夕風桜香楼

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沖には平家、陸には源氏

2011年03月20日 01時33分10秒 | 旅行

 今回の旅行で、筆者が特に楽しんだポイント、それが四国・讃岐の屋島
 筆者の大好きな古典『平家物語』において、幾多の名場面がこれでもかと繰り広げられた、屋島合戦の舞台です。

 本稿では、各史跡の写真を、原文とともにお送りしてみたいと思います。古文につき読むのは難儀かもしれませんが、『平家』特有の、みなぎるようなエネルギーは、やはり原文でなくては味わえません。どうぞよろしくおつきあいいただければ幸いです。



(ここまでのあらすじ)
 摂津一ノ谷で源氏に敗れた平家は、讃岐屋島に難攻不落の水上要塞を築いて反攻を期す。これに対し、源氏の大将・九郎判官(義経)は、自ら率いる少数の精鋭をもって、奇襲作戦を敢行。ここに源平争乱の帰趨を決する、一大戦闘の幕が切って落された!


【屋島合戦】


 駅前の碑と、その後方にそびえる屋島。

 判官(源義経 筆者注・以下同)その日の装束には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる截生の矢負ひ、滋籐の弓の真中にぎつて、沖の方を睨まへ、大音声をあげて、「一院の御使ひ、検非違使五位の尉源義経」とこそ名乗つたれ。
 次に名乗るは、伊豆国の住人、田代の冠者信綱、武蔵国の住人、金子十郎家忠、同じき与一親範、伊勢三郎義盛とぞ名乗つたる。
 続いて名乗るは、後藤兵衛実基、子息新兵衛基清、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などいふ一人当千の兵ども、声々に名乗つて馳せ来たる。


 きらびやかな装束を身にまとって、高々と名乗りを上げる源氏の精兵たち。さあ、決戦のはじまりです。

 平家の方にはこれを見て、「あれ射取れや、射取れや」とて、あるひは遠矢に射る船もあり、あるひは指矢に射る船もあり。源氏の方の兵ども、これを事ともせず、弓手になしては、射て通り、馬手になしては射て通る。あげおいたる船どもの陰を、馬やすめ所にして、をめき叫んで攻め戦ふ。
 後藤兵衛実基は、ふる兵にてありければ、磯の戦をばせず、まづ内裏に乱れ入り、てんでに火を放ちて、片時の煙と焼き払ふ。
 大臣殿(平宗盛)、侍どもに、「源氏が勢はいかほどあるぞ」と問ひ給へば、「よも七八十騎には過ぎ候はじ」。
「あな心憂、髪の筋を一筋づつ分けて取るとも、この勢にはたるまじかりつるものを。中に取りこめて討たずして、あわてて船にのつて、内裏を焼かせぬることこそ安からね。能登殿(平教経)はおはせぬか。陸に上がつて、一戦し給へかし」と宣へば、「承り候ふ」とて、越中次郎兵衛盛嗣を先として、五百余人、小舟どもに取り乗つて、焼き払ひたる惣門の前の渚に押し寄せて陣をとる。判官八十余騎、矢ごろに寄せて控へたり。


 平家の総帥・宗盛の「ひと戦お願い申す!」との叫びに、「承り候!」と、颯爽と現れる猛将・教経。じつにカッコイイ!


