関係だ。


 このような朝貢外交しか知らない中国が、西洋勢力の進出で半植民地状態に陥り、ついで軍閥割拠する戦乱の地となり、日本が進出してくると国共内戦がらみで三つ巴(どもえ)となり、共産軍が勝って社会主義国となり、西洋外交を知らない年月が延々と積み重ねられて100年を超えた。近代になって「蛮族」にあげられる物のなくなった中国は今、アジアインフラ投資銀行(AIIB)とか、中韓の自由貿易協定(FTA)などの朝貢外交に余念がない。だが、後者ではすでに中身が空っぽである。農産物や自動車などの主力商品が関税撤廃の対象外になっている。


 現代の韓国では法治主義が崩壊し、李朝並みの濫囚・濫刑・濫赦(みだりな逮捕や刑罰・恩赦乱発)に戻りつつある。産経新聞社の加藤達也前ソウル支局長起訴やセウォル号船長の死刑求刑などがそれである。「濫赦の弊」は伝統としてずっと続いてきた。蓄財で逮捕された元大統領や左翼運動で死刑判決を受けた元学生などが平然と出獄し、豊かな老後を送ったり、死刑宣告を勲章に左翼議員として返り咲いたりするのはこのためである。蓋(けだ)し、われわれの海の対岸にいるのはこのような人々であり、別に驚くにはあたらない。(ふるた ひろし)

●=てへんに唐








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年頭にあたり 「歴史の衝突」の時代に覚醒せよ

2015-01-05 09:27:03 | 正論より
1月5日   産経新聞【正論】より


年頭にあたり 「歴史の衝突」の時代に覚醒せよ    拓殖大学総長・渡辺利夫氏


http://www.sankei.com/column/news/150105/clm1501050001-n1.html


 年は改まったが鬱々として晴れない。歳のせいであろうが、そればかりでもない。中韓はもとより欧米のクオリティペーパーまでが安倍晋三首相を「歴史修正主義者」と難じて恬然(てんぜん)たるありさまである。物心ついた頃に戦争を体験し、その後70年を生きてきた人間としてはどうにもやりきれない。




 ≪大合唱の「歴史修正主義」≫


 歴史修正主義というが、歴史はむしろ恒常的に修正さるべきものであろう。つねに客観的で検証可能な歴史というものは存在しない。社会の支配的勢力がみずからの統治の正統性を訴えて歴史を編纂(へんさん)するというのはよくあることだ。中国の近現代史を貫くものが共産党の正統史観であり、韓国のそれは日本統治という「清算」すべき過去を抱えもつ史観に他ならない。日本史はそれほどあからさまではないが、イデオロギー時代の歪(ゆが)みはなお糺(ただ)されてはいない。

 残念なことに、ナチスドイツのホロコースト否認論者が自らを「歴史修正主義者」だと言い立てたために、この用語法は途方もなく否定的な歴史的記憶を呼び覚ます修辞となってしまった。中韓の政権ブレーンたちはそのことをよく知っているのであろう。安倍首相を名指しで歴史修正主義者だといい、戦前期日本のアジア侵略主義の再現者のごとくに言い募っている。

 首相の靖国参拝、河野談話にいたる経緯の政府検証、集団的自衛権行使容認に関する閣議決定、朝日新聞による従軍慰安婦についての吉田清治証言取り消しなどが相次いだ。日本の国際的孤立化を狙う中韓が、これら一連の動向を日本の「右翼化」「軍国主義化」の論拠とし強く反発している。過剰な平和主義、自衛の構えにさえ抑制的に過ぎたことへの自省を少し形に表しただけで、歴史修正主義者呼ばわりの大合唱である。





 ≪反日外交加速させた朝日報道≫


 東アジアの秩序を軍事的威圧をもって変更しようというのが中国であり、守勢に立たされているのが日本であることは自明である。日韓基本条約という国際条約により「完全かつ最終的に解決」したはずの過去を蒸し返して「歴史清算」を叫ぶ韓国が非理性的な存在であることもまた、自明である。自明の「理」を弁(わきま)えない強圧的な対日外交が彼らの戦略であれば、日本には中韓に抗する抑止力を強化するより他に選択肢はない。


 問われるべきは欧米メディアの安倍政権に対する反応である。欧米の有力紙が安倍首相を歴史修正主義者だと繰り返し批判している。自由と民主主義、法治と市場経済を価値信条とし、これを共有しているはずの欧米のメディアがどうしてそんなに条理にかなわぬことをいうのか。

 欧米のメディアに日本の戦前史のネガティブな記憶を甦(よみがえ)らせたものは、歴史教科書問題、首相の靖国参拝、従軍慰安婦問題について、1980年代の前半期以降、主として朝日新聞が張ったキャンペーンであった。これに力を得た中韓が猛烈な反日外交に転じ、その結果、教科書検定基準における近隣諸国条項、首相の靖国参拝中断、河野談話、村山談話という著しい成果を手にすることができた。この成功体験が反日増悪の直接的な契機となった。日本政府は中韓の対日外交に「倫理的優越性」を与えてしまったのである。





 ≪再生する左翼リベラリズム≫


 欧米メディアもまた日本政府のこの対応を眺めて、道義は日本にではなく中韓にあり、という否定的な日本イメージへと次第に強く傾いていった。日本は戦勝国によって形成された第二次大戦後の国際秩序の変更を要求する危険な歴史修正主義の国だという論説が大手を振るうようになったのは、中韓の反日外交の展開と軌を一にしている。


