夕風桜香楼

歴史ネタ中心の雑記帳です。
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【史伝+旅行記】 激闘鳥羽伏見Ⅱ ~洛南燃ゆ~

2010年11月29日 19時37分25秒 | 旅行
 前稿の続きです。更新遅れましたが。

Ⅱ.洛南燃ゆ ―伏見ノ戦

 あそこは市街が碁盤の目のようになっているから、どっちからやって来るかも知れぬ。それで長州は南の方へ向って撃つ。薩摩は横の方から西に向って砲撃してくれというので、ちょうど十文字に撃ったからビチリビチリいったものだ。そうした所が先方の兵隊は騒動するばかりで怖れて出て来ぬが、士官はヒョイヒョイと進んで来るからみな撃たれて斃れてしまう。それが日没頃であった。(…)
 市街戦だ。所でこっちは馬関の戦などがあって巧者になっている。伏見の市街の住人は皆な逃げてしもうて残らず空家になっているから、その畳を引き揚げて来て道の傍らへ七、八枚ずつ重ねて、横に立て懸けて盾にした。それを右側と左側と差い違いに六、七間ごとにやって、その間から撃ったので怪我人や死人の数が割合に少い。畳の上に頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだったが、しかしその数は至って少い。そのうちに向こうの陣屋が焼け出したから、向こうは火を後背にしたので、こっちからはよく動くのが見えるけれど、こっちは真闇で向こうからは少しも見えぬ。

(長州藩兵の回想 『維新戦役実歴談』)
【旧字・難読字・カナ改】


 鳥羽で京・幕両軍が衝突した、慶応4年1月3日夕刻。南東約3kmほどにある伏見の地でも、激戦の幕が切って落とされました。


例によって、やっつけ。

 幕軍は伏見の南がわ、奉行所を中心に布陣。主体は歩兵隊や、精強で知られる会津藩兵です。また土方歳三指揮する新選組(局長近藤勇は、数日前に発生した狙撃事件のため大坂で療養中でした)も、ここぞとばかりに馳せ参じていました。


写真①:伏見奉行所跡地  現・桃稜団地。入口脇に伏見奉行所跡の碑あり。

 これに対し京軍は、御香宮に薩摩藩兵400名を、またその西がわの市街に長州藩兵300名をそれぞれ展開。
 薩摩藩伏見藩邸付近(藩邸は乱戦のなか焼亡)に土佐藩兵も200名ほどおりましたが、これはすでに記したごとく実質的には中立軍で、戦闘に加わることはありませんでした。


写真②:薩摩藩伏見藩邸跡地  現在は酒造の敷地となっている。入口脇に薩摩島津伏見屋敷跡の碑あり。

 開戦は、鳥羽方面のそれとほぼ同時でした。
 御香宮の京軍砲兵は、鳥羽の砲声に呼応するかのように、眼下の奉行所にむけ一斉に砲撃を開始します。
 これをうけ、幕軍も負けじと応射。また奉行所の門からは決死の壮兵が我先にと飛び出し、京軍陣地にめがけて突進しました。


写真③:御香宮  京軍砲兵隊が布陣したこの地は、小高い丘陵となっており、伏見奉行所を見おろせる。

 勢いよく出撃した幕兵でしたが、畳などで築かれた京軍の射撃陣地をまえに、苦戦を強いられます。土塀に囲まれた狭い路地では、せっかくの大兵力も活かすことができません。また、京軍の陣地が奉行所よりやや高台にあったことも、幕軍にとって不利にはたらきました。
 何度となく強行された幕兵の斬り込みは、結局すべて失敗に終わります。洛中では敵なしだった新選組も、もはや剣客集団としての限界を認めざるをえませんでした。


