最近のテレビで石を使って椰子の実を割って食べるサルが見つかってそれを放映してました。こどもははじめ見よう見まねでやってるのですが、力が無くて、うまくまっすぐ打ち下ろせなくて失敗を繰り返すのですが、やがて親と同じようにできるようになっていくとのことでした。
でもわたしには、そこから、金づちをつくり、オノを猿がつく出だすまでにはいかないと思われました。
そのわずかな違いを人間は無限大の差異に広げていったのだと思います。それは直立はしたけれど、動物のように身をしなやかに自然に密着できず、窮余の一策のように、手を必死に使い始め、それは考えはじめることでもあったのと思います。
あるときを過ぎてから飛躍的に人間は自然を人間化していったのだと思います。それは人間の生存の条件である食料の確保を経済、産業として拡大し、また自然からの脅威からの避難所として住居を住みやすく、快適にしていきました。
人は交換の利便さを知り、経済の場を作りながら集落を作り、街を造り、都市を造っていったのでした。
(こんなに集まって暮らすのは、ある人によれば、人間という動物種の習性なのではないかという人もいます。)
そして現代自然の人間化は誰も及びもつかなかったピークを迎えてきているような気がするのです。都市は発展し、住空間は昔の隙間だらけの家は無くなり、経済、産業は消費社会を造り出しました。
農業、漁業のような第一産業、製造業の第二次産業に従事する人口より教育、サービス業、流通、医療、保険、銀行、情報産業のような第三次産業に従事する人口が
7割に近くいる時代になったらしいのです。日本はその意味で先進国にはいると思います。
こんな時代は歴史上初めてらしいです。あの大マルクスも製造業の巨大化以上は考えてもいなかったようです。マルクスはその部分時代に制約されていたのだと思います。
でも、このピークは果たして自然の人間化として、すべて望まれたものだったのでしょうか。
わたしには、今この巨大化した自然の人間化は、反省の時期を迎えているのではないか、折り返しの時期を迎えているのではないかという気がしきりにするのです。
自然科学はまだまだ行くところまで行く気がします。それはその必然があり、とめることはできません。それは倫理の問題ではないと思います。そして経済も似ています。しかし、経済は「金融経済」という必要以上とも思える金と金の形而上学ともいえる幻想の世界を綱歩きしている気がするのです。
だから、今の金融危機といわれる状況は奇妙に他人事のように見える部分があるのではないでしょうか。
でも、それに似て都市にいて、消費社会にいて、この情報時代にいて、豊かさを望んできたような気がするのに、どこかで心のゆとりの無さもその進歩の報い、反動のように受け入れざるを得なくなっているのではないでしょうか。
マルクスが産業時代の発展は過重な労働により肺結核を巻き起こすと警戒したのと似て、現代は鬱病と境界性精神病をふやしているのではないか、そんな気もするのです。
わたしには現代の自然の人間化の果てに目に見える自然より前に、「心のほっとする自然」をしきりにどこかで求めているような気がするのです。
「全自然を、じぶんの「非有機的身体」(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の(有機的自然)たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間とのからみあいを、マルクスは「自然」哲学のカテゴリーで「疎外」または「自己疎外」と考えたのである。 {吉本隆明「マルクス紀行」}
これは眼に見える自然だけでなく、人間化した自然も含めていると思います。とすれば、わたしたちは今、人間化した自然からの反作用としてそれぞれの疲労を「疎外」として受け取っており、その解消を考え始めていると思うのです。
今みなさんはどんな毎日と未来を心に描いてお過ごしですか。
でもわたしには、そこから、金づちをつくり、オノを猿がつく出だすまでにはいかないと思われました。
そのわずかな違いを人間は無限大の差異に広げていったのだと思います。それは直立はしたけれど、動物のように身をしなやかに自然に密着できず、窮余の一策のように、手を必死に使い始め、それは考えはじめることでもあったのと思います。
あるときを過ぎてから飛躍的に人間は自然を人間化していったのだと思います。それは人間の生存の条件である食料の確保を経済、産業として拡大し、また自然からの脅威からの避難所として住居を住みやすく、快適にしていきました。
人は交換の利便さを知り、経済の場を作りながら集落を作り、街を造り、都市を造っていったのでした。
(こんなに集まって暮らすのは、ある人によれば、人間という動物種の習性なのではないかという人もいます。)
そして現代自然の人間化は誰も及びもつかなかったピークを迎えてきているような気がするのです。都市は発展し、住空間は昔の隙間だらけの家は無くなり、経済、産業は消費社会を造り出しました。
農業、漁業のような第一産業、製造業の第二次産業に従事する人口より教育、サービス業、流通、医療、保険、銀行、情報産業のような第三次産業に従事する人口が
7割に近くいる時代になったらしいのです。日本はその意味で先進国にはいると思います。
こんな時代は歴史上初めてらしいです。あの大マルクスも製造業の巨大化以上は考えてもいなかったようです。マルクスはその部分時代に制約されていたのだと思います。
でも、このピークは果たして自然の人間化として、すべて望まれたものだったのでしょうか。
わたしには、今この巨大化した自然の人間化は、反省の時期を迎えているのではないか、折り返しの時期を迎えているのではないかという気がしきりにするのです。
自然科学はまだまだ行くところまで行く気がします。それはその必然があり、とめることはできません。それは倫理の問題ではないと思います。そして経済も似ています。しかし、経済は「金融経済」という必要以上とも思える金と金の形而上学ともいえる幻想の世界を綱歩きしている気がするのです。
だから、今の金融危機といわれる状況は奇妙に他人事のように見える部分があるのではないでしょうか。
でも、それに似て都市にいて、消費社会にいて、この情報時代にいて、豊かさを望んできたような気がするのに、どこかで心のゆとりの無さもその進歩の報い、反動のように受け入れざるを得なくなっているのではないでしょうか。
マルクスが産業時代の発展は過重な労働により肺結核を巻き起こすと警戒したのと似て、現代は鬱病と境界性精神病をふやしているのではないか、そんな気もするのです。
わたしには現代の自然の人間化の果てに目に見える自然より前に、「心のほっとする自然」をしきりにどこかで求めているような気がするのです。
「全自然を、じぶんの「非有機的身体」(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の(有機的自然)たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間とのからみあいを、マルクスは「自然」哲学のカテゴリーで「疎外」または「自己疎外」と考えたのである。 {吉本隆明「マルクス紀行」}
これは眼に見える自然だけでなく、人間化した自然も含めていると思います。とすれば、わたしたちは今、人間化した自然からの反作用としてそれぞれの疲労を「疎外」として受け取っており、その解消を考え始めていると思うのです。
今みなさんはどんな毎日と未来を心に描いてお過ごしですか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます