謎パーク

いろいろな謎を考える。宇宙とか地球とかに関する謎や中南米謎の古代文明だとか。それとあっちこちの白昼の徘徊夜話だとか。

♪古墳大国「群馬」をゆく・・・珍しく車でまわりました――Part2

2018-08-07 17:09:01 | 日記

Part 1からの続きです。まず女体山古墳から。

★女体山古墳(地図中10番)

 なんともなまめかしい名前の古墳です。隣接する男体山古墳(太田天神山古墳の別名)とのペアリングでこういう名前に。

 帆立貝形の古墳で、墳丘の全長は106mあるらしいのですが、なんともメリハリのない写真です。以下は上空からのお写真と俯瞰図です。

 上の2点とも太田市のホームページより引用

 まん丸・こんもりなご近所の林って感じですね。俯瞰図を見ると、なるほど東日本最大の太田天神山古墳と隣接し、お互いにほぼ同一時期(5世紀中頃)に同一方向を向いて築造されています。このことから、両古墳には密接なつながりがあると推測されています。

 太田天神山古墳がこんなに近いのだからそっちへ先に行くべきなのでしょうが、なぜかちょっと離れた塚廻り古墳群第4号古墳ってとこへ先に行っちまいました。

★塚廻り古墳群第4号古墳(地図中11番)

 水田地帯を探し回って、人にもたずね、やっと見つけました。昭和52年に偶然発見されたという帆立貝形古墳群の1つ。今回の古墳探訪で水田の中にある古墳というのはこれだけです。

 あたりはこんな田園風景。

 やっと見つかった!

 埴輪殿とご対面。

 なおも寄ります。

 6世紀前半の築造という、長さ22.5mの小さな古墳です。ここまでくるとかわいらしい。子供が見たら喜ぶんじゃなかろうか。

 帆立貝形古墳は、埋葬施設である円形部と、そこから突き出た造り出しを特徴とする墳墓です。前方後円墳の前方部が小さくなり造り出しへと姿を変えたものといってよいでしょうか。

 さて、次は東日本最大の太田天神山古墳です。

★太田天神山古墳(地図中9番)

 全長210mの前方後円墳、5世紀前半~中期の築造。200mを越す東日本唯一の古墳で、別名男体山古墳。小生のような日頃せこい墳丘しか見られない輩にとっては、これはまさにアウト・オブ・スケールでまさか古墳とは思わず、うっかり通り過ぎてしまいそうです。

 荒らされまくっており、出土品としては埴輪類や土師(はじ)器類がかろうじて見つかったという程度です。

 埋葬施設は竪穴式(墳丘のてっぺんから穴を掘って埋葬施設を設ける)が推定されています(未調査)。竪穴式は古墳時代の初めから中頃までに多く見られ、それ以後は横穴式(墳丘の横っ腹に穴を掘って埋葬施設を設ける)のものが主流になっていきました。今回の古墳巡りでは、竪穴式古墳と横穴式古墳の比率はほぼトントンでした。もっとも未調査のものも多く、特に竪穴式のものは推定が多いという特徴があります。

 上はおなじみ「くびれ」部。左側に見えるちっちゃな建物は神社です。

 これが神社。おんや、地には花が・・・

 ってことで、次は朝子塚古墳に向かいます。

★朝子塚古墳(地図中8番)

 太田市の古墳探訪の掉尾をかざるのは朝子塚古墳です。全長123.5mの前方後円墳で、群馬県の古墳出現期後期である4世紀末~5世紀初頭頃の築造。

 ろくな写真が撮れなかったのでお借りした写真をお見せします。

 埼群古墳館より引用

 ちゃんと手間ひまかけて撮った写真を見るとなかなか立派な墳丘です。

 恥ずかしながらあたしが撮った写真は・・・

 古墳なんていうでっかいものの直近を撮ってるんだから、まさに「群盲、象をなでる」状態ですな。うんと距離をおいて撮れればいいんですが、たぶん位置がわるくてカメラをひけなかったんでしょう。下の航空写真でいうと、左斜め上へ向かう車道上でうろうろしてたんじゃないでしょうか。ちょっと先へ行って左へ折れればいいポイントがありそうなのにね。でも、下の写真がいつ撮られたかにもよりますね。そうとう昔に撮られたもので、いまじゃ、古墳のまわりは家だらけだったりして(お前、現地に行ったんだろう、それくらい覚えてないのか・・・(-_-;))

 太田市のホームページから引用

 次へ向かいます

 ★大室古墳群(地図中15番)

 この古墳群は大室公園内にあります。 

  埼玉県の埼(さき)玉古墳群には及びませんが、ここも大小の古墳群と中心にあるごく小さな湖(はは、沼です)と豊かな緑からなる歴史公園です。wikipediaによると、「日本の古墳のなかでも早い時期から学術的な調査が行われたことで有名である。1878年(明治11年)には豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の陵墓候補地に挙げられていた前二子古墳の発掘調査が行われ、石室より発見された数多くの遺物は、当時の世間の注目を集めた」ということで、全国から見学者が殺到し、その数5179名に及んだということです。当時の人々の歴史に対する関心はすごいと思います。豊城入彦命の陵墓というだけでそんなにも大勢の見学者が集まるんだから。

 豊城入彦命については、本ブログの「なぜか群馬県、なぜか倉賀野、そしていにしえの奥津城(古墳など)たち――Part1」の倉賀野神社のところでも触れました。同神社の由来書きに「豊城入彦命が東国平定のために関東への下向途上、今の倉賀野神社境内にあたる場所にて斎場を設け、松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀した」としてあったのです。

 重ねて豊城入彦命の子孫である上毛野氏(かみつけののうじ)が東国で最大とされる太田天神山古墳(5世紀前半~中頃)を築造し、さらに、太田天神山古墳が造られる以前には東国最大の前方後円墳であった倉賀野町浅間山古墳(4世紀末~5世紀初頭頃)も上毛野氏によって築かれたのではないかという妄説も述べてしまいました。

 で、大室古墳群の前二子古墳が豊城入彦命の陵墓なのかどうかということについては、現在では何の根拠もない妄説としてしりぞけられています。ああ、妄説よ、妄説よ、なんじのしかばねを乗り越え、性懲りもなくどれだけの数の妄説が新たに産声をあげていることか。

 妄言はこれくらいにして、古墳の写真といきたいところですが、なぜか猫ちゃんが。

 なんか古代エジプトの猫(下)みたいな雰囲気。

 まだほかにも。

 この猫ちゃんたちはいったいなんざんしょう。にゃんとも不思議な古墳猫ちゃんたちでありました。

 大室古墳群には前二子古墳、中二子古墳、後(うしろ)二子古墳、小二子古墳などがあり、すべて前方後円墳です。

・前二子古墳

 豊城入彦命の陵墓になりそこねた前二子古墳です。全長94m、6世紀初頭の築造です。

・中二子古墳

 全長111m、6世紀前半の築造。大室古墳群の中では最大です。墳丘の平坦面や中堤には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。

 以上2つの古墳はほぼ同方向に並んでいましたが、後二子古墳と小二子古墳はそれらからは少し離れたところにあります。そこへ向かう途中、

またもや猫ちゃんが。

 公園のほぼ中央に位置する五料沼です。この公園は猫といい、でっかいクモといい、そして人物埴輪といい、妙に生き物の気配が濃厚なところです。

・後二子古墳

 全長85m、6世紀後半の築造。石室から発見された3本の歯から、被葬者は熟年の女性であることが判明したそうです。

 石室には何もありません。

・小二子古墳

 全長38m、6世紀後半の築造。埴輪の雰囲気がいいですね。

 後円部の背後からパチリ。

 ここらで大室古墳群には別れをつげ、次の群馬県藤岡市の伊勢塚古墳に向かいます。

 ★伊勢塚古墳(地図中2番)

 道路沿いにこんな標識があったので、古墳は近いかな思ったりして。

 たぶん、そうだったのだろう、向こうのほうにこんもりした塚状のフォルムが。

 着きました。

 この古墳は珍しい八角形古墳で、6世紀前半の築造とされています。

 石室の石積みに特徴があるみたいでよ

 

 天井石を見ると

 

 うーん、でかい。ここの天井石はなんか天然のままの巨石のようだけど。他の古墳の天井石の多くが巨大な切り石で表面が平坦であったのに比べ、この古墳では天井石よりも側壁のほうに独特のこだわりをもって――細長い石を小口に積んで、部分的には大きな石を配するなど装飾性に富んだ造りとなって――築造されています。

 このような側壁重視の古墳であっても、天井石だけは巨石を使うという日本の古墳独特の風習はここでも踏襲されています。何かこの風習には、宗教上の理由あるいは何らかの権力の誇示みたいな”いわれ”でもあるのでしょうか?

