ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

アナベラ Annabella (2)

2015-09-20 | 女優
 アナベラは、本名をスュザンヌ・ジョルジェット・シャルパンティエといい、1907年7月14日、パリ(9区)で生まれた。日本の映画資料では(古いフランスの紹介記事をもとにしたのだろうが)、ずっと1910年、セーヌ県ラ・ヴァレンヌ=サン・ティレール生まれ、となっていたが、最近のフランスのデータを見ると、上記のようになっている。生年に関しては、女優にはよくあるように、3歳ほどサバを読んでいたのかもしれない。生地についても、生まれて間もなく、両親がパリからその南東の郊外にある閑静な村ラ・ヴァレンヌ=サン・ティレールに引っ越したため、アナベラはここで育ったということだ。
 アナベラは1996年に亡くなったが、その10年後に、アナベラの長年の知人でもあったジョゼ・スリランという人がアナベラのドキュメンタリー映画を製作し、テレビで放映され、その時にデータが完全に訂正されたようだ。ジョゼ・スリランは、アナベラの一人娘アンの協力も得て、2010年にインターネットでアナベラの公式サイト「アナベラ、心はふたつの岸辺に」ANNABELLA, un Coeur entre deux rivesを作成しているが、これが現在アナベラに関する最も確実な資料である。これから私が書くことは、主にこの資料を参考にしているが、アナベラの個人的なことに関しては書かれていないことも多々あり、その辺はインターネット・ムービー・データ・ベースのアナベラの経歴などを参考にした。(キネマ旬報社の「映画人名事典」のアナベラの項目は間違いが多く、信頼できない。その他の日本の映画書籍のアナベラについての記述もこれに基づいているので同様である)

 アナベラの誕生日は7月14日で、フランスの革命記念日、つまり日本でパリ祭と呼んでいる日である。パリ祭というのは映画『巴里祭』の邦題(輸入配給会社の東和商事の社長夫妻・川喜多長政と川喜多かしこが付けたという)から始まった呼び名で、この映画の原題は『7月14日』(フランス語で「カトールズ・ジュイエ」)である。フランスでは最も重要な国民の祝日で、パリだけでお祭りをするわけではない。
 アナベラの誕生日が7月14日で、映画『巴里祭』で一躍大スターになったというのは、どうも出来すぎた話なのだが、戦前からアナベラは巴里祭の申し子のように言われてきたので、信じることにしたい。アナベラの公式サイトでも、生い立ちのところで、「革命記念日と同じ誕生日が奇しくも26年後に彼女の映画のタイトルになった」とある。『巴里祭』が撮影されたのは1932年の後半なので、正確にはアナベラが25歳の時だった。もっと若いかと思ったが、意外に年がいっていたのにはいささか驚いた。

 アナベラの父ポール・シャルパンティエは、《ジュルナール・デ・ヴォワヤージュ》(旅行ジャーナル)の発行元の社長で、フランスでボーイ(ガール)スカウト活動を根づかせることに貢献した人であった。母のアリスはコンセルヴァトワールの音楽科で学び、二等賞をとったほどのピアニストだった。ショパンの演奏が得意で、家では一日中ショパンを弾いていたという。叔父はオデオン座の俳優、二人の叔母もコメディー・フランセーズの有名な女優だった。
アナベラは、子供の頃からこうした文化的家庭環境に恵まれ、しばしば父に連れられて仲間のスカウトたちとキャンプ旅行を楽しみ、また、パリでは一流劇場でクラッシック音楽や演劇を鑑賞しながら育った。『巴里祭』の貧乏な下町娘とは程遠いような、活発かつ芸術好きなお嬢さまだったのだ。
 アナベラの父は旅行を仕事にしていたため写真撮影を好み、娘の写真もたくさん撮った。その写真がたまたま映画監督のアベル・ガンスの目に留まり、彼が手がけていた無声映画の超大作『ナポレオン』に彼女を出演させた。若き日のナポレオンに恋する乙女ヴィオリーヌの役であった。これがアナベラの映画デビューになるのだが、ガンスの『ナポレオン』は1924年6月に撮影が開始され、1927年に完成するまで3年かかっているので、アナベラがいつ頃この映画に出演したかは不明である。1925年から1926年までの間だと思うが、アナベラが18歳か19歳の頃であろう。前回書いたように、アナベラという芸名はアベル・ガンスが付けたものである。
『ナポレオン』のオリジナル版は12時間に及ぶものだったらしいが、1927年、パリのオペラ座で封切られた時は約5時間で、トリプル・エクラン(三つのスクリーン)に映写され(シネラマの先駆)、大変な話題になったという。一般公開時には3時間半に短縮されたため、前半でアナベラの出るシーンはほとんどカットされてしまったようだ。
 翌27年、ジャン・グレミヨン監督の『マルドンヌ』に出演。アナベラは、この映画の製作者兼主役で舞台俳優としても著名だったシャルル・デュランと知り合い、その後彼に師事し、演技を学んだという。
 1928年、オペレッタ映画『三人の若い裸婦』に出演、タイトルにもなっている若い裸婦の一人をやっている。興味深いことに、この映画がなぜ作られたかと言えば、同名のオペレッタがパリの劇場《ブフ・パリジャン》で大ヒットし、1年以上のロングラン(1925年暮~1927年春)を記録したからで、これにはジャン・ギャバンの父(芸名ギャバンという)と妻のギャビー・バッセがずっと出演していて、兵役を終えたジャン・ギャバンも途中から出演している。もちろん、ギャバンが映画デビューする前である。ギャバンの父は映画の方にも出演していたというから、アナベラはギャバンより前に父親と共演していたことになる。
 これまでのアナベラ出演作3本はすべて無声映画である。

