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ニッポンのゆる~い日常

「安倍日本」どこが右傾化なのか

2012-12-27 09:20:49 | 正論より
12月26日付     産経新聞【正論】より


「安倍日本」どこが右傾化なのか   元駐タイ大使・岡崎久彦氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121226/plc12122603160002-n1.htm



 安倍晋三内閣の成立を迎えて、内外に、日本の右傾化を懸念する声があるという。



 ≪まだまだ平和ボケを脱せず≫


 私にはどうもそれが理解できない。客観的に見て、日本は右傾化どころか、まだまだ、世界の常識からはずれたパシフィスト(日本語の平和主義者より、やや悪い意味がある)国家だと思っている。

 それは国際的に比較してみればすぐわかる話だと思う。冷戦期、ソ連の脅威が厳しかったころ、「あなたは日本を守るために戦いますか」という世論調査とその国際比較があったように記憶する。

 記憶に頼る古い話なので不正確かもしれないが、世界の平均が80%ほどだったとすれば、日本の場合は50%をはるかに下回っていた記憶がある。

 現在もう一度世論調査をすれば、おそらくは50%を超えているかもしれない。それでも、国際水準より遥(はる)かに低く、右傾化というよりも、正常化、あるいはまだパシフィストから抜けきっていないという結果が出るであろう。

 同時に、私が年来日本の政治学者に解明してほしいと思っているのは、右傾化ではなく、日本における右翼運動の凋落(ちょうらく)現象である。


 日本における右翼運動の歴史は長い。明治の頭山満、昭和初期の大川周明、北一輝からの伝統があり、戦後も、本命右翼といわれた大東塾、赤尾敏の大日本愛国党などは六〇年安保、七〇年安保の頃に活躍していた記憶がある。


 私は情報関係事務に関与してきたこともあり、ある時期まではその種の情報にも絶えず接してきた。それが途切れて既に久しい。もう今は、注視を怠れない、ある程度の社会的影響力のある右翼団体は存在しないらしい。




 ≪右翼思想とはもう無縁の社会≫


 2006年の加藤紘一邸放火事件後、「今や30年代の右翼テロ時代の再来」という警鐘を鳴らそうとしたテレビ番組で、私は、「挫折した老右翼の単独犯」とコメントして、参加者たちを鼻白ませたことがあった。それも右翼凋落情報を知っていたからである。

 ヨーロッパでは、外国移民排斥などの右翼思想を掲げる政党が、今でもかなりの影響力を持っているが、自民党周辺、安倍内閣周辺には、そんな匂いもしない。今回の総選挙では、小政党が乱立したが、ヨーロッパの右翼に相当するような党はなかった。一つぐらいあってもよさそうなものなのに皆無だったということは、日本が右翼思想から無縁の社会だということを示している。


 右傾化でないとすれば、正常化への過程であろうが、国際政治の現実においては、日本はまだとても正常といえない状態である、バランス・オブ・パワーのパートナーとして必要とされる場合その期待を満たしてきていない。

 1978年の日中平和友好条約の際の中国側の関心は対ソ包囲網の形成であり、当時中国側は日本に対して国内総生産(GDP)3%の防衛費を期待していた。日本にその気があれば、尖閣問題などはとうに解決していただろう。台湾問題も、当時はまだワシントンに五星紅旗と青天白日満地紅旗の両方が立っていた時代でもあり、対ソ防衛協力を梃子(てこ)に台湾関係の改善もあり得た時機であった。

 79年のソ連のアフガニスタン侵攻後、アメリカが同盟国に軍備増強を呼び掛けたときは、日本はよくそれに応えて中曽根-レーガン時代を築いたが、高度成長期でありそれでもGDP1%程度にとどまった。それが冷戦後、GDPの4%を使った米国に比べられて、「冷戦は終わったが、儲(もう)けたのは日本だ」と、「勝利にタダ乗りをした」日本たたきが行われた。

 当時の日本バッシングの激しさは、あの頃日本経済をになった世代の忘れ得ない経験である。





 ≪米国には日本の協力が不可欠≫


 時は移って、今は、米国は対中戦略に軸足を移す「アジア・ピヴォット」を呼号しながら、財政の赤字に悩み、同盟国、友好国の協力を強く望んでいる状況である。


 安倍自民党圧勝直後の米国の論調を見ると、マイケル・オースリン氏は米紙ウォールストリート・ジャーナルで日本は少しも右傾化などはしていないと論じ、ジョン・リー氏はニューヨーク・タイムズで右傾化などは一言も論じず、安倍内閣が中国に対して毅然(きぜん)として立ち向かう姿勢を歓迎すると述べている。日本の右傾化については、ジャーナリスティックな報道や解説記事の中では、1、2パラグラフ触れているものもあるが、社説の類いで正面からこの問題を論じたものはあまりない。


 中曽根康弘政権、小泉純一郎政権のような長期政権は、強固な日米信頼関係の上に立っていた。佐藤栄作長期政権は米国の信を失って、ニクソン・ショックを受けて転落した。

 アメリカは、今やその国策であるアジア・ピヴォットのために日本の協力が不可避となっている。

 日本としては、防衛態勢を強化し、集団的自衛権の行使を認めて日米協力関係を強化することによって、日米関係を強固なものとするチャンスである。(おかざき ひさひこ)














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「日本健全化」の第一歩が始まる 

2012-12-18 09:07:25 | 正論より
12月18日付     産経新聞【正論】より


「日本健全化」の第一歩が始まる    杏林大学名誉教授・田久保忠衛氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121218/elc12121803110076-n1.htm


 少なくとも自民党幹部は勝って奢(おご)らず、敗者の民主党に対しても部分的政策協議に応じたい、と相手を尊重する武士道的態度は示していた。安倍晋三総裁は首相就任後に訪米すると明言した。戦後最大の困難と称していい国際情勢の中で打つべき手の優先順位を知っているからだろう。総選挙は手段であって、結果を利用して国家の再建をするのだと石破茂幹事長は淡々と述べていた。自民党当選者多数の抱負なるものを聞いてきたが、ひたすら投票者に媚(こ)び、選挙区のために全力を尽くすなどと涙を流している手合いが少なくない中だったので、2人の深沈たる態度が目立ったのかもしれない。




