夕風桜香楼

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【3/3】西郷はいずこ 鹿児島暴発をめぐる情報戦 ③

2021年05月12日 00時01分08秒 | 征西戦記考
 


第3回 覆っていく事実

 2月19日、征討発令と入れ違う形で、熊本から内閣へ1件の電報が届きます。

 本日、鹿児島県官3名が西郷以下の失敬な通知書を持ち、同書中の筆足らずな部分を補足するために使者として到着したゆえ、兵器を持って大人数で通行することは断ったところ、「西郷は陸軍大将ゆえ、兵器を持つことは権限の範囲内であり、地方官の関知することではない。しかし、自分らの権限では回答できないので、直ちに西郷に相談する」とのことです。
(2月19日付岩倉具視宛熊本権令電報)(『鹿児島征討電報録』)

 熊本県庁を訪れた使者、それは鹿児島県庁の「専使」でした。
 この専使とは、薩軍上京を道中の各府県に事前通告するため、大山県令が放った一団です。鹿児島県官20数人を1班当たり3-4人に編成したもので、「政府に尋問の筋これあり」の一節で知られる西郷以下の上京通知書等を携え、一種の先遣部隊として各地に散っていました。

 今般、陸軍大将西郷隆盛・陸軍少将桐野利秋・陸軍少将篠原国幹が政府へ尋問の筋あり、旧兵隊等も随行し、近日中に上京いたすことを届け出るにつき、貴庁においてご承知置きいただき、朝廷への上申はもちろん、各府県ならびに各鎮台へ通知のため、(鹿児島県)官員に専使を申し付けたところですので、貴管轄内に到着したならば、道中異議なく通行させていただきますようご依頼いたします。
(2月14日付各府県警察職員宛大山綱良通知書)(『鹿児島征討始末』)


 専使の来着は、まさしく西郷去就認定問題をめぐる第2のターニングポイントとなりました。岩倉も、この電報の内容が有象無象の諸情報とは明らかに違うことを瞬時に嗅ぎ分けたようで、その日のうちに、

 富岡権令の西郷使者なる者の応接について、権令と谷(鎮台司令長官)へどのような下知をしたのでしょうか。
(2月19日付大久保利通・伊藤博文宛岩倉具視電報)(『鹿児島征討電報録』)


と京阪へ問い合わせています。
 ただし、これに対する返信は、電報録中では確認できません。この日は征討発令に伴う各種対応で皆が慌ただしく駆け回っていましたし、さらには「熊本城炎上」の急報も矢継ぎ早に舞い込んでおり、内閣は大混乱に陥っていたのです。

 とはいえ、専使の出現は内閣を明らかに動揺させました。この点、次の伊藤博文の書簡(2月20日付)は、内閣の認識変容を解明するうえで特に重要といえます。

 もはや西郷へは勅使派遣に及ばず、(勅使派遣の対象とするのは)久光公父子だけのことと存じます。すでに賊の専使と称して熊本へ出張している鹿児島県官の者が言っているところによれば、西郷は兵を率いて暗殺云々のことを尋問するために上京するとのことです。これももしかすると賊徒の詐術にして、虎の威を借るための方便かもしれませんが、当初からの経過を考えるといかにもあり得る話のように見込まれます。
(2月20日付岩倉具視宛伊藤博文書簡)(『岩倉公実記』)


 つまり、ここにおいて内閣では「西郷不関与」説が大きく後退しているのです。おそらく伊藤らは、専使の来着を機に従前熊本県等から随時送られてきていた「西郷関与」関係情報を洗い直し、認識を修正したのでしょう。

 専使たちは、2月20日から21日にかけ、福岡・長崎で随時検挙されました。各県庁は、専使から得た情報を内閣へ続々と報知しています。

 (逮捕した専使によれば、)賊徒巨魁の人名は、西郷、桐野、篠原、池上、永山、村田、別府です。
(2月21日付大久保利通宛福岡県令電報)(『鹿児島征討電報録』)

