夕風桜香楼

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西南戦争における旅団編成の複雑化

2019年01月30日 22時44分50秒 | 征西戦記考
 久々の更新。最近、あらためて西南戦争関係の資料を調査しつつ、勉強しなおしているところです。
 今回のテーマは、官軍の旅団編成上の特徴について。以前から個人的に関心が高い話題であります。




(『明治史要』所収「旅団表」)

 征討発令後、政府・陸軍は官軍の尖兵たる征討旅団を順次九州へ出動させた。
 この征討旅団の編成に際しては、後年の師団のように各鎮台を建制の指揮系統・部隊編制のまま出動させるのではなく、各鎮台及び近衛から兵員を大隊~中隊規模で抽出し、雑多に混成する方式が採用された。そのため、各旅団はおのおの原隊の異なる部隊の寄せ集めと化し、大きい旅団と小さい旅団とでは最終的な兵員数に数千人の差が生じるほどであった。また、旅団が見ず知らずの人員・部隊の寄り合い所帯となったことは旅団内の結束・連携に少なからず支障を及ぼし、さらには各部隊の戦歴の混淆・複雑化が戦後の論功行賞調査難航の原因となった事実も指摘されている。
 加えて、混成旅団方式は旅団の乱立・離合集散、それに伴う旅団号の錯綜など、官軍の戦争運営そのものにも少なからず影響を及ぼした。すなわち、本来なら独立単位としての運用に適さないはずの小規模な旅団が乱立し、短期間で他の旅団に整理編入されるというパターンが相次いだ(※1)ほか、そのような旅団改編に伴う整理番号のずれや曖昧な「別働」呼称などが旅団号を錯綜させ、各旅団の識別に支障を生ぜしめた(※2)のである。また、官軍の上層部内では往々にして増援部隊の配分先をめぐる紛争が発生した(※3)が、これも結局は混成旅団方式を通じて部隊の恣意的配分が横行したことに起因するものだったといえるであろう。


(旅団号の変遷図(『征西戦記稿』に基づき作成))

 官軍の旅団編成がこのように複雑化してしまった原因としては、おおむね次の4点が挙げられる。

①戦争運営システムの未成熟

 西南戦争時点の陸軍には本格的な対外戦争の経験がなく、大規模な部隊を動員・開進するような戦争運営ノウハウが著しく不足していた。そもそも当時の貧弱な装備・輸送・兵站基盤では、鎮台をそのまま後年の師団のように独立した戦闘単位として機動させることは根本的に不可能であったと考えられ、その意味では大規模戦争を見据えた動員計画自体が存在していなかった可能性も高い。もし仮に動員計画が存在したとしても、それは「極めて杜撰疎漏のものであったか、それとも西南戦争が予期以上に拡大したかであって、何ずれにしても動員計画の不備なるは掩うことはできない」(『明治軍制史論』)といわざるを得なかったのである。

②後方治安対策
 戦争勃発当時、国内の治安情勢はきわめて不穏であり、西郷隆盛の決起に呼応して全国各地で叛乱が連鎖するおそれがあった。そのため政府・陸軍としては、鎮台が全て出払って後方ががら空きになってしまうような状況は避けねばならず、あくまで呼応叛乱の未然防止及び発生時の対処のための兵員を一定数残置しつつ、僅少の部隊を逐次抽出して九州へ派遣せざるを得なかったのである(※4)。結果的に九州の外で大規模な呼応叛乱が発生することはなかったが、この事情は特に戦争前半の官軍の部隊運用戦略を拘束した大きな要素であったといえるだろう。