 屋島。現在は四国本島とほぼ地続きになっているが、当時は浅海を隔てていた。


【両軍舌戦】


 『弓流し』記念碑付近。この一帯は当時、広大な砂浜であったという。

 越中次郎兵衛(平盛嗣)、船の屋形に立ち出で、大音声をあげて、「そもそも先に名乗り給へるとは聞きつれども、海上はるかに隔たつて、その仮名実名分明ならず。今日の源氏の大将軍は、誰人にてましますぞ。名乗り給へや」と言ひければ、伊勢三郎あゆませ出でて、「あな事もおろかや。清和天皇より十代の御末、鎌倉殿の御弟、九郎大夫の判官殿ぞかし」。
 盛嗣聞いて、「さる事あり。一年平治の合戦に打ち負け、父討たれて後、みなし子にてありしが、鞍馬の児し、後には金商人の所従となり、糧料背負うて、奥州の方へ落ちまどひし、その小冠者が事か」とぞ言ひける。
 義盛、「舌のやはらかなるままに、君の御事な申しそ。さ言ふわ人どもこそ砺波山の合戦に打ち負け、北陸道にさまよひ、からき命生きつつ、乞食して上つたりし人か」とぞ言ひける。
 盛嗣重ねて、「君の御恩にあきみちて、何の不足さに乞食をばすべき。さ言ふわ人どもこそ、伊勢国鈴鹿山にて山だちし、我が身も過ぎ、所従をも過ごすとは聞きしか」と言ひければ、金子十郎家忠進み出で、「詮ない殿ばらの雑言かな。我も人も空言言ひ付けて雑言せんに、誰かはおとるべき。去年の春、摂津国一の谷にて、武蔵、相模の若殿ばらの手並みのほどをば見てんものを」といふ所に、弟の与一親範、そばにありけるが、いはせもはてず、十二束二伏、よつぴいてひやうど放つ。越中次郎兵衛が鎧の胸板にうらかくほどにぞ立つたりける。さてこそ互ひの詞戦ひはやみにけれ。


 「みなしご!こわっぱ!」「なにを!乞食!」……もうほとんどガキのケンカですw


【継信最期】


 射落畠。佐藤継信を顕彰する石碑がそびえる。

 漕ぎ寄せる猛将・能登殿(教経)の強弓に、騒然となる源氏側。そして義経の股肱・佐藤継信は、主君の盾となって討死するのでした。

 能登殿、「ふな戦は様あるものぞ」とて、鎧直垂をば着給はず、唐巻染の小袖に、唐綾縅の鎧着て、いか物作りの太刀を帯き、二十四さいたるたかうすべうの矢負ひ、滋籐の弓を持ち給へり。
 王城一の強弓精兵にておはしければ、矢先にまはる者、射通といふ事なし。中にも源氏の大将軍九郎義経を、ただ一矢に射落とさんと狙はれけれども、源氏の方にも先に心得て、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などいふ一人当千の兵ども、馬の頭を一面に立て並べ、大将軍の矢面に馳せふさがりければ、能登殿も力及び給はず。
 能登殿、「そこのき候へ、矢面の雑人ばら」とて、さしつめひきつめ散々に射給へば、やにはに鎧武者十騎ばかり射落とさる。中にも真つ先に進んだる奥州の佐藤三郎兵衛嗣信が弓手の肩より馬手の脇へ、つと射抜かれ、しばしもたまらず馬よりさかさまにどうど落つ。
 能登殿の童に、菊王丸といふ大力の剛の者、萌黄縅の腹巻に、三枚甲の緒をしめ、打物の鞘をはづし、三郎兵衛が首を取らんと走りかかる。弟の四郎兵衛忠信そばにありけるが、兄が首を取らせじと、よつぴいてひやうど放つ。菊王丸が草摺のはづれを、あなたへつと射抜かれて、犬居に倒れぬ。能登殿これを見給ひて、左の手には弓を持ちながら、右の手にて菊王丸をとつて、船へからりと投げられたり。敵に首はとられねども、痛手なれば死ににけり。
 この童と申すは、越前の三位通盛卿の童なり。しかるを三位討たれて後、弟の能登守にぞつかはれける。生年十八歳とぞ聞こえし。能登殿この童を射させてあまりに哀れに思はれければ、その後は戦をもし給はず。