 (逮捕した専使によれば、)当初、西郷は(決起に)異論であったが、中原なる者が「もし西郷が(私学校党と)ともに暴挙するのであれば刺し違えるよりほかにない」という川路大警視の内命を受けたことを申したところ、西郷は憤然として決心し、政府へ尋問ありとして上京することとなり、旧兵隊の随行を願い出たので、大山県令がこれを許可し沿道の各府県へ通知依頼した(とのことです)。(この事実は、)去る13日の内達と違っています。
(2月21日付不詳(大久保利通か)宛福岡県令電報)(『鹿児島征討電報録』)


 これらの情報を後世の目で答え合わせ的に薩軍側の記録と照らし合わせてみると、いずれも正確に一致することが分かります。

(なお、2月21日には海軍の鹿児島視察の第二陣(伊東祐麿少将座乗の軍艦「春日丸」)も長崎に帰還し、結果報告を行いました(『西南征討志』)。ただし、他の同時代史料(特に内閣関係者の電報・書簡等)ではこれに関連する情報がほとんど確認できないため、西郷去就認定問題にどこまで影響したかも判然としません。)

 さて、専使の来着によって「西郷関与」説が大きく揺らいだ直後、追い打ちをかけるように西郷去就認定問題をめぐる第3のターニングポイントが到来します。
 それは「太平丸」の京阪到着です。

 三菱会社の郵船・太平丸は、内務少書記官・木梨精一郎を乗せて琉球から帰京の途中、寄港した鹿児島でたまたま騒擾に遭遇し(2月8日)、一時抑留されます。しかし、19日には鹿児島を出港し、21日深夜に神戸へ到着したのです。
 太平丸出港の際、大山は西郷以下の上京通知書(専使に持たせたものと同一の文書)を木梨に託していました。また同船には、県下状況報告の使者(鹿児島県官1人)や、火薬庫襲撃暴動の生き証人というべき鹿児島海軍造船所の面々(菅野覚兵衛少佐以下18人)が乗船していたほか、大山県令から林内務少輔あての書簡(薩軍出陣の顛末や西郷暗殺密偵団の暗号等の報告)も積まれていました(『林友幸西南之役出張日記』『西南征討志』)。

 鹿児島より太平丸は19日午後出発し、昨21日午後11時(神戸へ)入港したところ、(同船の者が)報じるには、西郷(隆盛)、桐野(利秋)、篠原(国幹)、村田(新八)がおよそ1万5千の兵を4大隊に分けて15日熊本へ出兵、鹿児島路は平定され左大臣(島津久光)・旧知事公(島津忠義)は依然として大義名分を唱え(て鹿児島にあり、旧)藩兵がおびただしく(集まって、久光らを)守護し、天皇陛下の御命令を待っているとの確報を得たので、この旨報知するとのこと。
(2月22日付安田権大書記官宛折田少書記官電報)(『鹿児島征討電報録』)


 太平丸によってもたらされた各種の情報は、その高い鮮度と信憑性ゆえ、「西郷不関与」説にとっていわばトドメの一撃となりました。すなわち、太平丸によって届けられた大山書簡に目を通した林は、

 その趣旨の帰着するところは曖昧で文意もはっきりしないが、この文面から考えれば、西郷は暴挙の首謀者で、大山県令もまた同調しているとみるに足るであろう
(2月22日付林友幸日記)(『西南之役林友幸出張日記』)


と結論するに至り、2月23-24日ころにはついに木戸孝允や三条実美といった内閣首脳たちも、

 私は過日を境にいよいよ西郷隆盛以下暴動(関与)の旨を承知したが、実に国家の一大乱につき、(賊徒征討の大命が)天下へ示され、(天皇陛下の)叡慮も(効果が)なくて(面目)かなわず恐れ入っている。
(2月23日付木戸孝允日記)(『木戸孝允日記』)

 別紙のとおり、鹿児島県令の上申書(太平丸で届けられた西郷以下の上京通知書か)を回付いたします。不都合な(内容の)書面につき、近日中に船便をもって(鹿児島の大山)県令を詰問する予定です。徐々に電報で西郷が謀反したらしいことを承知していましたが、いよいよこの上申書によって叛乱の証拠が明らかとなり、驚愕至極です。(中略)
 西郷以下の官位剥奪は当然のことですが、今すぐに西郷が賊となったことを公認・発表すれば、(全国各地で)これに呼応(して叛乱)する者も増加すると思われますので、準備が整うまで(発表は)見合わせておきます。しかし、一両日中には発表のつもりです。
(2月24日付岩倉具視宛三条実美書簡)(『岩倉公実記』)