 ≪脱原発、卒原発…は敗退した≫


 とにかく、「戦後」を清算しなければならないという一大宿題を抱えている日本にとって絶望的なのは、選挙民の前で繰り広げられる大衆迎合的な政治家の振る舞いが年々、大袈裟(おおげさ)になってきていることである。ポピュリズムは民主主義には付き物だから、ある程度は仕方がないにしても、自分こそは世界一誠実で被害者の心の痛みが分かる、と自称する候補者が偽善者ぶりの競争を始めたら、どのような結果になるのだろうか。「反原発」「卒原発」「原発即時ゼロ」…。最後には「元祖・反原発」の虚言が飛び交った。これを煽(あお)り立てた報道機関はどことどこであったか。罪は深い。

 40に近い原発立地選挙区で当選したのは、条件付きながら原発を容認する自民党候補者だった。当選者の中に民主党幹部数人が含まれているが、知名度の高い人々であるから、原発立地選挙区であるなしにかかわらず、もともと当選するとみられていた。これは何を意味するのだろうか。何の責任も持たずに平和と叫ぶ偽者と同様、反原発を売り物にする政治家には、いかがわしい者が混じっているということを物語ってはいないか。被災地、被災者への対応は別の問題である。選挙民はこれを峻別(しゅんべつ)したと考えれば、救われる。





 ≪芦田と石橋も説いた憲法改正≫


 自民党の大勝は目立つが、日本維新の会とみんなの党の躍進も世間の耳目を集めている。民主党への反感によって揺り戻しが起きたとの解釈もできるが、内外の情勢激変に何とか対応しようという国民の気持ちが底流にあったことと、無関係ではないと思う。

 日本がサンフランシスコ講和条約に調印した直後の昭和27年1月1日付の毎日新聞朝刊紙上で、安倍能成・学習院院長、芦田均元首相、石橋湛山元蔵相、中山伊知郎・一橋大学学長の4人が独立と防衛について座談会を行っている。人から教えられて改めて読んでみたが、一驚した。4人とも戦後の進歩的文化人ではなく、戦前に軍部に抵抗した経験を持つ自由主義者だ。この中で、芦田と石橋は、国際情勢の現状から再軍備と憲法改正の必要性を説いている。芦田は、「日本民族は不幸にして常に世界の大勢を見ることを怠り、独断に流れる」と警告し、石橋は、「(再軍備について)将来日本に力が出来れば自分でやるべき義務がある」と明言し、改憲を2度にわたって口にしている。


 何も自民党結党の精神に戻れ、などと説教じみたことは言わないが、当時の政治家には俗説に阿(おもね)らない稜々(りょうりょう)たる気骨があった。政治家として波瀾万丈(はらんばんじょう)の経験をした後で名著『指導者とは』を書いたニクソン元米大統領は、「はっきり書いておきたいことがある。偉大な指導者は必ずしも善良な人ではないことである」と述べた。政治家には含意を汲(く)み取ってほしい。





 ≪気になる米リベラル派の誤解≫


 今回の選挙結果を新生日本の第一歩とする場合、前記の3党には通底するところがあるが、最大の障害は公明党だろう。山口那津男同党代表は、集団的自衛権を行使できるよう、憲法解釈を変更したり第9条の改正に動いたりした場合の、連立離脱を示唆している。時代の大きな流れの中で、公明党は民主、社民、共産党並みの野党になってしまうのであろうか。


 日本の新しい動向に対する、米民主党リベラル派と称される人々による見解は少々、気になる。

 ジョセフ・S・ナイ・ハーバード大学教授は11月27日付英紙フィナンシャル・タイムズに、「日本のナショナリズムは弱さの表れ」と題する一文を書き、中国と日本にあたかも危険なナショナリズムが生まれているかのように述べている。独裁国家が国策として育成したナショナリズムと、健全なナショナリズムに欠けている日本の現状を等しく扱う誤りを犯している。氏は最新の「アーミテージ・ナイ報告」で、日本がこのままでは二流国家になる、と心配してくれたはずではなかったか。


 旧知のジェラルド・カーティス・コロンビア大学教授は、12月3日付日本経済新聞で、尖閣諸島をめぐる日中の争いの原因は石原慎太郎発言だと断じているが、因果関係をもう少し考えてほしい。

 日本の健全化への第一歩を、米国にはむしろ祝福してもらいたい。強い日本と強い日米同盟の絆こそが、アジアと世界の安定になる、と私は確信している。(たくぼ ただえ)












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国防軍で戦前回帰?「冗談だろ」

2012-12-13 09:10:46 | 正論より
12月13日付     産経新聞【正論】より



「国防軍」で北への備えも強まる   防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121213/plc12121303200005-n1.htm



 北朝鮮はやはり撃った。実質は軍事用の長距離ミサイルを「人工衛星」と美化して、しかも、お得意の、隣人たちすべての裏をかくやり方で。遺憾だが、これが国際政治の現実だ。時あたかも終盤戦にあるわが国の衆院選では、それに見合うリアリズムで国防・安保の問題が論じられているか。

 衆院選での獲得議席につき報道界の調査による予想が民主党激減という線で一致すると、野田佳彦首相が案の定、焦りから安保論戦に出た。攻撃目標は自民党が掲げる「改憲で自衛隊を国防軍として位置づける」。改憲では言葉を濁し、国防軍案には反対、「ICBM(大陸間弾道ミサイル)でも撃つ組織にするつもりか」と罵倒。




 ≪野田首相の“変節”惜しむ≫


 3年半前、民主党は上昇気流の中にいた。有望株の一人だった野田氏の処女著作『民主の敵』はそのころ出版され、憲法と防衛に関しては今日の自民党とも十分折り合える考えが読めた。今日、自党が下降気流に揉まれる中、当時の主張を苦しみから放棄したのなら、好漢・野田氏のため惜しむ。

 私自身は自民党の憲法草案発表以前から、「改憲して国防軍を」と主張していた。だから、首相就任後ほどなく野田氏が、自民党の石破茂氏による「国防の基本方針」関連国会質問に答えて、一発回答でその見直し議論を避けない旨を述べたとき、それを評価した。議論は当然、憲法、国防に及ぶはずだった。が、今は空しい。