 日本の映画資料(キネマ旬報社の「人名事典」など)では、その後、コンセルヴァトワールでジョルジュ・ルロワの教えをうけ、1929年、卒業試験に失敗してファッションモデルになろうとしたと書いてあるが、これは本当かどうか不明である。アナベラの学歴も分からないが、コンセルヴァトワールに在籍したというのもフランス側の資料には見当たらないのだ。
 アナベラが初めて出演したトーキー映画はドイツで作られた『バルカロール・ダムール(愛の舟歌)』(カール・フローリッヒとアンリ・ルッセル監督、1930年)という作品である。主演はシャルル・ボワイエで、アナベラの名前はクレジットされ、ボワイエの妹役だったようだ。
 1929年から30年にかけてフランスでもトーキー映画が続々と作られ始めるが、アナベラは、1930年公開作品に4本出演している。前々回、クレールの『巴里の屋根の下』(1929年製作)にアナベラが顔を見せていることを書いたが、クレジットに名前はない。台詞もなくエキストラのような役だが、クレールがキャメラ・テストでもするつもりだったのかもしれない。
 アナベラがクレールの『ル・ミリオン(100万)』で準主役の踊り子に抜擢されるのは、この1年後で、1930年末のことだ。主役は人気俳優のルネ・ルフェーブルで、パリのモンマルトルに住む貧乏画家ミシェル、アナベラは彼のフィアンセでオペラの踊り子ベアトリスである。ルフェーブルの買った富くじが100万フラン当たるのだが、券を入れた彼の上着をアナベラが警察に追われた泥棒にあげてしまい、ここから上着をめぐって騒動が巻き起こるといったドタバタ喜劇であった。『ル・ミリオン』はYou Tubeに数分間だけアップされているのでそれを見たが、面白そうな映画である。『ル・ミリオン』は、1931年4月フランスで封切られ、日本では同年9月に公開されている。
 ここからアナベラはスター女優への階段を一気に駆け上り、『巴里祭』でスターの座につく。『巴里祭』のフランス封切りは1933年1月であり、その後ヨーロッパ各国で公開され、日本では同年4月に公開されている。日本では『ル・ミリオン』でアナベラが初めて注目され、『巴里祭』でその人気は爆発したが、この2作品の間にアナベラの出演作は1本も公開されず、『巴里祭』の後、6月にアナベラ主演の『春の驟雨』(原題「マリー」ハンガリー人ポール・フェジョ監督、1932年)が公開され、これがまたアナベラ人気をあおったようだ。『春の驟雨』は『巴里祭』より前に作られた映画で、輸入配給会社の東和商事が日本でのアナベラ人気にあやかり、急いで買い付けて公開したようだ。ハンガリー・ロケで撮られ、自然の美しさと哀愁に満ちた名作で、アナベラの可憐さが際立っていたという。是非、見たい映画であるが、もう見ることができないかもしれない。

