今の時代だって同じ条件はある。それはたくさんの加工された人工の自然の知恵によって守られるようになったとしても、「自然」のなかに生きなければならないという条件は同じなのだ。そこから遡って薄明の時代の人間をどう描くのか。それを次のように描いた人がいる。たしかにそういう気がすると思えたら、それは素敵な小説と同じで。その人は喜ぶだろう。彼はそこまで真剣に構想した。彼は根底的にすべてを考えた。彼は自然の猛威を書きながら、もしかしたら原始人のように感じることができたから、地震の猛威と津波も原始人のように恐れることができたかもしれない。わたしたちは、それほど自然をわすれていたのだろうか。
吉本ばななの父の故吉本隆明はそれを次のように描いた。
原始的な社会では、人間の自然に対する動物に似た関係のうちから、はじめに自然への異和の意識があらわれる。それはふくらんで自然が人間にはどうすることもできない不可解な全能物のようにあらわれる。
原始人がはじめに、狩や,糧食の採取を動物のようではなく、すこしでも人為的にはじめ、また、住居のために、意図して穴をほったり、木を組んでゆわえたり、風よけをこしらえたりしはじめるようになると、自然はいままでとはちがっておそろしい対立物として感ぜられるようになる。なぜならば、そのとき原始人は自然が悪天候や異変によって食とすべき動物たちをかれらが隠したり、食べるための植物の実を腐らせたり、住居を風によって吹き飛ばしたり、水浸しにしたりすることに気付くからだ。もちろん動物的な生活をしていたときでも、自然はおなじような暴威をかれらにふるったのだが、意識的に狩や植物の実の採取や、住居の組み立てをやらないかぎり、自然の暴威は、暴威として対立するとは感ぜられなかっただけだ。
この自然からの最初の疎外感のうちに、自然を全能者のようにかんがえる宗教的な意識の混濁があらわれる。そして、自然はそのとき原始人にとっては、生活のすべてに侵入しているなにものかである。狩や野生の植物の実の採取のような{労働}も、人間と人間とのあいだのじかの自然関係である{性}行為も{眠り}も、眠りのなかにあらわれる{夢}のような表象もふくめて、自然は全能であるかのようにあらわれる。
そうして、自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自身にたいする不満や異和感がおおい始める。動物的な生活ではじぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。いまは、じぶんが自然に働きかけても、じぶんのおもいどおりにならないから、かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。狩や動物の採取にでかけても、住居にこもっても、かれじぶんがそうであるとかんがえている像のように実現されずに、それ以外のものをもって満足しなければならなくなる。
まだ導入部ですが、どうでしょう。わたしには「そんな感じがする」と思えるのですが、それは、もしかしたら、わたしたちがやはり、自然のなかに生きていることに今の時代も変わりがないと思えるからのような気がします。ここには原始人が感じるだけでなく、人間が自然のなかで生きていかざるを得ない普遍的な心的な問題が重ねて語られ始めていると思えます。(言語にとって美とは何かⅡより引用)
まだ続けて引用中心に書いてみます。原始の時代をもうすこし身近に感じられたらと思います。
吉本ばななの父の故吉本隆明はそれを次のように描いた。
原始的な社会では、人間の自然に対する動物に似た関係のうちから、はじめに自然への異和の意識があらわれる。それはふくらんで自然が人間にはどうすることもできない不可解な全能物のようにあらわれる。
原始人がはじめに、狩や,糧食の採取を動物のようではなく、すこしでも人為的にはじめ、また、住居のために、意図して穴をほったり、木を組んでゆわえたり、風よけをこしらえたりしはじめるようになると、自然はいままでとはちがっておそろしい対立物として感ぜられるようになる。なぜならば、そのとき原始人は自然が悪天候や異変によって食とすべき動物たちをかれらが隠したり、食べるための植物の実を腐らせたり、住居を風によって吹き飛ばしたり、水浸しにしたりすることに気付くからだ。もちろん動物的な生活をしていたときでも、自然はおなじような暴威をかれらにふるったのだが、意識的に狩や植物の実の採取や、住居の組み立てをやらないかぎり、自然の暴威は、暴威として対立するとは感ぜられなかっただけだ。
この自然からの最初の疎外感のうちに、自然を全能者のようにかんがえる宗教的な意識の混濁があらわれる。そして、自然はそのとき原始人にとっては、生活のすべてに侵入しているなにものかである。狩や野生の植物の実の採取のような{労働}も、人間と人間とのあいだのじかの自然関係である{性}行為も{眠り}も、眠りのなかにあらわれる{夢}のような表象もふくめて、自然は全能であるかのようにあらわれる。
そうして、自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自身にたいする不満や異和感がおおい始める。動物的な生活ではじぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。いまは、じぶんが自然に働きかけても、じぶんのおもいどおりにならないから、かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。狩や動物の採取にでかけても、住居にこもっても、かれじぶんがそうであるとかんがえている像のように実現されずに、それ以外のものをもって満足しなければならなくなる。
まだ導入部ですが、どうでしょう。わたしには「そんな感じがする」と思えるのですが、それは、もしかしたら、わたしたちがやはり、自然のなかに生きていることに今の時代も変わりがないと思えるからのような気がします。ここには原始人が感じるだけでなく、人間が自然のなかで生きていかざるを得ない普遍的な心的な問題が重ねて語られ始めていると思えます。(言語にとって美とは何かⅡより引用)
まだ続けて引用中心に書いてみます。原始の時代をもうすこし身近に感じられたらと思います。