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西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【5】総括

2023年09月19日 21時36分36秒 | 征西戦記考
 
 最終回ということで、これまで紹介してきた事実をあらためて整理し、勘違い説が流布するに至った経緯を再確認したいと思います。

 明治10年1月末、鹿児島において火薬庫襲撃事件が発生。急報を受けた政府は、川村純義(海軍大輔)と林友幸(内務少輔)を軍艦で鹿児島に急派します。現地到着後、直ちに大山綱良(鹿児島県令)から事情を聴取した川村・林でしたが、その際に「川路利良(大警視)が鹿児島に放った密偵による、西郷隆盛刺殺計画が発覚した」という、衝撃的な事実を聞かされます。
 この時点では大山も川村・林も、あくまで「刺し殺す」の意味で「シサツ」という言葉を使っており、コミュニケーション上の勘違いや誤解は生じていませんでした。事実、九州臨時裁判所における大山の取調べ記録(『鹿児島一件書類』)や後年の川村の述懐(『川村純義追懐談』)などの史資料を見ても、この段階で「シサツ」という言葉をめぐって特段の齟齬が生じた形跡はありません。
 また、このとき私学校党が作成していた密偵の口供書には、西郷を「刺殺」「暗殺」して私学校党幹部をも「みなごろし」にするといった文言が、明確に記載されていました(『丁丑擾乱記』)。私学校党は当初から、「密偵が西郷と刺し違える(=西郷を暗殺する)つもりらしい」というタレコミに基づいて行動していたため、そもそも「視察」を「刺殺」と勘違いする余地などなかったのです。

 さて、大山から聴取後、直ちに鹿児島を離脱した川村らは、取り急ぎ政府に状況報告の電報を打ちました。問題となったのは、その中にあった次の一節です。

「サイカウタイシヤウヲシサツスルコトヲ」

 川村らは深く考えずに「刺し殺す」意味で「シサツ」を使用したのでしょう。しかし、この表現は非常に紛らわしく、問題のあるものでした。実際、ある文書では当該箇所が「西郷大将を刺殺することを」と清書された一方、別の文書では「西郷大将を視察することを」と清書されるなど、政府内で少なからず混乱を招いていたのです(『鹿児島征討電報録』)。

 そもそも政府の面々からすれば、「西郷刺殺計画」じたいが寝耳に水の話です。なぜ鹿児島で突如そんな話が噴きあがったのか? 政府に届く正確な情報がごく限られている状況下、彼らは腑に落ちる答えを探し求めました。そんななか、岩倉具視(右大臣)はひらめいたわけです。

「シサツ……、もしや、川路の密偵が『視察』と自白したのを、私学校党が『刺殺』と勘違いしたのではないか!?」

 もしかすると、岩倉から追及された川路が「私は部下に『視察』は命じたが、『刺殺』は命じておりません!」などと抗弁したのかもしれません。いずれにせよ、現地鹿児島では単純に使われていた「刺殺」という言葉が、川村電報で「シサツ」と伝達されたために、重要キーワードに化けてしまったのです。
 つまり、言葉をめぐる勘違いは鹿児島でなく、政府の中で生じていた。……これが、シサツ勘違い説のカラクリだったということになります。

 このようにシサツ勘違い説は、元をたどれば岩倉具視による思いつきの仮説=想像に過ぎません。しかし厄介なことに、

 ●「シサツという言葉を鹿児島人が勘違いしたのではないか?」と主張する岩倉具視の電報は実在する(『鹿児島征討電報録』)
 ●アーネスト・サトウら同時代人の述懐にも、シサツ勘違い説に関する記述がある(『遠い崖』)
 ●密偵団は「西郷」=「坊主」といった暗号を使っていたらしい記録がある(『林友幸西南之役出張日記』)

など、それを構成する断片的な要素は、いずれも史料的根拠のある事実なのです。もし構成要素の全てが真偽不明の憶測・噂話であったのであれば、シサツ勘違い説が現代まで語り継がれることはなかったでしょう。
 要するに、シサツ勘違い説は「ウソみたいな話」でありながらも、これら断片的な史実に補強されることで、一定の説得力を備えることができたのです。

 英国人サトウの日記からは、岩倉が当時からシサツ勘違い説を各所で吹聴していた事実が読み解けます。こういった動きもあってか、シサツ勘違い説はいわば「政府の公式見解」として、世間に流布・定着することになったと考えられます。山県有朋(陸軍大輔)が後年「なるほど視察を刺殺と読み誤るのは、無理はなかろう」と語っている(『西南記伝』)のは、シサツ勘違い説が政府内で支持されたことの証左であったといえるでしょう。

 鹿児島暴発の報が舞い込んだ当初、政府の面々は西郷の関与を信じませんでした。情報の不足もありますが、同時に「西郷が無事であってほしい」という実に人間的な感情(=願望)が、彼らの認知を歪めたともいえます。しかし結果としてそれは、初動措置の遅延と早期収拾失敗という、最悪の事態を招くこととになりました(過去記事参照)。
 シサツ勘違い説にも、これと同根のセンチメンタリズムが見え隠れします。もし当時、政府の面々に「西郷のいる鹿児島が暴発するはずがない(=何か別の真実があるに違いない)」という先入観がなければ、あんな荒唐無稽な珍説が現代までまかり通ることもなかったのではないでしょうか。
 断片的な事実が人々に都合よく解釈され、結果として巨大な虚構が組みあがっていく……シサツ勘違い説をめぐる謎解きは、情報が氾濫する現代においても、多くの示唆を与えてくれるような気がします。

(了)

 
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