 岸内閣の閣議決定になる「国防の基本方針」と野田氏は昭和32年5月20日生まれの55歳。岸氏が締結した現行の日米安保条約の3年前だ。それは、わが国の防衛政策に関して格式上は最重要文書である。今日まで一字一句の変更もない。日米旧安保条約下の文書なのに、野田内閣も含め、よくも呑気(のんき)に改訂をサボってきたものだ。





 ≪自衛隊を軍とせぬ矛盾随所に≫


 わが国の防衛・安全保障の議論では、本質の直視が乏しい半面、用語への情緒的反応が大き過ぎる。「自衛隊」ならOK、「国防軍」ではイヤ、がその好例だ。

 無論、用語は精選を要する。ただ、国内で偏愛される用語への固執は国際舞台で不可解行動を生みやすい。国連PKO(平和維持活動)で他国軍と肩を並べる「自衛隊」が、僚軍による警護は受けるが、僚軍への「駆けつけ警護はしない」のがその一例。「自衛」だから日本領土、領海を飛び越すミサイルは撃破しないのも同類だ。

 国内法で自衛隊を軍隊と位置づけないので、自衛官は内外で不本意な使い分けに追われる。国内では軍人を名乗れず、海外では軍人を名乗らなければ理解されない。好例は日本だけの「防衛駐在官(ディフェンスアタッシェ)」。相手側が首を傾げると、つまりは国際基準の「駐在武官(ミリタリーアタッシェ)」のことですと言い訳する。

 ことを本質に沿って呼ばないため、国内でも妙な事例が目立つ。自衛隊なる呼称も変だ。実体的にそれは紛れもなく国家防衛(ナショナルディフェンス)のための武力組織である。が、自衛とは必ずしも武力的概念ではない。厳冬に備えての自衛は非武力的行為だ。また、「隊」なる用語が本来的に「武」と結びつく概念ではないのも、漢和辞典に明瞭である。楽隊、キャラバン隊を見よ。

 だから自衛隊を英語でSelf Defense Forceと説明するのは変だ。Forceとは力、武力のことなのだから。ただし、この場合、おかしいのは英語ではなく、日本語の方だ。もとが自衛軍ならまだ救われただろうに。とにかく、国家の武力集団を作ろうというのに、過去には本質隠しがかくも過ぎていた。





 ≪言い訳不要の世界標準組織に≫


 世界諸国の軍隊は、歴史的背景や国家形態のゆえに必ずしも国防軍と名(ナショナル・ディフェンス・フォース)乗っているわけではない。が、国防任務を免れている軍はない。国際環境の好転で相対的にその比重が減った場合でも、国防は一丁目一番地なのだ。国際社会が依然として分権的システムである以上、それは国家の武力装置の定めである。わが国もまたそのことを承服して、自国の軍事組織を国際社会で最も理解されやすい国防軍と改称すべきである。


 改憲のうえで自衛隊を国防軍と改称することを復古だとか、戦前の軍国主義復活の序曲だと呼ぶ声が内外にある。冗談だろう。歴史上、日本の軍隊が国防軍を名乗ったことはない。戦前の軍は「大日本帝国陸海軍」であり、新聞、ラジオはそれを「皇軍」と呼んだ。つまり、「天皇の軍隊」だった。


 誕生すべき国防軍は復古物ではない。また内でも外でも言い訳、つまりは政府の晦渋(かいじゅう)な憲法解釈なしでは理解困難だった自衛隊でもないだろう。私は生涯の26年間を自衛隊の一隅で過ごした人間として、自衛隊自体が風雪に耐え、国民に愛される存在となったことを心底から喜ぶ。だが--。

 戦後やがて70年。わが国は軍制上の特殊国家をやめ、北朝鮮のような不埒(ふらち)者国家の脅威にも適切に対処可能な「普通の国」になるべきだ。それにはわが国の軍事組織を、言い訳を必要とした自衛隊から、国際的標準である国防軍へと脱皮させることが必要である。(させ まさもり)














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「航行の自由」中国の手から守れ

2012-12-06 09:16:13 | 正論より
12月6日付      産経新聞【正論】より


「航行の自由」中国の手から守れ     ヴァンダービルト大学 日米研究協力センター所長 
                               ジェームス・E・アワー氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121206/plc12120603220003-n1.htm



 中国の温家宝首相や東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国と日米韓など計18カ国の首脳が集った先月のASEAN関連サミットで、開催国であるカンボジアの指導者、フン・セン首相は露骨な中国の代弁者として、南シナ海問題は「国際化」されるべきではないというのがASEANの総意であると誤った声明を出した。



 ≪東シナ海でも支配を狙う≫


 ASEAN数カ国の国家元首が直ちに異議申し立てをしたこの声明の意味合いは、極めて明確に理解されるべきだ。中国は、南シナ海の使用を思い通りに支配したいのであり、その支配に異を唱えるいかなる国も中国政府によって個別に処罰されるのである。

 同じように、東シナ海の場合でも、中国の意図は、尖閣諸島に対する日本の主権を否定し、1971年の自らの領有権主張をあたかも古代の中国法で位置づけられているかのごとく提示し、米国が中日「二国間」の問題に「干渉」する筋合いではないと言い、そのうえで、南西諸島地域でほとんど防衛能力のない日本に対し、必要とあらば軍事的にも領有権主張を押し通すことではないのか。


 尖閣で日本の主権的地位の信頼性を高めようという石原慎太郎前東京都知事の計画を批判する多くの人々は日本に国の領土を守る意思があるのか、あるなら、そのための確かな措置を講じる意思があるのかを考える必要がある。


 尖閣諸島の所有者が代わりに中国側に尖閣を売却し、そして、中国がそれらを封鎖していたら、日本政府はどうしていただろう。フィリピンに近接し統治されているのに、中国が領有権を主張しているスカボロー礁への進入を、同国が最近、閉ざしたように。





 ≪日米はASEANと連携を≫


 11月のカンボジア指導者の声明は、2年前のASEAN地域フォーラム(ARF)で、米国は「南シナ海における平和と安定の維持、国際法の尊重、航行の自由、妨害なき正当な通商に国益を」有しているとした、ヒラリー・クリントン米国務長官の声明とは明らかに矛盾する。平和的で合意ずく(中国政府の指図抜き)の南シナ海の利用権を妨げてはならないと主張することは、米日両国とASEAN諸国の責務である。

 どうすることが必要か?

