夕風桜香楼

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西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【4】浮かび上がる断片的事実

2023年09月11日 19時33分47秒 | 征西戦記考
 
 さて前回、シサツ勘違い説が成立し得ない理由を提示しました。
 では、第2回で紹介したアーネスト・サトウや山県有朋らの逸話は何だったのか? ……というわけで、今回はこれらの人物を含め、世間がシサツ勘違い説を信じるに至った原因について、考察を加えてみたいと思います。
 実のところ、筆者はこのシサツ勘違い説の元ネタについて、ある程度目星がついております。


①川村・林による報告電報

 「シサツ」という文言の、そもそもの出所はどこか。……同時代史料を見る限り、それは海軍中将・川村純義と内務少輔・林友幸が連名で打った、1本の電報であると考えられます。
 西南戦役のきっかけの1つである火薬庫襲撃事件の発生直後、川村・林は、政府の使者に任命されました。両名は軍艦「高雄丸」で海路鹿児島へ急行し、大山綱良県令から事情を聴取するなどしましたが、武装した私学校暴徒が艦の周囲で威嚇してきたため、即日反転離脱しています。(このあたりの経緯は、過去記事も参照)
 当時、艦載の無線電信などはもちろん存在しませんので、川村らは帰路に立ち寄った尾道の電信局から、鹿児島の状況を政府に速報しました(当時の政府中枢は、明治帝の関西行幸に伴って京阪にありました)。政府の面々はおそらく、この電報で初めて西郷暗殺疑惑なるものの存在を認知したと考えられます。

 薩摩へ去る九日朝着船す。(鹿児島暴徒は)兵器を以て我が高雄丸に乗り入らんとす。故に上陸する能わず、県令は漸く高雄丸に会す。とても鎮定成り難し。最早昨今は発兵するの勢い、入港の船をことごとく止む。船の薩摩行を留むべし。肥後鎮台へも報告す。兵員わけて御注意あるべし。
 其の名とする所、西郷大将を刺殺することを大警視より中原某等へ申し含めしと云う。中原其の他三十名捕縛せしと県令より聞く。
 風波のため今日午前八時二十分当港へ着。

(『鹿児島征討電報録』)

 川村らは、「私学校党の挙兵の大義名分は、西郷大将を『刺殺』することを川路大警視が中原らに指示したことにある」と報告しています。
 しかしこの電報文は、もともとカタカナ表記だった原文が、記録用として漢字仮名交じり文章へ清書されたものです。すなわち、本来は「サイカウタイシヤウヲシサツスルコトヲ」といったカナのみの原文であったはずなのです(なお、電報原文自体の史料は発見に至らず)。
 それを踏まえ、あらためて原文ベースで考えてみると、「シサツ」という文言は「刺殺」なのか「視察」なのか、極めて曖昧です。電報を受信・清書した政府の職員も、おそらく判断がつきかねたのではないでしょうか。というのも、複数ある西南戦争関係電報録のうちの別の一冊では、同じ電報が次のように清書されているのです。

 其の名とする所、西郷大将を視察することを大警視より中原某等へ申し含めしと云う。中原其の他三十名捕縛せしと県令より聞く。
(『鹿児島征討電報録』)

 つまり、当時の政府内において、実際に「シサツ」という言葉をめぐる誤解・勘違いが発生していたわけです。
 これは率直に言って、川村らが電報で安易に「シサツ」という曖昧な言葉を使ったことに、全ての原因があります。
 鹿児島視察の際、川村らは大山県令から対面で説明を受け、西郷暗殺問題の概要を明確に認識しています(『川村純義追懐談』『鹿児島一件書類』等)。大山がその場で「シサツ」という言葉をどの程度使ったかはわかりませんが、少なくとも川村らがそれを聞いて「視察」と「刺殺」を取り違えた形跡はありません。ゆえに、川村らが電報で使った「シサツ」が「刺殺」であることは、間違いないと考えられます。
 しかし「シサツ」という言葉のチョイスは、電報文を作る感覚に著しく欠けているといわざるを得ません。電報という媒体である以上、例えば「アンサツ」「サシコロス」など、読み手が明確に理解できる表現を使うべきなのです。類似の齟齬は現代のビジネス・コミュニケーションでも大いに起こり得るものですので、考えさせられるものがありますね……。
 いずれにせよ、政府内での伝言ゲームの過程で「シサツ」という言葉をめぐる齟齬が発生していたことは、史料的に裏が取れる事実というわけです。


②密偵団の暗号(隠語)

 次に紹介するのは、「ボウズヲシサツセヨ」電報の元ネタと考えられる事実です。
 実のところ、落合先生が著書で取りあげていた西郷=坊主という暗号は、実際に存在していたらしいことが分かっています。すなわち、鹿児島の大山県令が、密偵から押収した暗号メモを報告した史料が残っているのです。

 暗号
  一 虎とは 電信機
  一 西の窪とは 大久保のこと
  一 親方とは 政府のこと
  一 坊主とは 西郷のこと
  一 警助とは 警視庁
  一 吉田とは 桐野のこと
  一 川原とは 三条のこと
  一 髭とは 別府のこと
  一 於岩とは 岩倉のこと
  一 一向宗とは 私学校のこと
  一 川口屋とは 川路のこと
  一 天狗とは 銃砲のこと
  一 藤細工屋とは 安藤のこと
  一 御薬とは 弾薬のこと
  一 人力車とは 巡査のこと
  一 馬車とは 兵隊のこと
  一 クジラとは 軍艦のこと
  一 乞食とは 探索者のこと (略)

(『林友幸西南之役出張日記』)

