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lurking place

ニッポンのゆる~い日常

韓国は日米と歩むほか道はない

2015-06-09 17:57:20 | 正論より
6月9日付    産経新聞【正論】より


韓国は日米と歩むほか道はない   筑波大学大学院教授・古田博司氏


http://www.sankei.com/column/news/150609/clm1506090001-n1.html


朝鮮半島の地政学的な位置と、民族の行動パターンを前提にすれば、次のようにコリアが辿(たど)った歴史をつなぐことができるだろう。



 ≪コリアとシナの隣国関係≫


 現代朝鮮の南北分断が史上初と思っている人がいるが、そうではない。1231年から約30年にわたるモンゴルの侵入で、多数の高麗人が満州の遼陽と瀋陽へと拉致されてコロニーを作り、北緯39度線以北に遼陽行省が置かれた。これが初の南北分断である。高麗人たちは、王侯貴族から民衆に至るまで双方に親戚をもち、自由交易をしたために、一次産品しか売るもののない高麗は12世紀からは国内銀に手を出し、14世紀後半には銀を掘りつくしてしまう。そして飢餓輸出の国になってしまった。


 コリアがシナに挑戦するより服従を選んだと思っている人がいるが、これもそうではない。古代先進技術国に極貧国が隣り合わせたというのが真実だ。シナとしては相手にならないから放っておく。攻める必要もない。コリアを攻めてくるのは決まって、満州から南下する北方民族か、海から上がってくる日本民族かのどちらかである。そしてまず土地が平坦(へいたん)で外敵を防ぐことのできない廊下のような地形の西側を攻略する。こうしないとシナとコリアで挟み撃ちにあうので先にコリアを占領した。


 コリアは極貧国なので、技術品や工芸品をつくることもできなかった。コリアの針では衣に穴が開いてしまうからシナの針を使った方がよい。朝鮮古典文学の特徴は「朝鮮の不在」だった。シナが舞台でシナ人が主人公、それで漢文ならばシナの古典文学を読んだ方が楽しい。だから文芸も発達しなかった。無理もない。隣が完成されすぎていた。満州の北方民族などは鋤(すき)や鎌すら作れない。シナに朝貢に行ったり、略奪すれば手に入るので作る気がなかった。


 シナの文明を恋い慕って朝貢に行くと思っている人がいるが、これもそうではない。高価なものをもらいに行くのである。ついでに都の宿泊所でシナ商人を呼んで買い物をする。あるいは町に出て市場で買い物する。朝貢とは物もらいとショッピングであり、そのために商人が200人とか300人で付いていく。




 ≪防衛経済選んだ李朝と北朝鮮≫


 さてここからが李朝である。李朝ではモンゴル時代の支配からコリアンはほとんどモンゴル人になってしまっていた。なにしろ第30代高麗国王のミスキャブドルジを毒殺したのが、第31代の高麗国王バヤンテムルなのだ。何が何やら分からぬモンゴル名の王は漢文では忠定王と恭愍王のことである。

 そして民衆も強制されることなく弁髪になってしまっていた。自由交易をすると格差のありすぎるコリアは飢餓輸出国になってしまうし、シナ地域の末端に経済的につながれて宗主国人に容易に同化されてしまう。李朝の開祖、李成桂の父がモンゴルの千戸長だったのと、朴槿恵大統領の父の朴正煕氏が満州国軍の将校、高木正雄だったのは相似なのである。


 モンゴルの政治的・経済的支配にこりた李朝では、まず国境を閉じて自由交易を禁じた。民間商業を抑圧し、特権商人だけに支配階級御用の商売を許した。自由経済をやめて防衛経済に転じたのだ。この特権商人たちが、対馬交易や朝貢ショッピングをするのである。これが現代の北朝鮮の39号室配下の貿易商社と相似なのだ。


 支配階級のためにクルーザーからお茶漬けまで買いつける。李朝の特権商人の方は北京の瑠璃廠(るりしょう)で硯(すずり)を買い、隆福寺の定期市で絹織物を買いつけたのであった。だが一方で民間は貧窮に閉ざされてしまう。李朝と北朝鮮は防衛経済を選んだがゆえに、巨大なシナ経済圏からは自立できたが、国は貧しく、このため朱子学と主体思想が、自律性を守る武器となった。



 ≪自由経済と自律性の並立≫


 逆に自由経済を選ぶと、巨大な宗主国経済の末端につながれて自律性を失う。高麗と日本統治時代がこれである。後者は幸い資本主義時代だったので、朝鮮に産業が生まれ、飢餓輸出は過去のものとなった。年平均3・7%の経済成長を遂げた。だがコリアンは日本人になってしまった。統治最後の5年間の皇民化政策であれほど同化されるわけがないのである。



 ここまでで、今の韓国がいかに特異か分かるだろう。自由経済と自律性を並立しているコリアは韓国以外にないのである。それを可能にしたのが38度線で島化し、地政学上の「行き止まりの廊下」から解放されたこと。第二点は、米韓相互防衛条約で軍事的に守られたこと。第三点は、日韓基本条約とその付随協定により、日本資産の返還請求から解放され有償無償の経済援助を得たことであった。


 その韓国で現在、反日が激化しているのはもっと自律性がほしいせいか。ならば、南北統一して防衛経済に入る以外に道はないのである。逆に自由経済が低調ならば、中国経済の末端に連なり同化されるという道があるが、中国人が嫌がるかもしれない。

 結局、偽史を正し、日米と歩む以外に韓国自律の道はないのだ。(ふるた ひろし)













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日本人と「ポツダム宣言」の呪縛 

2015-04-28 16:50:19 | 正論より
4月28日付     産経新聞【正論】より


日本人と「ポツダム宣言」の呪縛    京都大学名誉教授・佐伯啓思氏


http://www.sankei.com/column/news/150428/clm1504280001-n1.html



 大型連休直前の4月28日などといっても、旅行ムード満載の今日の日本人は気にも留めないのであろうが、この日はいわゆる「主権回復の日」である。1952年の4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したからである。沖縄は返還されず、また同時に日米安保条約が発効し、日本国内の米軍駐留の継続が決定されたわけであるから、真の主権回復なのか、という疑問はもっともであろう。




 《非軍事化と民主化の占領政策》


 とはいえ、この日をもって戦争は終結し「完全な主権を回復する」とこの条約には記されている。したがって、厳密にいえば今年は戦後70年ではなく、63年というべきであろう。戦後は45年に始まったのではなく、公式的には52年に始まったのである。いわば、45年に敗戦が決定し、52年に終戦が確定した、ということになる。