 何はさておいても、日米両国は世界の二大民主主義・経済国として、西太平洋最大かつ最強の海軍国として、南シナ海の共有海面における航行の自由の不可侵性を確保するのに必要ないかなる手段をも取らなければならない。

 日本の海上自衛隊と米海軍は、国連海洋法条約を完全順守した通航の自由を日米が強く求めない場合に中国がやりかねないような、他国の支配や排除をするのではなく、いかなる国も締め出さない。ASEAN加盟のどの国でもしかり、周辺や地域の航行の自由を保証する手伝いをしてくれることはありがたい。中国といえども、アフリカ沿岸沖で海賊防止に協力しているように、南シナ海を世界の通商に開かれたものにしておくことに参加するなら歓迎だ。


 次に、日本は、南西諸島地域に陸海空の自衛隊部隊を配備することで、信頼し得る抑止力を構築しなければならない。これらの部隊は、原子力空母、攻撃型潜水艦と岩国、沖縄、グアムを拠点とする海兵隊の空陸部隊から成る米第7艦隊兵力の支援が可能だ。

 日本の自衛隊は冷戦期には、日本本土や沖縄に効果的に展開されて米国ともうまく連携し合った、かなりの抑止能力を達成した。しかし、今や、日本の北方と西方に対する旧ソ連時代の脅威は薄れ、一方で、尖閣諸島が無防備で攻撃を受けやすい状況にある。





 ≪力なき外交は機能しない≫


 朝鮮半島、台湾、そして、今や尖閣諸島と、危険な発火点が身近に存在し続けているにもかかわらず、日本の防衛費は1990年代以来、横ばい状態、あるいは下降状態をたどるに任されている。防衛費の増大は賢明だと思える。もっとも、幸運なことに、南西諸島の防衛力を強化して、尖閣諸島に防衛の傘を差し伸べることは、日本の現有戦力の再配置によって、おおむね達成可能である。

 第三に、日米両政府は、海上境界、漁場、海底資源をめぐる紛争を平和的に、合意によって解決しようとするASEANの要求については、全加盟国(たぶん信念というよりもむしろ恐怖から行動しているカンボジアを有り得る例外として)を支持すべきだ。

 外交第一主義はどうか? 日本は、中国を挑発しないように気をつけ、尖閣問題を国際司法裁判所に持ち込むと申し出るべきではないか、といった立場だ。だが、平和的で成功した1996年の台湾総統選などに例証されるように、外交は、法の支配とは無関係に結果を押し付けてきたがる者を、抑止できる信頼に足る防衛力が存在するときにのみ機能する。

 仮に米国が(日本から)撤退して、中国が東シナ海と南シナ海を国有化したとすれば、自由な海洋国家としての日本の地位は、深刻な試練に直面するだろう。

    








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「危険だ」という言葉の危険性

2012-12-05 10:09:54 | 正論より
12月5日付     産経新聞【正論】より


「危険だ」という言葉の危険性    埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121205/stt12120503100002-n1.htm



「たいへん危険な政策だと思いますね」--先日、或る報道番組を見ていたら、野田佳彦首相が、安倍晋三自民党総裁の提案する大胆な金融政策を評して、そう言っておられました。つまり、これではインフレをひき起こし、一般国民の生活を苦しめる恐れがある、という批判です。




 ≪デフレか大胆な金融政策か≫


 この議論そのものについて言えば、目下の日本はデフレが続いて不況が長びき、正規雇用が減って世帯当たりの所得が減り続けている。このような現状を打破するためにこそ大胆な金融政策が必要とされるわけなのであって、野田さんの批判はちょっとピント外れだったと言うべきでしょう。


 しかし、それより問題なのは、この発言中の「危険」という言葉です。この言葉には大きなインパクトがあるので、誰もが好んで使うのですが、それだけに、その使い方には注意が必要です。この言葉はその危険のみに光をあてて、他にもいろいろ別な危険があることを忘れさせてしまう。それがかえって危険を呼ぶことにもなるのです。

 たしかに、思い切った金融政策に危険はつきものであって、これは歴史がわれわれに教えてくれる通りです。しかし、思い切った政策をしないこと--何一つ思い切った政策をとらずにデフレ状態を放置することもまた、たいへん危険なのです。


 つまり、一口に言って絶対に危険でない経済政策などないのだと心得るべきでしょう。ちょうど集中治療室の医師団のように、さまざまの治療法の効果と副作用をはかりにかけて、何とか「日本経済」という患者を回復させること--それが目下の経済政策の務めです。そのような時、「危険だ」という叫びは、かえって治療の妨げになってしまうのです。




 ≪危険は上手にコントロール≫


 実は、これは経済政策にかぎったことではありません。そもそも一国の政治というものは、どちらに進んでも、また進まなくても、それぞれに危険があります。そうした危険をすべて見渡しながら、細いいばら道を切り開いてゆかなければならないという難しい仕事です。そして、ただでさえ難しいその仕事をいっそう困難にしてしまうのが、「危険だ!」の大合唱なのです。


 そのことがもっとも顕著にあらわれ出たのが、原発をめぐる問題でした。昨年の3月、福島の原子力発電所が大津波にあって事故を起こして以来、われわれは原発に対する恐怖で頭の中が真っ白、といった状態で今に至っています。とにかく、「原発」と聞けば、即時停止、廃炉、反原発、脱原発、といった言葉以外にはうかんでこない。しかしそれは、かえって危険なことと言うべきなのです。


 われわれが福島の事故で学んだ通り、原発は停止してもまだ危険です。廃炉へ至る道のりのいたるところにひそんでいる危険を上手にコントロールしていかなければなりません。それなのに、「即時脱原発」を唱える人たちは、〈危険をコントロールする〉という発想すら投げ捨ててしまっています。まして、日本のエネルギー政策全体を見渡すなどということは、それ自体が犯罪扱いされてしまっている。「危険」の一語が、危険を避けるために不可欠の理性的態度を吹き飛ばしてしまった好例と言えるでしょう。