 さてお次は、伊勢塚古墳からほど近い七輿山古墳へ。

★七輿山古墳(地図中1番)

 「ななこしやまこふん」と呼ぶそうです。こちらも藤岡市にある古墳です。

 なかなか立派なたたずまいです。全長145m、6世紀前半に築造された前方後円墳です。6世紀代の古墳としては東日本最大級だそうです。

 墳丘のたもとに小さな石像群が。


 首が落ちてるものが多いですね。

 墳丘に登りながら、妙にわくわくしながらくびれ部をおがみます。

  またかようなものが・・・

 やはり首がない。首なし好き古墳ってか。

 葺石が散乱してます。

 古墳の埋葬施設は未調査ということですが、地中レーダー探査の結果、大規模な横穴式石室の存在が推定されているそうです。

 では、次の高崎市にある山ノ上古墳に向かいます。

★山ノ上古墳(地図中3番)

 この古墳は、高崎市の南吉井町と接する山村部(山名町字山神谷)にあります。山名町から吉井町一帯はかつては多胡(ご)郡と呼ばれていました。この多胡郡は、はるか昔の奈良時代に設置されたことが碑文からわかっています。その碑文とは多胡碑と呼ばれるもので、上野三碑(こうずけさんぴ:群馬県に存在する古代(7~8世紀)の石碑。山上碑「やまのうえひ」(681年)、多胡碑「たごひ」(711年頃)、金井沢碑「かないざわひ」(726年)の三碑をさす)のうちの一碑です。

 日本国内に現存する古代(7~11世紀)の石碑は18例しかなく、その内の3例が近接して残っていることが特筆に値するということです。これら上野三碑が、2017年、世界記憶遺産に登録されたことは記憶に新しいですね。そして三碑のうちの山上碑は、これから訪れる山ノ上古墳にあります。

 このあたりの丘陵中腹にあるということです。

 なるほど山の上にあるようです。山ノ上古墳というだけのことはあります。

 エッチラ、オッチラ登ってやっと着きました。

 標石の背後にある覆い屋の中に山上碑があります。

 これです。中が暗いのと撮影の腕が悪いのとでただの石塔にしか見えません。

 石碑にはこんな古代文字が刻まれています。

 白地に記された文字がそうです。上野三碑:山上碑及び古墳 | 高崎市によると読み方は

辛巳歳集月(しんし(かのとみ)のとしじゅうがつ)三日に記す

佐野三家(さののみやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫の黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川臣(にっかわのおみ)の児の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大児臣(おおごのおみ)に娶(とつ)ぎて生める児の長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定むる文也。 放光寺(ほうこうじ)僧

 となるそうで、文意をあっさりわかりやすく言うと

 辛巳年(天武天皇十年=西暦六八一年)十月三日に記す

佐野屯倉(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。この黒売刀自の子である放光寺の僧長利(ちょうり)が母の為に記し定めた文である。

となります。長利が母を葬った際の墓誌です。日本最古級の墓誌です。文中の屯倉(みやけ)とは、各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点です。また僧長利が勤めた放光寺とは、この群馬古墳巡りのPart1でご紹介した前橋市総社町の蛇穴山古墳のところで触れた「山王廃寺」のことであると推定されています。

 この文章は、文頭から素直に読み下せる立派な日本語です。もしこれと同じ文意を中国語で書き記したとしたら、日本人にはまるでチンプンカンプンでしょう。端的にいうと、日本人が「我は肉を食す(我 肉 食)」というところを、中国人は「我 吃 肉」といいます。主語+動詞+目的語という構文です(この構文だけでいえば英語と同じ)。この調子で日本語を中国語に置き換えられたら随分きついでしょう。

 つまりこの山上碑の碑文というのは、文字としては大陸から渡ってきた漢字を使ってはいるけれども、古代の日本人様が日本語の流儀にのっとり日本人にもわかるように、つまり、日本語の本来の語順で漢字を並べつらねて書き記した日本最古ともいえる日本語文章遺産なのです。古代の文章遺産としては、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文(471年)が有名ですが、あの文章の構文はまだ中国風に主語+動詞+目的語となっています。また、山上碑に先立つこと13年の日本最古の墓誌といわれる「船氏王後墓誌(ふなしおうごのぼし)」(668年)の構文も同様です。

 もちろん、当時の日本人で日本語の語順で文章を書くことができたのは相当な知識人であったはずで、それが都を遠く離れた上毛野国(かみつけののくに)の一僧侶にまで及んでいたということは、当時の日本語文字文化の広がり方が相当早かったことを物語っています。

 では古墳へ参ります。デジカメの電池が切れたりしてまともな写真が撮れなかったので、またまたお写真をお借りしました。謝 謝!

 関東の古墳&史跡探訪より引用

 直径15mの円墳です。その建立時期は山上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものと考えられています。山上碑の建立時期(=黒売刀自の埋葬時期)が7世紀後半(681年)なので、黒売刀自の父の墓ということで、数十年さかのぼって墓の建立時期は7世紀中葉にしているようです。

 

 上はスマホで撮った写真。

 かなり大きい石を精巧に組み上げてあります。

 玄室奥壁に安置された馬頭観音。

 上の写真2点とも関東の古墳&史跡探訪より引用

 馬頭観音については説明板がありました。

 ずいぶん詠嘆調な説明文ですね。

 では帰路につくことにします。

 途中で見かけた神社。

 こんなのもありました。

 山村の廃屋。

 コスモスがきれいに咲いていました。

 はい、次へ行きましょう。群馬県は高崎市倉賀野町にある浅間山古墳です。

★浅間山古墳(地図中4番)

 この古墳はとても荒れ果てています。wikipediaによれば

 群馬県内では太田天神山古墳(太田市)に次ぐ第2位、ひいては関東地方では太田天神山古墳、船塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳である。4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される

とあります。規模(全長171.5m)も古さも第一等の前方後円墳なのに、その場を訪れて現物を前にしても、古さは別としてその規模やフォルムはすぐにはうかがい知ることはできません。それほど荒廃していて、ちょっと見には野っぱらのこんもり風景にしか見えません(-_-;)。もしかしたら、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫である上毛野氏(かみつけののうじ)が太田天神山古墳築造以前に築いた古墳であるかもしれないのに・・・。

 もっと寄ってみます。

 もっと引いて撮らなければいけないのでしょうが、それに適したポイントがなかなか見つからない。5時過ぎていて、薄暗くなってきていたのでどこか余裕がなかったのでしょう。

 ああ、腰が定まらない。とてもいい写真が撮れる案配じゃありません。そこで、この古墳の全体像をうかがえる写真をお借りしました。

 埼群古墳館より引用

 この写真は「関東甲信百名墳」と名が入っているところから、絵ハガキか印刷物からとった写真と思われ、しかも撮影時期は冬場らしい。しかも相当以前に撮ったものでしょう。今は、こんなにきれいな全体象をとらえることはむずかしいのではないか。

 高崎市のホームページより引用

 Part3へ続きます。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

宇宙の謎・地球の謎の迷路をへ巡る謎パーク別館⇒Sui族館


♪古墳大国「群馬」をゆく・・・珍しく車でまわりました――Part1

2018-08-01 18:01:17 | 日記

 群馬県の古名は上毛野(かみつけの(ぬ))。墳丘長210メートルの太田天神山古墳をはじめ平野部の各地に100メートルを越える大型古墳がいくつも造られ、全県域の調査によって8,423基の古墳の存在が明らかとなり、全体では1万基以上が造られたといわれています。墳丘長200メートル以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、上毛野のみといわれるくらい上毛野(群馬県)は東日本最大の古墳大国なんです。

 徒歩でまわるにはあまりにも効率がわるいので、今回はかみさん運転の車におすがりしました。1泊2日の行程で、巡ったコースは次のとおりです。

1日目(10/10(月))

高崎I.C →22.観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町)→21.保渡田古墳群(群馬県高崎市保渡田町)→20.蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町)→19.宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町)→18.天川二子山古墳(群馬県前橋市文京町)→17.前橋八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町)→12.藪塚温泉(泊)

2日目(10/11(火))

藪塚温泉 →12.西山古墳(群馬県太田市藪塚町)→10.女体山古墳(群馬県太田市内ケ島町)→11.塚廻り古墳群第4号古墳(群馬県太田市龍舞町)→9.太田天神山古墳(群馬県太田市内ケ島町)→8.朝子塚古墳(群馬県太田市牛沢町)→15.大室公園・大室古墳群(群馬県前橋市西大室町)→2.伊勢塚古墳(群馬県藤岡市上落合)→1.七輿山古墳(群馬県藤岡市上落合)→3.山ノ上古墳(群馬県高崎市山名町)→4.浅間山古墳(群馬県高崎市倉賀野町)→5.大鶴巻古墳(群馬県高崎市倉賀野町)→藤岡I.C