【補注】混合編成が「寝返り防止策」だったとする俗説について
 第四旅団司令長官を務めた曽我祐準は、
「西郷叛せば、必ず之れに味方する者あると信じ、一鎮台を一旅団とし、所謂建制旅団の侭出征せしむるは危険であると考へ、各鎮台より僅少の兵を選び出して旅団の編成をなした。之が為旅団兵員の数は一様ならず多きは六、七千、寡きは二、三千に過ぎない旅団もあつた。甚だ滑稽なるは半小隊位の兵員にて連隊旗を捧持して出て来たものもあつた」
との回顧談(前掲※4、傍線佐倉・以下同)を残している。そしてこの一節は、一般に「鎮台の将兵の中から西郷に呼応する者が出るおそれがあったため、鎮台を建制のまま出動させると丸ごと西郷側に寝返られて危険と判断し、あえて部隊をバラバラにして各旅団に配分した」、つまり官軍内部の「寝返り防止策」であったと解釈されることが多い。
 しかし、当該解釈は明確に誤りである。なぜなら、曽我は同回顧談中の別箇所で、
「愈々西郷が起つたとなれば天下は翕然として之に応ずるであらう。薩摩は勿論のこと、南海の高知、山陰の鳥取、東国にては羽後の鶴ヶ岡(元荘内)は殆ど期せずして兵を挙げ西郷に味方するに決まつてる。そうなれば政府に於ては容易に兵を差向けることは出来ない。結局鎮台から僅かづゝ出し合つて九州に派遣せしむる外に手段はなかつた」
「一寸前にも述べておいたが、西郷が兵を起せば、きつと東北では庄内(羽後国鶴ヶ岡)が応ずるに相違ないと、黒田清隆、西郷従道などの面々は深く信じて居つた」

等と述べているからである。これらを素直に読めば、曽我らが想定した脅威があくまでも全国の不平勢力の呼応叛乱であり、官軍内部の将兵の寝返りなどでは到底ないことが分かるであろう。全国における呼応叛乱のおそれについては、山県陸軍卿も征討発令前の戦略書で
「南隅一タヒ動カハ之ニ応スル者蓋シ両肥久留米柳川南海ニテハ阿波土佐山陽山陰ニテハ因備東海東山北陸ニテハ彦根桑名静岡松代大垣高田金沢及酒田津軽会津米沢ナリ而シテ関八州ノ館林佐倉其他ノ旧小藩ノ向背一トシテ定マル者ナシ」
と分析しており(『征西戦記稿』)、当時の政府・陸軍の共通認識であったといえる。
 なお曽我は、特に暴発が懸念された庄内について、万一の折には東伏見宮(少将)を推戴して征討する計画が存在したことについても言及している。

③政治判断の影響
 陸海軍の機構・制度が発展途上にあり、後年のように軍令権の独立といった概念も担保されていなかった当時、戦争運営事項の多くは必ずしも陸海軍の一存では決定できず、内閣の政治判断に負うところが大きかった。実際、西南戦争においては、先述した後方治安対策問題をはじめ、征討の正式発令(※5)や衝背軍作戦の決定(※6)など、征討戦略を左右する重要な意思決定の大半が政治サイドによってなされており、陸軍サイドはそのような戦略判断がなされる都度、具体的な作戦行動に必要な戦力を捻出しなければならなかった。結果、「陸軍の意向に関わらず戦略ニーズが生じ、部隊の運用にまで影響が及んでしまう」という事例が頻発することとなり、旅団の乱立や編成混淆に拍車がかかったのであった。

④臨時動員兵力の整理
 戦争初期における予想外の苦戦は、たちまち兵員の不足を招いた。これに狼狽した政府・陸軍は、後方待機中の鎮台兵を急ぎ出動させるとともに、後備兵の動員や壮兵(志願兵)の臨時召募を断行し、常備兵力の枠外からも追加人員を調達したが、これらの兵員からなる部隊は編制も装備もまちまちで、即戦力として直ちに戦地へ投入することが難しかったことから、ある程度頭数がまとまった段階でいったん大阪等に回送して編制や装備の調整を行い、戦闘部隊としてパッケージ化する作業が必要となった。そして、この作業が終わって準備が整った部隊から五月雨に各旅団へ割り振られていったため、結果として旅団内の編制がさらに複雑化していくこととなったのである。

 これらを見ると、旅団編成の複雑化は当時の政府・陸軍の未熟さからくる必然だったことがあらためてよく分かる。好きこのんで選択したのではなく、結果としてそうならざるを得なかった…というのが実情だったのであろう。

