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西南戦争 生き残った者たちの証言【3】 戦場の実相

2020年07月04日 12時07分35秒 | 征西戦記考
 
 最終回となる今回は、戦場における雑多な逸話を取りあげます。

第3回 戦場の実相

【薩軍蹶起①】(一)
問:(戦役勃発時に)兵を集めた際は県庁から達したのか、桐野(利秋)・篠原(国幹)等より命令したのか。
答:(私学校の)生徒が各自で随行を願い出た。中には随行を許されず、(憤慨して)切腹した者もあった。《野村?・長倉?》

 薩軍第一陣(「一番立」)の編成に関する逸話です。当初の段階では強制的な徴募は行われていなかったことや、私学校の生徒以外は従軍が認められていなかったことなどが分かります。

【薩軍蹶起②】(二)
問:募兵の際、桜島の者が西郷の面前で切腹したというのは事実か。
答:入隊のことに関して切腹した者がいたというのは聞いた。誰かは知らない。しかし、西郷の面前で切腹した者はいない。《野村》

 入隊できずに切腹の挙に出た者があったという逸話はどうも事実のようで、暴発挙兵時の薩摩の熱気が伺い知れます。

【薩軍蹶起③】(三)
問:最初編成を行うとき、私学校生徒でない者は入れなかったのか。
答:そのとおり。おおかた私学校の生徒であった。《野村》
問:当初兵をまとめた際、15歳から60歳までの者に限定したのか。
答:そうではない。年配の上限はなかった。宮崎で募兵したときは、(年齢制限が)あった由である。《野村》

 こちらも編成に関する逸話です。もっとも、戦況が厳しくなった戦役中期以降、薩軍は各地でかなり強引な募兵を行ったことが知られています。

【海路作戦の可否】(一)
問:なぜ海路で出陣しなかったのか。
答:船がなかった。《野村?・大野?》
問:(船は)大いに有った。鹿児島(県)等の船があったが、如何。
答:曖昧《野村?・大野?》

 回答者の記載はありませんが、野村とみて間違いないでしょう。そもそも野村は戦略会議の際に海路作戦(桐野らにより却下)を主張した張本人なのですが、この尋問では口をつぐみ、追及を受けても曖昧な供述で逃げています。事後的な自己正当化や恨み節を潔しとしない、野村の男気が垣間見えるやりとりです。

【出陣時の軍令】(一)
問:大軍出発に際して軍令条はあったか。
答:軍令条というものはなかった。ただめいめいに約し、飲酒乱暴を禁じたのみである。出発時は合戦になる覚悟ではなかった。《野村?・長倉?》

 これも回答者は不明ですが、おそらく野村と思われます。「戦にはなるまい」というのが出陣時の西郷以下薩軍幹部の共通認識であったことは、大山県令の供述(『鹿児島一件書類』)などからも分かります。

【出陣時の認識】(五)
問:「当初は合戦するつもりはなかった」と言う者があるが、そうなのか。
答:当初から合戦の覚悟であった。皆、銃を携え弾薬を身につけて出陣したが、銃器・弾薬を重いとは思わなかった。《大野・田中・安藤》
答:西郷隆盛に従って吉田に至る頃、「熊本鎮台兵が川尻にて遮っている」という風説を聞いた。《田中》

 幹部陣が「戦にはなるまい」とタカをくくっていた一方、中堅将校以下の間では、当初から「戦になる」という認識が支配的だったようです。薩軍内で明らかに認識のズレが生じていたことになり、興味ぶかいところです。

【軍旗喪失事件】(五)
問:向坂の戦で官軍の連隊旗を持っていた士官が戦死したのち、現地民がその旗を拾い、10日余ののちに薩人の手に渡ったという説があるが如何。
答:そうではない。その(戦闘の)とき、1人の士官が連隊旗を立てるのを見て、その方向へ激しく発砲し、ついにこれを奪った。ときはすでに夜に入ったころだった。村田三介がその旗の端に、「村田三介が戦場にて分捕った」旨を書いたと聞く。決して現地民が拾ったのではない。《大野・田中・安藤》
答:その旗を花岡山の麓に立てて(熊本)城内に見せた。城兵はしきりに大砲を撃ちかけてきた。自分は(3月)14日までここにいたが、それまでは立ててあった。《安藤》

 乃木希典少佐が歩兵第十四連隊の軍旗を薩軍に奪われた事件は、よく知られています。その経緯には諸説ありますが、薩軍内ではこの証言のように認識されていたことが分かります。向坂は熊本城北方の地名。花岡山は熊本城南西にある小高い山で、薩軍が砲台を設置した場所です。

【将士の服装】(三)
問:諸隊長の服装は如何。
答:みな思い思いであったが、大概は洋服であった。《野村?・鮫島?・大野?》

 錦絵などでは着物姿で描かれることが多い薩軍将兵ですが、基本的には官軍同様に洋服の者が多かったことが分かります。[参考]

【官軍士官の狙撃】(二)
問:官軍の士官を見て狙い撃ちしたというのは事実か。
答:そのとおり。士官らしき者を狙うのは当たり前のことだ。《野村》

 ケロリと言ってのけている点に、戦場のリアリズムを感じます。結果として官軍では士官の死傷が続出し、部隊運用に大きな支障が生じることとなりました。

【近衛兵に対する評価】(二)
問:官軍の赤帽を恐れたというのは事実か。
答:いかにも、赤帽の部隊は強いように見えた。《野村》

 薩軍が近衛兵(鎮台兵と異なり、赤色の帽子をかぶっていた)に一目置いていたという逸話は、当事者も認める事実だったようです。
 なお、「近衛兵はみな士族だったため強かった」という俗説がありますが、これは誤りです。近衛兵は明治6年に兵員刷新が完了しており、西南戦役時点では兵卒のほぼ全てが鎮台壮兵か徴兵の出身者に入れ替わっていました。

【田原坂の牛】(五)
問:田原坂の戦で牛を放って官軍に向かわせたという話があるが事実か。
答:そのようなことはない。田原坂決戦では、交戦距離が甚だ近く、そのようなことは行えなかった。御船においてある夜、官兵を襲い撃破したことがあるが、それからほどなくして村中の馬が放たれ、官兵はこれを夜討と思って大いに騒いだことがあった。牛の話は、これが誤って伝わったものと察する。《大野・田中・安藤》

 木曽義仲の火牛の計を彷彿とさせるこの話は錦絵にもなっていますが、当然ながら否定されています。もっとも、官軍は薩軍の斬込みを極度に警戒しており、陣中では「薩軍斬込み!」の誤報によって兵たちが恐慌状態に陥る「斬込み騒ぎ」も頻発していました(『西南記伝』)。

【農民の弾拾い】(二)
問:木留あたりにて弾薬が欠乏した際、農民に弾を拾わせて用いたというのは事実か。
答:拾わせたのではない。彼らが利益を欲し、拾って売りに来たのだ。《野村》

 木留は田原坂南方の地名。弾拾いはあくまで農民側が持ちかけてきたものだ、と野村は主張しています。戦争に伴うあらゆる物事を商機に変える、戦地の人々のたくましさが伝わってきます。

【貨幣の鋳造】(二)
問:紙幣を製造した際、金・銀貨の製造に関する話もあったと聞くが如何。
答:そのことは知らない。金銀を入手できるあてはなかった。《野村》

 これも当時新聞で報道された情報ですが、否定されています。紙幣とあるのは、有名な「西郷札」です。

【戦場の死体】(三)
問:熊本にて鎮台兵の死体を解剖し、城内で何を食べているか調べたというのは事実か。
答:そのようなことはなかった。《野村・鮫島・大野》
問:味方の死体を、医学のため解剖したことはあったか。
答:そのようなこともなかった。《野村・鮫島・大野》
問:田原坂において官軍戦死者の死体を重ねて防塁としたり、また味方の死体を重ねて防塁としたという話があるが、事実か。
答:そのようなことはなかった。《野村・鮫島・大野》
問:戦死者を埋葬し、他人の墓石をとってこれに立てることがあったか。
答:そのようなことはなかった。《野村・鮫島・大野》

 戦場ならではの凄惨な風聞ですが、野村らはいずれも否定しています。なお、官軍の一部では戦場で得た人肉を食する行為が横行していた(『従征日記』)ほか、官・薩を問わず、敵兵の死体を損壊・凌辱する蛮行も頻発していました(同前ほか)。

【戦場の女性】(五)
問:鹿児島において婦人が集まり、大久保(利通)・川路(利良)の旧宅を壊したというのは事実か。誰が頭目となったのか。
答:そのことは実際にあったようだ。しかし、特定の誰かが頭目ということはなく、各地で(同種の暴動が)発生していたらしい。
問:婦人が戦に出たことはあったのか。
答:鹿児島で官兵が坂元村・集成館に来襲した際、少女が2人、1人は17~18歳の者、もう1人は15~16歳の者が、味方の兵を導き敵軍に向かって進んだ。17~18歳のほうは、手に包丁を持って先導した。味方はこれに従って敵と戦った。そののちこの2人の女子がどこに行ったかは知らない。《安藤》
問:甲突川の戦の際、夜中に竹柵を揺する者があり、官兵がこれを射撃したところ、翌朝子を背負った1人の婦人が弾丸に当たって死んでいるのを見たという話があるが如何。
答:そのようなことはなかったであろう。総じて女性を軍事任務に使ったことはなかった。《大野・田中・安藤》

 錦絵や新聞報道では、「娘子軍」「女人隊」といった勇壮な薩摩女たちの姿が頻繁に登場します。中には西郷隆盛や篠原国幹の娘とされる者が登場する荒唐無稽なものもあり、西南戦役が当時の人々にとっていかに娯楽のタネとなっていたかが分かります。

[参考]南洲神社・薩軍将士の募(筆者撮影)




 全3回でお送りしましたが、いかがだったでしょうか。
 西南戦役にまつわる俗説がいかに怪しいものであるか、あらためてお分かりいただけたことと思います。
 今後も、折を見て面白い史料を紹介していきたいと考えておりますので、おつきあいいただければ幸いです。

 
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