 さらにもう一つ大きな問題を生み出してきたのが、自国の毅然(きぜん)とした外交姿勢に対して投げかけられる「危険なナショナリズム」という唱え言葉です。





 ≪〈安全活動〉回避してならぬ≫


 たしかに、世界を眺め渡して見れば、「危険なナショナリズム」と呼ぶほかないような態度の国もあります。国内の失政から国民の目をそらすため、隣国に理不尽な言いがかりをつけて領海侵犯をくり返す--こんなナショナリズムは本当に危険です。


 しかしそれでは、そうした危険をふせぐのに、相手のご機嫌をとり続け、すべてを譲り続けるのが一番安全なのでしょうか。


 実は、話は全く逆で、国家の常日頃の毅然とした外交姿勢や、国境、領海保全の不断の努力というものは、戦争という最大の危険をふせぐために不可欠の防壁なのです。これは、野生動物が自分の縄張りに絶えず匂い付け(マーキング)をして不必要な衝突を避けるのと全く同様の営みです。



 ところが、あたかも「危険な」国家は日本一国であるかのように、わが国は「危険なナショナリズム」という唱え言葉のもとに、そうした〈安全活動〉をことごとく回避してきました。その結果が、たとえばこの秋の尖閣諸島周辺における中国の危険な行動を生み出してしまったのです。


 このような「危険」という言葉の魔力にまどわされず、本当にしっかりとあらゆる危険を見渡して、もっとも安全な国家の進路を切り開いてゆくには、よほど冷静で肝のすわった政権でなければなりません。今度の選挙では、ぜひそういう政権を実現したいものです。(はせがわ みちこ)











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「危険だ」という言葉の危険性

2012-12-05 10:05:54 | 正論より
12月5日付     産経新聞【正論】より


「危険だ」という言葉の危険性    埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121205/stt12120503100002-n1.htm



「たいへん危険な政策だと思いますね」--先日、或る報道番組を見ていたら、野田佳彦首相が、安倍晋三自民党総裁の提案する大胆な金融政策を評して、そう言っておられました。つまり、これではインフレをひき起こし、一般国民の生活を苦しめる恐れがある、という批判です。




 ≪デフレか大胆な金融政策か≫


 この議論そのものについて言えば、目下の日本はデフレが続いて不況が長びき、正規雇用が減って世帯当たりの所得が減り続けている。このような現状を打破するためにこそ大胆な金融政策が必要とされるわけなのであって、野田さんの批判はちょっとピント外れだったと言うべきでしょう。


 しかし、それより問題なのは、この発言中の「危険」という言葉です。この言葉には大きなインパクトがあるので、誰もが好んで使うのですが、それだけに、その使い方には注意が必要です。この言葉はその危険のみに光をあてて、他にもいろいろ別な危険があることを忘れさせてしまう。それがかえって危険を呼ぶことにもなるのです。

 たしかに、思い切った金融政策に危険はつきものであって、これは歴史がわれわれに教えてくれる通りです。しかし、思い切った政策をしないこと--何一つ思い切った政策をとらずにデフレ状態を放置することもまた、たいへん危険なのです。


 つまり、一口に言って絶対に危険でない経済政策などないのだと心得るべきでしょう。ちょうど集中治療室の医師団のように、さまざまの治療法の効果と副作用をはかりにかけて、何とか「日本経済」という患者を回復させること--それが目下の経済政策の務めです。そのような時、「危険だ」という叫びは、かえって治療の妨げになってしまうのです。

 ≪危険は上手にコントロール≫

 実は、これは経済政策にかぎったことではありません。そもそも一国の政治というものは、どちらに進んでも、また進まなくても、それぞれに危険があります。そうした危険をすべて見渡しながら、細いいばら道を切り開いてゆかなければならないという難しい仕事です。そして、ただでさえ難しいその仕事をいっそう困難にしてしまうのが、「危険だ!」の大合唱なのです。

 そのことがもっとも顕著にあらわれ出たのが、原発をめぐる問題でした。昨年の3月、福島の原子力発電所が大津波にあって事故を起こして以来、われわれは原発に対する恐怖で頭の中が真っ白、といった状態で今に至っています。とにかく、「原発」と聞けば、即時停止、廃炉、反原発、脱原発、といった言葉以外にはうかんでこない。しかしそれは、かえって危険なことと言うべきなのです。


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3年前の失敗繰り返さぬために

2012-12-04 09:42:49 | 正論より
12月4日付    産経新聞【正論】より


3年前の失敗繰り返さぬために    評論家・拓殖大学大学院教授 遠藤浩一氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121204/elc12120403390066-n1.htm





 選挙というものは、人間の弱点を体現している。

 この世に完全無欠な人間はいない。間違いだらけの人間の意思を集約した「民意」なるものは、したがって無謬(むびゅう)ではない。




 ≪問われる有権者の「反省」≫


 民意にも、いや民意であるがゆえに、過誤があることを前提として、選挙という民主主義の装置を運転していかなければならないのだが、多くの人は、いともたやすく民意は無謬だとの錯覚に陥る。

 そこで民意に阿諛(あゆ)し追従するのが民主主義だと勘違いする手合いが出てくる。あるいは、民意の弱点を巧妙に利用して権力を操作しようという輩(やから)が後を絶たない。

 3年前の衆議院議員選挙で、民意は、あきらかに誤った判断をした。民主党に3年余も政権を担当させてしまった事態について、私ども有権者は(民主党に票を投じていようといまいと)深く反省しなければならない。誤った判断をしたならば反省し、次の選挙の教訓とする-これが、弱点だらけの民主主義を運営していくにあたっての要諦である。

 つまり、今回の総選挙のテーマは「反省」ということになる。「未来」を名乗る政党が急拵(ごしら)えで出てきた。民主党政権下で失敗が明らかになった子ども手当もどきの政策を性懲りもなく打ち出している。この人たちは反省という言葉を知らぬらしい。いや、反省を知らぬのは有権者の方で、何度でも過ちを犯すだろうと高をくくって、似たような釣餌をぶら下げたのかもしれない。