 上記コース中の各古墳に付せられた番号は、以下の地図中の番号と対応します(でも、実際にはその番号順には回っていません)。

 上記コースと以下の地図はともに『群馬の観光情報:群馬県観光物産国際協会』サイトさまの「観光モデルコース」というページから引用・拝借させていただきました(とはいってもこのサイトは今はなく、「ググっとぐんま」というサイトに衣がえしていて、引用・拝借させていただいたページも消滅しています)。

★観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町 地図中22番

 浅間連山の山並みを眺めながら一路観音塚古墳をめざします。

 じゃーん、着きました。


 向こうに見える石垣の上に墳丘らしきものが見えます。古墳好きが胸をときめかせる瞬間です。石垣を登ってみます。

 6世紀末~7世紀前半の築造と推定される前方後円墳です。左側が前方部、右側が後円部だと思われます。右下の白い看板の右手奥が石室開口部です。

 中に入ってみる。

 ここが突きあたり。玄室です。

 天井をパチリ。

 すげえでっかい天井石。さらにどアップ。

 うーむ、でかい。何10トンもの重さを抱えたでかさだ。タタミ6畳よりも広く、重さは約60トンだという。奈良県の明日香村にある蘇我馬子の墳墓といわれる石舞台古墳と比べられ、群馬の石舞台などと呼ばれているそう(以下のイラストも含め、高崎市のサイトより引用)

 こちらは羨道の天井石。

 その天井石を支える石壁(左)

 同右。

 なんか石の祭典みたいになっちまった。わたくし、こう見えても巨石願望、廃墟願望なんちゅう持病をかかえたジジイなの。古墳はまさにその2つの願望を満たしてくれる得がたいモニュメントであって、かのエジプトの大ピラミッドだって巨石まみれの大古墳なんだぁのココロ。

 近くに観音塚考古資料館があるので行ってみる。古墳から出土したさまざまな副葬品を展示していた。ここで小生が撮ったピンボケ写真をお見せするより、こちらの「高崎市」のサイトをご覧になってくださいまし。

★保渡田古墳群(群馬県高崎市保渡田町 地図中21番)

 次の古墳は、ドラマチックな復元ぶりで知られる保渡田古墳群です。

 車窓に群馬のランドマーク浅間連山を眺めながら一路、保渡田古墳群をめざします。

 ジャーン、着きました。二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳からなる古墳群で、5世紀後半~6世紀前半の築造とされています。

 これは八幡塚古墳。過剰とも思える復元ぶりです。

 墳丘全体に葺石が敷き詰められています。この葺石についてちょっと調べてみたのですが、なにか奥歯にもののはさまったような記述が多く、イマイチはっきりしません。あの奈良県の箸墓からも葺石が見つかったそう。古くて大きい前方後円墳は、おおむね葺石で覆われていたと勝手に解釈しています。

 墳頂。後円部から前方部へのスロープ。

 葺石で覆われた丸いマウンド(中島)の設けられているところが内堀。通路(内堤)をはさんだ向こう側に外堀があります。

 以下は中島の説明板。

 中島は古墳の長径方向の左右に2個ずつあります。造り出しといって、前方後円墳のくびれ部から半円形もしくは方形に張り出した壇状の施設をもつものがありますが、本古墳の中島は墳丘からは切り離されて島のように独立しています。これは全国にも例のない保渡田古墳群独特の地方的特徴だそうです。

 後円部の頂きになにやら地下に降りる階段があり、降りてみると、この古墳に埋蔵されていた本物の舟形石棺(長さ2.8m、幅1.2m)がありました。

 古墳の外の内堀の内堤に54体ほどの埴輪群が置かれていました。

 こちらはコスモスに囲まれた二子山古墳。

 八幡塚古墳よりほんのちょっとこちらのほうが大きいようです。

 階段を登り墳頂へ。

 向こうに八幡塚古墳が見えます。

 これは古墳のくびれ部です。右手に中島が見えます。

 次は、高崎市を離れて前橋市総社町にある蛇穴山古墳に向かいます。

★蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町 地図中20番)

 蛇穴山古墳は、総社古墳群の一角を占める方墳で7世紀末の築造です。7世紀の総社町の一帯は、総社古墳群や上野国(こうずけのくに)の国府・国分寺・国分尼寺があり、上野国の中心地でした。また、7世紀後半に創建された全国でも珍しい白鳳時代の豪壮・華麗な寺院跡である「山王廃寺跡」もあります。この廃寺跡からは「放光寺」「放光」という文字を刻んだ瓦が発見され、この寺が往時は放光寺と呼ばれており、このあと訪れる高崎市の「山上(やまのうえ)碑」に記録されている「放光寺」であったこともわかりました。

 総社古墳群は県内で唯一、前方後円墳のあと県内古墳の最終末期に方墳が3基つづいた古墳群です。その3基の方墳とは、古い順に愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳です。前置きが長くなってしまいましたが、さっそく蛇穴山古墳を紹介しましょう。古代総社町の最盛期ならではの精巧な造りが見ものですよ。

  駐車場の向こうにうずくまっているのが蛇穴山古墳です。墳丘を登って

 奥にある石段を降りて墳丘の裏側へ。

  推定復元図がお出迎えです。

 あたりには葺石が散乱しています。

 と、いきなり玄室入口とご対面(この古墳には羨道(小生はいままでこれを「せんどう」と読んでいたが、「えんどう」とも読むことをいま知った)がありません)。この玄室入口の造りを見ても、非常に精巧にできていることがわかります。

 下は玄室内部。

 奥壁、左右側壁、天井のそれぞれが長さ3m以上の1個の巨石です。

 巨石がぴったり組み合わさった精巧な造りです。これらの巨石は高崎市の観音塚古墳や観音山古墳よりは小ぶりですが、あちらがほぼ産地から切り出したままの巨石であるのに比べ、こちらの石は匠が腕をふるって加工してあるのがわかります。下は玄室入口側の石積み。右方が開口部です。

 次はすぐ近くの宝塔山古墳へ。

★宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町 地図中19番)

 こちらは蛇穴山古墳より大きく、一辺約60m、高さ12mの大型方墳です。堀を含めると一辺96mに達するそうです。

 3段構造なんですね。説明板の左方にある石段を登ります。

 階段を登る途中にもう1つ説明板が。

 左端にあるやつがそう。背後の石垣は葺石なんでしょうか。散乱していた葺石を集めて石垣に組んだとか?

 これが説明板。秋本氏の歴代墓地であるらしい(秋本氏は約30年間この地を治め、善政を施した・・・とあります)。この墳丘は古代の首長の墓であり、近世の領主の墓地でもあるんですね。

  秋本氏歴代墓地は墳頂にありました。

  蛇穴山古墳と同様、こちらも石室は墳丘の裏側にありました。

 石室入り口前になにかの蓋のような平べったい石がありますが、こりゃ何でしょう。

 石室内部です。羨道の奥の玄室に家型石棺がぼんやり写っているんですが・・・。

 もうちょっと寄ってみます。

 どうやら石棺が見えました。天井石には大きな一枚石を使っていますが、

左右の側壁は大小の石を積み上げているようです。蛇穴山古墳は1枚石でした。(ピンボケ御免)

 石棺ごしに奥壁を写しています。どうやら奥壁も一枚石のようです。

 古墳を出ると、すぐ近くに秋本氏の菩提寺である光巌寺(こうがんじ)があります。

 下は本堂。

 秋本家の廟所。

 白壁が美しい。

 近くに鎮座していた御霊神社。

 なんか小さな土盛りの上に建っていて、この土盛りを紅葉山といっているそうで、この小さな山(土盛り)も古墳であるらしい。

 次の古墳は天川(あまがわ)二子山古墳です。

★天川二子山古墳(群馬県前橋市文京町 地図中18番)

 全長104mの前方後円墳で、6世紀中頃の築造。前橋二子(ふたご)山古墳とも呼ばれます。二子山を名のる古墳の主なものは全国に7つほどあって、そのうち4つが関東にあり、3つが群馬県です(もう1つは埼(さき)玉古墳群中の1基)。群馬県の3つのうち1つは保渡田古墳群中の1基として先に紹介済みです。

 木々の向こうに前方後円墳らしいフォルムを見せて横たわっているのが天川二子山古墳です。

 くびれ部に上る階段。

 おなじみ「くびれ部」の官能的なスロープ。

 葺石です。

 ま、こんなところで天川二子山古墳をあとにし、次の前橋八幡山古墳に向かいます。

★前橋八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町 地図中17番)