 「矢面の雑魚ども、そこをどけィッ!!」……源氏の兵を、ばったばったと射落してゆく能登殿は、こののち壇ノ浦においても、九郎義経のまえに立ちはだかることとなります。


 洲崎寺。継信の亡骸を運び入れた場所。

 判官は、奥州の佐藤三郎兵衛を陣の後ろへかき入れさせ、急ぎ馬よりとんで下り、手を取つて、「いかがおぼゆる」。三郎兵衛、息の下にて申しけるは、「今はかうにおぼえ候ふ」。
「思ひ置く事はなきか」と宣へば、「別に何事をか思ひ置き候ふべき。さは候へども、君の御世にわたらせ給はんを見参らせずして、死に候ふこそ心にかかり候へ。さ候はでは、弓矢取りの敵の矢に当たつて死なむ事、もとより期する所で候ふ。なかんづく『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひけん者、主の命に代つて、讃岐国八島の磯にて射られにき』と、末代までの物語に申されんこそ、弓矢取る身には今生の面目、冥土の思ひ出なるべし」とて、ただ弱りにぞ弱りける。判官も、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣かれける。
 ややあつて、「このほどに貴き僧やある」とて、一人尋ね出だされたり。「ただ今死ぬる手負ひに一日経書いて弔ひ給へ」とて、黒馬のふとうたくましきに、よい鞍置いて、かの僧にぞたびにける。
 この馬は、判官五位尉になられし時、これをも五位になして、大夫黒と呼ばれし馬なり。一の谷の後、ひよどり越えをも、この馬にてぞ落とされける。弟の四郎兵衛をはじめて、これを見る侍ども、みな涙を流して、「この君の御ために命を失はん事、まつたく露塵ほども惜しからず」とぞ申しける。


 継信の死に、源氏は再び奮起。そしていよいよ、アノ名場面がやってまいります。


【扇の的】


 祈り岩。与一が「南無八幡大菩薩……」を念じた場所。

 さる程に、阿波、讃岐に平家を背いて、源氏を待ちける兵ども、あそこの嶺、ここの洞より十四五騎、二十騎ばかり馳せ来るほどに、判官程なく三百余騎にぞなりにける。
「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず。」とて、引き退くところに、沖より尋常に飾つたる小船を一艘、汀へ向いて漕ぎ寄せけり。渚より七八段ばかりになりしかば、舟を横様になす。
「あれはいかに。」と見る所に、船の中より年の齢十八九ばかりなる女房の、柳の五衣に、紅の袴着たるが、皆紅の扇の日出だしたるを、船のせがひにはさみ立てて、渚へ向かつてぞ招きける。
 判官、後藤兵衛実基を召して、「あれはいかに。」と宣へば、「射よとにこそ候ふめれ。ただし大将軍矢面に進んで傾城を御覧ぜられん所を、手だれに狙うて射落とせとのはかりごととおぼえ候ふ。さは候へども、扇をば射させれるべうや候ふらん。」と申しければ、判官、「味方に射つべき仁は誰かある。」「上手多う候ふ中に、下野国の住人、那須太郎資高が子に、与一宗高こそ小兵で候へども、手利きで候へ。」
「証拠はいかに。」と宣へば、「かけ鳥などを争うて三つに二つは必ず射落とし候ふ。」と申す。
「さらばよべ。」とて召されけり。

 与一その頃はいまだ二十歳ばかりの男なり。赤地の錦をもつて、衽、いろへたる直垂に、萌黄にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、うす切斑に鷹の羽わり合はせてはいだりける、ぬための鏑をぞ差し添へたる。滋籐の弓脇にはさみ、甲をば脱いで高紐にかけ、判官の御前にかしこまる。
「いかに宗高、あの扇を真中射、敵に見物させよかし。」「つかまつらうとも存じ候はず。これを射損じ候ふほどならば、ながき味方の弓矢の御きずにて候ふべし。一定つかまつらんずる仁に、仰せ付けらるべうや候ふらん。」と申しければ、判官大きに怒つて、「鎌倉を立つて、西国へ向かはん人々は義経が命を背くべからず。少しも仔細を存ぜん人々はこれよりとうとう鎌倉へ帰らるべし。」とこそ宣ひけれ。
 与一重ねて辞せば悪しかりなんとや思ひけむ、「御諚で候へば、はづれんをば知り候はず。つかまつてこそ見候はめ」とて、御前をまかり立つ。黒馬の太うたくましきに、まろぼやすつたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱かいくつて、汀へ向いてぞ歩ませる。
 御方のつはものども、与一が後ろをはるかに見送つて、「一定この若者仕らんとおぼえ候ふ。」と申しければ、判官もよに頼もしげにぞ見給ひける。