 フランスやアメリカのインターネットでいろいろ調べてみると、アナベラの実像が輪郭だけ掴めてきた。アナベラ・ファンだと言いながら、これまでまったく知らなかったことが分かってきたので、書いておこう。多分、日本人のアナベラ・ファンの99パーセント以上が知らなかったことだと思う。
 まず、アナベラの一人娘のアンが、1928年4月生まれだということである。彼女はアン・パワー=ヴェルナーという名で通っているが、アンは、1939年にアナベラがアメリカの映画俳優タイロン・パワー(第三の夫)と結婚した時、養女になり、アン・パワーとなった。そして1954年、アンはオーストリア出身の国際俳優オスカー・ヴェルナーと結婚。1968年離婚し、以後アメリカのニュー・ハンプシャー州に住んでいたが、2011年のクリスマスに癌で死去している。その追悼記事を読んで、彼女の生年が分かった。
 また、インターネット・ムービー・データ・ベースでは、アナベラの初婚が1930年とあり、夫になったのはアルベール・ソーレという作家(不詳)で、1932年に死別したと書いてある。アンはこの二人の間にできた娘だとしているが、根拠不明である。別の記事では、アナベラはアルベール・プレジャンの愛人で、娘のアンはプレジャンとの間に出来た子だと書いたものがあったが、これも根拠不明である。単なる噂話なのかもしれない。アルベール・プレジャンは、前回、女好きのおじさん臭い俳優と述べたが、1920年代後半から30年代まで、フランスで最も人気のあった男優の一人であった。彼は第一次世界大戦で活躍し勲章までもらった飛行士で、芸能界入りした後、ルネ・クレールの処女作『眠るパリ』(1923年)に出演し、映画俳優としても注目されるようになった。1894年(または1893年)生まれで、『巴里の屋根の下』に出た時は35歳だった。プレジャンは女にもてそうだし、アナベラも恋多き娘であったから、二人の間に恋愛関係があっても不思議はないが、今更どうでもよいような気もする。
 いずれにせよ、アナベラは、21歳で娘を生んで未婚の母となり、23歳で結婚し、2年後には夫に先立たれ、25歳の時に4歳の娘を抱えた未亡人になっている。ちょうどこの頃、『巴里祭』に出演したわけで、私はこれを知って、大変驚いた。アナベラはスターへの道を歩んでいった一方で、個人的に大変な人生を送っていたのだ。

 アナベラの第二の夫は、フランス人俳優のジャン・ミュラであるが、彼は無声映画時代からの二枚目スターだった。1888年生まれなので、アナベラより19歳も年上である。ジャン・ミュラは、ジャック・フェデール監督の『女だけの都』(1935年)で、スペイン軍隊長の公爵を演じ、市長夫人のフランソワーズ・ロゼーに接待される役をやっている。アナベラは1931年『パリ・地中海』でジャン・ミュラと初共演し、親しくなったようだ。この頃、ジャン・ミュラは43歳で男盛りだった。アナベラは、他の作品でもミュラと共演し、1934年10月に彼と結婚した。ギャバンと『ヴァリエテ』で初共演し、続いて『地の果てを行く』で再共演するのはこのすぐ後である。
 1935年から37年までは、アナベラが映画女優として最も安定していた時期であった。『戦ひの前夜』(マルセル・レルビエ監督)で1936年度ヴェネチア映画祭女優賞を受賞し、また、イギリス初のテクニカラー映画『暁の翼』(ハロルド・シュスター監督 1937年)ではヘンリー・フォンダの相手役を務めている。ハリウッドの20世紀フォックス社がアナベラに注目し、契約を結んだのはこの時であった。1938年、アナベラは渡米し、『男爵と執事』(ウォルター・ラング監督、共演ウィリアム・パウエル)と『スエズ』(アラン・ドワン監督)に出演。『スエズ』で共演した二枚目スターのタイロン・パワーと恋におちる。タイロン・パワーは1914年生まれで、アナベラより7歳年下だった。同年秋にフランスへ帰り、マルセル・カルネの『北ホテル』に出演し、12月、ジャン・ミュラと離婚を済ますとまた渡米し、1939年4月にタイロン・パワーと電撃結婚した。


『スエズ』 アナベラとタイロン・パワー

 以後、アナベラはタイロン・パワーの妻としてハリウッドに居住し、第二次大戦前後の9年間をアメリカで過ごした。数本のアメリカ映画に出演し、またブロードウェイの舞台にも立っている。しかし、タイロン・パワーとも破局をむかえ、46年に離婚。48年、フランスへ帰り、数本の映画に出演したが、50年、スペイン映画に2本出演して引退した。
 その後、スペイン国境に近いバスク地方のサン=ペ=シュル=ニヴェルに住み、余生を静かに暮らし、1996年9月2日に死去。享年89歳であった。


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