 この党の売り物は「卒原発」だそうだが、嘉田由紀子代表はテレビ番組で、原子力規制委員会が安全性を担保し、政府が必要と判断した場合は再稼働を容認する、と現実的な見解を示した。おや、この人は一味違うのかなと思いきや、批判に晒(さら)されると「(再稼働は)困難だし、必要性もない」、あっさり撤回してしまった。この瞬間に、「卒原発」が選挙向けのスローガンでしかないことが明らかになった。選挙期間中の思いつき発言で進退窮まった鳩山由紀夫元首相の姿が二重写しに思い出された。





 ≪原発の是非を今問うは性急≫


 福島の原子力発電所事故の記憶が生々しく残っているいま、性急に中長期的政策としての原子力発電の是非を民意に問うのは、適切ではない。原発反対派がいまこそ民意に問うべしと攻勢に出ているのは、民意が動揺しているうちに煽(あお)るだけ煽れということだろう。

 ヒトラーの下で大衆宣伝戦を指揮したゲッベルスは、魚が水を必要とするように都市住民はセンセーションを必要としている、と言い放ったものだが、センセーショナリズムに支配された選挙で、政党党首や候補者の言葉はどんどん過激になる。それが独走すれば、政治は柔軟性と安定性を失う。これも3年前の選挙の教訓である。


 当面の安心と将来の安定を両立させるのが政治の役割であるにもかかわらず、「未来」を標榜(ひょうぼう)するこの政党は(そして他の多くの政党も)、当面の「安心」について空虚なスローガンを叫ぶだけで、代替エネルギーについての説得力ある提案はない。


 問われるべきは、脱(卒)原発か否かではなく、資源なきわが国のエネルギー戦略をどうするかという具体的政策である。成長力を担保しつつ、いかに安全を確かなものにしていくかという難題について、どの党が比較的誠実な姿勢を提示しているのか、有権者は冷静に検討しなければならない。





 ≪総合政策と実現力を争点に≫


 みどりの風は3人の前衆院議員を日本未来の党に合流させるものの、当選すれば復党させる方針だという。「二重党籍で選挙を戦ってもらう」(谷岡郁子共同代表)のだそうな。反原発を前面に押し出して稼げるだけ票を稼ごうという魂胆が見え透いている。現行選挙制度の悪用であり、選挙互助会と批判される所以(ゆえん)である。


 もっとも、綱領なき民主党も実態は選挙互助会に近かった。選挙互助会をつけあがらせたという失敗を繰り返してはなるまい。


 衆議院議員総選挙は政権選択選挙である。複雑で多岐にわたる問題を処理していく政権としてどういう政党の枠組みが相応(ふさわ)しいのかが問われる選挙である。当然のことながら、原発や環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の是非などシングル・イシューを争点にしてはならない。国防・安全保障も含め、総合的な政策の妥当性、そしてその実現能力の有無が争点なのである。

 政策実現能力という意味で、選挙後の政権構想について、特に自民党は維新の会などとの協力について、もう少し積極的に方向性を示すべきではないか。有権者もそうした動きを判断材料にする必要がある。合従連衡は選挙後の話というわけにはいかない。


 繰り返す。この選挙で問われているのは有権者自身の反省である。センセーショナリズムとの闘いは、(政治家ももちろんそうだが)有権者こそが引き受けなければならない試練と言わなければならない。(えんどう こういち)













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「戦後レジーム脱却」に、再び

2012-11-28 16:21:56 | 正論より
11月28日付     産経新聞【正論】より



「戦後レジーム脱却」に、再び     元駐タイ大使・岡崎久彦氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121128/stt12112803150004-n1.htm


 選挙の行方はまだ分からないが、安倍晋三首相の突如辞職という悪夢のような一日から、5代の内閣を経て再び安倍内閣を迎えることになりそうである。

 当時、安倍内閣は、米国の初期占領政策とその後の共産系プロパガンダを受けた国内左翼勢力によって築かれていた戦後レジームからの脱却を着々と実施していた。




 ≪大事業だった教育基本法改正≫


 戦後レジームと言っても、占領後半世紀を経て残っていたのは、憲法と教育基本法であったが、憲法については、憲法制定以来放置してあった憲法改正のための国民投票法を成立させ、そして、自民党が60年間できなかった教育基本法の改正を実現した。それは簡単な作業ではなかった。必要な手続きをすべて踏んで、徹底審議するために通常国会のほぼ全期間を要した大事業であり、そのために土日も休まず勉強と準備を尽くしたのが、安倍首相の健康を蝕(むしば)んだ最大の要因だったと思う。そのあとの参院選とインドなどの訪問は、安倍首相の健康に対して、無理に無理を重ねただけだったと思う。

 そして、それが終わるが早いか、集団的自衛権の見直しのための有識者の会議を設置した。

 会議は、集団的自衛権の行使を必要とする4分類について検討し、総論に加えて3分類まで逐次討議を完了し、最終の第4分類を討議する会を9月14日に控えて、12日に安倍首相が病で倒れた。事後措置についていくら連絡しようとしても、安倍首相は病院で点滴中(ひと月続いた由)で如何(いかん)ともし難かった。




 ≪安倍後継4内閣でブレーキ≫


 当時、教育基本法の成立を受けて、その実施に専念しようとしていた某政治家は、安倍首相が倒れたという報を受けて茫然(ぼうぜん)自失し、その日のうちに3度躓(つまず)いて転んだという。その心配は正しかった。戦後レジームの脱却はその後急ブレーキを踏まれ、教育現場では、教員組合のサボタージュに遭って法案の内容の実施は難航した。

 自民党政権の後継の福田康夫内閣は、安倍内閣の政策を引き継ぐ意思はなく、麻生太郎内閣は、その意思はあったが、折からのリーマン・ショックから日本経済を救うための経済措置に忙殺されているうちに、解散の機会を逸し、総選挙で大敗してしまった。

 そのあとの鳩山由紀夫、菅直人の両民主党内閣については、振り返ってみて、日本の憲政史上最低の内閣であったことには今や、ほとんど誰も異存はないと思う。





 ≪安保環境も意識も好転した≫


 野田佳彦内閣はよくやったと思う。日本の財政状態解決のため、早晩避けて通れないことは誰しも知っていながら、政治的に手をつけられなかった消費税の増税を決め、自民党が半世紀悩んだ武器輸出の緩和まで達成した。ただ、鳩山、菅内閣の失政で、民主党そのものの評価が地に堕(お)ちてしまっていて、多少(それ以上とは思うが)の成果は民主党政権に対する再評価にはつながらなかった。