 昨年12月4日付のニューヨーク・タイムズはその社説を「日本における歴史のごまかし」と題し、安倍首相は「国粋主義的な熱情を煽(あお)って歴史修正を要求する政治勢力に迎合する“火遊び”の危険を冒している」とまで主張するにいたった。

 左翼リベラリズムは少なくとも先進国においては日本に固有なものだと私はみていたのだが、どうやら愚かだったようである。冷戦崩壊後のこの秩序なき世界において、左翼リベラリズムは欧米の知識人の中で再生しつつあるかにみえる。


 今年は戦後70周年である。9月3日は中国の「抗日戦争勝利記念日」とされ、同日は「世界反ファシズム戦争と中国人民抗日戦争70周年」とすることが中露間で合意されている。日韓基本条約50周年でもある。

 冷戦後の世界を「文明の衝突」として描いたサミュエル・ハンチントンの予見力は確かなものであったが、今後の日本は「歴史の衝突」の時代をも生きていかざるをえまい。日本人の歴史意識のありようが徹底的に問われる時代がやってくる。新年である。このことに覚醒しようではないか。(わたなべ としお)






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「普通の国」へ日本の転換図れ

2014-12-11 11:29:34 | 正論より
12月11日付  産経新聞【正論】より


「普通の国」へ日本の転換図れ    帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助氏


http://www.sankei.com/column/news/141211/clm1412110001-n1.html


 総選挙はわが国の前途を決める大切な行事です。15歳で敗戦を迎へ、価値観の大転換に直面して何が正しい道かを不断に考へてきた私にとり、わが国の現状は奇怪至極です。このままでは、わが国を築いてきた先輩の霊に合はす顔がない。

 そこで立候補した諸公、および有権者に、幾つか問題点を指摘して一考を促す次第です。




 ≪有権者が選挙を楽しむ工夫を≫


 台湾の重要な選挙を悉(ことごと)く視察してきた私にとり、わが国の選挙は実につまらない。台湾では野党の演説会に家族連れで支持者が集ひ、屋台が出、党のグッズ売り場まであつて実に楽しいのです。候補の演説は聴衆との活気ある対話です。わが国の候補の演説は一方通行。大抵は騒音として敬遠されるだけです。


 わが国は選挙法をどんどん“改悪”し、選挙を実につまらなくしました。だから投票率が有権者総数の半分以下が普通です。この事態に危機感を持たぬ政治家諸公の神経はどうなつてゐるのでせう? 商店なら売れ行き不振でたちまち倒産ですよ。

 なぜ候補者が支持者と交流できるやうに、有権者が選挙を歓迎するやうに、選挙法を改正しないのでせう。若者が喜んで投票に行くやうな工夫がどこにありますか。



 第2、占領基本法に過ぎぬ“新憲法”がいまだに存在してゐるのは何故(なぜ)でせうか。独立国でなくて、国際貢献はできるのでせうか。

 最近、やつと一部に“憲法改正”の動きが出てきましたが、現行憲法はただちに廃止し、当分は不文憲法(憲政の慣習法)で行き、じつくりと論議を尽くした末に、新憲法を制定するが宜(よろ)しい。



 第3、一国の存立に大事なのは国防と外交です。選挙では内政、特に経済や景気に目を奪はれ勝ちです。でも、国防と外交が堅実でないと、経済や生活の安定など、たちまち消し飛びます。





 ≪アジアの安定勢力に戻れ≫


 わが国は有史以来、連綿と続く歴史を持つた東亜の安定勢力でしたし、今なほさうです。和を以(もっ)て貴しとなす国であり、仁徳天皇のやうに、民の竈(かまど)を気にする皇室が君臨してこられました。

 朝鮮の人々は難を逃れてわが国に来て安全に暮らし、文化を伝へました。明治以降も日本は近隣諸国と仲良くしようとしたのに、李氏朝鮮も清朝の李鴻章も「以夷制夷」策を取つたので、結局、日清日露の戦争になりました。



 米国の一大失策は、攪乱(かくらん)勢力のソ中と結んで、安定勢力の日本を叩(たた)いたことです。その後、ソ中は米国に敵対し、米国はソ連擁護のために叩いた日独と結んで冷戦を乗り切りました。米国は先を見通せない国だとわかります。


 中国の指導者は蓄財者であつて民を養ひません。だから、常に政情不安です。科挙官僚は聖賢の言葉の暗記を立身出世の手段にしたので言行は不一致、偉い人ほど金持ちです。食へぬ民は常時反逆し、君主の姓が始終変はる「易姓革命」の国です。中国が安定するのは、田畑に比べて人口が少ない王朝初期だけ。政権は人口を過大にし過ぎ、政情は安定しない。中国はやはり安定勢力になりにくい国です。


 そのわが国も占領状態が続いたため、まともな国から程遠い状態にあります。だから一刻も早く「普通の国」にして、東亜の安定勢力に戻る必要があります。





 ≪国防と外交が繁栄の基本だ≫


 戦後の日本は、米国が世界の運命を握ると知りましたから、日米協力を国是にしてきました。でも集団的自衛権の行使にもたつくやうな国が、米国にとつて頼りになりますかねえ。


 米国にはいまだに日本弱体派と日本普通国派とがあります。日本を信用せず、弱いままにしておきたいといふのは米国の我儘(わがまま)です。わが国は、世界の安定に貢献するため、本来の姿に戻りませう。



 国防問題で、安倍晋三内閣が閣議決定した集団的自衛権の行使容認に反対する声がありました。

 これに限らず、戦後の防衛問題論議はをかしい。例へば、軍隊を持つと戦争をしたがるといふ。それなら外国の軍隊はもつと怖い筈(はず)なのに、彼ら(軍隊を否定的に見る人たち)は一向に怖がらない。