 全長130mの全国的に数少ない前方”後方”墳です。4世紀後半頃の築造とされ、前方後方墳としては東日本最大、全国でも有数の規模を有するそうです。ちなみに国内最大の前方後方墳は天理市の西山古墳で、全長180mだそうです。これもやはり4世紀後半頃の築造です。

 wikipediaより引用

 前方後円墳も前方後方墳も、前方部と後円(方)部の境目にくびれがあります。埋葬施設は後円(方)部に設けられました。つまり、埋葬施設のあるほうが後ろです(ま、何事にも例外はつきもので、古墳によっては前方部のほうに埋葬施設があることもあるようですが)。

 ところで、前方後円墳という用語は、江戸時代の学者・蒲生君平が「山陵志」という書物の中で使ったのが最初だそうで、円形の部分が牛車(ぎっしゃ)の屋根、方形の部分が轅(ながえ:牛車の前に2本つき出した牛と車をつなぐ棒)のようであるとして、「前方後円」という言葉で表したそうです。それ以後、とりあえず方形の部分が前、円形の部分が後ろということになりました。

 その後、調査・研究が進み、円形部分は死者を葬った埋葬施設であること、方形部分はもともと円形部分に行くための通路だったところで、後に古墳の祭壇にあたる場所となった、という説が有力となりました。この説によれば、蒲生君平が方形の部分を前、円形の部分を後ろとしたのは正しかったことになる・・・というわけです。

 以上、古墳に詳しい方にとってはまさに「釈迦に説法」の御託でした。

 さて、前方後方墳というのは弥生時代の方形周溝墓の発展形とされ、当初は前方後方墳のみだったがやがて前方後円墳が登場し、しばらく共存時代が続いたあと後方墳は姿を消したといわれています。その出現期は古墳時代の初期に集中しており、前方後円墳に対して小規模なものが多く、また、東日本の出現期古墳の多くは前方後方墳だということもわかってきました。前橋八幡山古墳、そして群馬県のもう1つの前方後方墳である高崎市の元島名将軍塚古墳はともに、4世紀後半頃の築造とされ、ちょうどこの頃が群馬県における古墳出現期なのであり、前方後円墳に先立って前方後方墳が盛んに造られた時期なのでしょう(今ではほとんど残っていませんが)。つまり、前橋八幡山古墳、元島名将軍塚古墳、そして前橋天神山古墳(こちらは例外的に前方後円墳。後円部のみがかろうじて残存。4世紀中葉頃の築造)といったところが、群馬県における最古級古墳だといえるでしょう。

 写真がただの1点のわりに、能書きばかりが多くなってしまいました(-_-;)。

 5時も過ぎ、今日はここまでにして宿泊地である太田市藪塚温泉に向かいます。

★西山古墳(群馬県太田市藪塚町 地図中12番)

 太田市藪塚町にある藪塚温泉で一泊。きのう、ちょっと見かけた「西山古墳入口」という標識が気になったのでそっちへ向かうと、

 なんかこんな案配のところに出ました。奥に鳥居も見えるし、なにやら絵看板もある。

 まず、絵看板

 なにかの歌碑であるらしい。

 あの子は たあれ たれでしょね なんなつめの花の下 お人形さんとあそんでる かわいいみよちゃんじゃないでしょか

 昭和のおん時、戦前から戦後にかけて童謡なるものがおおいに人口に膾炙(かいしゃ)した時期があった。昭和の20年代から30年代頃が花盛りで、童謡少女歌手などは、今でいうアイドルとして大層もてはやされたもんじゃ。「歌のおばさん」なる年増の歌手もおって、おおいに気を吐いていておったぞ。上の歌碑はそんな童謡(わらべ歌)の一つでの、戦前の歌じゃ。作詞者の細川雄太郎という人が、ここ藪塚でその歌をつくったということで歌碑が建てられたということじゃ。歌詞にはあの子は「たあれ」となっておるがな、これは発表時は「だあれ」であったものを、作曲者の海沼 實という人から濁音は汚いとたしなめられ、濁点をはずしたということじゃ。

 歌碑のすぐ近くに神社があります。

 凛としたよいたたずまいだと思うのですが。大山祇(つみ)神社だそうです。

 いったん道路に出て、西山古墳の標識のところに行き

 山中に(ってほどじゃないけど)に分け入ります。

 ひたすら(ってほどのもんじゃないけど)林中を上っていくと、じゃーん、ありました。

 ここは今回のコースには入っていない予定外の古墳で、何の予備知識もないところだったので、見つけたときの「ヤッホー」感がなかなかのもんだったのです。

 石室入口。中へ入ってみます。

 補強がしてありますね。玄室には何もありません。

 天井はコンクリートで覆われています。天井石はどんな様子だったのでしょうか。

 側壁。以下は出口。

 全体像が見えないので、はっきりわかりませんが、全長34mの前方後円墳だそうです。

ここでブログの文字数制限(30000字)にひっかかってしまいました。続きはPart2へ・・・。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

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♪なぜか群馬県、なぜか倉賀野、そしていにしえの奥津城(古墳など)たち――Part2

2018-07-27 16:03:09 | 日記

Part 1からの続きです。
 あっしの母方の故郷なるものは群馬県高崎市の倉賀野っていうちっちゃな町です。JR高崎線の高崎駅の1つ手前のひなびた駅です。でも、でもですよ、江戸から明治にかけての倉賀野は宿場町としておおいに栄え、となりの高崎宿よりもずっと賑わっていたのです(へたな国自慢はやめれや・・・)。

 どこでもそうであるように、この倉賀野にもそこそこ面白いところがあるってことで、その紹介をのほほんとやっているうちに文字数制限にひっかり、途中棄権ということになっちまいましたので、今回はその続きをのほほんとやります。

 前回は倉賀野河岸(かし)の途中だったので、そのつづき。

 倉賀野河岸には、船頭や船主など河岸関係者が船の安全を祈願したという大杉神社なる守り神が鎮座していた。しかし、鉄道(高崎線)の開通にともなって河岸に経営難がおそい、神社の維持・管理がむずかしくなって現倉賀野神社に預けられる(合祀される)形になった。そして社殿は売りに出され、火事によって八幡社を消失した旧桃井(現榛東村)新井に買いとられ、同地の八幡神社の社殿となった。以下は、その引っ越し先の榛東村の八幡神社。

 これが売り払われた旧大杉神社の社殿。

   側面から見たところ。

  以上写真3点ともみんカラブログより引用

  神社も(お寺なども?)売りに出されることがあるんですねぇ。

  さてお次は、中山道沿いを歩いてみる。

 群馬で生まれ育った男のブログより拝借。ブログ主さんの手作りのマップです。太鼓橋と養報寺を追加させていただきました。

 倉賀野宿は、街道の長さ約1.2kmの間に、上町(かみちょう)、中町(なかちょう)、下町(しもちょう)があり、この三町が10日間ずつ交替で問屋場の業務を請け負った。問屋場というのは宿場で最も重要な施設で、人馬の継立(つぎたて:公用の人馬および物資・書状などを宿場間で継ぎ送りする業務)や、助郷(近隣の村々に課す継立用人馬の供出)へのふれ出しなどを受け持った。

 倉賀野宿の中心街である上町には、高札場(幕府や領主が決めた定め書きを記した板札を高く掲げておく場所)や問屋場、脇本陣(本陣の予備施設)などが置かれ、中町には本陣(大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などだけが宿泊できる施設)が置かれた。

 本陣には、倉賀野城の遺臣・勅使河原氏の子孫・勅使河原八左衛門家、脇本陣には、通称「須賀喜(すかき)」こと須賀喜太郎家と「須賀庄(すかしょう)」こと須賀庄兵衛家の両家があてられた。

 上の手作りマップにある人馬継立跡とあるのは問屋場の跡のことで、その問屋場は「須賀長(すかちょう)」と呼ばれた問屋場年寄であった須賀長太郎家の前にあった。この須賀長および先の須賀喜、須賀庄の須賀三家は代々、宿の要職を担って宿の発展と繁栄に寄与した。

 上の手作りマップには人馬継立跡(問屋場跡)、本陣跡、須賀喜脇本陣、須賀庄脇本陣が載っているが、この中で昔のおもかげを残して建っているのは須賀喜脇本陣のみである。この須賀喜脇本陣には、幕府の役人でもあった太田蜀山人が草津への旅の途中に一泊したことがあるらしく、こんな狂歌を残していったという。

 須賀須賀(すかすか)と 銭は取れども 用足らず こんな宿屋に なんで喜太郎

・須賀喜脇本陣

高札場

 次は養報寺というお寺へ。倉賀野駅近くにあるが、ここにはけっこう見るべきものがある。山号は倉賀野山。山号の由来というものは部外者にとっては??なものが多いが、ここのはそのものズバリでわかりやすい。開創は室町時代の至徳3年(1386年)で、でっかい屋根が重そうな山門は、天正4年(1576年)に倉賀野城主金井淡路守が建立したものというが、例の山号は開創時からのものなのか、それとも山門建立時に付けられたものなのか?

