褒め言葉として、「あの人は、人が変ったみたい」という表現をします。これらの「褒め言葉」は、その人の「何を見て」言っているのでしょうか? 他者を「敬う心」が、その人の「姿勢・表情・言葉づかい」として表面に現れているからです。
「あの人は、将来が楽しみだ」などう言われる根拠は、ここを指しています。ところが、この「敬う」ということには、「敬う対象」がなければなりません。
もしかしたら生涯、敬うべき対象を見つけ出せない人がいるかも知れません。これは不幸なことで、そのような人は生涯「器が伏ったまま」で終わる人になります。
また、「敬う」という心を備えるには、「学ぶ環境」がなければ身につくものでもありません。そこで、その手がかりとして、形の上から敬う心が起こるような「地ならし」が必要となります。それが広い意味での、「礼儀作法」です。
従って、「礼儀作法」を厳しく徹底しないところに、真の教育が出来るはずがないのです。「礼節」は学びの土台ですが、ここで一歩進めて「礼の本質」であるところの「敬う」ということについて考えてみましょう。
相手に対して、礼儀を正しくすることは、「服従とか、媚を売るとか、意気地のない人間に思われるのではないか」、といった感情を持つことは間違いです。
そもそも人間というものは、単なる理論だけで立派な人間と評価されるものではありません。理論が真に評価されるのは、その人の人格として「具体的な形に表れていること」が条件です。
従って、それぞれの環境の中で実践されなければ、「理論や知識」は、何ら「力」とはならないのです。
「自分自身の貧寒なことには気づかないで、自分の内容を豊富にしようとしないのは、その生命が既に動脈硬化症に陥って、その弾力性を失い、飛躍しようとする心も失っている何よりの証拠である。」 ・・・・・森信三の教授禄より・・・・・
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