 革命や改革のためなら人を傷つけて厭(いと)はない彼らの反軍思想は、日本国内向けの言論に過ぎない。彼らは自国を弱めておきたいだけなのです。


 専守防衛軽武装論もをかしい。

 撃たれてから撃ち返せといふのは横綱相撲をやれといふのでせう。横綱は受けて立つ。抜群の力量があるからです。つまり、専守防衛は重武装が前提です。重武装が嫌なら撃たれるのを待つのは止めませう。


 こんな奇怪な論がまかり通つてきたのは、日本が「普通の国」でなかつたからです。自前で自国の安全保障を考へてきませんでした。周辺国がこれを歓迎したのは自国の安全に役立つからです。

 先人曰(いは)く、天ハ自ラ助クル者ヲ助ク。“愚者の楽園”から脱出しないと亡(ほろ)びますよ。(いはら きちのすけ)







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朝日に「体質改善」は望めるのか

2014-08-21 10:39:37 | 正論より
8月21日付     産経新聞【正論】より


朝日に「体質改善」は望めるのか   防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛氏


http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140821/crm14082103190002-n1.htm




 ≪長々と頬被り、往生際悪い≫


 「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がある。朝日新聞は8月5、6の両日、大特集「慰安婦問題を考える」でそれをやったつもりらしい。が、往生際の悪さばかりが目立つ。飛び降りるなら飛び降りるで潔くあるべきだが、朝日は初期報道段階についてはできれば他紙も道連れにできまいかと計算したらしい。が、これは誤算で、他紙は冷淡そのものである。


 得てして物事の発端は真相の曖昧なことが多い。速報性重視の新聞にとり辛いところだ。で、ある見込みの下、初報がつくられる。見込みが違ったときどうするか。頬被(かむ)りし続けるのも一法、初期見通しの誤りを認めるのも一法。朝日は30年余の間、前者を取った。初めは面子(めんつ)からだったろう。結果、精神的息詰まりに陥った。


 そこで今回、妙なコーヒー濾過(ろか)法に走った。濾過紙から抽出する成分は吉田清治の慰安婦強制連行説だけにして、女子挺身隊と慰安婦の混同さえも単なる「誤用」としてケリを付けたいらしい。ただ世の中、都合良く特定成分だけ抽出してくれるこし紙なぞない。


 5日付の記事は5項目にわたり「読者のみなさまへ」と題する弁明を掲げた。とすれば、大特集を読んだ「読者のみなさま」の反応を知りたいのが人情である。それを知る最良の近道は同紙の投書欄「声」を読むことだろう。が、何としたことか、待てど暮らせどいまだに読者の声が掲載されない。


 あれだけの大特集に投書が殺到しないはずがない。特に朝日の場合、社説、社論と「声」欄とは常日頃、見事に共鳴、共振する。「声」は頼もしき友軍なのだ。が、今回に限りこの関係は崩れたらしい。何たるご都合主義か。

 朝日に直言する。「声」隠蔽作戦を放棄なさい。失望し怒れる読者の反応を投書欄に登場させなさい。潔くなりなさい。でないと、別の息詰まりを抱え込みますよ。



 過ちを認めたがる人間なんてこの世にいない。過ちは多かれ少なかれ渋々認められるものだ。朝日ではその渋々がことのほかひどい。それは同紙の体質である。私自身の経験からそう断言する。




 ≪縮刷版のみで誤り訂正とは≫


 朝日では社説と「声」とが同じページに載る。1984年11月13日、その第5面に4段組みの妙な囲み記事が登場した。見出しは「読者と朝日新聞 社説の縮刷版直し 事実の誤りは訂正が筋」。読者からの電話質問(これはウソ!!)に論説主幹が答えたもので、私の名前が出てくる。どうして?


 冷戦たけなわの当時、米ソ中距離核問題が内外で激論を呼んだ。朝日社説は米国批判の社論に則(のっと)り、西欧配備の米中距離核基数で誤報をやった。それを私がある雑誌論文で指摘し批判していた。


 朝日の誤報社説は7カ月以上も前のことだった。この社説は当日、最終版まで変更されなかった。なのに、後日に出た縮刷版では配備中距離核基数が書き換えられた。私はこの縮刷版変造を糾弾したわけだ。朝日論説主幹の弁解は往生際の悪さの見本だった。


 いわく、「このあやまりは、外部からの指摘を受けるまでもなく、掲載当日、論説委員室内部でも数人が気づき、直ちに縮刷版直しの手続きがとられました」(傍点筆者)。この弁解が真実から程遠いことを私はある事情から知っている。そのことには触れない。


 この一件や他の事例から、私は朝日の誤報訂正姿勢に潔さが欠けることに呆(あき)れ続けてきた。今回の慰安婦問題はその金字塔だろう。だが、それで打ち止めではない。




 ≪OBの心ある批判に傾聴を≫


 ごく最近、新しい大誤報があり、今日まで2カ月以上放置されている。6月15日付の1面最大の記事がそれだ。「平和貢献のはずが戦場だった」「後方支援 独軍55人死亡」「アフガン戦争」「集団的自衛権 海外では」と4つも見出しの付いたこの大型記事は同紙記者がわざわざベルリンまで出かけて送ってきたものだが、これが哀れを催すほどひどい代物だ。

 昨今、集団的自衛権と国連集団安全保障の原理的区別がよく議論される。朝日もその点で人後に落ちない。ところが、派遣された記者はベルリンであちこち取材し、両原理を混同した記事を送稿、掲載された。本社はチェックなし?