 では、その間は何だったのか。連合国による占領期間である。そして、占領政策とは何だったのか。端的にいえば、アメリカによる日本の非軍事化および民主化であった。そのことは、戦後処理として占領政策を想定していたポツダム宣言からも明らかである。


 以前、学生にポツダム宣言を読んだことがあるかと聞いてみたが、予想通りとはいえ、ほとんどいない。これはかなり奇妙なことで、もしも45年の8月15日をもって「戦後」への移行、とするならば、その起点にはポツダム宣言が置かれなければならないからである。日本の「戦後」はポツダム宣言によって始まったといっても過言ではないからである。

 8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決定して降伏した。それに従って戦争犯罪人が処罰され、日本の「戦争遂行能力」が完全に破砕されるまで日本は占領下に置かれることとなった。さらに、日本に平和的で責任ある政府が樹立されたときをもって占領は終了するという。従って占領政策は何よりも、日本の非軍事化と民主的政府の樹立を目的としたものだった。




 《植えつけられた歴史観》


 ところで、このポツダム宣言の背後にはひとつの歴史観がある。それは、今回の戦争についての次のような解釈に示されている。

 この戦争は、無分別な打算をもった我儘(わがまま)な軍国主義者たちが日本国民を騙(だま)して、世界征服の意図をもって行った戦争であった。そして、今や世界の自由な人民たちが立ち上がりドイツは壊滅した。日本も同様に自由で平和愛好的な人民の徹底的な逆襲を受けている。


 これがポツダム宣言に示された戦争観であった。端的にいえば、日本の軍国主義者は、平和的な世界秩序の破壊者であり侵略者である。アメリカは世界の自由や民主主義を守るために、この「悪」と戦ったというのである。


 ここに一つの歴史観を透かし見ることができる。それは世界史とは専制政治やファシズム、軍国主義などの「野蛮」から、自由や民主主義という「文明」を守る戦いにほかならないという思想である。アメリカにとって世界史とは自由を実現する舞台であり、常時戦場なのである。それは常に「正義」と「悪」の戦いであった。

 占領政策とは、ハード面でいえば、憲法も含めて新生日本の「国のかたち」を礎定するものであったが、ソフト面でいえば、あの戦争についてのアメリカ的解釈と、それを支えるアメリカの歴史観を日本に植えつけるものであった。




 《公式的見解となった戦争解釈》


 そしてそのことにアメリカは見事に成功した。「大東亜戦争」から「太平洋戦争」へと名称を変更されたあの戦争は、日本による侵略戦争であり、天皇を中心とする万世一系的大家族という後進的・封建的社会構造をもった軍国主義国家と自由や民主主義を原則とする文明国との対決だとする戦争解釈は、戦後日本のほぼ公式的な見解にまでなってしまった。


 平和憲法によって日本の非軍事化を徹底し、民主化政策や民主的理念の教化によって日本を文明化するというアメリカの方針は、占領政策によって、戦後日本人の精神に叩(たた)き込まれたのである。


 45年の8月15日には、多くの人々は、この敗戦をアメリカの圧倒的な力に対する敗北とみていたであろう。これが愚かな戦争だったとすれば、それは勝算もなく、強国アメリカに対して無謀な戦争を仕掛けた点にあったと考えたであろう。それが、52年の4月28日には、日本は道義的あるいは文明的に誤った戦争を仕掛けたがゆえに敗北したという観念が支配的となる。連合国軍総司令部(GHQ)は日本国民の解放者で、民主化の伝道者とみなされたのである。


 もとより、自由や民主主義や人権観念が間違っているというわけではない。しかし、それらを普遍的な価値とみなして、その実現に世界史的な使命を求めるアメリカの価値観は日本のものではない。日米安保体制の基礎に、日米共通の価値が存在するとしばしばいわれるが、もしもそれをアメリカ型の歴史観、戦争観まで含めていうとすれば、われわれはいまだにポツダム宣言の呪縛から解かれてはいないことになるだろう。(さえき けいし)










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取り戻すべき「歴史認識」の本質

2015-04-20 14:27:38 | 正論より
4月20日付   産経新聞【正論】より


取り戻すべき「歴史認識」の本質    埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏


http://www.sankei.com/column/news/150420/clm1504200001-n1.html


 ≪「歴史修正主義」のレッテル≫


 ここ20年ほど「歴史認識」という言葉が妙なかたちで独り歩きしています。本来「歴史認識」とは、正しく歴史をとらえるための知的姿勢を語る言葉だったはずなのに、今では、ある特定の歴史上の出来事についての特定の見解を指して「歴史認識」という言葉が使われます。そして少しでもそれに疑問を持って客観的な再検証を試みようとすると、「歴史修正主義」というレッテルのもとに激しく糾弾されてしまう-そんな状況が国の内外で続いています。

 3月の日中韓外相会談では「歴史を直視し、未来に向かうとの精神」が3カ国の共通認識として発表されたようですが、こんな状態では本当に「歴史を直視」することは難しいと言わざるを得ないでしょう。

 では、本来の歴史認識とは、いったいどのようなものなのでしょうか? まず第一に必要とされるのは、歴史を正しく知るのがいかに難しいことであるかを肝に銘ずる、という知的謙虚の姿勢です。


 古代ギリシャの歴史家ツキディデスは、紀元前5世紀のペロポネソス戦争を開戦当初から取材調査して『戦史』と題する大部の著作を残し、実証的歴史学の先駆者ともいわれている人ですが、彼がまず第一に強調するのは歴史(ことに戦争の歴史)を調査することの難しさです。彼はその難しさをこんな言い方で語っています。

 「個々の事件にさいしてその場にいあわせた者たちは、一つの事件についても、敵味方の感情に支配され、ことの半面しか記憶にとどめないことが多く、そのためにかれらの供述はつねに食いちがいを生じた…。」




 ≪真実究明をいとうなかれ≫


 直近の出来事についてすら、正確な検証はかくも難しい。まして過去の出来事の聞き伝えとなると、人々の史実についての無知はさらにひどくなる、と彼は言います。「大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける」-この言葉は、つねに「もっとも明白な事実のみを手掛かりとして」歴史の真実を探求してきた人間だからこそ語りうる切実な警告だといえるでしょう。