 このような大役をいったんは固辞するも、総大将に重ねて厳命され、引き受けざるを得なくなった与一。弱冠20歳の青年の受けたプレッシャーは、並大抵のものではなかったことでしょう……。


 駒立岩。この岩の上から、与一は扇の的を射抜いた。写真左奥に、扇の的イメージが掲げられている。

 矢ごろ少し遠かりければ、海の中一段ばかり打ち入れたりけれども、扇のあはひなほ七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。
 頃は二月十八日、酉の刻ばかりの事なるに、折節北風はげしくて、磯うつ波も高かりけり。船はゆり上げゆり据ゑただよへば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には平家、船を一面に並べて見物す。渚には源氏、轡を並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふ事なし。

 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくはあの扇の真中射させてたばせ給へ。これを射損ずるほどならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな。」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにぞなつたりける。
 与一鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の要際一寸ばかりを射て、ひふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
 皆紅の扇の日出だしたるが、夕日の輝いたるに、白波の上にただよひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、舷を叩いて感じたり、陸には源氏、箙を叩いてどよめきけり。


 宙に舞い上がる扇に、戦を忘れてワッと歓声をあげる両軍。やっぱ『平家』は原文でないと!と改めて思い知らされる名調子です。

 感に堪へずとおぼしくて、平家の方より、年の齢五十ばかりなる男の、黒皮縅の鎧着たりけるが、白柄の長刀もつて、扇たてたる所に立つて、舞ひ始めたり。
 伊勢三郎義盛、与一が後ろに歩ませよつて、「御諚であるぞ。つかまつれ」と言ひければ、今度ははなかざしとつてつがひ、よつぴいて真つただ中をひやうばと射て、船底へさかさまに射倒す。
「あ射たり」と言ふ者もあり、「いやいや情なし」と言ふ者もありけり。今度は平家の方には、音もせず、源氏の方はまた箙を叩いてどよめきけり。


 戦の場で舞うほどのみやび……しかしこれを解する心は、九郎義経にはなかったようです。この行為については、いまも評価の分かれるところ。


【錣引き】


 錣引き跡。

 平家これを本意なしとや思ひけん、弓持つて一人、楯ついて一人、長刀もつて一人、武者三人渚にあがり、「ここを寄せよや」とぞ招きたる。判官、「馬強ならん若党ども、馳せ寄つて蹴散らせ」と宣へば、武蔵国の住人、三保谷四郎、同じき藤七、同じき十郎、上野国の住人、丹生四郎、信濃国の住人、木曾中次、五騎つれて、をめいてかく。
 楯のかげより、塗のに黒ぼろはいだる大の矢をもつて、真つ先に進んだる、三保谷十郎が、馬の左のむながいづくしを、筈の隠るるほどにぞ射こうだる。屏風を返すやうに、馬はどうど倒るれば、主は弓手の足を越え、馬手の方へ下り立つて、やがて太刀をぞ抜いたりける。楯の陰より、大長刀もつたる男一人打ち振つてかかりければ、三保谷十郎、小太刀大長刀にかなはじとや思ひけん、かいふいて逃げければ、やがて続いて追つかけたり。

 長刀にてながんずるかと見る所に、さはなくして、長刀をば弓手の脇にかいはさみ、馬手の手をさしのべて、三保谷十郎が甲の錣を掴まんとす。掴まれじと逃ぐる。三度掴みはづいて、四度のたび、むずと掴む。しばしぞたまつて見えし、鉢つけの板より、ふつとひつきつてぞ逃げたりける。
 三保谷十郎は、味方の馬のかげに逃げ入つて、いきつぎゐたり。残る四騎は馬を惜しみて駆けず、見物してぞゐたりける。敵は追うても来ず。白柄の長刀杖につき、甲の錣を高く差し上げ、大音声をあげて、「遠からん者は音にも聞き、近からん人は目にも見給へ。これこそ京童部の呼ぶなる、上総悪七兵衛景清よ」と名乗り捨ててぞ帰りける。