 この誤報の詳細は月刊「正論」9月号で論じたので、ここでは割愛する。要するに、この一件では「親(本社)の心、子(派遣記者)知らず」と言うべきか、「子が子なら親も親」と評すべきかだが、朝日がこの種の誤報をやるとき、必ず背後に誤った使命感から出たつんのめりがある。それは同紙の体質だ。困ったものである。


 朝日人が全部、そういう体質の持ち主だとは思えない。「縮刷版社説変造」事件で私はそのことを知った。いま、慰安婦問題で元朝日人が古巣を批判している。朝日の顕職に就いたOBで今日の同紙の社論に異議を唱えている人々もいる。他紙でも類似例がなくはないが、比較にならない。私のような朝日の「敵」はともかく、かつての同僚の心ある批判に耳を傾ける度量がこの新聞にはあるか?(させ まさもり)








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井の中の蛙、昔の解釈改憲知らず

2014-07-11 09:20:16 | 正論より
7月10日付    産経新聞【正論】より


井の中の蛙、昔の解釈改憲知らず   防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140710/plc14071003080003-n1.htm




 先日、所用で総理官邸向かいの国会記者会館を訪ねた。夕刻の3時間ほど、外で拡声器がスローガンをがなり立てていた。「解釈改憲反対!!」「憲法9条を守れ!!」

 1日に集団的自衛権の限定的行使容認を含む閣議決定が出たことへの抗議デモだ。所用のあと、外に出ると、地下鉄の入り口が分からなくなるほどのデモ参加者はいた。が、60年安保騒動当時にこの界隈(かいわい)を埋め尽くした大群衆の記憶鮮明な私は「たったこれだけ?」とつぶやいた。しかし、人数だけが問題なのではない。




 ≪いくつもの前例になぜ沈黙≫


 問題は解釈改憲反対なるスローガンだ。この言葉は、安倍晋三政権が集団的自衛権の憲法解釈を見直す意欲を示し始めた7年前から頻繁に登場するようになった。以前にはほとんど出番がなかった。

 日本国憲法は昭和21年11月の公布以来一度も改正されていない。ただ、それでは実際問題としていろいろ不都合が生じて、柔軟な解釈が幾度も加えられた。だからこの憲法は長命化したともいえる。

 安全保障関連でもそうだった。吉田茂首相は当初、憲法が自衛権を直接には否定していないが、その発動はほぼ不可能かのような答弁を残した。鳩山一郎政権は「憲法は、自衛権を否定していない。…憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない」との見解を示した。60年日米安保論争では、岸信介政権が集団的自衛権の制限的保有論を唱えた。


 今回閣議決定では、1972年政府「資料」が限定的行使容認の論拠となっている。だが、9年後の81年政府答弁書では、わが国は国際法上は集団的自衛権を保有するが、憲法上その行使は許されない、とされた。右往左往である。



 これらはすべて解釈改憲ではないか。が、解釈改憲反対論者たちは安倍政権以前の右の諸説をその都度の解釈改憲だとは見ていないらしい。一部のマスメディア、知識人とデモ参加者たちは、過去のいくつもの解釈改憲になぜ沈黙するのか。身勝手が過ぎる。それほど安倍政権だけが憎いか。





 ≪国連も憲章の解釈で若返り≫


 目を転じて国連憲章を見よう。憲章は74年までに3回改正された。最重要なのは安保理非常任理事国数の増加だ。が、それは国連加盟国数の著増の影響である。憲章の基本的骨格に関わる規定は一貫して不変だ。憲章改正が至難だからである。しかし、国際社会も時代によって変化する。その変化に対応するためには、やがて古希を迎える憲章の解釈を柔軟化するほかない。憲章の若返り策だ。


 今回の閣議決定では、国連の集団安全保障分野も大きく扱った。当然である。関連するPKO(平和維持活動)、PKF(平和維持軍)などはいずれも憲章若返り策にほかならない。いってみれば、それは国連的「解釈改憲(章)」である。それなくして今日の国連はない。日本の解釈改憲反対論者はこの現実をどう見るのか。



 彼らがやっているのは「井の中の蛙(かわず)」の一点凝視にすぎない。大海を知らない。「解釈改憲」非難しか念頭にない。それは幼児性、駄々っ子性の表れである。幼児はいずれ分別の年齢に達するが、解釈改憲反対派に精神的成長を期待するのは多分、無理だろう。

 やらせておくしかあるまい。


 われわれに必要なのは、解釈という人間的営為の意味を改めて考えてみることだろう。私見では解釈は人間だけがやる。判断は動植物もやる。解釈と判断は違う。人間の特技たる解釈は広がりも深まりもする。しかも止まることがない。そのことに気付かせてくれるのはなかんずく宗教典の解釈である。私は信仰心の薄い人間だが、教典解釈が不断の営みであることにはしばしば頭(こうべ)を垂れてきた。




 ≪法制局見解の欠陥是正が先≫


 仏教にせよキリスト教にせよイスラム教にせよヒンズー教にせよ、いずれも原教典と目されるものがあった。だが解釈が始まる。その解釈は一色(ひといろ)ではなく、多様化した。結果、分派が生まれた。すると争いが生じる。他宗派との間で。また同一宗教の異宗派間で。その根にあるのは神の解釈、教典の解釈の不一致である。不一致が原因で宗教戦争が幾度も起きた。