 このような2千年以上も前の歴史家の言葉を胸に、現代のわれわれの歴史認識のさまを振り返ってみると、まことに恥じ入るほかはありません。



 3月17日付の当欄でも紹介しましたが、第一次大戦、第二次大戦の戦後処理においては、個々の出来事についての「敵味方の感情に支配」されることのない客観的検証、などといったものは、はなから放棄されていました。まず大前提として、敗戦国の行った戦争は「侵略」であり「ウォー・ギルト」(戦争という罪)であるという結論が先にあり、それに沿い従ったかたちで歴史が描かれてきたのです。

 たしかに、1974年の国連の「侵略の定義に関する決議」を見ると「侵略行為が行われたか否かの問題は、個々の事件ごとのあらゆる状況に照らして判断されなければならない」という慎重な言い方をしており、またそもそもこの決議の目的は、将来の「潜在的侵略者」の抑止や、それに対する機敏な対応ということであって、過去の歴史の断罪ではありません。


 しかし、そうした健全な常識の復活の機運がわずかばかりあったにしても、いわゆる東西冷戦の終わりとともに、再び旧枢軸国の悪を言い立てるということが「歴史認識」の大枠として固定化され、強化されて現在に至っています。もしも現在、ツキディデスがよみがえったなら、こうした現状を批判して、「真実を究明」すべきことをつよく主張し、たちまち「歴史修正主義者」のレッテルを貼られてしまうことでしょう。




 ≪村山氏は本当に謙虚だったのか≫


 いま改めて、20年前のいわゆる村山談話を振り返ってみますと、そうした世界の知的怠慢を正すどころか、それに流されているとしかいえません。この談話の核心とされている部分は「おわび」が基調となっています。村山氏は「植民地支配と侵略によって」「多大の損害と苦痛を与え」たことを疑うべくもない歴史的事実と受け止めて、「おわび」を表明されています。一見、まことに心優しく謙虚な姿勢と見えます。


 しかし、これは本当に謙虚な姿勢といえるでしょうか? 村山氏はこの歴史的事実の内容として「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り」と語ったのですが、その具体的内容を記者に尋ねられて、まともに答えることができませんでした。まさに「真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報」をうのみにしてしまっていたのです。


 これでは「来し方を訪ねて歴史の教訓に学び」正しく「未来を望」むどころではありません。本当に「歴史を直視」するには、歴史についての知的謙虚が不可欠です。日中韓外相会談の共通認識を活(い)かすためにも、わが国が率先して本来の正しい歴史認識を取り戻さなければなりません。(はせがわ みちこ)







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「侵略」といえなかった朝鮮統治 

2015-04-15 16:52:39 | 正論より
4月15日付     産経新聞【正論】より


「侵略」といえなかった朝鮮統治    筑波大学大学院教授・古田博司氏


http://www.sankei.com/column/news/150415/clm1504150001-n1.html


 普通わが国の人々は、明治になってはじめて西洋を知ったことを喜ぶべき出来事として記憶にとどめている。だが、知ったのは西洋ばかりではなかった。東洋とも、この時はじめて顔を突き合わせたのである。東洋といえば支那・天竺(てんじく)だと、書物からイメージしていた人々が汽船に乗って海を渡り、やっと東洋を見ることができた。



 《古代に固定されていた李氏朝鮮》


 明治時代の経済学者・福田徳三は李氏朝鮮を目の当たりにして、まるで平安の藤原時代のようだと言った。土地の所有権ナシ、商店ナシ、行商人のみアリ。今の北朝鮮のような世界である。さぞかし驚いたに違いない。

 戦後のマルクス学者たちは、世界各地はみんな発展していなければならないし、それは一定の段階を踏んで進んでいくのだと信じていたので、福田に朝鮮差別のレッテルを張りつけて退けた。だが今では、福田の方が正しかったことを研究が明らかにしている。



 シナ地域と朝鮮半島は全く対等ではなかった。今で言えば、先進技術国の隣に極貧国があるようなものである。朝鮮には一次産品以外売るものがなかった。シナの針や染色衣料などの高度な技術品を得ようとすれば、米・布が流れ出し、飢餓輸出になってしまう。12世紀からは銀が流出し、2世紀あまりで朝鮮半島の銀山は掘りつくされてしまうのである。


 だから、李朝になると朝鮮半島の経済はずっとシナ地域に対して防衛的になった。特権商人が対馬との交易でシナの白糸と日本銀を交換する。その日本銀で朝貢使節に下人や馬夫身分で200人、300人単位でついてゆき、支配階級のために北京で高度な技術品や芸術品を買い付けるのである。人数分ご褒美もくれるのでこれも売り物になった。女真族がシナ地域の征服者になり清朝を開くと、大きな貢物を要求されたので、この供給も彼らの仕事になった。



 こんなことをしていたので、李氏朝鮮は18世紀まで古代に固定されていた。これがガラガラと崩れてゆく。17世紀以来の商人ギルドは、支配階級自らが他の商人たちと個別に結託したので穴あきになり、他方民間では自前の染料がないので民衆は白衣姿、結局針一本作れない技術水準のまま、近代日本に併呑された。




 《格差ゆえに施した近代化政策》


 日本がやってきたとき李朝の国庫は空だった。王は「そちたち好きに計らえ」と、5人の大臣に国を丸投げした。この史料は実録、王室日記をはじめ3カ所から出ている。日本が統治したのは当時、西洋列強が角突き合わせる時代だったので、その安全保障ゆえだった。近代化政策を施したのは、あまりに格差がありすぎたからであり、放置したのではかえってコストがかかりすぎるためだった。


 だから朝鮮半島に関しては「侵略」などというのは無理である。明・清代にはシナ地域との圧倒的な格差のため、朝鮮の経済をシナ経済の末端にしないように意識して経済の発展を抑制していたが、19世紀末に近代日本が来ると貿易の自由化が始まり、あっという間に日本に呑(の)み込まれた。もし過去の歴史をさして、「侵略」以外の何かしらの言葉をもって置きかえるならば、「不運」というのが妥当と思われる。これからの未来だが、朝鮮半島の経済は中国経済の末端に連なることになるだろう。


 ここで、もう一つ気がついたことがある。日本を除く東アジア地域、西洋に比しての「東洋」だが、この地域に世界的に孤立した特徴がある。それは、ここのみが無神論地域だということだ。彼らの伝統では、自己の血族でない霊魂は祭ってはならない。自家の祖先の霊魂だけが神さまであり、他家のは全部ゴーストなのである。これがまさに、彼らに靖国神社が理解できない理由となっている。