と、「西郷関与」を断定することとなるのです。なお、本特集第1回冒頭で紹介した、大久保の「逢えばすぐ分かるのだ」の逸話は、この時点での一幕と解するのが自然といえるでしょう。

 2月25日、西郷以下の官位褫奪が全国へ達され、彼らは公式に「賊」となります。
 混乱と狂騒に満ちた西郷去就認定問題は、ここにようやく終焉を迎えたのでした。


結び:西郷去就認定問題に垣間見る、"情報"の本質

 以上、全3回にわたり、西郷去就認定問題の紆余曲折を解説しました。いかがだったでしょうか。

 火薬庫襲撃事件発生後、内閣には比較的早い段階から「西郷関与」の兆候情報が届いていました。しかし大久保、伊藤、岩倉ら内閣の主要人物は、個人の主観、予断、希望的観測に引きずられ、その重要性を見抜けませんでした。もちろんこれは後世の目で見た結果論でしかなく、彼ら当事者たちはごく限られた情報を頼りに極力合理的な判断に努めていたのですが、少なくともこの情報判断ミスが結果として各種初動対応の遅延を招いた事実については、やはり一定の批判を免れ得ないでしょう。

 西南戦役から約70年後、日米戦争で大本営情報参謀として活躍した堀栄三の自著には、次のような言葉があります。

「実際情報の処理とは、篩の中に土砂を入れて、それを篩い落すようなもので、その中からほんの一つの珍しい石ころでも出たら有難い。時にはダイヤが出ることだってある。ところが、それで喜んではいけない。そのダイヤが本物か、偽物かという問題にぶつかるからだ。場合によっては、二つ三つのダイヤが篩に残ることもある。さてどれが本物で、どれが偽物か、あるいは全部偽物かと選択を迫られることもある。」

「情報とはこのようなものである。常に断片的な細かいものでも丹念に収集し、分類整理して統計を出し、広い川原の砂の中から一粒の砂金を見つけ出すような情報職人の仕事であった。」

「よく戦後の戦史研究家で、あのときこんな情報があったのに、どうしてこれを採用しなかったか、と批評する人がいる。しかし情報は二線、三線での交叉点を求める式の取り組みをやらないと、真偽の判断は難しい。」
(堀栄三『大本営参謀の情報戦記』)


 西南戦役勃発時の内閣は、まさに「広い川原の砂の中から一粒の砂金を見つけ出す」ことに失敗してしまったといえるでしょう。そしてそれは、"情報"というものの普遍的な本質について、現代のわれわれにもあらためて多くの示唆を与えてくれているように思います。


【本特集における主な参考文献】

『征西戦記稿』陸軍参謀本部
『明治十年西南征討志』海軍省
『鹿児島征討電報録 一』公文録・明治10年・第161巻
『鹿児島征討電報録 完』公文録・明治10年・第153巻
『法令全書 明治十年』内閣官報局
『鹿児島県史料 西南戦争』より、
 『鹿児島征討始末』
 『林友幸西南之役出張日記』
 『鹿児島一件書類』
『西南記伝』黒龍会
『西南戦役側面史』下田曲水
『大久保利通文書 第七』日本史籍協会
『大久保利通日記 下巻』日本史籍協会
『大久保利通伝』勝田孫弥
『大久保利通』佐々木克
『岩倉具視関係文書 第七』日本史籍協会
『岩倉公実記』多田好問
『木戸孝允文書 第七』木戸公伝記編纂所
『木戸孝允日記 第三』妻木忠太
『川村純義・中牟田倉之助伝』田村栄太郎
『西南戦争警視隊戦記』後藤正義
『只今戦争始メ候 電報にみる西南役』大塚虎之助
『カナモジでつづる西南戦争 西南戦争電報録』田中信義
『西南戦争探偵秘話』河野弘善
『明治ニュース事典I』毎日コミュケーションズ

  
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