 本寺で見るべきもののリストは、①扉の彫刻と天井絵が見事な山門、②Part1で紹介した長賀寺山古墳(長賀寺は養報寺の末寺)の石室内に眠っていたという石仏5体、③小林一茶と並び称されるほどに有名であるらしい高崎出身の俳人・村上鬼城の句碑(小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ)。鬼城の句碑は高崎市内のあちこちにあるが、本寺の句碑がいちばん古い(大正13年)。ちなみに鬼城の没年は昭和13年(74歳)。④その他にも、西国三十四体仏だとか三途の川で亡者の衣服をはぐという葬頭河(しょうずか)婆さん(奪衣婆(だつえば)とも)の像などがある。

 で、この寺の見どころである上記①~③を丁寧に紹介した動画がYoutubeにあったのでそれをアップする・・・いつしか削除されていました (-_-;)

  個人的には古墳内に眠っていた石仏5体に思いを駆られる・・・とまあ、倉賀野という町のいろんなあれこれをご紹介してきましたが、そろそろここらでお開きということで。へい、お疲れさまでした。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

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♪なぜか群馬県、なぜか倉賀野、そしていにしえの奥津城(古墳など)たち――Part1

2018-07-27 14:09:31 | 日記

 小生の母方の故郷なるものは群馬県高崎市の倉賀野っていうちっちゃな町です。どこでもそうであるように、この倉賀野にも探せばそこそこ面白いところがあります。

 で、まずファーストインプレッションをよくすべく、倉賀野町から北東へちょっと行った綿貫町というところにある観音山古墳ってゆうところから。

 若草を全身にまとった、いい雰囲気の前方後円墳だと思いませんか。墳丘全長は97mです。

 さて、このお墓の紹介ですが、群馬県のホームページ内の「史跡観音山古墳へのご案内」というページに「見学の手引き(児童用)」PDF:298KB)という児童向けの手引きがあります。もちろん先生用のもあるのですが、こちらのお子様向けのほうがずっと楽しく印象にも残ります。ざっと引用してみます。

 『今から約1400年以上前に造られたもので、現在の高崎市を中心とした地域を支配した人のお墓と考えられています。

 石室に使われている石ですが、天井の石は、ここから南西の方向に10kmほど離れたところにある高崎市吉井町の牛伏(うしぶせ)砂岩という種類の巨石(一番大きい石の重さは25トン)を6つ使っています。

 石を切り出した後、どのようにこの巨石を運んだのか考えてみてください。舟を使い、そりで引き上げたと思われますが、それにしても大変な作業だったと思います。壁石は榛名山の火山岩を使用しています。

 石室は、入口部分の狭い通路(羨道)と奥の幅広い遺体を置く場所である玄室があります。石室の全長が約12.5m、玄室の長さが約8.2m、幅約3.8m、高さ2.3mで、群馬県内の玄室では最大の大きさです。

 この石室が発見された時、調査をした人たちの興奮はすごいものでした。それというのも、古墳の石室はたいてい既に掘られていて、中に納められていたはずの物は盗まれている場合がほとんどなのです。ところが、幸運にもこの古墳の石室は、崩れてしまっていたために、墓泥棒が掘り出すことができず、当時お墓の主のために納められていた品々がそっくりそのまま出てきたのです。このようなことは、全国的にも大変めずらしいことなのです。

 石室内にあった遺物は生前お墓の主が使用したと思われる刀やかぶとなどの他、主を乗せた馬を飾り立てた馬具などが出ています。どれも、金や銀を多く使って豪華な仕上がりになっています。』

 なんかこむずかしい漢字が少ないし、文意も明瞭で、墓が未盗掘であったのが判明した際の興奮のありさまなんかも生き生きと語られています。

 石室(墓室)への入り口です。

 Sorry!カメラブレ。石室内部です。見てほしいのは天井石。以下も天井石。

 あたしゃこういうデカイものが大好き。こんなにも重くてでかい石を積み上げる古代人の狂気にも似たパッションにあこがれる。

 巨大石天井といえば、エジプトの大ピラミッドの「王の間」の天井部分に使われている巨石が有名だが、こちらは約60トンあるという。

 巨石のオーパーツ(場違いな加工物)としてはレバノンのバールベック遺跡の巨大切り石が世界一といわれている。「ジュピター神殿の巨大土台石」と、同神殿から南西に約1キロの場所にある「建築物には使われていない超巨大切り石」だ。

 これはジュピター神殿の遺構。この神殿は約2000年ほど前、古代ローマ人の手によって建てられた。1本が直径2.2メートル、高さは優に20メートルを越える壮大な石柱が54本も林立して巨大な神殿の屋根を支えていたというが、今では6本しか残っていない。上の写真の右奥にそびえる6本の石柱がそれ。

 写真で注目してほしいのは神殿の土台部分。ひときわ巨大な切り石が3つ横たわっているが、それらがトリリトン(驚異の3石)と呼ばれる「ジュピター神殿の巨大土台石」だ。それらは1個あたり長さが約18メートル、高さと幅は約4メートル、重さは650トン~970トンあるという。

 さらに驚くべきは、神殿の上部構造は確かに2000年前の古代ローマ人の手になるものだが、それを支える土台部分は、はるか以前のフェニキア人が建造したものがそのまま流用されたとみられている点だ。それほどの強固で巨大な土台を必要とするフェニキアの神殿とは(なにしろ、3000年以上も前にアルファベットを創出し、海上交易によって地中海世界を制覇し、さらにはまた、地中海沿岸各地にカルタゴをはじめとする植民都市を建造しまくったあのフェニキア人が本拠とした地に建てられた神殿なのであるから)、古代ローマ人のジュピター神殿にも勝るとも劣らないさぞかし壮大な代物であったはずだ。

 中米の古代マヤのエル・ミラドール遺跡などでもそうだが、その遺跡の近年の発掘によって、マヤ文明の草創期が従来考えられていたよりも1000年近くも前にさかのぼり、それほどまでにしぶとく長期にわたってマヤ文明が存続・発展してきていたというビッグサプライズが明らかとなり、さらにはまた、南米での古代アンデスの遺跡の最近の発見でもほぼ似たような結果が出ている。文明という花は、むしろ、いにしえにさかのぼるほど絢爛と咲きほこっていたように思える。

 トリリトンと並ぶバールベックのもう1つのオーパーツは「建築物には使われていない超巨大切り石」だ。

 半ば土に埋もれているこの切り石の大きさは、長さが約21.5メートル、高さ4.2メートル、幅4.8メートル、重さはなんと2000トンもあるという。ただこの巨石が存在している場所は石切り場であって、もともと自然にあった巨石を加工しただけもののようで、移動は行われなかったようなのだ。おそらくそのあまりの大きさゆえに断念され、そのまま放置されたのであろう。

 一方、トリリトンの場合は、南西に700メートルほど離れた石切り場から切り出されて神殿まで運ばれたと考えられている。

 世界最大のクレーン運搬装置の吊り上げ可能な重さの限度は、NASAがロケットの移動に使用しているもので700トンしかないという。現代の技術を用いれば、超大型の重クレーンにキャタピラを装備して巨石の一部を持ち上げ、そのままひきずって運んで行く方法も考えられる。しかし、道を固く平坦にするなどの恐ろしく手間のかかる道路整備が必要だ。ところが、それなのに、バールベック遺跡と石切り場との間には土木工事の跡は一切発見されていないという?????

 あれ、何の話してたんだっけ、あっ、群馬県の倉賀野の話題ね。倉賀野の東方にある観音山古墳のお話ね。ここの天井巨石は25トンってことだから、エジプトの大ピラミッドのそれのほぼ5分の2ね。それに、大ピラミッドのそれは切り石で表面は平坦に加工されているけど、観音山古墳(いや、日本の古墳すべて)のそれは自然石のまんまだしね***

 なんかボルテージ落っこちてきたみたいだけど? はははっ、で、でい丈夫でい。倉賀野って町とその周辺の古墳たちをこれからちんまり経めぐるだっちゃ。

 はて、小生のたむろするところは八王子なのだが、倉賀野まで何に乗っていったのかしら。なにしろ2年前のことなので忘れちまった。八高線なる電車が八王子~倉賀野間を運行しているから、これで行ったのかなぁ。なにしろこの電車は単線で、東京ー埼玉ー群馬県間を走るのだが、埼玉の高麗川駅から群馬の倉賀野駅間は電化されていず、埼玉で唯一電化されていないローカル線としてごく一部の鉄ちゃん様間では名高い。電化区間は通勤時間帯をのぞいてほぼ30分に1本、非電化区間では1時間に1本という超過疎ダイヤ。

 んでも、もっと速い電車に乗って行こうとすれば何だかんだちょこまか乗り換えなければならないから、やっぱ八高線で行ったのかなぁ。八高線だって時刻表どおりに出発すれば、他の電車で行くのとほぼ変わらない時間で行けるってことが、いまネットで調べたらわかった。うん決まり、やっぱ八高線で行ったんだ!

