西南戦役をめぐる「シサツ勘違い説」が専門書にも史実として記載されていることは、前回述べたとおりです。そこでまずは、このシサツ勘違い説が、実際の同時代史料や、一定程度近接した年代の史資料の中でどのように登場するのかについて、代表的なものを確認してみます。
いかにも後世脚色された作り話のようなエピソードですが、意外にも、その事実性を裏づける同時代史料は少なくありません。
①アーネスト・サトウの日記
アーネスト・サトウという、当時駐日英国公使館に勤めていた英国人がいます。『一外交官の見た明治維新』などの著書を通じ、外国人の立場で明治維新を記録した人物で、のちに駐日英国大使も務めました。
このサトウは明治10年2月の西南戦役勃発時、たまたま鹿児島におりました。しかも同人は、西郷隆盛や県令の大山綱良とかねてから個人的なつきあいがあったため、これら渦中の人物と直接面会できる立場にもありました。サトウの残した記録は、西南戦役の勃発に現地で遭遇した数少ない外国人の証言として、非常に貴重なものといえます。
これから引用するのは、サトウが鹿児島から帰京した直後の3月9日、右大臣(かつ東京留守内閣首班)の岩倉具視と面会した際の日記です。
開戦直後で情勢不鮮明だったこともあり、この日サトウは、岩倉から鹿児島の状況説明を求められました。問題となるのは、次の部分です。
岩倉はわたしが鹿児島で見聞したことのすべてを、ひどく知りたがった。叛徒が鹿児島の町でも、熊本へ進軍中も、規律正しく行動したことをわたしがくわしく話すと、岩倉は非常におどろいた様子であった。(中略)
岩倉から、つぎのようなばかばかしい話を聞かされた。それによると、薩摩側が西郷暗殺の陰謀を信じ込むにいたった原因は、政府の密偵として逮捕された者が、自分たちは「視察」の目的で鹿児島に来たと述べたのに、薩摩側がこれを「刺殺」と解したためである、というのである。
(萩原延壽『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄(13) 西南戦争』)
ズバリこれ、シサツ勘違い説ですね。ちなみにサトウは当時から日本語が堪能で、公使の通訳としても活躍していましたから、日本語の「視察」と「刺殺」の違いははっきりと理解しています。
サトウは「ばかばかしい話」とあきれており、シサツ勘違い説を信じなかったようですが、重要なのは同時代人の日記にこれが登場するということ。すなわち、シサツ勘違い説が決して後世の創作ではなく、当時の時点で明確に存在していたという事実が、この記録から分かるのです。
②山県有朋の述懐
『西南記伝』という、明治の末年くらいに刊行された西南戦役に関する大著があります。同書の面白いところは、乃木希典や樺山資紀など、まだ当時存命だった当事者への取材記事が随所に挿入されていること。現在、国会図書館デジタルライブラリーのHPで誰でも簡単に閲覧できますので、ご興味の方はぜひ目を通してみてください。
さて同書に掲載されている、当時の陸軍の総括責任者・山県有朋の証言は次のとおりです。西南戦役当時よりも年月が下ったあとの史料ではありますが、当事者中の当事者たる山県本人の認識が分かる、興味深い内容となっています。
川路の乾分(子分)が、状況視察のため帰郷したのを、視察を刺殺の電報の誤りから、かの騒乱が起ることになったのである。即ち鹿児島の、西郷の幕下に居るものは、「川路がこんな乾分を刺客に寄こすのも、大久保の意を受けて遣るのだ」と思った。今考えても、なるほど視察を刺殺と読み誤るのは、無理はなかろうと思う。
(黒龍会編『西南記伝』中巻1)
つまり、西南戦役において西郷と対峙した山県も、このシサツ勘違い説を事実と認識しているのです。なお、「電報の誤り」とあることから、山県は電報パターンで本件を認識していたということになります。
ということで、明治時代の当事者の証言を複数紹介しました。これらを見ると、もはやシサツ勘違い説は「ウソのようなホントの話」として、疑う余地はないように思えるかもしれません。
しかし……?
(【3】へつづく)
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