気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

前回続き・完

2016-04-13 16:10:24 | Weblog
前回最後のところで、次の文章を引用しました。

「自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自身にたいする不満や異和感がおおい始める。動物的な生活ではじぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。いまは、じぶんが自然に働きかけても、じぶんのおもいどおりにならないから、かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。狩や動物の採取にでかけても、住居にこもっても、かれじぶんがそうであるとかんがえている像のように実現されずに、それ以外のものをもって満足しなければならなくなる。」

このなかの「かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく」というところ「じしんからの疎外」と置き換えて、次のような文章がちがう個所で出てきました。

「こういう古代人のじしんからの疎外は、部族のあいだのほかの部民との関係の中にあらわれる。たとえば、素朴な形では、狩の獲物や収穫の働きがすくないとか、おおいとか、かれは足がはやいがじぶんはおそいとか、夜眼がきくとかきかないとか、腕力がつよいとかよわいとかいうような、ちがいの意識としてあらわれたかもしれない。」

ここでいわれていることをまとめれば、ひとつは「自然そのものが人間の前におそるべき対立物としてあられること」もうひとつは「じしんからの疎外が、同じ生活をしているまわりの人間との関係のなかに自己疎外(不満や異和感)としてあらわれるということ」だと思います。

でも、考えてみると、自然に対しても、自分に対しても、現代でも同じことにやっていると思いませんか。たしかに、現代は自然をもっと制御していると思いますが、大震災や津波が来れば、自然の前で原始や古代と同じようになすすべがないのを思い知らされますし、自分に対しても、ほかの人に負けないよう、切磋琢磨して、自己をもっと磨こうと努力しています。そして自分を自分で納得できるように、頑張ります。ようするに、現代人もこのような本質的な「自然ともに生きる」ことの共通性から取り出せば、同じことを基本的に繰り返してきていることがわかります。ただ、この長い時間の差異は、人間の意識を強め、ことばをことばと取り出すようになり、文字を作り、書き留めるようになるという経験を積み重ねていきますが、対立する自然の克服、自己疎外の克服は本質的に人間としての営みとして共通の本質として取り出せると思います。

共通の本質は取り出しましたが、現在は原始、古代とは明らかに違うのはまちがいないですが、何がちがうのか、まず、ことばの問題からまた考えてみたいと思います。どう書くかすこし時間ください。