 2時間半ほどの乗車で倉賀野に着いた(はずだ)。なにはまず、倉賀野周辺の古墳について語ってゆこうと思うが、その前に群馬県が東日本随一の古墳大国だということを述べておきたい。以下はデジタル毎日(新聞)の2017年4月18日の記事。

 『群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告がまとまった。県内の古墳の総数は1万3249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。』

 あ、それから、群馬が埴輪王国と呼ばれ、日本における埴輪研究のメッカだということは知ってました?

 埴輪で国宝に指定されているのは武装男子立像たった1つで、それは群馬県太田市飯塚町から出土した。東京国立博物館にある。

 武装男子立像

 国宝・国指定文化財の埴輪42件のうち19件(45%)が群馬県から出土している。

 さて、倉賀野のことだが、この町は主に高崎市を流れる利根川水系の一級河川である烏川の北岸一帯に位置している。倉賀野の烏川流域には数百の古墳がひしめいているが、その大部分は消滅してしまった。以下は、烏川流域の東端部分の古墳分布図である。

東国の古代史より引用

 上図中、赤丸の部分はすべて削平されて、残っているのは黒丸の部分だけだという。この古墳群の西側の烏川流域一帯に分布する古墳群を倉賀野古墳群と呼んでいるらしいが、西側だけなどといわず、倉賀野町の烏川流域全体の古墳群を倉賀野古墳群と呼べばいいと思うのだが。

 で、倉賀野古墳群についてである。大小300基以上の古墳がひしめいていたそうだが、今では墳丘と見分けのつく遺構というのは、浅間山古墳、大鶴巻古墳、小鶴巻古墳の3基ほどだけらしい。倉賀野古墳群を含む烏川流域全体の古墳群がかほどまでに原型をとどめてないのは

①江戸時代に入って中山道(旧中山道、以下同)が整備され、倉賀野宿には本陣が一つ、脇本陣が二つ置かれたこと。

②さらに、日光例幣使街道(徳川家康の没後、日光東照宮に幣帛『へいはく:神道の祭祀において神に奉げる、神饌〈しんせん―酒食〉以外のものの総称』を奉献するための勅使〈日光例幣使〉が通った道路)の起点となり、さらには中山道との分岐点(追分)にもなるなどして陸路の要衝として重きをなしたこと

③さらにはまた、南を流れる烏川には下総国 行徳河岸に直結する倉賀野河岸(かし)が整備され、水運の基地としても重きをなしたこと

など、地域の開発・発展が進んだせいだろう。なにしろ水陸交通の要衝として、天保年間には高崎宿の15軒を凌ぐ32軒(文化・文政年間の最盛期には71軒)もの旅籠が並んだというから、宿の発展にともなう開発の進捗によって破壊された遺構もさぞかし多かったことだろう。下の浮世絵は、江戸時代の倉賀野河岸の一風景。船は浅い川でも進める高瀬舟が使用され、寛政12年(1800)の記録では小船や艀(はしけ)から大きな江戸廻り船まで約119艘が就航したという。

 それでは以下に、倉賀野古墳群を含む倉賀野町の烏川流域全体の古墳群の中から、墳丘と見分けのつく主要遺構4基を紹介する。

・浅間山古墳

 埼群古墳館より引用

 倉賀野古墳群の盟主であるだけでなく、Wikipediaによれば、その規模は「群馬県内では太田天神山古墳(東日本では最大)に次ぐ第2位、ひいては関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の前方後円墳で、4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される」とある。

 下の写真は2016年10月の撮影だが、草木がぼうぼうで残念ながらほぼ未整備状態。墳丘の全体像すらつかめないくらい荒廃している。上の写真はかなり以前のまだ開発にはそれほど侵されていない頃、しかも冬場に撮られたものであろう。古墳の撮影には大体において冬がよい、ということをやっと知った駄目五郎であった。

・大鶴巻古墳

 浅間山古墳から500mばかりのところにある前方後円墳で、こちらはかなり整備されている。4世紀末から5世紀初頭頃の築造というから、浅間山古墳とほぼ同時期である。

・小鶴巻古墳

 日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)より引用

 大鶴巻古墳のすぐ近くにあり、同古墳と同時期に築造されたらしい。墓地や耕地に浸食されて、草木がぼうぼうのほぼ未整備状態。

・長賀寺山古墳

 

 倉賀野古墳群には属さない倉賀野町東側にある古墳で、そこそこの規模を有しているらしいが、荒れ放題のまま放置されている。

 こうしてみると、倉賀野町とその周辺でまっとうなフォルムを維持している墳丘というのは、冒頭に挙げた観音山古墳(綿貫古墳群の1つ)と倉賀野古墳群中の大鶴巻古墳だけみたい。観音山古墳を有する綿貫古墳群というのは、倉賀野町の北東にある綿貫町に所在する遺構群で、観音山古墳および普賢寺裏古墳、不動山古墳、岩鼻二子山古墳などがある。以下に普賢寺裏古墳、不動山古墳、岩鼻二子山古墳の3遺構について述べる。

・普賢寺裏古墳

 文字どおり普賢寺というお寺の裏手にある。

 墓地の向こうが墳丘っぽい。

 寺の裏手に回ってみる。

 
 草木がぼうぼうだ。この”草木がぼうぼうが丘”のぐるりをまわってみよう。おんや、季節がら紫陽花などが。
 

 ふむコスモスだ。

 こりゃ何だんべ(稀代の花オンチ)。

 おいおい、花見に来たんじゃねぇぞ。なおも懲りず、これなんか結構いいんじゃね。

 なんか雰囲気のあるマウンドが。 


 前方後円墳の後円部かも。さっきの”草木がぼうぼうが丘”は前方部かな。
 表へ戻ると寺の境内には円墳らしきものが。その墳頂の石碑・石像たち。
 
 
 そのほか境内にはこんなものが。
 
 
・不動山古墳

 ご多分にもれずこれも”草木がぼうぼうが丘”。ここだけの話、倉賀野とその周辺の草木がぼうぼうが丘と、イングランド・ヨークシャーの嵐が丘とはこのたび姉妹丘の契りを交わしたそうですぜ。

 
 左端にちょこっと見えているのは上州綿貫不動尊の看板。社殿は墳頂に鎮座している。その社殿の裏手に船形石棺が置かれていた。
 
 
・岩鼻二子山古墳

 草木がぼうぼうでも残っているだけまだまし、今では跡形もなく消滅してしまった古墳・・・それがこの岩鼻二子山古墳だ。岩鼻というのは、綿貫町の南、倉賀野町の東に接する町で、江戸時代には岩鼻代官所が置かれ、上野国(こうずけのくに:古代の上毛野国(かみつけののくに))8郡にわたる5万8700石あまりを管理した。維新直前の慶応元年(1865年)には関東郡代所に昇格し、上州全域50万石を取り締った。慶応4年=明治元年(1868年)に関東郡代木村甲斐守は罷免され、代官所は高崎藩によって接収、同じ年(明治元年)に岩鼻県庁となった。つまり岩鼻県なるものが出現したのだ。旧郡代所管轄下にあった旧幕府領の一部と、上野国、武蔵国内の旧旗本領の一部とを管轄するために設置された。県とはいっても、廃藩置県の以前に旧幕府と旧旗本領に対してつけられた急ごしらえの領名で、県名の先どりといっていいだろう。明治4年(1871年)には高崎県に改称、しかし、高崎藩8万石と前橋藩15万石との威信をかけた対立があって、県名改称通達後わずか3日にして群馬県へと変更された・・・とまあ、こんなところにも明治新政府のゴタゴタぶりの歴史がきざまれているんですなぁ。

 岩鼻二子山古墳の貴重な写真を見つけたのでご紹介する。

  七福神の案内人より引用 

 撮影時期は不明ということだ。現在の日本原子力研究所高崎研究所の敷地内にあったが、昭和10年頃岩鼻火薬製造所の施設整備に伴い消滅した。前方後円墳で、全長が115mあったというから、綿貫古墳群中最大規模である。後円部から出土した船形石棺は、東京国立博物館に収蔵されているという。