 そして、時はめぐって、また、自民党は安倍総裁となり、5年前の時点からの再出発が期待されるに至っている。その間、状況は変わっている。尖閣問題など国際情勢の変化の影響か、あるいは、戦後意識が最終的に薄れてきたせいか、先の自民党総裁選では、5人の候補がいずれも集団的自衛権の行使の支持を明言している。


 ところで、自民党の友党公明党は今なお集団的自衛権に反対している。しかし自民党の方向はすでに決まっている。公明党としては半世紀間政治的に有効だった戦後平和主義を今後とも維持して、欧州の緑の党のようにリベラル路線を墨守する万年野党となるか、それとも現実路線をとって、政権与党として、福祉などについて自らの政策を反映させるようにつとめるか、その選択を迫られよう。


 教育基本法の、教育の現場における徹底は安倍内閣の課題であるが、これについては、今や日本維新の会が大阪における実績によって頼もしい友党となっている。これには期待できよう。

 終わりに、議席の大幅減が予想される民主党の野田首相に対して、一詩を献じたい。

  

 勝敗は、兵家 期すべからず

 羞を包み、恥を忍ぶ、是男児

 民主の子弟 才俊多し

 捲土重来 未だ知るべからず

  

 楚の項羽が、手勢わずかに百余騎となって烏江の岸に追い詰められたとき、江岸の亭長が江東に逃れて再起するよう勧めたのを断って遂に自刎(じふん)したのを惜しんだ杜牧の詩である。「江東」を「民主」に変えた以外は原文通りである。

 民主党には俊秀も多い。国政を担う才幹を持ちながら、自民党の世襲制に阻まれて民主党から立候補したが、鳩山、菅時代に、当選回数が少ないために機会を得られなかった人々である。

 願わくば、野田首相は、たとえ項羽のように、最後は28騎の手勢となっても、真に国を思う人々を手元に残し、羞を包み、恥を忍んで、再起を図っていただきたい。それがお国のためである。(おかざき ひさひこ)













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尖閣防衛は強者への正義の戦い 

2012-11-21 10:05:30 | 正論より
11月21日付     産経新聞【正論】より


尖閣防衛は強者への正義の戦い   防衛大学校教授・村井友秀氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121121/plc12112103370000-n1.htm



 国際関係において敵とは国益を害する国であり、味方とは国益に資する国、または敵の敵である。国家は、国民、領土、主権から成り立っており、これらの3要素を害する国が深刻な敵である。




 ≪抵抗で生まれる対日友好≫


 現代のアジアでモンゴルやベトナムやインドは日本に友好的な態度を取ることが多い。日本人が特別に好かれているわけではない。ただ、これらの国は中国に侵略された歴史を忘れていない。中国は敵であり、敵の敵は味方なのである。日本がこれらの国で厚遇されるのは、日本が中国に対抗できる国であると見られているからである。したがって、日中関係が親密になれば、これらの国の日本への信頼感は低下するであろう。

 20世紀初期のトルコやポーランドでは日本の人気は高かった。当時、両国の敵はロシアであり、日本は日露戦争の勝者だったからである。ただし、「国家には永遠の友も永遠の敵も存在しない。存在するのは永遠の国益だけである」(パーマストン英首相)ということも国際関係の原則である。

 それでは日本の国益を侵害している国はどの国であろうか。


 脅威は能力と意志の掛け算である。日本の国民、領土、主権を侵害する最大の軍事的能力を持っているのは米国であろう。次いで、ロシア、中国、北朝鮮が挙げられる。これらの国は数千発から数十発の核兵器を保有し、日本を攻撃できる射程を持つ数百発~数十発の弾道ミサイルも保有している。韓国も西日本を攻撃できる射程800キロの弾道ミサイルを、数年内に開発することを決定した。


 次に、日本の国益を侵害する意志を見ると、米国は日本の同盟国であり、日本を攻撃する意志はゼロであろう。したがって、能力と意志を掛けると米国の脅威はゼロである。ロシアは日本の領土を奪い、武力で不法状態を維持しようとしている。ロシアの意志と能力を掛けると脅威は存在する。





 ≪能力×意志=最大の脅威中国≫


 中国は日本が実効統治している尖閣諸島を武力で奪い、現状を変更しようとしている。日本の領土を積極的に侵害しようとしているのである。中国の能力と意志を掛けると脅威は明確に存在する。北朝鮮は日本人を拉致し、かけ替えのない国益である国民の生命を侵害している。北朝鮮の能力と意志を掛ければ脅威は存在する。韓国は日本の領土である竹島を不法占拠し、武力を使って現状を維持しようとしている。韓国も能力と意志の掛け算はプラスである。

 以上、能力と意志を掛け算すると中国の脅威が最大になる。


 他方、米露韓の3カ国は民主主義国である。一般的に民主主義国は戦争をやりにくい構造になっている。戦争は奇襲で始まる場合が多い。しかし、民主主義国は政策決定過程の透明性が高く、敵を奇襲することが難しい。また、民主主義国は暴力による威嚇ではなく国民を説得することによって、政権を維持している。対外関係でも同様の行動を取る傾向があり、話し合いを優先し、戦争を選択する可能性は低いといわれている。だが、中国と北朝鮮は独裁国家であり、戦争に対する民主主義のブレーキが効かない国家である。

 文民統制も戦争に走る軍を政治が抑えるシステムである。米露韓の3カ国では文民統制が機能している。それに対して、北朝鮮は軍が最優先される「先軍政治」の国であり、中国も「鉄砲から生まれた」共産党と軍が一体化した兵営国家であり、文民統制は存在しない。以上の条件を勘案すると、現在の日本にとって最大の脅威は中国による領土の侵略である。





 ≪国連憲章に則った日本の行動≫


 中国の侵略に日本はどのように対応すべきか。尖閣諸島を日本から奪おうとする中国の行為は、日本の死活的に重要な国益を侵害するだけではなく、国連憲章を否定する行為でもある。国連憲章第1章は「すべての加盟国は武力による威嚇または武力の行使を慎まなければならない」とうたう。