 暗号よりは隠語というべきものではありますが、西郷隆盛、桐野利秋、別府晋介など私学校党関係者に加え、大久保利通、岩倉具視、三条実美(太政大臣)、川路利良、安藤則命(警視局中警視)といった政府要人の名前、さらには巡査、銃砲、弾薬、軍艦といったキーワードが列挙されています。また、大山のこの報告書には、西郷=「煙草」、桐野=「カスリ」、私学校=「ミカン」といった、別バージョンの暗号も併録されています。
 中原ら密偵団が実際にこれらの暗号を使っていたと考えることは、それほど不自然ではありません。彼らは敵地で危険な極秘任務を遂行しているわけですし、例えば現在の警察で「犯人」=「ホシ」といった類の隠語が使われていることもよく知られています。
 つまり、「ボウズヲシサツセヨ」という電報の存在は怪しいものの、少なくとも中原ら密偵が西郷を「坊主」という暗号(隠語)で呼称していたらしいことについては、ある程度の信憑性が認められるのです。


③岩倉具視の推測

 3つめに紹介するのは、東京の岩倉具視と京阪の川村純義の間で交わされた往復電報の記録です。そして筆者は、これこそが勘違い説の原因・経緯を解き明かす最重要史料である……とにらんでおります。
 電報は2本あります。1本めは、鹿児島視察から戻ってきた川村が2月16日(鹿児島征討令布告の3日前)、岩倉に対して送った電報です。重要な内容なので、原文と現代語訳をともに紹介します。

 先日御届け致し候「川路大警視の指令を以て西郷大将を視察する」云々は容易ならざる事件に付き真偽不分明、右等ノ事万々あるまじくとは存ずれども今般御尋問として西郷上京致すべくとの場如何にも順序相立たず、上京猶予致すべき旨大山県令を以て申込め置き候に付き、全く同県人の偽策に非ずや。川路御取糺し何分の儀承知致したく候。
《先日お届けした「川路大警視の指令をもって西郷大将を刺殺する」云々は容易ならざる事件で、真偽は明らかでありません。そのようなことは万が一にもあり得ないとは思いますが、今般政府に尋問ありとして西郷が上京するというのは順序が立たないので、上京を思いとどまるべき旨、大山県令を通じて申し伝えておきました。(西郷刺殺計画というのは)全くもって鹿児島人たちによる虚言ではないでしょうか。川路を問いただし、詳細を確認したいところです。》
(『鹿児島征討電報録』)

 参照元の史料上は、「シサツ」の箇所が全て「視察」で清書されています。しかし、ただの視察命令が「容易ならざる事件」「万が一にもあり得ない」というのは文脈上考えにくいため、川村はやはり「刺殺」の意味でこの言葉を使っているとみるべきです(そのため、現代語訳では修正してあります)。ここでも現に誤解が発生しているわけで、電報で安易に「シサツ」という言葉を用いることの問題点があらためてお分かりいただけると思います。
 いずれにせよ、川村はこの電報において、刺殺計画の首謀者とされている川路利良への事実確認が必要だ、との旨述べています。(川村はこのとき京阪にいますが、岩倉と川路は東京に残っていました。)
 川村から電報を受けた岩倉は、同じ2月16日付でさっそく返信をしています。

 電報落手せり。川路大警視の指令を以て西郷大将シサツ云々容易ならざる事件に付き真偽分明に承知ありたき旨、早速川路へ尋問せし処、「警察の儀は職掌故固よりたるべき様なし、若し暗殺等の取違いに候わば思い寄らざる訛伝」と答え候。
 我考うるに「シサツ」則ち「サシコロス」の字と誤認候やと存じ候。来示の通り万々之れなき事にて全く偽策と存じ候

《電報を受領しました。「川路大警視の指令で西郷大将をシサツ」云々は容易ならざる事件につき真偽を承知したい旨、さっそく川路に確認したところ、「警察の職務上、そのようなことがあるはずはなく、もし暗殺などと勘違いが生じたなら思いもよらない誤解である」と答えました。私が考えるに、鹿児島県人は「シサツ」 を「刺し殺す」意味と誤認したのではないかと思います。お考えのとおり、万が一にもあり得ないことであり、全くの虚言と存じます。》
(『鹿児島征討電報録』)

 いかがでしょうか? この電報において突如、岩倉から「私学校党は『シサツ』を『刺殺』と勘違いしたのではないか」というアイデアが飛び出すのです。
 往復電報の文面からは、突如発覚した西郷刺殺陰謀なるものに対する川村・岩倉らの狼狽ぶりが、ありありと伝わってきます。なぜそんな事態が起きたのか、彼らは見当がつかず、何か腑に落ちる「答え」を探し求めた。そして、鋭敏な頭脳をもつ岩倉はピンと来たわけです……「分かった!この『シサツ』が全ての原因だ!」と。もしかすると、川村からの電報文を見た川路が「私は部下に『視察』は命じたが、『刺殺』は命じておりません!」などと主張し、それにヒントを得たのかもしれません。
 要するに、実相は次のとおりだったということです。

× 私学校党が「シサツ」を「刺殺」と勘違いした
〇『私学校党が「シサツ」を「刺殺」と勘違いした』のだと、岩倉具視が勘違いした


 岩倉は、とにかく本件のキーパーソンというべき存在です。
 第2回を思い出してください。アーネスト・サトウがシサツ勘違い説を聞かされた相手は……岩倉でした。そう考えると、サトウの日記はむしろ「岩倉によってシサツ勘違い説が創出・流布されたことの傍証」としての意味あいが強くなってきます。

 いかがだったでしょうか。
 次回(最終回)では、これまで紹介してきた情報を整理し、勘違い説が生まれた経緯をあらためて再構築し、解説を加えてみたいと思います。

(【5】へつづく)
  
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