続・言語が先か?認識が先か?
現代社会では、現実的は、「その人」の認識誕生以前に言葉は存在している。
それでも、認識・誕生(頭脳活動開始)後の「その人」の頭脳内に「言葉はない」。
誕生時には、言葉もなく、言葉を発音可能な声帯もない、のが人類であろう。
現代社会・外界と「その人」の内界を並べた時には、「言葉が先で認識が後」。
それでも、「その人」の内界だけなら、「認識が先で言葉が後」。
現実の生活の中で、集団の中で、「ある人」が「ある感情」を体験して、
それを大勢の人々が「楽しい」と表現していたから、「楽しい」という言葉を修得。
仮に如何なる時も、全く感情変化のない人物がいたなら、
その人は、周囲の感情表現変化から言語を修得するだろうか?
その時の修得法は、自分の感情変化・様子ではなく、
周囲の人々の顔色・表情・変化・様子から感情表現を修得するのだろう。
ここで大発見!
感情が未熟の赤子・乳幼児は、周囲の人々の顔色・表情・言動…から言語の修得?
母親が楽しいと感じての身体変化を見て彼らは「楽しい」(感情自覚はないが…楽しい感)
これが、師範の説いている「認識の原風景」なのだろうか?
う~ん!それは言葉以前の感情表現さえも、周囲の人々の変化から修得…なのだろう…
周囲が笑うから、赤子・乳幼児は、笑顔を修得!
親が、愛情を込めて子供を叩くから、子供も友達を愛情込めて「叩く」。
認識は誕生しても、
その表現様式が未修得の赤子・乳幼児は、
相手の行動様式を修得していくのだろう。
大人の一般社会では、一般的に「愛情を込めて相手を叩く」という行動様式はない。
それでも…周囲から、愛情込めて叩かれた子供なら、ありえるだろう…
また、そのような子供なら、先生から愛情を込めて叩かれた時、その先生の愛情が分かる、のだろう。
「愛情から叩く」事と、「叱る為に叩く」の違いとは?
いつも忘れ物をしてばかり子供、いくら口で注意しても忘れる子供。
忘れ物は、「当人が困れば、なくなる」と言われている」…
しかし、幼過ぎて「忘れ物で困る!とは感じない場合…
昔なら、廊下でバケツ、手を定規で叩く…
「体罰」が嫌!痛いのが嫌!」(困る)…
家に帰っても痛みを想い出し「忘れ物しない注意」…
この時、この体罰に子供が、愛情を感じられれば…
「忘れ物で叱る」とは、
忘れ物は先生が困る。
その子に教えられない!
忘れ物は精神が弛んでいる…
子供の忘れ物が、先生の不都合だから、
バケツ・定・規体罰…ここに愛情はない!のだろう…
また中学校で教師が生徒に体罰や暴言をしたということで処罰されたという報道が昨日もありましたね。
義務教育というのは子供が実社会に出ていくための教育をする場所でしょうし、その現実社会では「懲戒」というものは有りますけど「体罰」だとか「暴言」というものは社会的に認められていませんね。
子供が誤った方向に行かないための「危機意識」を持つための教育の一つとして、現実社会の「懲戒」の子供版として何らかの「戒(いまし)め、懲(こ)らしめ」を与える方法をプロの教育者たちは共有しているのではないかと想像します。
もしも私が学校教員を目指したならば、先達が築いてきた「教育法」というものに学ぼうとすると思いますね。
私も父親に殴られ叩かれて育った昭和の人間ですけど、現実の大人社会での「懲戒」は「叱責」に始まって「減給」だとか「免職、クビ」だとか有りますけど「殴る、叩く」という処罰は無いですね。
そこを「愛の拳骨」みたいな感じで正当化したがる自由びとは時代が=周囲が見えていないのではないかと私には映ります。
理屈をつけて相手を殴りたがる詭弁家の類いだ、と。
弥勒
・コメント
私には子供がいませんから子供の教育の実際の所は分からないことが多いですけど。
また中学校で教師が生徒に体罰や暴言をしたということで処罰されたという報道が昨日もありましたね。