 解釈とは、ある意味でそれほど厄介な人間的営為だ。そして変化してこその解釈でもある。変化は解釈の生命なのだろう。だから日本国憲法9条の解釈が変遷してきたのは、当たり前のことだ。それを咎(とが)めるのは間違いである。



 巷間(こうかん)、集団的自衛権行使容認は正々堂々と改憲をもってなされるべきだとの声がある。一見、もっとも臭い。が、この手順論はよく考えるとおかしい。なぜか。集団的自衛権は「憲法上行使不可」とした従来の内閣法制局見解が欠陥品だからである。欠陥は変更ではなく、是正こそが必要なのだ。


 是正をしないまま改憲で集団的自衛権の行使は可とすれば、論理的には、現行憲法下での内閣法制局見解は間違っていなかったことになる。これはおかしい。その旨を私は本欄でも著書でも繰り返し述べてきた。この考えはいまなお不変である。(させ まさもり)










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海保法改正で「偽装漁民」撃退を

2014-06-24 18:51:38 | 正論より
6月24日付   産経新聞【正論】より


海保法改正で「偽装漁民」撃退を   東海大学教授・山田吉彦氏

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140624/plc14062403100005-n1.htm


 中国海警局の警備船による尖閣諸島周辺のわが国領海内への侵入が半ば常態化している。海上保安庁は巡視船の数を増やし対処しているが、領土が脅かされる状況は一段と深刻化している。

 政府は集団的自衛権の行使容認と併せ、武力攻撃に至らない「グレーゾーン事態」への対応についても議論を進めている。



 ≪尖閣への大量上陸警戒せよ≫


 政府が公表した安保法制の閣議決定案では、離島防衛で警察力が直ちに対応できない場合、手続きを経ているうちに被害が拡大しないように、早期に命令を下し手続きを迅速化する方策を具体的に検討することとしている。

 これは、漁民に偽装した中国の特殊部隊や「海上民兵」が、離島に不法上陸した場合を想定したものである。それらが重武装していて、海上保安庁の装備と能力を超えている場合に備え、自衛隊の迅速な出動を可能にする態勢を整備しておこうというのだ。

 だが、離島に他国の重武装集団が上陸するという想定は現実的ではない。重装備だと、乗り込む船舶は速度も遅くなり、事前にレーダーなどで捕捉でき、海上警備行動を発令してから自衛隊が対応することも可能だからだ。


 むしろ警戒すべきは大量の漁民の上陸である。尖閣を脅かしている中国は、南シナ海では漁民を尖兵(せんぺい)として送り込み、支配海域を拡大する戦略をとってきた。フィリピンが管轄権を唱えているミスチーフ礁やスカボロー礁に対し、中国の漁民を保護するとの名目で進出し、支配海域に組み入れてきたのが、その好例である。


 この5月には、ベトナムが自国の排他的経済水域(EEZ)と主張しているパラセル(中国名・西沙)諸島の海域に、巨大な施設を持ち込んで、一方的に海底油田の掘削を始めた。中国による実効支配がこれ以上進むことを案じたベトナムは艦船を派遣し、中国側に掘削作業の停止と退去を求めた。中国はしかし、掘削施設と作業員の保護を名分に、中国海警局の警備船と軍艦を派遣し、ベトナムに圧力をかけ、以来、中越双方の衝突と対峙(たいじ)が続いている。





 ≪中国は海警で警察権を拡充≫


 自国民の保護を口実に進出し、武力を背景に実効支配態勢を確立する。そして、あたかも歴史的に中国が支配してきたかのように喧伝(けんでん)して、既成事実を作り上げる。中国の常套(じょうとう)手段である。

 数百隻の漁船が日本の領海内に押し寄せて、離島への上陸を試みた場合、洋上でそれを完全に阻止することは不可能だ。漁民たちは中国当局の指示の下に上陸した後は、得意の「人海戦術」で島を占拠するだろう。小火器や刀剣を用いてのゲリラ戦で抵抗することも想定される。こうした場合に、現行の海上保安庁法で対処できるかどうか甚だ疑問である。


 海洋進出に際して、海洋警備機関である中国海警局を前面に押し出しているのも巧妙だ。


 1992年に制定した領海法によって、東シナ海、南シナ海のほぼ全域の島々を自国の領土と勝手に決定した中国は、この国内法を盾に警察権を打ち立てて支配海域の拡大を目論(もくろ)んでいる。



 軍事的に行動しているという国際的な非難をかわすため、法制度の整備を行い、警察権の執行機関を軍並みに充実させてきた。中国海軍が出てこない以上、自衛隊が対処することは難しい。

 国連海洋法条約では、軍艦や非商業目的で運航する他の政府船舶である「公船」は、沿岸国の法執行権が及ばないとされている。前述の中越紛争では、中国の警備船がベトナムの警備船に体当たりするという、実力行使による法の執行に出た。これは、海上警察機関同士が直接ぶつかり合う「戦争」の新たな形態といえる。




 ≪25条変え行動できる態勢に≫


 海上保安庁法には、「海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」(第25条)との規定がある。だが、中国の海洋進出攻勢をはじめとする今の東アジアの安全保障環境は、海保の能力も相応の水準に引き上げざるを得ないようなありさまだ。「グレーゾーン事態」に効果的に対処するには、海保が行動しやすい法整備が必須なのである。

 防衛出動などが発令された場合、海上保安庁は防衛大臣の指揮下に入ることになる。ただし、海保は後方支援をすることしかできない。海上保安庁法第25条が現行のままでは、日本の海域を守るためには欠くべからざる、海保と海上自衛隊の本質的な連携ができないのだ。