 《国史を凌駕する宗族の歴史》


 日本には古来神さまがいる。日本人は元旦には神社に初詣に行き、家に神棚のある人は手を合わせるだろう。だが、なぜ宗教としての自覚が希薄なのか。それは恐らく隣国が特異な無神論地域なため、宗教的な確執や葛藤を経験していないからではあるまいか。


 隣国では、社会の基本単位が男系血族による宗族である。だから共同の意識が地縁にまで及ばない。物理的に一族のために蓄財し、精神的に宗族の歴史が一番大事なので歴史認識にこだわるのであろう。国は不運の歴史ではあっても、自家の歴史は立派だったと思いたい。後者の意識が前者を凌駕(りょうが)し、ついに国史まで偽造するに至った。これを国家的規模で行ったのが、北朝鮮の金家の「革命伝統」であり、韓国では金泳三大統領時代に始まる「歴史の立て直し」政策であった。



 韓国では1990年代以降、テレビの時代劇では(ぬひ)まで色物を着るようになり、外出禁止だった李朝・京城の夜を提灯(ちょうちん)を持って出歩くようになった。不運だった「隠者の国」はケバケバしく彩られ「自尊者の国」へと変貌した。

 以後、韓国人の現実像と歴史像は乖離(かいり)し、言うこととやることがちぐはぐになっていくのである。(ふるた ひろし)









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忍耐と長期戦略で辺野古移設を 

2015-04-09 13:02:09 | 正論より
4月9日付   産経新聞【正論】より


忍耐と長期戦略で辺野古移設を   平和安全保障研究所理事長・西原正氏


http://www.sankei.com/column/news/150409/clm1504090001-n1.html


 去る5日に那覇市で行われた菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事との会談は予想通り平行線で終わった。普天間飛行場の辺野古移設に強く反対する知事は、「沖縄県が自ら普天間を提供したことはない」として辺野古移設に代わる案を提案しなかった。これに対し官房長官は「日米同盟の抑止力の維持、そして危険除去を考えたときに辺野古移設はただ一つの解決策だ」として政策を論じた。




 《移設容認派だった知事の豹変》


 沖縄に関する特別行動委員会(SACO)が普天間飛行場の返還を決め、代替施設としてキャンプ・シュワブの可能性を検討するとしたのが1996年であった。その後、曲折をへて仲井真弘多前知事の時にようやく移設が正式決定となり辺野古の埋め立て工事が始まった。にもかかわらず、かつては辺野古移設推進派であった翁長知事が態度を豹変(ひょうへん)させて「絶対に建設することができない」と挑発的な発言をしているのである。

 先月23日に知事は、防衛省の辺野古沖でのボーリング調査作業で許可をしていないサンゴ礁を損壊したとして作業停止指示を出したが、菅氏との会談ではさらに踏み込んで、本土への「恨み」、中央政府への不信感をあらわにした。



 翁長知事はかつて自民党におり辺野古移設容認派だった。事実、知事が那覇市長時代の2013年に辺野古移設を否定しなかった経緯もある。しかし移設反対に回ったのは、選挙に勝つため県民感情に媚(こ)びたとしか思えない。

 そこに日本共産党、社民党、沖縄社会大衆党、生活の党、それに一部公明党などの支持があったのだが、知事は当選後の12月25日に上京して共産党本部に「お礼参り」をし、職員などから歓迎を受けた。こうなると今後は、知事は辺野古移設反対など共産党の路線から外れることは難しくなったといえる。これは憂慮すべき事態である。

 翁長知事の中国寄り姿勢も懸念される。知事は福建省福州市の名誉市民の称号を持っている。知事が福州市との深いつながりをもってきたことの証左である。




 《中国の軍事脅威に無頓着》


 そして13年に、中国の巨大な観光旅客船が出入りする港近くの若狭公園に、中国皇帝のシンボルである龍柱(高さ15メートル)を2柱建てることとし、製作費のうち6600万円を中国へ発注した(龍柱は14年末になっても完成せず、放置されていて公金使途不明の疑いがあるという)。

 こういう親中姿勢をとる知事には、南西諸島に迫る中国の軍事的脅威などは理解できないどころか、無頓着を装うであろう。これも深刻な事態である。



 こうした中で、安倍晋三政権がなすべきことはいくつかある。第1に、翁長知事の辺野古工事阻止行動を、訴訟などの法的措置によって無力化することである。すでに安倍政権はその方向で動いているのは適切である。第2に翁長知事に対して、一国の防衛の問題は政府が決める問題であることを明確にする必要がある。沖縄県民の理解を得るのに有益である。


 第3に、沖縄のなかの辺野古移設推進派を勇気づけることである。昨年の知事選挙で第2位の仲井真氏は1位の翁長氏に約10万票の差をつけられたとはいえ26万票をとっている。有権者は109万人で投票率が64%であったから、40万人近くが棄権したことになる。この層の半分を、沖縄の現実的な安全保障を考える層に育てることが必要である。


 沖縄の2大新聞である琉球新報と沖縄タイムスはいずれも辺野古移設反対、翁長知事支持であり、報道や論調が極端に偏向している。この状況を是正するため、政府は広報やネット発信を強化する工夫をすべきである。特に沖縄諸島に対する中国の軍事的脅威が増大しており、対抗するには沖縄での米軍のプレゼンスが不可欠であることを訴えるのは重要である。



 《国会決議や法整備も検討を》


 実際、沖縄の人たちは報道されているほど米軍基地存続に不満だとは思えない。普天間飛行場周辺に騒音承知で住む人口が長年にわたって増えたこと、また沖縄の人口は返還時直前の1970年には94万5千人だったのが、2015年の推計では142万5千人になっていることなどが示している。


 第4に、沖縄における米軍の存在の重要性や辺野古基地の不可欠性を謳(うた)う国会決議を採択すべきである。また辺野古沖の工事への妨害がこれ以上ひどくなるようであれば、国会で沖縄基地などの整備特別法といったものを制定し、工事の妨害行為を抑制する方策を考えるべきである。

 最後に警察の権限を強化して、年間11万3千人(2014年)の中国人観光客に交じって入って来るであろう中国の党や政府の情報員や工作員を監視することである。また普天間飛行場のゲート前で、米兵に下品な罵声などで嫌がらせをする反対派(現地では「プロ市民」と呼ばれる)の規制が日本の品位のためにも必要である。