義務教育というのは子供が実社会に出ていくための教育をする場所でしょうし、その現実社会では「懲戒」というものは有りますけど「体罰」だとか「暴言」というものは社会的に認められていませんね。
子供が誤った方向に行かないための「危機意識」を持つための教育の一つとして、現実社会の「懲戒」の子供版として何らかの「戒(いまし)め、懲(こ)らしめ」を与える方法をプロの教育者たちは共有しているのではないかと想像します。
もしも私が学校教員を目指したならば、先達が築いてきた「教育法」というものに学ぼうとすると思いますね。
私も父親に殴られ叩かれて育った昭和の人間ですけど、現実の大人社会での「懲戒」は「叱責」に始まって「減給」だとか「免職、クビ」だとか有りますけど「殴る、叩く」という処罰は無いですね。
そこを「愛の拳骨」みたいな感じで正当化したがる自由びとは時代が=周囲が見えていないのではないかと私には映ります。
理屈をつけて相手を殴りたがる詭弁家の類いだ、と。
↑
弥勒お宅って、悲しい言うか…哀れと言うか…何とまあ~
何でも分かったつもりお宅ですね♪♪♪
以下の言説から痛感しました。
>そこを「愛の拳骨」みたいな感じで正当化したがる自由びとは時代が=周囲が見えていないのではないかと私には映ります。
理屈をつけて相手を殴りたがる詭弁家の類いだ、と。
↑
このように感じるのは、
子育て・子供の将来を考え・思っての躾や教育的体験の欠如からでしょうね…
教員なり立ての私ならいざ知らず…
今の私に「愛の拳骨…正当化」は皆無です。
言うなれば「体罰は劇薬の如し」ですね…
教師・指導者として超優秀な者が駆使すれば、
医者が患者の治療の為に使うモルヒネのような効果が期待可能です。
彼らの体罰は、当事者同士の間では、「体罰」として反映する事はなく、
ただ…第三者が客観・現象的に見たら「体罰」と言うでしょうがね…
しかし、それを素人・未熟な者が劇薬を使えば、相手を殺してしまいます。
「体罰も然り」…この場合は「精神的な死」ですが…
医者でも、モルヒネの量を間違えて患者を死なせたら「殺人」。
しかし、適切な量で痛みの緩和で結果的に回復させたら「治療」です。
この「殺人」と「治療」の違いは、モルヒネの使用ではなく、タイミングと分量の違いです。
本来の「体罰」も同じようなモノでした…
現代社会では、未熟と言うか…現代的に成熟した教師・指導者ばかり、
だから、彼らによる体罰の効果はゼロ…
どころかマイナスで相手の精神を痛めつけて自己満で終わっているのです。
因みに、私は息子に手・足を使った体罰的な躾・教育は皆無でした。
一度、家内が、いう事を聞かない息子を叩こうとした時、私は止めました。
親子の間で、子供に身体に直接痛めつける体罰は不要だと考えます。
体罰ではなく、彼ららとって不都合な事が発生するような事実を与えます
以前、小3の頃の息子が嘘をついて、「持ち出し・外遊び禁止にしていたゲーム」を持ち出した事が発覚した時の事です。
私は、全く叱る事なく、息子に、「…約束を破って・嘘ついて…信じられない…」と言って、息子と口を聞く事を止めました。
二、三日経って、息子の方から謝って来たので…話す事を始めました。
当然、家内には「何とか反省させて!」と頼みましたが…
この場合、私が叱る・体罰…より、もっと息子にとって都合の悪い事実を突きつけたのです。
しかし、この方法が可能だったのは、当時の仕事が塾講師のバイト、
時間的余裕があり、頻繁に息子と遊ぶ機会が持てていたから…です。
息子にとって、遊び相手の私と絶好では、都合が悪い事だったから…でしょうね。
勉強をやろうとしない子供には、勉強しない事が、
当人にとってマイナス効果になる事実を突ける事。
過去なら、勉強しない⇒叩かれて痛い!
痛みは嫌だ…⇒だから勉強する!
現代では、勉強しない⇒体罰=怪我⇒勉強どころではない!
または、体罰⇒教育委員会⇒教員に指導が入る…
体罰と勉強するが、結び付かない現代です。
体罰の効果が期待不可能は、現代社会では、体罰に教育効果ゼロ!