 倉賀野にはもうひとつ、7世紀末頃に造られたユニークな円墳がある。安楽寺古墳という。中山道に沿った安楽寺というお寺の裏手にある。

 寺の奥にそれらしいものが。

   墳頂は竹林。

  この古墳は、石棺式石室という珍しい形態で、凝灰岩の切石が使用されている。石室内の壁には鎌倉時代作と推定される7体の仏像が彫られており、寺の本尊とされ、12年に1度だけ開帳される秘仏とされている。

 本堂と石室内の本殿とを結ぶ連結部分と思われる家屋が墳丘の右手に見えている。

 この寺の境内にはいくつか興味深いものがある。まず、「異形板碑(いけいいたひ)」。板碑とは、板状の石材を使用した卒塔婆の一種だ。

 

   全部で3つあるのだが(古いもので鎌倉時代の建立)、あとは省略。

 次いで「えな捨て場」なるものがある。

 隠居の思いつ記より引用。

 説明板があったのでこれをアップして手抜きしようと思ったのだが、引用先の説明がよいのでそれを転載する。

 『「えな」とは「胞衣」と書き、産後の「胎盤」のことです。
昔は、お産婆さんが油紙にくるんで、その家の人が寺の墓地に持って行って捨てていたといいます。
安楽寺古墳の西側斜面、お地蔵様の左に、今でもその穴が残っています。

その後ろに、昭和四十年(1965)建立の「胞衣之碑」があります。
この年は巳年で、第百二回目の「穴薬師」ご開帳を記念して建てられたようです。』

 もうひとつ「鼠供養塔」というのがあった。墓地の一角に建っている。

 説明板があったので、それをアップして手抜きしようと思ったのだが、先の引用先の説明がとてもよいので少し長いがそれを引用させてもらう。

 『古墳の北側、ちょっと高くなった所に不動明王の石像と並んで建っています。
写真ではちょっとわかりにくいですが、「鼠」の文字が刻まれています。

一説には、倉賀野脇本陣の主須賀庄兵衛が、自宅の蔵の鼠を供養するために建てたと言われています。
また、安楽寺の奥様のお話によると、倉賀野河岸の米蔵を解体する時に、沢山の鼠を殺したので、その供養のために蔵主が建てたのだそうです。

実は、この話には後日談があります。
その解体した米蔵の部材を使って、安楽寺の庫裡を建てたというのです。
安楽寺は、お寺さんには珍しく信徒はいるものの、檀家というのを持たない祈祷寺です。
今でこそ、信徒さんの勧めで裏にわずかな墓地を持っていますが、昔は貧乏寺だったのだと奥様は仰います。
それを知っていた大工さんが、解体した米蔵の部材を使って、寺の庫裡を建て直してくれたのだそうです。』

  よき時代のきれいなおはなし。

 こんだは神社だ。倉賀野宿のほぼ中ほど、中山道沿いに参道入口がある倉賀野神社。

 かつての倉賀野宿の繁栄のあとを今に残す由緒ある神社だ。社伝によると、第十代崇神天皇の四十八年九月十九日、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が、今の倉賀野神社境内にあたる場所にて斎場を設け、松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀したのが当社の起源だという。

 日本書紀および古事記によると、豊城入彦命は崇神天皇の皇子で、東国平定のために関東へ下向したとされる。上でいう神社の起源エピソードとは、皇子の東国平定の征旅途上における出来事を言っているのではないか。そして、その豊城入彦命の子孫である上毛野君(かみつけののきみ)と下毛野君(しもつけののきみ)が、それぞれ後の上毛野国(群馬県)と下毛野国(栃木県)を征服して支配下においた。そして上毛野氏(かみつけののうじ)は、東国で最大とされる太田天神山古墳を築造したとされ、その絶大な権力を内外に知らしめたとされる。

 先に紹介した倉賀野古墳群の盟主たる浅間山古墳(4世紀末~5世紀初頭頃)は、太田天神山古墳(5世紀前半~中頃)が造られる以前には東国最大の前方後円墳であり、天神山古墳が築造される以前に上毛野氏によって築かれたとする説がある。その説にしたがうと、上毛野氏はここ倉賀野一帯を地盤としていた時期があったということになる。

 豊城入彦命の子孫である上毛野氏と倉賀野との因縁、そして、倉賀野神社に伝わる豊城入彦命にまつわる社伝。これらを勘案すると、もしかすると、古代にはここ倉賀野が上毛野国の中心だったのでは・・・という不遜な妄想にかられてしまう今日この頃なのであった。

 ちなみに、倉賀野神社の前記社伝中で「松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀した」とされている亀形の石は、本殿に大切に奉安されているというが、残念ながら開帳はしていないという。その代替品らしきものが、神社の外、道を隔てたところにある。亀に見えるかな?

 さて、妄想にかられるのはこれくらいにして、肝心の倉賀野神社をご紹介せねば・・・。まずは本殿。

 こうした建築様式を流れ造りというらしい。正面側の屋根を長く伸ばして優美な曲線を与え、それを支える柱が1間(柱が2本)であれば一間社流れ造り、3間(柱が4本)であれば三間社流れ造りというんだと。

 本殿の側面のフォルムもなかなかいける。総ケヤキ造りで本殿正面および側面には、種々の動物の見事な彫刻がほどこされている。豪商らの寄進の多さを無言で物語ると言われている。

 以下は社殿前に建つ常夜灯。

 倉賀野宿の旅籠「三國屋」の「つね」という飯盛女(女郎)が寄進したものだという。また、以下に示すように飯盛女たちが寄進したという石玉垣も残っている。

 隠居の思いつ記より引用

 金沢屋内 ?? ひろ きん と読める。

 倉賀野宿は飯盛女(遊女)でもっていたと言ってもいいかもしれない。事実、中山道の五貫堀にかかる太鼓橋は板の橋で、たびたびの大水で押し流されてしまっていたのが、飯盛女たちの寄進した石造のアーチ橋に架け替えられてからはそんな災害はなくなったという。倉賀野女の心意気がひしひしと伝わってくるじゃありませんか。

 倉賀野という町をちょこっと散歩してみよう。以下は、倉賀野小学校の外塀にかかっていた「ご近所名所図会」。

  まずはじめに、日光例幣使街道と中山道との分岐点(倉賀野追分)、および、そこに建てられた閻魔堂(江戸時代に阿弥陀堂として造られたものらしいが、今は建て替えられている)と常夜灯に行ってみる。

 常夜灯(写真左)の背後に閻魔堂、手前の道が日光例幣使街道で奥の道が中山道。勅使は京都から中山道を下って(写真手前方向が京都方面)ここ倉賀野追分まで来て、例弊使街道を通って日光へと向かう。

 由来によれば、常夜灯は、文化11年(1814年)、例幣使街道五料宿(倉賀野から車で20分弱の例幣使街道「玉村宿」に置かれた唯一の関所「五料関所」に接する形で形成された小さな宿場町)の旅籠 高砂屋文之助が若い頃の放蕩の罪滅しに建てたものだそうで、建立費用の寄付者として相撲の雷電や柏戸、歌舞伎の松本幸四郎や市川団十郎などの名前も刻まれているという。

 司馬遼太郎のエッセイ集「司馬遼太郎が考えたこと6」に日光例幣使について触れたところがあり、それによると、例幣使は家康を神格化した東照大権現に天皇家の使者を参拝させることによって将軍家の威光を庶民に知らしめる意味があり、公家達も当時旅行の自由もなく生活に窮迫していたので交代で行くことを競った。旅費も荷物の運賃も無料というのをあてこんで、にわか家来の商売人を引き連れて京都の品々を江戸で売らせてピンはねをしたり、宿場々々で金をせびったりして金品を稼いだという。一方庶民のほうも、公家の残飯や残り湯をいただいて薬としてありがたがったり・・・。

 日光例幣使は正保4年(1647年)に第1回の派遣があって以来、慶応3年(1867年)の最後の派遣まで、221年間(!)1度の中止もなく継続されたという。

 これは道しるべ。左:日光道(例幣使街道)、右:江戸道(中山道)。中山道というのは、「京都発江戸へ下る」発想ですべての案内標識ができているそうだ。この倉賀野追分でも、京都方向から江戸へ向かう通行人の目に入るように「左 日光道、右 江戸道」の道しるべ、および常夜灯、阿弥陀堂が建てられている。でも江戸方向から来た人には、右へ振り向かないと目視することができない。まごまごすると見過ごしてしまいそうだ。

 お次は、かつて倉賀野の南を流れる烏川に設けられていた河川舟運(かせんしゅううん)の拠点「倉賀野河岸」の跡をご紹介。

 南八幡の案内人より引用

 烏川を西から東方向に撮影とある。奥に見える橋は共栄橋。橋の左下の河川敷に倉賀野河岸があったようだ。

  Tigerdreamの上州まったり紀行より引用

  跡地に建てられた碑。引用先ブログによれば、倉賀野河岸は戦国時代(1561年)に開設され、江戸時代には上信越地方と江戸との水陸交通の中継地として、利根川水系の河岸の中では最大の規模を誇っていたとある。