 今後、海保が海賊対処行動や国連平和維持活動(PKO)を行うに当たり、業務を遂行し海上保安官が自らの安全を守るためにも、25条の改正は避けて通れないと考える。日本が自国防衛、国際貢献の両面で責務を果たしていくためには、海保も必要な能力を持たなければならない。米沿岸警備隊などがその参考になろう。

 海上の安全を守る態勢は大きな変革の時を迎えている。(やまだ よしひこ)









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独立主権国家の尊厳を守る方法

2014-04-25 17:03:46 | 正論より
4月25日付     産経新聞【正論】より


独立主権国家の尊厳を守る方法    東京大学名誉教授・小堀桂一郎氏



http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140425/plc14042503260004-n1.htm



 昨平成25年の4月28日、政府は対連合国平和条約発効61年目の記念日といふ動機で、夙(つと)に自ら主唱してゐた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を、憲政記念館を会場として開催した。式には畏(かしこ)くも天皇・皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、御退出に当つては聖寿万歳の三唱を以て御送り申し上げるといふ思ひ入れの深さを見せた。





●主権回復記念日を控えて



 さうであれば、同じ主旨の式典が本年も第2回として行はれるか或(ある)いはむしろ今後恆例として政府主催で続けることにする、との宣言でも出されるかと期待してゐたが、その音沙汰はなかつた。又平成23年8月に、自民党の若手議員達が中核となつて結成した「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」が、その初志貫徹の意氣を見せてくれる動きもあるのではないかと見守つてゐたが、それらしき聲も一向に聞えてくる様子がないのはどうしたことであらうか。


 政府・政界の熱意の後退とは裏腹に、民間有志による「主権回復記念日国民集会」は平成9年の第1回以来連年欠かさず、この記念日を国民の祝日とすべく祝日法の一部改正を求めるといふ要望を訴へ続けて本年で満17年、記念集会は第18回の開催となる。辛抱強く続けてゐるものだと自讃したい氣持もあるが、翻つて言へば、20年近く世に訴へ続けてゐても、なほその目的達成の目途もつかない無力な運動体でしかないのかとの嘆きも亦(また)しきりである。


 毎年の集会の盛況を見れば、この運動に対する国民の支持と賛意は紛れのない確かなものであり、立法の府の内部にもあれだけの賛同者がゐたはずであるのに、本年はこの運動に対する政・民の姿勢の間に何か乖離(かいり)の氣配が見える。


 国家主権の尊厳を認識し、現実に回復することの緊要度は、減ずるどころか高まる一方であり、むしろ今日現在ほど広く国民一般に主権意識の確立が強く求められる時期は近年に稀である。



 国民集会が参加者全員一致の要望として連年訴へ続けてゐる諸問題とは、即ち隣国による我が領土領海侵犯事例への厳正な対処、被拉致同胞全員の救出、総理及び内閣々僚の靖國神社参拝に向けての無礼極まる内政干渉を断乎拒否すべきこと、歴史認識に関はる教科書編纂には我が国が文字通りに主権不可侵の認識を貫いて臨むこと等々、此等(これら)の懸案はこの運動の開始以来、連年の訴へにも拘らず何一つ十分な解決を見てゐない。


 それどころか近年は韓国が戦時慰安婦の存在を種に、中国が今なほ性懲りもなく、昭和12年の南京陥落時の市民の受難といつた、共に事実無根の言ひがかりをつけ、我が国の過去に向けての誹謗中傷を蒸し返してゐる。





●国家としての矜恃欠く



 悪質な政治宣伝以外のものではないこの様な挑発に対し、我が国の外交当路者の対応はあまりにも紳士的にすぎる。それは実は主権国家としての矜恃を欠いた、戦争責罪意識に囚(とら)はれ続けてゐる卑屈さとしか映らない。国民はその低姿勢ぶりに、もどかしいといふよりはむしろ居堪まらない屈辱の思ひに駆られてゐる。輓近(ばんきん)民間言論人の対韓・対中論策にともすれば過激な反撥の語調が見られる様になつたのは、この嫌悪感情の反映として無理からぬものである。


 「戦後体制からの脱却・日本を取り戻す」、昔ながらの強く美しい国としての日本を取り戻すといふ現政権の掲げる政治目標実現の意欲に緩怠が生じたとは思ひたくないのだが、何か氣がかりな昨今である。我々は今喫緊の国家的課題として自主憲法の制定といふ極めて具体的な案件を抱へてゐる。


 やがて我々が持つべき自主制定憲法の最重要原理は、一言にして言へば独立主権国家の尊厳を守るといふ一事に尽きる。米軍の占領政策基本綱領に過ぎない日本国憲法を読んでみれば、前文に於いて主権の維持を謳ひながら9条2項で国の交戦権を認めないといふ矛盾を冒し、前文の内部だけ見ても、そこに用ゐてゐる主権概念は日本国民の歴史に基礎を持たぬ、アメリカ合衆国の特殊な時期の政治宣伝文書を下敷として定義されてゐるといふ醜悪な矛盾がある。






●自主憲法のもと難問解決を



 かうした諸矛盾をその都度毎の政治的必要から出た詭弁(きべん)で糊塗(こと)しながら70年の戦後史の歳月が過ぎてゐる。この間に我が国が辛うじて法的に独立を保つてきたのは冷戦といふ国際政治の暗闘が展開する修羅場の余白の如き位置に居たことによる。自らの力によつての主権維持であつたと自負することはできない。そしてその余白は今や中華帝国の復活を企む覇権主義的膨張政策の刷毛(はけ)で塗り潰され、我が国の安全保障をそこに托せる様な空間ではなくなつてゐる。