 盾の陰からヌッと現れ、三保谷十郎の兜をつかもうとする謎の武者。逃げようとする十郎。なんともコミカルな展開の最後に、武者が恐るべき正体(この平景清は、音に聞こえた平家随一の猛将なのです)を明かす……。
 表現の巧みさ、演出・構成の見事さなどから、筆者が『平家』でいちばん好きなシーンです。


【弓流し】


 弓流し跡の碑。上掲記念碑とは別の地点にある。

 錣引きの一幕ののち、両軍の激闘が再開されます。

 平家これに心地をなほし、「悪七兵衛討たすな、続けや、景清討たすな、続け」とて、二百余人渚にあがり、楯をめん鳥羽につき並べ、「ここを寄せよや」とぞ招いたる。
 判官、安やすからぬことなりとて、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信を先に立て、後藤兵衛父子、金子兄弟を弓手馬手に立て、田代冠者を後ろに立て、判官八十余騎をめいて先を駆け給へば、平家の方には、馬に乗つたる武者は少し、大略歩武者なりければ、馬に当てられじと、ざつとひき退いて、皆船にぞ乗りにける。

 楯は算を散らしたるやうに、散々に駆けなされぬ。源氏の兵ども勝にのつて、馬のふと腹つかるほどに、うち入れうち入れ攻め戦ふ。
 船の内より熊手をもつて、判官の甲の錣にからりからりと二三度うち懸けければ、味方の兵ども、太刀長刀の先にて、うち払ひうち払ひ攻め戦ふ。判官いかがはせられけん、弓を懸け落とされぬ。うつむき、鞭をもつて掻き寄せて、取ろう取ろうどし給へば、味方の兵ども、「ただ捨てさせ給へ捨てさせ給へ」と言ひけれども、つひに取つて、笑つてぞ帰られける。
 おとなどもつまはじきをして、「あな心憂や。千疋万疋にかへさせ給ふべき御だらしなりとも、御命にはかへさせ給ふべきか」と言ひければ、判官、「弓の惜しさに取らばこそ。義経が弓といはば、二人しても張り、もしは三人しても張り、叔父為朝などが弓のやうならば、わざとも落として取らすべし。弱たる弓を、敵の取りもつて、『これこそ源氏の大将軍九郎義経が弓よ』など、嘲弄ぜられん事が口惜しければ、命にかへて取るぞかし」と宣へば、皆またこれを感じけり。


 非力な小兵にすぎなかった九郎義経ですが、一軍の将としてはやはり非常に絶妙な感覚を持っていました。この『弓流し』は、それを象徴するエピソードといっていいでしょう。

 そしてこの一幕をもって、史上名高い屋島合戦は終わりを告げるのです。

 一日戦ひ暮らし、夜に入りければ、平家の船は沖に浮かび、源氏は牟礼、高松の中なる野山に陣をぞ取つたりける。
 源氏の兵どもは、この三日が間は寝ざりけり。一昨日渡辺、福島を出でて、大波に揺られまどろまず、昨日阿波国勝浦に着いて戦して、夜もすがら中山越え、今日また一日戦ひ暮らしたりければ、皆疲れはてて、あるひは甲を枕にし、あるひは鎧の袖、箙などを枕にて、前後も知らずぞ臥したりける。
 されどもその中に、判官と伊勢三郎は寝ざりけり。判官は高き所にのぼりあがり、敵やよすると遠見してい給へば、伊勢三郎は、くぼき所に隠れゐて、敵寄せば、まづ馬のふと腹射んとて待ちかけたり。
 その夜平家の方には、能登殿を大将軍にて、源氏を夜討ちにせんと、支度せられたりしかども、越中次郎兵衛と、海老次郎と先陣を争ふほどに、その夜もむなしく明けにけり。寄せたりせば、源氏なにかあらまし。寄せざりけるこそ、せめての運の極めなれ。


 このとき夜討をかけていれば……と、平家びいきの筆者はいつも思ってしまいますが……(笑)



 原文のほうは、コチラのサイトのほうを利用させていただきました。

 それにしても、調子に乗って全文ノーカットで掲載したら、とんでもない量になってしまった……。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 とにかく、平家イイですよ平家!(←要はこれが言いたいだけです) これを機会に、ぜひともご一読されることをオススメいたします。

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