 安倍政権の忍耐と長期的戦略に期待したい。(にしはら まさし)












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「八紘一宇」の本義と三原発言

2015-04-03 12:57:25 | 正論より
4月3日付    産経新聞【正論】より


「八紘一宇」の本義と三原発言    国学院大学名誉教授・大原康男氏 


http://www.sankei.com/column/news/150403/clm1504030001-n1.html


 少々旧聞に属するが、3月16日の参院予算委員会において、多国籍企業に対する課税問題を取り上げた三原じゅん子参院議員(自民)が「現在の国際秩序は弱肉強食だ」と指摘した際に、「八紘一宇」という語に言及したことが論議を呼んでいる。



■『日本書紀』神武伝承がルーツ


 漢和辞典によれば、「八紘」は「天地の八方の隅」の意で、転じて「全世界」を意味し、「宇」は「軒」または「家」を指す語で、「八紘一宇」は「世界を一つの家にする」というのが原義である。

 三原議員はこれを「日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べ、この理念の下に「世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用していくことを確認する政治的合意文書のようなものを、安倍晋三首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」と主張したのだが、この発言が一部の報道やネットで問題視されたことが発端となった。


 周知のように、もともと「八紘一宇」は『日本書紀』に記載されている第1代神武天皇の即位建都の詔の一節「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや」(原漢文)に由来する。したがって、本来は「八紘為宇」という四字熟語だったのだが、近代における在家仏教運動の先駆的唱導者として知られ、日蓮主義に立つ宗教団体・国柱会の創設者である田中智学が、これを基にしてより語感のよい「八紘一宇」という標語を工夫したことから広く世間に知られるようになった。

 以上、この語の来歴を概略説明したように、「八紘一宇」は『日本書紀』の神武伝承がルーツだから、総じて国内の統合を強調する思想的文脈で語られてきたのだが、昭和前期にわが国の対外政策に関わる基本理念として用いられ、公文書にもしばしば登場するようになる。

 たとえば、昭和15年に第2次近衛内閣が策定した「基本国策要綱」には「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国(ちょうこく)ノ大精神ニ基キ…」との一節があり、同年の日独伊三国同盟成立に際して発せられた詔書は「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿(こんよ)ヲ一宇タラシムルハ…」という文書で始まっている(「坤輿」は「大地」の意)。さらに、翌16年4月から開始された日米交渉で日本側が提示した日米諒解(りょうかい)案でも「両国政府ハ各国並ニ各人種ハ相拠リテ八紘一宇ヲナシ等シク権利ヲ享有シ…」とある。




■論議が行われた「東京裁判」


 こうした履歴があったためであろう、敗戦の年の12月15日に連合国軍総司令部(GHQ)が日本政府に交付した「神道指令」(国家神道を廃止し、国公立学校における神道の教育・研究を禁止することを主たる目的とする)において、「八紘一宇」は「大東亜戦争」とともに「軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザル」語として公文書で使用することが禁止された。この見解を今もそのまま諾(うべな)って「アジア侵略を正当化する理念だった」(「東京新聞」平成27年3月19日付)などと断定する手合いがあちこちに見られる。


 これは第二次大戦終結直後から連合国によって峻厳(しゅんげん)かつ徹底的に進められた“非ナチ化政策”の一つであるナチス・イデオロギーに関わるキーワード-たとえば「指導者民族(ヘレンフォルク)」「生存圏(レーベンスラウム)」など-の排除を範とした施策であろうが、この「八紘一宇」に関しては、これまでほとんど知られてこなかった実に興味深い事実がある。



 先記した「神道指令」の作成に際して、GHQの草案起草者がこの語の意義について詳しく調査した形跡はない。ところが、いわゆる“A級戦犯”を裁いた「東京裁判」ではかなり突っ込んだ論議が交わされたことが、裁判の「速記録」から窺(うかが)われる。

 それは「八紘一宇」に充てられた訳語が多様なことからも分かるが、eight corners of the world under one roof のような直訳は僅かで、概ね making the world one homeといった翻訳がなされている(参考 横溝光暉『東京裁判における八紘一宇』)。





■「侵略思想ではない」


 最も注目すべきは判決文である。判決は「八紘一宇」は「帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった」と明言しているからだ。


 東京裁判で日本人弁護団の副団長を務めた清瀬一郎は、事実問題で立証に成功したのは「八紘一宇は侵略思想でないということ」のほかには一件あるだけだと回顧している。一方、裁判官においては日米交渉の出発点で提示された日米諒解案での「八紘一宇」の訳語である universal brotherhood が印象深かったかもしれない。


 こうした経緯を鑑(かんが)みれば、「八紘一宇」が国策に利用された過去があったにしろ、その本義を踏まえた上で今日的な文脈で捉え直した三原議員の発言を頭から否定するのは、言論の封殺に繋(つな)がると言わざるを得まい。(おおはら やすお)











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戒めとしたい対中「苦渋の記憶」

2015-03-09 09:28:55 | 正論より
3月9日付    産経新聞【正論】より


戒めとしたい対中「苦渋の記憶」   国学院大学名誉教授・大原康男氏


http://www.sankei.com/column/news/150309/clm1503090001-n1.html


 別に古傷を暴いて気分をスカッとしようとしているのではない。「人の噂も75日」と俚言にもあるように、忘れっぽい日本人への戒めとして、ここ30年にわたる中国との外交関係を振り返り、同時代を生き、直接関わった者の一人が若い世代にもこの苦渋に満ちた記憶を共有してもらえれば、との思いで一筆したためた次第。




 ≪隘路に追い込まれた靖国問題≫


 一つは靖国神社参拝問題である。占領末期に参拝を復活した吉田茂首相以来、4半世紀にも及ぶ首相による公式参拝の実績がありながら、昭和50年の終戦の日に首相として初めて参拝した三木武夫首相が突如として「私的参拝」を標榜(ひょうぼう)したことから、靖国神社をめぐる混迷の時代が始まった。


 三木首相の豹変(ひょうへん)は憲法の政教分離原則に過敏に反応したものであった。それからちょうど10年たった同60年に中曽根康弘首相が「戦後政治の総決算」の一つとして公式参拝を復活したことによって、三木参拝がもたらした最初のボタンの掛け違いが解消されたのは評価されてよいが、その直後に中国のいわゆる“A級戦犯”合祀(ごうし)を理由とする抗議を甘受して爾後(じご)の参拝をとりやめたため、それ以降、歴代の首相は公私を問わず靖国神社に参拝できないという異常な事態が続くことになる。これが第二のボタンの掛け違いである。