写真④:伏見の戦跡碑  御香宮境内にある。

 日が暮れたのちも、両軍の激闘は果てるともなく続きます。
 午後8時頃には、慶喜追討大詔が出たとの情報が京軍陣地に入りました。「われわれは官軍となったのだ!」 士気を高めた京兵は、まさに死力を尽くして戦います。おりしも味方の砲弾が敵の弾薬庫に命中し、大爆発を惹起。以後幕軍の攻勢は、しだいに下火となっていきました。


写真⑤:民家に残る弾痕  市街戦の凄絶さを物語る。

 午後10時ごろ、機を見計らった京軍は、伏見奉行所めがけて攻撃前進を開始。
 老将林権助率いる会兵は必死に防戦しますがかなわず、後退を余儀なくされます。林をはじめとする多くの勇猛な将兵が、この戦いで傷を負い、斃れていきました。

 午前0時ごろ、長州藩兵が奉行所に突入するに至り、幕軍はついに伏見市街での抗戦を断念。
 紅蓮の炎に包まれる奉行所を背に、南へ退却することとなったのでした。



 伏見篇、終了です。橋本まで書きたがったけど、力尽きてしまいました。また気が向いたら…。

コメント (2)
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【史伝+旅行記】 激闘鳥羽伏見Ⅰ ~維新回天の号砲~

2010年11月22日 17時29分18秒 | 旅行
 先週、京都に旅行に行ってきました。
 向こうでは2日間ほど過ごしたのですが、1日目は嵐山方面および東山方面を、そして2日目は鳥羽・伏見方面と大阪方面をめぐりました。今回の記事は、とくにその2日目における戊辰戦役戦跡めぐりのまとめです。

 こういった旅は、世間一般には“地味”な観を拭えないかもしれません。しかし、そこで感じることのできる“ロマン”には、何物にも代えがたいものがあるように思います。この記事を読まれた方に、少しでもそれを受けとっていただければ幸いです。

Ⅰ.維新回天の号砲 ―鳥羽ノ戦

 初め幕の歩兵・見廻組などは我が藩(桑名藩。筆者注・以下同)より前に上陸し、滝川播磨守、前将軍の建白書(いわゆる“討薩の表”)を持し四ツ塚まで至りしに、肥後の兵は先立ちて入京せり。継ぎて入らんとせしに、薩州勢四ツ塚の関を固め、「幕府・会桑の兵は入京を許さず」という。播磨守、「これは先般尾張・越前両侯より御内諭の筋これある徳川慶喜上京の先供なり。入京を許さずとは如何の義にや」などと談判せしに、応答いまだ終らず薩藩より銃先揃えて不意に打ち出せり。見廻組は銃を持たず。歩兵も銃に玉を込め居かず、右往左往に立ち騒ぎ、やにわに死する者もあり、手負はもとより数を知らず。ようやく足を立て直して戦うというとも、崩れ立ちたる習いゆえほとんど難儀に及びしに、我が桑名の砲隊、銃隊に先立ちて進みしが、この有様を見て砲丸を敵中に連発す。敵は少しひるみし間に辛くして引き揚げたりとぞ。
(『桑名藩戦記』)
【旧字・難読字・カナ改】


 1年以上におよぶ戊辰戦役の幕開けとなった地、鳥羽。京都の南西に位置するこの地は当時、鴨川や桂川といった河川や、赤池のような湖沼がつらなる一大湿地帯でした。


筆者作成。やっつけ。

 慶喜建白の“討薩の表”をかかげて大坂より北上してきた幕軍は、歩兵隊・伝習隊といった幕府直属の陸軍のほか、会津・桑名をはじめとする各藩兵、さらに京都の市中警察部隊たる見廻組・新選組を加えた約15,000名。これが二手に分かれ、それぞれ鳥羽ルートと伏見ルートとで陸続と前進しました。
 迎え撃つ京軍(新政府軍)は、主力である薩摩藩兵に長州・土佐の各藩兵を加えた約5,000名。なんと幕軍の3分の1にすぎません(しかも土佐藩兵は政治的事情から、戦闘要員としてはアテにならなかったため、実際の戦力はさらに減って4,000名程度!)。西郷・大久保らは、いざとなったら帝を擁して都落ちするハラだったといいますから、まさに背水の陣でいどむ大バクチであったといっていいでしょう。