なので、体罰の賛成・反対なんて、どうでもいいのです。
例え、体罰容認であっても、今の私は、
体罰効果が期待できない児童・生徒には体罰はありえません。
この弥勒お宅には、上記のような発想・思考・思惟・思索…が、できないようですね。
この「弥勒お宅」が、私にずっと絡んでいる「お宅」と同一人物なら、
本当に全く進歩・進化・変化・運動のない、非弁証法的「頑固お宅」ですね。
特に最近は「教育とは?」という記事もアップして、これから教育について書いていきたいなんて事を述べているから、その四半世紀以上の教育経験からの成果を見ることが出来るかとも想像したのですけれど、案の定、想定通りの期待はずれでしたね。
>弥勒お宅って、悲しいと言うか…哀れと言うか…何とまあ〜
>何でも分かったつもりお宅ですね
意外というか、想定どおりというか、内容が無く相手を誹謗中傷するだけの言葉の羅列ですね。まあ、何も期待していませんけどね。
>「体罰は劇薬の如し」ですね…
>教師・指導者として超優秀な者が駆使すれば、医者が患者の治療の為に使うモルヒネのような効果が期待可能です。
これも「自由びと」という阿呆極まりない玄和関係者の発言としては想定内の「言いそうなこと」ではありますが、プロの学校教育関係者としては「あってはならない考え」ではないかと思いますよ。というのも学校教育法第11条で体罰は禁止されているからです。自由びとの言う「超優秀な教師・指導者」というのは法令遵守せず、関係法規を破りながらも指導の成果は出すという「理想像、イデア」なのかも知れませんけど、それはおそらくは「覚醒剤が用い方によっては治療効果を発揮する」として使っていて逮捕された者と同じ類いの考えだと思いますよ。
ちなみに南郷先生なんかも道場で体罰は使っていませんでしたから「超優秀な教師・指導者」では無いことになりますね、「自由びと理論」からすれば。
私がここで述べている「体罰」というのは勿論、世間で「体罰」だと認識されている「殴ったり蹴ったり」の他者の肉体に加撃して身体構造を損傷させるものですから、それは社会的には「暴行」として理解され、警察に通報したならば加害者は連行されて取り調べの上、指紋を取られて書類送検されるものですよ。
それに対して、もっと広義の「心罰」に対する「体罰」ということで考えたなら、罰則として腕立て伏せだとかスクワットだとかを千回とか一万回だとかやらされるのは「暴力」ではありません。「校庭100周走らせる」というのも「心身ともに苦痛を感じる」かも知れませんけど、指導者が生徒に腕立て伏せやスクワット、ランニングをやらせることは当たり前のことで「暴力行為」では無いですね。
まー、それでも人によったら「暴力ではないが、虐待だ」なんて思う人もいるかも知れませんけどね。
そうした、私の言葉で言ったなら「心身的な」、南郷先生的な言い方をしたなら「認識と実体」という辺りからの「教育論」というものを私は想像したのですが、自由びとには無理でしたね、能力外のことですから。
まったく、悲しく哀れな実力ですよ、自由びとお宅はw
ちなみにモルヒネは劇薬では無いと思いますよ、私は医師ではないので詳しくは有りませんけど。モルヒネというのは緩和ケアなんかで使われる「疼痛緩和」のための医療麻薬で、副作用として吐き気だとか依存症だとかあるみたいですけど死に至ることは先ず無いみたいですから。
自由びと思考だと、おそらくは体罰の「打撃=激しい」というイメージと、「劇薬=激しい効果、著しい効果」のイメージとが「げき」という発音で脳内リンクしたのでしょうけど、劇薬というのは毒薬と共に「どのくらいの量で死に至るか」ということで定義されているみたいですから、モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。
自由びとが息子の教育に「体罰」ではなく「口をきかない」という「心罰」を使ったというのは一考の価値があるとは思いましたね。というのは「小学校3年生」という年齢ならば、それが可能で有効なのかな?という専門家の意見を聞いてみたく思ったのですね。
この自由びとが使った方法は一つの「心理学的な技術」で「嫌悪条件づけ」というようですが、これは思春期には使えないでしょうし、使って良いものでも無いと思われましたよ。
弥勒
・コメント
自由びとは教員免許を所持していて「専門分野が学校教育」だというから、自由びとの専門に寄せて発言したつもりなんですけどね。