 かくして平成8年の橋本龍太郎首相による例外的参拝を除けば、中断の期間は同13年の小泉純一郎首相の参拝再開まで16年にも及ぶが、首相の靖国参拝はあくまでも国内問題である。にもかかわらず、その不当な干渉に簡単に屈したことによって、あってはならない外交問題と化してしまった不見識さ-ここに靖国問題を隘路(あいろ)に追い込んだそもそもの原因があるのだ。今もなお天皇のご参拝が実現しない最大の要因でもある。



 そればかりか、昭和61年秋頃から中国側の意向に沿って“A級戦犯”を靖国神社から分離して別の神社に祀(まつ)るという合祀取り下げ工作を密(ひそ)かに進め、いわゆる“分祀論”の鼻祖になって今日に至っている。中曽根首相の“罪科”はたとえようもなく大きい。




 ≪強行された天皇ご訪中≫


 二つ目は平成4年秋に宮沢喜一首相によって強引に実施された天皇ご訪中問題である。まず第一に念頭に置かねばならないのは、憲法上「国政に関する権能」を有しない「国および国民統合の象徴」である天皇の外国ご訪問は「現実の国際政治の次元を超えたところでなされる友好と親善」でなければならないという原則である。


 しかるに当時は教科書検定、首相や閣僚の靖国神社参拝、中国による尖閣諸島の領土“編入”や東シナ海での油田採掘、国連平和維持活動(PKO)法案への執拗(しつよう)な反対等々、日中間には厄介な問題が山積しており、その真っ直(ただ)中でご訪中を強行すれば、天皇の「政治利用」になるという激しい反対の声が全国から寄せられていた。


 政府は加藤紘一官房長官の下で形としては各界の有識者を集めて意見聴取を行いはしたものの、その1週間前に宮沢首相はご訪中を決断、与党幹部にその旨を伝えていたのである。ある台湾人が「まるで勝手に丸刈り頭にしておきながら、あとで周囲に“髪を伸ばすべきか、刈るべきか”と相談するようなもの」と評したように、茶番劇もいいところ。



 平成15年秋に刊行された銭其●外相の回顧録によれば、ご訪中招請は中国が天安門事件による孤立化の打破を狙って進めたもので、「天皇訪中は西側の対中制裁を打破する上で積極的な効果」があったと明言しているが、当時の関係者のうち誰一人として責任の弁を語った者はいない。



 ≪汚点残した「1カ月ルール」≫


 もう一つ、平成21年12月15日に中国の習近平国家副主席(現主席)が来日して天皇陛下と会見したときのこと。外国の賓客が陛下と会見する場合、通常は1カ月前に文書で申請する「1カ月ルール」と呼ばれる慣例があるのだが、この申請は11月下旬でありながら、鳩山由紀夫首相は「特例」としてその実現を強く指示した。宮内庁は当初は拒否したものの、法制上は「内閣総理大臣の管理」に属するとされているため、結局従わざるを得ず、将来に向かって大きな汚点を残すことになった。


 この日は夕刻から賢所御神楽(かしこどころみかぐら)が斎行されることになっていた。新嘗祭と並んで皇室祭祀(さいし)の中でも最も由緒ある祭儀であり、陛下が終日お心を安らかにして身を慎まねばならない日を蔑(ないがし)ろにした背後に小沢一郎民主党幹事長がいたことは間違いない。


 陛下との会見で箔(はく)をつけたから、有力なライバルをけ落として国家主席になれたとまでは言わないが、中華民族の興隆を揚言し、対日威嚇を加速する習主席の昨今の強硬姿勢を見るにつけ、複雑な感慨を覚えざるを得ない。


 以上、紹介したケースはいずれも皇室に関わることでもある。

 戦後70年の今日、対中外交における負の連鎖を断ち切って、むしろ積極的により強固な中国牽制(けんせい)網が構築されんことを願うのみ…。(おおはら やすお)


●=王へんに深のつくり













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歴史認識問題の淵源と朝日新聞 

2015-02-27 09:20:17 | 正論より
2月27日付    産経新聞【正論】より


歴史認識問題の淵源と朝日新聞    拓殖大学総長・渡辺利夫氏


http://www.sankei.com/column/news/150227/clm1502270001-n1.html


 中韓と日本の間では、歴史認識問題が戦後70年たってもなお解決されない課題として残っていると人はよくいう。誤解である。歴史問題をもって中韓が日本に鋭く迫るようになったのは1980年代に入ってからのことである。1980年といえば戦後はもう30年以上も経過していた時期である。その間、歴史問題は存在しておらず、もとより外交問題ではまったくなかった。




 ≪中韓に介入根拠を与えた日本≫


 今日、歴史認識問題といわれる慰安婦、首相の靖国参拝、歴史教科書などはすべて80年代に入ってから提起されたものである。しかも、これらを「問題」として提起したのは、中国でも韓国でもない。日本である。問題の提起者は、GHQ(連合国軍総司令部)の初期占領政策を増幅継承した日本の左翼リベラリスト集団であった。慰安婦問題を捏造(ねつぞう)して韓国の対日外交を硬化させ、米国のクオリティーペーパーに「歴史修正主義」日本のイメージを植えつけた報道の発信者が朝日新聞であったことは、今日もはや公然である。


 日本が蒔(ま)いてくれたタネである。中韓の愛国的指導者にとってこんなありがたいタネはない。歴史認識という道義性を含ませた問題の提起を当の日本がやってくれたのである。この問題で日本を攻めれば外交的優位のみならず道義的優位をも掌中にできる。国益を明らかに毀損(きそん)するこのような問題提起をなぜ日本のジャーナリズムがこういう形でやってしまったのだろうか。


 戦後日本の社会思潮の在処(ありか)を探る際の重要なポイントがここにあると私は考えるのだが、そのことを述べる紙幅が今はない。左翼思想の跳梁(ちょうりょう)、戦前期軍国主義からの反動、戦争への贖罪(しょくざい)意識、そういった情念の混淆(こんこう)であろうと一言を添えるにとどめる。


 事実のみを述べれば、82年6月、旧文部省の教科書検定で「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという日本の時のジャーナリズムの誤報に端を発し、その報道に中韓が猛烈に反発したことが出発であった。中韓の反発を受け、近現代史の記述において近隣アジア諸国への配慮を求める「近隣諸国条項」といわれる新検定基準が同年8月に内閣官房長官・宮沢喜一氏の談話として出され、日本の歴史教科書に対する中韓の介入に有力な根拠を与えてしまった。