 したがって、武力による威嚇と武力行使で日本から尖閣諸島を奪おうとする中国に抵抗する日本の行動は、国連憲章に則(のっと)った正義の行動である。尖閣諸島をめぐる日中の動きは、両国の国益の衝突という次元にとどまらない。国際社会の正義の問題なのである。


 現在、日本では、中国による世論戦、心理戦や経済的圧力の効果もあって、中国に妥協すべきだとの意見も強まっている。しかし、その中国の指導者、毛沢東が「敵と妥協し、領土や主権を少し犠牲にすれば、敵の攻撃を止めることができるとする考えは幻想に過ぎない」(持久戦論)と述べていることを肝に銘ずべきだろう。


 尖閣諸島を守る日本の行動は、力で要求を押し通そうとする強者に対する正義の戦いという面がある。日本が屈服すれば、強者に抵抗する日本に期待していたアジアの弱者は失望し、日本のアジアに対する影響力(ソフトパワー)は消滅する。日本が強者に対する抵抗を放棄すれば、アジアで弱者が安心して平和に暮らす環境もなくなるであろう。(むらい ともひで)












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自衛権の解釈要す憲法は異常だ

2012-11-05 11:19:35 | 正論より
11月5日付      産経新聞【正論】より


自衛権の解釈要す憲法は異常だ    防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121105/plc12110503170002-n1.htm



 外国が日本を侵略したら自衛隊が出動してわが国と国民を守る。国民の圧倒的多数がそれを当然視している。自衛隊のこの行動を何と呼ぶかとの質問には、その名のごとく自衛の行動だと答えるだろう。その行動は正当かと重ねて問われれば、正当と答えるはずだ。



◆9条の読み方の違い



 ところが、では憲法の9条との関係でそれは正当な行動と呼べるかとなると、驚くほど多くの国民がしどろもどろだろう。無理もない。何せ憲法制定国会問答で吉田茂首相が「戦争の放棄」を謳(うた)うこの憲法の下、「自衛権の発動としての戦争」も放棄したかのごとき答弁を残したほどなのだから。

 だから、自衛隊の前々身の警察予備隊が発足した昭和25年以降、万年野党ながら国会第二党だった日本社会党が「非武装中立」論の下、「自衛隊違憲」を唱えたのも、あながち奇異とは言えなかった。多くの知識人、とくに憲法学者の多数派が社会党のこの主張に共鳴した。9条については、立場次第でいく通りもの読み方があったし、現になおその名残がある。


 ただ、こと政府に関する限り、9条の読み方は一本化された。警察予備隊、保安隊を経て吉田政権最末期に自衛隊が発足した後、昭和29年暮れに誕生した鳩山一郎政権は自衛隊の根拠となる「自衛権の存在」を憲法解釈として明言した。いわく「第一に、憲法は、自衛権を否定していない。第二に、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない(=自衛隊はこの抗争用の手段)」。


 40年後の平成6年にはからずも首相の座に押し上げられた村山富市社会党委員長は一夜にして「自衛隊違憲」から「自衛隊合憲」に乗り換えてしまった。つまり、政府首長として右の政府統一見解に改宗、積年の、だが賞味期限のとっくに切れた社会党流の解釈を見限ったのだ。誰が見ても、それはそれで結構なことだった。

 が、これらの歴史的情景は、立憲国家にとって健常と言えるか。否、だろう。有事に国と国民を守るという国家至高の責務の可否が憲法条文で一義的に明瞭とは言えない状態は、健常であるはずがない。無論、この異常さの淵源は現行憲法が敗戦の翌年、占領下で制定された点にある。それが百%の押し付け憲法ではなかったとしても、日本は戦勝国による非軍事化政策を受容するほかなかったし、結果、自衛権の存否につき立場次第で百八十度方向の違う解釈さえ許す憲法が誕生したのである。






◆国家の一丁目一番地の問題



 爾来(じらい)、こと自衛権の存否に関する限り日本は「憲法解釈」なしでは立ち行かない国である。念のため言うが、「憲法解釈」の必要がない国などない。が、ことは程度問題だ。国家の自衛といういわば国家に取り一丁目一番地の問題までもが、半世紀を超えて「解釈」に依存し続ける国は日本以外にはない。今後もそれでいいのか。


 今日、納税者たる国民は有事に国家が自衛隊をもって自分たちを守る、すなわち、自衛権を行使するのを自明視している。だが、それは9条を読んで納得したからでもなければ、いわんや先述の政府統一見解に共鳴してのことでもない。そんなこととは無関係に、納税者としていわば本能的欲求がそういう反対給付を国家に求めているまでのことだ。乱暴に言うと、自衛権について何を言っているのかが曖昧な9条なぞどうでもいいというのが実情だろう。






◆保有わざわざ謳うのは傷痕



 考えてもみよ。有権者のいったい何%が「自衛権の存在」に関する政府統一見解の存在を知っているだろう。百人に一人? つまりウン十万人? 冗談じゃない。そんなにいるものか。では、国会議員の何割が、いや政府閣僚のいく人が憲法9条のいわば「正しい」読み方、つまりは「自衛権の存在」に関する政府統一見解を、合格点が取れる程度に理解しているか。言わぬが花だろう。


 憲法は第一義的には国民のためにある。憲法学者や、いわんや政府の法解釈機関(内閣法制局)のために、ではない。ところが、国の存亡に関わる第9条、わけても自衛権存否の問題は、憲法学者や内閣法制局の水先案内なしでは国民は理解ができない。この状態は明らかに望ましくない。自衛権の存在は、少なくとも平均的な文章読解力を持つ国民が、その条項を読んですんなり理解できるよう記述されなければならない。

 近時、政権党たる民主党は別だが、大小の政党や多くの団体が競うように憲法改正案を発表した。そのほとんどがわが国は「自衛権を保有する」旨を謳っている。が、国連憲章により自衛権は国家「固有の権利」なのだから、その必要は本来ない。ただ、日本には、この問題を憲法自体でなく憲法解釈によって切り抜けてきたという、積年の悲しい業がある。

 各種の憲法改正案がわざわざ自衛権保有を謳うのは、この業のゆえであり、いわば一種の傷痕である。だが、傷痕をことさら目立たせるのはよくない。傷痕を小さく、国際常識に立つ姿勢を明示することこそが望ましい。(させ まさもり)














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