特に最近は「教育とは?」という記事もアップして、これから教育について書いていきたいなんて事を述べているから、その四半世紀以上の教育経験からの成果を見ることが出来るかとも想像したのですけれど、案の定、想定通りの期待はずれでしたね。
>弥勒お宅って、悲しいと言うか…哀れと言うか…何とまあ~
>何でも分かったつもりお宅ですね
意外というか、想定どおりというか、内容が無く相手を誹謗中傷するだけの言葉の羅列ですね。まあ、何も期待していませんけどね。
>「体罰は劇薬の如し」ですね…
>教師・指導者として超優秀な者が駆使すれば、医者が患者の治療の為に使うモルヒネのような効果が期待可能です。
これも「自由びと」という阿呆極まりない玄和関係者の発言としては想定内の「言いそうなこと」ではありますが、プロの学校教育関係者としては「あってはならない考え」ではないかと思いますよ。というのも学校教育法第11条で体罰は禁止されているからです。自由びとの言う「超優秀な教師・指導者」というのは法令遵守せず、関係法規を破りながらも指導の成果は出すという「理想像、イデア」なのかも知れませんけど、それはおそらくは「覚醒剤が用い方によっては治療効果を発揮する」として使っていて逮捕された者と同じ類いの考えだと思いますよ。
ちなみに南郷先生なんかも道場で体罰は使っていませんでしたから「超優秀な教師・指導者」では無いことになりますね、「自由びと理論」からすれば。
私がここで述べている「体罰」というのは勿論、世間で「体罰」だと認識されている「殴ったり蹴ったり」の他者の肉体に加撃して身体構造を損傷させるものですから、それは社会的には「暴行」として理解され、警察に通報したならば加害者は連行されて取り調べの上、指紋を取られて書類送検されるものですよ。
それに対して、もっと広義の「心罰」に対する「体罰」ということで考えたなら、罰則として腕立て伏せだとかスクワットだとかを千回とか一万回だとかやらされるのは「暴力」ではありません。「校庭100周走らせる」というのも「心身ともに苦痛を感じる」かも知れませんけど、指導者が生徒に腕立て伏せやスクワット、ランニングをやらせることは当たり前のことで「暴力行為」では無いですね。
まー、それでも人によったら「暴力ではないが、虐待だ」なんて思う人もいるかも知れませんけどね。
そうした、私の言葉で言ったなら「心身的な」、南郷先生的な言い方をしたなら「認識と実体」という辺りからの「教育論」というものを私は想像したのですが、自由びとには無理でしたね、能力外のことですから。
まったく、悲しく哀れな実力ですよ、自由びとお宅はw
↑
成る程…分りました。
私とお宅では、体罰の概念が゛違っている事に…
私の体罰とは、「教育的効果を期待しての被指導者への直接的な身体的刺激」ですかね。
そもそも…私の中では、被指導者を殴る・蹴るは、
教育的効果を期待しての「体罰」ではなく、指導者の被指導者の身体へ直接的な感情的表現です…
これが、強烈過ぎると「暴力」てすかね…
これじゃ~お宅に、私の言説の内容が、誤解され・理解されないのは、当然ですね。
昔なら、宿題忘れたら「廊下に立たされた」…普通の指導でした。しかし今は体罰です。
一説によると…学習と直接無関係な刺激だから…らしいです。
以下のスクワット…にしても、指導者との信頼感がない場合は、教師の立場を使った関節的・強制的な暴力ですね。
>それに対して、もっと広義の「心罰」に対する「体罰」ということで考えたなら、罰則として腕立て伏せだとかスクワットだとかを千回とか一万回だとかやらされるのは「暴力」ではありません。「校庭100周走らせる」というのも「心身ともに苦痛を感じる」かも知れませんけど、指導者が生徒に腕立て伏せやスクワット、ランニングをやらせることは当たり前のことで「暴力行為」では無いですね。
↑
は!>罰則として腕立て伏せだとかスクワットだとかを千回とか一万回だとかやらされるのは「暴力」ではありません。<とは…
↑
10、20回程度なら「指導」て゜しょうが…100回、1000回レベルなら、
身体直接的刺激によう体罰はなくても…
教師の立場・権力を使った無謀な要求ですから、
これはもう立派な間接的・陰険な「体罰」レベルですね。
そもそも教育について素人のお宅には、「教育的効果」も分からないでしょうね。
何故に、学校の教科学習が「勉強」なのか?