 ≪激しさ増したプロパガンダ≫


 つづいて起こったのが靖国参拝問題である。85年8月の中曽根康弘首相の参拝にいたるまで首相の靖国参拝は恒常的であったが、外国からの反発はなかった。A級戦犯合祀(ごうし)問題はどうか。合祀の事実が79年4月19日付の朝日新聞によって内外に知られるようになって以降も、中曽根参拝まで20回を超える首相参拝がなされたが、中韓の非難はなかった。非難が集中的に開始されたのは、それ以降のことであった。


 現下の焦点は、慰安婦問題に関する朝日新聞の昨年8月5日、6日付の一連の検証報道である。ここでは、吉田清治証言には信憑(しんぴょう)性がなくこれに関する同紙記事を取り消すこと、女子挺身(ていしん)隊と慰安婦との混同についての検証が不十分であったことを認めた。朝日新聞の慰安婦問題報道はすでに82年から始まっていたが、これがプロパガンダの様相を呈したのは、特に91年に始まり翌年に激しさを増した一連の報道であった。


 その後、秦郁彦氏をはじめとする専門家の精力的な検証により同紙記事が捏造を含む根拠不明なものであることが明らかになった。にもかかわらず、朝日新聞は記事取り消しや訂正は一切せず、逆に慰安婦問題の本質は広義の強制性、女性の人権問題にあるといった主張に転じ、何と問題のこの「すりかえ」は昨年8月の検証報道でも継承されている。



 朝日新聞の最大の問題は、根拠に乏しい報道によって日本の名誉、威信、総じて国益がいかに貶(おとし)められたかにある。問題検証のために第三者委員会が設置されたが、この点に関する記述は不鮮明であった。




 ≪「事実から目をそむけまい」≫


 中西輝政氏を委員長とし、西岡力氏らの専門家を糾合した「独立検証委員会」の報告書がこの2月19日に公表された。本報告書は朝日新聞の慰安婦報道の原型が完成したのが92年1月12日付の社説「歴史から目をそむけまい」であるとし、前後する報道を「92年1月強制連行プロパガンダ」と名づけた。


 注目すべきは、荒木信子氏が韓国の主要7紙、島田洋一氏が米国の主要3紙の徹底的な資料解析を通じて、韓国と米国のジャーナリズムが慰安婦問題を言い募るようになったのは「92年1月強制連行プロパガンダ」以降に集中しているという事実を、ほとんど反駁(はんばく)できない完璧さで論証したことにある。日本の国益の毀損をどう償うのか、重大な責任を朝日新聞は背負ってしまった。



 朝日新聞にとって必要なのは、「歴史から目をそむけまい」ではなく「事実から目をそむけまい」という姿勢に他ならない。(わたなべ としお)









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「記念日」通じ領土意識の徹底を

2015-02-20 12:01:52 | 正論より
2月20日付    産経新聞【正論】より


「記念日」通じ領土意識の徹底を    東海大学教授・山田吉彦氏

http://www.sankei.com/column/news/150220/clm1502200001-n1.html


「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀(オランダ)迄境なしの水路也」

 江戸時代中期の経世家・林子平は、ロシア南下政策を知り「海国兵談」を著し海防の必要性を説いた。その書の中で、日本は四方を海に囲まれ、常に海からの侵略に備える必要があること、海の道を通じ世界とつながる無限の可能性を持つことを示唆したのである。

 それは国際化、情報化が進んだ現代においても変わらない。海洋資源開発が進み、海の重要性はさらに高まっているのだ。




 ≪利害が輻輳する海洋利用≫


 特に1994年に発効した国連海洋法条約は、それまでの国際関係を一変させた。海洋は地球の表面積のおよそ70%を占めているが、この条約は、不明確だった海洋権益の帰属を定めた。具体的には沿岸から12カイリの領海と、その先200カイリまでの排他的経済水域を認め、その中で発生する経済的権益を沿岸国に対し、優先的に認めたのである。この条約は1958年に国連第1次海洋法会議が始まって以降、発効に至るまで36年もの歳月を要した。それだけ海洋利用は、各国の利害が輻輳(ふくそう)し、慎重さを要するものなのだ。


 国連海洋法条約成立の結果、海を広く持つ国と持たない国が現れた。そして、狭い海しか持たない国は、管轄海域の拡大に躍起となった。その代表は中国である。

 中国は300万平方キロメートルの管轄海域を持つと主張するが、実際に同国が管理下に置いている海域は100万平方キロメートルにも満たない。中国は海洋権益に着目し、野心を前面に出して、その獲得に動き出した。


 管轄海域を拡大するには、その基点となる島、もしくは海岸線を獲得しなければならない。そのため、中国は東シナ海、南シナ海においても強引に島の領有権を主張し、海域の管轄権を行使しようとしている。その島のほとんどは無人島である。このような島は防衛機能も持たず、中国の侵攻に耐えることができない。


 しかし、中国といえども他国民が既に居住し、コミュニティーを持つ島への侵攻は難しいようだ。島嶼(とうしょ)における安全保障の第一は、島で人々が安定して暮らす社会を構築することである。




 ≪無人島を他国に奪われる危険≫


 日本は国家が守る力を失うと、島は簡単に奪われてしまうことを北方四島で経験した。北方四島では、人々の生活が奪われ、家族を失った人も多い。かつて国後島で郷土史を教えていたロシア人教員に、ロシアが北方四島を実効支配している根拠を質問したところ「第二次世界大戦の結果獲得した土地である」との返答があった。旧ソ連軍は無防備となった島民から島を奪ったが、ロシア政府は北方四島は第二次世界大戦の戦利品であると学校で教えているのだ。


 連合国軍はカイロ宣言により領土的な野心を持たないはずであるが、そのような考えについてロシアは聞く耳を持たない。日本人の性善説は、国際社会において通用しないことが間々ある。



 無人島が不法に他国に占領される危険があることは、竹島を韓国に奪われたことが一例だ。既に韓国は、竹島を「独島」と称し、自国の領土であることを教育の中に取り込み、その意識を国民に徹底して植え付けている。

 また中国も、尖閣諸島の奪取をもくろみ、連日、中国海警局の警備船を周辺海域に派遣し、領海にもしばしば侵入している。国連海洋法条約では他国の公船に対する法執行は禁止されているため、海上保安庁は強制的に排除することもできない。