 Part2へ続く。

 

*** 観音山古墳の天井巨石の様子がもっとよくわかる写真です。

 埼群古墳館より引用

 この天井石は自然石ということですが、天然のままの手つかずの石とは異なり、産地からかなりの精度でもって切り出された切り石です(日本の古墳では、これら両タイプの自然石が使われています)。

 群馬県の安中寄りにある八幡観音塚古墳の天井石の重さは、最大で大ピラミッドのそれにも劣らない約60トンだそうです。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

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♪Mapには出てくるが、たどりつくのがトホホな謎の神社

2018-03-31 15:36:50 | 日記

 八王子の京王線北野駅近くにある北野天満社→打越町にある梅洞寺と打越弁財天へ行った折に、ちょっと面白い体験をしました。google mapには載っているのに、どうやってたどり着けばいいのか、さっぱりわからない謎の神社があったのです。

 で、まず北野天満社。

 ちょっと右寄りに並んでいますが、左が北野天満社、右が塩竈神社です。駅名の由来となったせいで一般には北野天満社と呼ばれていますが、塩竈神社も共に祀られています。まだ3月23日なんですが、温暖化のせいで桜が真っ盛りです。

 神楽殿周りの桜。

 本殿付近の桜。

 裏の巨木の根元に祀られた石祠。

 この神社の境内には、約4千年前の縄文時代後期の住居跡がひっそりうずくまっています。

 北野町は京王線北野駅北口側に広がっているのですが、南口側の一帯を占めているのは打越町です。これから、この打越町にある梅洞寺と打越弁財天を訪ねます。

 梅洞寺というのは、禅宗臨済派山田村(町)廣園寺末金湯山と号すかなり大きなお寺です。本山である廣園寺は拙宅から10分ほどのところにある大寺で、近辺には複数の塔頭(たっちゅう。大寺の山内にある末寺)、そして市内にはいくつかの末寺(本山の支配下にある寺)が各所にあって、梅洞寺もそうした末寺のひとつです。廣園寺の塔頭の一つに慶泉院という小さな無人のお寺があるのですが、どうやらこのお寺の管理を行っているのが梅洞寺のようで、さらにこのあと行く打越弁財天は梅洞寺の塔頭なのだそうで、どうやら梅洞寺のご住職は世話好きなお方のようです。

 梅洞寺へ行く途中にあった八幡様です。

 梅洞寺の山門です。

 こちら鐘楼。

 このあたりの高台の桜を撮っていたら、下のほうから「よいお天気ですね」という快活な声が。どうやらこのお寺のご住職らしい。気さくな方のようだ。

 寺桜(墓桜)ってか。

 さらに上へ。

 頂は眺めがよい。写真の空の真ん中に立ち上っている煙のようなやつはレンズについたホコリのせい。

 さて、次の目的地「打越弁財天」へ向かうのだが、梅洞寺から北野街道へ下ってゆくのはかったるいので、逆にこのまま上ってゆけば弁財天にゆけるはずと、梅洞寺脇の道をずんずん上っていった。さびしい野辺の道をしばらく行くと住宅街に出た。おかみさんが庭に出ていたので、「打越弁財天はこっちでいいの?」って聞いたら「さぁ?」と言う。典型的な新興住宅地御用達の反応だ。またしばらく行くと、このような畑があったりする住宅よりも自然のほうが優勢な雰囲気の一角に出た。

 ちょうど車から降りてきた若奥さん風の女性に聞くと、ここを下っていって八王子バイパスに出たらすぐにわかるよというありがたいお言葉。それにしたがいやっと打越弁財天入口に着く。

 しっかり梅洞寺つながりを示す標識も。

 これが本殿。

 なんか雰囲気のない光景。八王子バイパス開通にともなって一部境内地が削られたそうで、本殿が再建されて新しくなっている。この神社は、絹織物の町八王子らしく、カイコをネズミから守ってくれると信仰されていた蛇と合わさって白蛇をご神体とする弁財天信仰の拠点となったのがその起こりだそうだ。

 本殿の背後になんか石だか砂だかわかんないような堆積がうずくまっている。これは打越弁財天への道々、気になっていたものでこんな具合だ。

 砂利置き場の砂山だろうか。

 さて、打越弁財天には秘仏の弁天様がいらっしゃるそうで、12年に一度の巳年だけにご開帳あそばされるそうだ。あたしゃそんな秘仏がだいきらい、ってぼそぼそつぶやきながら裏山への上り道をたどっていると、前方からメガネをかけたおっさんが降りてきた。彼は気さくに声をかけてきた。

「弁天様へいらっしゃるのならご一緒しましょ」

 ご一緒しておっさんと共に上ってゆく。やがて頂に着く。

「あれが弁天様です」と彼が指さす方を見ると、なるほど古めかしい石祠が。

 中の弁天様。

 かなり古いものらしい。小生を案内してきてくれたおっさん(俺はじいさんだが)は「毎日お参りに来るんですよ」と言い、そのまま帰ろうとする小生に「お参りしてやってください」と言った。ホイこりゃとんだ失礼をばとばかり、あわてて手を合わせる。

 帰りの道々、簡単な言葉を交わす。どうやら彼は失業中らしく、これから八王子のハローワークへ行くという。経理関係の仕事をしていたという。「今はコンピュータなんてものがあるから・・・」と、よけいな言葉を吐く俺。彼はこんなことも言った。

「この近くの人がほとんど行けないようなところに神社があるんですよ。ナカヤト・・・という神社なんですが」「わたしそういうとこ大好きなんですよ」「今度よかったらご一緒しましょう」「ええ、ええお願いします」

 といったやりとりがあって、お互い名乗りあって北野駅へと向かい、改札口の前でバイバイした。昼飯を駅近くの居酒屋で済ませながら(釜めしを頼んだら、ちっちゃなお一人用コンロが出てきてそれで炊き上がるまで30分近く待たされた。味はたいしたことなかった)、例のナカヤト・・・神社についてスマホで調べた。どうやら中谷戸稲荷神社というものらしい。google検索で四人ほどの人が行ったことがあるとわかった。このうちのお二人はずいぶん難渋されたようで、お一人はとうとう途中離脱されている。残りのお二人はたどり着いてはいるが、その到着プロセスについては一切ふれていず、ごくアッサリ、こんな神社があるよといったていのものだった。

 わたし、やっぱ行きました。打越弁財天の近くにあるというので、さっき下ってきた道を引き返しました。しかしあまりに情報が少ない。苦労してかの神社をめざした先人お二方のブログには、草の生い茂った草むらに開いた穴から侵入したとあったが、その穴ぼこらしきものを探してみたが、あまりにも漠然としすぎていてどうにも行き暮れるほかなかった。

 ところが、ちょっとした作業場をのぞいてみるとご年配のジャンバー姿の男性がいて、この方に「このへんに中谷戸稲荷神社という神社はないでしょうか」と尋ねてみると、おうなんと「この裏の山の上にあるんだが、行けるかどうかはわかんねぇ」と言いつつ先にたって歩き始めた。打越弁財天のほうへちょっとばかし戻ったところで、地べたに緑のカーペットが敷いてある小道に入っていく。小道の右方の奥のほうには、さっき打越弁財天へゆく途中で目にした砂の山が見える。

 カーペットの奥のほうに左方への上り道があって、男性はこの道を上がってゆけばいいと教えてくれた。と、おんや、そばに猫がいたのでパチリ。

 そっぽ向いてやがる。

 男性にお礼を言って上り始めた。なんか土管のようなものがニョッキリ出ているところがあった。

 なおも行く。おっ、可憐な花が。

 なおも行く。

 やがて少し開けたところへ出た。

 前方の金網ごしに祠が見える。

 じゃーん、着きましたぜ、これにちげえねぇと、金網沿いに進んで神社に入ってみるとなんか裏手へ回っちまったようで。

 祠が三つ並んでます。

 これが正面。

 武蔵御嶽神社も併せて祀られています。

 しんとした山の中です。

 この神社、googe mapにはしっかり載ってます。梅洞寺も打越弁財天ももちろん載ってます。

 地図ってのは、宗教関連の施設は気持ちわるいくらいちっこいところまで載っています。中谷戸稲荷神社だけでなく、ほんとにこんな神社までとあきれるくらい小さな祠まで載ってます。んなようなことに多少あっけにとられたりして、今回はここまで。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

宇宙の謎・地球の謎の迷路をへ巡る謎パーク別館⇒Sui族館