 焦眉の課題となつてゐる自主憲法の制定、その新憲法に足を踏まへた形での安全保障体制の充実と民生の安寧、そしてそれら全ての上に立つ皇室の永世の御安泰のための法整備。かうした多数の難問解決の大前提として、国家主権意識の確立は必須の条件である。4月28日といふ主権回復記念日を控へての痛切な感慨を一言記す。(こぼり けいいちろう)









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「不遡及」覆し歴史清算に走る国 

2014-04-21 17:34:32 | 正論より
4月21日付    産経新聞【正論】より


「不遡及」覆し歴史清算に走る国    拓殖大学総長 渡辺利夫氏


http://sankei.jp.msn.com/world/news/140421/kor14042103280002-n1.htm




 否定したい、できれば消し去ってしまいたい過去を抱えもつ人間は少なくなかろう。しかし、そういうわけにはいかない。現在は過去の蓄積のうえにしか存在しないのだから。過去とは、つまりは宿命である。国家や民族とて同様であろう。国家や民族の歴史は栄光と汚辱こもごも紡いで引き継がれる。誇らしい過去ばかりに支えられて現在がある、というほど歴史は単線的ではない。栄光の歴史は引き受けるが汚辱の過去は否定してしまおうというのは、ただの傲慢である。




●近代法の原則を簡単に放棄



 「過去史清算」とか「歴史清算」という表現をたやすく使う国が隣にある。2005年12月、盧武鉉政権下の韓国において「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」が成立した。日本統治時代、その統治に協力した指導者の「反民族行為」の真相を糾明(きゅうめい)し、それが罪過(ざいか)と認定されれば、子孫の財産を没収して国家の帰属とするための法律である。韓国の政治家の法感覚は一驚に値しよう。近代法における法律不遡及(そきゅう)の原則(事後法の禁止)は、ここではいとも簡単に放棄されている。「罪千歳に及ぶ」という中世の法感覚というべきか。


 韓国には「正しい歴史」と「間違った歴史」というものがあって、前者の中に生きていくためには後者を抹消しなければならないと考えられているようだ。11年8月の「元従軍慰安婦の個人請求権放棄は違憲」とする大法院判決、13年7月に相次いだ新日鉄住金や三菱重工の元徴用工に対する賠償金支払いに関する高等法院判決などの背後にあるのは、同類の法感覚であろう。





●事大主義プラス小中華主義



 過去史清算や歴史清算の多くが日本の統治時代を対象としており、中国やロシアとの関係史にこれが向けられることはない。一体、どうしてか。李朝の成立以来、朝鮮の支配者の脳細胞の中に埋め込まれた民族的遺伝子のなせるわざなのであろう。14世紀末に成立した李氏朝鮮は、往時の中華王朝・明の忠実な臣下として生きる道を選択した。国号も王位も明による命に服し、喪礼(もれい)、祭祀(さいし)など冠婚葬祭の礼式のすべてが中華のそれに擬して執り行われた。中華より中華的たることをもって誇りとし、「大明国之東屏」と称して中華文明を守護することが朝鮮王朝の任務だと自認したのである。


 しかし、17世紀の中葉に満族によって明が倒され、征服王朝としての清が成立して、朝鮮の中華に対する崇敬の念は鬱屈へと変じた。「蛮夷(ばんい)」満族によって樹立された清には服属し難い。さりとて小国朝鮮にはこの巨大王朝に抗(あらが)う力はない。そこで表面的には清の臣下として事(つか)えながらも、心の深層においては中華の伝統を正しく継承するのは清ではなく、「東方礼儀之国」たる朝鮮のみだとする考え方が次第に強化されていった。前者を事大主義と呼び、後者を小中華主義と称する。


 朝鮮の小中華主義思想の中枢に位置していたものは、人間社会は儒教の思想と礼式(礼教)により教化され、初めてまっとうすると考える朱子学である。これが原理主義となって朝鮮社会を染め上げた。礼教に無縁な日本人は文字通りの蛮夷である。礼教を原理とする典雅なる朝鮮王朝を蛮夷の日本が侵略し、あまつさえ朝鮮を日本に「併合」することなど道義において許されるはずがない。道義に違背する過去はそのことごとくを糾弾・否定しなければならない。






●韓国の方こそ未来あるのか



 ここでは道義が近代法や国際条約に優先する。先の大法院や高等法院の判決がそのことを端的に物語る。国際条約とは1965年の日韓基本条約のことである。それに伴う協定で国家賠償はもとより個人賠償までが「完全かつ最終的に解決」されているのである。道義を近代法と国際条約の上位観念とする国家が近代主権国家といえるか。道義を国是とする専制国家への道を韓国は歩もうというのか。「反日の法令化」を進めて韓国は中世への逆行を始めたのか。




 現在の韓国人にはいかにも悔しかろうが、日本の韓国併合は諸列強によって幾重にも承認され、往時の国際法に則(のっと)って合法的に実現されたものである。朝鮮の「文明開化」は日本との「合邦」によって実現するより他に方途なしとする「一進会」に集(つど)った人々は、朝鮮統監府の資料によれば14万人、実際には数十万人に及んだといわれ、朝鮮史上最大の政治集団であった。日本統治下にあって朝鮮の人的・物的・制度的インフラが、王朝時代には信じられない速度で整備され、後の「漢江の奇跡」を呼びさます誘因となった。このことについては、韓国の真摯(しんし)なる研究者の実証研究が少なくない。