 ≪問題の顕在化が重要だ≫


 1月から2月にかけては、海洋問題、領土・領海問題に関して地元の意向を反映する行事が続く。


 1月14日は石垣市が定めた「尖閣諸島開拓の日」である。しかし、残念なことに今年の記念式典には、与党の国会議員の姿はなかった。


 2月7日は、政府が定めた「北方領土の日」であり、安倍晋三首相出席のもと、式典が執り行われたが、産経新聞以外、記事の扱いは小さかった。


 2月22日は「竹島の日」である。この日を条例で定めた島根県は同日式典を行う予定だ。山谷えり子領土問題担当相は、内閣府政務官を派遣する方針を発表した。式典の盛会を強く期待したい。



 中国、ロシア、韓国との友好を過度に慮(おもんぱか)るため、これらの式典開催に反対する人もいるようだが、記念行事などを通じて問題を顕在化することが重要だ。政府はこれらの式典を活用し、国民の理解を促すとともに、領土・領海に関する教育を徹底し、海を越えて押し寄せる脅威から自らを守る意識の醸成を図らなければならない。


 国民が海域紛争や領土侵略について考えることが本質的な問題解決の前提となり、近隣国との関係構築に向けた第一歩となる。わが国は国際法のもとに海域の安全を守り、固有の領土を取り戻すとともに、国際社会の安定に寄与しなければならない。(やまだ よしひこ)












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歴史修正しているのは誰なのか

2015-02-06 12:17:54 | 正論より
2月6日付    産経新聞【正論】より


歴史修正しているのは誰なのか   新潟県立大学教授・袴田茂樹氏


http://www.sankei.com/column/news/150206/clm1502060001-n1.html


 最近、ロシアの専門家たちとウクライナ問題で何回か議論し、次のような批判も受けた。「日本は遠いウクライナとは政治・経済関係もほとんどないのに、なぜ対露制裁に加わるのか。単なる先進7カ国(G7)への同調あるいは米国の圧力故ではないか」

 私は次のように答えた。「そのことを否定するつもりはないが、別の側面もある。それはG7で日本だけが、ロシアに主権と領土保全を侵されているという意味で、ウクライナと共通の問題を抱えている。従って日本が最も主権侵害を批判する権利を有し、また義務もある。中国との間の尖閣紛争をエスカレートさせないためにも、わが国は主権侵害に毅然(きぜん)とした態度を取らざるを得ないのだ」




 《最大の過ちだったヤルタ協定》


 岸田文雄外相はベルギーで1月20日に「ウクライナで起きていることも北方領土問題も力による現状変更だ」と指摘した。これに対し露外務省はこう批判した。

 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに、世界支配を目指して、第二次世界大戦前の“現状”を力で破壊し、多くの国を占領した。岸田発言は、その本質において歴史を転倒させ、大戦の原因と結果に対する一般に認められた理解を修正しようとしている」


 菅義偉(すが・よしひで)官房長官は同22日の記者会見で、歴史の歪曲(わいきょく)だとの批判は当たらないと述べ、日本が1945年8月にポツダム宣言を受諾し、その後旧ソ連軍に占領されたと説明した。露側は9月2日を終戦日と主張するが、しかしソ連は、戦勝国の領土不拡大を謳(うた)い国連憲章の基礎にもなった大西洋憲章(41年)を支持した。またヤルタ協定(45年)でソ連は千島等の領有を認められたと主張するが、同協定に日本は参加せず、国際条約でもなく、戦勝国による力による領土変更だった。ブッシュ米大統領は2005年に同協定を「歴史上最大の過ち」としている。




 《自らの行動を否定する論理》


 日本政府は、次の点もしっかり指摘して、歴史を修正しているのは露側だと反論すべきであろう。


 露外務省が「大戦の結果に対する一般に認められた理解」と言う場合、北方四島が露領だという意味も含まれている。実は日露の平和条約交渉に関連して露政権が「北方四島に対するロシアの主権は、第二次大戦の結果だ」と主張したのは、プーチン大統領が05年9月27日に国営テレビで述べたのが初めてだ。


 それまで日露両政府は1993年の東京宣言における「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との合意を前提に交渉していた。つまり4島の主権問題は未解決だということが共通の公式認識だった。ちなみにプーチン大統領は東京宣言を認めた2001年のイルクーツク声明(「平和条約交渉を東京宣言…に基づいて行う」)、03年の日露行動計画(「両国間の精力的な交渉の結果…東京宣言…を含む重要な諸合意が達成された」)に署名している。



 このようにプーチン大統領自身が、4島の帰属問題が未解決だと認めていた。また、日露は1998年に「国境画定委員会」を創設しているが、当然、国境の未画定が前提だ。だからこそ今日まで平和条約交渉が行われてきたのだ。


 最近ロシア側は、「南クリル(北方四島)が露領であるのは、第二次大戦の結果」と強調するが、ではなぜ北方四島の帰属をめぐる平和条約交渉を続けてきたのか。今日の露政府の論理は、自らのこれまでの行動を否定するものに他ならない。つまり、歴史を転倒させ修正しているのは、露側でありプーチン大統領自身である。




《日本批判の「戦勝記念日」》


 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに…」の露外務省発言に関して付言しておきたい。日本はドイツと1940年に同盟を結んだ。にも拘(かかわ)らず41年に日ソ中立条約を締結して、独ソ戦の間も含め、それを守っていた。ソ連が対独戦に勝利した背景には、日本が中立条約を守っていたという要因があり、今日ではロシアの専門家たちも認める歴史的事実だ。



 その中立条約を破って日本を攻撃し、日本の領土を獲得したのはソ連である。ここでも歴史を転倒させているのはロシア側である。


 中露は共同で、戦勝70周年を祝おうとしている。両国の共通認識は、「歴史の修正は許さない」というものだ。もちろんこれは、日本批判でもある。しかし、ここに述べたようなロシア側の転倒した歴史認識を基に「歴史の修正を許さない」としてロシアが中国と歩調を合わせることは、日本としては到底、容認できない。


 プーチン大統領は5月の戦勝記念日に中国の習近平国家主席とともに、安倍晋三首相を招待している。黙って招待を受けるとすれば、このようなロシアの歴史認識を日本は認めることになる。昨今ウクライナ情勢はさらに悪化しており、G7は対露制裁を緩和できる状況にない。招待にどう対応すべきか、おのずと明らかだろう。(はかまだ しげき)






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