地球浪漫紀行☆世界紀行スタッフの旅のお話し

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バックパッカー入門③ モスクワにて

2009年02月18日 22時28分04秒 | バックパッカー入門

[ つづきです ]

サマルカンドからモスクワ・ドモシェドモ空港への飛行機での機内食も
あいかわらず、ソ連産のガスの入ったしょっぱいミネラルウォーターが
ミニグラス一杯ときゅうり一切れと堅い黒パンだった。

夜、モスクワに着いてみれば、お約束どおり。
迎えはおらず、1時間もすると空港の電気は消えてしまった。
こんどは軍人でなく警官がやってきた。
例のごとく「お前らここで何をしているんだ!」と怒鳴っている。
説明すると今度はどこかへ行ってしまった。
暗闇の中、男3人で唯一電球があるところで待った。
もう一時間くらいして、インツーリストの係員が迎えにきた。
深夜に働かされて不機嫌そうだ。
遅れた説明はなかった。

夜2時頃、モスクワ・インツーリストホテルに着いてみると、部屋は無いという。
一時間ほど待たされて、隣のホテル・ナショナルに泊まることになった。
トリプルは無いので、ビーチチェアのようなパイプベッドを使えという。
夜中の3時を回っていたので、それでも気持ちよく寝た。

赤の広場側の角部屋だったし、バスタブもついていたので、迎賓館のように感じられた。
我々の中では、この部屋はレーニンが執務した部屋に違いないということになった。

朝食付きで手配してもらっていたので、
翌朝、遅めの朝食を取ろうとレストランに下りると、
あなた方は朝食は含まれていないと言う。
こんなくだらないことでも20分以上ももめて、
黒パンとバターと紅茶の朝食にありつけることになった。
おまけに何だかわからない紙に何箇所もサインさせられた。
白パンが食べたかったハイジの心境になってきた。

味覚に飢えてきていたので、モスクワ市内ではアイスクリームを探して歩いた。
マロージェノエ(アイスクリーム)の看板はすぐに見つかるが、どこも売り切れだった。
結局ありつけなかったが、歩きつづけていると向こうからフラフラしながら、
ソ連人とはあきらかに服装が異なる白人が、大きな荷物を抱えてやってくる。
船で同室だったサンフランシスコ大の学生だった。
私たちは簡単な挨拶でかわそうとしたが、彼女は満面の笑みで近づいてきた。
久しぶりに英語が通じる人間に出会ってよほどうれしかったらしい。
(日本のようにはいかないってことが、わかっていないところがアメリカ人ですね。)
今日までどんな酷い目にあってきたのかを延々と語っていた。
確かに一週間前と比べると衰弱しているように見えた。
目の前でタバコをくゆらせても、もう怒り出すことはなかった。
とりあえず再会を祝して、ベリョースカで買ったシャンパンスカヤ(ソ連製の白スパークリングワイン)を開けた。

モスクワの印象は、どこに行ってもレーニンの肖像画ばかり。
たまに違うバリエーションがあると、マルクス・エンゲルス・レーニンの三人揃い踏み。
赤の広場では、金日成バッジを着けた軍服姿の北朝鮮観光客ばかりが目に付いた。
予想通りすぎて面白くない。

批判するつもりでやってきたが、ブレジネフ時代の欺瞞の構造を経て、
食糧を始めとした物資がなく、同情的にすらなっていた。
大江が人気だと聞いていたが、本屋でも見かけなかった。
(嫌いなので買う気はないけれど。)
記念にロシア民謡のロシア語歌詞集を買ってかえった。
もちろんロシア語はわからないが本棚に並べておくためだ。
カチューシャだけロシア語で歌えるので、いろいろ知ったかぶりをするためである。

タシケントで買ったチュビチェイカ(ウズベク帽)以外にお土産がないので、
安っぽいレーニン・バッジとマルクス・エンゲルス・レーニン・バッジをたくさん買った。
(こんなもの作る余裕があるなら食糧品を作れ!)
子供だましのその作りに帰国後バカバカしくなって捨ててしまった。