 「歴史を顧みない国家に未来はない」と朴槿恵大統領は言うのだが、この問いかけが何より自国民に対してなされるのでなければ、韓国は今後とも「仮想空間」の中を漂いつづけ、日本との和解も叶(かな)うまい。従軍慰安婦問題などという虚構を国事と見違える国家にこそ、未来はないのであろう。(わたなべ としお)











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「沈黙は美徳」の時代は終わった 

2014-04-15 11:48:22 | 正論より
4月15日付    産経新聞【正論】より


「沈黙は美徳」の時代は終わった   日本財団会長・笹川陽平氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140415/plc14041503080005-n1.htm



 中国、韓国の「日本攻撃」がとどまるところを知らない。安倍晋三首相の靖国神社参拝や集団的自衛権解釈の見直しを「戦後国際秩序に対する挑戦」「軍国主義の復活」と宣伝し、国際社会で日本を孤立させる意図もうかがえる。

 安倍首相を「右寄り」と危険視する一部欧米メディアの論調や、米国で相次ぐ慰安婦像の建立、州教科書における「日本海」と「東海」の併記など一連の動きは、国際的な情報戦での日本の敗北を意味している。

 



≪広報宣伝外交で後れ取る≫


 戦後の日本は、経済発展を目指す一方で政治的発言を極力抑制してきた。自己主張を控える姿勢が、戦争に進んだ戦前の負のイメージを払拭し、民主的な平和国家を目指す日本への理解につながるといった思いがあったかもしれない。加えて、わが国には沈黙を美徳とする風土もある。

 しかし、グローバル化が進む国際社会での沈黙は日本理解を妨げ、誤解を助長する以外の何ものでもない。日本が引き続き存在感を保ち世界に貢献するためにも、主張すべきは主張する確固たる姿勢を確立しなければならない。


 最近、パブリックディプロマシーという言葉をよく聞く。対外広報や人的交流、国際広報を通じ自国の考えや文化への理解を促進する広報宣伝外交を言うようだ。

 過日、読んだ「パブリック・ディプロマシー戦略 イメージを競う国家間ゲームにいかに勝利するか」(PHP研究所)によると、外交宣伝の主戦場であるワシントンでの日本の活動は中国、韓国に比べ弱く、その傾向は一層、顕著になりつつあるという。


 ワシントンは北京、ソウルと姉妹都市関係にあるが、東京の相手はニューヨーク。こんなところにも政治に重きを置く中国、韓国と経済中心の日本の違いが出ている。それ自体に問題はないが、政治的な情報発信に限れば日本の後れは否めない。




 ≪一方的な主張が独り歩き≫


 先月末、中国の習近平国家主席が訪問先のドイツで、1937年の南京事件について、「30万人以上が虐殺された」などと日本批判を展開、菅義偉官房長官が抗議する事態に発展している。

 中国政府は一貫してこの数字を堅持し、「南京大虐殺記念館」にも刻まれているが、学術的根拠はなく、姉妹財団の東京財団が2007年に開催した講演会でも、中国側研究者が「現在の資料で犠牲者数を確定することはできない」と指摘している。


 しかし米国などを訪問すると、多くの人が「30万」を信じているのに驚く。日本が有効な反論をしないまま、一方的な数字が独り歩きしているというしかない。


 慰安婦問題でも同じ思いがする。募集の強制性を認めた1993年の河野洋平官房長官(当時)談話の作成に関与した石原信雄元官房副長官が2月の衆院予算委員会で、政治決着を急ぐあまり客観的裏付けがないまま談話が作成されたことを認めたうえ、最近の韓国政府の「日本攻撃」について「当時の日本政府の善意が生かされていないということで非常に残念だと思っている」と語った。



 これでは国の危機管理はできない。どんな理由であれ、いったん認めれば、その内容は新たな事実となり相手側の攻撃材料となる。今さら善意がどうのこうのと言っても話にならない。日本側の甘さこそ問われるべきである。





 ≪失いかねぬ国際的存在感≫


 過日、中国で評判を呼んだ老兵東雷(ブログ名)氏の「現代日本を怪物化した対日外交は失敗」と題したブログの日本語訳全文を本人の了解を得て筆者のブログに掲載したところ、日本の読者からも極めて大きな反響があった。老兵氏は英国や米国にも留学、政府職員として来日経験もあり、この中で「平和憲法に洗脳され、平和な環境の中で私権や自由を享受し、戦争からどんどん遠ざかっている日本人がどうやって軍国主義に向かうのか」としたうえで、「中国と韓国を除けば歴史問題で日本ともつれ合っている国はほかにない」と指摘している。



 対日姿勢に疑問を投げ掛ける同様の声は、中国だけでなく韓国にも多く、ましてASEAN(東南アジア諸国連合)各国を訪問すれば、「日本の積極的な発言」を求める声は極めて多い。


 仮に沈黙を続ければ、日本は存在感を失うばかりか、自国では不満がナショナリズムを高揚させ、相手国では多様で冷静な対日言論も育たない。結果、強硬策ばかりが加速する事態を招きかねない。


 中韓両国は歴史問題を外交、内政の切り札に異例の対日共闘体制を引き続き強める構えのようだ。国際社会には、地球温暖化や人口爆発、それに伴う食糧資源問題など緊急課題が山積している。

 日本は歴史・領土問題に冷静に対応する一方、グローバルなテーマで国際社会をリードし、国際社会の理解と支持を獲得すべきである。内向きの姿勢を捨て、「官」だけでなく「民」も交えた積極的な情報発信こそ、わが国の安全保障の確立につながる。(ささかわ ようへい)






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