写真①:小枝橋脇の鳥羽伏見戦跡碑

 慶応4年1月3日午後、幕軍の先鋒は、鳥羽の線に達しました。幕軍の意図はこの時点ではまだ、大兵力によって京軍を威圧しつつ二条城へ入城し、爾後の政治的展開に備えることにあったようです(彼らが必ずしも戦端を開くつもりはなかったことは、小銃に弾込めを行っていなかったことや、歩兵の隊列の編成などをみてもわかります)。
 幕府大目付・滝川播磨守は、列の先頭を見廻組に護衛されつつ進み、鳥羽の関門に立ち塞がる京軍に対し入京を申し入れます。しかし京軍は「しばし待たれよ」という返事を繰り返すのみで、まったく道を開けようとしません(当り前だ)。
 えんえん繰り返される「通せ」「通さぬ」の長談義。両陣営の間の空気は、しだいにピリピリと張り詰めていきました。樺山資紀(薩摩藩士。のち海軍大将)の述懐によれば、薩兵が地面に線を引き「ココを越えたら撃つからなッ!」と警告する一幕もあったそうです。


写真②:小枝橋よりのぞむ鴨川堤  橋は移築され、当時の位置にはない。

 同日夕刻、ついにしびれをきらした幕軍は歩兵を縦隊に展開し、強行突破も辞さぬ前進を開始。これに対し京軍は銃砲を整え、迫る敵影に狙いを定めます。
 幕軍の先鋒が関門にさしかかったそのとき、合図のラッパの号令一下、薩長兵の銃先が一斉に火を吹きました。
 史上名高い“鳥羽伏見の戦”、4日間にわたる激闘の幕開けでした。


写真③:城南宮  薩軍砲兵隊はこの地に展開した。

 京軍の凹角陣地に入り込んだ形となった幕兵に、銃砲弾が雨あられと降り注ぎます。城南宮の薩砲兵隊の放った初弾は、幕軍の隊列中にあった砲架に命中(Unbelievable!)。幕兵たちは大混乱に陥り、一部を除いて応戦する間もなくバタバタと斃れていきました。
 そんななか奮戦したのが、佐々木只三郎率いる見廻組でした。小銃をもたぬ彼らは、京軍の銃砲陣地に対し、刀槍による決死的突撃を繰り返し敢行。結果としてこの攻撃は失敗に終わり、見廻組は大損害を出した末に敗退しますが、この犠牲は決して無駄にはなりませんでした。すなわち、これが時間稼ぎとなって、幕軍は混乱した態勢をある程度立て直すことに成功するのです。


写真④:鳥羽伏見戦跡碑よりのぞむ赤池方面  街道から迫る幕兵を、薩軍はこの位置から射撃した。

 隊列を整えた歩兵隊は、桑名藩砲兵の支援のもと前進を開始。見廻組の残兵も、散乱する小銃を拾ってこれに加わります。満を持しての欧州式戦列攻撃!……でしたが、正面陣地からの猛射および中島方面からの側射は凄まじく、結局この攻撃もなかばにして頓挫。幕軍はついに、後退を余儀なくされたのでした。

 日が暮れたあとも、砲撃によって生じた火災の明かりを頼りにして、両軍の小競り合いはしばらく続きました。しかし、京軍は敵を深追いせずおおむね現位置を保持し、また幕軍のほうも下鳥羽までいったん後退して、翌日以後に反攻を期することとなったため、大規模な戦闘は行われぬまま夜明けを迎えることとなりました。


▼ 

 ……思いのほか長くなってしまいましたので、いったんここでひと区切り。

 Ⅱ.伏見に続きます。更新がんばらなくちゃ。




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