 4月、熊本連絡達成に伴って戦線整理・旅団再編が行われた折、総督本営内では混成旅団を解体して鎮台ごとの建制に復してはどうかという建議がなされた。しかし、この期に及んでの旅団編制の大幅変更はさらなる混乱を招くおそれがあり、また当初寄り合い所帯だった各旅団も実戦を重ねたこの頃にはおのおの結束し連帯感を有するようになっていたことから、同建議の採用は見送られる。結果、このときの旅団再編は若干の部隊を整理・異動させる程度の内容にとどまり、混成旅団方式は戦争が鎮定されるまで維持されることとなったのであった。

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(※1)
 正面軍増援として城北戦線に到着した別働第一旅団は、間もなく第三・第四旅団に吸収され解団。衝背軍増援として城南戦線に到着した別働第四旅団は、熊本連絡後の人吉攻略戦に従事する際、別働第二旅団に吸収され解団。4月半ばに編成された別働第五旅団は、わずか1週間余で第四旅団に吸収され解団。

(※2)
 衝背軍として城南戦線に投入された別働第二旅団(高島少将)、別働第三旅団(山田少将)、別働第四旅団(川路少将)は、3月中旬、城北戦線の別働第一旅団が解団されたことを受け、それぞれ旅団番号が繰り上がった。
 また、衝背軍の増援隊(黒川大佐)は大阪陸軍事務所から「別働第三旅団」の旅団号を付与されたが、同じ時期、九州でも黒田参軍が編成した「別働第三旅団」(川路少将・上述の別働第四旅団が改称されたもの)が活動しているため、同じ名称を有する2つの異なる旅団が併存していたことになる。
 なお総督本営は当初、正面軍の第一・第二旅団を主力旅団と位置づけ、その増援に当たる旅団は全て「別働旅団」として扱っていたものとみられるが、間もなく旅団号の基準を改め、正面軍所属旅団の旅団号を「第○旅団」、衝背軍所属旅団の旅団号を「別働第○旅団」と整理した。熊本連絡達成後の官軍の合一によってこの呼称基準は有名無実化するが、混乱回避のためかその後も維持されつづけた。

(※3)
 正面軍の山県参軍と衝背軍の黒田参軍の間で発生した、別働第四旅団をめぐる対立が有名。これは、黒田が隷下に置いていた同旅団について、山県の意を汲んだ鳥尾中将が「勅命」をちらつかせて正面軍に転入させようとしたが、黒田の厳重抗議により撤回に至ったもの。
 また、別働第三旅団の川路少将は、再三にわたる部隊補充要望が山県参軍から全て拒否されたことに憤慨し、総督本営を飛び越える形で京阪の大久保内務卿に直談判している。

(※4)
『偕行社記事』第686号より、曽我祐準『明治十年西南役の回顧』

(※5)
 特に、官軍の先陣となった第一・第二旅団の編成経過には、政治サイドの意思決定の紆余曲折がそのまま反映されている。同旅団はもともと、陸軍サイド(山県陸軍卿)の戦略的判断にもとづき一種の機動治安部隊として編成され、臨機応変の出動態勢で大阪に待機していたが、政治サイド(内閣の三条、岩倉、木戸、大久保ら)による勅使派遣決定を受けて勅使護衛隊に転用されることとなる。しかし、事態の切迫に政治サイドが翻意し、勅使派遣の中止と武力征討を確定させたため、一転して遠征軍に改組され九州に急行したのである。

(※6)
 衝背軍作戦の実施は、現地軍サイド(総督本営)ではなく政治サイド(内閣)の主導によって決定された。必要な旅団の編成作業も事実上現地軍サイドを飛び越える形で行われたため、やがて部隊の配分先をめぐる紛議が発生することとなった。(※3のとおり)

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主要参考資料

『征西戦記稿』陸軍参謀本部
『陸軍省大日記 西南戦役』陸軍省
『太政類典』内閣文庫
『西南記伝』黒龍会
『偕行社記事』第686号「明治十年西南役の回顧」曽我祐準
『日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想』遠藤芳信
『軍事史学』第52巻第3号「特集 西南戦争」軍事史学会
『明治軍制史論』松下芳男
『日本軍の精神教育 ―軍紀風紀の維持対策の発展―』熊谷光久
『西南戦争警視隊戦記』後藤正義
『山県有朋 愚直な権力者の生涯』伊藤之雄


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