そもそも…「勉強」という概念とは?
商人が、モノをまけて売る事を「…勉強しまっせ!」なのか…
因みに、「教育的効果」には、直ぐに出る即効効果と時間がかかるジワジワ効果、があります。
体罰は、言うなれば、「即効」を求めてのモノですね。
>そうした、私の言葉で言ったなら「心身的な」、南郷先生的な言い方をしたなら「認識と実体」という辺りからの「教育論」というものを私は想像したのですが、自由びとには無理でしたね、能力外のことですから。
↑
「認識と実体」から、教育関係を捉えるなら、重要なのは、「信頼関係」ですね…
教師は児童・生徒を信じ、児童・生徒は教師を信じる。
そんな関係ですかね…
現代では、この信頼関係が、昔とは変質してしまっている、ようですね
・コメント
>体罰は「劇薬の如し」
>ちなみにモルヒネは劇薬では無いと思いますよ、私は医師ではないので詳しくは有りませんけど。モルヒネというのは緩和ケアなんかで使われる「疼痛緩和」のための医療麻薬で、副作用として吐き気だとか依存症だとかあるみたいですけど死に至ることは先ず無いみたいですから。
↑
劇薬に「モルヒネ」の例は、不適切でしたかね…
「モルヒネ」を使った理由、家内がすい臓がんの痛みの緩和が、少量の「モルヒネ」では無理になった時、
点滴で「モルヒネ」を入れるようになったら、意識がだんだんハッキリしなくなりました。
事前に医者からは説明を受けていましたが…ショックでしたね。
>自由びと思考だと、おそらくは体罰の「打撃=激しい」というイメージと、「劇薬=激しい効果、著しい効果」のイメージとが「げき」という発音で脳内リンクしたのでしょうけど、劇薬というのは毒薬と共に「どのくらいの量で死に至るか」ということで定義されているみたいですから、モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。
↑
私の劇薬とは、使い方が難しい薬、使い方によっては、強烈な副作用のあるモノ。
お宅って、
物事の思考法がマズイですよ。
水が「劇薬」なので゛はなく、その水の使用法・血管注射が殺人行為、なのでしょう。
普通人でも、人を殺せば殺人者。
人が殺人者ではなく、人を殺した人が殺人者。
水が劇薬なのではなく、水の使い方が、水を劇薬にした!
う~ん…そもそも…水は薬ではありませんね。
>自由びとが息子の教育に「体罰」ではなく「口をきかない」という「心罰」を使ったというのは一考の価値があるとは思いましたね。というのは「小学校3年生」という年齢ならば、それが可能で有効なのかな?という専門家の意見を聞いてみたく思ったのですね。
↑
短絡的思考!
息子の場合は、彼と私には信頼関係があったから可能だった。
私が口を聞かない…当然に息子と一緒に遊ばない。息子が話しかけても無視。
その事が、当時の息子にとっては、嫌な事・避けたい事、だから効果があった。
>この自由びとが使った方法は一つの「心理学的な技術」で「嫌悪条件づけ」というようですが、これは思春期には使えないでしょうし、使って良いものでも無いと思われましたよ。
↑
何を書いているのか…
息子の例は、「嘘をついた」・「父親を裏切った」…等が、息子自身に大きな不都合がありえる事を教えたのです。
この事の教育的効果が、どうかはわかりませんが…今でも息子は非常に正直…(みたい)ですね…
これは、この年齢の息子と当時の私だから効果が期待できたモノです。
息子以外の他人への教育手段にはなり得ないのは当然です。
言うなれば、私の息子限定の教育手段でかね…そんな事当たり前でしょうが…