鉄の規律の国かと思っていたが、ソ連は全てにおいて「ぐうたら」な国だった。
嫌いな映画「レッズ」や大好きな映画「ドクトル・ジバゴ」のような力強さは
どこにもなかった。

夕方になると、時報がわりに街角に流れる「モスクワ郊外の夕べ」が、
薄暗いモスクワにさらにアンニュイな空気をもたらし、メランコリックな気分にさせた。

2泊3日のウィーン行き国際列車に乗り込み、モスクワを後にする。
シベリア鉄道には食堂車があったので、てっきり今回もそのつもりでいた。
シベリア鉄道で食べたビーフストロガノフが今回の唯一のご馳走だったので
また楽しみにしていた。金ならある!

そんなに時間もかからぬうちに、この列車には食堂車や売店はなく、
途中駅でもシベリア鉄道のようにホームでおばあさんたちがピロシキを売ってもおらず、
乗客たちは黒パンやきゅうりを持ち込んでいることに気がついた。
旅行社で教えてくれても良さそうだが・・・
訊かない私たちが悪いのか?
マルボロと交換に、親切な?車掌さんからビスケットと紅茶を分けてもらい飢えを凌いだ。

20両編成の列車はいっぱいだった。中に一人、日本人がいた。
ソ連政府の招待でパミール高原の共産主義峰に登ってきたという。
これからヨーロッパ・アルプスへ行くという。高名な登山家らしい。
言葉ができずに困っていたうえに、この人も食糧を持っていなかった。
いくら本人の希望で欧州に抜けるとはいえ、招待しておいてこれはないだろう?!

車窓のウクライナの景色は見事だった。
ソフィア・ローレンの「ひまわり」をイメージしていたが、
映画「戦争と平和」のオープニングシーンのような、さわやかな緑の丘と森の間に、
葱坊主の教会の屋根が点在し、一日眺めていても飽きない。

空腹もあってデッキでタバコばかり吸っていたので、ずっと外を眺めつづけている
ボロを着たチェコ人の小さな女の子と仲良くなった。
そのうちに彼女の親父がでてきて、私の唯一の100円ライターは取り上げられてしまった。
親父はガッツポーズをしていた。女の子もうれしそうだったので、よしとした。

列車は夜間何度も停車して、ガッチャンガッチャンと作業をしていた。
ソ連(ロシア)とヨーロッパでは軌道の幅が異なるのでその調整だ。
(運転手が列車ごと亡命しないように、という説があったが本当なのだろうか?)
ソ連・チェコ国境では暴力的な取調べを受けた。
カメラまで放り投げておいて、検査が終わるとシーユーアゲインと言い捨てていった。
レーニン信者ではないほうの同行者は、二度と来るかと怒っていた。
3日目の昼前、列車はウィーンに到着した。
ホームに下りて驚いた。オーストリアに入ってから列車はたった一両で走っていたのだ。
乗客も我々3人と登山家だけだった。

いよいよバックパッカーの始まりだ。
駅のインフォメーションで安宿を紹介してもらう。
なんと1を訊くと、2も3も教えてくれるではないか!
ソ連では10訊ねて、やっと1つ教えてくれるぐらいだったのに。
インフォメーションの親切な天使のようなお姉さんに恋をしそうになった。
あとで考えれば通常の対応であるのだが。
[ 次回、バックパッカー編につづく ]
(照沼 一人)


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3 コメント

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お久しぶりです (コロスケ)
2009-02-18 09:51:29
ほんとおもしろいです!
続き楽しみにしています
返信する
おもしろくて。。。 (ankosuta)
2009-02-18 10:40:52
社長、面白くて一緒に旅行してるように情景が伝わります。
返信する
Unknown (照沼)
2009-02-18 20:21:29
わしじゃ!さん
コロスケさん(お久しぶりです)
アンコスタさん

コメントありがとうございます。
今、皆忙しくてブログが書けないため
昔話を書いています。

昔話って、どうしてもくどくなるので
ご容赦ください・・
返信する

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